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捨てることで自由を得る祈り

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 我々が肉体生活を送るこの世界は、「得ることで捨て」「捨てることで得る」世界である。「得る」ことも「捨てる」ことも自己表現の一部である。人間の受精卵は、胎盤によって母親の子宮に位置を得ることで、地上における自己表現の場を獲得するが、その反面、霊界へもどる機会を捨てるのである。また胎児の細胞は、神経や皮膚、心臓、骨格などの細胞に分化して、それぞれの細胞独特の能力を獲得するが、その反面、別の細胞に必要な能力を捨てるのである。こうして我々の肉体細胞は、得ることで捨て、捨てることで得ながら、「人体」というより高次で、より高度な有機体を表現するのである。
 
 私がこの人体をもって、ある家庭に子どもとして生まれるとき、私はその家庭に付属する種々の恩恵を得ることになる。しかしその反面、別の家庭のもつ恩恵を受ける機会を捨てることになる。私が男としての肉体を持てば、女としての肉体を捨てることになる。私が日本人としての人生を生きようと思えば、インド人やドイツ人としての人生を捨てることになる。こうして人間は、成長にともなって数多くの選択を繰り返す。「選択」とは、得ることで捨て、捨てることで得る行為である。これによって、人間は一見不自由になるよう見えるが、逆に「個」としての自由を獲得するのである。

 1本の木に彫刻をする際、切り倒したばかりの生木は、どのような彫刻になる可能性ももっている。一塊の粘土から陶器を作るとき、成型前の粘土は、どのような器になる自由ももっている。しかし反面、1本の生木、一塊の粘土には、取り立てて誉めるべき個性はないのである。それは、1枚の白いカンバスにはどんな絵を描く自由と可能性がありながら、何の個性も、面白みもないのと似ている。我々の人生は「表現の世界」であるから、「何ごと」でも表現できる可能性を捨てることが、「個性」を表す自由に結びつくのである。だから人生は、可能性の自由を捨てることで、表現の自由を獲得していく過程とも言えるのである。これを「得ることで捨て、捨てることで得る世界」と言うのである。

 しかし人間は、今の人生で獲得したものを、肉体の死に際してすべて捨てて逝くのである。これは、次の人生で新たな個性を獲得するために必須の手続きである。ここでは、「獲得した個性」を捨てる程度にしたがって、次生において「表現できる可能性」が多く得られるのである。しかし、現象世界では「業の法則」が支配しているから、多くの場合、今生での個性は完全には消失せず、次生においても形を変え、弱まり、あるいは別の方向に向かって継続するのである。この場合の「個性」とは、肉体上の特徴や性格、人格などの現象的表現のことであり、表現を求めて転生する魂の本性のことではない。人間の個生命は、現象的表現を多様に繰り返しながら無限成長の道を歩むのである。
 
 だから、我々人間の個生命にとっては、「捨てる」ことは「減る」ことではない。「神の子」であり「仏」である個生命の本体は完全円満であるから、物質的表現の一部あるいは全部が削れても、何も減るものはないのである。同じようにして、我々人間の個生命にとっては、「得る」ことは「増える」ことではない。神性・仏性たる個生命の本体はすでに完全円満であるから、付け加えねばならないものは何もないのである。ただ、現象世界における表現の一環として、得るべきものを得て、捨てるべきものを捨てるのである。得ることによって捨て、捨てることによって得るのが表現の世界である。だから私は、得ることに執着せず、捨てることにも執着せず、また同時に得ることに感謝し、捨てることにも感謝して、自由自在の境涯を歩むのである。
 
 この真理を示し給いし神さまに心から感謝し、今後の人生において「得る」ことに執せず、「捨てる」ことにも執せず、自由自在、我が内なる神の子の本性を表現していくことを誓います。ありがとうございます。


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