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多様性の中に神を見る祈り

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 神は無限の知恵にてあり給う。神は無限の愛にてあり給う。神は無限の生命(いのち)にてあり給う。しかして、無限は「個」の中には表現できないのである。無限は「単調」ではあり得ないのである。無限は「孤立」してはいないのである。だから唯一絶対にして無限なる神が自己表現されるとき、それは「複数」となり、「多様」に展開し、「調和」が顕れるのである。無限は多数の有限となり、多様な特徴となり、それぞれが互いに調和へと動き出すのである。現象世界から見れば、それは極小から極大への空間的拡がりとなり、始まりから終りへの時間の流れとなる。
 
 現象世界は、唯一絶対にして無限なる神の自己表現の“反映”である。この“反映”は、人間の心という“スクリーン”の上に映るから、心の性質や変化に応じて不完全に認識されるのである。しかし、不完全な反映であっても、神の無限性を間接的に教えてくれるのである。我らが鉱物界、生物界、人間界を観察すれば、そのことは明らかである。宇宙全体が“無”の大きさから無限大に拡大しつつあること。宇宙の始原では単一の元素、水素から始まり、続いてあらゆる種類の元素が生まれ、元素の結合によってあらゆる鉱物が生まれ、今もまだ生まれ続けているのである。生物は単細胞生物から発して多細胞生物へと進化し、菌類や植物や動物が出現して、さらに多様化、複雑化が進んでいるのである。しかも、それらがすべて生物圏全体の調和と安定に支えられながら、自らも生物界の調和と安定を目指し、また自ら調和と安定を担っている。これらはすべて、神の無限性が有限を通して現象界に展開する姿である。

 人類も単一の種でありながら、多様な種族、民族、国家へと分化、発展しつつあるのである。人間はみな神の子であるから、現象世界に現れれば複数の個性となり、多様な民族となり、互いの調和を求めて努力するのである。唯一絶対にして無限の神があるから、現象界には必ず複雑化、多様化、調和への動きが現れるのである。このことを深く知れば、「神の子」としての人間の生き方も、おのずから神の自己表現の展開に倣うことになる。

「神の子」である我は、「一」(ひとつ)にして「無限」である。自己内部から「我」を観ずるとき、それは統合された一つの自分であるが、外部との関係の中では、多様な性質と役割を表現するのである。そこには「子」であり、「兄弟」または「姉妹」である自分がある。「親」であり「叔父・叔母」である自分がいる。「同僚」であり「部下」であり「上司」である自分が存在する。また、「夫」あるいは「妻」である自分がある。これらの役割の中で、一つの個性が多様に展開し発展するところに、人生の真実と、善さと、美しさがあるのである。これらの多様な関係の中で、知恵と愛と生命を駆使するところに、人生の意義と目的があるのである。

 真・善・美は、唯一絶対にして無限なる神の御徳である。知恵・愛・生命も、唯一絶対にして無限なる神の御徳である。それらを人生に於いて表現することができる人間は、実に「神の子」以外の何ものでもない。この世界では、これらの神の無限なる御徳が物質界、生物界に多様に展開しているが、鉱物や生物はその事実を「意識して」は行動しない。鉱物や生物は真・善・美を無意識に「体現」することはできても、それら神の御徳を理解する知恵をもたず、愛する心をもたず、自ら表現しようとする意志をもたない。ただ人間に於いてのみ、神の御徳を感じ、理解し、愛することができるのであり、かつ自らの意志によってそれを表現しようとするのである。だから人間は、神の御徳の最も完全な顕れであり、これを「神の子」と称するのである。
 
 あぁ、わが親さまなる神よ、私は今、この世界の無限なる多様性の中にあなたの御徳を観じます。私があなたの無限の御徳の理解者であり、表現者であることの重大なる意味を知ります。私が「神の子」であることに感謝いたします。私は「神の子」として、知恵と愛と生命力を駆使して、わが人生に真なるもの、善なるもの、美なるものを表現することを誓います。ありがとうございます。


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