想念を浄めて神に見(まみ)える祈り
(上のプレーヤーで音声が聞けます)
我は今、五官の感覚によって立ち現われ、立ち騒ぐ世界から心を放ち、神の創り給う実在の世界に心を振り向けるのである。我が前に見え、聞こえ、感じる世界は仮の世界であり、我が心の映しである。それは実在でなく現象であり、本来無い世界である。神は完全であるから、神の創られたすべての実在は完全である。完全なるものは磨耗せず、故障せず、朽ち果てず、壊れない。我が前で磨耗し、故障し、崩れ、消えゆくと見えるものは、本来無いものであり、実在しない。我はそれら変転する現象から心を放ち、その“奥”にある真実存在に心を振り向けるのである。
神の創造は磨耗せず、故障せず、朽ち果てず、壊れず、金剛不壊にして、精妙なり。無限のデザインを包蔵し、多種多様でありながら、秩序に満ちている。千変万化の様相を含みながら、統一原理が支配する中心帰一の世界である。我が前の現象は、その神の創造のごく一部を、磨りガラスを通して一瞬覗いた時の、不完全な印象のようなものに過ぎない。それは粗雑であり、欠落があり、漠然とし、デザインは乏しく、時間がたてば崩れゆく。磨りガラスの映像は実在にあらず。その“奥”に金剛不壊にして無限の美を抱く実在あり。それが神の創造である。
神は無限の知恵なるがゆえに、神の創造になるすべての実在は、互いに矛盾し、撞着し、紛争し、衝突することはないのである。我が前に展開する現象が互いに矛盾撞着し、ぶつかり合っているように見えても、それは我が心に“磨りガラス”があり、我が民族や国家に“磨りガラス”があり、ヒトという生物種に“磨りガラス”があるからで、それらが重なり合って、実在世界を曇って見せているに過ぎない。無限の知恵に溢れた大調和の世界が「そこ」にあるのに、人間の心の「曇り」がそれを覆い隠しているのである。
神は無限の愛であるから、創造(つく)られたものを破壊し、傷つけ、死に追いやることはありえないのである。破壊し、傷つき、あるいは死ぬと見えるものは、神の創造の「本体」ではなく、本体が我が心に映った「現象」であり「影」である。皮膚の表面の細胞が壊れて垢となるのは、神が皮膚を破壊するのではなく、役割の終った細胞が、後から来る細胞のために現象世界から姿を消す過程にすぎない。垢が落ちれば、艶やかな新しい皮膚がそこにあり、肉体は少しも破壊せず、傷つかず、死んではいない。これと同じことが、全身で行われていることを思え。一見、破壊や死のように見えるものは、実は生命表現のための愛深い自動装置が正しく機能している姿である。
神は大生命であるから、こうして1個の生命表現を可能ならしめているだけでなく、無数の生命の表現を可能とする道を用意し給うのである。「細胞の死」が本当の死や破壊でないのと同じように、「肉体の死」も神の創造の放棄や破壊ではない。神は、わずか1個の肉体による表現を我らに与え給うのではなく、次なる体(たい)を、また、次の次なる体をも用意されて、我が神の子の無限性を引き出し給うのである。次なる体を得るためには、「この肉体」を棄てねばならない。それは、神の創造を放棄するのではなく、神の創造を表し、神の子の表現を進展させるためである。神は大生命であるから、死を生むことはないのである。
「この肉体」は、だから本当の我(われ)ではない。それは、皮膚の垢が肉体全体でないのと同じである。「この肉体」の限界は、だから我の限界ではない。我は次なる生において、新たな方面に伸びゆくのである。「この肉体」の欲望は、だから肉体を超えた真の我の欲望ではない。そして、欲望から生じる様々な想念も、本当の我の想念ではない。我は肉体の想念を超越した神の子である。我が想念は、神の御心と一体なり。我は大生命なる神の分身として、表現の場を変えながら無限進歩を続けるのである。
我は今、無限の愛、無限の知恵、無限の生命である神の分身として、歓喜に満たされてあり。我、神に無限の感謝を捧げ奉る。ありがとうございます。
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