2002年6月28日 (金)

神の下の国

 今日付の『朝日新聞』によると、サンフランシスコの連邦控訴裁判所が26日に、アメリカ各地の学校で行われている星条旗に対する忠誠の誓いの言葉の中に「神の下の国」(one nation under God)とあるのは、政教分離を規定した合衆国憲法に違反するとの判断を下したという。判決によると、この誓いの言葉の中に「神の下」とあるのは、「イエスの下」とか「ビシュヌ神の下」とか「ゼウスの下」とか「何の神の下にもない」というのと同じように、宗教的に中立ではないから、これを学校で子どもに言わせるのは正しくないのだという。

 これに対し、ワシントンのアメリカ連邦議会上院は同日、宣誓は合憲で問題ないとする決議を全会一致で採択し、何人もの下院議員が議会前に集まってこの誓いの言葉を唱え、「神の祝福あれ」の歌を歌ったという。また、フライシャー大統領報道官によると、ブッシュ大統領もこの判決を「ばかげている(ridiculous)」と批判したという。

 同日付の英文紙『ヘラルド朝日』は、これについてのニューヨークタイムズの記事を掲載しているが、それによると、もしこの判決が確定すれば、サンフランシスコ連邦控訴裁判所の管轄下にあるアメリカ西部の9つの州(アラスカ、アリゾナ、カリフォルニア、ハワイ、アイダホ、モンタナ、ネバダ、オレゴン、ワシントン)では、星条旗への忠誠の誓いの言葉を学校で唱えることが禁じられることになるらしい。しかし、法律家たちの予想では、この判決は控訴されれば覆される可能性が高いという。

 この裁判は、無神論者の医師、マイケル・ニューダウという人が、カリフォルニアの州都サクラメント近郊の小学校に通う娘のために起こしたものだ。1943年の連邦最高裁判所の判決以来、子供たちはこの誓いの言葉を強制的に言わされることはないのだが、ニューダウ氏の言い分は、州の経営する学校内で、州職員である教師の先導により、「神が存在する」こと、そして「自分たちの国は神の下に一つである」ことを宣言する儀式を見せられ、聞かされたから、娘の憲法上の権利が傷つけられたというのである。

 同じ記事によると、この「神の下の国」という言葉の「under God」の部分は、冷戦初期の1954年、連邦議会が無神論の共産主義を掲げるソ連陣営に対抗する目的で付け加えられたもので、判決はこのことに触れ、そのような目的は、政府が他の宗教を犠牲にして特定の宗教を認可あるいは推進することだけでなく、無神論を犠牲にして特定の宗教を擁護することも禁じる合衆国憲法修正第一条の規定に違反する、とした。

 しかし、これとの関係で思い出すのは、アメリカの紙幣や貨幣に「In God We Trust」(我々は神を信ず)と印刷してあることで、これについては1984年、連邦最高裁判所は、この言葉は「繰り返して使われてきたため、宗教的意味は失われている」と判断したそうだ。「神の下の国」という語が誓いの言葉の中に使われ始めてからもう半世紀近くたっているが、「半世紀」では、まだ宗教的意味は失われていないということなのだろうか。何だか納得できない理由づけである。

 それより私が気になるのは、この判決が「神(God)」という言葉を固有名詞として捉えている点である。「神の下の国」(one nation under God)という表現を公立学校で使わせるのがいけない理由は、「イエスの下の国」とか「ビシュヌ神の下の国」とか「ゼウスの下の国」という表現を使わせるのがいけないのと同じで、特定の宗教を国が擁護したり推進したりすることになるから−−というのである。つまり、「イエス」や「ビシュヌ神」や「ゼウス」と同等の相対的な存在として「神」を捉えているのである。法律家は、この程度の神の理解で仕方がないのかもしれないが、もう少し深みのある理由づけをしてほしかったと思う。

 拙訳『叡知の学校』(日本教文社刊)の中には、「感覚によって神を知ろうとすれば、擬人的な投影、つまり人間の姿をした神を作りだすことになる」という注意書きがあり、そして「宇宙の創造主である神は、いかなる人間の想像や表現も超えた偉大なもの」として描かれている。そういう考え方をすれば、イエスやビシュヌ神やゼウスは、それぞれの文化から生じた神の“擬人的投影”であるから、“応化神”として同等であると言える。しかし、それらが応化し来る“元”の「神」は唯一絶対の存在であるから、すべての存在(実在)は「神の下」にあると言える。だから、「神の下の国」とは「神の国」のことである。それに忠誠を誓うことは結局、「イエスの下の国」にも「ビシュヌ神の下の国」にも「ゼウスの下の国」にも忠誠を誓うことになる−−こういう説明をしたいところだが、理解してくれる人がどれだけいるかは疑問である。

 今回の判決は、連邦最高裁判所までいって覆されるという予測が支配的だが、その際、どのような判決理由が述べられるのか興味のあるところだ。 (谷口 雅宣)

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2002年3月19日 (火)

釈迦と悪魔

 3月のあるうららかな日の午後、釈尊が菩提樹下で瞑想をされているところへ、悪魔がひょっこりやってきて問答を仕かけた:

悪魔--これはこれはお釈迦さん、こんな陽気でも座禅三昧ですか。私は少し妙な話を聞いたので、ちょっと教えを乞おうと思ってここへやって来たんですがね。
釈尊--何かね。
悪魔--いやね、私ゃ普段はユダヤ以西がテリトリーなんですがね、今日ははるばるインドまで来たってのはわけがありましてね、何でも20世紀に日本という国で始まった宗教では、「悪はない」って教えているらしいんです。それだけでも十分奇妙な話ですが、もっと妙なのは、その「悪はない」って教えはお釈迦さんも説いたなんて言ってるそうでしてね、私ゃ「そんなバカな」と思ったんですが、仏教のことはあまり詳しくないんで、ひとつ教えを説いた張本人に聞いてみれば一発で疑問解消だと思いましてね。
釈尊--私が「悪はない」と説いたかどうか聞きたいというのか。
悪魔--そうです。
釈尊--何のために、それを知りたいのかね。
悪魔--そりゃ、お釈迦さん、私にとっては重大事ですから。
釈尊--なぜかね。
悪魔--だって、私は悪魔ですから。悪がないなら、私はいないってことになるでしょ。
釈尊--誰があなたを悪魔だと言ったのか。
悪魔--誰って、みんなです。地上でも天上でも霊界でもアストラル界でも、すべての生き物は私のことを「悪魔」って呼ぶし、私もそうだと思う。
釈尊--なぜあなたは自分が悪魔だと思うのかね。
悪魔--そりゃ、悪いからです。徹底的に悪い。
釈尊--どんなことをあなたは「悪い」と思うのかね。
悪魔--へへへ、お釈迦さん。最近の私の仕事、聞いてくださいよ。
釈尊--何をしたのか。
悪魔--2001年9月11日ですよ。
釈尊--その日に何があったのかね。
悪魔--えっ、知らないんですか?
釈尊--私の前には極楽浄土があるのみだ。
悪魔--あっ、そう。じゃあ、話がいがあるなぁ。簡単に言えば、何百人も人の乗った旅客機を、何千人も人が働く高層ビルにぶち当ててやったんです。ありゃぁスゴかったね。しかも1回じゃなくて、2回もね。3回目は残念ながら目的が反れたから、犠牲者は少なかったですがね。
釈尊--大地震が起これば、そのくらいの数の犠牲者は出るのではないかな。
悪魔--えっ? 地震の方が私より悪いってこと?
釈尊--そうは言っていない。


悪魔--私が「徹底的に悪い」って言ったのはね、その惨事を全部神様のせいにしてやったからですよ。人間の世界ではね、あれは悪魔の仕業なんかじゃなくって、神の名において、信仰深きイスラム教徒がやったってことになった。だから、イスラム教徒は迫害されたね。そして、キリスト教徒が報復戦争を始めただけじゃなくて、ヒンズー教とイスラム教の信者の間にも今や戦いが起こっている。そういう様子を見て、神への信仰を捨てた人もいっぱい出た。「宗教を信じることは百害あって一利なし」ってわけですよ。こういうことは地震なんかにはできないね。
釈尊--で、それが「徹底的に悪い」という意味かね。
悪魔--そう。これ以上に悪いものは、地上にも天上にも霊界にもアストラル界にもない。
釈尊--なぜ、それが悪いのかね。
悪魔--えっ? お釈迦さんは悪いって思わないんですか?
釈尊--昔、地球に落ちて恐竜を絶滅させたような隕石がまた落ちれば、人間は自分が助かるために世界戦争を始めるかもしれない。そんな時は、宗教などに構っていられないのではないか。
悪魔--あっ、また転変地変をもってきて、私の悪さを低めようとするのですか。意地が悪いなぁ、お釈迦さんは。
釈尊--如来に「意地」などというものはない。あなたの方が意地を張っているのではないかな。
悪魔--どういう意地です?
釈尊--自分こそが最悪でなければならないという意地だ。
悪魔--そりゃそうです。何しろ私は悪魔ですから。
釈尊--ところで、あなたはどうして9月11日の事件が最悪だと分かるのかね。
悪魔--その質問にはもう答えたと思いますが? 「徹底的に悪い」という理由は、前に話した通りです。
釈尊--いや、そうではなく、あなたはどうやって「やや悪い」とか「相当悪い」とか「最も悪い」などというように、悪さを量ることができるのかね。あなたがもっている“悪さの量り”とは、どういうものかな。
悪魔--そんなこと、考えたことなかった。しかし、言われてみれば、確かに私は悪さをランクづけしてましたね。うん、そうです。その“量り”っていうのは、こういうことです。人間が希望していることをどれだけ裏切るか。人間の望みをどれだけ打ち砕いてやるかによって、悪さの度合いが決まりますな。私は悪魔だから、人間にとって最も絶望的な結果を引き起こすのです。
釈尊--ということは、人間は皆、善を望んでいるということかな。
悪魔--うっ、鋭い質問ですね。それは一概には言えませんね。ある人間が私の味方になった時、彼は悪を望むんです。あのオサマ某のようにね。
釈尊--それでは、オサマ某の方があなたより悪いこともあるのだね。
悪魔--そんなことはありません。オサマ某は私の入れ知恵によって悪事を起こしただけです。
釈尊--それでは、オサマ某はあなたがいなければ、悪事を起こさなかったということかな。
悪魔--その通り。
釈尊--では、オサマ某は根は善人ということになる。
悪魔--まあ、そういう言い方もできるでしょうが、「私がいない」なんてことはないから、彼は悪人なのです。
釈尊--ふーむ。ではそのことは、オサマ某だけに当てはまることかな。つまり、悪魔であるあなたがいなければ、オサマ某だけが善人でありえるのか、それとも、ほかの人間も皆、善人たりえるのかな。
悪魔--お釈迦さん、私は悪の根源です。私がいなければ、人間はみなエデンの園に今でもいる。
釈尊--では、悪の原因は人間にないのだから、この問題は結局、悪魔であるあなたが本当に悪いのかどうかという命題に帰着するね。
悪魔--お釈迦さん、何だかソクラテスみたいな話し方ですね。
釈尊--私は、古代ギリシャにいたこともある。
悪魔--そりゃそうだ。私もいたことがありますからね。
釈尊--それで、人間の問題は無視して、あなたが悪かどうかを検討することでいいかな。
悪魔--いいでしょう、あまりにも自明なことです。
釈尊--何が自明かね。
悪魔--私が最悪ってことです。
釈尊--それほど自明ではないと、私は思うね。例えば、あなたが持っている“悪さの量り”について考えよう。
悪魔--いいでしょう。
釈尊--その量りの長さは、どこまであるかな。つまり、「最悪」の所は9月11日の事件だというけれど、「相当悪い」とか「やや悪い」という判断もあなたにはできるわけだね。
悪魔--それはね、私がどれだけ工夫するかによるんです。工夫すれば工夫するほど、どんどん悪くなる。
釈尊--その「悪さ」は、人間の希望を裏切る程度によって決まると言ったね。
悪魔--言いました。
釈尊--ということは、あなたは人間の希望をよく知っているということだ。
悪魔--そうなりますね。知らないでいて裏切ることはできませんから。
釈尊--とすると、ある人間が善いことをしようと思っていると、その意図も分かる。
悪魔--そうです。そして、そうならないように仕掛けをする。
釈尊--ということは、その人のしたいことが「善い」ということが分かる。
悪魔--そうですね。
釈尊--では、あなたの心には「善さ」に感応するものがある。
悪魔--「感応」という言葉は好きじゃない。人間の善さを「忌み嫌う」ものがあるんです。
釈尊--しかし、感応しなければ忌み嫌うことはできないはずだが。
悪魔--じゃあ、感応して忌み嫌うんですね。
釈尊--だから、やはりあなたの心には「善さ」に感応するものがある。
悪魔--それがあると、どうだというんです?
釈尊--善さに感応するものは、善いものだけだ。
悪魔--感応した結果、悪を生み出してもですか?
釈尊--忌み嫌うからそうなるのだ。それをやめればいい。
悪魔--冗談言わないで下さいよ、お釈迦さん。善を忌み嫌わなくなったら、悪魔じゃない。
釈尊--悪魔じゃなくてもいいんだよ。あなたの中には「善」のセンサーがあるんだから。
悪魔--うーーん、何だか分からなくなってきた。「善」のセンサーは、それを憎むためにあるんだ。善を感知して破壊するためにあるんだ。それは、ネズミ捕りとかクマの罠と同じだ。獲物を感知して殺すだけだ。
釈尊--ネズミ捕りやクマの罠は、獲物を感知することはない。獲物の方がエサを感知して近づいてくるのだ。
悪魔--私もそうだ。人間の方が悪を感知して私に寄ってくるのだ。
釈尊--自分をゴマ化してはいけない。たった今、あなたは善を感知して破壊すると言ったではないか。
悪魔--お釈迦さん、いったいあなたは何を言いたいんですか?
釈尊--私が言いたいのではない。あなたが言ったのだ。
悪魔--何をですか?
釈尊--あなたは善を感知するセンサーをもっていると。
悪魔--だから?
釈尊--善に感応するのは善だけだ。
悪魔--それで?
釈尊--だから、あなたは善だ。
悪魔--あっはっはっはっは……。悪魔が善だったら、悪はない。
釈尊--その通りだ。
悪魔--だったら、悪魔は悪ですよ。だって悪はあるんだから。
釈尊--悪が悪だと分かるのは、善のセンサーがあるからだ。
悪魔--じゃあ、善のセンサーがあっても悪を行うのはなぜです?
釈尊--それはあなたが、仏の慈悲を受け入れないからだ。
悪魔--お釈迦さん、「仏」ってのは私の世界にはいません。
釈尊--じゃあ、「神」でもいい。あなたは神の愛を拒否しているから、善を知っていてもそれを憎む。その憎む心が悪を現わすのだ。
悪魔--悪魔である私が、神の愛を受け入れるはずがない。
釈尊--なぜ。
悪魔--だって、悪魔は神から愛されていない。
釈尊--あなたが勝手にそう思っているだけだ。神はあなたを愛している。
悪魔--何を言うんです。根拠のないことを言わないでください。
釈尊--善のセンサーをもっていることが、何よりの証拠だ。
悪魔--しかし、それを悪用する。
釈尊--ほら、そのことだ。自分のしていることが「悪用」だと分かるのは、どうすれば善用になるかを知っている証拠だ。その善なる知識に素直に従えばよいのだ。
悪魔--悪魔に善知識があるっていうんですか。
釈尊--自分を悪魔と呼ぶのをやめなさい。善のセンサーをもち、善知識のあるものは悪魔ではない。
悪魔--それでは、私の生きている意味がない。
釈尊--神はあなたを愛し、善のセンサーも善知識も与えてくれた。それを素直に認め、神の一部として生きればよいのだ。
悪魔--お釈迦さん、それでは悪はなくなってしまう。
釈尊--悪はもともと存在しない。存在しないものに執着して、それを自己だと思ってはいけない。悪は必ず善に通じる。それは悪が見せかけの存在だからだ。恐竜の絶滅は人類の地球への誕生につながった。奴隷制度は多民族共存の制度につながり、第二次世界大戦は国際連合や国際経済制度につながった。9月11日も、いつか必ず善なる結果に通じるだろう。いずれなくなってしまう悪に自己を執着させることは、無意味だ。悪魔など存在しないのだ。
悪魔--私は存在しない……。
釈尊--そうではない。あなたは本当は天使であり、仏なのだ。
悪魔--ああ、お釈迦さま! 私の体が消えていく。
釈尊--消えゆくものは本物ではない。あなたは神の子として、如来として生まれ変わるのだ。
悪魔--あぁ……。
(谷口 雅宣) 

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2002年3月16日 (土)

“悪はない”と宣言

 今年の春は早い。地球温暖化の影響かと一抹の不安を感じるが、寒さが緩んで暖かくなることは、無条件に心をうきうきさせてくれる。昨日は、東京の都心での気温が最高で23.9℃まで上がり、平年より11.3℃も高い5月下旬の暖かさになった。わが家の庭では数日前にシャガが咲き、モクレンは満開で、レンギョウまで咲いている。昨日はスノーフレークが一斉に開花し、ヒキガエルが池の中で盛大に恋愛劇を演じはじめた。また、関東地方では春一番が吹いたとの宣言も出た。そして気象庁は今日、観測史上もっとも早く東京に桜(ソメイヨシノ)の開花宣言を出した。

 こうやって言葉で宣言すると、本当にそうなったという気がする。春の始まりの頃の強風は、別に昨日初めて吹いたわけではない。また、東京にある夥しい数のソメイヨシノが、昨日より前に花をつけていなかったわけではない。しかし、公の機関が機会をとらえて、厳かに「春一番が吹いた」とか「サクラが咲いた」と宣言すると、我々の方も「いよいよ本格的な春だ」と頭が切り替わるから不思議だ。ついでに「日本経済は不況を脱出した」とか「テロは撲滅された」という宣言も出ればいいのだが、こちらの方は季節の移り変わりのような、必ず起こる自然現象ではなく、人間の心の問題だから、信憑性を獲得できるかどうか疑問だ。

 では「悪はない」という壮大な宣言はどうだろうか? 生長の家は70年以上前からそれをしているのだが、残念ながら、信じない人の方が信じる人よりもまだ多いようだ。にもかかわらず、アメリカ南部の町長さんが最近そう宣言して、話題を巻き起こしている。もっと正確に言えば、この町長は「悪魔はこの町からいなくなったし、金輪際入り込むことはできない」という意味の宣言を書いた紙に署名捺印し、それを4本の中空の柱の中に入れ、町の境界に立てたというのだ。今日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。

 この人は、キャロライン・リッシャーという女性で、フロリダ州西部の港町タンパから北へ120キロほど行ったところにあるイングリスという、人口約1400人の町の町長である。去年のハローウィンの日の夜に“神の声”に導かれて、その悪魔追放宣言を書いたという。柱を立てるという案は、地元のキリスト教会の牧師が言い出したのだが、その背景には、この町の若者たちが妙な服装や行動をするようになり、薬物の使用が噂され、家庭内暴力が増加しているとの認識があったようだ。

「悪はない」というのと「悪魔を金輪際追放する」というのでは、考え方に大きな違いがある。前者は悪の存在自体を根本的に否定しているが、後者は悪の存在を認めたうえで、それが自分(たち)の中に入り込まないことを宣言している。宣言文の一部を引用すると、「この日から、私は次のように宣言する--闇の支配者であり、悪を与え、善と正義を破壊する悪魔は、今、また将来にわたっても、この町に決して入ることはできない。悪魔は無力である。もはやわが市民の何者をも支配することができず、影響を与えることもできない」というわけだ。これでは悪魔の存在を明確に認めているから、「認めるものは現れる」という法則が適用されるかもしれない。

 この「悪魔追放」の宣言を埋めた直後から、役場の電話が鳴り出した。受話器を取ると「私は悪魔だが、町長はいるかね?」「キャロラインか? オレは悪魔だが、あんたがオレのこと大好きなのは知ってるぜ」という調子だ。もちろん、これは悪い冗談なのだが、もっとタチが悪いのは、3月の初旬になって悪魔追放宣言を書いた紙が、柱ごと全部盗まれたことだ。これに対して町は、すぐに代わりの宣言書を作り、柱の中にそれをしまい、先週、今度は柱をコンクリートの中に埋め込んで立てたという。悪魔の側につく人は、しかし少数で、大部分の町民は「法律を守ろう」という姿勢に於てまとまってきたというのが、この町の警察当局の評価だ。

「政教分離」を掲げる現代のアメリカ社会で、このような政策が実行されることには驚かされる。それだけキリスト教の考え方が浸透しているということだろう。では、日本で同様のことが行われる可能性はあるだろうか、と考えてみる。どうもなさそうに思えるが、ひょっとしたら節分の豆撒きなどは、これに該当しないだろうか。日本語の「鬼」を英訳すれば「demon」であり、「demon」を「悪魔」と訳している辞書もある。厳密に言えば「鬼」は「devil」や「Satan」ではないが、近いものではある。だから、日本の町役場や市役所で「鬼ワーソトー!」と盛大に豆撒きをやったとすると、これは「政教分離」の原則に違反することになるのか。何だかややこしくなってきたが、そういう宣言だったら日本でも各所で行われているような気がする。だから「悪はない」という宣言まであと一歩、と考えることもできる。   (谷口 雅宣)

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2002年3月10日 (日)

人間の心は不完全?

 生長の家の講習会が名古屋市であった。例のごとく午前中の私の講話に関する質問を募ったら、質問用紙が30枚ほど返ってきた。これだけ質問が多いと、時間の関係で全部の質問には答えられないので、答える質問を選ばなければならない。「唯心所現の説明をもっと」というリクエストが多かったので、午後の講話の前半でそれを詳しく話した。午前中にもこの教えの説明はしたのだが、不充分な点があったに違いない。「人間の五官は不完全なので、存在そのものをありのまま感じることができない」という話をした時、感覚の「不完全さ」を強調したからだろう、所沢市から来た21歳の男子学生からこんな質問があった:

  人間の不完全な心でどうやって完全な(実相円満な)世界を観ずればいいのですか? 心がある限り決して実相はみつめられないと思います。ということは、生きている限り 決して天国をこの世に顕わし出すということは不可能であるとは言えませんか?

 私は「人間の感覚は不完全」と言ったのだが、この人は「人間の心は不完全」というように理解されている。説明不足だったようだ。私の説明は、人間の五官はどれも不完全で、存在するすべてのものを感じる能力がないし、五官から集められた情報を頭の中で組み立てる際にも、それを完全に、存在の実相そのままの形に、過たずに組み立てることはできない、という意味のことだった。だから、「心も不完全」と言ったと解釈されても仕方がないだろう。しかし、同じ文脈で「人間が真・善・美を求めるのは、人間がそれを知っているからだ」とも言った。「真・善・美」は“神の御徳”とも呼ばれるものだから、それは「完全」という言葉に置き換えることができる。とすると、先の言葉は「人間が完全を求めるのは、人間がそれを知っているからだ」ということになる。「人間が知っている」とは「人間の心が知っている」のと同義だから、すなわち人間の心は「完全」を知っている。完全を知っているものは、「完全」の基準を内部にもっている。そういう意味で、人間の心は完全なのである。

 もっと具体的な話をしよう。講習会でもこのことに触れたが、ソルトレーク・シティーで行われた冬季オリンピックの様子をテレビで見て、私は「人間とは、かくも熱心に“完全”に向かって努力する生き物なのか」とつくづく感心した。読者はどうだったろうか? スピード・スケートでは百分の一秒を争って大変な努力を積んだ人々が、そこにいた。フィギュア・スケートでは、かつては「3回転ジャンプ」が人間の限界だったが、今回は「3回転半」や「4回転」のジャンプが披露された。クロスカントリー・スキーでも、高地での人間の肉体の限界に挑戦する人々の姿がそこにあった。なぜ人間は、あのように「上へ、上へ」と自分を駆り立てるのか? 他人より1秒速く走れたとて、1メートル遠くへ飛べたとて、半回転よけいに体が回ったとて、その人の生存が他人より有利になるわけではない。少なくとも、そうしなければ生きられないわけではない。にもかかわらず、そういう“完全”に近づくために、人々は大きな犠牲を払い、莫大なエネルギーを費やす。それを世界中の人々が見て、興奮し、共感し、感動する。これは、人間が内部の完全性を表現しようとしている姿ではないか。 

 こういうことは、運動選手だけの資質ではない。画家も、音楽家も、俳優も、文学者も、映画監督も、実業家も、発明家も、技術者も、科学者も、農家の人も、料理人も……より優れたものをこの世に生み出すことに生きがいを感じている。つまり、人間は生活のあらゆる側面でエクセレンスを達成することに喜びを感じる種類の生き物である。そのような人間の心には、「完全」のイメージがあると考えざるをえないだろう。

 自己内奥に「完全」があると感じるのが、生長の家の信仰である。私に質問をした男子学生が「人間の不完全な心では、完全は観じられない」という疑問を抱いたとき、彼は恐らく「迷った心では神は観じられない」という意味のことを言いたかったのだと、私は思う。迷った心を時間・空間面に吐き出せば、迷わない本物の心が現れる。言い換えれば、迷った心で何かを行い、その結果が失敗であっても、人間はその失敗を見て、より完全な理解にいたる能力がある。人類の歴史は、そういう学習の連続ではなかったか。このような活動を通して、人間は“天国”をこの世に顕現することが可能であるし、現にそういう活動は営々と行われていると私は思う。

 だから我々は、もっと完全性の方向を見、もっとエクセレントな側面を発見し、地上に真・善・美を表わしているものにもっと注目しなければならない、と私は思う。人の失敗や、醜聞や、贈収賄や、殺し合いや、だまし合いばかりに注目しているのでは、心を「不完全」で覆うことになる。すると、知っているはずの自己内奥の「完全」のイメージは包み隠され、表現できなくなることがある。これが「迷い」の状態だろう。迷いを去るためには、完全の方向に振り向くほかはない。内奥に完全性をもつ人間に、それができないはずはないのである。   (谷口 雅宣)

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2002年2月10日 (日)

この世は“人の作品”か?

 今日、千葉市の幕張メッセのイベントホールで行われた生長の家の講習会では、午前中の私の講話に関してたくさん質問をいただいた。私の手元に届いた質問用紙は、20枚以上あった。時間の関係で、そのすべてにお答えできなかったが、反応が多いということは大変ありがたい。質問の中にはいろいろのものがあるが、内容が高度な質問には、答えるにも多くの時間を必要とする。それが分かったため、重要だと感じたがこの日、あえてお答えしなかった質問があった。次のようなものである:

 「この世が“人の作品”であるという内容(の話)がありましたが、その表現は誤解されやすいのではないでしょうか。人間自体(他の生物を含めて)地球に生かされているという方が正しい表現だと思います。地球上に生命が存在すること自体、地球といういのちがあってのことなのですから

 質問用紙の記述によると、質問者は市川市から来られた「Tさん」という女性のデザイナーである。この人の言うことは、基本的には正しいと私は思う。「この世は“人の作品”」という言い方は、確かに誤解されやすい。しかし、そうではあっても、この言い方も正しいのだから、正しいと言わないわけにいかない。ここのところが、宗教の話では難しいところだ。常識的に「正しい」とされていることだけを言うなら、何も宗教である必要はない。また「常識が正しい」だけなら、宗教は不要である。だからといって、宗教は非常識であっていいわけではない。

 Tさんが注意してくださった「この世は人の作品である」という言い方は、この日のテキストに使った谷口清超先生の『生と死の教え』(日本教文社刊)の中に出てくる。(p.51)その意味は、この世のすべての出来事は人間の心を反映しており、そのことを知れば人間への「教示」であることが分かるということである。文字で表現してしまえばそれだけのことだが、この言葉が含む意味の全体をよく分かるように説明するためには、本の1冊や2冊では足りないだろう。にもかかわらず、1時間の講話でそれを説明するのが私のしようとしていることだ。不満を感じる受講者がいるのは、当然のことかもしれない。

 ところで、Tさんが「正しい表現」と言っている「人間自体が地球に生かされている」という認識は、「この世は人間の作品」ということと、それほど違っているだろうか? 私にはむしろ、前者は後者を証明していると思うのだ。そのわけを説明しよう:

 まず気がついてほしいことは、「人間は地球に生かされている」という認識が成立するためには、我々が自分を「人間」という、地球上の他の生物と異なった生物種の一員として意識できなければならないということである。言い換えれば、我々の心に「意識」とか「自意識」が存在しなければ、「自分」とか「人間」という概念そのものが成立しない。次に、人間でさえ「地球」を実際に見たものはごく少数だから、人間以外に「地球」を知るものがいるかどうかは、きわめて怪しい。例えばチンパンジーは、「オレは地球上の生物の一員だ」とは意識しないだろう。チンパンジーには、「オレ」と「オマエ」を分けて考える自己認識の能力はあるらしいが、「地球」とか「生物」とか「一員」などの言葉はもっていない。大体、彼らが、人間が意識しているような形で「地球」の存在を意識しているとは考えられない。

 さらに、「生かされている」という認識も、人間にしかないものだろう。「生かされている」という言葉は、そこに「原因」と「結果」の関係があることを前提にしている。例えば、「人間が地球に生かされている」ということは、現在の形の地球環境が原因として存在するがゆえに、人間がその中で酸素を呼吸し、水分や食糧を得ることができるという結果が生じている、そういう認識を前提にしている。このような科学的知識にもとづいた高度な因果関係の把握は、いくら頭のいいチンパンジーにもできないだろう。チンパンジーのように脳の発達した霊長類にできないものは、それより“下等”と言われる他の生物種にもできないと考えていいだろう。とすると、「人間が地球に生かされている」という認識は、人間の心の中にしか成立しないことになる。人間の心の中にしか成立しないものを「人の作品」と形容することは、それほど無茶なことではない。

 だから、Tさんが言っている「人間自体が地球に生かされている」という認識は、チンパンジーのものでも、ゴリラのものでも、イルカのものでもない「人のもの」である。このような認識を含め、人が「正しい」と感じるすべての認識は「人の作品」であると言える。そして、人間というものは、「自分が正しいと感じるすべての認識」を「この世」と呼ぶことが多いのではないだろうか。したがって、「この世」は「人の作品」なのである。

 こういう論理的な説明は、講話や講演の中でするよりも、文字によって表現する方が理解されやすいと思った。もちろん、こんな説明で「この世は“人の作品”」という言葉に含まれる広大な意味が、すべて表現されるわけではない。だから読者には、この説明を、ある一面から見た部分的説明として受け取っていただけば有り難い。   (谷口 雅宣)

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2002年1月23日 (水)

クモの糸 (2)

 夢の中で、霊界にいる芥川龍之介に会ったので、お釈迦様が人間の開発した「切れない糸」を使った場合の物語を書いてもらった。題して、『新 蜘蛛の糸』という:

 お釈迦様がある日、極楽の庭を散歩しておられた時のことです。お庭の蓮池には、緑の団扇を広げたような蓮の葉が所狭しと並ぶ中、ピンクや白の美しい花がいくつも大輪を広げてお釈迦様をお迎えしていました。ふとその花の陰から、地獄の様子が透けて見えているのに気がつかれたお釈迦様は、大泥棒のカンダタが地獄の血の池で息も絶え絶えにもがいている姿を見つけられました。

 このカンダタは、もう何回も地上に生まれ変わっていて、ごく最近は21世紀の初頭にアメリカに生まれて、バイテク企業の研究員をしていました。その時、彼は遺伝子組み換えの技術を使って、柔軟で強靭な糸を作る能力をクモから盗み、それで大金持になったのでした。彼は、働いていたバイテク企業からその技術をもって飛び出し、アメリカ陸軍や医療品メーカーに売ったばかりでなく、秘密裏にイラク軍や国際テロ組織にもそれを売却したので、彼の懐はさらに豊かになったのでした。ところが、やがて何度目かのパレスチナ紛争が起こった時、パレスチナの反政府ゲリラがこのクモの糸製の防弾チョッキを着用していたことからCIAが調査に動き出し、カンダタの所業が明らかとなりました。そして彼は、ついに国家反逆罪で逮捕、処刑されて地獄へ落ちたのでした。

 お釈迦様はしかし、カンダタがこの技術開発の過程で、クモをできるだけ殺さないように心がけていたことをご存知でしたから、そういう彼の“仏性の芽”をもっと伸ばしてあげたいと思い、地獄で苦しむ彼の鼻の先に、彼が開発した強靭なクモの糸をこっそりと垂らしてあげたのでした。カンダタは、赤い雲の合間から何か細い筋がキラキラと光りながら下がっているのを見て、「まさか」と思いました。この地獄の血の池で、地雷で飛ばされた人の手足や、中絶胎児の体の残骸が浮かんだり沈んだりする中、疲労でぼんやりした頭の片隅でカンダタが感じていたのは、「こんな光景をいつか体験したことがある」という感覚でした。その微かな記憶によると、この糸はクモの糸で、これを伝って昇っていけば地獄から抜け出せるかもしれないということでした。それに、この光るクモの糸には、何だか見覚えがあるのでした。

 カンダタは、片手をうんと伸ばして糸をつかまえ、力を入れてそれを手繰り寄せると、自分の体が池から浮かびかかっているのでした。「よし、このチャンスを無駄にするな!」と彼は喜び、生き返ったように体を動かしながら、クモの糸をよじのぼり始めました。最初のうちは、エイエイと心で気合いをかけながら元気よく昇っていきましたが、やはり普段からロクな食事をしていないので元気は続かず、50メートルも昇ったところで息が切れだしました。そこでカンダタは、少し休むつもりで体を止め、自分の昇ってきた下界を眺めました。彼は、血の池地獄をこんな高さから見るのは初めてでした。だから、この池がブタの心臓の形をしていて、所々で白い噴煙を上げているのを知って驚きました。しかしもっと驚いたのは、自分の下方40メートルくらいの所で、彼のつかまっている同じ糸を伝って、無数の人がアリの行列のように昇ってくることでした。「冗談じゃない」とカンダタは思いました。こんな細い糸に大勢の人間がつかまれば、いくら強靭なクモの糸でも、すぐに切れてしまう、と彼は思いました。「この糸はオレのものだ。オマエらは昇ってくるな。下りろ、下りろ!」と、彼は下に向かって叫びました。

 しかし、下から続く人の列は、カンダタの言うことなど一向に構わず、どんどん昇ってくるのでした。そこで彼は、自分の体のあちこちを触って、ハサミかナイフがないかを探しましたが、ありません。じゃあ、歯で切ってやろうと思って糸に口を当てましたが、彼の歯は、地獄の責め苦の中で鬼に抜かれて全部なくなっていたことに気がつきました。「チクショー」と思ったカンダタは、もうこの上は、糸が切れる前に脱出するほかはないと決意し、改めて全身に力を込めて昇りはじめました。しかし、この努力も、さらに50メートル昇るまでは続きませんでした。手に汗をかいて糸が滑りだしたことと、体の疲労が限界に達したからです。体の力が抜けてくると、カンダタの体はすーっと下へ滑っていきました。最初は、1メートル滑ったところで手の力でやっと止めました。しかし、その後は、2メートル、3メートルと、体は下へ下へと滑っていくのでした。そしてついに、カンダタは下から昇ってくる人の群に追いつかれました。

 「バカヤロー」と、下の男が怒鳴りました。「ジャマしないでよけろ!」とその男は言うのですが、皆が1本しかない糸につかまっているのに「よける」ことなどできません。そこで、ケンカが始まりました。ただでさえ疲れているのに、ケンカのために足や手を使うとなると、耐え切れずに糸から放れて下へ落ちていく者も出てきます。カンダタは3人の男を突き落としたところで力が尽き、4人目の男に足を引っ張られて、下へ落ちていきました。50メートルも落下して血の池に落ちる衝撃は、相当なものです。ダイビング選手でも、20メートルの高さがあれば、打ち所が悪いと体が赤く腫れ上がります。カンダタは、横っ腹から血の池に落ちましたから、一言「ウーーン」とうなると気絶してしまいました。

 地上の世界では、池の中で気を失えば、普通は窒息死してしまいます。しかし、死んでから行く地獄ではもう死ぬことはないので、カンダタはやがて意識を取りもどしました。そして、池から顔を出して糸の行方を捜してみると、そこには先を争う人々が数珠つなぎになって、突いたり、蹴ったり、落ちたり、落としたりしているのでした。カンダタは、しばらくその様子を眺めて見ていましたが、やはりこのあさましい争いばかりの地獄から逃げ出したいという思いが募り、戦場と化したクモの糸に向かって、再び決意を込めて進んで行きました。

 一方、極楽では、お釈迦様がそんな地獄の様子を眺めておられましたが、やがて悲しそうな顔をされて首を横に振られました。両手には、無限の長さの糸を用意しておられたのに、下の人間が正しい心を起こさないために、それが使えず、彼ら自身が自分たちをわざわざ救われない状態に置いているのでした。無限の長さの糸があれば、それを撚って紐とし、その紐をさらに撚ってロープとし、ロープの所々にコブを作って足場にすれば、多くの人が、休みながら、それを伝って極楽へ来ることができるのでした。しかし、そのためには、皆が一致協力する心、他人を思いやる心を起こす必要がありました。かつてカンダタが、研究に利用しながらもクモを思いやった心を取りもどすのを、お釈迦様は期待しておられたのでした。   (谷口 雅宣)

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2002年1月20日 (日)

ク モ の 糸

 大寒の空の下では、動き回る虫の数は少ない。当然、それを捕食するクモの姿も、クモの巣もないのが普通だ。これは、晴天が多いことに加えて、関東の冬の、もう一つのいいところでもある。わが家には草木が多いから、夏場などは飛び回る虫を捕るために、クモが各所に巣をかける。その糸は目に見えないほど繊細だから、庭を歩いているうちに人間がクモの糸にかかることも珍しくない。顔や目など、感覚が敏感な所にクモの糸がかかった時の突然の不快感は、なかなか慣れることができない。手で払っても、その手にまとわりついてくる。糸はよく伸びるから、なかなか切れない。

 このクモの糸の強靭さと軽さを繊維に利用するための技術が最近、開発されたらしい。クモの糸は絹よりも強く、ナイロンよりよく伸び、薬品や熱にも強いらしいが、このほどカナダのバイテク企業が、米陸軍の研究グループとともに、この糸を作るクモのタンパク質を牛とハムスターの細胞に組み込み、その細胞を培養して繊維を取り、細い糸に紡ぐことに成功したという。まだ、本物のクモの糸ほどの強度はないというが、今後の研究で改善の余地は十分あるらしい。また、ヤギの細胞にこのタンパク質を組み込み、ヤギの乳から繊維を採る計画もあるという。こうすれば、このヤギのクローンを作ることで、クモの糸の繊維を乳から大量に生産することが可能になる。この繊維は強靭なばかりでなく「自然に還る」性質をもっているから、用途は広く、手術用の糸、腐る釣糸、軽くて柔軟な防弾チョッキなどが考えられているという。

 ところで、芥川龍之介の書いた作品に『蜘蛛の糸』という有名な短編小説がある。ある日、極楽を散策していたお釈迦様が、蓮池の下に見える地獄にクモの糸を垂らして、カンダタという大泥棒を助けようとするが、カンダタはクモの糸を伝わって途中まで昇ってきたところで下を見る。すると、無数の罪人たちが同じ糸を伝ってアリの行列のように昇ってくるので、ただでさえ細い糸が切れるのを恐れたカンダタが「この糸はオレのものだ。下りろ、下りろ」と大声で怒鳴ったところ、糸は急に彼の手元から切れて地獄に舞いもどってしまう--こういう話である。「人の不幸を顧みずに自分だけ幸福になろうとしても、それはできない」という教訓が含まれた話で、学校の授業で取り上げられることもあるから、憶えている人も多いと思う。芥川自身の言葉によれば、「自分ばかり地獄からぬけ出そうとする……無慈悲な心が、そうしてその心相当の罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまった」というわけである。

 私は中学生の頃にこの話を読んだと記憶しているが、その鮮明な描写とリズミカルな文体を通して語られる「エゴイズムはいけない」というメッセージには、大いに説得された。こういう倫理的な教えは、しかし頭で納得しただけではあまり意味はなく、自分がそれを行動で示せるかどうかがその人の倫理性を決める。が、これがかなり難物である。朝の通勤ラッシュ時に、人を押しのけて自分だけが電車に乗ろうとしないか。自分だけが良い成績をとろうとしていないか。他人を犠牲にして出世を考えていないか。自分や家族だけの健康を考えて農産物を作っていないか。自分の会社だけで市場を独占しようとしていないか。自国だけが繁栄しようとしていないか。人間だけの繁栄を意図していないか……? こう考えていくと、我々はよほど心して生きなければ、カンダタと同じような結末が待っていそうである。

 お釈迦様が極楽から垂れたクモの糸を、人間は今、バイオテクノロジーで作り利用しようとしているわけだ。カンダタが下を見て「下りろ、下りろ」と言った時、その糸は切れたが、今度はどうだろう。体に吸収される手術用の糸や、自然に還る釣糸は一見、問題なさそうに思えるが、それを大量生産するためにヤギや牛の遺伝子を組み換えたりするのは、いかがなものだろう? 防弾チョッキは警察や軍隊には重宝がられるに違いないが、銀行強盗やテロリストが着用しないという保障はない。“技術の糸”は、いったん開発されれば、誰でもそれをつたって昇ってくる。芥川サンが生きていたなら、お釈迦様が「切れない糸」を垂らした場合の物語も書いてもらえたかもしれない。   (谷口 雅宣)

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2001年12月 9日 (日)

硬質な技術

 生長の家の講習会で三重県伊勢市に来た。妻の故郷であるから過去何回も来ているが、講習会のために来るのは2年ぶりだ。朝、ホテルで読んだ『中日新聞』の第1面に、人のES細胞(胚性幹細胞)研究の申請が国内で初めて文部科学省に出されたことが報じられていた。長野県松本市の信州大学が提出したもので、2004年までは人工臓器をつくるための基礎研究を行い、2009年に人を対象とした臨床応用を開始することを目指しているという。使用するES細胞は、研究で先行しているアメリカからの輸入を当面は考えているらしい。この分野では、京都大学が“国産”のES細胞樹立を目指した研究を進めており、信州大も自前の細胞樹立を考えているようだから、来年からいよいよわが国でも人間のES細胞を使った人工臓器の研究開発が本格的に始まることになるだろう。

 ES細胞研究の問題については、拙著『神を演じる前に』(生長の家刊)をはじめ、本欄でも何回か取り上げ、さらに最近の月刊誌『光の泉』でも2回にわたって書いた。基本的な問題は、現在の方法では受精卵を破壊しなければこの細胞を作れないということだ。今の日本政府の考え方は、人の受精卵を「人の命の萌芽」として捉えているが、「人そのもの」とは認めていない。だから、現に生きている人の命を助けるためには、親の同意があれば受精卵を利用して構わないと考える。しかし、宗教は基本的に、肉体の形成以前に人の霊魂の存在を前提としているから、その霊魂の大切な“道具”である肉体がまさに形成され始めている場(受精卵)を、たとい親の同意があったとしても、霊魂本人の意思を無視して奪い去る行為は、控えめに言っても問題が多い。だから私は、「人の胚の利用」にも「ES細胞研究」にも反対すると『光の泉』誌には書いたのだった。

 この日の午後の講話では、『中日新聞』の記事を引用して、この問題を論じた。複雑な科学技術が用いられる分野だから、受講者がどれだけ理解してくれたか定かでないが、あとで伊勢の義父が電話してきて「午後の話は良かった」と言ってくれたのは有り難かった。同じ『中日新聞』の第1面には、皇太子殿下と雅子妃殿下の腕の中で安らかに眠る愛子さまの大きなカラー写真が掲載されている。前日に無事、宮内庁病院を退院されたという記事である。この2つの記事の関連はまったくないようだが、9ヶ月前には、愛子さまも受精卵の姿であったことを考えると、震撼とするものを感じないだろうか。ある魂は多くの人々の祝福を受けて幸せな地上生活を送るが、別の魂は、できかけた肉体も奪われて、親世代の道具として利用される。この圧倒的な不平等を、読者はどう感じるだろうか。

 講習会終了後、神宮農業館まで足を延ばした。伊勢神宮のお社は、古きよき日本の伝統を自然とのつながりの中で教えてくれるが、西日に輝いたこの建物は、何か近づきがたい硬質な印象を受けた。この硬質さは、科学の研究とも共通していないだろうか、とふと考えた。自然の営みの中に人間が関与する際の「畏れ」とか「尊敬」の感覚を、科学技術は着々と取り去りつつあるように思うのだが……。

(谷口 雅宣)

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2001年10月21日 (日)

3つの一神教

 茨城県水戸市で行われた生長の家の講習会では、参加者から同時多発テロ事件に関する質問がいくつも投げかけられた。「宗教家としてどう考えるか」という一般的なものから、「日本人として、自分たちが恵まれている点に感謝して生きるだけでいいのか」とか「イスラム勢力との関係を真剣に考えなくていいのか」などの具体的なものまであった。時間的に制約があるため、すべての質問に行き届いた回答をすることはできないので、私は次の点だけを強調した。それは、今回の事件は宗教間の争いではなく、国家間、もしくは少数の過激派集団と国家の間の政治問題であるということである。かつて日本では、オウム真理教という特異な教義を信奉する過激派集団が日本国家を敵に回して武力闘争を試みたことがあるが、それを国際的に規模を拡大したような関係にあるのが今回の事件である。前者が、オウム真理教と日本神道の戦いではなく、あるいは仏教(オウム真理教は仏教を標榜した)と神道の争いでもなかったように、後者はイスラームとキリスト教ないしはユダヤ教との争いではないのである。

 また、私が講習会で強調したのは、ユダヤ教もキリスト教もイスラームも、同じ神(唯一絶対神)を信仰する“兄弟関係”の宗教であるということだ。だから、神と神が対立しているのではない。このことは大変重要なことだと思う。もし一方の最高の価値である「神」なるものが、他方のそれと対立しているのであれば、両者の平和共存は不可能だろう。しかし、事実はそうではなく、最高の価値なるものは共有しているにもかかわらず、その同じ神の言葉を、誰が最も完全に人間に伝えているかという「解釈の違い」で人間同士が見解を異にしたため、3つの宗教ができたのである。大雑把に言ってしまえば、旧約聖書が最善だとするのがユダヤ教であり、新約聖書が旧約を完成すると考えるのがキリスト教であり、コーランが旧約と新約を併せたすべての預言を完成すると信じるのがイスラームである。だから、この三者が、自己の解釈を「唯一絶対」としてそれに執着するのではなく、自然界の多様性に見られるように、唯一絶対の神の表現には多種多様な形がありうることを認め、さらにその多様性を尊重する態度を示せば、三者は共存できるばかりでなく、お互いに発展するはずである。

 理論上はそうなるのだが、なかなか理論どおりにならないのが現実でもある。講習会後に、水戸の偕楽園に隣接する千波湖に寄った。東京よりひと足早く、湖畔ではイチョウが黄色く色づいてきており、サクラも赤くなり始めていた。緑から黄色にいたる中間の色、緑から赤にいたる段階色、赤から茶色にいたる中間色などが連なり、重なり合って、実に複雑微妙な色のモザイクが現出し目に心地よい。自然界の色の多様さを我々は愛でることができるのだから、宗教や文化の多様性を認め、讃美することができないはずはないと思った。

(谷口 雅宣)

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2001年10月16日 (火)

心で赤ちゃんを招ぶ

 「赤ちゃんを与えて」という祈りが、実際に効果があるという実験結果が出た。『Journal of Reproductive Medicine』(生殖医学)という権威ある医学誌(今年9月号)に掲載された実験だから、科学的にきちんとしたものに違いない。祈りの効果を科学的に検証する試みは、過去に何回も行われているが、この実験によってさらに「祈りは効く」ことが確認されたと言えるだろう。ただし、「なぜ」「どうやって」人間の心が妊娠に結びつくのかなど、祈りがきくメカニズムは全く分かっていない。

 実験の舞台は「全世界」と言っていいだろう。祈られる対象となった女性たちは、1998年12月から翌年の3月まで韓国ソウル市のチャ総合病院で不妊治療を受けていた219人。そして、海を越えたアメリカとカナダ、オーストラリアに住むキリスト教信者が、祈る側を担当した。祈る側の人たちには、対象となる韓国の女性(219人の半分)の写真のみが(1回に5人分)渡され、不妊治療が行われていた3週間、それに向かって「この人が確実に妊娠しますように」という直接的な祈りか、あるいは「妊娠の祈りが効きますように」という間接的な祈りを行った。その結果、祈る対象とならなかった女性たちは26%が妊娠したが、祈る対象となった女性たちは50%の妊娠率だったという。このいずれのグループの女性たちも、自分たちが祈られていることは知らなかった。

 実験での不妊治療では人工授精(IVF)の方法が採られ、これによって受精卵ができる確率は、祈られた女性もそうでない女性も似たようなものだったが、受精卵が子宮に着床する率で大きな違いが出た。また、人工授精はホルモン投与などによって多胎妊娠が一般的に増えるが、その率も、祈られた女性たちの方が祈られなかった女性よりも多かったという。この実験を行ったコロンビア大学のロゲリオ・ロボ博士(Rogerio Lobo)らのチームは、「実験前には、祈りに効果などないという結果が出ると思っていた」という。

 しかし、これは無理もないことかもしれない。現在の科学者の支配的な考えでは、人間の心は脳内の電気化学的反応によって生じることになっているから、そのような微弱で微量なエネルギーが太平洋を渡って韓国へ伝わり、ソウル市の病院のコンクリートの壁を越えて、入院している女性の子宮内の受精卵に着床を促すことなど、不可能である。「科学が説明できないことが実際にある」ということを、今回科学が実証したことになる。思うに、皇太子妃の雅子様が無事懐妊されたことにも、多くの日本国民の心が大きく働いていたに違いない。

(谷口 雅宣)

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