2001年9月18日 (火)

寅さん埴輪

 今日の『朝日新聞』に面白い記事が載っていた。東京・葛飾の柴又八幡神社境内にある、6世紀後半に築かれたという古墳から、山田洋次監督作品の人気映画『男はつらいよ』の主人公「寅さん」によく似た顔の、帽子を被った人間の埴輪が出土したというのだ。しかも、それが見つかったのが、俳優の渥美清氏の命日である8月4日だったという。この記事には、さらに“おまけ”がついていて、奈良時代の柴又には「とら」という名前の男性が実際にいただけでなく、「さくら」という名前の女性もいたというから驚いた。記事についている写真には、その埴輪が大写しになっていて、「発掘された『寅さん』そっくりの埴輪」という説明もついている。

 その写真を一見すると、なるほど渥美清氏にそっくりに見えてくる。1300年も前の葛飾・柴又に「とら」や「さくら」という名前の人間が住んでいただけでなく、当時の人がシルクハットのような帽子を被っていたと考えると、『男はつらいよ』を作った山田洋次氏は、何か超能力のようなものをもっていて、奈良時代まで時間を溯ってこの作品をイメージした--などと、とんでもない妄想を抱きそうになる。「しかし待てよ……」と私の猜疑心がブレーキをかけた。

 記事をよく読むと、シルクハット型の帽子をかぶった埴輪は北関東ではよく出土するという。また奈良時代の「とら」や「さくら」は、それぞれ「刀良」「佐久良売」という漢字で表記されているから、現代の作品と同じ名前とは言えない。さらに、「寅さんそっくり」とされている埴輪の顔をまじまじと眺めてみると、渥美氏の「あごが張っていて四角い顔」と似ていると言えば言えないことはないが、しかし、別の人にも似ている。例えば、私の脳裏に浮かんだのは、生長の家本部の講師部に所属するある男性職員だ。彼の顔は卵型なのだが、眉と目が近接しているところや、鼻筋が通っているところは、渥美氏にはない特徴ではないか、などと思えてくる。

 つまり、この種の記事は「事実の報道」というよりは、「記者の観点に合致する事実を集めた」記事だ。だから、「事実に反することは書いてない」と言えばその通りだろうが、その「事実」の選択の仕方、並べ方の中に“創作的”な配慮がある。それを読んだ読者は一種の“不思議の世界”に引き込まれるが、この“世界”は必ずしも実在するのではなく、記者(あるいは取材源)によって作られた創作である。この創作の内容は、今回の場合は罪のないものだから、笑ってすませばいい。しかし、これと同じ方法で“イスラム過激派”や、その他の政治問題の報道が行われていないかと考えると、私には今日、その可能性を否定する自信がないのである。

(谷口 雅宣)

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2001年7月19日 (木)

A.I.と地球温暖化

 休日を利用して妻と二人で映画『A.I.』を見た。スティーブン・スピルバーグの作品だから、内容の濃い、斬新な映画かと思って期待して行ったのだが、結果はがっかりだった。『未知との遭遇』や『E.T.』のような強烈な印象を与えるシーンはなく、ストーリーの展開には不自然なところが多かったので、リアリティーがあまり感じられなかった。ただ、1点だけ印象に残ったのは、主人公の少年(サイボーグ)が、人間にしか入ることを許されない「マンハッタン」という地域に航空機で侵入する時のシーンだった。時代設定は近未来だったから、私は現在とあまり変わらないニューヨーク市の摩天楼が見えるかと思っていたが、水平線から次第に近づいてきたものは、確かに摩天楼に切り取られた幾何学的な空間ではあったが、その高層ビル群の大半は海面下に没していた。つまり、地球温暖化の影響で極地の氷が溶け出し、海面上昇が起こった後の出来事を、この映画は扱っていたのだ。

 現在、温暖化防止のための「京都議定書」をめぐる各国間の交渉が重要な局面にあるが、この交渉が決裂し、人類が地球温暖化を防止しえなかったならば、ニューヨーク市の水没も夢物語ではなくなるだろう。ニューヨークがなくなれば香港やニューデリーやシドニーや東京も無事ではありえない。そういう事態を経験した人類が、そこからまるで学ぶことなく、メカ(サイボーグ)を奴隷のように使ったり、それを享楽の対象としたり、その処刑(破壊)を見世物として興奮する様子が、画面には次々と展開する。それを見ながら、私は、スピルバーグ氏が人類とその未来をそれほど悲観的にとらえているのかと思い、少し気が重くなった。人間は、水没しつつあるニューヨークや東京を見ながら、ただ手を拱いてなすすべを知らないのか? 私は、今回の京都議定書をめぐる交渉は失敗し、地球温暖化がさらに進展する可能性はあるかもしれないが、そのような失敗の経験から、人類は自己の欲望を統御する必要を学び、それを実現することがまだまだ可能だと思う。

 ところで、この映画を見たあと、私は手塚治虫の『鉄腕アトム』のことを思い出した。この漫画では、アトムなどのロボットは決して人間そっくりにできているわけではないが、人間とロボットの心の交流は実に当たり前のように行われていたと思う。しかし『A.I.』では、これが実に困難であるように描かれている。特に主人公の少年サイボーグは、専門家もだまされるほど精巧に人間に似せて造られているのだが、人間の“母親”は、それを最初は気味悪がり、次にその子に魅了され、その次にはその子を泣きながら捨てる。少年サイボーグの方は、“母親”を永遠に愛するプログラムが動いているのだが、その愛が実現するのに実に2000年を要し、しかも愛が続く期間はわずか1日である。この違いは、日本人(手塚氏)が「物」と「人」との間にあまり境界線を引いて考えないのに対し、ユダヤ人(スピルバーグ氏)にとっては、両者の間の溝は埋められぬほど深いということなのだろうか?

(谷口 雅宣)

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