日々刻々新生を自覚する祈り
(上のプレイヤーで音声が聞けます)
「人間は神の子である」という教えの意味は、あなたは心の力によって肉体や環境や運命を自ら形づくるということである。あなたは、肉体・環境・運命の“受け手”ではなく“創り手”である。だから、毎日が同じことの繰り返しであると感じるのは、錯覚である。毎週同じ曜日が来ると思うのは、錯覚である。毎年同じ休日が来て、同じ行事があると思うのは、錯覚である。妻や夫の顔が毎日同じだと思うのは、錯覚である。学校や会社の同僚が同じ気持だと思うのは、錯覚である。それらは肉体の感覚が捉えた大雑把な印象であり、あるいは社会が決めた仮の枠組みにすぎない。
「現象は常に遷り変わる」と教えられていることを忘れるな。現象は常に変わるのだ。変わらないのは、その奥にある実相のみだ。現象を実相のごとく堅固不変だと考えてはならない。1週間前に、あの人が自分を憎しみの目で見たということは、その人が今日も同じ心であることを意味しない。「憎しみ」は、あなたの心が映し出した現象であり、実相の完全性とは相容れない。それは迷いであり、非実在であり、消えゆく存在である。にもかかわらず、今日も彼(彼女)が同じ憎しみを抱いているとあなたの心が信じれば、その憎しみは、あなたの心の力によって再び現象の彼(彼女)の上に映し出されるのである。それが心の法則である。因果の法則である。
神の子は常に新生し、仏は無数の現象身を現しつつ衆生を導くのである。しかし、神の子や仏に憎悪や敵意、嫉妬心はない。在るのは「神の心」だけであり「仏心」のみである。にもかかわらず、あなたの好まない「憎しみ」や「敵意」や「意地悪」を自ら現象させることは、愚かなるかな。実在でない偽象を映し出すことは愚かなるかな。偽象は必ず崩れ去るのに、偽象をもって「これが彼(彼女)の本心だ」と信じることは、愚かなるかな。それは、神の創造になる完全世界への不信仰であり、悉有仏性への不信心である。すべての人間は「神の子」であるという教えを忘れるなかれ。人間の本心は「仏」であるとの信仰を棄てるなかれ。
現象が常に遷り変わるということは、あなたの肉体も常に変化し続けているということだ。言葉を換えれば、あなたの肉体は常に新生しているのだ。それを認めずに、昨日と同じ肉体が今日もあると思うものは、新生した細胞を昨日の肉体と同じ状態に閉じ込めようとしているのである。1年前と同じ肉体の自分がいると思うものは、1年前のシミや故障や機能不全を再生させようとしているのである。肉体の免疫系は神の癒す力の発現であるから、あなたの心が「迷い」によって抑えつけない限り、シミや故障を修復し、機能を健全化させるために常に働いているのである。ある科学者の試算では、人間の肉体を構成する原子は1年間で98%が入れ替わる。外界と接する部分の更新は特に顕著であり、胃の内側の粘膜の細胞は5分ごとに入れ替わり、皮膚の表皮細胞は1ヵ月で交替し、堅固に見える骨でさえ3ヵ月でその原子は更新される。これが新陳代謝であり、肉体が常に変化し新生している証拠である。
こうしてあなたの現象の心は変化し、物質としての肉体も変化することが分かれば、現象世界は日々刻々変化しつつ、新生を待っていることが分かるだろう。新生のための青写真は、あなた自身の心である。あなたが“古い自分”こそあなただと信じれば、“古い自分”が新しく作られるのである。あなたが“古い自分”から目覚めて“新たな自分”へと向おうとすれば、“新たな自分”が創られるのである。あなたの自覚一つによって、日々刻々繰り返される変化は、「新生」へと歩み始めるのである。だから、「人間は神の子である」との信仰は、新生のための最も重要な一歩である。神の子は「生み出す力」を自らもっているのだから、自ら新生しているのである。
あたなは、神の無限の多様性を内に蔵した神の子であるから、どのような方向へも新生し得るのである。あなたは、仏の大慈悲を内に蔵するのであるから、どのような人をも赦せるのである。赦すことは、執着を放つことである。執着を自ら放つことで自由が訪れる。そしてあなたは新生するのである。
神の無限の愛、仏の大慈悲に深く感謝し奉る。ありがとうございます。
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