真・善・美なる神を内に自覚する祈り
(上のプレーヤーで音声が聞けます)
私は今、呼吸を整え、心を静めて、わが心を広く、深く観想するのである。私の目の前には、青く、静かな海が茫々と広がっている。その遥かな水平線の彼方からは、明るく、鮮やかな大空が立ち上がり、巨大な刷毛で豪快に描いた白雲が、天空に達する高みへと私を誘うのである。その大空の奥へとさらに進めば、空の青は海の青へと深まり、やがて無数の星々がきらめく宇宙に達するのである。私は太陽を見、太陽系を構成する惑星を眺める。さらに太陽系を超えた先に銀河系が展開しているのを認め、天の川の星くずの輝きに目を凝らすのである。こうして、私の心が宇宙の広がりを観想できるのは、私の中に宇宙があるからである。
私は今、宇宙の広がりを観想する心をもって、その宇宙を支配する法則を想うのである。宇宙に展開する数限りない星々は、無秩序にそこに散乱しているのではない。すべての星々は、万有引力の法則によって、一糸乱れず自転・公転を繰り返している。法則そのものは目に見えないが、目に見えるすべてのものを支配しているのである。法則は、時間の経過によって揺らぐことなく、すべてを支配する。距離の遠近によって変わることはなく、すべてを支配する。これを「真」という。常住不変なものが「真」である。時間や距離の変化にしたがって変わるものは、仮の相(すがた)--すなわち「偽」である。宇宙空間には、常住不変の法則が遍満しているのであるから、「真」が満ちているのである。そして、私がその「真」なる宇宙を観想できるのは、私の心に「真」があるからである。
私は今、宇宙遍満の「真」を観想する心をもって、その真なるものがもたらす効果を想うのである。「真」は「真理」であり「法則」であり、常に変わらない原則である。地球の引力が一定の力で地上の物体を引きつけるという法則が、常に変わらずに、地上をくまなく支配していることによって、植物の根は地下へ伸び、茎は空の方向へ伸び、動物の骨格や筋肉は正常に働くのである。植物と動物のおかげで生存している人間は、したがってこの「真」なる法則によって地上生活が初めてできるのである。地上を支配するその他の諸法則が数多くあるために、科学は成立し、それを利用して技術開発が行なわれ、経済は発展し、医学は進歩するのである。これらの進歩・発展は、人間に喜びをもたらすものだから「善」である。こうして「真」は「善」を生み出していくのである。
子どもが成長して、個性や能力を発揮するようになることは「善」である。その子がさらに成長して、他人の喜びを自ら喜ぶようになることは「善」である。家族がふえて、共有できる喜びが増すことは「善」である。社会が調和して発展することは「善」である。国と国とが相互扶助し、足らざるを補い合って栄えていくことは「善」である。人間と自然環境が与え合う関係に立つことは「善」である。「善」とは、一つの個体が他を凌駕・征服して時間・空間的に伸び広がっていくことではなく、個体と個体が扶け合いながら共存共栄し、全体として多様性を実現していくことである。自然界は単調でなく、多様性に満ちているから「善」である。宇宙は単調でなく、多様性に満ちているから「善」である。そして私がこれらの「善」を心に描き、理解できるのは、私の心に「善」があるからである。
私は今、宇宙に満ちる「善」を観想するとき、それがすなわち「美」であることを直観するのである。単色は、色の組み合わせから生まれる美に劣るのである。墨絵のようなモノトーンでも、墨に濃淡の段階が無数にあるところに「美」が感じられるのである。白地に墨一色の書でも、単調な直線だけでなく、曲線や掠れや滲みが組み合わさることで「美」となるのである。だから、一の拡大でなく、多の共存が美しいのである。単一性でなく多様性が美しいのである。自然界は多様であるから美しく、宇宙も多様であるから美しい。そして、これらの「美」を観想し、理解し、感動できるのは、私の心に「美」があるからである。
神さま、私は今、自分の心の中に真・善・美があることを知りました。真・善・美とは、神さまの御徳です。私が真・善・美を求め、愛する心は、神さまの御心の反映です。だから、私は神の子です。神の子の生き方とは、真・善・美を愛し、表現することです。私は今後、「わが内なる神」を明らかに自覚して、神の子の生き方を実践することを誓います。ありがとうございます。