2002年7月26日 (金)

クローン人間を妊娠?

 宇宙人を信仰する宗教団体系の会社「クロネイド(Clonaid)」が、韓国人の代理母にクローン胚を移植したことを、今日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えた。クロネイドのスポークスマンを自称する韓国人が24日、ソウル市で開いた記者会見でそう語ったらしい。この代理母は、クローン胚を妊娠した状態で1ヶ月前に韓国に入国したそうで、韓国を選んだ理由は、そこにまだ人のクローン作りを禁じる法律がないからだという。このまま妊娠が進めば、来年春には世界初のクローン人間が誕生するかもしれない。

 このクロネイドのことは拙著『神を演じる前に』でも触れているが、その背後にあるのは「ラエリアン運動」という宗教団体であり、日本を含む世界84ヵ国に5万5千人の信者がいるという。この教団の教祖は、かつてスポーツライターをしていたクロード・ヴォリロンという男で、1973年に宇宙人と出会ってから「ラエル」と名前を変えたという。その教義によると、地球の生命はもともと高等な宇宙人がバイオテクノロジーによって作ったものであり、人間がクローンをつくることは宇宙人から与えられた使命であるらしい。

 世の中には様々な教義をもつ宗教があるが、このラエリアン教団の教義のユニークさには少し驚かされる。彼らのウェッブサイトにはその詳しい説明が書いてあるが、私が面白いと思ったのは、彼らが宇宙人にこう語らせている所である−−「私たちは別の太陽系から来て、地球上のすべての生命を科学的に造りました。私たちに似せて人間も造りました。あなたたちは私たちを神と間違えたのです」。

 これを「デタラメである」と一笑に付してしまう人も多いだろうが、旧約聖書の『創世記』にそう書いてあると言ったら、真面目に考え直す人は何人いるだろうか。ポイントは、「あなたたちは私たちを神と間違えたのです」というところだ。きちんと説明してみよう。

 旧約聖書の原典はヘブライ語で書かれているが、そこで日本語の「主」や「神」、英語の「Lord」や「God」と訳されている場所には、原典ではヘブライ語の「Adonai」の母音が書かれているだけである。これは「わが主」(my Lord)という意味で、「神の名」それ自体ではない。しかも「複数形」であるから、「わが主たち」(my Lords)と訳してもよかったものだ。ユダヤ人は、神はあまりにも聖なるものであるから、その名を直接唱えることを避け、代名詞を使ったのである。しかし、その名自体を使わなければならない時には「YHWH」という4文字を充てた。この4文字は子音だけで構成されているから、どう発音したらいいのか不明である。が、人々はこれを「Jehovah」(エホバ)とか「Yahweh」(ヤーウェ)と発音して、固有名詞のように使うのが習慣となった。

 ヘブライ語にはもう一つ「神」に該当する「エロヒム」(Elohim)という言葉があるが、こちらも複数形だ。この語の単数形は、エロア(Eloah)もしくはエル(El)である。『創世記』第14章には、凱旋したアブラムにサレムの王がパンと葡萄酒をもってきたことが書かれており、この王のことを「いと高き神の祭司である」(the priest of the most high God)と説明している。「いと高き神」は原典では「El Elyon」である。また、同書第33章20節には、預言者ヤコブが神を祀る祭壇を建て、それに「エル・エロヘ・イスラエル」と名づけたことが書かれている。これは「エル、イスラエルの神」という意味である。いずれも単数形が使ってあるから、当時の人々が単数と複数をきちんと使い分けていたことが分かる。

 こういう学問的な知識を前提として、ラエリアン教団は次のような驚くべき結論を下す−−「神聖なる存在が実在するという概念を伝えた聖書は、その言葉を複数の神々と訳すべきでありましたが、それは単数形の神と訳されてしまったのです。それ自体がすでに間違いである上に、聖書への裏切り行為であることは言うまでもありません」(中略)「“エロヒム”という言葉の文語上の意味は“神”ではなく、“天空から飛来した人々”です」−−つまり、宇宙人が神であるというわけである。

 この教団の教義の背後には、このような「宇宙人信仰」のほかに、もう一つ」「科学信仰」とも呼ぶべきものがある。科学知識の一部である遺伝子工学によって、神なる宇宙人がこの地上のすべての生物を創造したことが『創世記』には書かれている、という立場がこれだ。ただし、聖書が書かれた頃は、人類に遺伝子工学や生物学の知識がなかったので、当時の人々が分かるような喩えを使って書かざるをえなかった。だから、今日の聖書学でも、本当の解釈に至らないというのである。

 このように、科学的知識を「聖なるもの」の位置に引き上げるという点において、ラエリアン教団は様々な宗教の間にあってもユニークだと言える。なぜなら、宗教は一般的に、ガリレオの時代から科学に対して疑いの目を向けてきたからだ。しかし、この教団の考えでは、科学は世界を救うのである。だから、科学的知識を利用してつくるクローン人間も、何ら問題はないと考える。彼らの信仰によると、科学は“天来の知識”であるから、それによって誕生するものは“天の意志”ということになる。そして、科学的知識によれば、霊魂は存在しないのであるから、肉体の発生以前には何もないことになる。したがって卵子や精子、受精卵の取り扱いも問題にされず、妊娠中絶ですら正当化されるのである。次の引用文を読んでほしい:

「霊魂はありません。コンピューターの命令システムに相当する、生物学的設計図があり、それが私達を人間たらしめ、社会に順応できるようにしているのです。避妊と中絶は、罪悪感を持たずに私達が考えてよい選択であり、既に多くの国がそうしているように、自己管理してよいものです」

 これは、唯物論と宗教が不可解に合一した“唯物的信仰”とも言えるものである。こういう教義がもっともらしく聞こえ、5万人を超える人が信仰しているのが事実であるならば、21世紀初頭の人間の精神は、よほど混乱しているのだと私は思う。   (谷口 雅宣)

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2002年6月16日 (日)

親に似ない子

 長崎で行われる祖父の十七年祭に出席するために、妻と2人で羽田空港へ行った。ちょうど昼時で、空港ビル内の蕎麦屋の前に人の列ができていた。その後ろについてしばらく待ってから、2人は店内に入った。我々は小さいテーブルを挟んだ2人掛けの席に通され、注文が出てくるのを待っていた。両脇の席は共に4人掛けで、いずれも家族連れが座っていた。右側の席には、3歳ぐらいの男の子を連れた若夫婦と、その夫の父親。左側には、中学と高校生ぐらいの2人の息子を連れた夫婦が座っていた。この2組は一見して「家族」と分かった。というのは、その格好や仕草が家族的に見えたという以上に、互いに顔が似ていたからである。

 右側の4人は、“お祖父さん”と“父親”の目元が瓜二つであり、3歳ぐらいの子は、その“父親”と“母親”の顔をうまく混ぜ合わせた顔をしており、特に鼻筋が母親とそっくりだった。一方、左側の4人の場合、“父親”と思しき中年男性は、太い眉と、その眉のすぐ下に窪んで開いている両眼が特徴的で、中高生の息子2人は、その特徴を見事に引き継いだ顔をしていた。この“お父さん”は上下に少しつぶれたような丸顔で、“お母さん”は顎の先が細くなった逆三角形の、どちらかというと細長い顔をしていたが、その二人の子の顔は、丸顔と逆三角形がうまくブレンドした形だった。私は妻に目で合図をして、両脇の人々に注意を喚起してから、「二組とも顔がよく似ているね」と小声で言った。

 実は家を出る前に、妻と私と高校3年の娘は、居間でティーカップを並べ、フルーツ・ケーキを突っつきながら、似たような話をしていた。私が娘の横顔をしげしげと見て「一体どっちに似ているのかねえ……」と言うと、娘は「友達には、兄妹はそっくりって言われるよ」と答えた。娘の上には兄が2人いる。私が彼女に言った意味は、彼女の鼻の“生えぎわ”が少し太くなっていることで、そういう鼻の形は、私にも、妻にも似ていないからだ。娘も、自分の鼻が両親に似ていないことは認めたが、その代わり「兄2人には似ている」と主張したのだ。確かにそうなのだった。息子たちは2人とも、鼻の根元ががっちりと太く、横から見ると「鉤鼻」なのだった。しかし、私も妻も鉤鼻ではない。そこで話は、私の母親と妻の父親の鼻のことになった。こちらの2人は、どちらも鼻の根元がしっかりした造りになっていたから、我々の3人の子の鼻は「隔世遺伝」なのかもしれない、などと話していた。

 こういう会話は、どんな家族の中でも普通に交わされるものだろう。親子や兄弟の顔が「似ている」とか「似ていない」という話は、家族の間では軽い気持で、他意がなく出てくる。それが可能なのは、「親子や兄弟の顔は、基本的には似ている」という前提があるからである。基本的には似ているのだが、その中でも「あそこが似ていない」とか「ここはもっと似ている」というニュアンスで語られるのである。しかし、もし家族の中に、親とも、祖父母とも、兄弟とも似ていない子が一人だけいたとしたら、問題は本質的に違ってくる。つまり、「似ている」とか「似ていない」という話はタブーになるのではないだろうか。

 こんな奇妙な発想が起こったのは、今日付の新聞に、日本産科婦人科学会の倫理審議会が「第三者への受精卵の提供は認めない」という答申を、同学会の理事会へ提出したことが報じられていたからだ。この答申の内容は、厚生労働省の生殖補助医療部会が法律制定を視野に検討している方向性とは異なるという点が、新聞では強調されていた。つまり、不妊治療の現場を担当している医師の考え方と、国の方針に食い違いが出てくる可能性が生じているのだ。医師の側が第三者への受精卵提供を認めないのは、生まれてくる子に「遺伝上の親」と「育ての親」という2種類の親ができることで、子が思春期以後に自分の出自(生まれ)を知った際、心理的な問題を抱え込むことに配慮したためという。一方、厚生労働省の部会では、別の夫婦から体外受精で得た受精卵をもらった場合は、「新たに提供者の体を傷つけることはない」という理由で、それを使った不妊治療を認める方針をすでに発表している。

 私は6月3日付の本欄で、父親以外の男性から精子を得て生まれた子が、成人して自分の出自を知った際に感じる心の問題について書いた。彼らは片親の遺伝子を引き継いでいないことで充分悩むのだから、父母双方の遺伝子を引き継いでいない子は、その事実を知ったらよほど動揺するに違いない。いや、そういう子は、自分の出自のことなど知らされなくとも、幼い頃から毎日、自分の外貌が親とも兄弟とも似ていないという事実を目の前にするのだから、どのような心理的問題を抱え込むのか、私には想像もむずかしい。人間の本質は遺伝子ではないが、「子は親に似る」というのは、人間を越えた生物界全体の常道であり、秩序性の重要な一部でもある。それを破ってさえも「子がほしい」と考える心には、何か重大な見落としがあると感じざるをえないのである。   (谷口 雅宣)

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2002年6月 3日 (月)

父を捜す人々

 月刊誌『光の泉』用の原稿を書いた。「父を捜す人々」という題である。これは今、アメリカなどの先進諸国で人工授精によって生まれた子供たちが自分の出生の真実を知り、遺伝上の父親を捜す動きを始めたことについて書いたものだ。最近、新聞やテレビで立て続けにこの問題が取り上げられている。英文の『ヘラルド朝日』紙が5月23日付で「精子提供者が子供たちに会うことを始めた」と報じ、続いて『朝日新聞』が翌24日に「遺伝上の父 知りたい」という記事を掲載、25日夜にはNHKスペシャル「“親”を知りたい――生殖医療・子供からの問いかけ」が放映され、さらに30日に『朝日』は再び「“出自”を知りたい――第三者の精子から生まれた子どもたち 告知されない苦しみ」という記事を掲載した。

 これらの記事のポイントは、非配偶者間人工授精(artificial insemination with donor sperms, AID)では、精子提供者の「身元秘匿」が世界的に守られてきたが、それが始まって半世紀近くたった今日、AIDによって生まれた子の「父を知りたい」という願いの切実さが明らかとなり、方針の変更を迫られているということだ。「自分が何者であるか」という自己確認の重要な部分は、「親がどういう人間であるか」という子の側からの理解によって形成される。つまり、子は「親」を通して自己確認をし、自我を作り上げていく。だから、AIDによって生まれた子がその事実を知らず、これまで父親だと思って生きてきた人間が、自分と遺伝的に無関係であると知った時、それは自分の“半分”を失ったような衝撃を受けるそうだ。そして、その失われた“自己の半分”を取りもどしたいという強く、深い願いが生じるのだ。

 しかし、現在の法制度や不妊治療の決まりでは、医療機関は、精子提供者が誰であるかを告知しないことになっている場合がほとんどだ。その第一の理由は、告知すると、AIDで生まれた子が後になって精子提供者に会いにくる可能性があり、そうすると、提供者の私生活が脅かされる場合が多いからだ。また、それを事前に予測して、精子提供をする人が少なくなることを恐れているからでもある。だから「子をほしい」という親の願いが叶えられにくくなり、医療機関の収入も減るというわけだ。つまり、現在の制度は、AIDを行う「親の福祉」を重点的に考え、生まれてくる「子の福祉」にはあまり配慮していなかったのである。その不平等と不合理が、“父を捜す人々”の出現により、鮮明に浮かび上がってきたのである。

 スイスは、今年1月から新しい生殖医療法を施行し、精子提供者は、名前、住所、生年月日、出生地など、個人を特定できる情報を国の戸籍局に登録することを義務づけた。この情報は80年間保存される。そして、AIDによって生まれた子が18歳以上になり、精子提供者の情報を国に請求した場合、それが開示されるのである。日本でも今年4月に、不妊治療にともなうルールづくりを進めている厚生労働省の生殖補助医療部会が、各種の不妊治療によって生まれた子が成長した際、精子や卵子、受精卵を提供した人の名前や住所など、本人を特定できる情報を開示することを認める方針を採用した。この方針は、来年成立が見込まれている生殖補助医療に関する新法に反映されるという。

 “父を捜す人々”の輪は、インターネットの世界でも広がっているそうだ。先に触れたNHKの番組に出てきた男性は、自分がAIDによって生まれた子であることを知ってから、インターネット上にホームページを開いて、自分と同じような立場の人と情報交換を始めた。と、そのうちに、メール仲間の中に、自分とよく似た精神的、肉体的特徴をもった人が何人かいるのに気がつき、互いに会ってDNAの鑑定をしてもらったところ、何と3人が遺伝的には異母兄弟(姉妹)であることが分かったという。つまり、同じ男性の精子から生まれた子だったのである。

 こういう例はきっと稀だが、最近は精子銀行の側で、AIDで生まれた子が18歳以上になり、自分の遺伝上の父が誰であるかを知りたいと望んだ場合は、身元を明らかにしてもよいという選択肢を、精子提供者に与える場合も増えてきているという。この「提供者の身元開示」のオプションを用意している精子銀行は現在十数社だという。この制度を最初に始めたのはカリフォルニア州バークレー市にある精子銀行で、1983年だった。その年、このオプションを選んだ男性の精子によって生まれた子は16人おり、彼らは今年18歳になる。来年は、同じ立場の子で18歳になる子が29人いるという。

 聖書の記述によると、ユダヤ民族の祖であるアブラハムは、100歳の時に90歳の妻サラとの間に子(イサク)を設けた。「大いにあなたの子孫を増すであろう」という神との契約によるものである。そのサラは127歳で死んだが、アブラハムは後妻のケトラとの間に6人の子をもうけた。--こういう話は、神の力を示す“奇蹟物語”の一つとして我々の常識を圧倒する。しかし、AIDの拡大を考えると、現代の生殖医療は、アブラハムの“奇蹟”を奇蹟でなくしつつあることが分かる。精子銀行で眠る精子は、その“父”が死んでから何年も生き続けることができる。卵子の凍結保存の技術も確立しているから、“父”が100歳、“母”が90歳の精子と卵子を人工授精させれば、“現代のイサク”は生まれるだろう。

 もう1点言えることは、精子提供者は妻が子を生まなくても、あるいは妻などいなくても、多数の子を残すことができる時代になりつつある、ということである。精子提供者の身元開示が世界的に制度化されていけば、精子提供者の数はもっと減っていくだろう。ということは、身元開示に同意した少数の精子提供者の子が、世界中で生まれるということだ。そういう人たちは、提供後20年もすれば、大勢の“父を捜す人々”から電話をもらったり、訪問を受けたりすることになる。いったいどんな気持で、彼らは突然の“新しい子”を迎えるのだろうか。アブラハムの子にはイサクのほかに、妾腹の子、イシマエルがいる。この二人とも12人の子をもうけたと聖書にはあるが、そういう子沢山の記録も将来破られるに違いない。   (谷口 雅宣)

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2002年5月 3日 (金)

ロボット・ネズミ

 今日付の『ヘラルド朝日』紙に、アメリカの科学者たちがロボット・ネズミの作成に成功したことが報じられていた。「ロボット・ネズミ」などという表現では、この新技術の影響力の大きさは伝わらないかもしれない。もっと正確に書けば、科学者たちは生きているネズミの脳に電極を埋め込み、それに通信装置をつなげることによって、遠方からネズミの進む方向を制御する技術を開発したのだ。この技術を使えば、理論的には、ネズミの行ける所ならどこへでも、小型の機器や生物を意のままに運ぶことができる。この技術は、地雷の探知や地震で倒壊した建物内の探索活動に役立てることもできるが、その一方で、スパイ活動や要人暗殺、生物・化学兵器にも応用できるだろう。私は、こういう種類の技術の開発にどうしても疑念を抱いてしまう。

 この研究はイギリスの科学誌『Nature』の5月1日号に発表されたもので、研究者の動機には恐らく何の悪意も含まれていないだろう。事実、科学者たちは、神経に障害を受けたため、自分で体を自由に動かせない人が、その機能を回復するのを目的として研究を進め、この技術にたどりついたらしい。彼らは、ネズミの脳内に3つの電極を埋め込んだ。1つは、目的を達成したときに喜びを感じる“満足中枢”に、他の2つは、鼻の右側と左側にあるヒゲの束から刺激を受け取る部分だという。そして、ネズミを右へ行かせる時は、右側のヒゲの束と“満足中枢”を、左へ行かせる時は、左側のヒゲの束と“満足中枢”を同時に刺激する。そうすると、ちょうど犬ゾリの犬を操るように、ネズミの進む方向を制御することができるらしい。この“装置”を埋め込んで10日間訓練をすると、ネズミはノートパソコンの指示にしたがってハシゴを上ったり、坂を下ったり、パイプの上を進んだり、凸凹のある地表を一定方向に進んだりできるようになるという。この遠隔操作ができる距離は、最長で500メートルという。

 従来から我々が知っている「ロボット」は、こういう形で生物を利用するものではなかった。それらは、産業ロボットのように、主として人間の体の動きを一部代行し、省力化をはかるか、あるいは最近は愛玩用として開発されたものもある。いずれも機械やICなどの無機物のみを材料にしており、それを組み合わせて動力で動かし、あたかも人や動物のような有機体のように見せるところは共通している。そういう“無機物型ロボット”を我々が倫理的問題を感じずに利用していたのは、それらが本質的に生命のない無機物であり、人間から独立した意思をもたないからである。ところが今回のロボット・ネズミは、本質的に有機体であり、人間から独立した生命と意思をもっている。にもかかわらず、その意思を技術によって操り、人間の道具にしてしまうのである。我々はこれまで「伝書バト」や「盲導犬」のような形で動物を利用してきてはいたが、今回の技術は、動物の“意思を操作する”という一歩踏み込んだ段階に達している。

 なぜ、そこまでしなければならないのか。この技術の開発の動機についてはすでに述べたが、そういう人道的な動機とは別のものも、この研究の背後にあるような気がしてならない。従来の“無機物型ロボット”は、人間のように「歩行」させるための技術の開発に、相当苦労したようだ。この分野では、音楽のリズムに合わせて踊るロボットもすでに登場している。が、体を伏せて匍匐前進したり、立ち上がったり、木登りをしたりするようなロボットはまだない。そういうものができれば、事故現場や戦場などのように、いろいろな障害物のある環境でも大いに役立つだろう。そういう機能は、しかしすでに存在する動物を利用すれば、もっと簡単に実現する。

 例えば、ネズミは凸凹道はもちろん垂直の壁を登り、小さい穴もくぐり抜けるから、運搬手段としては、現在実現可能な無機物型ロボットよりもはるかに優れている。それに、ネズミは「鼻」をもっているから、それをセンサーとして利用すれば、特定の臭いのする方向にネズミを進ませ、行った先で仕組んだ装置を作動させることで、様々な用途に利用できるだろう。この研究に、米陸軍の高度国防技術計画局(Defense
Advanced Research Projects Agency)が資金を出しているというのが、とても気になるところだ。

 昨日付のイギリスの科学誌『ニュー・サイエンティスト』の記事によれば、動物愛護団体はこの研究を「あきれはてる」と言っており、「人間がいかに他の生物を道具にしてしまうかを示すもう一つの例だ」と批判しているそうだ。また、アメリカの合衆国動物愛護法は、哺乳動物でもネズミやモルモットなどのげっ歯類、それに鳥類は保護の対象にしていないそうだから、同じ方法を使ってこれらの動物をロボット化する研究をする人が、近い将来出てくるかもしれない。「他の生物は人間の道具にして構わない」という考え方が続くかぎり、この種の“残酷な”研究は今後も続いていくのだろう。   (谷口 雅宣)

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2002年3月 6日 (水)

ヒト胚利用の周辺

 人間の胚(受精卵)の利用やその周辺の研究が動き出している。今朝の『朝日新聞』によると、京都大学の「医の倫理委員会」が昨日、同大病院にある“凍結余剰胚”をES細胞(胚性幹細胞)の作製に使うことを承認した。“凍結余剰胚”とは、不妊治療のために体外でつくった受精卵のうち、凍結保存してあったものが、妊娠が成功したので不要になった場合を指す。これを利用してES細胞を作製することは、文部科学省の指針では認められている。アメリカでは昨年夏、ブッシュ大統領の示した方針で、既存のES細胞株の研究は認めても、新たに受精卵を破壊してES細胞を作製する研究には国は助成しないことになったが、私費による研究は許されている。

 クローン人間作製は、日本では法律で禁じられたが、その一歩手前の段階に当たる治療目的の「クローン胚」作製は、法律による禁止ではなく、政府の指針の中で原則的に禁止されている。(ということは、政府が方針を変えれば認められるということだ)これに比べアメリカでは、昨秋、クローン人間作製だけでなくクローン胚の研究も禁止する法案が下院を通過した。ただ、上院での審議が始まらないうちに国内のバイテク企業がクローン胚を作製したと発表し、関係者を驚ろかせた。そして、ここへ来て新たな展開があった。それは、4月に上院での議決があるのを前に、クローン胚やES細胞研究の賛成派と反対派が政治キャンペーンを始めたことだ。

 今日付の『ヘラルド朝日』紙によると、賛成派は、脊髄損傷で体が麻痺した映画『スーパーマン』の俳優、クリストファー・リーブを初め映画『ゴースト』のジェリー・ザッカー監督夫妻などの著名人を動員して、治療目的のクローン胚研究の必要を訴えている。遺伝子が同じのクローン胚からES細胞を作れば、そこから移植に安全な組織や臓器が手に入る、というわけだ。ザッカー夫妻には糖尿病の子供がおり、ES細胞研究から新たな治療の道が開かれるというのだ。これに対して反対派は、ラジオやテレビのコマーシャルを使い、科学者たちは、恐ろしいことに“胎児の農場”を作ろうとしている、と訴えている。「あるバイテク企業は、悪夢のような計画を準備しています」とコマーシャルは言う。「彼らは胎児を大量生産したうえ、それを実験で殺害しようとしています。胎児の飼育を計画しているのです」

 このコマーシャルの言い方は、しかし正しくない。治療目的のクローニングとは、患者の体細胞(精子や卵子などの生殖細胞でない細胞)から抜き取った細胞核を、除核卵細胞(核を抜いた卵子)に移植して電気刺激などで融合させてクローン胚を作ることだ。「クローン胚」と呼ばれるのは、これが患者と同じ遺伝子をもっていることと、胚(受精卵)のように胎児の体を形成する能力があるからだ。これを女性の子宮に移植すれば“クローン人間”を作ることができると考えられているが、そうせずに人工培養することでES細胞を得ることができる。このES細胞は患者と同一の遺伝子をもっているから、ここから分化させた組織や臓器は、患者への移植に最適なものとなる、と科学者たちは考えている。コマーシャルは「胎児(embryo)の大量生産」と言うが、この言葉がいくらでも細胞分裂を続ける能力をもったES細胞の培養を指している場合は、「万能細胞の大量生産」という言い方のほうが正確だ。あるいは、ES細胞から神経や血液などの特定の組織に分化させたものを培養することを指している場合は、「細胞株の大量生産」という言い方のほうが正しいだろう。

 そうではあるが、クローン胚やES細胞の研究は、反対派が懸念しているように、「他人の肉体や命を無断で治療に利用する」という側面をもっていることは否定できない。私はすでに、この2つの研究に反対の意思を表明しているから、ここで言う“反対派”の中に入っていることになる。詳しい理由は、『光の泉』誌に書いた文章を参照してほしいが、1点だけ挙げれば、これらの研究は人の「霊魂」の存在を無視しているからである。「科学」の立場からは、そうせざるをえないのだろうが、「科学がすべて正しく、宗教はすべて間違っている」という結論は、まだどこの国でも出されていないはずだ。それなのに科学主導で世界が進んでいくことに、私は危機感を覚える。

 科学が先を急ぐ理由の中には、より有効な治療法を開発しようという善意がもちろん含まれている。しかし、他社や他国に先駆けて新しい治療法のパテントを取りたいというような、経済的な動機も含まれている。今回の日米での新しい動きの背後にも、それはある。この方面の研究では、クローン羊の「ドリー」を生んだイギリスが一歩先を行っている。イギリスの科学誌『New Scientist』によると、2月初めにはイギリス議会が受精後2週までのクローン胚の研究を治療目的に限って認める決定をし、ES細胞を含む幹細胞の“銀行”を設立する計画にもゴーサインを出している。また3月1日には、不妊治療で不用になった胚から、ES細胞を作製する国の許可が2つの施設に出た。同国の幹細胞研究者は、「イギリスが幹細胞の研究で世界のリーダーとなる可能性が、今や現実化している。アメリカと違い、わが国には公的面でも私的面でもES細胞研究に対する適切な規則ができたからだ」と言っている。

 宗教的な立場からいえば、子が生まれるのは、偶然や人為によるのではなく、「この世で生きたい」という霊魂自身の意志があり、さらに、この世の生の中で霊魂が受ける“教育”に意味があるからである。受精卵やクローン胚を医療目的に利用することは、この2つを否定することになる。つまり、霊魂の意志を拒否し、その教育を受ける機会を奪うことになる。また、このような行為を国家や社会が制度として大々的に行うことは、“先行の霊”である現世の人間の延命や福祉のために、“後続の霊”である子や孫世代を犠牲にすることになる。そういう形で人間全体の幸福が実現するとは、私にはとても思えないのである。   (谷口 雅宣)

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2002年2月27日 (水)

養子と卵子提供

 月刊誌『光の泉』用に「卵子提供を考える」という文章を書いた。60歳で初産をしたという日本人女性の手記を読み、ショックを受けたのがきっかけだった。この人は、24歳年下の中東系アメリカ人と52歳のとき結婚し子をもとうと思ったが、卵子が“老化”していたためできなかった。そこで彼女は、アメリカへ渡って若い日本女性の卵子をもらい、夫の精子を使って妊娠・出産にこぎつけたのだった。目的は、「夫の愛を失わないため」という。私は、他人の結婚に口をはさむつもりはないが、こういう結婚とその後の子育てを考えると、頭の中にいろいろな疑問が出てくることは止めようがない。あまりにも“普通”でないからだ。もちろん、誰も「普通に生きる」ことを強制されてはならないが、生まれた子のことを考えると、何か別の選択肢はなかったものかとつい考えてしまう。

 ここ1週間ばかりこの問題を気にかけていたので、今日、仕事場近くにある幼稚園に園児を迎えに来ているお母さんたちを見て、いろいろ考えさせられた。若くてエネルギッシュなお母さんたちの中に、一人だけ頭の白い“お母さん”がいたとしよう。きっと精いっぱい若い恰好をして、もしかしたら自転車に乗ってくるのかもしれない。お母さん仲間の間では、きっと事情を隠し通すわけにはいかないだろう。自ら本を書くぐらいの人だから、初めから「この子は私が60歳で生んだ」と宣言するのかもしれない。大人の間では、それでいいかもしれない。しかし、子どもたちの間では「○○ちゃんは、お母さんがいないの?」とか「○○ちゃんのお母さんは、おばあちゃんなの?」とか言われないだろうか。

 まあ、そんなことがあったとしても、幼児は母親の年齢などあまり気にしないのかもしれない。しかし、小学生になれば、自分の両親が友達の親たちとかなり違うことに気がつき、気にするだろう。だから親には、「どうしてママは普通のママより年とっているの?」と聞くか、聞かなくても疑問に思うはずだ。こういう疑問は、放っておいていい性質のものではあるまい。だから、親としては、子に聞かれる前に説明しておくのがいいかもしれない。しかし、どうやって……。卵子提供のことは言わずに、「ママはパパのことをすごく愛していたから、年が違っていても結婚して貴方を生んだのよ」と説明するのか。まあ、説明はそれでもいい。しかし、子供が5年生にもなれば、母親は70歳である。運動会や遠足はどうするのか? 無理に参加しても、ほかの人についていけるのか。学校に頼んで特別扱いにしてもらうのか。父親が代わりを務めてくれるのか。中東系の人は、そういうことに協力的なのだろうか……疑問ばかりが浮かんでくる。

 キリスト教系の月刊誌『婦人之友』(婦人之友社)の2月号に、翻訳家の辻紀子さんが12人の子供を養子として育てたヘレン・ドス夫人のことを書いている。この人は、牧師である夫のカールさんと60年前に結婚、4人の子供を育てることを夢見ていたという。ところが医者から、二人のあいだには子は生まれないと告げられて絶望する。当時は、卵子提供はもちろん人工授精も行われていなかったから、この宣告は絶対的だったろう。それから、ヘレンさんの孤児院巡りが始まる。12人もの子育ては大変だったろうが、何が一番幸せだったかと聞かれて、ヘレンさんは「施設から一人、また一人とわが子となった子どもを胸に抱いて連れ帰る時でした。もう孤児院にいなくていいのよ。ここがあなたの家族の家よ、と家に着くと涙がこぼれました。その幸せな思いを私は何度もしたのです」と答えたという。

 このドス夫妻は、養子にした子供たちに、幼い時からこう言い聞かせていた--「あなたはもらいっ子よ。大切な子よ。この家に育つために神さまに選ばれて来た大切な子よ」。また、子供たちから何を期待したかと聞かれると、ヘレンさんは驚いてこう答えたそうだ--「夫と二人でひたむきに育てました。ただ健康に育ち、よい配偶者に出会って幸せな家族を持てたらとだけ願いました。私たちのために何かを期待するなど考えてもみません。だって私は12人もの子どもたちから愛をもらったのですもの。これ以上のものがあるでしょうか」。

 子を夫婦の鎹(かすがい)とするために、遺伝子や子宮にこだわって子を“つくる”人と、神の愛を信じて孤児を育てる人の差は、大きいと思う。人の卵子をもらって子を得るのと、孤児をもらって育てるのとでは、もらう側の心境に大きな違いがあるだろう。一方は、「自分の子」あるいは「夫の遺伝子」という肉体的、生物学的側面が重要視されるが、他方は、そういう関わりが初めから薄いのだから、「愛(アガペー)」や「神の賜物」というようなもっと精神的、霊的な側面が重視される。どちらがよいかは、宗教的立場からは明らかだと思う。肉体的関係は狭くて永続しないが、霊的関係は広くて永続する。科学技術の発展に目を奪われて、人生の目的を見失ってはならないと思う。   (谷口 雅宣)

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2002年2月20日 (水)

卵子の“乗っ取り”

 今日付けの新聞各紙は人間の卵子の“若返り”と称して、中年女性の卵子の核を若い女性の卵子に挿入してから受精させるという、新しい不妊治療の研究の成功を報じていた。この“若返り”という表現には、しかし注意しなければならないと思う。マスメディアは、何か新しい現象が起こると、分かりやすく、インパクトの強い言葉でそれを表現しようとする。そのこと自体は、決して悪いことではない。しかし、伝えようとする現象の本質が分かりにくい場合、「分かりやすい」表現は本質を隠すことがある。また、「インパクトが強い」言葉は、「センセーショナル」な表現である場合が少なくない。そういう観点から見ると、今回の“若返り”という表現は、かなりアブナイ感じがする。あまりにも楽観的であるからだ。

 これを1面のトップで報道した『朝日新聞』の記事によると、この研究では、40代の女性の卵子の核を、核を除いた20代女性の卵子14個に挿入したという。このうち6個の卵子が成熟したため、体外受精の方法で精子を授精させると、5個が受精卵として細胞分裂を開始し、そのうち1個が「胚盤胞」と呼ばれる段階(細胞数が百数十個の塊)にまで成長したというのだ。これを子宮にもどせば妊娠(着床)する可能性があり、妊娠が順調に進めば子が生まれる。高齢の女性が妊娠しにくい原因は、その卵子の細胞質(卵子内の核でない部分)が老化することにあるらしいとは、以前から言われていた。“若返り”という言葉が使われたのは、その老化した卵子の核を取り出して、若い女性の卵子の細胞質の中に入れることで、卵子の受精能力が高まると考えたからだろう。

 しかし、「A」という人間から遺伝情報のつまった細胞の核を取り出して、「B」という別の人間の細胞中に移植し、Aの指令にしたがってBの細胞の栄養分を利用して成長する細胞は、本当に“若返り”をしたと言えるのだろうか。喩えてみれば、これはAさんの脳を取り出してBさんの体に移植したようなものではないか。それならば、Aさんは“若返り”をしたというよりは、Bさんの体を“乗っ取った”と言った方が、実態をより正確に表していると思う。成長した人間でこれをやれば、恐らくトンデモナイ犯罪になるだろう。では、卵子ならば全く問題がないのか? 『朝日』の記事では、この技術の「安全性」について専門家が注意を促しているが、私はやはり倫理面での社会への影響が心配である。

 昨年前半の本欄の記事をまとめた『小閑雑感 Part 1』(世界聖典普及協会刊)という拙著に、これと似た“治療”によってアメリカですでに30人ほどの子が誕生していることを、私は書いた。「3人親のいる子」という文章(5月19日付)である。ただし、この時の“治療法”は、日本での例とは逆だ。つまり、中年女性の卵子の細胞質を抜き取り、そこへ若い女性の卵子の細胞質を注入する方法だ。前の比喩を使うならば、Aさんの体から脳と皮膚だけを残し、それ以外の組織や臓器をすべて抜き取って、Bさんのものを代わりに入れる--ということになるだろうか。成長した人体では、そんなことは不可能だろう。しかし、卵子間ではそれが可能であり、すでに実用化しているのである。「3人親がいる」という意味は、こういう卵子が受精をすれば、精子の遺伝子と卵子の核内の遺伝子に加え、若い女性の卵子からもらった細胞質内の遺伝子(ミトコンドリア遺伝子)も、胎児形成の一部を担うことになるからである。

 読者はお気づきだろうか、これは一種の人間の遺伝子組み換えである。もちろん、核内の遺伝子の多さに比べれば、細胞質内の遺伝子の数はわずかである。しかし、今回の日本の方法によってもアメリカの方法によっても、生まれた子は父母の遺伝子に加えて、卵子を提供した女性のミトコンドリア遺伝子も引き継ぐ。だから、父母の側にとっては、どんな女性から卵子提供を受けるかは大きな関心事になるだろう。アメリカでは、インターネット上で卵子提供者を選べるシステムができあがっているが、日本にもやがてそのような制度が実現するのだろう。精子提供に比べ、卵子提供は、女性の側に精神的にも肉体的にも大きな負担がかかる。だから、卵子は恐らく有償で提供されることになる。では、どんな女性の卵子も同一の価格になるのか。それとも、アメリカでの実例のように、需要と供給の関係によって卵子に値段がつくのだろうか。もしそうなれば、卵子についた値段は、間接的にその提供者についた値段だといえないだろうか。

 卵子を売買し人間を値踏みする時代を、我々はもう目の前にしているのだ。  (谷口 雅宣)

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2002年2月 5日 (火)

体のスペア部品

 人間の体を長年使っていれば、いろいろな所が故障したり、傷ついたり、ほころびてきたりする。私は昨年末、前歯の歯茎に黴菌が入って大変な目にあったことを本欄に書いた。これを修復するために問題の前歯の“神経”を抜いたが、歯の治療で「神経を抜く」というのは、単に神経細胞だけを抜くのではない。歯の中心部の「歯髄」という所には、神経だけでなく、毛細血管やリンパ管が通っていて、それを経由して歯に内部から栄養が供給され、微生物の侵入も防いでいる。つまり、歯は生きているのである。「神経を抜く」というのは、この歯髄を全部抜いてしまうことだ。だから、処置後の歯は栄養を補給されることもなく、微生物とも戦わない。そして、長い時間の中で、食事とともに削り取られ、黒っぽく変色し、やがて抜け落ちるらしい。つまり、私が治療した前歯は、何年か先に執行猶予のついた死刑囚のようなものだ。今は「継ぎ歯」や「刺し歯」という技術があるが、それだって一種の“義歯”である。だから、自分の「生きている歯」がまた再生すると言われれば、私は恐らく双手を上げて歓迎するだろう。

 私はまた昨今、目の衰えを感じるようになった。高校時代から近視で、長い間コンタクトレンズを使っていたが、最近は夜になると、新聞や辞書の字のような細かいものが判読しにくくなる。そのために拡大鏡を買い、眼鏡をつくった。最近は、目の水晶体をレーザー光線で削って近視を治す手術があるそうだが、まだ成功率が100%でないのと、治療費が高額なこと等で、手術する気にはなれない。だから、自分の目が確実に再生し、性能も“新品同然”になると言われれば、その誘惑にどれだけ抵抗できるか確信はない。髪の毛の量、皮膚の張り、脚力、記憶力、スタミナなど、青春時代の自分と比べて劣っているすべての面で、これと同じことが言えるだろう。つまり、肉体の「若返り」や「高性能の維持」は、私にとって(そして、多分ほとんどの読者にとって)“かなわぬ夢”なのである。

 古くは義手や義足に始まる「体のスペア部品」の開発は、この夢を実現するための努力だと見ることができる。だから、誰もそれを止めることはできないだろうし、止めることは正しくない。しかし、自分の夢の実現のために他を犠牲にするのは、よくないことだ。とすると、「他から奪ってでもスペアを手に入れるべきか?」という問題がここに出てくるのである。この問いへの答えは、一見容易そうだが、そう簡単ではない。理由の一つは、「他とは何か」という定義が、人によって違うからだ。「他」とは「他人」のことであって「動物」は含まいと考える人は、「動物から奪う」ことは容認する。では「死人から奪う」のはどうか? 中絶胎児からは? 受精卵からは? 未受精卵からは?……今日の人類は、こういう問いかけに直面しているのだが、各人の答えがバラバラである中で、技術ばかりが先に進んでいるように見える。

 特に、体の一部を再生させる再生医療の分野では、今年に入って次々と新展開があった。前回(2月1日)は、サルの未受精卵からES細胞と同等の細胞を得、そこからさらに神経細胞や筋肉細胞が分化された例を報告した。今日(5日)の報道では、これを行ったアメリカのバイオ企業が、今度は牛のES細胞から、まともに機能する腎臓をつくったそうだ。その腎臓は今、牛の体にもどされて尿をつくり続けているという。この研究は牛が目的ではなく、もちろん人間に応用するためのものだ。これまでは、ES細胞から血液や筋肉などの「組織」はつくられていたが、「臓器」そのものができるのはまだ先のことと言われていたが、これによって人のES細胞からも腎臓ができる可能性が、より現実的なものとなってきた。

 また、これに先立つ1月29日の『産経新聞』夕刊には、京大の研究グループが、サルのES細胞から、神経伝達物質のドーパミンを分泌する神経細胞を分化させたことが報じられていた。この技術も人間への利用が目的で、アルツハイマー病等の治療に人間のES細胞を使う道が開けてきた。さらに、今日の『朝日新聞』は、マウスの骨髄細胞の助けを借りて、人のヘソの緒にある造血幹細胞を増殖させ、これを骨髄の機能不全を起こしている50代の女性に(人間に!)移植する手術が東海大で行われたことを伝えていた。

 前にも書いたが、ES細胞は受精卵を破壊して得る点で倫理的問題がある。そこで、未受精卵からES細胞と似た多能性のある細胞を得る方法が開発された。その一方で、上記のように、ES細胞から体のスペア部品を分化させて得る実験が、動物を使って繰り返されている。だから、今後は、未受精卵から得られた多能性細胞や、骨髄などにある幹細胞から、体の組織や臓器をつくる技術が発達していくかもしれない。そうすれば、我々は故障したりくたびれてきた体の一部を、そういう技術で得た“生きた部品”と交換できるようになる。私がその頃生きていれば、歯を新しくしたり、目玉を“新品”に交換したり、古くなった血管を新しくしたりできるのかもしれない。

 しかし、そういう治療には、相当な出費を覚悟しなければならないだろう。先進国の一部の人間にはそれができるとしても、世界の圧倒的多数の人々には、こういう治療は依然として“かなわぬ夢”であり続ける。そして、私一人の目を取り替えるのに必要な金をそれらの国で有効に使えれば、何十人、いや何百人もの命を助けることができるに違いない。このように、先進国の人間一人を救うお金で途上国の100人を救うことができる時、人類の良心はどちらを救えと叫ぶだろうか。   (谷口 雅宣)

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2002年2月 1日 (金)

“女性の世紀”実現の技術?

 最近の科学技術は、驚くべき“飛躍”を実に簡単に達成するように見える。例えば、何年も先でなければ実現しないと考えられていたことが、数ヶ月で実現することがある。今日付の『産経新聞』が報じていた“受精卵を使わないES細胞”などが、その好例と言えよう。昨年11月に人間の「クローン胚」をつくったと発表して世間を騒がせたアメリカのバイオ企業が、今度はカニクイザルの未受精卵に単為発生を起こさせて“受精卵”のようなものをつくり、そこから取り出した細胞塊に化学的刺激を与えることで、神経細胞、筋肉細胞、脂肪細胞、そして心筋に似た細胞を分化させることに成功したそうだ。その研究は、この日発行のアメリカの科学誌Science』に掲載されているというから、いいかげんな情報ではないはずだ。

 私はほんの数日前に、月刊誌『光の泉』のために「人の受精卵を破壊してつくるES細胞などより、大人の体にある成人幹細胞の研究に力を入れるべし」という内容の文章を脱稿したばかりだったが、「受精卵を使わずにES細胞ができる」などということは絵空事だと思っていた。そんなことは自然界の秩序を考えれば実現するはずがない、と高をくくっていたのだ。しかし、カニクイザルで実現することは、人間でも実現する可能性があると考えていいだろう。もし実現すれば、女性は自分の卵子をもとにして、心臓や血液や神経細胞をはじめ、自分の体のあらゆるスペアーパーツを、拒絶反応なしに安全に入手することが可能になる。男はもともと女性より生存率が低いから、女性はこれによってますます寿命や生存率を延ばし、21世紀は文字通りの“女性の世紀”になるかもしれない。

 とまあ、ここまではSF的な想像によるものだが、今回の研究に対する専門家の意見を読むと、この技術はそれほど簡単に実用化しないのかもしれない。ある人は、「このような細胞が人の治療に使えるような安全性を備えているか疑問だ」とコメントしている一方、別の人は「一部の臓器を除けば、通常のES細胞と同様に再生医療に応用できるのでは」と言っている。

 単為発生は「単為生殖」ともいい、英語の「parthenogenesis」の翻訳である。「parthenos」は「パルテノン神殿」の語源となったギリシャ語で「処女」を意味するから、「処女懐胎」という神話的なニュアンスを含んだ言葉だ。科学的に言えば、精子の関与なくして卵子から胚(胎児)ができることだ。単為発生は、下等動物では個体が誕生した例もあるが、哺乳動物は精子と卵子の両方の遺伝情報がなければ胚は正常に発育できず、過去には畜産分野で研究が繰り返されたが、妊娠しても胎児の段階で必ず死亡した。今回の研究は、単為発生によってサルの個体を得るのではなく、胚の段階でES細胞(胚性幹細胞)を得るために行われ、得られたES細胞から各種の細胞が分化することが示されたわけだ。だから、この技術が人間に応用できれば、受精卵を壊さずにES細胞と同等の“万能細胞”が得られることになり、ES細胞利用への倫理的問題が緩和される可能性が、科学者の間で期待されているようだ。

 しかし、この新しいタイプのES細胞も、人の卵子を利用(破壊)してつくるのだから、「商業ベースでどんどんやれ」というわけにはいかないだろう。また、従来型の受精卵から得たES細胞との違いも分かっていないから、医療用としてどちらが価値があるかも不明である。特に、単為発生による胚が、これまで哺乳動物では決して個体の誕生に至らなかったという理由が、医療上の安全性と関係があるかどうかは十分確認する必要がある。つまり、再生医療の手段としてこの細胞が本当に安全であるかどうかは、これからの研究課題である。

 さて、「SF的想像」のところで書いたが、ここでの倫理問題のポイントの一つは「卵子の利用」だろう。これは、不妊治療などの生殖補助医療の分野では、新しい個体(子)を得る目的ですでに行われている。例えば、体外受精の目的で、ホルモン剤を使って一度に複数の卵子を成熟させ、採取することは珍しいことではない。また、自分は受精の必要がなくとも、他人の希望実現のため、こういう方法で卵子を提供する若い女性も、アメリカなどでは多くいるらしい。その場合、決して小額とは言えない金銭の授受が行われる。日本も、アメリカに倣って卵子の提供を認める方向で動いているが、21世紀は、卵子や精子を含めた自分の体の一部を、他人の用途のために“売る”時代になっていくのだろうか。   (谷口 雅宣)

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2002年1月28日 (月)

ブタとホウレンソウ

 1月24日付の『産経新聞』の夕刊に、ブタにホウレンソウの遺伝子を組み込むことに近畿大の研究グループが成功したという記事が載っていた。植物の遺伝子を哺乳類の個体で機能させることに成功したのは、世界で初めてだという。その目的は、哺乳類が自分自身ではつくれない植物性油のリノール酸をブタの体内でつくらせることで、ブタ肉を「よりヘルシーに改善」するためという。この研究で誕生した遺伝子組み換えブタは、通常のブタに比べて脂肪中のリノール酸の割合が約2割増加し、この形質が3代目まで受け継がれているという。

 この2日後の1月26日の『朝日新聞』は、日本で未承認の遺伝子組み換えパパイヤが埼玉県のスーパーで売られているのが見つかった、と伝えていた。このパパイヤは米国産で、アメリカではすでに承認されて流通しているものだが、日本では厚生労働省でまだ審査中だ。恐らく「ウイルス病に強く」するための遺伝子組み換えが行われているのだろうが、審査をパスすれば「遺伝子組み換え」を示すシールを貼って流通することになるはずだ。ところがそれが、承認前に表示なしで流通していたわけだ。

 私は、遺伝子組み換え食品についていろいろな所で懐疑的な意見を吐露しているが、この2つの“新製品”のうち最初のものを見ると、この疑いはさらに深まるのである。ブタの遺伝子組み換えの場合、人間が動物性の脂肪の採りすぎで高脂血症などの成人病になるのが問題ならば、ブタなどの肉の摂取量を減らしてホウレンソウを食べればいいのである。なぜ高額な研究費を投入し、ブタの遺伝子組み換えまでして“ヘルシーな肉”などつくらなければいけないのだろう。ブタ肉を食べるだけで、野菜も一緒に食べたのと同じ効果を生み出すことをねらっているのだろうか。そんなことをすれば、野菜を食べない子どもたちがますます増えていかないか。そして、そういうブタが殖えればふえるほど、それを飼育するための土地が必要となり、田畑や森林が減る。遺伝子組み換えブタの「開発動機」は一見善いように見えるが、どうも狭い視野から物事を見ているような気がする。

 それとも科学者たちは、もっと大がかりなことを考えているのだろうか。このブタとホウレンソウの合体の研究は単なる“足場”で、もっと広範囲にわたる植物と動物との合体をねらっているのだろうか。それとも、ブタは実験台に使っただけで、本当は人間自身が体内でリノール酸をつくれるような、人体改造を視野に入れて遺伝子組み換えを行っているのだろうか。

 こういう疑問は、恐らく考えすぎだろう。私は、基本的に科学者の良識を信じているのだが、科学者がいかに善意で研究を進めても、それによって開発された技術が、企業や普通の人々によって必ず善の目的に使われることは、誰も保証できない。今回発覚した大手食品メーカーの牛肉の原産地詐称では、大企業で働く人たちのモラルの低さを見せつけられたようで、暗澹たる気分になる。食品を販売する企業の社員が、それを体内に入れる消費者の健康を一顧もせずに、企業利益のために原産地詐称を組織的に行っていた疑いがある。オーストラリア産を国産と偽ったのは、国産とすれば、狂牛病対策として政府に買い取ってもらえるからだが、それはつまり国民の税金を企業の懐に入れる行為に等しい。また、狂牛病感染の危険性が否定できない北海道産の牛肉を熊本産と偽ったことは、万一、消費者がそれで死病に感染しても、企業の実入りが減らなければいいという判断があったからだろう。そういう社員が、大手の食品会社で働いているならば、科学者が国民の健康の維持や増進を目指して遺伝子組み換え食品を開発することに、一体どれだけの意味があるのかと思えてくる。

 今回行われた食品のラベル貼り替えが、もし他の企業においても恒常的に行われていたなどということになれば、原産地詐称に止まらず、賞味期限や品質の詐称、遺伝子組み換え表示の詐称の可能性も浮かび上がってくる。こういう人間のモラル低下は、技術の進歩を無意味にするだけでなく、技術の進歩が、かえって消費者の受けるダメージを広げることにもつながりかねない。だから、今日のような高度技術社会では、人間の倫理性がもっともっと磨かれねばならないのだ。それとも、もう食品の表示など信じずに、自分でブタを飼い、ホウレンソウを育てることにしましょうか。   (谷口 雅宣)

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