「終り」は「始まり」であることを知る祈り
(上のプレイヤーで音声が聞けます)
私はいま神の御前に座して、神の創造り給いし宇宙の実相を観想するのである。神は完全円満にして、知恵無限、愛無限、生命無限、供給無限、喜び無限、調和無限の御徳を備え給う。その御徳の表現である実相世界は、だから無限の知恵に満ち、無限の愛が現れ、無限の生命に溢れ、供給は無限であり、喜びは無限に続き、無限に調和しているのである。そこには失敗はなく、憎しみはなく、死はなく、欠乏はなく、悲しみはなく、衝突はあり得ない。この完全円満なる実相世界に、私はいま「神の子」として生かされているのである。神の子の本質は神である。だから、私は完全円満にして、知恵無限、愛無限、生命無限、供給無限、喜び無限、調和無限である。
しかし、無限が無限のままでは自らを確認できないのである。自己を確認するためには表現が必要であり、表現するためには表現の媒体が必要である。だから生命は皆、肉体や霊体などの「体」を形成するのである。肉体は、無限が有限を通して自己表現するための一時的媒体である。だから、始まりがあり終りがある。無限の表現のためには有限が必要であり、有限が繰り返されることが必要である。それは、画家が有限の大きさのカンバスを使い、音楽家が有限の長さの音楽を演奏し、実業家が有限の規模の事業を行い、スポーツ選手が有限の大きさの競技場や「ルール」という限定を必要とするだけでなく、絵が何枚も描かれ、演奏が繰り返され、事業がいくつも生まれ、競技や試合が何回も行われるのと似ている。有限の表現が変化し、多様化しながら繰り返され、向上することで、無限が表現されていくのである。
私はいま神の御心を静かに観ずるに、この現象世界は無限表現の舞台であることを知る。物事は変化しながら繰り返され、繰り返されながら変化していくのである。諸行無常といえども、無常は無秩序でなく、変化には一定のパターンがあり、そのパターンが繰り返されるのである。一日は、朝で始まり夜に終る。一年は、春夏秋冬を経て12ヵ月で終る。人間の肉体には誕生があり、成長があり、老衰があり、死がある。物事には始まりがあり、終りがあるといえども、終りはすなわち始まりである。夜のあとに朝があり、冬の後に春があり、死の後に生があり、その継続が繰り返される。この変化と繰り返しの過程で、無限の表現が行われるのである。時間と空間のひろがりの上に有限が展開することで、無限は表現されるのである。
私はだから、変化を恐れないのである。終りは始まりの揺り篭であり、始まりは一層高度な表現を約束する。失業は新方面への発展を切り拓き、転勤は自己拡大のチャンスである。一つの環境に留まっているのでは「神の子」の表現はできない。一つの能力に頼っていては「神の子」の力は発揮できない。一分野の知識だけでは「神の子」の知恵は開発されない。一つの仕事だけでは「神の子」の無限性は表現できない。一回の人生では「神の子」の全相が現れるものではない。しかし私は、「一つ」をおろそかにしないのである。「一つ」は「無限」への階段である。一段を踏み外すものは十段に達することができない。基礎をおろそかにして応用は不可能である。与えられた場で最善を尽くすことで、次なる飛躍が初めて可能となるのである。
私はいま神の御前に座し、私自身の内部神性--すなわち「内なる仏」を観想するのである。私はこの「神性・仏性」そのものである。私の周囲のあらゆるものは無常であり変転するが、この「神性・仏性」は変わることなく私に語りかけ、「汝、真を生きよ」「善をなせ」「美であれ」と囁くのである。この声こそ私の本質であり、これを表現することで私は生き甲斐を感じ、魂の喜びを得るのである。それが神の子の生き方である。神の子の生命に「終り」はない。神の子の表現に「終り」はない。それは新たな出発であり、次の段階の「始まり」である。この真理を教え給いし神に、無限の感謝の意を表現し奉る。ありがとうございます。
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