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彼(彼女)の実相を観じて和解する祈り

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(上のプレイヤーで音声が聞けます)

 神さま、私はこの現象生活で人との不調和を感じるとき、「祈りて待て」というあなたの言葉を思い出します。「祈り」とは命の宣(の)りごとであり、心の底からの宣言です。現象世界は心の現したものですから、私がどれほど心底から強く、頻繁に「ある思い」を抱いているかで、私の人生に出現する事物や現象は変わってきます。現象界に何かが出現するためには、物質的材料が動き、組み合わさり、一定の事物や現象が形成されるための「時間」が必要です。この「時間」を、私たちは無為に使ってはならないのです。

 私たちが「ある思い」を抱いてから、それを打ち消すような別の思いを抱けば、最初の「思い」が現れる力は消えてしまいます。私が本当に彼(彼女)と和解するつもりならば、和解の念波を打ち消すような思い--彼(彼女)の欠点、許せない過失、不快な言動、彼(彼女)への不信--などを、私は心に呼び起こしません。その逆に、彼(彼女)の美点、彼(彼女)の優秀さ、彼(彼女)の笑顔や親切、彼(彼女)との信頼関係を思い出し、あるいは心で創造して、「彼(彼女)と和解しつつある自分」を心の中に生き生きと描き続けます。私は今、端座瞑目して彼(彼女)の顔を思い浮かべ、優しい表情の彼(彼女)が私を見つめ、私への好意と愛と友情を放散している様子を、具体的に、感情を込めて心に描きつづけます。
 
 神さま、ありがとうございます。私は彼(彼女)を愛しています。彼(彼女)と我とが一体であるとの深い感情が今、私の心に湧き上がっています。これまでは彼(彼女)が自分の意のままに動くことを望み、それが叶えられないと怒りを感じていましたが、神さま、私はもう彼(彼女)が神の子であることを忘れません。神さまは私を強制して、神さまの御心に無理矢理したがわせることをされません。それと同じように、神の子である私は彼(彼女)を強制して、自分の意思にしたがわせようとは思いません。彼(彼女)も私も、神さまの御前では全く同じ価値ある神の子です。神の子は自由であり、神さまは自由意思を尊ばれますから、私も彼(彼女)に執着せず、彼(彼女)の自由を尊重します。私は彼(彼女)に感謝します。彼(彼女)は私の人生を彩り、変化を与え、互いに切磋琢磨することで、神の子の本質を輝き出だす契機を与えてくださいました。私は彼(彼女)に感謝します。

 神さま、私は今、「彼(彼女)の実相は神の子なり」と心の底から宣言します。それが「祈り」です。そして、彼(彼女)の実相をアリアリと感じるまで祈りをやめません。それが「待つ」という意味です。一度や二度、彼(彼女)の笑顔を思い出して「彼(彼女)の実相は神の子です」と口先で唱えただけで、あとは心の中で彼(彼女)の悪口を言ったり、彼(彼女)の憎むべき過去の言動を心に思い浮かべているのでは、祈っているのでもなく、待っているのでもありません。「彼(彼女)と和解する」との願いを立てたならば、その願いを恒常化させ、さらに強めるために、私は意志の努力を続けます。

「待つ」という意味は、「信頼して待つ」ことです。このくらい彼(彼女)のことを祈り、自分は彼(彼女)にこれだけ譲歩したのだから、あとは彼(彼女)の方から自分に歩み寄るべきだと考え、彼(彼女)の誠意を試すのでは「信頼している」ことにはなりません。彼(彼女)を「試す」心を起せば、彼(彼女)も私を「試す」でしょう。人間の心は、互いに敏感に感応し合うのです。私が彼(彼女)を信頼すれば、彼(彼女)も私への信頼の気持を起こします。なぜなら、私と彼(彼女)は神さま、あなたの世界--実相においてはすでに魂の兄弟姉妹であり、実相世界には信頼しかなく、猜疑心も嫉妬も裏切りもウソも存在しないからです。本当の和解は、双方が無理に心をネジ曲げて行うのではなく、神さまの世界に初めから存在する大調和の関係を、形の世界にそのまま表現することです。だから、心の「力み」や「緊張」は不要です。私はただそのまま、神の子の心を出すのです。
 
 神さま、私は今あなたの教えを聞き、感謝に満たされています。私と彼(彼女)とは、あなたに於いて一体の神の子同士です。私の中で、彼(彼女)への不自然で、頑なな思いは消えていきます。それは私の力によるのではなく、神さまの愛と調和の世界に、私が素直に振り向くことができたからです。気がついてみれば、この世界には神さまの大調和の世界しか存在しません。私は彼(彼女)とともに、その世界に生きる神の子です。私と彼(彼女)はあなたに於いて一体であります。ありがとうございます。


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