2002年4月 9日 (火)

大合併時代

 今日の『産経新聞』で、作家の深田祐介氏が公正取引委員会の考え方を手厳しく批判していた。JALとJASの合併に関連して、これらの大手航空会社が新規参入者に羽田空港の発着枠を譲ると決めたことを同委員会が評価したことを取り上げて、「“競争至上”の愚劣な思い込みに開いた口がふさがらない」と言うのである。深田氏はむしろ、JALもJASもANAも合併して、来るべき世界的“大対決時代”に備えるべきだと主張している。そうしないと、日本の航空会社はこれからの国際競争を戦っていけないというのである。一方、この「正論」と同じ紙面にある投書欄で、神奈川県に住む設計士の荒川英明氏が、日本の都市の再開発は、どこもかしこも高層化であり、経済効率優先で価値ある古い建物を無視し景観を損なっていると嘆いていた。

 この2つは、まるで関係のない別個の現象のように見えるかもしれないが、私には共通の原因があるような気がしてならない。というのは、つい数日前に京都府の福知山市へ行って、私自身が荒川氏の嘆きに近いものを感じ、それが大企業の進出と密接な関係があると思ったからだ。福知山市へは、生長の家の講習会のために行った。同市へ行くのは2年ぶりだったが、一昨年行った時よりも、明らかに町がさびれていた。土曜日だというのに、駅前の商店街を歩いても人の数は少なく、シャッターを閉めている店や、閉ざされたガラス戸の向こうが真っ暗な店がいくつもあるのである。地元の人に聞いてみると、町の人口は毎年減っているそうだ。しかし、その中でも目立つのは、東京や大阪などの有名企業の支店や出張所、それに名の通ったコンビニエンス・ストアーで、そういう場所にはかろうじて人が集まっていた。

 深田氏の論理を延長すれば、福知山市の現状は悲しむべきことではなく、もっと大企業が合併・連携を進め、駅前は大手ファースト・フード店が1軒、スーパーも大手が1軒、ホテルも巨大資本のものが数軒、銀行も証券会社も最大手があれば他は不要であり……ということになるのだろうか。そんな動きが各地にひろがれば、福知山駅前も綾部駅前も、大企業の看板ばかりが並んだ京都駅前や東京駅前の、単なる“ミニチュア版”になるだけではないか。そんなものが地方の価値を高めるはずがないから、地方都市は益々さびれていく。私には、そう思えてならない。

 鳥取県の米子市に昨年行った時も、これと似た寂しさを感じた。その2年前にスケッチをした旧税務署の「素鳳館」(木造2階建て)を見に行ったのだが、手入れが充分でなく、色あせて古ぼけて見えた。その理由の一つは、すぐ隣に10階建てぐらいの、立派なレンガ色の米子市役所が建っていたからかもしれない。両者の組み合わせは、いかにもアンバランスなのだった。2年前にもこの新市庁舎はあったのだが、それほどの違和感は感じなかった。建物を一軒だけ保存しても、それが周囲の町の機能から隔離されている場合、却って逆効果のようだ。そういう点で、小樽や函館の歴史的建築物は、まだ使われているものも多く、古いままで周囲の町並みと調和し、「生きづいている」という感じがする。

 古い建物が保存されていても、町全体の景観が壊れてしまっている所は、京都にも数多くある。大体、あの京都の高層駅ビルはいけない。設計者は特徴を出したつもりかもしれないが、名古屋や大阪と雰囲気はほとんど変わらない。その町の特徴を歴史的な流れの中でとらえ、それを自然の地形を含めた景観の中で生かしていくという考え方を、日本の町はあまり考えていないようだ。いたずらに流行と経済効率を追うばかりだから、日本中どの町へ行っても駅前はほとんど個性のない画一的な風景になってきた。そんな中に、さらに合併による大資本が進出し、どこにでもあるロゴマークのついた看板や同一イメージの店舗を並べたとて、地方の経済が復興するとはとても思えない。

 自然界には、確かに厳しい競争関係はあるが、地味で目立たない生物が繁殖できる“懐の深さ”がある。高い木が陽光をさえぎっても、潅木が生き延び、下草が生え、蔓草が伸び、隠花植物が殖え、キノコが傘を広げる余地がある。そして、これらすべてが互いに栄養素を与え合っている。そういう多様性が、自然の美しさと豊かさと安定性の基礎である。日本経済も、自然から学ぶべきことが数多くあるように思うのだ。

 福知山の駅前商店街を歩いていて、周囲のくすんだ町並みとはまるで異質の、一軒の新築住宅に行き当たった。その住宅には店舗らしきものはなく、その代わり玄関が10メートル近く商店街からステップ・バックしている。その空いた“庭”のような部分に、見事に咲いた色とりどりの花々を植えた鉢が、所狭しと並んでいた。私はしばし、その美しさに見とれながら、この家の主が一体どういう考えの人なのか、想像した。結局、答えは分からなかったが、いろんな考えの人がいてもいいのだと思った。   (谷口 雅宣)

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2002年4月 5日 (金)

鳥の飛行路

 森の木を切り倒した結果“砂漠化”が起こることは、目で見てはっきりと分かる影響である。しかし、森の中に家を建てれば、人間の目には見えないところでも、きっと数多くの影響が周囲の生態系に及んでいるはずだ。我々は「山荘が一軒建ったぐらいで……」と考えがちだが、家が一軒建つためには、基礎工事用の重機や建材を運ぶための道路を通さねばならず、また電気や水道を引くための工事が行われるから、建築現場以外の場所でも多くの木が倒され、表土が掘り返され、砂利が持ち込まれる。加えて造園が行われれば、客土とともに新しい虫や菌類や植物の種が持ち込まれるだろう。また植栽により、その土地にはなかった動植物が(時には海外から)移植される可能性もある。

 こういう生態系への影響は、ある程度までのものならば、自然のもつ“回復力”によって元通りに修復されるか、あるいはしばらくの期間、生態系が撹乱された後に新しい秩序に到達して安定する。しかし、その「ある程度」の人間の介入が、実際どの程度のものなのかは恐らく誰にも分からない。だから、私の山荘が建ったことで、大泉村周辺の生態系にどの程度の影響が与えられるのかは全く不明である。その影響が、自然の回復力の範囲内にあることを私は願っている。しかし、想像するに、きっと山荘を建てるすべての人が、私と同じ願いをもちながら木を切り倒し、土を掘り返し、その地にはない植物や動物を持ち込むのだ。これは、自然の回復力にボディーブローを打ち込みつつあるということであり、私の“一発”が他の人の“一発”より罪が軽いわけではないのである。

 2001年8月上旬、妻と私は、建ったばかりの山荘に満を持して1週間以上滞在したが、そんなある日の朝、薄く霧のかかった大気を吸い込みながらデッキに出た時のことだった--

 朝の八ヶ岳南麓は、鳥の声で満ちていた。

 といっても、様々な種類の鳥が声が交じり合った音ではなく、ヒガラの声だけが、空や山のいたるところから聞こえてくるのだった。その一音一音は、グランドピアノの最高音よりなお高い周波数だったが、決して耳障りではない澄み切った声だった。それが、周囲の森の全面から、互いに呼び交わすような掛け合いとなって響き、遠くの霧の中に吸い込まれていくのである。そんな音に、しばしうっとりとして耳を傾けていると、遠くでJR小海線の2両編成の列車が走る音がコトコトとリズミカルに聞こえだし、やがてそれも小さくなって消えていく。

 八ヶ岳の山荘に来てもう5日目になるが、朝からデッキの上に出てゆっくりできるのは、これが初めてだった。前日まで、朝は雨が降っていたか、深い霧に包まれていたから、デッキの上のテーブルや椅子はびしょ濡れだった。しかし、その朝は、久し振りに椅子の上が乾いていた。私は椅子に腰かけ、両足を前に伸ばして空を見上げた。

 鳥の声は、ゆっくりと打ち寄せる波に似ていた。

 鳥たちは、朝の山では単独行動をしているのではなく、集団で森を巡っているらしかった。目を閉じて耳をすませていると、ある時は、同じ声の掛け合いが輪唱のようなハーモニーをつくって押し寄せてくるかと思うと、しばらくすると、波が引くようにその声は消えていき、その代わりに、別の鳥の呼び声が前面に押し出て聞こえてくるのである。そして、その呼び声に応えるかのように、同じ鳴き声が、遠方の森からも聞こえてきたりする。

 ヒガラは全長が10センチ前後で、スズメやシジュウカラより小型の鳥だ。尾はシジュウカラより短く、主翼は灰青色、頭が黒く、目から嘴にかけて顔の横にも黒い線が走り、頬から喉にかけてと、腹は白いが、胸にワンポイントの黒い印をつけている。その小鳥が、人間がいることを気にすることなく、デッキの脇に立つヤマザクラやダンコウバイの木の枝に来たり、デッキの手すりに止まったりする。その時、低音の唸るような音を出すのに私は気がついた。この鳥は、体が小さいくせに妙に低い声を出す、と私は最初思った。しかし、よく観察していると、それは、この鳥が飛び立つ時、その短い翼が高速に振動して空気を揺らす音だった。

 小鳥たちは、山荘近くの木に飛んでくると、垂直に立つ幹の側面を上下方向に、いかにも軽々と移動しながら、そこで見つけた子虫を素早くつつき、2~3回それを繰り返したかと思うと、ピーピーという高音を残して、別の木に移動していく。デッキの上に舞い降りた鳥は、板の隙間にいるらしい小虫をついばんでいるのだった。

 突然、目の前を小石のような影が横切ったかと思うと、山荘の居間のガラス戸にぶつかって鈍い音をさせた。見ると、この鳥がデッキの上で白い腹を見せて、仰向きになってもがいているのだった。脳震盪を起こして体のバランス感覚を失っているようだ。私は、そのうちに快復して立ち直るだろうと思って見ていたが、その鳥はデッキに張った板の間の溝に片足をひっかけて、立ち上がれそうもない。そこで私はこの鳥を両手ですくい上げて、頭だけ出す格好で手の中に包んであげた。鳥は、少しの間、足を動かして抵抗する様子だったが、やがて静かになった。何事が起こったのかまだ理解しない様子で、目だけ盛んに動かしている。その小さな生物の体温を手の中に感じながら、私はなぜか幸せな気持になっていた。

 それは偶然、労せずして小鳥を手に入れたからではなく、この小動物が私を敵と思わず、大人しく身を任せてくれたことに対する感動だった。10分間ほど、そうして手の中で鳥を暖めながら、私は時々、親指で鳥の頭をなでで、早く快復することを祈った。そして1度、テーブルの上に鳥を下ろしてみた。鳥は、体を傾かせた姿勢で足を踏ん張っている。どうも、まだ左足に力が入っていない様子だ。そこで私は、再び鳥を取り上げて両手で包み、山荘のデッキの上をゆっくりとした歩調で歩いた。仲間の鳥たちは、私の近くにある木々の小枝をまだ揺らしており、その短い高音の鳴き声に反応するかのように、手の中の鳥は頭と目を、空のあちこちに向けるのが分かった。

 さらに15分くらいして、私は手の中で、鳥に自分の人差し指をつかませてみた。すると、ややぎこちない調子だったが、鳥の左足も私の指をつかむ力があることが分かった。そこで片手を鳥から離すと、鳥は逃げもせずに私の指につかまっている。私が椅子から立ち上がろうとしたとたん、例のブルブルッという音をさせて鳥は飛び立ち、すぐ近くのヤマザクラの幹に頭を下に向けた姿勢で止まった。そこは、私より一メートルほど高い位置にあるので、下向きになった鳥は、私から見ると、こちらを向いているように見えるのである。その姿勢で、鳥はさらに10分ほど同じ位置にじっとしていた。そして時々、あの高音の鳴き声を発するようになった。さらに5分ほどすると、鳥は姿勢を変え、木の幹を軽快に2メートルほど登り、今度は空に顔を向けて鳴きだした。「ああ、これで快復したな」と私は思いながら、少し寂しい気持で鳥を眺めた。仲間からはぐれないうちに、飛び立ってほしいと思った。

 装丁家で、随筆家でもある荒川じんぺい氏の本の中にも、鳥が窓ガラスにぶつかる話が出てくる。私は最初、鳥は「ガラス」という無色透明の物質を知らないために、家の中に飛び込もうとして衝突するのだと解釈していた。しかし、荒川氏によると、明るい空と暗い室内の間にガラスがあれば、そのガラスは室内の様子を隠して、空を映すのである。だから鳥は、空がまだ続いていると思って飛行速度を緩めずにガラスに激突してしまうのだ。当たり所が悪ければ、脳震盪ではすまずに死んでしまうだろう。荒川氏は、そんな不幸な小鳥の死骸を、建てたばかりの自分の山小屋のベランダで何回も見つけたという。そして、その原因は「山小屋が、鳥たちの飛行コースを塞いでいた」からだと結論づけている。

 私の目の前で起こったことも、それと同じだったかもしれない。幸いなことに、私は山荘のデッキで気を失っている鳥を見たのは、これが最初であり、7ヶ月たった今も、まだ2回目を見ていない。ヒガラは集団で山を移動するそうだが、あの時以来、私の山荘の上を移動するのをやめたのかもしれない。本当のところは分からないが、私たちは山荘を出る時は、用心も兼ねて、いつもガラスの内側のカーテンは下ろすことにしている。(谷口 雅宣)

【参考文献】
・ 荒川じんぺい著『週末は森に棲んで』(講談社、1994年)  

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2002年3月29日 (金)

黄色い庭

 八ヶ岳南麓の大泉村に山荘を得るため、妻と私が村の不動産会社の案内で、海抜1200メートルの土地を見に行った時、カラマツやアカマツが鬱蒼と繁るその山林は、まさに“自然の宝庫”と呼ぶにふさわしいような、緑で覆われ、可憐な花の咲く緩やかな傾斜地にあった。それは2000年の10月のことである。

「こんな森の中に家を建てるのか……」

 と、少し不安な気持がないわけではなかった。それは、「暗い森の中に埋もれる」ことへの不安だった。直径50センチほどの太さのカラマツの真っ直ぐな幹が、1.5メートルから2メートルの間隔で密生しているだけでなく、足元は高さ4~50センチの下生えの草々や、頑丈な根を張るクマザサなどで一面に覆われ、歩を進めるにも注意がいる。家を建てる分の木を切り倒しても、周囲で待機している実生の木々がすぐに伸びて、1~2年で自然の中に埋まってしまう――そんな気持さえ抱かせる“豊饒の地”が、そこにあるように思えた。

 妻は「眺めのよい土地」を望んでいた。私は「森の中」でも構わないと思っていた。森を切り拓いて牧場や畑にした土地の中にも眺望のよい場所はあったが、それでは「山に棲む」という感じがあまりしなかった。そういう土地は比較的低地にあり、病院や役所や商業施設にも近いから、定住するつもりならそちらの方が便利である。しかし私たちは、当面は「週末の利用」しか考えていなかったから、生活に多少不便でも、いかにも「山に来た」という感じのする土地を探していた。

 目の前にある土地は、そんな私たちの希望通りの森であったばかりでなく、妻の求めた眺望にも優れていた。大泉村は、山梨県の西北の端に聳える八ヶ岳の長い、なだらかな裾野にある。南向きの斜面だから、気候は太平洋型で温暖である。しかし、八ヶ岳の南側の裾野が終った先は、平地ではなく南アルプスが立ち上がる。ほぼ真南に荒倉山(1132m)、甘利山(1745m)が見え、その右手(西)に甲斐駒ヶ岳(2965m)やアサヨ峰(2799m)が聳え、そして日本第二の高峰である北岳(3192m)の頭も見える。私たちが来た土地からは、これらすべての山々は臨めなかったが、甲斐駒ヶ岳、アサヨ峰、そして北岳の頭が木々の上から覗いていた。

 妻と私がその土地を気に入った様子を見て取った案内人は、次回見に来るまでに、立て込んだ木々を少し伐採しておくと言った。その方が、家を建てた時の感じがよく分かるという理由だった。しかし、その「次回」に私たちがそこへ行くと、売地の敷地内の木がほとんどなくなっていたので驚いた。しかも、一人でそれをしたらしい。「そんなに切らなくても」と思ったが、敷地内の南側は急な斜面になっていて、そこを避けるためには家を北側に寄せて建てねばならず、そうすると、木材などの建築材料を置いたり、整地や基礎工事用の重機を動かすための空き地が必要になるらしかった。

 私はこの時、一見どんなに深い森であっても、今の機械を使えば木は簡単に伐採できるということを実感した。

 山荘の建設は、雪解けを待って2001年3月に始まり、7月の末には建物が完成した。しかし、庭を造ることは頼まなかった。自分で造るつもりだったからだ。東京の自宅の庭では、土が露出している所には、何もしなくてもすぐに草や木が生えてくるので、八ヶ岳山麓の“豊饒の地”ならば、なおさら緑に不足することはないと安易に考えていた。大体すぐ隣は森なのだから、植物の種子は頼まなくても先を争ってこの地に根付こうとするに違いない、と私は思った。

 8月の夏休みに1週間少し山荘に滞在し、庭造りをした。建物に近い敷地の東側に、まず花壇を作った。そのために客土が必要なことがやがて分かった。というのは、山荘の土地は、黄色い堅い土の中に無数の小石が詰まっていて、容易に耕すことができなかったからだ。鍬を入れるとすぐに石に当たり、それを掘り出すためにシャベルかスコップに持ち替えねばならない。しかも、掘り出そうと思った石が片手で持てるほど小さければいいが、両手で持ちきれない大きさの岩もいくつも埋まっているのだった。そして、そういう岩や石をすべて掘り出したとしても、残った黄色の土は、「土」と呼ぶにはあまりにも粗い直径数ミリの粒で、その粒は小石のように堅い。簡単に言ってしまえば、この土地の地盤は礫岩と小石でできていたのである。

 八ヶ岳は100万年から300万年も前にいくつもの噴火が起こってできたと言われているが、その時の火山礫や火山灰が堆積してできたのが裾野だ。だから、山腹の地盤が岩や小石でできていることに何の不思議もないはずだった。しかし、鬱蒼と繁った森や、深い下草を見てきた私は、そのわずか数十センチ下に、そういう太古の地層が眠っていることなど想像もできなかった。山荘の工事で、森の薄い表土を掘り返してしまった後は、そこはもう“豊饒の地”などではなかったのだ。

 小石だらけの庭は、朝は露が降りてしっとり焦げ茶色に湿っているが、太陽が上がり、十数メートルの高さのカラマツ林の上方から夏の陽が差し込むようになると、地面は水蒸気を立ち上らせながら急速に乾いて黄色くなる。そこへ植物を植えて水をあげても、その黄色い土は砂地のように水分を吸い込んでいき、長く水気を保たないのだった。庭ですぐ植物を育てるためには、どこからか土を運んでくるほかはなかった。

 2トン積みトラック1台分の畑の土を注文し、庭の真ん中に下ろしてもらった。その土の中にも小石が多く混じっていたから、フルイを使って取り除き、細かい土を花壇となる場所に入れる。そういう作業をせっせと繰り返しながら、山荘での休日を私は過ごした。そして思ったことは、土は初めから地球上にあったのではなく、「森によって作られる」ということだった。その森を破壊すれば、土も失われるのである。それが、土地の「砂漠化」である。環境問題の解説書なら、どんな本にもそんなことは書いてある。しかし私は、そういう場合の「森の破壊」とは、チェーンソーとブルドーザーを使って、大勢の人が、広大な領域の森を伐採することだと思っていた。また、その結果できる「砂漠」とは、イラクやアラビアの砂漠のような、あるいは少なくとも鳥取砂丘のような広さをもった“不毛の地”のことだと思っていた。ところが、目の前の黄色い庭は、それが「砂漠」以外の何ものでもないことを否応なく私に告げていた。大げさに聞こえるかもしれないが、私は山荘を建てるために、付近の土地を砂漠化したのである。   (谷口 雅宣)

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2002年3月 7日 (木)

風  花

 風花(かざはな)--晴天にちらつく小雪片。降雪地から風に吹かれて飛来してくる小雪(三省堂『大辞林』)。恥ずかしながら、この美しい言葉を私は知らなかった。今日は休日を利用し、2ヵ月ぶりに山梨県大泉村の山荘へ行ったが、その山荘の中で、妻の口からこの耳新しい言葉が出た。でも、その意味をわざわざ問う必要はなかった。雲間から澄んだ青空が顔を覗かせ、春の日差しが山荘の木の床に日溜りを作る中、窓外ではチラチラと輝く小片が降っていた。初めは、歌舞伎の舞台の天井から遠慮がちに桜の花びらが落ちるように、銀粉はまばらにパラパラと舞っていたが、やがて量を増し、谷から吹き上げる強風に乗って、吹雪のように銀粉が乱舞した。そうこうする間に、青空はいつの間にか灰色となり、灰色の空から、やがて金色の筋が何本も山肌に差し込んだ。変わりやすい山の天気は、いつまで見ていても飽きない。

 風花は冬の季語だが、山の春はすぐそこまで来ていた。前日に新聞を読んでいた妻が、大泉村のすぐ隣の高根町に関する記事を見つけた。その記事に添付されていた写真では、積雪が30~50センチもあるように見えたし、写真説明には「“清里の森”の別荘地はいま、雪に覆われている」と書いてあった。だから、標高1200メートルの所にある我が山荘付近はもっと深い雪かと覚悟して、ゴム長靴とスコップを用意し、4輪駆動でない私のオデッセイが雪で進めなくなったら、それを使って雪かきをするつもりで家を出た。ところが、大泉村のある八ヶ岳南麓には雪はほとんどなかった。中央道から見渡せる南麓の緩やかな斜面には、残雪の白は見当たらず、葉が出る前の広葉樹の樹冠が、黄土色と赤茶色の温かい色の塊となって、あちこちにうずくまっていた。我が山荘周辺も、日陰の所々に雪が残っている程度で、車の通行には全く支障がなかった。今年の春は全国的に1週間から10日早いと聞いていたが、ここも例外ではなかった。

 玄関の真ん前に、屋根から落ちた雪が30センチほどの厚さで帯状に横たわっていたが、家の周りにはそれ以外に雪はなかった。水道の凍結防止のために、山荘は“水抜き”の処置が施されていたから、妻と協力して通水作業を行い、一息ついた所で空に「風花」が舞っているのに気がついた。風花の勢いがおさまってから、造りかけの庭に出て去年の作業を点検した。土の表面は、長さ20センチほどもある霜柱のため、浮き上がっている。その氷の力で、庭と通路の境界に埋めておいた板仕切も浮き上がっていた。庭の東南に植えておいた果樹の芽の状態を調べようと思って近づいた時、私は我が目を疑った。そこには背丈ほどの高さのリンゴの幼木が2本あったはずだが、その2本は一回り小さく見える。よく見ると、去年の秋に各枝の先端についていた芽が、全部きれいになくなっている。そればかりでなく、枝の先端が切り取られたようになって、黄色い芯が露出しているのだ。悪い予感がして、そのほかの幼木も見て回った。シラカバは無事だったが、ヤマボウシとモミが同じようにやられていた。“犯人”はシカだ、と私は思った。

 秋にキノコ刈りをした時、よくシカの糞に遭遇した。「山の斜面をシカが走る」と当地の知人が教えてくれた。その目で注意して見ると、山荘の西側に生えた木が、ちょうど人の背丈ほどの高さで皮をむかれている。都会の土地に果樹を植えるようなつもりで、リンゴの木を植えたのがいけなかった。「自然界はなかなか厳しい」と改めて知らされる。農家の人が、イノシシやシカを恨めしく思う気持が少し了解できた。人間に天敵はいなくとも、人間の作物には天敵が多い。だからといって、銃や薬の世話になるつもりはない。果樹の幼木は、ある程度の高さに育つまでは、動物の被害を避けるために筒状の覆いをするのだと、勉強家の妻が調べて教えてくれた。都会人間のレッスンは、まだ始まったばかりなのだ。

 とはいっても、久しぶりの山行きで、我々夫婦は心を洗われた思いで帰途についた。上りの中央道は、長坂から甲府に至る地点で、晴れていれば正面に富士山が見える。今日の富士は、山頂から8合目あたりまで雲の傘を被っていたから、山腹では風花が舞っていたに違いないと私は思った。   (谷口 雅宣)

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2002年2月24日 (日)

スター・プリンセス

 生長の家の講習会のため、大阪のホテルの48階で朝を迎えた。部屋のカーテンを開けると、空一面に薄い雲が広がっていたので、窓から一望できる大阪湾一帯は霞んだように見えていた。前夜の天気予報で、今日の近畿地方は朝方は雲が多くても午後から晴れると言っていたのを思い出した。洗面と着替えをすませ、朝食のために部屋を出る。食後部屋にもどってから、朝刊に目を通し、講習会で使うパソコンの画像表示ソフトの点検を行う。そうこうしている合間に、ふと窓の外を見ると、空を覆っていた雲が切れて柔らかい陽光が港や町全体にひろがっていた。その視界のちょうど真ん中あたりに、橋の陰に一部姿を隠しながら、白い大きな客船が一艘停泊しているのを私は発見した。近くの建物や橋と比較してみると、その船が相当な大きさであることが分かった。こんな大型客船に出会うのはずいぶん珍しい。

 私が横浜で新聞記者をしていた頃、客船の入港はなぜか胸をときめかせてくれた。当時、私が所属していた記者クラブは「横浜海事記者倶楽部」といって横浜税関の1階にあり、横浜港とその周辺で起こる様々な出来事を担当する記者の“溜まり場”だった。この記者クラブは通称「海クラ」と呼ばれ、税関関係の取材では、珍しいものの輸入や禁制品の摘発などを記事にしたり、海上保安庁傘下の第三管区海上保安本部では海難事故や難民船の漂着を取材したり、横浜港を管理する横浜市港湾局からは「出船入船」の情報をもらって記事を書いたりしていた。

 その中でも、外洋客船の入港は当時もそんなに数が多くなかったから、入港時には横浜港大桟橋では市消防局の音楽隊が出て歓迎演奏をし、ミス横浜が船長に花束を贈呈して、港は一気に華やいだものだった。そんな時、我々海クラ記者は“取材”にかこつけて客船の中に乗り込み、船内の豪華な雰囲気に浸ることができた。当時、世界最大の豪華客船と言われたクイーン・エリザベス2世(QE2、67,140総トン)やキャンベラなどの内部を覗けたのは、まさに“役得”の一つだった。また、運輸省の練習帆船が着岸し、一斉に帆を張ってセールドリルをする時などは、港周辺はファンたちでごった返した。

 講習会直前の朝、大阪港に大型客船を見つけたとき、昔のそんな記憶がふと蘇ってきて、会終了後は港へ行って客船をゆっくり見るのも悪い考えではないと思った。しかし、そのためには、船が夕方までその場にいてくれねばならない。その点を秘書に調べてもらったら、幸いにもその日の夜までは大阪に停泊しているという。その時聞いた船の名前が「スター・プリンセス」だった。聞き覚えのない名前だと思ったが、私が海クラ記者をやっていた時からもう20年以上たっているから、無理もないと思い直した。

 講習会終了後、船の停泊している河口の対岸へ車を回してもらった。ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)のすぐ近くである。にもかかわらず昔、横浜港に豪華客船が着いた時のにぎわいに比べると、嘘のように人通りが少ないのが不思議だった。そこは対岸から来る渡し舟の発着場になっていて、渡し舟が着くと、さすがに数十人の出入りがある。そして、人々はこの豪華客船を見上げてカメラを構えるのだった。私は、そういう人々のカメラの邪魔にならないように、一段上のコンクリートの塀の上によじ登ってスケッチを始めた。そして、その船の大きさに改めて驚かざるをえなかった。

 スター・プリンセスは、今年2月に就航したばかりの超大型豪華客船で、10万9000総トン、全長290メートル、全幅36メートルもある。別の言い方をすれば、背の高さはニューヨークの自由の女神を上回り、長さはフットボール場を3つつなげたよりも長い。デッキ数が16層だから16階建てのビルの高さに等しく、1,300の客室に2,600人の乗客を収容できる。乗組員の数だけでも1,150人という。船主のP&O社は、「プリンセス」と名のつく客船をこの「スター」のほかに「グランド・プリンセス」「ゴールデン・プリンセス」「オーシャン・プリンセス」など12隻もっており、これを「プリンセス・フリート(プリンセス船隊)」と呼んでいる。スター・プリンセスはグランド・プリンセスの同型の姉妹船で、同社の船隊中では最大級だ。

 この船は今回が処女クルーズで、2月13日にシンガポールを出港し、15日はタイ、19日に香港、20日に台湾、21日に沖縄を巡った後、23日に大阪港に寄港したもの。この後のスケジュールは、この日の夜にアメリカに向けて出港、3月2~3日(現地時間)にハワイに寄り、8日にクルーズ最終目的地であるロサンゼルスに着く。そんな旅行のできる日本人が何人いるのか知らないが、「人間は大変なものを造り上げるものだ」とつくづく感じながら、私は大阪をあとにした。   (谷口 雅宣)

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2002年1月12日 (土)

桜  島

 生長の家の講習会で鹿児島市に来た。今日の西日本は春を思わせる陽気で、鹿児島の気温に18.9℃まで上がったという。ちょうどこの1月12日は、大正3年(1914)に桜島が大爆発した日で、それまで文字通り「島」だったこの山が、流れ出た溶岩のために大隈半島と陸続きになった。この大噴火の災害を忘れないように、毎年この日には、鹿児島県主催の防災訓練が行われており、今日も桜島町溶岩グラウンドと鹿児島港本港区南埠頭を中心に、約4000人が参加して防災訓練が行われたという。

 雲一つない空の中を、鹿児島空港に午後4時半すぎに着いた。空港から宿舎まで行く車中で聞いた話では、桜島は最近はあまり噴火をしなくなったという。日本には86の活火山があるそうだが、過去4回大爆発を起こした桜島は、その中でも最も活動的な火山のはずだ。それなのになぜ? そこで「最近は年を取って元気がなくなったのですか?」と冗談半分の質問をしてから、これはお粗末な擬人化だと思った。人間の生物学的時間と、火山などの地質学的時間とを同列に扱ってはいけない。地質学的な「最近」とは、日本に国がまだ存在せず、マンモスが歩き回っていた氷河期を指すかもしれないのだ。

 ところで車窓から見た桜島は、山の上半分がレンガ色に染まっていたので少し驚いた。ちょうど日没前で、夕陽を浴びていたからだが、以前に絵を描いた時は朝だったため、桜島は霧の中で青々としていた。その印象が強かったためか、「桜島は青い」などという先入観があった。先入観を破られることは新鮮な驚きである。ホテルの部屋に入って、さっそく筆を動かしてみた。

 桜島の火山灰地で育つものに、桜島大根がある。地元では「しまでこん」と呼ばれる。このダイコンは世界一の大きさを誇ることは有名だが、数年前に鹿児島から現物を送っていただいた時には、さすがにその大きさに驚いた。根の直径が30センチ以上もあり、茎の長さは50センチを上回る。それが細長いダンボール箱に入ってドンと届けられた。感激して絵に描いたものが、今もわが家の食堂の壁に飾ってある。ところが、この“世界一ダイコン”の市場入荷量は、10年単位で見るとかなり減少している。

                 総株数(概算)  1日当り
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 昭和43年  1,274 トン   254,800 株   2,123 株
 昭和53年   986 トン   197,200 株    1,643
 昭和63年   295 トン   59,000 株      491
 平成10年    78 トン   15,600 株      130
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  鹿児島市場年報より(トン以下は四捨五入)

 上の数字は地元の青果店「鹿児島青果」のホームページから拝借したものだが、このホームページの情報によると、重さは標準で1株5Kg、大きいもので40Kgにもなるという。巨大ながら“大味”ではなく、柔らかく甘味があって美味である。こんな上等なダイコンが火山灰地で育つのだから、自然界の出来事は実に奥が深いと思う。上等で美味しいものの栽培が年々減っていくのは不思議であり、残念な現象だが、もしかしたら「過疎化」の問題と関係しているのだろうか。その一方で、明るい動きもある。桜島の“悪条件”を克服したダイコンだから、きっと他の土地でも育つに違いないと考えた人々が今、全国で桜島大根の栽培実験をしているらしい。この実験は、「全国一斉桜島大根栽培プロジェクト2001」という名前で、鹿児島県のみならず、北は北海道、東北から、関東、四国、九州にいたる公立小学校27校が参加しており、遠くアフリカの地での栽培も計画されているという。「人間よ、悪条件を恐れることなかれ!」と、このダイコンは言っているようだ。   (谷口 雅宣)

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2001年12月 2日 (日)

記 帳 所

 生長の家の講習会のため奈良県の橿原市に来た。同市内の「県立橿原公苑体育館」と、奈良市内の「なら100年会館」と「奈良市史跡文化センター」の3会場を衛星通信で結んで行われた会に、1万人以上の人が参加して下さった。私は、前日の1日の午後4時15分ごろ、ここへ来る途中の京都駅の近鉄ホームで、雅子妃殿下が内親王様を無事出産されたことを知った。誠におめでたいことで、翌日の講習会でも、参加者の目は輝き、君が代を歌う声には喜びが満ちているように感じられた。会場の橿原公苑体育館は、神武天皇をお祀りする橿原神宮のすぐ隣にある。その天皇家の現代における“世継ぎ”の殿下に待望のお子様が誕生された時、初代天皇の大御霊のすぐ近くに来られたことは偶然ではないと感じられた。会終了後は、この機会を逃がさず、神宮境内に隣接する「神武天皇畝傍山東北陵」(じんむてんのううねびやまのうしとらのすみのみささぎ)へご挨拶に行った。

 神武天皇陵は、中学か高校時代に訪れたことがあった。『日本書紀』によると、西暦の紀元前584年ごろに崩御されているから、それほどの太古の時代から存続している墳墓かと思い、感慨に浸った記憶がある。しかし、説明書を読むと、この御陵は、江戸末期の文久3年(1863年)に15,612両の工費をかけて8ヶ月間で造られたという。(ちなみに、橿原神宮の建立も1890年と比較的新しい)何となくがっかりしたが、もっとよく読むと、『古事記』や『延喜式』に御陵の場所が記されているが、正確な位置は不明だったらしい。考古学的な痕跡も定かでない、それほどの大昔から一国が変わらずに続いていることは、やはり稀有なことである。その中心として連綿と続いてきた皇室の稀有さは、なおさらである。

 御陵参拝後に社務所の方へ向かうと、その先に「宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所」と書いた立て札の懸かった小さな建物があり、内親王様誕生のお祝いの記帳ができるようになっていた。日曜日だったので、近くの橿原公苑や御陵に来た普段着姿の家族連れなどが、3人、4人のグループで記帳に来ていた。私も短い列の後ろに並び、ほどなくサインペンで記帳した。その目の前には、宮内庁の職員らしき紺色の制服の男性が2人立っている。その若い方の職員が茶髪なので意外に思った。古来の黒髪では満足できない若者が、伝統維持の権化のような宮内庁でも働いている。女性天皇論が語られるのも、無理はないと思った。

(谷口 雅宣)

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2001年11月23日 (金)

三 々 九 度

 祝日を利用して行われた甥の結婚式に参列した。長崎・西彼町にある生長の家総本山の出龍宮顕斎殿で、式は伝統的な神式で行われた。披露宴ではなく、誰かの結婚式に出席したのは、ずいぶん久し振りのような気がする。神前で、和服姿の花嫁が三々九度の盃を傾ける姿を見たのは、もしかしたら妻との結婚式以来かもしれないなどという感慨が、白い項を見せながら盃を傾ける花嫁の後姿を見ながら起こった。多分この感慨は正確でないだろうが、その時、23年前のことがアリアリと思い浮かんできたのだ。あの時、まさに妻にならんとしていた件の女性は、白い綿帽子をかぶって、両手で盃を持ちながら、盃を顔に近づけるのではなく、顔を盃に近づけようと努力している風情だった。その動作は、映画のスローモーションのように緩慢であり、目元に淡いピンクの化粧を施した、その白い横顔を見ながら、私は「ずいぶん色っぽい仕草だなあ」と感じ入ったものだった。

 あとで妻から聞いた話だが、この時彼女は、花嫁衣裳の着物がきつくて腕を上に動かすことができなかったので、顔の方を下げねばならず、下げようとすると襟元が圧迫されるので、唇が盃の中の酒まで達するのに努力を要したのだという。私は、その妻の努力をよそに、勝手にエロチシズムを感じていたのだった。

 甥の花嫁は、妻のような努力を感じさせずに、楽々と盃を空けている様子だった。三方の上に重ねられた三枚の盃の上から順番に、新郎から新婦へ、新婦から新郎へ、また新郎から新婦へ、と酒が飲み回される。茶道の場合は、前に飲んだ人の飲口と次の人の飲口がズレるような配慮がされると聞いていたが、三々九度ではどうなのだろう--などと余計なことが頭に浮かぶ。結婚する御両人は、もちろんそんなことは気にしないだろうが、盃一杯の酒を3回に分けて飲むなどという細かい動作を考案した人なら、飲口のことも考えたかもしれない、と勝手に想像する。また、酒に弱い人だったら、盃3杯を飲んで酔っ払ってしまわないだろうか。日本の神様は、酔っ払った心も大目に見てくれることになっているのだろうか--新郎新婦が盃を傾けている間、雅楽の演奏の流れに乗って、私の頭はクルクル動いていた。

 ひとつ盃を神前で大勢で飲みまわし、神霊と人、人と人との結合をさせ、あるいは結合を強めたり確認する行事を「盃事」という。近世以降、猪口盃が普及すると、それぞれが別の盃を使うようになったが、この三々九度の儀式には当初の意義と形が残っている。ところで、新婦側の出席者の中に、まだ2~3歳ぐらいの子供が3人いた。新郎新婦の盃の後で双方の親戚が盃を傾けるが、私が飲み終わって前を見ると、そのうちの1人が「うー苦い」というような顔をして舌なめずりをしていた。私は「あ、あ」と思ったが、「これで酒が嫌いになるか好きになるかは、一概に言えない」と考えて気にしないことにした。

(谷口 雅宣)

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2001年11月15日 (木)

コート・ハンガー

11月15日:「コート・ハンガー」

 休日の木曜日なので、また大泉村へ行った。もう紅葉は終っているかと思ったが、低地はまだ十分美しさが楽しめる。カラマツの橙色の紅葉はそろそろ終り、イチョウが黄金色に輝いていた。この日から中央道の長坂インター近くにDIY店「Jマート」がオープンしたので、まずそこを覗いた。日用品で不足しているものと、それから冬場に欠かせないコート類を玄関に掛けるためのコート・ハンガーを買うつもりだった。Jマートは調布店などでは、その類のものが豊富に売られていたが、こちらの店では、開店早々ということもあったのか、品ぞろえが少なかった。妻は、コート・ハンガーの上に化粧棚が付いた形のものを探していたが、それは気に入ったものがない。こういうセットは数千円するので、勢い慎重になる。そこで、ドアの取っ手のような円形のコート・ハンガーそのものを4つ買った。こちらは1個280円なので、4つ買っても1000円ちょっとだ。

 問題は、この型のコート・ハンガーを取り付けるためには、壁の表からではなく、裏からネジを埋め込まねばならない点だ。すでに壁に張ってある板をはがすわけにはいかないから、細長い別の板の裏からネジを埋め込み、その板全体を壁に固定すればいいと思った。これに使う板は、廃材が利用できる。実は、山荘の納戸の中には、建築に使った材木の余りがいくつか置いてある。大工さんに頼んで、残しておいてもらったものだ。その中から、幅10cm、厚さ3cmぐらいの材木を切って、コート・ハンガーを取り付けようと思った。

 山荘に着いて道具箱を開き、木工に必要なものを調べてみると、買ってきたコート・ハンガーに付いている木ネジの長さが、材木の厚さに比べ不足していることに気がついた。つまり、材木の裏からこのネジを締めても、表側に出るネジの長さが十分でないので、コート・ハンガーをしっかり固定するだけの強度が期待できないのである。また、この「3cm強」という材木の厚さは、これを玄関の板壁に固定する際にも分厚すぎた。言い換えれば、買い置きの木ネジの長さが足りないのである。山を降りて、適当な材料を再び買いに行くこともできたが、それは「省エネ、省資源」の原則にも反したし、時間ももったいなかった。

 問題を解決してくれたのは、電動ドリルだった。ネジの長さに対して板が厚すぎる場合は、ネジを締める部分の板に円筒形の溝を掘って、板の厚さを事実上薄くしてしまえばいい。また、ネジを締めた後にこの穴を埋めてしまえば、ネジの頭を隠せるから、見栄えも美しい。この電動ドリルは、ドライバーとも兼用できるもので、過去に1回使っただけだが、この日はこうして大活躍することになった。私はこの木工作業をしながら、文明の利器の有り難さをしみじみ感じていた。そして、薪をつくるときに機械(チェーンソー)を使わないとした論理(11月7日付本欄)が、ここではどうも通用しないことが分かったのである。

(谷口 雅宣)

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2001年11月 7日 (水)

薪づくり

 また、大泉村の山荘に来ている。標高1200mの高地にあるので、周辺の紅葉はほぼ終わっていて、まだ葉の残ったカラマツが金色の三角帽子を天高く掲げている姿が、青空と常緑樹の間に際立っている。朝の気温は0℃で、一面に霜が降りる。前夜は薪ストーブの火のつきが悪かったので、寒さが身にしみた。薪は、山を降りたところにある村のショッピング・センターで一束600円で売っている。それは一晩もつかどうかの量で、暖房費としてはかなり高価だ。そんなこともあって、東京の家の庭で台風などで落ちた枝や枯れ枝を適当な長さに切り、半年前から保管しておいた。それを何回にも分けて車で運んで来て、山荘の軒下に積み上げておいた。しかし、この薪は長さが50cmぐらいあるものが多く、薪ストーブに入れるには長すぎた。また、量的にも不安が残る。だから、明るい間にもっと使い勝手のいい長さの薪をつくっておこうと思った。

 薪は、山荘周辺の森で調達できる。もちろん、人サマの土地の立木を勝手に伐採することはできない。しかし、周辺のカラマツ林には倒木がいくらでもある。実際、山荘のすぐ近くにも直径25cmほどのクリの木が2本倒れている。長さが10m以上あるヒョロ長い木だ。こういう木は、カラマツを植林した後に自然に生えてきたものだろう。間伐などをせず、植林後の手入れが行き届いていないと、森の木は太陽の光を葉で受けようと互いに競争して、ヒョロヒョロと高く伸びる。そんなところに家を建てるために森を切り開くと、それまで隣り合った樹冠(枝が広がって幹の上に冠状になった部分)同士で支え合っていた木が、支えを失ってしまう。そんな時、強風などで伸びすぎた木が倒れることがある。だから、倒れたクリの木は2本とも、ほとんど真っ直ぐな幹をしている。このうち1本を、40cmほどの長さの薪にしようと思った。

 チェーンソーがあれば、わけのない作業だろう。しかし、それがない今は、持っている普通のノコギリでカットするほかはない。低くなった太陽の光を背に受けながら、午後5時ごろからノコギリを引きはじめ、小一時間かけて25本の薪をつくった。チェーンソーがあれば10分ぐらいでできるのだろう。そんなことが頭をよぎった。が、思い直して、さわやかなクリの木の香を嗅ぎつつ、全身を使ってノコギリを引く作業に熱中した。そして、その原始的な手ごたえを味わいながら、こんなことを考えた。

 --自分は今、このクリという植物が何年もかけて大気中から収集した炭素の固まりを切っている。燃やして暖をとるためだ。これと同じことを大規模でやれば、森林破壊となり、温暖化が深刻化する。しかし暖をとらねば、人間が0℃の夜を無事に過ごすことは困難だ。だから、せめて森の“余剰分”と思われる倒木だけを利用させてもらう。量的には、それで十分だ。それに、手引きのノコギリを使えば、1回にちょうどそれぐらいの量しか薪は作れない。チェーンソーがあったら、どうだったろうか? 作業効率はグンと上がるから、必要以上に薪をつくってしまうか、あるいは作業を短時間ですませて家にもどれる。楽な作業かもしれないが、そんな時、このクリの木の一生のことを考えるだろうか? 節を避けて木を切るために、木の表面をよく観察するだろうか? クリの木肌に注意したり、香りをじっくり味わうだろうか?--そんなことを考えてみると、不便さや苦労の中には、効率とは別の価値がしっかり詰まっているのだと思った。

(谷口 雅宣)

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