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普遍なる神の無限を観ずる祈り

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 神は無限であるから、神の創造し給う世界は無限である。神は知恵において、愛において、生命において無限であるから、神の創造し給う世界は知恵無限、愛無限、生命無限である。神はまた真・善・美を包蔵し給うから、神の創造られた世界は真無限、善無限、美無限である--我らがこう念ずるとき、我らの心には神の御徳の無限内容がアリアリと思い起こされる。まさにそのことが、我らが神の子であることを証明しているのである。
 
 我らが五官で感じる現象世界は、常にどこにあっても有限である。空間は視力が及ぶ限界点で終り、見える色は色覚の範囲内にとどまり、聴く音は周波数や強弱に限りがあり、臭いは茫漠として方向をもたず、触覚にいたっては絹と化学繊維の区別もできない。我らの肉体の感覚はこのように有限であるにもかかわらず、我らの心は「無限」を想起することができる。想起するどころか、無限に憧れ、それを希求し現実化させるために、努力を惜しまないのである。宗教家が、芸術家が、科学者が、職人が、スポーツ選手が、実業家が、発明家が、こうして自分の心に定めた「無限」に向かって日夜努力している。それは、神の世界の「無限」が我らの心の深奥にあって、我らを内部より突き動かしているからである。

 だから、我らは「神の子」と言うのである。神の子は内に無限を蔵しているから、有限な感覚をもちながらも、その感覚で捉えた有限の現象世界の奥に、無限を観ずるのである。ある科学者は、無限なる「神」のイメージは人間の心が勝手に作り上げたものにすぎず、本当は神など存在しないと主張する。しかし、無限を感覚できない肉体をもちながら、人間の心に「無限」のイメージが生き生きと存在するという事実は、誰かがそのイメージを我らの心に植えつけたことを示しているのである。その「誰か」とは、有限な肉体の中に閉じ込められた現象人間であるはずがない。

 無限なる「神」のイメージは、神自身が我らの心に植えつけ、育てられたものである。我らが現象の肉体をこの地上に現わすはるか以前から、人類は「神」なるイメージを理解し、礼拝し、讃美し続けてきた。神のイメージは、神のみから来る。だから、神は実在するのである。そして、「神」を心に抱く「神の子」としての霊的人間も実在するのである。ただそれらは、感覚世界を超えた実在世界にあるから、目には見えず、耳には聞こえず、肌で感じたり、臭いで知ることはできないだけである。

 有限の現象世界には、無限なる神は存在しない。しかし、神そのものが存在しなくとも、“神の痕跡”があらゆるところに満ち溢れている。“神の痕跡”とは、「無限」を想起させ、「知恵」を想起させ、「愛」を想起させ、「生命」を想起させ、「真」「善」「美」の感動を与えてくれるすべてのものである。抜けるような青空、無限にきらめく星屑、深い海、崇高な山脈、壮大な瀑布、夥しい数の生物、その驚くべき多様性、形や色の美しさ、体の機能の優秀さ、それらが総合的に作用して現われる、さらなる進化、発展、共生、協力……。一つ一つの存在はみな、無限でも完全でもなく、また知恵に満ちていなくても、それらすべての関係を総合して観ずるとき、我らは「無限」を感じ、「知恵」を想起し、「愛」や「生命」の尽きざる連続を知るのである。
 
 あぁ、神よ。あなたは我が心の深奥におられるだけでなく、すべての人々の心の深奥で語り続けて来られ、今も語り続けておられます。あなたはこのように我が内部にあるだけでなく、我が四方四維にあり、宇宙に満ち、他のすべての生物の中にあり、外にあり、生物間の関係の中にあり、鉱物と生物間の関係を司り、恒星と惑星をつなげ、小宇宙を生み、大宇宙全体にみなぎり給う。その偉大なる神の御徳を実相に於いて共有している我は、誠に幸せなるかな。我は神の無限の知恵、無限の愛、無限の生命と一体なり。無限に真なるもの、無限に善なるもの、無限に美なるものと我は一体なり。我「神の子」として、神の無限の御徳に深く感謝し奉る。神さま、有難うございます。

 


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