妻は内臓か?
生長の家の講習会で金沢市に来たが、2日の『北陸中日新聞』夕刊に浜松医科大学長の寺尾俊彦氏が、興味あるエッセーを書いていた。名づけて「内臓の存在」。内容を一言でいうと、内臓は具合が悪くなった時にだけ存在を自覚するが、夫婦というのもそれと似ていて、互いに存在感を感じないほど一体化しているのが理想的だ、ということ。私としては、妻を内臓に喩えるのは少しグロテスクだと感じたが、「内臓に親しんでいる医者だから、こういう表現をするのかなぁ」と思った。私なぞは、妻が内臓と似ているなどと考えたことはなかった。 この「妻は内臓」という結論を言う前に、寺尾氏は面白い実例を紹介している。それは、奥さんがいないと何もできない種類の著名な財界人が、ある結婚式で自己紹介をするにさいして、「私は何々と申します」と言ってから、その奥さんの方を向いてしばらく沈黙し、やがて「お前、何という名前だった?」と聞いたというのだ。これはボケたのではなく、「それほどまでに奥さんと一体化していたから」だという。ちょっと承服しがたい分析だが、寺尾氏は、結婚二十数年の私よりは夫婦経験は長いだろうから、まだ私の到達しえない“境地”を語っておられるのかもしれない。 そこで私は、自分勝手にこの“境地”を考えてみることにした。まず、昔気質の日本人の夫婦関係にあっては、お互いを呼ぶのに名前を使わず、夫は「お前」とか「オイ」などと妻を呼び、妻は「あなた」だけで済ませてしまうことが多いのではないか。すると、使わない言葉は記憶の中に存在していても出て来にくくなるというのは、最近の脳科学の教えるところだから、財界の重鎮も結婚式で妻の名前が出て来にくくなる--こういう説明も可能だろう。 ところで私は、「お前」とか「オイ」などと言って妻を呼んだことはない。(そんなことをすれば、何が返ってくるか分からない!)それでも結婚当初は、どう呼んでいいのか迷ったことがあった。が、今では子供のいる前では「純子さん」と呼ぶ。これは、私の父が母のことをきちんと名前で呼んでいたことと関係があると思う。しかし、子供がいない時には時々「ちゃん」づけで呼んだり、たまには「子」を省いて「ちゃん」づけしたりする。名前は相手を客体化させるから、名前で呼ぶことで相手が自分とは別人格であることを思い出し、それを尊重するような気がする。だから、私はまだ、同一人格内に取り込まれている「内臓」のようには、妻と一体化していないのである。 (谷口 雅宣)
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)