観を転換して人生に光明を見る祈り
(上のプレイヤーで音声が聞けます)
神さま、私は「神の子」として生きていることを心から感謝いたします。私が神の子であるということは、私には神さまと同じように、すべてのものを創造する力が与えられていることを意味します。私の肉体・環境・運命は、私が心でつくるものです。それは牢獄の“檻”のように、私の外部に厳然としてある堅固な障害物ではありません。私は「運命」とか「宿命」などという、私以外の何者かの力によって私の望まない方向へ押し流されたり、私の望まない行動を強いられることはありません。それは、私の心の“反映”にすぎません。
もし私が、自分の望まない方向へ進んでいると思い、あるいは自分の嫌いな行動を強いられていると感じるならば、それは私の潜在意識と現在意識のあいだに食い違いが生じている証拠です。潜在意識にホコリが溜まり、「神の子」の自覚が曇っているのです。また、現象世界の出来事に心を捕らえられて、「神の子」としての自分の実相を見透すことができにくくなっているのです。現象世界は私の心の反映ですから、私自身が執着を捨てて心を整え、「人間・神の子」の自覚を回復し、さらにそれを深めていけば、外部の環境は「神の子の生活」を送るにふさわしい形に必ず整ってきます。
「心を整える」という意味は、神さまの創造された実相世界に心を振り向けることです。神さまは「真実」なる存在ですから、神さまの世界には永遠に変わらない「真実」のみが存在します。神さまは「絶対の善」でありますから、神さまの世界には善のみ存在します。神さまは「絶対の美」でありますから、神さまの世界には美しいもののみが存在します。私は今、神の子としてこのことを信じるだけでなく、感動と喜びをもってそれを観じます。神さまの創造(つく)られた世界は真・善・美に満ちていることを、心の底から讃嘆します。
私の周囲の現象世界は、この実相世界を脳と心が解釈したものですから、人間の執着心や脳の状態によって歪んだり、曇って見えたりします。この「歪み」や「曇り」は、しかし真実の存在ではありません。真実の存在でないものに、私は心を捕らえられません。「実相世界に心を振り向ける」とは、現象世界の出来事の中から、「真実の存在」を暗示するものだけに心を振り向けることです。私がもし、虚偽、悪現象、醜聞等の、人生の暗黒面に心を向けていたならば、それを一転して、神の世界の「真実」と「絶対の善」と「絶対の美」を現象の背後に観じることです。それは喩えてみれば、人類の迷いを放送する“暗黒放送局”から、真実を放送する“光明放送局”へと、テレビのチャンネルを切り替えるように、心の波長を切り替えることです。
この「観の転換」ができれば、私の周囲の世界にはよい現象が自然に顕れてくるのです。それは、テレビのチャンネルを切り替えれば、切り替えた先の放送局の番組が画面に自然に現れるのと同じことです。人生の暗黒面を見る心を放棄して、光明面を見てほめたたえる心を開発し、育てることで、実相においてすでに在る真・善・美のドラマが、私の人生に自然に映し出されてくるのです。
「実相世界に心を振り向ける」ためには、「神の子」である自己の実相に目覚めなければなりません。自分自身を「罪の子」と思ったり、「悪人」と考えたり、失敗を繰り返す「欠陥人間」と信じているのでは、その自分を創造した神を「欠陥あり」と認め、神の世界の真・善・美を否定することになります。神の世界の完全さを否定していては、実相世界に心を振り向けることはできません。実相世界へ心を振り向けるためには、「我神の子なり」の自覚が不可欠です。こうして、自己内在の神性である真・善・美を自覚する程度にしたがって、周囲の世界にも「真実」と「善」と「美」が顕れてくるのです。
神さま、私はあなたが創造(つく)られた真・善・美の実相世界に心を振り向けることによって、私の肉体・環境・運命を通して神の御心を表現する「神の子」です。この尊い自覚を与え給いしことを、神さまに心から感謝いたします。ありがとうございます。
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