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「無駄なものは何もない」と知る祈り

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(上のプレイヤーで音声が聞けます)

「無駄」は「空しい」から来たというが、神の創造し給う実在の世界には空しさはなく、したがって無駄もないのである。すべてのものが、すべてのものに対して目的と意味をもって存在しているのである。ある行為が、その目的とする結果をもたらさない時、“無駄な行為”と表現することがあるが、それは特定の目的に固執した、特定の立場から見た偏見である。別の目的をもった別の立場の人が見た場合、同じ“無駄な行為”が“偉大な結果”への道程であることは数多くある。神は、特定の人間の特定の目的のみに合わせて世界を創られていないから、個人の狭いものの見方で神の創造を“無駄”と判断することは、間違いである。

「人間は肉体である」とする謬見によって人生を見れば、人生は無駄以外の何ものでもない。この見方では、人間は母胎から分離されたときに始まると考え、その肉体が生理作用を止めたときに人間が終ると考えるのである。これでは、肉体の生と死の間に行われたすべての活動は無駄となる。どんな下劣な行動も、どんな崇高な行為も、どんな破壊も、どんな建設も、どんな苦しみも、どんな楽しみも、どんな貧しさも、どんな豊かさも、すべてが肉体の消滅とともに「終る」のだから、すべては無駄であり、すべては空しい。しかし、「人間は不滅の生命(いのち)なり」との自覚から人生を見れば、人生のすべての経験がその人の魂の成長過程であり、神の子の本質が表出される過程であることが了解できるのである。

 人生の道程における“失敗”は、だから本当の意味での失敗ではない。それは、実相・神の子の本質が人生に表出される際に、人・時・処において不足、過剰、遅速、混乱が起こった結果である。失敗だと分かれば、次の機会には人・時・処を正しく選び、不足、過剰、遅速、混乱が起こらない工夫をすればよいのである。この種の失敗は大抵、実相・神の子の本質を自覚せず、自己を感情の流れに任せたときに起こるのであるから、よろしく神想観を実修し、神の御心を我が心としてやり直せばよいのである。スポーツでも、技芸でも、学問でも、一見“失敗”と思えることの繰り返しを通してのみ、成功に到達するのである。その場合、数度の失敗で諦めた人だけが、自ら本当の失敗を選び、無駄を経験することになる。失敗を無駄と考えず、成功への“飛び石”と考えて努力する者には、無駄は存在しないのである。

「無駄はない」とは、すべての存在が神の愛、仏の慈悲の表れであると観じるときに理解される。外形や物質的側面のみを見るならば、この宇宙には無駄が充満している。何十億光年もの広がりをもった物質宇宙の中の、銀河系宇宙の片隅にある太陽系の中の、さらに小さな惑星である地球だけに「生」があると考えれば、他は「死の世界」であり、すべてが無駄なものとも感じられる。自分の幸福が、一個の人間の肉体的満足だと考えれば、自分の幸福に関わりのないすべて--宇宙の大部分は、無駄だと感じられるのである。しかし、大宇宙のすべての活動が、“緑の惑星”である地球を生み出し、維持するために必要であると分かれば、宇宙のすべてが、生あるものも、生なきものも、偉大な目的意識の下に統括されていると観じられ、それを「神の愛」「仏の慈悲」と呼ぶことができるのである。

「無駄はない」と知ることは、どんなに浪費しても無駄遣いではないという意味ではない。それとは全く逆に、あらゆる存在が「神の愛」「仏の慈悲」の一部を表現していると知ることにより、あらゆる存在の意義を認め、それらの背後にある「愛」や「慈悲」の働きを引き出す努力につながるのである。放棄・浪費・破壊をやめ、受容・節約・建設へと向うのである。人間関係についても同じである。人生で出会うあらゆる人々との関係は、無駄ではない。それらはすべて、我がうちなる神性・仏性を引き出し、「神の子」「仏」として互いに認め、讃嘆し合うための手続きであり、配役である。“敵”と見える人でさえ、自分の現象的不足を教えてくれる“鏡”であり、さらなる向上の道を切り拓いてくれる教師である。

 これらの真理を教示したまい、無駄のない人生を感謝して歩む勇気を与えたもう神に、満腔の感謝を捧げます。ありがとうございます。


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