神の子の自覚を深めて前進する祈り
(上のプレイヤーで音声が聞けます)
神さま、私は神の子です。なぜなら、私は「神さま」とあなたのお名前を呼ぶとき、自分の親を呼ぶときと同じ親しみを感じるからです。親に対するのと同じ信頼感が、心の底に湧き上がるからです。しかし、神さまは私の肉親と同じではありません。私の親が「神さま」とあなたを呼べば、親もまた神さまに親しみと信頼を感じるからです。神さまはこうして、すべての人々がその御名を呼ぶとき、すべての人々の内に親しみと信頼の心を喚び起こすお方ですから、人類すべての御親であられます。だから、人間はみな神の子なのです。そして、私たちが神さまを心に感じるとき、すべての人類は神を通して兄弟姉妹であることを感じます。
神の子であるということは、神さまのもち給えるすべての御徳を私が自分の内にもっているということです。私が思い浮かべることのできる最高、最善、至美、至妙のものが、神さまの世界であることを私は知っています。それは私の「外側」にあるように思えても、私が自分の「心」に思い浮かべるのですから、本当は私の「内側」にあるのです。それは単なる想像だという人もいますが、本当は実在するものが心に反映しているのです。私の心に存在するものは「外界の反映」だけではなく、「実在の反映」もそこにあるのです。
私が赤ちゃんだったとき、「本」や「自動車」は外の世界にあったものをイメージと言葉で憶えました。それらはだから、「外界の反映」です。しかし、外の世界にあるものの「反映」だけが私の心に存在するならば、私はなぜ「最高の本」や「完全な自動車」というイメージを思い浮かべることができるのでしょう。私の外側の世界に「最高の本」や「完全な自動車」など存在しないにもかかわらず、私はなぜそれらを求めることができるのでしょう。本や自動車だけでなく、スポーツや芸術、哲学、科学、事業、発明、技術、人間関係、社会生活などのあらゆる分野で、人間はなぜ最高、最善、至美、至妙を求め続けているのでしょう。それは、神さまのもち給えるすべての御徳を人間が皆、自己の内にもっている証拠です。時間や空間を超えた神さまの世界に実在する「種」を、人間がみな内部にもっている証拠です。
神さま、私は神の子です。私は今そのことを自覚して、魂の底から喜びに満たされています。私はすべての人々とともに、神さまの無限の御徳を地上に表現するための尊い、やり甲斐のある人生を力強く歩んでいることを感じます。すべての人々は、私の共鳴者であり協力者です。すべての人々は、私の教師であり、友人であり、理解者です。ときに敵や邪魔者のように感じることがあっても、それは私が自己限定して、自分を肉体的存在だと見誤り、肉体的自己の利益を優先して考えたときの錯覚です。私は神さまを通してすべての人々と兄弟姉妹の関係にあるのですから、私がしっかりと神さまを心に観じ、「神の子である」との自覚を取りもどし、かつ行動すれば、すべての人々も「神の子」としての姿を現わし、「神の子」としての行動を起すでしょう。
神さま、私は神の子として、神さまのもち給えるすべての御徳を常に心に把持することを怠りません。私は毎日、神想観して、神さまの世界に植え付けられた実在の「種」を心の表面に喚び起こします。そして、愛行と和顔・愛語・讃嘆のコトバの力を駆使して、自己に宿る神さまの御徳を表現する活動に邁進します。「われ神の子なり」と常に観じ、思い起こし、「神の子」の理想を日常生活の基準として高く掲げ、その「種」を地上世界で育て花開かせる生活を送ります。それは生き甲斐のある喜びの生活です。私はその喜びを他の人々にも伝え、協力し、分かち合い、かつ独断、独善に陥らず、根気強く、時機に敏く、明るく、勇気をもって、神さまの御徳を表現する道を前進していきます。
「われ神の子なり」の自覚を深めてくださったことを、神さまに心から感謝いたします。ありがとうございます。
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