2001年9月20日 (木)

キノコ採り

 休日だったので大泉村の山荘へ行った。秋はキノコの季節である。私は、庭の整備のためクワとシャベルで肉体労働をしたが、その間、妻はブヨから身を護るため帽子、セーター、ズボン、ゴム長靴で“完全武装”をし、籠を抱えて林の中に入っていった。約1時間半後にもどってきた彼女の籠の中には、いろいろな形の薄茶色のキノコが十数個入っていた。「期待していたのに、ちょっとしかなかった」と言うのである。

 今の季節に山にキノコがないわけではないから、「食べられそうなのがない」という意味である。もう1ヵ月も前に、山荘のすぐ近くの林の日当たりのいい場所に、明るい茶色のカサを広げたのがニョキニョキと出ているのを見つけた。現地の人に聞いてみると「これは白ジゴボーだ」という。正式の名前は「シロヌメリイグチ」といい、食用になる。「だから」と期待して探したのに……というわけである。

 キノコは植物ではなく、カビと同じ菌類である。私は最初、このことの意味をあまり理解していなかった。「カビと同じ」といっても、キノコとカビでは“大きさ”がひどく違うと思った。しかし、この理解は間違っていて、普通我々が「キノコ」と呼んでいる「軸の上にカサがついたもの」は、この菌類の本来の姿ではない。キノコは、カビと似た大きさの菌類(大部分は担子菌類)が、特別の条件が整った時に大型の「子実体」という菌の集合体を形成したものを指す。だから、キノコが全く生えていない土地にも、キノコを生じる菌類は多数生息しているわけである。  そう考えると、山に生える数多くの種類のキノコは、人の集団が一糸乱れぬ動作をした時に現われる“マスゲーム”の模様のように、大量の菌の細胞たちが一糸乱れぬ共同動作で生み出した“作品”だと言えるだろう。いったい何者がその指示を出し、菌たちはどうやって互いに連絡し合うのか、などと考えてしまう。秋の山では、菌類の“体育祭”が大々的に行われているのだ。

 ところで、妻の採ったキノコの中に、濃い茶色で軸がスラッと伸びた優美な形のものが混じっていた。いかにも食べられそうに見えたが、専門家に聞いてみると、これは「ニガイグチ」といって、苦くて食用にならないそうだ。

(谷口 雅宣)

| | トラックバック (0)

2001年9月 3日 (月)

人食いのわけ

 前回の本欄で、臓器移植やES細胞の利用を「共食いの思想」と表現したが、これは「共食い」が残酷で野蛮だという現代人の通念から考えて、このような行為を批判するつもりだった。ところが、昔、人類の一部にあった「食人」の習慣にも、文化的な意味があるとする研究をまとめた本が出たという。この本は、アメリカのヴァンダービルト大学(テネシー州)の人類学者、ベス・A・コンクリン博士(Beth A. Conklin)の書いた『悲しみを食して--アマゾンの一社会における慈愛ある食人習慣(Consuming Grief: Compassionate Cannibalism in an Amazonian Society)』という著作で、彼女が1985年から1987年にかけての1年半、アマゾンに住むワリ族とともに生活しながら得た知見と、1991年、1999年、2000年に同族を再訪した時の調査にもとづいて書かれたもの。

 コンクリン博士によると、現在のワリ族はすでに食人の習慣を捨てているが、老人の記憶などによると、同族がかつて食人したのは、戦争での「敵」と、愛する家族や親戚の「葬式」の際だったという。この本は後者に焦点を当てており、この場合に行われる食人は、死人への愛着と尊敬にもとづき、遺族の悲しみを和らげるために行われたそうだ。ワリ族は今、西洋の習慣である土葬を受け入れているが、当初はそれに抵抗をもったという。なぜなら、彼らにとって、それは愛する人の体を泥まみれにして、腐敗させることだったからだ。同博士によると、愛する家族の死を迎えたワリ族には、死者と関係あるものをすべて消すことによって悲しみから逃れようとしたという。死者の持ち物は、遺族に死者を思い出させ、死者の霊をよぶと考えられていた。だから、ワリ族は、死者の持ち物は家を含めてすべて焼き、死者の名前を語らず、死者がいた思い出の場所の外観を変えることまでしたという。

 ワリ族の世界観では、人間の体はその人の個性が宿る場所だったから、死体はその人を最も思い出させるものである。だから、死体を何か別のものに変化させることで、遺族の記憶の中の死者をも変化させる方法を考え出したという。この方法とは、「死者の魂が動物界へ行く」という信仰だった。彼らの信念によると、死者の魂はいったん地下にもぐって「ペッカリー」という猪に似た動物になるのだった。この動物は、ワリ族の主たる動物性蛋白源だった。ペッカリーになった死者は、かつての自分の家族を探し出して見つけると、自分の身を家族に捧げるのだという。これによって、死者の肉体は愛する家族の一部となるし、死者を思い出させるものもなくなるから、死別の悲しみを和らげることができるというのである。

 「人間と動物とが死によって結ばれる」という考え方は、ヒンズー教や仏教とも共通するところがある。また、「死者が遺族に身を捧げる」という信仰は、「死者は遺族に身を捧げるべきである」とする願いから生じたのかもしれない。いずれにせよ、家族間の一体感、人間と他の生物との一体感に裏打ちされた習慣だったようだ。現代人の「他から奪っても生きる」という思想とは、少し違うように思うのだが……。

(谷口 雅宣)

| | トラックバック (0)

2001年8月13日 (月)

野菜の無人販売所

 野菜の産地ならばどこでも珍しくないのだろうが、わが山荘のある山梨県大泉村、長坂町近辺の道路脇には、無人の野菜販売所が数多くある。そういう場所でしか野菜が買えないわけではなく、中央道の長坂インターの前には、都会とあまり変わらない大型スーパーがあり、すぐ隣の高根町には、ダンボール箱単位で安く野菜が手に入る商店もある。しかし、無人販売所のいい所は、何といっても、その日の朝収穫された新鮮な野菜が手に入るところだろう。トマトなどは、スーパーでは入手できない「完熟」が安く買えるのだ。
 
 無人販売所には、テントの下に木の台を置いて、その上に野菜を並べただけの簡単な造りのものもあれば、屋根も壁もある木造の小屋の軒先に専用の台を作り付け、そこに野菜を陳列しているものもある。前者の支払い方法は、蓋のない箱にそのまま代金を置いていくだけで、釣り銭が必要な場合は、前の人が置いていったコインを自分でもっていく。また、後者の専用の小屋のものは、代金を投入する金属製の筒が小屋の中から突き出しているものが多く、現金が店頭に露出しない構造になっている。いずれの場合でも、客の善意をほぼ全面的に信頼している販売方法で、見ていて気持がいい。

 ただ、そういう販売者の信頼を裏切る“客”ならぬ客もいるらしく、ある販売所には「代金を支払わないと、警察に届け出ます」という興ざめな張り紙がしてあった。我々はスーパーも商店も利用したが、無人販売所でもトマト、ズッキーニ、ナス、オクラ、モロッコ・インゲン、シシトウなどを有り難く買わせてもらった。本当は、それらを育ててくれた農家の人の顔も見たかったが、それは要求しすぎというものだろう。そういう販売所では立派なカボチャも並んでいたが、我々は、農家の人の遊び心を伝えるようなオモチャ・カボチャを買ってしまった。

(谷口 雅宣)

| | トラックバック (0)

2001年7月17日 (火)

カリフォルニア米の弁当

 今日付の夕刊各紙によると、アメリカ産米を使った駅弁が首都圏のJR26駅で今日から売り出された。JR東日本の子会社である「日本レストランエンタプライズ」が米カリフォルニア産の有機米「あきたこまち」を使った弁当を“冷凍弁当”として輸入し、販売するという。もう何年も前になるが、日本が冷夏で米の不作に悩み、国が緊急に外国産米を輸入したことがあるが、その際、私は「個人輸入は無税」という制度を利用して、カリフォルニア産米やタイ産の米を希望者に仲介したことがある。宗教家がなぜそんなことをするかと訝しく思った人もいたと思うが、「日本米以外は米にあらず」という“井の中の蛙”的な視点から、少なくとも生長の家の人たちは脱してほしいと考えたからだった。その頃と比べると、まさに隔世の感がする。

 先日、千葉県幕張市のアメリカ系量販店へ行った時、タイ産の香り米が国産米の半額以下で売られているのを見た。それも、一流の国産米卸商の輸入によるものである。香り米は、その名の通り独特の「香り」がする長粒種で、炊いてもパサパサだから和食には合わず、その代りカレーやピラフによく合う。インド産のバスマチ・ライスも長粒種の高級品で、今では国内の輸入食品店などで売られている。「ワイルド・ライス」については1月15日の本欄で触れたが、日本ではまだ高価だ。しかし、こちらはイネ科の植物ではあるが、マコモ属という稲とは違う種で、食感も味も大分違うから、国産米と競合するものではないだろう。

 というわけで、国内でもいろんな種類の米が味わえるようになったのは有り難い。しかし、だからと言って国産米を日本人が食べなくなるとは考えられない。ちなみにわが家では、いつもは契約栽培の無農薬米(3,300~3,800円/5キロ)を買っていて、香り米やワイルド・ライスは週1回食べればいいところだ。無農薬米なのは、毎日食べるものはやはり農薬の影響が心配だし、少々値段が高くても健康には替えられない。それに、無農薬栽培の支援もしたい。今回の輸入弁当の登場に、米作農家は反発していると新聞は書いているが、日本人は国産米の美味しさを充分知っているから、冷凍弁当が全国を席捲することなどないと思う。若者など一部の間には、この冷凍弁当が受け入れられることは考えられるが、その程度のことは許す度量がほしい。また、文化の多様化を考えるならば、十日に一回ぐらいは、外国の特徴のある米を使った食事をしてもいいと思うのだが……。

(谷口 雅宣)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年7月12日 (木)

椅子選び

 休日を利用して、ダイニング用の椅子を見に、妻と娘の3人で東京・御台場の家具店に行った。そこは「世界一」のフロアー面積を誇るショールームをもつだけあって、アメリカ、ヨーロッパ、和風、アンティーク等、実に多彩・多様なデザインと素材の家具が魅力的に配置されていた。見て回るうちに、一脚の椅子といえども、それぞれがスタイルと表情をもっていることに気がついて、うれしくなった。椅子は一見“死物”のように思えるが、その上に腰かける人をどのように受け止めるかという造り手の考えが、スタイルや素材、造作の堅牢さ、繊細さ、柔らかさなどに反映していて面白い。それに、各国の文化や国民性も表わしている。例えば、アメリカのソファはあくまでもゆったりと柔らかだが、ヨーロッパのソファ、特にドイツのものはクッションが固めで、そこに座る人が機能的に動きやすい。

 ダイニング・チェアの候補は、やがて2種類にしぼられた。私はデザインよりも機能性を重視する傾向があり、その点で、デザイン重視の妻と意見を異にする場合がある。しかし、椅子の機能はとりあえず「座る」だけであり、その座り心地が問題になるのも、ダイニング・チェアの場合は食事中の30分から1時間だけである。そう考えてみると、デザイン主体で椅子を選んでも問題が少ないように思えた。そして、デザイン上の優劣で比べてみると、2種類のどちらがいいかは3人の意見が見事に一致した。

 選んだ椅子は、背もたれの曲線が優美で繊細な感じだったが、すわってみると、体をしっかりと支えてくれるし、肘かけのカーブも自然だった。人をすわらせるだけでなく、花をいっぱい詰めた花器を置いてもよく似合うかもしれない。それでいて、もう一つの候補より値段が少しだけ安かった。

 選んだあとで考えた。たかが食事中に体を支えるための道具一つに、人間はこれだけこだわるのだ。自然界の素材そのものでは満足せず、それに極限まで手を加えて自分のイメージに合った道具を作る。また、それを歩き回って探す人間がいる。この活動が文化を形成してきたのだが、同時に、今は自然を危機に導きつつある。人間は(そして私は)自然の味方なのか、それとも敵なのか?

(谷口 雅宣)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年6月22日 (金)

日本に狂牛病の危険?

 昨日付の『ヘラルド朝日』紙(International Herald Tribune--The Asahi Shimbun)に、ちょっと奇妙な記事が載った。ニューヨーク・タイムズ通信の記事を掲載したもので、狂牛病に関するEUの報告書の内容について、日本に狂牛病の発生の危険があると書かないようにと、日本政府が注文をつけたというのだ。狂牛病は、人間のクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)との関連も指摘されているから、その危険が本当にあるならば、きちんと「危険あり」と書いてほしいと思うのだが、農水省側は「日本国民に不必要な不安を抱かせないため」に、報告書に日本のことを書くなということらしい。

 この報告書は、EUが今後の狂牛病の発生を防ぐ目的で、加盟15カ国以外の国における狂牛病発生の可能性を理論的に考察し、可能性の高い国からの家畜や肉製品の輸入に注意を喚起することを意図したものらしい。そして、狂牛病発生の可能性を5段階に評定し、イギリスやオランダなど、すでに狂牛病が発生している国の危険度を「5」と「4」にランクづけたという。EU以外の国では、オーストラリアには狂牛病発生の危険はまったくなく、アメリカで発生する危険もほとんどないと報告書は書くはずだった。そして日本の場合は、最近まで英国やオランダなど、EU内の様々な国から生牛や牛肉、骨肉粉などの飼料を輸入していたから、狂牛病発生の危険度はフランスと同じ「3」に評定した。これを知った農水省が動いたらしい。

 私は2月19日の本欄で、タイでの狂牛病の発生について書き、さらにブラジルでの発生の可能性にも触れた。ところがブラジルは今、狂牛病ではなく、その後にヨーロッパで広がった口蹄疫が“飛び火”したことで揺れている。ブラジルで商業用に飼われている牛は、1億6千万頭ともいわれ、世界一だ。ここから輸出される牛肉の量は、アメリカとオーストラリアに続き世界第三位で、昨年は8億600万ドルを牛肉の輸出で稼いだ。それが今年は、口蹄疫の発生で危うくなってきているのだ。ブラジルだけでなく、アルゼンチン、パラグワイ、ウルグワイでも口蹄疫は発生している。ヨーロッパでは、口蹄疫に対する処置として大量の“殺処理”を行ったが、南米諸国もやはり同じような家畜の大量殺戮で事態を切り抜けることが予想されるため、心が痛む。

 日本で狂牛病が発生すれば、牛肉の値段はたちまち総崩れするだろう。農水省はそれを恐れているのだろうが、経済のグローバル化が進展している今日では、我々はこういう危険と常に隣り合わせに生きているのである。牛肉好きの読者にも、ぜひ考えてもらいたい問題である。

(谷口 雅宣)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年6月20日 (水)

難民の日

 今日は、国連が昨年末に定めたばかりの、初めての「難民の日」(World Refugee Day)だという。今日の『朝日新聞』が大きくこれを取り上げているが、もともとは1974年に6月20日を「アフリカ難民の日」と定めたものの、範囲を世界に拡大したかたちだ。国連「難民の日」は、難民保護を世界的に訴えるために制定され、1951年に採択された難民条約(難民の地位に関する条約)にもとづいている。この条約には日本も1981年から参加しているので、今年は条約採択50年、日本加盟20年の記念すべき年にあたるわけだ。現在の条約加盟国は140カ国になるという。

 世界の難民は現在2100万人を上回るが、1991年には1700万人、1996年には2600万人、2000年には2200万人だったという。これだけ多くの難民を、世界の国は少しずつ受け入れているのだが、その数字の99年の各国比較も『朝日新聞』に載っていた。それによると、受入数が最も多かったのはアメリカの1万3200人で、これはアメリカへの定住申請者3万1700人に対して41.6%だ。2番目に多かったのはカナダの1万3000人(申請3万100人、43%)、3番目はドイツの1万300人(申請9万5100人、10.8%)、4番目はイギリスの7100人(申請7万1100人、10%)だった。日本の同じ数字も載っていたが、受入数は実に「13人」という少数で、申請者260人に対して受入割合も「5%」と低率だった。

 日本が外国に対して閉鎖的であることは昔から言われてきたが、労働移民に対してガードが固いことと難民に門戸を閉ざしていることとは、多少意味が違うと思う。上に挙げた99年の数字は当時、旧ユーゴスラビア地域での紛争が激しかったため、隣のEU加盟国への難民流出と受け入れが多いことが伺われ、必ずしも一般的な傾向ではないかもしれない。しかし、日本が難民受け入れを渋ってきたことは事実だろう。法務省入国管理局で「難民」として認定されて受け入れられた人の数は、2000年までの11年間でわずか「265人」である。ヨーロッパから遠いニュージーランドでさえ、1999年1年間で360人の難民を受け入れていることを考えると、日本が世界に貢献できる分野はまだまだ広いことが分かる。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の活動を日本国内で支援する「日本国連HCR協会」では、歌手やスポーツ選手などから提供された物品をヤフーのオークションサイトで競売にかけ、その売り上げをUNHCRに寄付しようという試みを始めているらしい。また、UNHCRのルドルフス・ルベルス国連難民高等弁務官は「難民の日」へ寄せたメッセージをUNHCRの日本語ホームページでも発表している。

(谷口 雅宣)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年6月17日 (日)

5つのパンと2匹の魚

 長崎県西彼町の生長の家総本山で行われた「谷口雅春大聖師16年祭」で生長の家総裁、谷口清超先生は、イエス・キリストが「5つのパンと2匹の魚を5000人に分け与えてなお、パンくずや魚の残りが12の籠にいっぱいになった」という有名な奇蹟の話を解説されて、このような奇蹟が生じるために重要なことは、聖書でイエスが「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」(『ヨハネによる福音書』第6章12節)と言われたように、神から与えられたものを感謝して受け、むだにしないことである、と述べられた。その際、谷口雅春先生の著書『新版 生活の知恵365章』から「神からの賜を尊重しないで、唯単にそれを物質の塊だと、軽くあしらっているところに、人間がまずしくなる原因があるのである」(p.183)という箇所も引用された。

 昨日の本欄でも取り扱ったGM作物の開発の大きな理由の一つに、増え続ける人口問題を挙げる人は多い。60億人を越えた地球上の人口は、近い将来、きっと現在の自然界の食糧供給能力を上回り、地球上には今以上に飢餓が蔓延し、食糧獲得をめぐって戦争が起る可能性もある。だから、多少のリスクは覚悟して、遺伝子組み換え作物の開発を急がねばならないというのである。私は、こういう“善意”を否定するつもりは毛頭ない。また、こういう動機で遺伝子組み換え作物が開発されること自体に反対はしない。しかし、このような旗印を掲げて技術開発を進めている国の多くは先進国であり、先進国は今まさに“飽食”に悩んでいる。つまり、ありあまる食糧のため生活習慣病が増え、大都会には残飯が溢れ、ホームレスの人々が群れている。飽食の我々が現時点で、飢餓に苦しんでいる途上国の人々に手を差し伸べることができていないのに、どうして将来になると、遺伝子組み換え作物が飢餓を救えると言うのだろうか?

「技術の先行投資として遺伝子組み換え作物を開発しておく」という考え方は理解できる。しかし、それだけでは不十分だ。その技術を使う「人間の心」の側面にも先行投資が必要である。また、昨日の本欄でも書いたが、「生物多様性」を維持し、発展させていくための方策をもっと進めていくべきだろう。

 長崎から東京への帰りに読んだ航空会社の機内誌には、イギリスの「種子銀行」の話が載っていた。今後50年以内に、地球上の植物の四分の一が絶滅する可能性があるという。そうなれば動物も多種が死滅し、薬効のある植物も入手できなくなる。そうなっては取り返しがつかないから、今のうちに全世界の植物の種子を零下20℃の貯蔵庫に凍結保存しておくのだという。遺伝子組み換え作物の研究者は、この問題をどう考えているのだろうか。

(谷口 雅宣)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年6月16日 (土)

日本のGM作物

 6月12日の本欄で「遺伝子組み換え作物(GM作物)はすでに世界中にひろがっていて、止めることができない」かもしれないと書いたが、そのすぐ後の14日の紙面で、『朝日新聞』が日本で開発中の遺伝子組み換え作物について詳しく報じていた。それによると、全都道府県の7割を越える34道府県でGM作物の研究が進められていて、花が21府県、野菜が16道府県、イネが8県、果物は5県で開発中という。商品化の一歩手前まで来ているのは、愛知県のイネの研究で、これは除草剤への耐性をもたせるように遺伝子組み換えがしてあり、今年5月に実験室や温室ではなく、一般の水田での隔離栽培が農水省から認められた。ということは、他のイネとの自然交配や、種がこぼれる可能性が生まれるから、“自然界に放たれる”と言ってもいいだろう。ところがこの記事によると「愛知県はイネを一般の水田で栽培する許可を国から受けたが、栽培しない方針」だという。

 この理由は、一般消費者のGM作物に対する不信感が根強いからだろう。特に、昨年秋に発覚した害虫抵抗性トウモロコシ「スターリンク」の混入事件で、GM作物一般に対する国民の嫌悪感が広がったことが大きいだろう。このトウモロコシは、開発元のアメリカでも家畜の飼料としての栽培のみが許されており、人間の食用としては、アレルギー源になる恐れが完全に払拭されていないとして不許可になっているものだ。だから、「害虫抵抗性」のGM作物に問題がないわけではない。しかし、私がもっと気にしているのは、愛知県で研究中のイネのような「除草剤耐性」のGM作物である。この“代表選手”と言えるのが、モンサント社が開発した「ラウンドアップ・レディー大豆」である。このGM大豆は、遺伝子組み換えによって同社の除草剤「ラウンドアップ」に対する抵抗力をつけたもので、この大豆を植えれば、ラウンドアップを大量散布しても大豆自身は無事であるから、雑草だけを効率的に排除できる、というのがセールスポイントである。

 しかし、この考え方はいかにも自己中心的だ。特にモンサント社にとっては、このGM大豆が売れれば売れるほど、同社の除草剤も売れる仕組みになっている。また、この特定の大豆さえ育てば、他の植物は除草剤でどうなってもいいという考え方もいただけない。この大豆の作付け面積が増えれば増えるほど、他の植物の生存が脅かされ、多くの植物種が絶滅するだろう。植物の数が減れば当然、動物種の数も減り、自然界全体の生物多様性は減退するに違いない。私は、生物多様性条約に署名している国において、この種の遺伝子組み換え作物の栽培が認可されるのが不思議でならない。認可するだけでなく、日本では今年度、3億3900万円がバイテク予算として組まれている。国は、GM作物の開発を支援するのであれば、遺伝子組み換え技術一般を無条件で支援するのではなく、「生態系や人体にマイナスの影響を与えない」という条件を満たすもののみを対象にしてほしいものである。

(谷口 雅宣)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年6月12日 (火)

GM作物は止められない?

 遺伝子組み換え作物(GM作物)はすでに世界中に広がっているので、止めることができないかもしれない--こんな記事が、昨日付の『ヘラルド朝日』紙(International Herald Tribune-The Asahi Shimbun)に掲載された。日本では、人間にアレルギーを引き起こす可能性があるとして、遺伝子組み換えトウモロコシ「スターリンク」混入のトウモロコシを回収する騒ぎがあったが、これはどうやら“氷山の一角”のようだ。世界の穀倉地帯では、GM作物の作付面積が拡大しているばかりでなく、その作物の花粉が飛んで在来種との自然交配が行われており、またGM作物の種が分別されずに在来種と混じったり、さらにGM作物の種がブラック・マーケットで大量に取り引きされているという。

 主な“震源地”はもちろんアメリカで、この国では食品医薬品局(FDA)がGM作物は「まったく安全」と宣言しているだけでなく、大方の国民はGM作物一般をあまり問題にしていない。そしてこの国から大量のGM作物が輸出されており、それを開発した製薬会社や、育てる農民、作物輸出に関わる貿易会社等が経済力と政治力をもっている。問題の「スターリンク」も、動物の飼料用にはアメリカでは自由に栽培されているから、花粉による在来種との自然交配や、在来種の種との混交はこれからも続くだろう。世界で育てられている輸出用作物の中では、大豆とトウモロコシの約9割はアメリカ、ブラジル、アルゼンチンの3国で生産されており、このうちアメリカとアルゼンチンのものの大部分は遺伝子組み換え種だという。

 日本は、大豆とトウモロコシの国内需要のほとんどを輸入に頼っている。1997年の数字では、日本の国内需要のうち大豆は97.2%、トウモロコシは98.2%が輸入だから、今後もGM種を輸入しないというわけにはいかないだろう。しかし、それにしては、我々の周りに「遺伝子組み換え」の表示があまり目につかないのは、どうしてだろう。今のところ、GM種は動物の飼料用が主体なのかもしれないが、ブラジルがGM種の栽培を自由化すれば、GM種でないものの輸入は難しくなる。そのとき日本の消費者は、GM種を受け入れるか、それとも高価な国産品に切り替えるかの選択を迫られるだろう。私は、後者の選択の可能性は小さいと思う。なぜなら、その頃の日本の農家が、大豆やトモロコシを大量に生産できるような状態にあるとは思えないからだ。それとも読者の皆さん今、農業を始めますか?

(谷口 雅宣)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧