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「生存競争」の迷いを去る祈り

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「この世は生存競争の勝者が勝ち残る」というのは、偏面的なものの見方であって、真理ではない。「この世は弱肉強食で、弱いものは強いものに駆逐される」という考えも、誤れる一面観である。神の創り給うた完全世界では、すべてのものが所を得て争うことなく、相食むことなく、苦しむことがない。争い、相食み、苦しむように見えているのは、我らが頭脳知を通して見る現象世界である。現象は、感覚を通して現れる人間の心の影である。自己の恐怖心を通して世界を見れば、恐怖すべき世界が現れる。自他の一体感を通して世界を見れば、与え合い、助け合いの世界が現れる。現象はすべてものの実相ではなく、自己の信念が付載された念の映像である。

「生存競争」や「弱肉強食」の眼鏡を掛けて自然界を見る者は、眼鏡通りに色のついた悲惨で、残酷な世界を見るであろう。「与え合い」や「協力」を念頭に置いて自然界を見る者は、共存共栄と共生の世界を見るであろう。しかし、いずれの世界も現象であって実相ではない。その背後に、感覚を超え、時空を超えた実相がある。人間界を見るのに「生存競争」や「弱肉強食」の眼鏡を通せば、奪い合いや権謀術数の世界が展開する。無償の愛と広い智恵をもってそれを見れば、愛し合い、与え合う人々の姿が現れる。しかしいずれの場合も、それは有限な現象面上の“映像”のようなものであって、実相ではない。現象は不完全であり、永続性がないから、「奪い合いの世界」も「与え合いの世界」も永続しないのである。こうして自然界も人間界も、我らの肉眼の前では明暗二相、共生と捕食、協力と競争、生と死が交錯して展開する。

 競争とは、相手を蹴落とすことではなく、自己の本性を伸ばすことである。自己内在の可能性を現象世界に表現することである。その結果、敗北者が出たように見えるのは、「ある観点」から見ればそう見えるというだけで、これも心の影にすぎない。時間・空間の場が変われば、敗者が勝者となり、勝者が敗者となることはいくらでもある。一時の勝敗にこだわることなかれ。勝敗を問題にせず、自己の本性たる「神の子・人間」がどれほど表現できたかを考えよ。自己内在の神性が、どれだけ満足したかを反省せよ。実相の無限のアイディアが現象面にどれほど現出したか、実相の無限の知恵がどれだけ生活に生かされたか、実相の無限の愛がどれほど多くの人々に到達したかを問題にせよ。それは「競争」ではなく、「競現」であり「競生」であり「競達」である。

 競争に敗れたものは生存できないと考えるなかれ。死は、実相においては存在しない。「死」のように見えるのは、生きとおしの命が進行方向を変える際、一時後もどりする姿にすぎない。ある時期にある方向へ行けなければ、別の時期を待てばよいし、別の方向へ伸びることも可能だ。ある環境で仕事がうまく行かなければ、別の環境や別の時期を選べばよい。現象が八方塞がりだと嘆くなかれ。実相には、無限アイディアと無限可能性が満ちている。それを受信せよ。生かせよ。表現せよ。そのためには神想観を実修し、神に心を合わせよ。

 我、神の無限アイディアと知恵と生命力に感謝し奉る。


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