不幸の非実在を観ずる祈り
(上のプレイヤーで音声が聞けます)
神の創られた世界は完全である。すべてが充足し、互いに与え合い、支え合い、調和しているのである。そこには欠乏や奪い合い、盗みや争いはないのである。すべてのアイディアと美と善が充ち溢れ、法則によって秩序づけられているのである。そのことを指して、『創世記』は「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」と書いているのである。私は神を心から信じ、神に絶大な信頼を寄せているから、このことを信じて、神が述べられた通りに宣言する--「神の創造されたすべてのものは、至美、至善、完全円満である」と。これが真理であり、実相であり、神の国の本当の姿であり、仏国土であり、浄土である。私は今、この実相世界に住む神の子であることの至福を心から感じるのである。私の目はそれを見ること能わず、私の耳はそれを聴くこと能わず、私の鼻はそれを嗅ぐこと能わず、私の口はそれを味わうこと能わず、私の肌をそれに触れること能わず。私はただ神の子として、心によって直接それを観ずるのである。
私は今、存在の実相を深く観ずるがゆえに、私の目に見える“不幸”は実在でないことを知る。私の耳に聞こえる“不幸”は真実でないことを知る。私の鼻で嗅ぐものは本物でないことを知る。私の口で味わうものは物の本質でないことを知る。私の肌で触れる感覚は真相でないことを知るのである。私が五官の感覚で知る世界は、神の創られた本当の世界ではないのである。それは二重の意味で私の“心の反映”である。一つには、感覚は存在のすべてを感じず、存在全体の中から肉体の生存維持に必要なもののみを感じるからである。二つには、私は感覚したそのものを知らず、知ろうとするものを感覚で補強するからである。すなわち、「知りたい」と欲するもののみを感覚から選択する。こうして、私は「欲するもの」を感覚する。だから、「私の前に不幸あり」と感じる時は、私がその“不幸”を映し出しているのである。それは神の創造ではなく、したがって実在でないから、現象として感覚されいても非実在であり、虚妄であり、一時的投影であり、崩れゆくものである。
私の前に不幸が厳然として存在するように感じられたとしても、それは神の“怒り”でも“処罰”でも“試練”でもない。神は“不幸”を創り給わず。完全円満大調和の世界のみを創造されているのである。この信仰を堅持せよ。神への信頼を強く把持せよ。“怒る”のは自分の心であり、“処罰する”のは自分の心であり、“試練”を求めるのは自分の心である。わが心の求めるものが、現象として自分の前に現われるのである。“不幸”と見えるものは、私の心の投影である。わが心が“幸福”を自分の都合に合わせて限定するとき、それ以外の現象は“不幸”として顕れるのである。本当は幸福であっても、自分で勝手に不幸を感じるのである。現象の幸不幸を神の責任に帰すことなかれ。神は現象を創り給わず。実相と実在のみを創り給う。神の国と仏の浄土のみを創り給う。神の国では、すべての人々が初めから幸福なり。浄土に於いては、すべての生物は初めから祥福に満たされているのである。
私は今、存在の実相を深く観ずるに、すべての真実存在は完全円満であり、祥福に満たされていることを如実に知るのである。私が存在することが幸福である。私が肉体という道具を使えることが幸福である。その肉体を与えてくださった父母があることが幸福である。父母を初めとした先祖の“刻印”のある人生をもつことが幸福である。文化を共有できることが幸福である。動物と関係をもてることが幸福である。植物の花や果実を愛することができるのが幸福である。空や海や風や雲を感じることができるのが幸福である。そよ風や驟雨や砕ける波の音、雷鳴、稲妻、鳥の声、虫の音、小川のせせらぎ、滝の音、怒涛の響き……感覚を通じて知るこれらの現象自体が幸福だというのではない。それら無数の現象の背後にある最も偉大で確かな事実--これらすべての豊かで多様な現象を超えた創造主が在り、その神の創り給うた完全世界が今在ること。それゆえに“映し”として現象が表れること--このことが幸福の源泉である。現象世界は“映し”にしてすでに充分壮大で、美しく、善に満ち、アイディアに溢れているのだから、その“源泉”である神の国、実相世界はどれほどかを想え。思念せよ。黙想せよ。感覚の背後に実相あり。神の完全世界の直中にいて、私はただそれを観じ、感知すれば幸福はそこにあるのである。
神はわが幸福の源泉なり。神は不幸を創り給わず。“不幸”とは、肉体人間を我とする謬見が生み出した砂上の楼閣にすぎざるなり。この真理を知らしめ給うた神に、満腔の感謝を捧げ奉ります。
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