「人間は自然そのもの」と知る祈り
(上のプレイヤーで音声が聞けます)
「神は自分のかたちに人を創造された」という『創世記』第1章の言葉は、深い真理を表しているのである。これは、「人間の肉体の形が神に似ている」というような皮相な意味ではない。「神の理念が人間に体現されている」ということであり、「人間の内部には神性が宿っている」という意味である。肉体のことではなく、霊のことである。人間の心の奥底に、神の御徳である真・善・美を理解し、愛し、表現せずにはおかない情熱が宿っていることを示しているのである。神は大宇宙と、大自然のすべてのものを創造されたから、人間もまたその無限に多様な神のイメージと創造力とを内に蔵しているのである。
このことが、現象である我々の肉体にも表現されていることを知れ。人間の肉体が母胎上に表現されるとき、私たちはごく一時期、尾のある魚のような形を示す。しかし、それが母から産まれるときには人間の体に変化しているから、誰も驚かないのである。また、私たちの神経系には、爬虫類の脳と同等のものが存在し、その周囲を大脳が包み込んで人間特有の脳を形成している。これによって、爬虫類的な欲望の表出を大脳によって制御しながら、複雑な社会生活を送ることができるのである。またこれによって、肉体上の本能的な自動装置を利用して、肉体生命の維持や生殖行為が可能なのである。
人間の肉体はまた、昆虫との共通点をもっている。私たちに“色のついた世界”を教えてくれる色覚は、ほとんどの哺乳動物にはない。「青い空」「白い雲」「緑の森」「紺碧の湖」は、犬や猫や牛や羊の見る世界には存在しないのである。「紫の藤」「赤い柿」「黄色い菊」「ピンクの薔薇」も、彼らの見る世界には存在しないのである。しかし、昆虫たちは、そういう花の蜜を吸い、花粉を集め、果実を食する必要から、緑色の葉や茎の合間から素早くそれらを見つけ出すために、人間のような、あるいは人間以上の色覚をもっている。それと同じ理由で、花の蜜や果実を食べる鳥たちにも色覚が発達している。こうして、人間の肉体の中には、魚類、爬虫類、鳥類、昆虫等、多くの動物と共通する仕組みが組み込まれていて、私たちの肉体生命の維持に貢献してくれている。
植物と人間の深い関係についても、思い出そう。ほとんどの動物は植物の生産する炭水化物をエネルギー源として摂取し、それで体を動かす。つまり、植物なかりせば、動物は「動」物たりえないのである。これだけでも、私たちは感謝しきれない恩恵を植物に感じなければならないが、心理的にも人間は、緑色を見たときに最も「安らぎ」と「心の安定」を感じるのである。だから、どんな大都会にも街路樹が植えられ、どんなに人工的なビルの中にも植木鉢やプランターが置かれるのである。人間は植物をそばに置いて「心の安定」を保つのである。菌類も人間の生存にとって不可欠である。キノコ類やチーズなどの発酵菌ばかりでなく、人間の腸内に棲む無数の細菌のおかげで、人間は自分の肉体だけでは産生できない栄養素を得て健康な肉体生活を送っている。このように考えれば、人間の肉体は、まさに自然界の“作品”であり“恩恵”そのものと言わなければならないのである。
こういう事実を前提にして考えるとき、私たちは「神の理念が人間に体現されている」ことの、本当の意味を知ることができる。「神の理念」とは万物の調和である。万物が互いに与え合いながら、より高度の目的のために協力する姿が、神のイメージである。自己目的のために周囲から奪い、他を破壊して顧みないことは「神の理念」ではなく、神の御心ではない。私たちの肉体の仕組みと生き方が、そのことを有力に語っている。私たちは「生きている」のではなく、すべての生物に支えられ、その恩恵によって「生かされている」のである。だから私も、万物を生かすことに喜びを感じるのである。人間の内にある「神性」や「仏性」とは、万物大調和の自然の実相に気づき、それを自己の生活の中に、人間の生き方の中に表現しようとする意志である。
私は今、この自覚に達し、神の理念の体現者として、万物大調和実現のために生きる決意を新たにする。私は自然そのものである。自然は私そのものである。ありがとうございます。