2002年5月22日 (水)

グールド博士を悼む

 ハーバード大学の生物学者、スティーブン・J・グールド博士が、生まれ育った街、ニューヨークの自宅で肺ガンのため亡くなった。60歳の若さだった。進化生物学の第一人者と言われ、アメリカでは故カール・セーガン博士と共に、一般人向けに分かりやすく科学を解説して人気を博した人だった。私の尊敬する科学者の一人でもあり、生物学のことでは私は多くのことを博士から学んだ。拙著『神を演じる前に』(生長の家刊)でも同博士の言葉を2ヵ所で引用している。もっといろいろ学ばなければならないと思い、数年前、日本語で690ページもある大部の著作『人間の測りまちがい』(河出書房新社刊)を買ったが、書架に入れたままになっていた。この本は、全米図書評論家賞を受賞した名著だ。早く読まなければと思いながら、ついに博士の死を迎えてしまった。誠に残念なことだ。

 昨年9月のアメリカでのテロ事件後、私が9月28日に発表した「光の進軍を讃美する祈り」は、グールド博士が27日付の International Herald Tribune紙に書いた"Decency Trumps Depravity at Ground Zero, Too"(事件現場でも、品格は腐敗に勝利する)という論説に啓発されたものだ。あの惨事の中でも、人間の心の美しさを謳い上げた文章に感動して、こう書いたのだ:

 スティーブン・グールド博士が教えてくれた実話がある−−ある人は、ニューヨークの現場近くに中継所を設け、救助・復旧活動に必要と思われる細々とした品物−−防塵マスクから靴の中敷きまで−−を揃えて、無償で配布した。話を聞いて、沢山の人々がこれに加わり、電池やヘルメットも集まった。またある晩は、レストランのコックが「うちの店で自慢のリンゴのケーキが1ダースある。まだ暖かい」と言って紙袋を差し入れた。その中の1個をもらった消防士は、疲れきった顔に生気を取りもどしてこう言った。「ありがとう。これは、この4日間で私が見たものの中で最も愛すべきものだ。それに、まだ暖かいじゃないか!」

 グールド博士は、この時すでにガンに冒されていた。苦しい中、街頭に出て救援活動に身を投じたのかもしれない。事件の打撃が博士の死期を早めたとしたら、実に残念だ。同博士は、自分の死期を知っていたのかもしれない。というのは、博士にとってガンとの闘いは初めてではなかったからだ。博士は40歳の時、腹部中皮種(abdominal mesothelioma)の診断を受け、その病気が「不治のガンの一種で、死亡率の中間値は診断後8ヶ月」であることを、自分で調べて知った。当時は、ガンの告知はまだ一般的でなかったからだ。しかし、博士にそれを指摘された主治医は謝り、博士の合意のもとに実験的な治療法に挑戦した。これが奏効して、博士自身が「今やこの病気を完全に除去した」と思うような状態に達していた。医学の世界では、ガンは治療終了から5年たっても再発しなければ「治癒」と見なされるから、博士の悪性中皮種は「治った」と言ってよい。

 このことは、グールド博士が1996年に出した Full House: The Spread of Excellence From Plato to Darwin という本に書いてある。この本は、ポーカーの「フルハウス」という手に喩えて、優秀さ(excellence)とは何かを論じている。それによると、「フルハウス」は、配られたカードの偶然の組み合わせから始まっているが、やがてプレイヤーの選択によって、持ち札のすべての優秀さが表現されるようになったものである。つまり、無駄なカードは1枚もない。これが、本当の意味での進歩の尺度であり、優秀さの定義であるというのである。別の言い方をすれば、進歩とは、単純なものが複雑化したり、ある段階から別の段階へ上がったり下がったりすることではなく、単一的な状態から多様な状態になること−−というのである。プラトン(Plato)から始まってダーウィン(Darwin)が現われたのが進歩なのではなく、両者が共にある状態(spread)が素晴らしいというわけである。

 この説明が難解に聞こえる人には、グールド博士の別の喩えを示そう。それは、アメリカの野球界では、1941年にテッド・ウィリアムズが出した「0.406」というシーズン中の最高打率以来、四割打者はもう出なくなったという事実がある。それ以前は、1901年のアメリカン・リーグ発足から30年間に、7人の選手が四割を超える打率を記録している。一体これは野球が(そして野球選手が)進歩しているのか、それとも退歩しているのだろうか−−とグールド博士は問う。読者は、どう考えるだろうか? 博士の答えは明確である。これは疑いもなく、野球と野球選手の「進歩」であって「退歩」ではない。なぜなら、この期間に、すべての野球選手が全体として実力を向上させ、野球自体もレベルを高めたために、“一人勝ち”をするような選手が出なくなったことを示しているからだ。つまり、「打つ」だけでなく、「投げる」ことや「守る」ことにおいても優秀な選手が増えてきた。これが進歩の指標である、というわけである。

 私は、グールド博士の訃報を聞いてから、仕事場の書棚を物色していてこの Full House の本を見つた。以前買っておいて、一度途中まで読んだものだが、どのようにして入手したかは記憶に定かでない。手にとってパラパラとページを繰っていると、本扉の1枚前のページの中央に、ボールペンの手書き文字があることに気がついた。改めて本のカバーを見ると、「Autographed Edition」(著者サイン入り)というラベルが貼ってある。多様性を愛した科学者の“肉筆”だ。大切にしたいと思う。   (谷口 雅宣)

【参考文献】

○ Stephen Jay Gould, Full House: The Spread of Excellence from Plato to Darwin, (New York: Harmony Books, 1996)

○ スティーブン・J・グールド著/渡辺政隆訳『フルハウス 生命の全容−−四割打者の絶滅と進化の逆説』(早川書房、1998年)

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2001年11月18日 (日)

母 親 の 力

 4月20日の本欄で、保育園など親のいない環境での生活が長い子供たちは、幼稚園に入る年齢までに、親に育てられた子供たちよりも、攻撃的で、反抗的になりやすいとの研究結果を紹介した。これは、1,300人の子供を対象にした心理学的調査によって分かったことだが、このほど脳神経科学の分野の研究からも、母親が面倒をあまり見ない子供は、脳の発達が正常に行われない可能性が浮かび上がってきた。マウスを使った実験で確認されたことだが、人間の脳の発達もこれに準じるだろうと専門家は考えている。イギリスの科学雑誌『New Scientist』のニュース・サービスが11月15日付で伝えたもの。

 それによると、ロックフェラー大学のブルース・マッキウエン博士(Bruce McKewen)の研究チームは、普通マウスが母親のケアを受ける生後7日の間、毎日3時間ずつ親から離す実験をした。その後、子供のマウスの3万の遺伝子を調べ、脳の2つの領域での遺伝子発現の変化を探した。すると、脳内の神経細胞を新しくつなげる活動に関係する遺伝子の発現の仕方が、通常のマウスに比べ変化していることが分かった。カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校のウエイン・ブレイク博士(Wayne Brake)は、「これは、実験に使ったマウスの脳が通常と違った発達をしていること、恐らく神経細胞が違うつながり方をしていることを示している」と述べている。また、遺伝子の発現の変化は、ドーパミン系の発達に関連した遺伝子でも観察された。ドーパミン系の過剰反応は精神分裂病と関係があり、過少反応は鬱病と関係していると言われる。

 難しい専門用語が並んでいるので分かりにくいと思うが、要するに、生まれた時から母親の愛情を十分に受けて育ったなかったネズミは、普通のネズミと頭の構造が違ってくるということであり、恐らく人間の子供の脳についても、これと同じメカニズムが働く可能性があり、その場合、子供は精神分裂病や鬱病を発症する可能性も考えられるということだ。母親の子に対する影響力はそれだけ大きいのだから、特に子が幼い間は、テレビを子守り代わりに使ったり、子を保育園に放置しておくことは避けた方がいいのだと思う。

 今日は高崎市で生長の家の講習会が開催されたが、終了後に市内の白衣観音(通称、高崎観音)に寄った。「観音さま」と言うと、普通「慈母観音」とか「子育て観音」のような「母」ないし「女性」の象徴のように思われるが、この観音像の顔を正面から見ると、全体の姿形とは別に、なぜか男性的な印象を受けた。口元はしっかり引き締まり、目元には凛とした威厳がある。こういう強い意志と信念をもって、しっかりと子育てをすることが、現代の若いお母さん方には求めれらているのではないかと思った。

(谷口 雅宣)

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