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肉体の我から真我へと飛躍する祈り

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 神さま、私はいま「神の子」としての自己をあなたの御前で深く観じます。「人間は肉体ではない」という教えは、肉体を拒絶して霊界へ行けとの教えではありません。なぜなら、私の肉体は、この素晴らしい地上生活のためにあなたが与えてくださった貴重な贈物だからです。不要のもの、価値のないものをあなたが私にくださるはずがありません。

 私の肉体は、あなたの知恵と愛と命の一部を表現した貴い地上生活の道具です。それを仮に「私の肉体」と呼ぶことがあっても、それは決して「私が創造した肉体」ではなく、「私だけのための肉体」でもありません。私の肉体の特徴は、私の両親の肉体的特徴を併せもった独特のものですが、その両親の独創ではありません。それは、その両親の両親の特徴をも併せもったものです。そして、その両親の両親のそのまた両親の特徴も引き継ぎ、同様にして膨大な数の先祖の特徴を今、ここに引き継いでいるのです。それは言わば、時間軸を通して広がった壮大なる“人類の過去の特徴の全体”を体現した精緻・精巧な道具です。

 神さま、私はいま与えられたこの「肉体」という道具の素晴らしさを深く認識します。この肉体は組織や器官が精緻・精巧であるばかりでなく、私が意図しない膨大な数の機能を自動的に、過たずに実行しています。呼吸、心臓の収縮、ホルモンの分泌、細胞同士の連絡、黴菌との戦い、怪我の修復、食物の消化、皮膚や粘膜の再生……その他もろもろの肉体維持のための機能のほとんどが、先祖から受け継いだ自動プログラムにもとづいて、私が眠っているときも静かに、完全に実行されています。だから、この肉体は基本的に「私」が管理し動かしているのではなく、“人類の過去の特徴の全体”がほとんどの部分を自動的に管理し、動かしているのです。

 では、それを「私の肉体」と考える「私」は、何をしているのでしょう。精緻・精巧なる道具の使い方を知らないはずの「私」が、どうして肉体を「私」だと思うのでしょう。航空機の飛行原理や内部構造を知らない人が、航空機を安全に飛行させるためには、複雑・煩瑣な飛行のメカニズムをすべて自動化した後に、それらをいくつかの簡単な段階にまとめてスイッチとボタン操作で実行する“自動飛行装置”を用意しなければなりません。また同時に、操縦席の人間がその装置を勝手気ままに操作したり、飛行中に席を立たないような工夫が必要です。それと同じように、「私」と「肉体」との間には、肉体を道具として維持し安全運行させるために「脳」という“自動運転装置”が介在しています。この脳は、「私」が「肉体」の運転をデタラメにおこなったり放棄しないように、「欲望」や「快楽」という報酬を用意して「私」を「肉体」につないでいます。
 
 しかし、「私」は「肉体」ではないのです。肉体の運転手であっても、肉体そのものではありません。だから、欲望は「私」の真の願いではありません。肉体に属する快楽は、「私」の真の喜びではありません。それらは、肉体の維持管理のために脳が用意した“自動運転装置”のスイッチの一つにすぎません。「私」は、その自動装置を活用して肉体を正しく運転する「主体者」です。肉体の欲望を否定するのではなく、欲望の発露を統御し、それを「私」の目的に正しく使うのです。私が「主」であり、肉体はあくまでも「従」です。
 
 私の中に時に欲望が生じ、快楽を求める心が生じるのは、自動運転装置のスイッチの一部が点滅し、肉体の維持管理を要求している印です。それは「肉体」の維持管理に役立つことがあっても、肉体を運転する「私」にとっては、役立つ場合とそうでない場合があることを知っています。この「私」は肉体ではないのですから、肉体を超えた価値の実現を求めるときには、肉体からの要求を利用しつつもそれに支配されることなく、時には毅然としてそれを退け、「私」の求める価値の実現を優先させます。それが、人間が「主体者」として生きることです。それが「神の子」として生きることです。
 
 私は常に神の御心を聴き、それを「私」の真の目的・真の願いとして生きる神の子です。神さま、私をこの自覚に至らしめ給うたことに心から感謝いたします。


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