すべての人々の実相を讃える祈り
(上のプレイヤーで音声が聞けます)
我はいま神の御前に座し、神の御声を聴かんとするのである。我は神の子であるから、神の御心をわが心の深奥に聴くのである。神の御心は、わが心が神の御心と同じ波動に回帰するとき、わが心の深奥に響きわたるのである。我は神の御心に向かって回帰する。神は無限の愛である。神は無限の知恵である。神は無限の生命(いのち)である。神は無限の供給である。神は無限の喜びである。神は無限の調和である。我は神の深き、温かき懐に抱かれ、神の御心を魂全体に感じるのである。神の御心は愛である。神の御心は知恵である。神の御心は生かすことである。神の御心は与えることである。神の御心は喜びである。神の御心は調和の実現である。神はこの大いなる、聖なる御心によって世界を創造し給う。したがって、この世界の実相は愛であり、知恵であり、生命であり、豊かであり、喜びであり、大調和である。我が魂は、この世界の実相を如実に感じるのである。
我はいま神の御前に座し、この世界の実相を我が魂の全体で感じるのである。我が魂は神の世界と共鳴するのである。大いなる神の愛、大いなる神の知恵、大いなる神の生命(いのち)、聖なる豊かさ、聖なる喜び、聖なる調和の全相がここにある。我がそれを如実に感じるのは、わが魂がそれと同質であるからである。我は神の子であり、神に感応し、神を動かし、神を表現し、神とともに生きる。それがわが実相なり、人間の実相なり。
我はいま神の御前に座し、すべての人間の実相を感ずるに、すべての人々は我と同じく神の子であることを知るのである。神は我を通して御心を実現されるごとく、すべての人々を通じて神の御心を表現されているのである。我が神の子であるのと全く同じく、すべての人々は神の分身であり、分神である。だからすべての人々は、実相においてことごとくわが兄弟姉妹であり、神の愛(いと)し子である。だから我は、すべての人々を兄弟姉妹として讃嘆する。すべての人々よ、あなたは神の無限の愛の表現である。無限の知恵の表現である。無限の生命の表現である。無限の豊かさの表現である。無限の喜びの表現である。無限の調和の表現である。すべての人々は、実相において無限の生かし合いの生活を送っているのである。
我はいま神の御前に座し、すべての人々の実相を観ずるに、現象世界は自由意思の誤用によって映し出された仮相にすぎないことを知る。我が神の子の自覚を忘れるとき、神の子らしからぬ行動をするのと同じように、他の人々も肉体の自己を自分とし、自由をはき違えるとき、互いに衝突するのである。しかし、それは実相において衝突しているのではない。肉体を通して体験する仮の舞台で、「衝突」のシーンを演じているだけである。舞台の上では確かに「衝突」は起こっているが、それを演じる俳優たちは本当に衝突しているのではない。互いに合意した「衝突」という脚本にしたがって、一致協力して衝突を演技しているのである。演技が迫真に迫るとき、俳優は憎しみの形相を示すかもしれないが、本当の心は憎んではいない。むしろ同じ俳優として、演技の協力者を信頼している。「我は俳優なり」との自覚があるために、相手を憎まずに演技し、演技が終れば互いに讃嘆し合うのである。それと同じく、「我神の子なり」との自覚があれば、人間は現象を生きながら相手を憎まず、現象の一幕を終えれば互いに讃嘆することができるのである。
我はいま神の御前に座し、すべての人々の実相を観ずるに、人間はみな神の子なり。現象世界は仮の舞台なり。我はこの舞台で協力して演技するすべての人々を讃嘆し、感謝するのである。もし舞台が苦しければ、わが心の脚本を書き換え、「憎しみ」や「衝突」のシーンを削ればよい。実相世界の愛と知恵と生命と豊かさと喜びを表現するように、脚本を書き変えればよいのである。人間はみな神の子であるから、我はすべての人々と協力し、神の御心を地上に顕現する喜びの舞台、喜びの人生を送るのである。
我、すべての人々の神性を拝み、親様なる神の無限の御徳に感謝し奉る。
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