観を転換してものの真価値を知る祈り
(上のプレーヤーで音声が聞けます)
私は今、神の御前に座し、次のことを沈思黙考する--
「神は真・善・美の根源であり、知恵と愛と生命の本源にてあり給う」
「神は真・善・美の根源であり、知恵と愛と生命の本源にてあり給う」
私はこのことを確認し、心の底から「真実なり」と観ずるのである。
さらに私は、次のことを心の中で繰り返して念ずる--
「神は、すべての善きものの原因者であるとともに、すべてのものの唯一の創造主(つくりぬし)にてあり給う」
「神は、すべての善きものの原因者であるとともに、すべてのものの唯一の創造主にてあり給う」
私はこのことを心に想起し、「真実なり」と確信するのである。
この2つから導かれる真理は、次の通りでなければならない--
「すべての存在は神の造られたものであるから、価値のないものは何一つ存在しない」
「すべての存在は神の造られたものであるから、価値のないものは何一つ存在しない」
私はこのことを確信をもって「真理なり」と宣言するのである。
すべてのものが神の創造として価値あるものであるならば、私は万物を誉め、万物に感謝し、万物を愛することができるのである。「大調和の神示」は、そのことを示して「天地の万物に感謝せよ」と教えているのである。もし私が、周囲にあるものを「偽り」と見、「悪」と断じ、あるいは「醜い」と感じるならば、それは神が間違っているのではなく、私が間違っているのである。私の「ものの見方」が間違っているのである。私の「感覚」が真実をとらえていないのである。狭い視野に限られた、私の「判断」が過っているのである。真実であるのは、すでに私が宣言したように、「すべての真実存在は神の創造であるから、貴い価値をもっている」ということである。
もし私が、周囲に「偽り」や「悪」や「醜さ」を認めるならば、それは真実存在を見ているのではない。私の心で作り上げた“見せかけの存在”を真実存在だと見誤っていたのである。私自身の内心の「恐怖」や「迷い」や「暗い感情」を、外界のスクリーンに投影して、それが映像ではなく、真実存在だと誤解していたのである。あるいは、私の肉体の感覚器官が「そうある」と認めるものを、その通りの真実存在だと勘違いしていたのである。私は、感覚器官が完全でないことを知っているにもかかわらず、それが伝える「色」や「形」や「味」や「肌触り」や「音」や「匂い」や「動き」が、その通りに真実であると即断していたのである。それらはみな「現象」であり「実相」でないことを忘れていたのである。
私は今、神の御前に座し、このことを再び確信をもって宣言する--
「神はすべての善きものの原因者であり、すべてのものの創造主(つくりぬし)であるから、すべての真実存在は価値あるものである」
「神はすべての善きものの原因者であり、すべてのものの創造主であるから、すべての真実存在は価値あるものである」。
私は今、このことを確かに知ったのであるから、真実存在なる神の真・善・美の御徳に心を振り向け、知恵と愛と生命の表現として、周囲のすべてのものを観じ、礼拝するのである。この「観の転換」により、私は現象の真偽、善悪、美醜を超えた真実存在の実相を、心眼をもって観ずることができるのである。なぜなら、私は「神の子」として、神のすべての御徳をわがうちにもつからである。私の自覚が肉体の個我を超え、すべてと一体なる神の自覚にまで拡大するとき、肉体の感覚を超えた真実存在の実相が、私の眼前に展開されるのである。
私はすべての真実存在と一体なり。天地の万物は神の表現として完全円満なり。私は今、神と天地のすべてのものの価値を深く、切実に観ずるのである。私は神とすべての存在に、心の底から感謝いたします。ありがとうございます。
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