« 今ここに無限の富を自覚する祈り | トップページ | 「無駄なものは何もない」と知る祈り »

「偶然はない」と知る祈り

「Ch3_Prayer_09.mp3」をダウンロード

(上のプレイヤーで音声が聞けます)

 現象世界とは、原因と結果の法則を通じて実相が表現されつつある世界である。植物の種を蒔けば、やがて芽が出て成長し、条件が整えば花を咲かせ、そして実をつける。種まきをしてもすぐに実はできないように、原因と結果の間には時間的経過が必要である。また、種から実は直接生じないように、原因と結果の間には「過程」が必要である。その過程では、数多くの補助的原因(助因)が働くのである。それらは、発芽や成長のための温度であり、土中の適度の湿り気であり、成長を助ける栄養素であり、太陽光であり、水分である。これらの助因(縁)が植物の環境に整うことで、因果の法則が働いて植物は成長する。種の中には、植物の成長と結実に必要な情報がすべてそろっていても、それらが現象として現われるためには、環境の諸条件--「縁」が整う必要がある。

 原因と結果の法則を「因果の法則」ともいう。因果の法則は目に見えなくとも、物質世界の全面を支配しているのである。だから、原因がないのに、何かの結果が生じることはない。言い換えれば、理由もなく偶然、何かが起こることはないのである。現象界の物事には、必ずその背後に原因があり、また結果を生むための縁(助因)が必要である。だから何の原因も理由もなく、物事が突然起こったように感じられても、それを「偶然だ」と考えて理性の働きを止めてはならない。
 
 理性は、神の子たる人間が神からいただいた貴重な宝である。理性を働かせて物事の原因をつきとめるのは、人間の本性である。それを晦ますことなかれ。「偶然に」起こったと見える物事の背後には、その物事を理解する“鍵”が隠されている。その“鍵”を探し当て、現象の扉を開いて物事の原因を見つける者は幸いである。科学はそれによって大いに発達した。それは、神の子たる人間の理性が作り上げた偉大な作品である。
 
 物事の原因を知る努力を放棄して「神」の責任に帰すことなかれ。例えば、突然の不幸を神の「試練だ」と考えてはならない。完全円満の実相世界を創られた神は、「病気」や「事故」や「事件」のような悪現象を創り給わず。「失敗」や「不幸」や「愚かさ」に悩む人間も創り給わず。したがって、存在しない“愚かな人間”を導くための「試練」も実在しないのである。また、不幸の原因を「悪魔」や「悪運」や「悪業」に帰すことなかれ。神は実相において、悪魔も悪運も悪業も創り給わず。だから、悪魔も悪運も悪業も実在しないのである。それらは「悪実在」でなく「悪現象」である。過去の悪因が、現象として悪果を生じたように見えてはいるが、「悪果」が実在するのではなく、本来の「善果」の全相が現われていない状態を、仮に「悪果」と称するのである。

 理性の力で悪果の原因が分からないときは、現象から目を上げて実相に振り向くがよい。悪現象に過度に捉われてはならない。悪現象の背後に悪因が実在すると考え、それを排除しなければ永遠に悪果が繰り返すと考えてはならない。悪因の力は、悪果が現象することで消えるのである。だから、たとい悪果の原因が分からなくても、善の種を蒔く努力をせよ。闇の原因が分からなくても、光を拡げれば闇は自然に消えるように、過去の悪を思い出せなくても、善を念じ、善を語り、善を行なうことで、本来実在している善が現象するのである。

 神さま、ありがとうございます。神さまの創られた世界には悪因縁も悪業も存在しないことを私は宣言します。私は今、善一元の世界のただ中にいて、神さまの御徳である知恵と愛と生命に満たされてあります。私の人生に「偶然」はありません。私の内部の神性が晦まされているとき、何かが「偶然」に私を襲うと感じるのです。私は今、神の子なる自己の真性に目覚めたのですから、私の周囲に現われるものは、すべて自己の心の反映であることを知りました。私はこれから偶然を必然と化し、自由自在の人生を送ることを神さまの御前に誓います。ありがとうございます。


« 今ここに無限の富を自覚する祈り | トップページ | 「無駄なものは何もない」と知る祈り »