病に観世音菩薩を観る祈り
(上のプレイヤーで音声が聞けます)
病は、神の創り給う本当の世界にはないのである。苦しみは、神の創造せる実相世界にはないのである。死は決して神の創り給いしものではないのである。病や苦しみや死が表れるのは肉体においてであるが、肉体は我が実相ではないのである。肉体は、この地上生活を送るための臨時的な“宇宙服”であり、仮構である。我が肉体人生は100年を永きと感じることがあろうとも、神の創り給いし世界は無限時間であり、無時間である。時間の枠組みに縛られるものではない。空間の枠組みに縛られるものでもない。実相人間は神と一体であり、神である。その神が「無限」の内容を表現するために仮構したものが時間であり、空間である。神の無限を時間・空間面に表現するための道具が肉体である。だから肉体は有限なのである。
有限の肉体の背後に、無限の神と一体にして、神の無限内容を表現せんとする「本当の自己」があることを自覚せよ。この「本当の自己」の真の願いを自覚せよ。神の子・人間の求める「本当の自己」の生き方を自覚せよ。この自覚が曇らされ、肉体人間の自己保存、自己伸長、自己拡大の欲望に身を任せている時、内部神性の「本当の自己」が異議を唱えるのが病気であり、苦しみであり、死の恐怖である。病んでいるのは本当の自分ではない。苦しんでいるのは本当の自分ではない。死に怯えているのは本当の自分ではない。病や苦しみや恐怖は、「肉体即ち我なり」と見る迷妄を崩さんとする「本当の自己」の胎頭である。肉体人間の自覚が崩れつつある響きである。迷妄の崩壊を通して「本当の自己」が表れるのである。
迷妄が崩れるといっても、何か取り返しのつかない破壊が起こるのではない。迷妄は真性の不自覚である。迷妄は神性の隠蔽である。迷妄は無明であり、無智である。それが崩壊したとて、本当は何も壊れてはいない。本来そこにある真性が自覚がされ、神性が顕われ、神明が満ち、智恵が啓けるのである。肉体人間の損得勘定を棄てよ。肉体人間の欲望を棄てよ。肉体人間の執着を去れ。それが観世音菩薩の教えである。観世音菩薩こそ「本当の自己」である。観世音菩薩こそ、すべての人々の真性である。我が“宇宙服”なりし肉体は、「本当の自分」が最も自由に表現されるとき、最高の機能を発揮する。“宇宙服”は新品が必ずしも最高とはいえない。新品は魂に必ずしも密着せず、魂も新品を使い慣れない。「本当の自分」と密着し、使い慣れるにしたがって、“宇宙服”は最高の表現媒体となるのである。病は、その最高の表現を教えてくれる観世音菩薩である。
我、自己の本性なる観世音菩薩に感謝し奉る。
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コメント
おはようございます。私は今、非定型精神病を患い、治療を受けています。どうしてこんな心の病といわれる病気になってしまったのか、随分悩みました。仕事も失業してしまって、新しく仕事を探したいのですが、お医者様がまだ仕事はだめだと言われます。今はうちで家事手伝いをしながら、絵を描いたりガーデニングをしたり、月に一度華道とパン作り教室に通っています。父はすでに他界しましたが、働いてくれている母のために家を快適にすることが、今の私の使命かもしれませんね。
投稿: 岡本 淳子 | 2008.03.24 05時04分