2002年1月17日 (木)

カンダハール

 休日の木曜日だったので、妻と2人で映画『カンダハール』を見た。最近の映画は“水もの”で、前評判とか観客動員数などで“いい映画”かと思って見にいくと、ガッカリすることがよくある。最近では、日本映画史の記録を破ったなどと言われ、いまだにロングランを続けている『千と千尋の神隠し』を見て、そういう実感をもった。これは、個々の映画の「質」の問題というよりは、私の感覚や問題意識と、今の日本の一般的なものの考え方や問題意識との間のギャップを示しているのだろう、と私は考えている。そもそも本や映画のような個人の感性に関わるものは、個人差があるのが当然である。

 アフガニスタンの問題は本欄でも過去に何回か取り上げ、昨年末に書いた「今年を振り返って (2)」ではイスラム教内部の各派との関連でもこれに触れた。しかし、はっきり言って、彼の国では何がどうなっているのか私にはよく分かっていない。普段接しているこの国に関する情報が、日本を含めた“西側”の情報ばかりであることも気になっていた。だから、隣国イランの人気映画監督が作り、アフガニスタンの女性ジャーナリストの実際体験にもとづいて、その女性本人が主演するこの映画は、この国の実情を知るうえで一見の価値があるに違いないと思った。

 この映画は、タリバン政権下のアフガン女性の生活の一断面をフィクションの形で描いたドキュメンタリーである。ストーリは単純で、祖国を捨ててカナダ人となったアフガン女性が、カンダハールに住む自分の妹の自殺予告の手紙を読んで助けに行く、というものだ。私が見慣れたハリウッド映画だったら、こんなストーリーでも随所に観客サービスのための「ハラハラ、ドキドキ」が出てくるだろうが、この映画ではその種のことは何も起こらないし、大体、ストーリーの結末が欠けている。つまり、主人公が妹に会えないうちに、映画はいきなり終る。その代わり、脳裏に焼きついて残るものは、色とりどりのブルカを来た大勢のアフガン女性と、空からパラシュートで降ろされる義足と、それを松葉杖をつきながら必死に追いかける無数の男たちである。男は負傷し、女は自由を奪われている--そういう最貧の国では、人は何のために生きるのかということを考えさせる作品だった。

 映画に登場する人々は皆、極限状態に生きている。が、そういう状況下でも、人間はやはり人間を頼らなければ生きられないことを、この作品は教えてくれる。主人公の女性は妹を助けるために、イランからカンダハール入りを敢行するが、そこは戦場であるから、金を積んでも案内人になる人は少ない。そこへ、日本だったら小学校高学年ぐらいの少年が登場して、徒歩での案内を申し出る。が、砂漠の中で少年と2人きりになった主人公の心は不安で揺れる。途中で少年が、白骨化した女性の死体から指輪を取るのを見て、彼女の不安はさらに深まる。井戸に案内され水を飲んでから、主人公は体調を崩す。その地で医師を見つけだすと、その医師は英語で彼女に忠告する--「その子は危険だから、早く別れなさい」と。医師はその子が目を光らせる前で、現地の言葉で診察する振りをしながら、主人公には英語で危険を知らせる。この地では、大人も子どもも生きるために手段を選ばず、必死の駆引きをするのだ。

 男たちは、義足をめぐって駆引きをする。アフガニスタンには「一千万個」とも言われる地雷が埋められている。ソ連が埋めたあと、内戦でも埋められた。中には、子どもをねらって人形の形をした爆発物もあるらしい。これで40万人が死亡し、同じ数の負傷者がいるという。だから、義足は1年待っても手に入らないことがある。赤十字の職員が義足を提供するのだが、その際、男たちは様々な理由を言って義足を手に入れようとする。手を飛ばされた男が「すぐに足も飛ばされるから」と言う。それで無理だと知ると「友人がやられた」とか「母親がやられたから」と言う。結局、この男は古い義足を手に入れるが、後になって主人公にそれを売りつけようとする。また、「足が痛くて夜も眠れない」という理由で義足をほしがっていた男たちが、パラシュートで降ろされる義足を見つけると、松葉杖をつきつき驚くべき速さでそれを追いかける……。人を頼らねば生きられないことを知りながら、人を欺くことが当たり前の世界--それが内戦下の無政府状態のアフガニスタンである。

 だから、どんな圧政でも、タリバーンによる秩序回復をアフガンの人々は支持したのだろう。女性たちも、体全体を覆うブルカの着用を義務づけられながら、その内側で化粧し、マニキュアを塗り、腕輪をはめる。ブルカの下に、禁制品である楽器や本を隠す。また、ブルカそれ自体の色を競い、刺繍をほどこし、個性を表現する。こういう“反骨”の映像は、一部はこの映画の作者の演出かもしれないが、見ているものにはアフガン女性への親近感と、この国の将来への希望を感じさせてくれる。主人公を演じたニルファー・パズィラさんに言わせれば、「ブルカとはすなわち抑圧の象徴であると考えていたのが、だんだんと、危険な所に住む人間にとっては、抑圧から自分を守ってくれるものへと変わってゆくのだということ、精神的な拠り所にもなるということがわかった」という。

 ブルカという“隠れ蓑”が必要でなくなった今、アフガニスタンの人々が、男も女も、早く相互の信頼関係を取りもどし、国家再建と個性尊重への道を団結して進んでほしい、と私は思う。   (谷口 雅宣)

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2001年10月28日 (日)

アフガン最前線

 生長の家講習会のため神戸市のホテルで朝を迎えた。朝食後に部屋にもどり、新聞を開きながらテレビから流れているニュースを聞くともなく聞いていた。イギリスのBBCのワールド・ニュースをやっていたが、アフガニスタン入りしたジョン・シンプソン記者が、タリバンと北部同盟の両軍が対峙する最前線の状況を報告している映像が出てきたので、思わず引きつけられた。今回のアフガンでの戦争は、湾岸戦争の時とは異なり、実際の前線からの具体的なナマの情報がほとんど伝えられない。伝えられるのは、米軍が何ヶ所爆撃したとか、何回出撃したとか、どの町が攻撃されたとかいう、人間の痛みや悲しみを取り除いた後の無味乾燥な数字や名前がほとんどだ。また、湾岸戦争時と同じような、米爆撃機からの誘導爆弾で破壊されるタリバン側の建物や戦車等のコンピューター映像も、繰り返して報道される。これも、破壊で死ぬ人の声も、苦しむ人の姿も見えず、まるでテレビゲームのようだ。

 そして、映像のない新聞の報道はもっと抽象的で、「今日の攻撃は、いつもより激しかった」とか「今日は米軍は○○○○を集中攻撃した」などという曖昧な表現の情報が多い。今日付の『日本経済新聞』にも「カブールでは26日から27日にかけて過去最大級の攻撃を展開。27日にはカブール北方のタリバン軍拠点などに30発以上の爆弾を相次いで投下し、住宅街の近くにも着弾した」などと、数字をつなぎ合わせた記事が載っている。我々は、そういう記事の「過去最大級」とか「相次いで投下し」とか「住宅街の近くにも着弾」などという言葉に驚いて、米軍の猛烈な爆撃でタリバンは大損害をうけているだけでなく、一般のアフガン市民にも大勢の犠牲者が出ているなどと想像しがちだ。

 ところが、シンプソン記者の伝える“最前線”なるものは、砲弾が飛び交ったり、肉弾戦が行われたり、絨毯爆撃によってタリバン側の前線部隊が大打撃を受けるなどの様子は、いっさいないのである。日没前のひと時、25℃の気温の中、風もなく、爆撃も散発的にしか行われない。それも高高度から進入してくる1~2機の米爆撃機の銀翼が、澄んだ青空の中に小さく見え、それに対する高射砲の応戦もない中で、地上でいくつか小爆発が起こり、小型のキノコ雲があそこに一つ、向こうに一つと散発的に浮かぶ。北部同盟の兵士たちは、その様子を余裕をもって雑談しながら眺めている。しかも、その北部同盟の司令官の解説では、目の前にあるタリバンの前線基地は攻撃されず、後方支援のトラックや戦車が狙い撃ち式に破壊されているというのだ。つまり、米軍はタリバンの主力を叩くことは避け、周辺部を散発的に攻撃しているのだ。考えてみれば、「過去最大級の攻撃」なのに落下した爆弾の数が「30発以上」(つまり39発以下)というのも奇妙である。15分間に1発というペースでも、10時間続ければ40発になるのだ。

 戦争は、戦闘や爆撃で死傷した兵士や市民にとっては確かに悲惨なものだが、政治目的のために手加減をしながら行われる戦争もあるようだ。ブッシュ大統領が最近「タリバンは手強い(タフだ)」と言ったことを思い出して不思議な気持がする。こっちが本気を出さないでいて「手強い」もないだろうと思う。この戦争では(そして、その他の戦争でも)、我々一般人には、何かが“反転”して伝えられているような気がする。

 宿泊先のホテルにあった液体石鹸の容器を、黒い色の紙の上に描いてみた。絵全体が“反転”したような不思議な効果が出た。

(谷口 雅宣)

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2001年10月21日 (日)

3つの一神教

 茨城県水戸市で行われた生長の家の講習会では、参加者から同時多発テロ事件に関する質問がいくつも投げかけられた。「宗教家としてどう考えるか」という一般的なものから、「日本人として、自分たちが恵まれている点に感謝して生きるだけでいいのか」とか「イスラム勢力との関係を真剣に考えなくていいのか」などの具体的なものまであった。時間的に制約があるため、すべての質問に行き届いた回答をすることはできないので、私は次の点だけを強調した。それは、今回の事件は宗教間の争いではなく、国家間、もしくは少数の過激派集団と国家の間の政治問題であるということである。かつて日本では、オウム真理教という特異な教義を信奉する過激派集団が日本国家を敵に回して武力闘争を試みたことがあるが、それを国際的に規模を拡大したような関係にあるのが今回の事件である。前者が、オウム真理教と日本神道の戦いではなく、あるいは仏教(オウム真理教は仏教を標榜した)と神道の争いでもなかったように、後者はイスラームとキリスト教ないしはユダヤ教との争いではないのである。

 また、私が講習会で強調したのは、ユダヤ教もキリスト教もイスラームも、同じ神(唯一絶対神)を信仰する“兄弟関係”の宗教であるということだ。だから、神と神が対立しているのではない。このことは大変重要なことだと思う。もし一方の最高の価値である「神」なるものが、他方のそれと対立しているのであれば、両者の平和共存は不可能だろう。しかし、事実はそうではなく、最高の価値なるものは共有しているにもかかわらず、その同じ神の言葉を、誰が最も完全に人間に伝えているかという「解釈の違い」で人間同士が見解を異にしたため、3つの宗教ができたのである。大雑把に言ってしまえば、旧約聖書が最善だとするのがユダヤ教であり、新約聖書が旧約を完成すると考えるのがキリスト教であり、コーランが旧約と新約を併せたすべての預言を完成すると信じるのがイスラームである。だから、この三者が、自己の解釈を「唯一絶対」としてそれに執着するのではなく、自然界の多様性に見られるように、唯一絶対の神の表現には多種多様な形がありうることを認め、さらにその多様性を尊重する態度を示せば、三者は共存できるばかりでなく、お互いに発展するはずである。

 理論上はそうなるのだが、なかなか理論どおりにならないのが現実でもある。講習会後に、水戸の偕楽園に隣接する千波湖に寄った。東京よりひと足早く、湖畔ではイチョウが黄色く色づいてきており、サクラも赤くなり始めていた。緑から黄色にいたる中間の色、緑から赤にいたる段階色、赤から茶色にいたる中間色などが連なり、重なり合って、実に複雑微妙な色のモザイクが現出し目に心地よい。自然界の色の多様さを我々は愛でることができるのだから、宗教や文化の多様性を認め、讃美することができないはずはないと思った。

(谷口 雅宣)

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2001年10月14日 (日)

戦いの暗雲を払拭する祈り

(この祈りの言葉は、自由に複製し配布して下さってかまいません)

 テレビ画面に戦いの映像が連日映っても、それは仮の相(すがた)である。憎しみに燃えた人々が街頭で拳を振り上げても、それは仮の相である。「何百人が死んだ」との報道があっても、それは仮の相である。現象界にこれらの事実がないというのではなく、神の創造された実在の世界では、これらの敵意も、憎しみも、怒りも、悲しみもないのである。それらが「在る」ように見えるのは、我々が心で敵を認め、心で憎み、怒り、悲しむからである。その心が「本当の心」だと信じるからである。その心を放てば、戦いは消えるのである。なぜなら、神は被造物が互いに憎み合う世界など創り給わないからである。ましてや「神の似姿」として創られた人間が、互いに殺し合わねば神の御心が成就しない世界など、創り給うはずはない。

「神」の御名によって神の子を傷つける行為は、迷いである。「神」の御名を唱えて復讐を誓う心は、迷いである。「神」が悪を相手にして戦わねばならないとの考えは、迷いである。「神」が神の子を審判(さば)かねば神の国が来らないと考えるのは、迷いである。これらすべては迷いであるが、神の子の人間が仮に造る世界において実演される。これらすべては神の御心でなくとも、人間がそうすべきだと妄想すれば、現象界ではアリアリとした実感をともなって戦いが展開する。それは劇場での演劇のように、“本物”ではなく虚構である。しかし、我々は“俳優”として自ら肉体をもって劇を演じるだけでなく、大道具、小道具を自らそろえ、照明、効果音などを巧みに組み合わせることによって、“本物”の実感をもってその劇に没入するのである。それは、我々が求め、我々が作った劇である。戦いの一幕はこうして始まったのであり、神が始めたものでは決してない。

 第一幕は「戦い」であっても、第二幕において「平和」や「信頼」を演じることは、我々にはできるのである。なぜなら、我々の心が「戦い」を演じたその同じ方法によって、「平和」も「信頼」も演じることができるばかりでなく、「平和」や「信頼」はもともと神の世界に実在する“本物”であるからである。神の世界に本来あるものは、人間が苦労惨澹して強引に地上に作り上げねばならないことはない。すでに在るものは、人間が素直に心で認めれば現れるのである。「平和」は神に属するものであるから、神の子であるすべての人々の心の中にすでに在るのである。「信頼」は神に属するものであるから、神の子であるすべての人々の心の中にすでに在るのである。「愛」は神に属するものであるから、神の子であるすべての人々の心の中にすでに在るのである。ただそれらが、一部の人々に向かってのみ開放され、別の一部の人々に対しては閉鎖されていることが問題である。

 我々は神の子であるから、神の無限の愛と平和と信頼の心を内にもつのである。神の御心は、宗教や人種や民族の違いによって神の子人間を差別しないのであるから、我々もまた宗教や人種や民族の違いによって兄弟を差別しないのである。神はその無限の愛と平和と信頼の心によって人類全体をすでに祝福し給うているのであるから、神の子の我々もまた、愛と平和と信頼の心を人類全体に拡大するのである。神が人類全体を常に祝福し給うことに深く感謝いたします。

(このあと「世界平和の祈り」を唱えるのもよい)

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2001年9月28日 (金)

光の進軍を讃美する祈り

(この祈りの言葉は、自由に複製し配布して下さってかまいません)

 連日、同時多発テロへの報復としての戦争準備の報道が繰り返されているが、報道がすなわち事実そのものではない。現代の報道は、事件や事実が稀であればあるほど、それを大きく扱い、それに関する様々な情報を繰り返し伝える。今回の事件は誠に未曾有であるから、それだけ集中的に取り上げられているのである。報道機関が悪いのではない。しかし、報道されていない一つの否定できない事実がある。それは今回の事件を「闇」と考えれば、その闇を消すための「光」の進軍がかつてない規模で、かつてない数の人々の参加によって全世界で起こっていることだ。この「光」こそ、人間・神の子の証明である。

 この光は、わが国からも発せられているが、事件の起こったアメリカで最も顕著である。大勢のハリウッド・スターや歌手や音楽家が無償出演して寄付を募るイベントが行われ、それが四大ネットワーク同時中継で全国に放映された。これは派手な光だったが、個人による寄付や、遺族や怪我人への救援活動など、地味で目立たない愛の行為は、毎日、アメリカ中で夥しい数の普通の人々によって行われている。この動きは、我々の体が、内部から傷を癒す働きにも似ている。体の一部が傷つけば、全体の免疫系が活性化して、黴菌と戦い、傷口を癒そうとする。個々の免疫細胞は、対価を求めずに自ら“現場”へ急行し、時には全体のために自己犠牲をいとわない。だが、今苦しんでいる「全体」とはアメリカ一国ではなく、地球全体である。地球全体の免疫系が活性化して、傷を癒さねばならない。

 スティーブン・グールド博士が教えてくれた実話がある--ある人は、ニューヨークの現場近くに中継所を設け、救助・復旧活動に必要と思われる細々とした品物--防塵マスクから靴の中敷きまで--を揃えて、無償で配布した。話を聞いて、沢山の人々がこれに加わり、電池やヘルメットも集まった。またある晩は、レストランのコックが紙袋を差し入れた。「うちの店で自慢のリンゴのケーキが1ダースある。まだ暖かい」そのうち1個をもらった消防士は、疲れきった顔に生気を取りもどして言った。「ありがとう。これは、この4日間で私が目にした最も愛すべきものだ。それに、まだ暖かいじゃないか!」

 人間の愛と団結は、神の「光」の表われである。これを、「闇」なる憎悪に変えてはならない。光を消さずにどんどん拡大し、国の隅々まで照らし、さらに狭い“国益”の範囲を超えて、国際社会にも溢れさそう。我ら内部の「光」によって、相手の内部の「光」を呼び出すのだ。光の進軍を、闇は止めることができない。神の無限の愛がわが内にあり、彼らの内にもあるからである。我ら全員に「人間・神の子」の自覚を与え給いし神に、心からなる感謝を捧げます。

(グールド博士の論説"Decency Trumps Depravity at Ground Zero, Too", International Herald Tribune, 27 September 2001 に啓発されて)

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2001年9月22日 (土)

神の祝福あれ!

 9月19日付の本欄に書いた「愛と赦しのための祈り」を読んだアメリカ在住の日本人の方から、抗議のメールをいただいた。「苦しんでいるアメリカに対して厳しく、愛がない」というのである。私は一瞬、わが耳(目)を疑った。そんなつもりがなかったからである。しかし、あの「祈り」の言葉をもう一度読み直してみると、あれだけを読んだ人には誤解されても無理はないと感じた。そういう意味では、アメリカの人々に対して申し訳ないと思う。しかし、弁明を3つ言わせてもらえば、①本欄は、1回ですべてのことを言うには短かすぎる、②私の個人的感情は、事件後にいち早く書いた「9月12日」の言葉で、一部ながらすでに書いた、③「祈り」の中で「我ら」とあるのは、日本人もこの祈りをするというつもりで書いた。つまり、「我ら」はアメリカだけを指すのではなく、日本を含めた先進国全体を意味したつもりだ。だから、私の気持もアメリカと共にあるのである。

 生長の家の国際本部は、今回の悲劇への義援金として30万ドルを、生長の家ニューヨークを通してニューヨーク市のしかるべき団体に寄付する決定をした。お金を出せばそれでいいというわけではないが、とにかく必要な時に必要なものを早く拠出することで、(私としては)生長の家がアメリカ人の苦しみや悲しみに鈍感ではないことを示したかったのである。私のニューヨークへの思いは、本欄2月6日付の「ニューヨークかぶれ」という文章にも書いたし、ここ2年ほど『理想世界』誌に連載している小説「叡知の学校」の翻訳をしようと思ったきっかけの一つは、舞台がニューヨークであったからだ。にもかかわらず、「愛する街を破壊されたから、敵も仕返しに破壊してやるのだ」というような感情だけで戦争を起こしてはならないのである。

 ニューヨーク市は、今深い悲しみの中にある。しかし、そういう単純な論理に与せず、ブッシュ大統領のあの議会演説の後でも「戦争反対」のデモをした人もいたと聞いて、私はアメリカ人に改めて尊敬の念を抱いた。多民族、多国籍の人々が集まる国では、恐らく戦争のもたらす悲劇を海外との接触においてよく知っているからだろう。報復よりは、建設が重要だと。同大統領も、ニューヨーク市に対して「rebuild」と言った。私も9月12日の本欄に掲げた絵の中に、「build more」と書いた。

 私のこの言葉の背後には、実は日本の古典『古事記』の中にあるイザナギの神とイザナミの神のやりとりがあった。イザナミは黄泉の国の神で、「人間を1万人殺してやる」と言ったが、イザナギは「ならば2万人生んでみせる」と言った。破壊に対して破壊をもって応えるのではなく、破壊以上の建設で対抗するという考え方だ。そして、多くのニューヨーカーは今、まさにそういう気持で再建の努力に邁進していると私は信じる。God bless New York! God bless America and everybody!

(谷口 雅宣)

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2001年9月19日 (水)

愛と赦しのための祈り

(この祈りの言葉は、自由に複製し配布して下さってかまいません)

 地上の世界は今、戦いの瀬戸際にある。憎悪の爆弾が大国の人口密集地に4つ落とされ、人々の悲鳴と苦しみと破壊を生み出した。それに対して、復讐の攻撃が計画されている。攻撃された大国が先頭に立ち、憎悪の攻撃を仕かけた一団を擁護している小国に対して、大規模な攻撃をかけようとしている。しかし、これは迷いが迷いとぶつかる姿である。たとい神や宗教の名によって戦いが行われるとしても、神は「自分のかたちに創造した」人間の一方を憎み、一方を愛することはない。憎悪で光を失った人間が、自己の本質、相手の本質にある「神のかたち」を忘れ、「闇」に向かって「闇」をぶつけるのだ。

 テロリストの刃は、物質的豊かさの中で同胞の苦しみを忘れた者に対する警告である。警告が大勢の友人を奪ったことを我らは悲しむ。しかし、我らの経済封鎖によって、別の国の同胞の命が奪われていることを忘れてはならない。我らの近くにいる者のみの豊かさを願って、遠くの同胞の貧しさと苦しみを顧慮しない生き方が、嫉妬と憎悪を育ててきたのだ。この「闇」は、いずれも人間の無知と迷いから出たものであり、神がどちらかを罰するために人間を差別しているのではない。我らは初めから同胞であり、友人であり、協力者である。その「神のかたち」を見ずに相手の「闇」を見て、同胞を「敵」と「味方」に分ける我らの心が、敵と味方を実際に生み出すのである。

 「闇」に対していくら「闇」を投げ込んでも、闇は広がるばかりである。子供は、親の愛を欲するあまりに、親の嫌う悪事をあえて行うことがある。それを行う子供は、決死の覚悟である。「親」とは「子」より先に生まれた人であるが、子と同じ人間である。経済的、社会的に先に行く国と、あとから行く国があったとしても、一方が他方を搾取して平気でいるのでは、神の御心に沿った正しい生き方とは言えない。我らは「子」に傷つけられたとしても、その子を「悪魔」として葬り去るだろうか? 我らは「子」への愛が足りなかったのではないか。あるいは、愛があっても、自分のことのみに関わっていて、愛の表現をする機会が足りなかったのではないか。

 我らは「反逆児」に心を痛めるが、彼らの中にある「神のかたち」を信じて、彼らを赦すのである。それが、「闇」を消すための唯一の方法である。なぜなら、闇は光を当てることによって必ず消えるからである。我らの中にある「神のかたち」が、それを可能にするのである。全能なる神の、無限の愛に感謝いたします。

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2001年9月16日 (日)

戦争の気配

 アメリカ社会の中枢部を標的とした同時多発テロは、新たな中東戦争へと発展しようとしているように見える。アメリカのブッシュ大統領は、NATO諸国から協力の約束を受けたばかりでなく、アフガニスタンの隣国のパキスタンからも“全面協力する”との言葉を引き出した。もう一つのアフガンの隣国、イランは、難民が自国へ流入するのを阻止するために国境の閉鎖を決定するなど、戦争の気配は濃厚である。人類全体にとってきわめて不幸なことであるが、アメリカとテロ組織との間に有力な仲介者が存在しない現状では、両者の間の“世界観”のギャップは、“憎悪の衝突”によってしか埋めることができないように思える。

 今朝放映されたアメリカのABCテレビの番組では、6歳から上の子供とその親をスタジオに呼んで、今回の事件について子供たちの意見をキャスターが聞き出していた。その中で、「これほどまでの憎悪をアメリカに抱く人々がいるのだから、一体アメリカは彼らに何をしたのか?」という質問を、女性ティーンエージャーが発した。これに対し、同年代の男の子が「何かしたとしても、それは意図して行ったものではないだろうから、罪のないアメリカ市民を大量に殺す行為は許されない」という意味の発言をした。この辺の疑問にきちんと答えることが、この事件を理解するための“鍵であるような気がしてならない。中東地域に住む一部の人々のもつ世界観と、日本を含む先進各国の共有する世界観との間に、あまりにも大きな隔たりができてしまったことが、この不幸な事件の背後にはあるだろう。

 しかし、すでに一方からの“第1撃”は放たれてしまった。これが放たれる前ならば、関係修復の希望はある程度あっただろう。しかし、5千人を越えるアメリカ市民が虐殺されてしまってから、「その報復をするな」と言うことは極めて難しい。しかも、その“第1撃”の仕方が、あらゆる国際的ルールを無視しており、それを放った相手が「国家」ではなく、憎悪に燃えた一団の人間であるという前代未聞の状況を考えると、それと同様の集団を内部にもつ多くの国家は、ここで決定的な行動をとらねば自国の治安問題が深刻化する可能性とも対面しているのである。だから、報復のための軍事行動を止めることは不可能だろう。

 さて、ここまでは「政治」の話である。テロや戦争は明らかに“闇”であり、生長の家の教えの中には「闇に対しては光をもって相対せよ」というのがある。これを現実に適用するために「ハイジャック機を高層ビルに衝突されても、真理の言葉を与え返せ」と唱える人がいるかもしれない。しかし、我々は「悪業は悪果を招く」という因果の法則も学んでいる。「ハイジャック機を衝突されたから真理の言葉を述べる」のでは不十分である。「真理の言葉を述べる」ことが足りないから、ハイジャック機が衝突したのである。さらなる戦火の拡大を防ぐために、「人間・神の子」「人類皆同胞」の言葉を弘めることが益々急がれる。

(谷口 雅宣)

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2001年9月15日 (土)

ヴァージン・カフェ

 今話題のアニメ作品『千と千尋の神隠し』(宮崎駿監督)を妻と二人で新宿で観た。宮崎監督の前作『もののけ姫』が1年かけて樹立した日本映画の興行収入記録を、わずか56日間で塗り替えて193億5400万円の収入を稼ぎ出し、1512万人が観たという映画だから、さぞかし内容の深いものかと期待した。が、私には“子供のころの夢”を少しだけ発展させた荒唐無稽の物語のように感じられた。日本人の感性を豊かに表わしながら、人間と自然との関係を現代的視点から扱った前作には、はるかに及ばないと思った。そんなことを考えながら、オーディオ・ビデオショップに入った。

 そこは英国の航空会社「ヴァージン・アトランティック」のやっている店で、3階が今はやりのオープン・カフェで、しかもインターネットの端末が並んでいる。同社のイメージ・カラーである「赤」を壁の全面に塗り、広い窓際に、外に向かったカウンター席が並んでいる。窓からは、緑の深い新宿御苑の森と、最近できたNTTのノッポ・ビルが対照的に見える。この建物は、どことなくニューヨークのエンパイア・ステート・ビルに似ていて、それを眺めているうちに、ジャンボ機が飛来してきてこの塔に激突する妄想に襲われた。この数日間、世界貿易センターのあの映像を一体何回見せられたのだろう。我々は「妄想」ですむが、ニューヨークに住む人々は、阪神淡路大震災の全犠牲者の数ほどの人々の遺体が、1~2ブロックの範囲内にうず高く埋まっている現実をまだ目の前にしているのだ。

 このような大殺戮を計画した人々は、オーディオ・ビデオショップやオープン・カフェなどが象徴するライフスタイルを、よほど憎悪していたのだろう。それとも、「アメリカ」という国が許せなかったのだろうか。もし前者であったならば、世界貿易センターの次は、東京都庁のタワーが狙われる可能性もある。なぜなら、グローバリゼーションの進んだ今日では、ニューヨークの生活も東京の生活もそれほど違うように思えないからだ。しかし、その反面、他人の生活様式が気に入らないからといって、外国まで出かけて行って決死の覚悟で大量殺人をする人などいるだろうか、とも思う。とにかく「敵を知らぬ」状態では、戦いに勝てるかどうかは定かでない。

(谷口 雅宣)

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2001年9月12日 (水)

宗教とテロリズム

 アメリカに対する同時多発テロが起こり、世界が一挙に混乱の渦中に陥った。マスメディアは、もっぱら“イスラム過激派”の犯行という観測を流しているが、「宗教」と「暴力」を結びつけたこの種の言葉が世界を飛び回ることは、神仏への信仰をもつ世界中の人間にとって甚だ不幸なことだと思う。神仏への信仰は、過酷な状況に生きる人々にとっては、正邪の判断や生きる目的と希望を与えて、それらの人々の生存と発展を助ける役割をはたしてきた。しかし、その反面、「邪」とされた対象にとっては、その運動は脅威となり、抑圧や抹殺の対象ともなるのである。2000年前にユダヤの地で起こったイエスの運動が、その典型の一つを示している。

 複雑な現実社会を生きる人々の多くは、単純で分かりやすい原理や回答を求める。それを与えてきた宗教は、時に信者を獲得し、教勢を拡大して一大政治勢力となることもある。しかし、そのことによって現実社会が単純で分かりやすくなるわけではない。にもかかわらず、宗教が現実社会を支配しようとすると、それを単純な「白」か「黒」の色で塗り潰さねばならない。そうでなければ、教義が現実を説明できなくなるからだ。こうして無理矢理な現実解釈が生まれ、それを支持するための情報の操作や捏造が、最初は無意識に、次には意識的に行われるようになる。そして、こうして作り上げられた“宗教的世界観”自体が盲目的な信仰の対象になってくると、神仏の名において破壊や暴力が行われる土壌が生まれるのだろう。

 だから、宗教が破壊や暴力を行うように見えるときは、それは神や仏に原因があるのではなく、複雑さを理解しえない(あるいは理解しようとしない)、人間の側の欠陥や怠慢が原因なのだ。このような破壊や暴力に対しては、したがって同じ人間の欠陥や怠慢をもってしてはならない。すなわち、白黒で塗り潰された単純な世界観を提示し、その中で「邪」とされた対象を手段を選ばず破壊し抹殺するのでは、暴力が暴力を生むことになる。国際社会において明らかにルール違反のテロ行為を行ったものは、国際社会のルールに従って、正当な手段と、合意された手続きによって処罰されるべきである。ただ、残念なことに、現在の国際社会には、まだこのような法的枠組みが整っていない分野もあり、手段や手続きが完全に合意されているわけでもない。今回の未曾有の事件を機会に、国際社会がより高度な社会的、法的、倫理的、宗教的合意に達することを心から願うものである。

 最後に、アメリカに住むすべての人々に対して--特に私が若い頃、個人的に世話になったニューヨークの市民の方々に--心からなる哀悼の思いを捧げるとともに、今回の破壊と暴力を憎むあまりに、同様の破壊と暴力によって、罪のない人類の同胞に報いることのないよう切に祈るものである。

(谷口 雅宣)

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