今ここに無限の富を自覚する祈り
(上のプレイヤーで音声が聞けます)
神は無限の豊かさをもつ実在世界を創り給う。私は神の子として、その実在世界に創造せられたのである。だから私は、無限の豊かさに包まれているのである。私だけが無限の富を有するのではなく、神の創られたすべての実在が、互いに無限の富を与え合い、かつ享受し合っているのである。これが実在世界の実相である。それ以外に、真理はないのである。
もし私の周囲に実在世界の無限の豊かさが感じられないならば、それは五官の感覚に捉われているからである。目に見えるとおりのもの、耳に聞こえるとおりのもの、鼻で臭うだけのもの、口で味わうだけのもの、肌で感じるとおりのものが、自分の感覚どおりに存在していると信じているからである。それらは皆、肉体が送ってくる刺激ではあるが、真実ではない。それらは皆、感覚器官が濾し取っただけの実在世界の断片にすぎない。それらの“刺激”や“断片”を脳が適当に選択し、自動的に組み上げてできた“架空世界”が、五感の世界である。それは、肉体の生命維持に必要な情報を素早く得るために、脳内に性急に描かれたラフ・スケッチであり、実在世界の粗雑な“映し”にすぎないのである。
無限の豊かさをもつ実在世界の全貌は、だから“映しの世界”から知ることはできない。神の無限の富は、感覚の自動反応から知ることはできないのである。神の創造された実在世界を知るためには、神の御心に自己を振り向けなければならない。神の御心が何であるかを想い、自己を神に没入させるのである。
ああ、私はいま神の御心を深く想い、次のように祈るのである--
神は無限の知恵であり、無限の愛であり、無限の生命力にてあり給う。無限の知恵である神は、私が真に必要なものが何であるかを知り給うのである。しかして私だけでなく、すべてのものに真に必要なものが何であるかを知り給うのである。だから私は、神への信頼を固くもつのである。無限の愛である神は、私を愛し養い給うのである。しかして私独りでなく、神はすべてのものを愛し、すべてのものに真に必要なものを与え給うのである。無限の生命である神は、私に無限の命を分け与え給い、私の生命を無限に支え給うのである。しかして神は私独りの生命を支え給うのではなく、すべてのものの生命を支え、成長させ、繁栄せしめ給うのである。私はこのことを固く信じ、その神の御心をもって実在世界を想起するのである。
私は肉体でなく、霊であり、神の分身である。私が肉体でなければ、自と他との境界は消え去るのである。「貧しい」とか「乏しい」という思いは、自己を肉体として見るところから生じるのである。真に自己が神の分身だとわかれば、自他の境界は消え、すべての人々の富は自分の富だとわかるのである。それだけでなく、自然界のすべてのものは、それが真実存在である限り、神の分身としての自己の豊かさの一部であることがわかるのである。わたしは今、このままで豊かであり、無限の富を享受しているのである。富は肉体に属するものではなく、神に属し、神の創造としての真実存在に属するのである。物質的な富--すなわち経済的価値は、真実存在としての富の不完全な“映し”にすぎない。それらは、人間の心が仮構した価値観の反映であるから、人間の心の動きによって千変万化するのである。
私は、そのような現象的な富の変動に心を捉えられないのである。私は、神の創り給うた真実存在のみに価値を認めるのである。真実存在を現象世界に反映させることが、本当の価値であり、本当の富である。だから、神の御徳である無限の知恵を出すことが富の実現である。神の御徳である無限の愛を出すことが富の実現である。神の御徳である無限の生命を出すことが富の実現である。私は神の子として、知恵を与え、愛を与え、生命を与えることで、実在世界の富を現象世界に表すことに喜びと生き甲斐を感じるのである。
この真理を与え給いし神に、心から感謝いたします。ありがとうございます。