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神の無限供給を観ずる祈り

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 私は今、神の無限供給の大海原の前に座すのである。神は無限にして、すべての善きものをその内に蔵するのである。私は今、その善なる大海原を見渡すに、悪しきものはどこにも認められないのである。すべて善きもののみが充満せる大海原が我が前にあり、私はその豊かなる香りを胸いっぱいに吸い込むのである。ここに生命の充満せる豊饒なる大海あり。私は目と鼻によってそれを感じるのである。私は今、無限に深い色をもつ海と豊かな潮の香に包まれているだけでなく、岩に砕ける大波、ひた寄せる細波、沖へ引いていく波の音を聴くのである。この力強い音、繊細な囁き、心躍るような円やかな響きは、神の無限相の一端を示している。

 海は単なる水に非ず。神の無限の美と無限供給が今ここにあり。私はそれを身近に観じつつ、この善なる大海に沈潜するのである。私の周囲に、神の無限の生命(いのち)あり。神の無限の知恵あり。神の無限の愛あり。神の無限の調和あり。神の無限の供給あり。私は神と一体なり。私は神の無限の大海に満ち広がるなり。我が体は神の豊饒の大海と一体なり。

 神はこの大海のごとく無限供給にてあり給い、必要なものに何一つ欠けることはないのである。したがって、神の創造せられた世界には欠乏や不足はないのである。神の無限供給の大海には、すべての善なるものが備わっているのである。もし私が欠乏を感じているならば、それは神の与えられている「恵み」の方向を見ず、一時的に「欠けた」と感じる方面にのみ注意を向けているからである。肉眼を閉じ、肉体の嗅覚や聴覚に頼ることなく、神の無限供給を観ぜよ。神の無限供給の大海の只中にいて、不足を心に思い描くことなかれ。感覚は、刺激が繰り返されれば無感覚へと向うのである。神の無限供給は感覚によってとらえられず、心で認めることで存在の世界に入るのである。私は今、神と一体となり、神の無限供給を心で観ずるのである。私はすでに、神の無限供給の大海の只中にあり、それを観ずることができるのである。

 何ごとも、供給の流れは一本調子ではない。無限は時間と空間を通じて、順序を踏み、リズムをもって表現されるのである。太陽エネルギーが地球上に注ぐのも、一本調子ではない。そこには朝があり、昼があり、夕べがあり、夜がある。エネルギーの供給量に強弱があり、また供給が止まる時間もある。気候にも春夏秋冬があり、雨期があり、乾期がある。人体に酸素や栄養素を運ぶ血液の流れも、心臓の収縮にともなって強いときと弱いときがある。呼吸をするにも、吸うときと吐くときが必要である。体内のホルモンの分泌も、昼と夜とでは種類も分量も違っている。これらの供給のリズムの一部だけを見て、「強」のときに神に感謝し、「弱」のときに神を呪うものは愚かなるかな。供給の一時的「進行」が神の御技であり、次に来る一時的「停滞」や「退歩」は神と無縁だとする者は愚かなるかな。

 神の無限供給は「+」(プラス)と「-」(マイナス)のあるリズムを通じて、現象界に表現されるのである。私は今、現象の「+」にも「-」にも、神の無限供給のリズムを感じる。温度に「高」と「低」があることで水や大気は循環運動を起し、海流や気流を生み出すのである。それに乗ってプランクトンや鳥や昆虫は移動し、豊かな生命を地上に現出する。それと同じように、私も神から与えられた「+」を他へ回すことをしなければ、無限供給のリズムは停止するのである。神の無限供給の流れは閉塞するのである。人生の「+」のときに「-」の人々がいることを思い、他へ「+」を回すことを考えよ。人生が「-」に転じたと見えるとき、すでに与えられた「+」を思い出し、感謝の気持をもってさらに他に与えよ。こうして、神の無限供給は現象界において循環するのである。

 私は今、神の無限供給の大海の中にいて、表現の世界である現象を思う。現象の世界は作曲家の並べる音符や休符のように、時間の流れの中で一つずつ展開するのである。上がる音符もあり、下がる音符もある。連続音もあれば、無音の時もある。それらが組み合わさって、初めて美しい音楽となる。私は今、神の無限供給を自らの心で表現する作曲家であることを知り、人生の歩みの上昇も、下降も、無音の休憩時も、感謝の思いで見つめることができるのである。神の無限なる愛と恵みに感謝し奉る。ありがとうございます。


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