2002年8月16日 (金)

市場外の価値

 6月21日の本欄で、ラヴェンダー・スティックのことを書いたとき、現在の経済統計の取り方を批判してこう書いた−−「大体、ラヴェンダーが生育していること自体が恩恵を生んでいる。人間にだけでなく、虫にも土壌にも恩恵がある。それを加工して装飾品を作り上げることが、都会の映画館へ行った時よりも人の心に満足感を与えるならば、その価値が経済統計に表れないという現在の経済学の方がおかしいのである」。ここでは、ラヴェンダーが育っている土地で、それを使った装飾品や実用品を自分用に制作することが経済統計の中に入らないことへの不満を表しているが、勢いあまって「現在の経済学の方がおかしい」と書いたのは言いすぎだった。

 現在の経済学は、自然環境そのものの価値を数字に表そうとして、いろいろ努力していることを知った。例えば、8月9日発行のアメリカの科学誌『サイエンス』では、メリーランド大学の生態経済学者、ロバート・コスタンザ博士(Robert Costanza)らの研究チームが、人類が動植物の生息地を次々に農地や商用地に転換していくことによって、自然環境が破壊されるという意味だけでなく、最終的には経済的にも損をすることになるという研究結果を発表した。これは、世界中で行われている300の開発プロジェクトを調べた結果だという。

 この研究チームは、気候調整、土壌形成、栄養素の循環、野生種の動植物提供、燃料・繊維類・薬草の供給、そして自然美の提供など、豊かな自然環境が与えてくれる様々な恩恵を経済的価値(ドル値)に換算し、これに「生態系サービス」という名前をつけた。そして、この値と、農地で収穫された作物や森から切り出した材木などの値を比較してみた。すると、自然環境を維持していくことと、そこを開発して農地や商用地に転換することの地球規模での費用対効果の割合は、「少なくとも100対1」であることが分かったという。つまり、開発をすればするほど人類は損をするというのである。

 コスタンザ博士らは、1997年に未開発の地球の自然の価値を「年間平均38兆ドル」であると試算した。これにもとづくと、人類の開発行為によって毎年2500億ドルの「損失」が生まれているという。これは、開発によってもたらされた経済的利益をすべて加えたあとでの損失である。我々は、自分の目に見える範囲のものしか考慮しない“近視眼”的な傾向があるから、古い経済学では自然資本(natural capital)というものを考慮せず、「市場」の動きばかりに注目する傾向があった。しかし、コスタンザ博士は「人間にとって重要なことの多くは、市場の外にあることが分かってきた」と言う。この「市場の外の価値」を我々はもっと大切にしていくべきなのだ。

 「市場の外の価値」と言えば難しく聞こえるが、簡単に言えばそれは「お金で買えないもの」だ。例えば、ラヴェンダー・スティックを自分で作る経験は、お金では買えない。ラヴェンダー・スティック自体は、どこかのお店で買えるだろうが、それを自らの手を動かして作ることは、自分以外にはできないし、これと、店で買うことの間には大きな違いがある。同じように、(本欄でも書いたが)薪を自分で作ることと店で買ってくることの間には、大きな違いがある。弁当を作ることとコンビニで買うことの間にも、大きな違いがある。「自分でする」ことには、金銭で「買う」ことのできない貴重で、掛替えのない経験があると思う。

 我々はとかくそれを「面倒くさい」と考え、金銭を出して他人の作ったものを買ってしまう。それは、その“何か貴重なもの”を捨てることだ。何のためにそうするか。多くは「時間」を得るためである。しかし、それによって得られた時間は、浪費されることが多い。あるいは、さらに時間を買うための“仕事”に費やされる。そんなことを続けていれば、人生は“空回り”してしまうだろう。そうならないように、注意して生きていきたいと思う。 (谷口 雅宣)

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2002年6月11日 (火)

先制攻撃の道

 アメリカが伝統的な“待ち”の国防戦略から転換し、敵に対する“先制攻撃”を辞さない“攻め”の国防戦略を取り入れつつあると、今日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えた。これは、昨年9月11日のテロ攻撃以来「敵の本質が変わった」とする認識によるものである。これまでの最大の敵は、アメリカ本土を核攻撃で破壊する能力をもつソ連ないしロシアだったが、ロシアとは先月下旬に歴史的な核兵器削減条約を締結したこともあり、今後の最大の敵は、特定の国土をもたないテロリスト集団と、それを支援する“敵性国家”ということになったらしい。

 ブッシュ大統領はすでに今年1月の一般教書演説で、イラクとイランと北朝鮮を“悪の枢軸”として名指しで非難したが、それは、これら3国が9月11日の事件と関係が深いと考えているか、あるいはそれと似た意図をもったテロリスト集団を支援していると判断したためだろう。今年の秋にも発表されるアメリカの新しい国家安全戦略では、テロ集団、あるいはこれらの国が核や生物・化学兵器などの大量殺人兵器を開発し、さらにそれをアメリカやアメリカ国民に対して使用する意図をもっている場合は、相手が実際に攻撃をしかける前であっても、アメリカは“先制攻撃”(preemption)ないしは“防衛的介入”(defensive intervention)によって敵の攻撃能力を破壊し、アメリカ国民の生命と財産を守る−−こういう選択肢を正式に採用することになるらしい。

 アメリカの伝統的な核戦略の考え方の中に「MAD」というのがある。「Mutual Assured Destruction」の頭文字をとった語である。それは、核を保有する2国が対峙したとき、一方が攻撃した場合、核兵器の撃ち合いによって「双方が決定的に破壊される」という状況にあれば、核の抑止力が働くとするものである。もっと具体的に言えば、かつての米ソ冷戦下では、どちらの超大国が先制攻撃を仕かけても、攻撃された側の報復攻撃によって、先制側も決定的に破壊されるという状況があれば、どちらも核攻撃をするメリットはないから、核兵器の発射を防ぐことができる、とするものである。どちらの核超大国も、相手の報復を恐れて核兵器の発射ボタンを押さないだろう、という意味で“恐怖の均衡”とも呼ばれた。また、この理論によって、地球全体を何回も破壊できるような量の核兵器を米ソが貯えることになった異常さを暗喩的に指して、“mad戦略”(mad は英語で「狂った」とか「気違い」の意)とも言われた。

 しかし、この理論は、決して“狂人”を前提としたものではなかった。つまり、米ソ双方の意思決定者は、国家の緊急事態下でも、核攻撃によるメリットとデメリットを冷静に比較考量して、後者が前者を上回る場合は核の発射ボタンを押さずに(あるいは、核の発射ボタンを押すことにつながる決定をせずに)別の選択をすると考えるのである。そして、冷戦下に起こった米ソ間のいくつかの危機(例えば、1962年のキューバ危機)に際しても、両国は実際にこのような冷静な行動をとったと言われている。

 この考え方の下では、米ソの核バランスが崩れて、一方の核兵器が他方を圧倒するようになることは、双方にとって良くないこととされた。なぜなら、そうなると優位に立った側が相手に“第一撃”を加えて、報復が不可能なほど相手を破壊することで、自国の安全を物理的にも心理的にも保障できるようになり、まさにそれをねらった核攻撃への誘惑が生じるからである。別の言い方をすれば、冷戦下の核抑止の考え方では、自国が相手の攻撃の恐怖から自由になるような余地を与えることは、かえって抑止力の弱体化につながると考えられた。だから、ABM制限条約が米ソの間で締結され、「敵の核攻撃に対して自国をある程度脆弱にしておく」という、ちょっと考えると非合理な措置が採られたのである。

 ソ連が崩壊して冷戦が終結した後、“唯一の超大国”となったアメリカは、もはや自国が敵の攻撃に晒されることはないと考えたのかもしれない。アメリカが保有する核兵器と、それを世界中に運べる機動力をもってすれば、どんな国の先制攻撃に対しても、報復によって完膚なきまでにその国を破壊することができるから、どんな国の意思決定者もそれを予見して、アメリカに攻撃を仕かけてくるはずはないと考えてきたのだろう。ところが、昨年9月11日、その楽観的予測は見事に裏切られた。「見事に」と書くのが不謹慎なら、「完全に」と言い直そう。そこで今、アメリカは自国の安全保障政策を抜本的に見直しているのだ。

 ところが、この“先制攻撃”を認める案は各方面からの反対もあり、また実行に際して問題も多いらしい。その中の一つは、この“先制攻撃”にアメリカ人が馴染めるかという問題である。これを成功させるためには、敵に気づかれずに中枢部に近づいて、敵の大量破壊兵器を破壊しなければならない。そのためには隠密裏の攻撃が必要だが、アメリカ人はそういう方法を“だまし討ち”と考えて嫌う傾向がある。実際、日本の真珠湾攻撃はそれをやったというので、アメリカ全土が激怒し、太平洋戦争となった。今後はそれを自らがやることを、アメリカ人が容認するかという問題である。また、一定の国土をもたないテロリスト集団を攻撃する際、今回のアフガニスタンでの戦闘のように、相手が逃げてしまえば効果は少ない。

 しかし、アメリカの立場に立ってみれば、敵の意図が分かっているのに、9月11日のような攻撃を再び受けるまでは、防衛行動に着手できないというのでは何のために国家があるのか、ということになるだろう。ここでは「専守防衛」の考え方は通用しない。敵は一握りのテロリストであるのに対し、犠牲となる国民は数千人の規模だからだ。攻撃を受けた後に報復しても、敵はすでに逃亡しているか、自殺している。彼らは、冷戦時代の“冷静な意思決定者”ではなく“決死の意思決定者”だ。日本でのオウム真理教の事件も、これと共通している。

 今日、死を賭して破壊を決意した人間の前には、社会防衛は困難である。科学技術の“進歩”が、個人の使える破壊力を膨れ上がらせてしまったからだ。しかし、その同じ力を「建設」の方向に使わせれば、社会は向上するのだ。それを国際的規模で行うためには、「力」自体を破壊するのではなく、それを破壊に使おうとする「意図」の方を変えなければならない。つまり、相手を理解し、相手に理解させる努力が、今日ほど重要な時はないと思う。“先制攻撃”を考える以上に“先制理解”の道を探るべきではないか。(谷口 雅宣)

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2002年5月26日 (日)

バベルの塔は崩壊する

 ノンフィクション作家の吉岡忍氏が日本エアシステムの機内誌の最新号に、新宿の高層ビル群のことを書いていた。新宿界隈に住む吉岡氏は、「人間の内面、現実の複雑さに分け入っていくような仕事」をしていて、人間と現実の「双方が入り組んでいる。からみ合って、あっちがこっちに、こっちがあっちに影響している。こんがらがった糸玉を解きほぐすのは容易ではない」という逃げ場がない状態のとき、この新宿副都心の高層ビル街に歩いて行くそうだ。すると自分が「空っぽになったような気」がして「生き返る」という。

 吉岡氏の言葉を正確に引用しよう:   「もちろんここにも人はぞろぞろ歩いていて、巷らしいものもあるのだが、林立する巨大ビルがそれらを圧倒している。そのフラットな壁面が人間を押しつぶし、鋭利なエッジが現実を切り刻み、その存在感がこんがらがった糸玉を吹き飛ばしてくれる。ふいに私は群衆も巷も人里も離れた気分になる。私自身がからっぽになった気がする。」

 そして氏によると、この感じは「雄大な自然と向かい合ったとき」と似ているというのだ。ただし、自然と接したときの「頭のなかも身体も洗われていくようなすがすがしさ」はない。「徹底して人工的で、巨大な空間は私を洗っていくのではなく、たんに抽象化していく。人間の闇を気化し、現実の複雑さを捨象し、人間と現実が織りなす曖昧な領域を幾何学模様に単純化していく」のだという。

 この文章には、ゴシック建築のような東京都庁のノッポビルの前で腕組みをしている吉岡氏の写真が添えられている。この都庁のビルの灰色の、複雑に入り組んだ、それでいて見る人の視線を否応なく高みへと運んでいくデザインは、現代建築の一つの“頂点”を表わしていると私は思う。しかし、その中で働く人々が公僕たる都職員であるということの意味を考え、私はこの建物に対して一種の不快感を覚えていた。だから、吉岡氏が仕事で疲れた心を休めるためにそこへ行くという話は、新鮮な驚きであった。氏は建築物を、その用途から切り離して、美術作品として鑑賞する術を心得ているのだろう。しかし、私はどうしてもその「用途」が気になってしまう。

 去年の9月11日以後、私はこの都庁の建物について或る“妄想”を捨て切れないでいる。それは、この塔に航空機が突入するイメージである。ニューヨークの世界貿易センタービルが、都庁と同じ“双子の塔”であったというだけでなく、前者がアメリカを象徴する建築物であるならば、現代日本を象徴する建物は、大企業がテナントとして入っている霞が関のビル群などではなく、恐らくこの都庁だと感じていたからだ。

 日本には、江戸時代からの“エリート支配”の考え方が根強く残っているように思う。それは、「庶民を支配するものは、選ばれた少数のエリートである」という考え方だ。この少数エリートは、受験勉強に象徴される実力主義の競争の中から選抜されるから、江戸時代の封建的役人とは多少異なるが、しかし人が一旦支配層まで上ってしまえば、後は庶民とは異なる倫理感をもつことが許されるという暗黙の了解があるように思う。昨今の外務省職員による恥ずべき行為の数々を知るにつれ、この感想はますます強まっている。またエリートだから、庶民よりも立派な建物で仕事をすべきだとの了解もあるようだ。これは、封建時代の武士の思想にも通じるもので、したがって武士は立派な城を築いてそこで生活した。それと同じように、現代日本では公務員が税金で立派な建物を建て、そこを都庁や県庁や市役所としても、庶民からは別段大きな反対の声は上がらないのだ。

 しかし、そんな状況がいつまでも続くとは思えない。世界の“少数エリート”であるアメリカの支配に反対の声を上げたのが9月11日の事件だとしたら、東京都庁もいつまでもその威容を誇示しつづけることはできないかもしれない。もちろん、私はアルカイダとは何の関係もない。私はアメリカに反対しているのでもない。私が注意を喚起したいのは、これらの高層建築を誇る側の人々と、それを攻撃したいと思う人々の間にある、救いがたいコミュニケーションの断絶である。日本においては、政治家や役人と一般庶民の間にこれがあり、世界的には先進諸国とイスラーム諸国の間にこれがある。『創世記』第11章の「バベルの塔」の神話は、それを警告しているのだ。人間の奢りを見て主は曰く--「さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」。

 言葉の重要さを学んだ人々は、もっと声を上げることで、この断絶を修復すべきなのだ。   (谷口 雅宣)

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2002年1月 7日 (月)

ヨーロッパの大実験

 2002年の元旦を期して、EUに所属する12ヶ国に一斉にユーロ紙幣と貨幣が導入された。これにより、3億人を超える“ヨーロッパ人”が同じ通貨を手にもって経済活動を始めた。もっとも金融機関同士のやりとりは、数年前から域内ではユーロで行われていたから、ユーロの初登場ではない。しかし、目に見え、手に取れる現金が、まったく新しいものに入れ替わることの心理的影響は、域内の人々にとっては大変強力なものだろう。

 EUでは、すでに1995年のシェンジン合意以来、人々はパスポートなしで他の域内諸国のどこへでも行けるし、住居を構えることも、学校へ行くこともできていた。この「人の自由な流れ」を促進するためのインフラを整える巨大プロジェクトも次々に完成し、今ではイギリスと欧州大陸は地下トンネルで結ばれ、スカンジナビア半島とデンマークが全長16キロに及ぶ橋とトンネルで結ばれている。我々日本人にとっては、欧州統合はヨーロッパ旅行や当地での買い物がしやすくなる程度の出来事に感じられるかもしれないが、よく考えてみると、これは壮大なる“心の実験”である。

 紙幣や貨幣は、印刷物や鋳造物としては、額面通りの価値があるわけではない。別の言い方をすれば、「1万円札」を印刷するのに1万円のコストがかかるわけではない。その表面に書かれた金額が、その通りの価値として通用するのは、それを国家が保証する(と人々が考える)からである。つまり、お金を発行した国への「信頼」が紙幣や貨幣の価値を支えている。だから、ユーロ紙幣/貨幣の導入は、EUという経済・政治連合の将来を、人々がどれだけ信頼するかにその成否がかかっている。これまでの報道では、従来の貨幣とユーロとの交換は(イタリアを除いては)順調に進んでいるようだから、少なくともEU域内では、人類史上初のこの“国家を超えた経済・政治連合”の将来を信じる人々はかなり多いと言えよう。

 この人類初の壮大な実験は、もちろん一朝一夕で行われたものではない。中世以来のヨーロッパの歴史の中で、この地に住む人々の間に共通の価値観がいくつも生まれ、それが政治や経済・文化交流、あるいは戦争を通じ、長い時間をかけて取捨選択・周知徹底され、今日“ヨーロッパ人”と呼ばれる人々共通の精神的拠り所になったと見るべきだろう。『ワシントン・ポスト』紙のT・R・リード記者によると、その精神的拠り所とは「個人の自由の尊重と、自由な討議による民主主義への堅い信念」だという。これはほとんどアメリカ人のそれと同じだが、アメリカでは個人の生活にたいする政府の介入を極力嫌う「個人主義」が顕著なのに対し、一般にヨーロッパでは、国家にある程度の力を与えることで、国民に健康・教育・交通・雇用を保障させようとする「福祉国家」の考え方が浸透しているようだ。こういう精神的基盤の底辺には、もちろん宗教や哲学がある。そして、この共通基盤があったからこそ、言語や文化の表面的違いを超えた国家連合が可能になりつつあるのだろう。

 さて、ヨーロッパから東アジアに目を転じてみよう。ここでの政治・経済状況は、欧州のそれとはかなり異なる。サッカーのワールドカップの日韓共同開催の難しさを見ても、日本人があと数年後に「円」を放棄して「ウォン」や「元」に乗り換えるとはとても考えられない。中国や韓国に対する“土下座外交”を勧める人々が日本国内に多くいたとしても、円の放棄は我々の国民意識(ナショナリズム)やプライドが許さないだろう。では、ヨーロッパのように、他国の貨幣ではなく、第3の“共通貨幣”を日中韓の3国で採用するという話は、どうだろうか? これとて、かなり多くの障害が3国間にはあるだろう。

 “土下座外交”の話を出したが、こういう言葉が使われる背後には、3国間(特に日中、日韓の間)に共通の歴史認識が存在しないという問題がある。ある国にとっては“当たり前”のことが、他の国にとっては屈辱的な“土下座”として映るということは、20世紀の東アジアでの戦争の原因について3国間に共通認識が欠けている証拠だ。ヨーロッパ各国は、中世の時代から戦争を繰り返していながら、また、互いに他国を占領した経験をもちながら、この問題について深刻な対立はもうないようだ。つまり、前世紀の2回にわたる欧州大戦に関しては、当事者間では共通認識ができ上がっているのだろう。また、東アジア3国に比べると、欧州諸国間には、経済や文化の発達程度にも共通のものが多くある。だから、「過去にはいろんなことがあったけれども、将来に向けて、ひとつまとまって行こうや」という気運が今、生まれているのだろう。

 欧州統合にはもちろん、国際競争に勝ち抜くための“似たもの連合”という側面もある。欧州統合が言われだした頃(もう20年以上も前だろうか)、その一つの有力な理由の中に、近代化を終え、人口の減少と高齢化が始まった欧州が、各国バラバラにやっていたのでは、アメリカや日本の経済力にとても対抗できない、というのがあった。今は日本経済がガタガタで、その代わりに中国やブラジルなどの経済力が向上してきているが、欧州統合が成功すれば、こういう“新しい大国”の台頭にも対抗できる準備が整うことになる。

 そういう中で、新世紀に東アジア3国がどのような関係を結んでいくかが、西太平洋沿岸諸国全体にとって大変重要になると思う。日韓は歴史認識で一致しない部分が多いが、政治・経済関係では共通部分が多い。日中は歴史認識だけでなく、民主主義に対する考え方や政治手法で大きな違いがある。北朝鮮は、そういう各国間の違いをうまく利用して自国の利益を強引に追求しようとしている。この中に、さらに“両岸関係”や日台関係などがからまってくる。もちろん、この地域でのアメリカの強力なプレゼンスも重要な要素である。こういう複雑な国際政治のモツレを、我々がどのようにほぐし、東アジア諸国間で共有できる価値観を見つけだし、あるいは創り出していくかが、これからの西太平洋の平和維持の鍵を握っているように思う。

 小泉首相は東南アジア訪問の後に中国訪問の可能性をさぐっているらしいが、まずはその中国訪問の成功、そして日韓の歴史認識共有化の成功を祈りたい。  (谷口 雅宣)

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2001年11月30日 (金)

タバコをやめよう

 史上で初めて、健康に関して国家間で本格的な取り決めを結ぼうとする「タバコ規制枠組み条約」の第3回政府間交渉が、28日にジュネーブで終了した。世界保健機関(WHO)加盟の191ヶ国が集まって論点の整理を進めた結果、タバコの自動販売機設置を原則的に禁止する方向で意見が集約しつつある、と昨日の『朝日新聞』夕刊が伝えていた。“タバコ推進派”の勢力が強く、自販機が野放し状態の日本は、「禁止」ではなく「制限」にとどめようと主張しているらしいが、アメリカも条件付きで「禁止」を支持したので、苦しい立場に立たされているそうだ。日本ではタバコの「広告」もほとんど野放し状態だが、この交渉ではこれを「禁止」するか「適切な制限」を加える方向でまとまりつつあるという。わが国は、この分野でもまだ意識が遅れているようだ。

 その中で、日本医師会が“タバコ有害論”を唱えるようになったことは、当然のことながら喜ばしい。また、タバコ増税が検討されている点は評価したい。一説では現在、タバコからの税収が年間約2兆円なのに対し、タバコ関連の医療費を含む社会全体の損失は約3兆2千億円という。つまり、タバコの販売によって、一部企業は儲かっていても日本国民全体は損失を被っているわけだ。公共の場での禁煙措置は、鉄道の四分の三が禁煙車両で航空機は全面禁煙になるなど広がっているが、そのあおりを食ったためか、駅から出て歩く人々が一斉にタバコに火をつけて歩行喫煙をする姿を、私は毎朝目にしている。そして当然のごとく、吸った残りを路上に捨てる。東京・渋谷区の「ポイ捨て禁止条例」など全く無視されている。

 私は、大学時代からタバコを吸いだした。動機は得に意識しなかった。周囲の人間が吸っているので「ああ、そうか」と思って「セブンスター」を吸い始めた。当時それが人気で、私としてもデザインが気に入ったからだった。しかし、今考えてみると、この「何となく吸いだす」というのが問題だと思う。この行動は「理由がない」のではなく、「理由を意識できない」のである。当時私が好きだった男性俳優のほとんどすべてが、映画の中でタバコを吸った。それが「カッコイイ」ことだと、若い私のナイーブな潜在意識は信じきっていた。また「タバコは大人の証拠」という古い観念にも染まっていた。小説にも漫画にも広告にも、タバコの吸殻をカッコヨク捨てる様子が描かれていた。さらには、「タバコを吸えば太らない」などいう間違った情報が若者の間に流布していた。つまり、カッコシイと無知から吸い始めるのであり、このことは今日の若者も同じだろう。

 だから、今日の大人は、自分の知ったことを若者に教えねばならない。自分の犯した過ちを「オレもやったからいいや」と思わずに、「オレがやって間違っていたからだめだ」と言えるのは、大人しかいない。そういう意味で、和歌山県教育委員会が来年4月から、県内すべての公立小中高校の敷地内での禁煙を決定したことは、正しい判断だと思う。小関洋治・県教育長は「未成年の喫煙は中高生から小学生まで広がっている。従来の分煙では周囲の人の受動喫煙は防げない。禁煙は教育の最重点事項で、教育効果も極めて大きい」と述べたという。教育者でなくとも、同じメッセージは伝えられる。旧ビートルズで最年少のジョージ・ハリソンが29日、喉頭ガンで亡くなった。58歳の死は早すぎるが、彼はヘビースモーカーだった。(谷口 雅宣)

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2001年10月17日 (水)

異種の壁

 狂牛病の上陸で混乱する日本では、明日からすべての食肉牛を対象とした狂牛病のスクリーニングが全国117ヵ所の食肉検査場で実施される。その数は年間約130万頭という。この検査に関連して、ツベルクリン反応を思い出させる「陽性」とか「疑陽性」などの言葉が新聞紙上をにぎわせているが、ことほどさように狂牛病の早期発見は難しいようだ。今朝の『朝日新聞』に載った全国世論調査によると、この騒ぎで牛肉を食べる量を減らしている人は全体の34%で、牛肉を食べるのをやめた人は25%に及ぶという。では、その代わり豚や鶏の肉を食べる人が増えているかというと、そうでもない。以前より豚や鶏を多く食べるようになった人は10%で、こういう牛以外の肉を食べるのも減らしている人が8%いるという。結局、日本人の肉の消費量が激減したわけで、牛肉の流通在庫が16日現在で約1万3000トンもダブついているらしい。

 狂牛病が恐れられているのは、感染牛の特定部位にある異常プリオンを人間が食べると、それが人間に感染して、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD)という脳がスポンジ状になる病気になって死ぬと考えられているからだ。事実、イギリスでの狂牛病の流行とvCJDの発生との間には明らかな相関関係がある。だから、多くの科学者は「牛→人間」の異常プリオンの感染を今は疑問視していない。しかし、生物学の基本的として、牛と人間のような異種間には“種族の壁”があって、それを越えて同じ病原体が感染することは難しいとする考え方がある。事実、羊に発生する狂牛病に似たスクレイピーという病気は、その肉を食べる人間にも牛にも感染しないと考えられ、また実際にそういうケースは発見されていない。だから、少数の科学者の中には、現在でもこの「牛→人間」の感染を疑問視する人もいる。

 そういう“異端”的な考え方を打ち出した論文がこのほど、こともあろうに狂牛病の発生源であるイギリスの権威ある医学誌『British Medical Journal』(英国医学紀要)に掲載されて、物議をかもし出しているそうだ。これを書いたジョージ・ヴェンターズ博士(George Venters)によると、これまでの狂牛病の研究では、感染牛の肉が人間のvCJDを引き起こすという直接的な証拠は何もないという。もっと具体的に言うと、牛の異常プリオンがvCJDの患者の体内から発見されたケースはないというのである。牛から人間に感染するためには、病原体である異常プリオンは料理の熱に耐え、人間の消化に耐え、さらに人体の免疫系の攻撃にも耐えねばならず、それは不可能だとヴェンターズ博士は言う。さらに同博士によると、もし狂牛病がvCJDの原因ならば、イギリスでは老若男女が牛肉を食べるのだから、若い人だけがvCJDを発病するのはオカシイというのだ。(vCJDの特徴の一つは、比較的若年者に発病すること)

 なかなか論理的で傾聴にあたいする議論のように思うが、今の日本の状態では、論理だけではパニックは鎮まらないかもしれない。ところで、私は「牛肉をもっと食え」というつもりでこれを書いたのではない。肉食には賛成しかねるが、冷静な議論には賛成である。

(谷口 雅宣)

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2001年9月11日 (火)

狂牛病の上陸

 「災いは忘れたころに……」とはよく言うが、ヨーロッパを震撼させた狂牛病が、ついに日本に上陸したようだ。報道によると、8月6日に千葉県内の酪農家の飼っていた5歳の乳牛が、狂牛病のような症状で殺されたため、死因の調査が行われた。当初は「陰性」の結果が出たものの、9月6日に別の検査のため脳などの組織が送られ、10日に「陽性」の反応が確認されたという。だから、台風15号の上陸と同時期の発表になったのは、恐らく偶然だろう。

 この問題については本欄でも3回ほど書いている。6月22日には、EUが各国の狂牛病発生の危険度を調べた報告書を出そうとしたのを、日本の農水省が猛反発したため、日本には触れなかったことを書いた。理由は、「日本国民に不必要な不安を抱かせないため」だった。この報告書では、狂牛病発生の危険度を5段階に評価し、当時すでに病気が発生していたイギリスやオランダが「5」と「4」、フランスは「3」、オーストラリアやアメリカは危険度はほとんどないとされた。そして日本は、最近まで英国やオランダなどから生牛や牛肉、骨肉粉などの飼料を輸入していたから、危険度は「3」に評価されるはずだった。オーストラリアとアメリカには、まだ狂牛病は発生していないから、EUの報告書は結局、農水省の判断より正しかったと言えまいか?

 感染の疑いのある牛は、1996年に北海道で人工授精で生まれ、2歳の時に千葉県に売られたといい、この北海道時代の1998年までに、汚染していた「肉骨粉」を餌として食べた可能性が指摘されている。この「肉骨粉」というのは、死んだ牛の体で食肉用に使えないような“くず肉”を捨てずに、安価な蛋白源として家畜の飼料に使っていたもので、牛の脳や神経や骨の一部なども混ざっている。ここに病原物質とされる異常プリオンが含まれていた場合、一定の潜伏期間を経て発病すると考えられている。だから、この病気は人間がつくったものと言っていい。つまり、草食動物である牛に自分たちの体の一部を餌として与え、“共食い”を強いたところから生じたものだ。

 人間は、これまで何億年もの進化の過程を経て成立している自然の秩序を、自分本位の考えで勝手に変えることをしてきたが、その一つの結果がこの狂牛病である。私はこの夏、生長の家の講習会のため北海道へも行ったが、その際に訪れた牧場では、広大な敷地を牛の群れが草を食みながら移動していくのを見た。こちらが牛の鳴き声をまねると、耳を立てて立ち止まり、寄ってきたりする。そのあどけない表情と人なつっこさは、目の前の人間が、いずれ自分を殺して食べることなど思いも及ばないことを示している。狂牛病の発生を機会に、肉食から遠ざかってみては如何だろうか?

(谷口 雅宣)

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2001年7月 7日 (土)

ES細胞の利用促進か?

 アメリカのブッシュ大統領は今、政治的にも倫理的にも重要な決定を下そうとしている。それは、人間のES細胞(胚性幹細胞)の医療への利用を合衆国政府が支援するかどうかの決定である。ES細胞は、人の受精卵ができて数日後、胎児としての器官が未形成の段階で受精卵の内側に集まる細胞塊のことを指す。この特殊の細胞塊には「不死性」と「万能性」があると言われ、これを試験管の中で培養すれば無限に増殖を続け、理論的にはここから各種の組織や器官を形成しうると期待されている。科学者たちは、マウスのES細胞からすでに神経組織や肝臓などの細胞の作成に成功しているから、人のES細胞の利用によって、臓器移植がより安価に、より安全に、より広く行われるというのが、利用賛成派の考えである。

 これに対して利用反対派は、ES細胞の“出所”に注目する。この特殊な細胞塊は受精卵から取り出されるものだから、生きようとしている人の生命を絶つことになる。これは、母体内の胎児の生命を中断させる人工妊娠中絶にも比べられる行為であるから、倫理的に許されないと考えるのである。よく知られているように、ブッシュ大統領は妊娠中絶に反対しているから、ES細胞の利用を政府が支援することにも反対の姿勢を示すことが、カトリックなどの保守陣営からは期待されている。しかし、移植用の臓器が慢性的に不足していることや、ES細胞の研究が糖尿病、パーキンソン病、アルツハイマー病などの治療に役立つと考えられていること、また、この分野の研究でアメリカが遅れをとるのを避けたいという配慮が働き、容易な決定が下せないのだろう。
 
 日本では、「不妊治療のために予備として作られた受精卵(凍結余剰胚)のみを利用する」という条件の下に、ES細胞の研究を認める方針が昨年決定された。しかし、ここに来て明らかになってきたのは、ES細胞から作られたクローン・マウスには、遺伝的な欠陥があるという事実である。またES細胞は、少なくともマウスのものは、遺伝的に不安定であることも分かってきた。ES細胞から移植用の臓器を作る場合、拒絶反応を防ぐために、臓器を移植患者と遺伝的に一致させる必要がある。しかし、それを行ったとしても、臓器に遺伝的な欠陥があったり、遺伝的に不安定であったならば、ES細胞の価値は低くなってしまう。

 私は、受精卵や臓器の売買につながりかねないこの分野の研究よりも、どんな大人の肉体にもある、再生力に富んだ「幹細胞」の可能性に期待する。また、肉体生命の維持のためにはあらゆる手段を尽すという、現在の医療の考え方にも疑問をもつ。「人間の生は肉体の死で終らない」という宗教の基本的立場からすれば、「人間の生は肉体の形成によって始まる」のでないことは明らかだ。受精卵の背後にある意思を尊重するなら、ES細胞の研究は軽軽に行われるべきではない。

(谷口 雅宣)

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2001年7月 6日 (金)

歴史認識

 日本では中学校の歴史教科書をめぐって歴史認識の問題がかまびすしく論議されているが、歴史が国民に正しく理解されないことは、日本だけの特異現象ではないようである。アメリカの225回目の独立記念日である7月4日を期して発表されたある調査によると、アメリカのティーンエージャーの2割以上が、アメリカがどこの国から独立したかを正しく答えることができず、そのうち14%は、アメリカはフランスの植民地だったと答えたという。これを聞いた16歳の私の娘が目を丸くしていたから、十代の日本人に同じ調査をしたら、いったいどんな数字が出るのかと思う。

 日本人が戦後、アメリカの方を見ながら生きてきたことは紛れもない事実だろう。それは安全保障上の要請でもあるのだが、それにしても、二百数十年前の歴史的重要事項がこれほど間違って理解されていることはないだろう。この誤りを日本史に置き換えると、明治維新によって室町幕府が倒れたと考えるようなものだろうか。

 自国の歴史への無知も深刻だが、隣国に対する無知は、もっと実際上の問題を生み出すかもしれない。今日付の『ヘラルド朝日』紙(International Herald Tribune-The Asahi Shimbun)に、アメリカ人のカナダに対する無知の程度が報じられていた。例えば、ボストンで政治学を学んでいる大学生に「カナダでは、北アメリカに入るべきかどうかが議論されているが、どう思う?」と尋ねても「よく分からない」と答えたし、「トロントで北極グマを殺すことを禁止すべきか?」と聞くと、「もちろん禁止すべし!」と答えたそうだ。(正答は分かりますね?)しかし、翻って日本人に韓国や中国のことを聞いたらどうだろう--「韓国はベトナム戦争の時、何をしたか?」「先の大戦で日本と戦って勝ったのは、蒋介石か毛沢東か、それとも孫文か?」「韓国で今、一番人気の歌手は?」

 要するに、グローバリゼーションがこれだけ進んだ現代でも、我々は自分の生きる国のこと以外は、まだよく知らないのである。ましてや、他国の歴史について心をめぐらせるような人は数が少ない。誤解や差別意識は、そういうところから簡単に生まれるものだ。自国の歴史を正しく知ると同時に、他国の歴史も謙虚に学ぶ努力が必要だろう。

(谷口 雅宣)

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2001年7月 2日 (月)

小泉首相こそ異星人?

「人間さえいなければ他の生物は余計な新規の敵や環境汚染の危険にさらされたりせずに、その数を適切に保ちながら生存し続けるに違いない」--東京都知事の石原慎太郎氏が『産経新聞』の「日本よ」シリーズの中で、ガラパゴス諸島を視察した感想をこう書いていた。小泉首相の参院予算委員会での「人間こそが異星人と思われる」という発言(5月21日の本欄)と、軌を一にするものだ。つまり、人間以外のすべての生物は、自然界における自らの居場所に満足し、その分を越えて土地や物やエネルギーを得ようとはしなかったのに、人間がそれを始めたために地球環境は今、危機に瀕している--という認識である。その認識は恐らく正しいのだろうが、それを日本政府の最高権力者や、世界最大の都市を治める政治家が言うという矛盾の深さを、彼らはどう考えているのだろうか?

 6月29日の本欄で、私はヒトデのような貪欲な“ならず者”も自然界においては価値ある役割を果たしていることを取り上げたが、人間のような“ならず者”も、自然界で同じような、あるいはもっと高度な役割を果たし得ることを信じなければ、彼らの言説は空ろな法螺貝の響きに過ぎないだろう。問題は、その「高度な役割」について、首相も都知事も自らの信じる方向性を提示しえていないところにある。

 その証拠に、小泉首相はブッシュ大統領との首脳会談で、地球温暖化防止のための「京都議定書」の批准についてアメリカに強く働きかけず、「EUとの橋渡しをする」という中間的立場を表明した。これはいかにも日本的などっちつかずの態度で、「人間こそが異星人」という国会での発言と比べるとギャップがある。日本のメディアはこのことをあまり取り上げていないが、アメリカのメディア(Washington Post)は「小泉は京都(議定書)の推進をやめた」(Koizumi declines to pursue Kyoto)と厳しい。この記事では、「首相は京都議定書はアメリカの参加なしに実行しないと言って、事実上この条約を無効にした(effectively killing the treaty)」と書いている。さらに続けて、首相はブッシュ大統領の京都議定書への姿勢を当初「嘆かわしい(deplorable)」と批判したのを和らげた代りに、日本国内の経済構造改革路線について、大統領から「何も問題はない(no reservations)」という支持をとりつけた、と書いている。

 つまり、京都議定書は、今回の日米会談では取り引きに使われたように思える。政治とは所詮そういうものだろうから、我々国民としては政治家が「何を言うか」ではなく、「何をしたか」で評価する冷静な目をもちたいものだ。

(谷口 雅宣)

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