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人生にただ善のみ観る祈り

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 我は神の生命の分身である。我が人生は、地上に神の御徳が表現されつつある“晴れ舞台”である。この舞台の上で、神の子としての我が本性が具体的事象を通して表現されるのである。それは俳優が役柄を演じることによって、自分に隠されていた能力を引き出し、幅広くまた奥深い人間性を実現するのにも似ている。俳優に天賦の可能性があっても、具体的役柄を与えられなければ、その天性は表現できず、表現できなければ自覚されず、自覚されなければ他からも認められない。具体的役柄は無限でなく限定的だが、それを演じ切ることによって、次なる役柄のための基礎が固まり、次なる飛躍への踏み台となる。無限は無限そのままでは表現されず、自らを有限に縮小し、時間・空間を通して繰り返し表すことによってのみ、表現されていくのである。だからすべての有限が、無限の表現への階段である。我はその階段を一歩一歩上ることによって、無限表現、無限向上、無限幸福を実現しつつあるのである。

 人生はまた、登山家が山をのぼるようなものである。それぞれの山が高さ、険しさ、美しさ、渓谷の深さ、川の水量、木の多さ、土質などに特徴があるように、我が人生も我独特のものである。それを登ることの楽しさを我は知るのである。その楽しさは、必ずしも「楽である」わけでないが、自らのもつ肉体と頭脳と精神力を駆使し、自らの掲げた目標に一歩ずつ近づく充実感と、達成感を味わう楽しさである。それは、他の生命とともに呼吸し、木々の葉のきらめきに目を細め、鳥たちの声に聞きほれ、川の流れに心を安らげ、冷たい泉に喉を潤し、可憐な花や豪華な大輪を愛で、小動物の美しさに心躍らせ、花々の蜜の香り、芳醇な果実を味わう楽しさである。一歩一歩、自らの足で山を登る者にのみ、これらの楽しみは与えられる。肉体的、精神的努力を「苦しみ」と思うことなかれ。これらは、楽しみを味わうための必須の手続きである。無限が有限を通して現れ出る過程である。困難と戯れ、努力を喜ぶのが一流の登山家である。

 人生はまた、神の子・人間の愛を実践するための練習場である。神の子である人間とは、自分だけのことではない。「肉体」という個々別々の“皮袋”をかぶっているように見えても、すべての人間が内在の神性を表現しようとしている神の子であるから、神において互いに兄弟姉妹であり、魂の伴侶である。すべての人間の真実の願いは、自他の障壁を越える愛の実現である。もし我に敵対するように見える者がいれば、それは我の“鏡”だと知れ。我の敵対する心が、本来一体である彼または彼女に映っているのである。我が敵意が、相手に映って見えているのである。敵意が「映り」、憎しみが「移る」ように見えるのは、彼と我とがその本質において一体であるからである。一方の性質が他方に反映し、あるいは移動したりするためには、双方が同質でなければならない。したがって、彼と我とは一体である。我が「神の子」の本質を輝かし出せば、相手も「神の子」の姿を現すのである。だから、我はすべての人間に内在する神性・仏性を拝むのである。

 今、我が前にすべての悪はなきなり。善一元の世界なり。悪と見えしものは、我が内なる「神の子・人間」の自覚が不充分であるときに現れる“影”のようなものである。影は光の不在である。影そのものは実在しない。それと同じように、悪は神の子の自覚の前には存在しない。神の子・人間である我が人生は、ただ善のみの世界なり。この真理を教え給いし神に、深き、厚き感謝を捧げます。ありがとうございます。


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