2002年4月24日 (水)

祖母のメモ帳

 祖母の十四年祭に参列するため、長崎県西彼町の生長の家総本山へ来た。祖母が晩年を過ごした生長の家公邸に両親と妻の4人で宿泊したが、この家の1階にある座敷の次の間が、祖母が原稿や手紙を書く仕事場として使っていた。そこには今も幅1.2メートル、奥行き60センチほどの小型の文机があり、主のないまま畳の上で安らいでいるように見えた。同じ部屋には壁に埋め込み式の神棚もある。公邸に泊めてもらう時は、朝食前に、そこで4人は天津祝詞をあげ聖経読誦をすることになっている。この日もその御勤めをした後、私は文机の前に何気なく座って右側にある抽斗を引いてみた。祖母が亡くなって10年以上たつのでその中は空っぽだと想像していたが、そうではなく、故人が使っていたものがそのまま残っていた。

 最上段の抽斗には、筆記具に混じってメモ帳が数冊あった。紙を切り離して使える方式の、銀行などで景品にくれる葉書より一回り小さいメモ帳である。地元の銀行の名前も印刷してある。中を開いてみると、ブルーブラックのペン書きの細かい文字で何かがびっしりと書き込んであった。懐かしい祖母の書体だった。空白の紙は一枚もなく、最初のページから最後のページまで文字がいっぱい詰まっているのだ。枚数を数えてみると、全部で20枚ある。別のメモ帳も、同じように祖母の手書き文字で埋まっていた。その文字は、一角が2ミリから5ミリほどの小ささだから、視力が衰えてきた私は読むのに苦労する。妻と母も、それを見て「わー小さい」などと言いながら文字の判読を試みた。

 私は当初、それは月刊誌用の原稿の下書きではないかと思った。その理由は、私が読んだメモの部分には、祖母が海外へ行った時の、人とのやりとりが記されていたからだ。祖母は、海外旅行にはもちろん原稿用紙を持っていっただろうが、最初行ったときは1963年で7ヶ月もの長期間だったから、書くことが多くて手持ちの用紙がなくなったかもしれない。そんな時、ホテルに備え付けのメモ用紙を使うというのはあり得ることだ、と思った。しかし、そのメモ用紙が長崎の銀行のものであることを思うと、この推測の根拠がグラついた。しかも、このメモ帳の裏表紙には2年分のカレンダーが印刷してあり、それは「1978年」と「1979年」だった。そんな頃に、祖母が海外へ行ったことはない。

 妻の推測は、これらのメモ書きは、長崎で講演をする際の準備に使ったものだろうというものだった。その証拠に、メモ帳の表紙には「(1)スミ」とか「話しスミ」などとペンで書いてある。これは、「この中身は講話で話しずみ」という意味だというのである。なるほどそうかもしれない、と私は思った。だが、私自身が講話の準備をする時は、小さい紙にメモ書きをすることはあっても、それは話の“荒筋”や“柱”を箇条書きにする程度である。ところが祖母のメモ帳には、まるで雑誌に掲載するためのような、きちんとした文章が書きとめられているのだった。内容は、1963年の最初の海外講演旅行の際のものだ。その旅行から15年後に、地元の長崎で発行されたメモ帳に、何のためにそれを書くのか。その疑問への回答は、やはり講話準備以外には考えられない。1978年とは、生長の家総本山に龍宮住吉本宮が落慶した年である。

 私は若い頃から祖母の講話を何回も聞いていたが、その時は「実にスラスラとよどみなく話をする人だ」という印象をもっていた。この印象は、祖母が普段の生活の中で、我々孫たちに色々な“昔話”をしてくれる時の印象と一部重なっていたかもしれない。とにかく、祖母は力まないで、人に自由に話ができる人だという印象があったから、「小さい紙に細かい字でびっしりとメモ書きをして講話の準備をする」という祖母像には、新鮮な驚きがあった。さらにその時母から聞いた話では、祖母は講話の始まる前は独りで部屋にこもって、人が近づくのを嫌ったらしい。祖母のそういう神経質な側面も、私には意外に感じられた。

 それと同時に、以前とは違う親しみを祖母に感じていた。そういう祖母は、私自身の現在の姿とかなり近かったからだ。自分の講習会前の神経質な状態と、細かくメモをとる祖母の姿が重なり合った。私の場合はメモをとるのではなく、パソコン上で講話のリハーサルをするのだが、使う道具は違っても、心の中で起きている事態にさほど違いはないだろう。そんな新しい親近感を胸に抱きながら、祖母の墓前に参ることができたのは幸いだった。

 この日は、泊まった部屋に飾られていたデンドロビュームを描いてみた。   (谷口 雅宣)

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2002年4月21日 (日)

釈迦と行者

 強風が吹きすさぶ4月のある日、ヒマラヤの中腹にある洞窟の中で瞑想をしている釈迦のもとに、行者の格好をした顔面蒼白の男が近づいてきて言った:

行者--お釈迦さん久しぶりです。お元気でお過ごしでしたか。
釈迦--(半眼の目を上げて男を見て)さて、どなただったかな。
行者--私です。10年前に一度ここへ参りました。その時は、頭に角が生えていたかもしれません。あなたが「悪はない」と仰ったので、角は取れてしまいましたが……。
釈迦--ああ、君か。自分は悪魔だと主張していた人だね。ずいぶん顔色がよくないが。
行者--そうです。悩みが深くて、調子が悪いんです。だから、お釈迦さんに助けていただこうと思って来ました。
釈迦--今度は、何を悩んでいるのかね。
行者--この前の話のおかげで、人間とは別の、悪の第一原因であるような「悪魔」などいないということは分かりました。だから、私は「自分が悪魔である」という先入観念から解放されました。そのことは大変ありがたくて、お釈迦さんに何度お礼を言っても足りないくらいです。だから私はあの後仏門に入って、もっとお釈迦さんの教えを勉強しようと決意しました。ところがどんなに修行しても、私は悟りに達することができないのです。
釈迦--悟りに達するとは、どういう状態をいうのかね。
行者--それは、悩みから解放されることです。
釈迦--で、君の悩みとは。
行者--悪があるということです。
釈迦--悪があってはいけないのか。
行者--もちろん、いけません。私は仏門の導師から、あらゆる生物に同悲同慈の心を起こすことを教わりました。だから、罪のない人や生物が無為に殺されていく姿を見ると、胸が痛みます。気が滅入ります。そして、どうして自分にはこのような悪を防ぐ力がないのかと、自分を責める気持が湧いてきます。
釈迦--君はなぜ、悪を防がねばならないと思うのかね。
行者--それは、死んだり苦しんでいる人々や、生き物の無念さを感じるからです。彼らが抱く「もっと生きたい」という思い、「もっと楽になりたい」という願い、「もっと自分を表現したい」という情熱。これは皆、正当な願いだと思うのに、それが死や病気や災難によって無惨にも否定されていく。私はそれを、黙って見ていられないのです。
釈迦--すると、君の言う「悪」とは、人々や生物の抱く希望が実現しない状態ということかな。

行者--単なる希望ではありません。「正当な権利」が無惨に剥奪されることです。
釈迦--それが「正当」だと、どうして分かるのか。
行者--生まれてまもない子が死にます。無辜の少女がレイプされます。新婚カップルの乗った列車が衝突します。芸術家が手を失います。数学者が脳腫瘍で廃人となります。こういうことは、あってはならない悪ではないでしょうか。
釈迦--なぜ、あってはならないと思うのか。
行者--罪もないのに、責任もないのに、むごい仕打ちを受けるからです。
釈迦--前世に因があるかもしれず、自ら選んで不幸を望むものもいる。
行者--しかし、前世のことは本人には分からない。
釈迦--分からないほうがいい場合が多いのだが。
行者--そんなことはない、と思います。自分の苦しみが過去世の何を因としているかが分かれば、納得する気持になれます。
釈迦--諦めの人生に価値があるというのかね。
行者--諦めるのではなく、納得するのです。
釈迦--納得すれば、その状況を改善し、乗り越えていこうとする力が出てくるだろうか。
行者--…………
釈迦--自分や他人の不幸が、前世からの業であると納得すれば、それが救いになるだろうか。
行者--分かりません。しかし、少なくとも人生は「不合理」であり「不条理」であるとする造物主への怒りや、呪いは消えます。
釈迦--そういう「不合理」や「不条理」の感覚を、20世紀の社会心理学者は「認知の不協和」と呼んだ。この感覚があるから、人間には自己変革や社会改革の力が出ると、その人は考えた。
行者--悪は、善のためにあるというのですか?
釈迦--私は「悪がある」とは言っていない。
行者--死やレイプや、ケガや障害は悪ではなく、善なのですか?
釈迦--因果の法則が存在するかぎり、善因は善果を生み、悪因は悪果を生む。悪果は、それ自体を見れば確かに悪いが、悪因から悪果が生じることは因果の法則が働いている証拠だから、それはある意味では“善い”とも言える。法則が働かないことは、悪果が生じるよりはるかに悪い。なぜなら、どんな積善の人も善を得る保障がなくなってしまうからだ。また、悪によっても善を得る道があることになり、人々は善を行わなくなってしまう。悪因が確実に悪果を招くことで、人々はやがて善を選択するようになる。
行者--しかし、前世の記憶が人々になければ、今生の悪が前世の悪因から来ていることを知ることはできません。
釈迦--人間は、現世の出来事のすべての原因を理性によって知る必要はない。
行者--なぜですか?
釈迦--あまりに荷が重いからだ。記憶が時とともに薄れるのは、救いの働きでもある。君が今、赤ん坊の時代からのあらゆる体験をすべて鮮明に記憶していたとしたら、その重圧にはたして耐えられるか。
行者--…………
釈迦--母の産道を通った時から、初めて目が見えた時、何度も転んで体のあちこちを打った時、食べ物でないものを食べた時、ケガをした時、手術の痛さ、雑踏の中で母を見失った時の絶望感、様々な未知のものへの恐怖……人間の心は、耐えがたい苦しみや恐れを「忘れる」ということで克服するようにできている。そのことは、現代の心理学者ならずとも知っている。
行者--悪果も忘却も不知も、すべて善いというわけですか?
釈迦--観点を変えれば、悪は消える。悪とは本来そういうものだ。
行者--しかし、現世の悩みの原因が過去世にあるのだとしたら、私はやはりそれを知りたい。
釈迦--何のために?
行者--知れば、もっと積極的に善を行うことができるでしょう。
釈迦--それでは、本当の意味での善行ではない。善果を得るために善を行うのでは、一種の功利主義だ。善行を、自己の利益を得るための手段にしている。ただ善のためにのみ善を行う--それが本来の善行であり、そのためには妙な理性や理屈は邪魔になることもある。
行者--お釈迦さま、私の悩みの原因がわかりました。私は、人々に誇示できるような大きな善行をしたかったのです。世の中の“悪”をすべて無くすような、何か大きな仕事をしたかった。しかし、それは利己主義の裏返しであることが今わかりました。
釈迦--ユダヤの聖人も言っている、「私の兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしたのである」と。ただ自らの良心にしたがって善を行えばよい。
行者--分かりました。ありがとうございます、お釈迦さま。
(谷口 雅宣)

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2002年3月14日 (木)

108円の冒険

 休日を利用してやって来た山梨県長坂町のショッピング・センターで、ちょっと冒険をした。などと書くと、まるで高額な買い物をしたか、あるいは万引きでもしたように聞こえるかもしれない。しかし、それは極めてささやかな“冒険”だった。

 ショッピング・センターには文具店が入っていた。私は、買ってきたものをカートに入れて押しながら、その文具店の前まで来た。すると、店の棚に原稿用紙が置いてあるのに気がついた。「あっ、原稿用紙だ」と私は思った。こういうものを使わなくなって久しい。それは、決して上質とは言えない黄ばんだ紙の上に、赤茶色の罫線で縦書き用の升目が印刷されている。そう、これがB5判のサイズだった。この大きさの紙にも、久しく接していない。これはきっと小学生用のものなのだろう、欄外に「年」「組」「名前」を書き込む余白まで印刷されている。地元の小学校では、今もこんな用紙を使っているのかと思うと、急に懐かしくなって手を伸ばした。20枚ほどの束になっていて、持ち上げた時の感触もいい。「ほしいな」と思ったが、すぐに「何のため?」という疑問が、理屈好きの私の頭に浮かぶ。

 私は一応「ものを書く」という仕事に従事しているが、もう10年以上も原稿用紙を使ったことがない。原稿はパソコンで書き、パソコンの画面上で推敲し、仕上がったファイルを通信回線で編集者に送る。この送稿の直前に、一度プリンターで印刷して最終原稿を作り上げるが、長文を手で書くことからはずいぶん遠ざかっていた。理由は簡単だ。手書きは非効率的だからである。

 しかしその日は、非効率的であるというそのことに、妙に魅力を感じた。このショッピング・センターへ来たのは、八ヶ岳南麓にある山荘で1泊2日を過ごすのに必要な日用品などを買うためだが、考えてみれば、こんな非効率的な休日の過ごし方はない。東京から2時間も車を飛ばし、高速道路代とガソリン代を使い、さらに光熱費もよけいに使う。東京と山荘間を往復すると、それだけで1万円と4時間が消える。同じお金と時間を都内で使うつもりなら、妻と二人で映画を見、ホテルのレストランでゆっくり食事が楽しめる。しかし、そういう効率的な時間の過ごし方とは別のものにも価値があると認めたから、山に家を建てたはずだった。

 自然は不便だ。決して人間の都合に合わせて動いてはくれない。冬は雪で埋まり、せっかく出てきた木々の新芽はシカが食べるし、作物はイノシシが掘り返す。夏はブヨに刺されるし、間違ったキノコを食べれば、それこそ命を脅かされる。そういう他の生物を“邪魔者”と考え、すべて排除して人間だけの王国を築いたもの--それが都会だ。そういう都会生活に飽き足らない人間がわざわざ山へやってきて、いったい何を得ようとするのか。

 それは不便であり、非効率である。意のままにならない環境や生物の間にわざわざ自分の身を置いて、自らの行き方や行動を「彼ら」の側に合わせてみるのだ。そんなことが、都会生活に慣れた人間に完全にできるわけではない。しかし、そういう自然に“寄り添う”努力を通して、「彼ら」の生き方を学び、人間である自分と「彼ら」との共通点、相違点を知る。都会では、人間の世界の喜怒哀楽がすべてだと感じがちだ。しかし自然の中では、一生物の喜怒哀楽など容赦しない、それをはるかに超えた大きな秩序が、厳然としてそこにあることを否応なく知る。その秩序の中の一員であることに、なぜか人は満足するのである。

 自然を支配しようとしてきた人間が、自然の秩序の一部であることを知り、他の生物も自分と同じ秩序の一部であることを感じた時、そこに「回帰」の安らぎが生まれるように思う。それは不自由の中での満足であり、「彼ら」との接触や摩擦の中での自己確認だ。「彼ら」に対する抵抗の中で、人間という生物種の一員である自分が形成されてきたという実感、と言ってもいいだろう。それはまた、“生みの親”としての自然への感謝の気持も含む。人間は「楽」ばかりでは、生の実感を得られないのだ。

 ◇  ◇  ◇

 文具店では、小学生用の原稿用紙ではなく、その隣にあったごく普通の400字詰のB4判のものを買った。20枚が108円だった。山荘へ着き、凍結防止のために“水抜き”をしてあった水回りに通水をする。食料品や日用品を家の中へ運び込み、あとの処理は妻に任せて、私は陽の当たるデッキに出て、テーブルの上に原稿用紙をひろげた。そして、清冽な空気の中で、さっそくスケッチ用のペンを使って、用紙の升目を文字で埋め始めた。絵を描くときの抵抗とは全く違う強さで、原稿用紙は私の指先に逆らう。ペンが原稿用紙に引っかかる、と言ってもいいだろう。升目に現われる手書きの文字は、だから驚くほど稚拙だ。長年にわたり、字を書く努力を怠ってきた証拠だ。しかし、この抵抗感の中から生まれる言葉は、キーボードを打つ中から生まれる言葉よりも、何か確かな手ごたえを感じる。錯覚かもしれない。だが、少なくとも悪い錯覚ではない。   (谷口 雅宣)

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2002年1月 5日 (土)

年頭の霍乱

 東京・原宿の生長の家本部会館で行われる元旦恒例の新年祝賀式に、今年は出席できなかった。私が生長の家の役職員になってから初めてのことで、まったくお恥ずかしい次第だ。これを「鬼の霍乱(かくらん)」というのだろうが、実は38℃を超える熱が出て、顔の右半分が腫れ上がっていた。みっともない話だが、その経緯をここに書いておくことにする。

 暮れの29日ごろから、上の前歯の付け根が痛みだした。理由はよく分からない。私は過去に歯を何本か治療しているが、ここ1年以上、歯痛を経験したことがなかった。その前に治療したのは下の奥歯で、それも新たに虫歯になったのではなく、治療ずみの歯から補填材が外れたのを埋め直してもらった程度の治療だった。ところが今回痛みだしたのは、そことはまったく関係のない上の前歯で、虫歯などないはずの歯だった。こういう言い方ができるのは、私は歯磨きに関しては歯科医に誉められるほどと自負していたからだ。これまでの歯の治療の過程で、私は行きつけの歯科で歯ブラシの正式な使い方を教わり、毎日毎食後、律義に実践していた。特に朝食後は念入りで、歯ブラシも1種類でなく、3種類を使う。普通の形のものに加え、奥歯の裏側などにも届く毛足の長い、先のとがったブラシ、それから歯と歯の間を掃除する歯間ブラシを使う。それだけ徹底していたから、虫歯になるはずがないと思っていた。

 しかし、実際に歯痛になったのだから、前歯のどこかに黴菌が入って炎症を起こしているに違いなかった。最初のうちは「そのうち痛みは引くだろう」などと高をくくっていたが、29日の午後になると、上顎から頭にかけてズキズキと痛みが走るようになった。それでも本欄の29日用の文章を書き、絵を描いてそれをデジカメで撮り、このウェッブ・サイトへ登録するところまでは何とかやった。しかし、その後は寝るしかなかった。行きつけの歯科はあいにく土曜日で休診である。妻は心配して、歯科のある救急病院がないか当たってくれたが、見つけることができなかった。そこで翌日の朝、年末年始の診療を交替でやっている歯科医院の中から、近いところを探して診てもらうことにした。

 12月30日の朝9時に、私は千駄ヶ谷のY歯科医院に跳び込んだ。歯茎の腫れが鼻の下から右側にかけて広がっていて、痛いしうっとうしい。話をしようとしても、口が自由に開かない。これを取り除いてもらわないと正月を迎える気分ではないし、元旦の祝賀式の話もままならない……などと考えて焦っていた。60代の小太りの歯科医は、私の前歯を見て、「どこかにブツケたんでしょう。黒くなってるし」と言う。私は「ブツケた記憶はありません」と言い、「黒いのは昔からそうです」と説明した。実は、私の歯の裏の所々には「茶渋」のような焦げ茶色の染み様のものがついている。これは幼児の頃、抗生物質を使ったときの影響だと母からは聞いていたし、行きつけの歯科医も「虫歯ではない」と言っていた。しかし、この小太りの歯科医は問題の歯のレントゲン写真を撮り、それを見て何か結論を出したようだった。それを私に言ってくれれば心の準備ができたのだが、いきなり椅子を倒して治療を始めた。

 こういう経験は初めてだった。医師は患者を診断したら、その結果を患者に話し、治療方針を前もって説明してから、患者の同意を得て治療を始めるものだと、私は思っていた。が、この歯科医は、アシスタントの女性に何か専門用語をボソボソと話しながら、私の上顎にいきなり麻酔注射をし、それからガリガリと問題の歯を削り始めた。そして、武骨な手に力を入れて、歯に開けた穴に何かをネジ込んでは引き抜き、またネジ込んでは引き抜く作業を3~4回やった。仰向けに寝かされた私は、「ウーーン」とか「アアー」とか声を上げながら、痛さに耐えた。で、それが終ってから「神経、抜きましたからね」と歯科医は言うのだった。事後説明なのだ。そして、そのあとの説明はアシスタントの女性にさせた。彼女によると、「歯の穴に綿が詰めてありますが、応急治療なので、1週間以内に行きつけの歯医者さんに診てもらって下さい」という。それだけの説明で、薬も何ももらわずに、私は鼻から口にかけて感覚のないまま家路についた。

 「これで楽になる」と私は期待していたが、それは大間違いだった。麻酔が引いてくるにつれて、鼻の下から頭にかけてズキズキという痛みがもどってきた。私は「神経を抜いたのになぜ?」と思い、「まだ抜けていないのかも」などと歯科医を疑った。私の行きつけの歯科医と、あまりにも違っていたからだ。行きつけの歯科医は、何でもていねいすぎるほど事前の説明をしてくれるし、それが終わり実際に歯を触るときにも「ちょっと削るだけですから、痛くないと思います」とか「痛かったら、顔をしかめてくださいね」などと気を遣ってくれた。その差が、不信感に結びつきそうだった。そこで、私は思い直して「暮れのこの忙しい時に治療してもらえたというだけで十分有り難い」と考えようとした。が、痛みや症状はどう考えても快方にではなく、悪化の方向に進んでいるのだった。

 神経を抜いた30日の午後には、顔の右側半分が腫れ上がってきた。特に、右側の小鼻の脇が盛り上がってきて、右目で右頬が見えるまでになった。さらに時間がたつと、右目で自分の瞼が見えるのだ。つまり、目の周りが腫れて分厚くなっているが、目玉の位置は変わらないから、目が腫れの中に陥没したような状態になった。鼻の下はパンパンに膨れていて、鏡で見る自分の顔は「人間」というより「犬」に近づいてきたと思った。妻が心配して私の顔を覗き込んだので、「ワン」と言って、手を犬の前足のように顔の前に持ち上げた。笑わしてやろうと思ったのだが、彼女は逆に悲しそうな、複雑な顔をした。よほど犬に似ていたのだろう。頭痛が激しくなり起きていられなかったので、私はベッドにもぐり、まもなく眠りについた。そして、時々目を覚まして、妻が用意してくれた流動食をとったりしながら、その他の時間は昏々と眠った。31日も似たような状態で、体温を測ると38℃あった。元旦の朝は、前日よりも楽にはなっていたが、顔の腫れはまだひどく、とても他人様に見せられる状態ではなかったし、体温も38℃以上あったので、新年祝賀式をやむなく欠席することにした。

 元旦の午後、新宿区にある別の歯科医へ行った。この歯科医は前の治療の状況を聞き、私の顔を見ると、腫れの原因をちゃんと説明してくれた。「神経を抜くために歯の裏側に開けた穴に綿が詰めてあるのですが、これがきついと空気が抜けなくなり、顔が腫れてきます。普通は化膿止めの抗生物質を出すのですが、それもないので菌が繁殖してしまったのでしょう」。私が「はあ、はあ」と聞いていると、歯科医が続けて「最悪の時期は過ぎてしまったようですから、空気を出して掃除をすれば、膿は出て楽になると思います」と言う。そして、腫れ上がった私の上唇をめくり上げたので、私は思わず「アー」と声を上げた。痛かったのだ。しかし、歯科医は安心したように言った--「膿を出すために歯茎を切開しようと思ったけれど、もう切れて血が出てますね。あとは自然に出てきますから」

 私は「へえー」と思った。歯茎から右目までの顔の右半分に膿がたまっても、ある段階になると、皮膚が自然に破れて膿を出そうとするらしい。そういうメカニズムが人体にはもともと備わっているのである。当の本人は、頭では何がどうなっているのか分からなくても、体は治る方法を知っているのである。この2番目の歯科医の手当てと、処方された薬のおかげで、私の顔と歯茎の腫れは、その後、日一日と引いていった。

 私はこの「痛さ」を経験して、歯1本でも世界はまるで変わってしまうことが分かった。皆さん、歯は十分気をつけて、大事にしてあげてください。   (谷口 雅宣) 

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2001年1月16日 (火)

お払い箱のドラえもん

 ここ数日の寒波の襲来で、東北から山陰にかけての日本海側は大雪で、九州・長崎でも34年ぶりの積雪となった。東京でも16日の朝は、氷点下の空のもと2~3センチの霜柱が立ち、「冬は寒い」とつくづく感じるようになった。昨年のこの時期は「3月並みの暖かさ」だったというから、「地球温暖化ってホント?」と思いたくなる。
 
 去年の12月初め、寒さを実感するようになった頃、世田谷区のホームショップで「ドラえもん」の格好をした、使い捨てカイロの袋を見つけた。ちょうど手の中に入るような大きさで半額以下のセール品だったから、ちょっと冗談っぽい気分で一つ買った。私はそれまで、使い捨てカイロなど使ったことがなかったのだが、高校生の娘にあげてもいいな、などと考えた。しかし、いざ自分で使ってみると、「ドラえもん」の布地を通して伝わってくるその暖かさが、なかなか捨てがたい。娘には見せたものの、あまり関心を示さなかったので、私自身が出張や朝晩の通勤の際、コートのポケットに忍ばせることになった。

 数週間も使えば、「ドラえもん」の顔や腹などの白い部分は薄汚れてくる。体全体は、手で握った形に固まってくる。しかし、それとともに何となく愛着も湧いてくるので、年甲斐もなく、仕事部屋の片隅に座らせてみたりする。そんなことをしていた時、クリスマス・プレゼントに子供たちから黒いケンゾーの薄手の皮手袋をもらった。「ドラえもん」は片方の手しか暖めてくれないが、こちらは両手をしっかりと包んでくれる。それに、子供からもらうプレゼントは、有り難く使いたくなるものだ。
 
 そんなわけで、寒波襲来の昨今でも、「ドラえもん」はあまり出番がなくなってしまった。手垢で汚れたものを娘に押しつけるわけにもいかず、時々、冷たいまま握ってみたりする。   (谷口 雅宣)

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