カンダハール
休日の木曜日だったので、妻と2人で映画『カンダハール』を見た。最近の映画は“水もの”で、前評判とか観客動員数などで“いい映画”かと思って見にいくと、ガッカリすることがよくある。最近では、日本映画史の記録を破ったなどと言われ、いまだにロングランを続けている『千と千尋の神隠し』を見て、そういう実感をもった。これは、個々の映画の「質」の問題というよりは、私の感覚や問題意識と、今の日本の一般的なものの考え方や問題意識との間のギャップを示しているのだろう、と私は考えている。そもそも本や映画のような個人の感性に関わるものは、個人差があるのが当然である。
アフガニスタンの問題は本欄でも過去に何回か取り上げ、昨年末に書いた「今年を振り返って (2)」ではイスラム教内部の各派との関連でもこれに触れた。しかし、はっきり言って、彼の国では何がどうなっているのか私にはよく分かっていない。普段接しているこの国に関する情報が、日本を含めた“西側”の情報ばかりであることも気になっていた。だから、隣国イランの人気映画監督が作り、アフガニスタンの女性ジャーナリストの実際体験にもとづいて、その女性本人が主演するこの映画は、この国の実情を知るうえで一見の価値があるに違いないと思った。
この映画は、タリバン政権下のアフガン女性の生活の一断面をフィクションの形で描いたドキュメンタリーである。ストーリは単純で、祖国を捨ててカナダ人となったアフガン女性が、カンダハールに住む自分の妹の自殺予告の手紙を読んで助けに行く、というものだ。私が見慣れたハリウッド映画だったら、こんなストーリーでも随所に観客サービスのための「ハラハラ、ドキドキ」が出てくるだろうが、この映画ではその種のことは何も起こらないし、大体、ストーリーの結末が欠けている。つまり、主人公が妹に会えないうちに、映画はいきなり終る。その代わり、脳裏に焼きついて残るものは、色とりどりのブルカを来た大勢のアフガン女性と、空からパラシュートで降ろされる義足と、それを松葉杖をつきながら必死に追いかける無数の男たちである。男は負傷し、女は自由を奪われている--そういう最貧の国では、人は何のために生きるのかということを考えさせる作品だった。
映画に登場する人々は皆、極限状態に生きている。が、そういう状況下でも、人間はやはり人間を頼らなければ生きられないことを、この作品は教えてくれる。主人公の女性は妹を助けるために、イランからカンダハール入りを敢行するが、そこは戦場であるから、金を積んでも案内人になる人は少ない。そこへ、日本だったら小学校高学年ぐらいの少年が登場して、徒歩での案内を申し出る。が、砂漠の中で少年と2人きりになった主人公の心は不安で揺れる。途中で少年が、白骨化した女性の死体から指輪を取るのを見て、彼女の不安はさらに深まる。井戸に案内され水を飲んでから、主人公は体調を崩す。その地で医師を見つけだすと、その医師は英語で彼女に忠告する--「その子は危険だから、早く別れなさい」と。医師はその子が目を光らせる前で、現地の言葉で診察する振りをしながら、主人公には英語で危険を知らせる。この地では、大人も子どもも生きるために手段を選ばず、必死の駆引きをするのだ。
男たちは、義足をめぐって駆引きをする。アフガニスタンには「一千万個」とも言われる地雷が埋められている。ソ連が埋めたあと、内戦でも埋められた。中には、子どもをねらって人形の形をした爆発物もあるらしい。これで40万人が死亡し、同じ数の負傷者がいるという。だから、義足は1年待っても手に入らないことがある。赤十字の職員が義足を提供するのだが、その際、男たちは様々な理由を言って義足を手に入れようとする。手を飛ばされた男が「すぐに足も飛ばされるから」と言う。それで無理だと知ると「友人がやられた」とか「母親がやられたから」と言う。結局、この男は古い義足を手に入れるが、後になって主人公にそれを売りつけようとする。また、「足が痛くて夜も眠れない」という理由で義足をほしがっていた男たちが、パラシュートで降ろされる義足を見つけると、松葉杖をつきつき驚くべき速さでそれを追いかける……。人を頼らねば生きられないことを知りながら、人を欺くことが当たり前の世界--それが内戦下の無政府状態のアフガニスタンである。
だから、どんな圧政でも、タリバーンによる秩序回復をアフガンの人々は支持したのだろう。女性たちも、体全体を覆うブルカの着用を義務づけられながら、その内側で化粧し、マニキュアを塗り、腕輪をはめる。ブルカの下に、禁制品である楽器や本を隠す。また、ブルカそれ自体の色を競い、刺繍をほどこし、個性を表現する。こういう“反骨”の映像は、一部はこの映画の作者の演出かもしれないが、見ているものにはアフガン女性への親近感と、この国の将来への希望を感じさせてくれる。主人公を演じたニルファー・パズィラさんに言わせれば、「ブルカとはすなわち抑圧の象徴であると考えていたのが、だんだんと、危険な所に住む人間にとっては、抑圧から自分を守ってくれるものへと変わってゆくのだということ、精神的な拠り所にもなるということがわかった」という。
ブルカという“隠れ蓑”が必要でなくなった今、アフガニスタンの人々が、男も女も、早く相互の信頼関係を取りもどし、国家再建と個性尊重への道を団結して進んでほしい、と私は思う。 (谷口 雅宣)
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