2002年2月 7日 (木)

絵を描くヒト

 休日を利用して、東京国立近代美術館のリニューアル開館記念展「未完の世紀:20世紀美術がのこすもの」を妻と見にいった。この展覧会は、題からも想像がつくように大規模なもので、美術館の1階から4階までの全館を使い、重要文化財11点を含む日本画、洋画、彫刻、写真、版画、工芸など370点を越える作品を集めたものだ。展示作品を1点ずつじっくり鑑賞していては、見終わるまで何日もかかってしまうだろうから、我々は自分の好きそうなものだけを鑑賞し、あとはすっ飛ばして見ることにした。しかし、それでも実にいろいろな人が、いろいろな画材を使い、いろいろな画風の絵を、いろいろな題材を利用して、いろいろな国で、いろいろな考え方のもとに、いろいろな時代に描いてきたものだと感心させられる。

 妻は、東山魁夷の『道』や佐伯祐三の『ガス灯と広告』、速水御舟の『京の家、奈良の家』などに感銘を受けたらしいが、私は、藤島武二の『天平の面影』、ムンクの『女の髪の中の男』、岸田劉生の『壷の上に林檎が載って在る』、木村荘八の『墨東奇譚』の挿絵、松本竣介の『Y市の橋』などに惹かれた。もちろん夫婦の好みは違っていていいし、違っている方が面白い。それだけ、多様性を共有できるからだ。それにしても、人間は20世紀だけでなく、実に太古の昔から、数限りない数の絵を、大変な努力をしながら(あるいは実に軽々と)描き続けてきたのである。そう考えると、「なぜ?」という疑問がどうしても浮かんでくる。だから帰りがけに、美術館の売店で美術評論家、中原佑介氏編著の『ヒトはなぜ絵を描くのか』(フィルムアート社)という本を買ってしまった。

 この本が扱っている絵は、しかし現代の画家のものではなく、何万年も前の人類の先祖が洞窟などに残したものである。そういう旧石器時代から、ヒト(つまり、生物としての人間)は絵を描いていた証拠が残っているが、それはいったい何のためかを、中原氏がいろいろな分野の人と対談しながら検討している本である。私はこれまでにも「ラスコー」や「アルタミラ」などの洞窟で発見された太古の絵のことを聞いたり、写真を見たりしたことはあったが、この本にはそういう洞窟画のもつミステリアスな側面が詳しく書かれていて、大変興味深かった。

 洞窟画の謎の第一は、それが洞窟の浅いところに描かれているのではなく、洞窟の奥の、さらにその奥の、昼間でも光があまり入らないような暗い場所に描かれていることが多いことだ。つまり、日常生活からは隔離された場所、あるいは“隠された場所”に描かれているものが多い。謎の第二は、それが普通の「壁画」のように描きやすい側面に描かれているのではなく、普通の格好では描きにくい洞窟の天井に近い側面や、屈んだ姿勢でしか描けないような不便な場所を、わざわざ選んで描かれていたりすることだ。謎の第三は--“謎”と考えるのは偏見かもしれないが--、そういう絵が実に芸術的であること。つまり、とても素人が描いた作品とは思えない質をもっていることだ。ほかにも謎は多くあるが、この3つのことだけを考えても、私の頭は知的興奮を覚える。

 洞窟画には牛や馬などの動物を描いたものが多いが、私が真っ白なスケッチブックを今渡されて、牛馬の絵を空で描けと言われたら、きっとずいぶん稚拙な絵を描くに違いない。写生をするのではなく、また写真を見るのでもなく、ただ記憶の中にある牛や馬の姿を頼りに描くのだから、素人の私にうまく描けるわけがない。しかし、何万年も前にいた人類の祖先は、暗黒の洞窟の中で、わずかな光を頼りにして、洞窟の描きにくい高い位置に、あるいは低すぎる位置に、何も見ずに、躍動感に溢れる動物画を描いたのである。描き手はどうやって絵の練習をしたのか? 紙のない時代だから土や砂の上で熱心に線描の練習をしたのか? それは“プロ”だったのか? 旧石器時代に“プロ”の画家がいたのか? いたとしたら、いったい何のために? また、なぜ洞窟の「奥」に「動物」の絵なのか? 謎は深まるばかりである。

 『ヒトはなぜ……』の本は、こういう疑問に答えようとしているが、その中で医学者の岩田誠氏が言っていた「絵は縄張りの印」という説が面白かった。それは、クマが林の木に傷をつけたり、イヌが散歩中に電信柱に尿をかけたりするのと同じように、「ここは俺のシマだ」という印として自分の絵を描く、というのである。現代の青年も、スプレー式塗料を使って、自分のロゴマークのようなものを所構わず落書きするが、それと同じようなものである。そういう落書きは、ちょっと簡単には描けないような場所--例えば、車道上の高い位置に渡された歩道橋の側面など--をわざわざ選んでいることもある。また、人類学者の片山一道氏が、「絵」と「文字」の関係について述べていることも面白かった。それを一言でいえば、「文字の発達によって絵は圧迫される」というのである。片山氏は、文字が発明される以前は、人類の先祖は絵をコミュニケーションの重要な手段として使っていたと考え、だから文字が発達すると絵は廃れる傾向が生まれるという。この考え方は、最近の脳科学で言われている右脳と左脳の機能の違いとも一致するように思う。

 そして最後に、中原氏が提出する仮説は説得力がある--絵は、文字以前の人類にとって重要なコミュニケーションの手段だったが、洞窟画は、「子宮」を象徴するような暗い道(産道)の奥にある闇の中に動物を描くことによって、自然の創造主(つまり、神)に語りかけるためのものである。したがって、普通の人が見る必要はなく、また、(祭壇のようなものが想定されるだろうから)洞窟のどこに描いてもいいというわけではない。この仮説を一言で簡単にいえば、「ヒトは宗教心から絵を描いた」ということになる。何かスッキリしすぎた結論だが、現代のコミック・ブームと宗教心とはあまり関係があるとは思えないから、先史時代人と現代人の間には、「絵」に対する感覚に相当な差があるのかもしれない。(谷口 雅宣)

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2001年12月 2日 (日)

記 帳 所

 生長の家の講習会のため奈良県の橿原市に来た。同市内の「県立橿原公苑体育館」と、奈良市内の「なら100年会館」と「奈良市史跡文化センター」の3会場を衛星通信で結んで行われた会に、1万人以上の人が参加して下さった。私は、前日の1日の午後4時15分ごろ、ここへ来る途中の京都駅の近鉄ホームで、雅子妃殿下が内親王様を無事出産されたことを知った。誠におめでたいことで、翌日の講習会でも、参加者の目は輝き、君が代を歌う声には喜びが満ちているように感じられた。会場の橿原公苑体育館は、神武天皇をお祀りする橿原神宮のすぐ隣にある。その天皇家の現代における“世継ぎ”の殿下に待望のお子様が誕生された時、初代天皇の大御霊のすぐ近くに来られたことは偶然ではないと感じられた。会終了後は、この機会を逃がさず、神宮境内に隣接する「神武天皇畝傍山東北陵」(じんむてんのううねびやまのうしとらのすみのみささぎ)へご挨拶に行った。

 神武天皇陵は、中学か高校時代に訪れたことがあった。『日本書紀』によると、西暦の紀元前584年ごろに崩御されているから、それほどの太古の時代から存続している墳墓かと思い、感慨に浸った記憶がある。しかし、説明書を読むと、この御陵は、江戸末期の文久3年(1863年)に15,612両の工費をかけて8ヶ月間で造られたという。(ちなみに、橿原神宮の建立も1890年と比較的新しい)何となくがっかりしたが、もっとよく読むと、『古事記』や『延喜式』に御陵の場所が記されているが、正確な位置は不明だったらしい。考古学的な痕跡も定かでない、それほどの大昔から一国が変わらずに続いていることは、やはり稀有なことである。その中心として連綿と続いてきた皇室の稀有さは、なおさらである。

 御陵参拝後に社務所の方へ向かうと、その先に「宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所」と書いた立て札の懸かった小さな建物があり、内親王様誕生のお祝いの記帳ができるようになっていた。日曜日だったので、近くの橿原公苑や御陵に来た普段着姿の家族連れなどが、3人、4人のグループで記帳に来ていた。私も短い列の後ろに並び、ほどなくサインペンで記帳した。その目の前には、宮内庁の職員らしき紺色の制服の男性が2人立っている。その若い方の職員が茶髪なので意外に思った。古来の黒髪では満足できない若者が、伝統維持の権化のような宮内庁でも働いている。女性天皇論が語られるのも、無理はないと思った。

(谷口 雅宣)

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2001年11月23日 (金)

三 々 九 度

 祝日を利用して行われた甥の結婚式に参列した。長崎・西彼町にある生長の家総本山の出龍宮顕斎殿で、式は伝統的な神式で行われた。披露宴ではなく、誰かの結婚式に出席したのは、ずいぶん久し振りのような気がする。神前で、和服姿の花嫁が三々九度の盃を傾ける姿を見たのは、もしかしたら妻との結婚式以来かもしれないなどという感慨が、白い項を見せながら盃を傾ける花嫁の後姿を見ながら起こった。多分この感慨は正確でないだろうが、その時、23年前のことがアリアリと思い浮かんできたのだ。あの時、まさに妻にならんとしていた件の女性は、白い綿帽子をかぶって、両手で盃を持ちながら、盃を顔に近づけるのではなく、顔を盃に近づけようと努力している風情だった。その動作は、映画のスローモーションのように緩慢であり、目元に淡いピンクの化粧を施した、その白い横顔を見ながら、私は「ずいぶん色っぽい仕草だなあ」と感じ入ったものだった。

 あとで妻から聞いた話だが、この時彼女は、花嫁衣裳の着物がきつくて腕を上に動かすことができなかったので、顔の方を下げねばならず、下げようとすると襟元が圧迫されるので、唇が盃の中の酒まで達するのに努力を要したのだという。私は、その妻の努力をよそに、勝手にエロチシズムを感じていたのだった。

 甥の花嫁は、妻のような努力を感じさせずに、楽々と盃を空けている様子だった。三方の上に重ねられた三枚の盃の上から順番に、新郎から新婦へ、新婦から新郎へ、また新郎から新婦へ、と酒が飲み回される。茶道の場合は、前に飲んだ人の飲口と次の人の飲口がズレるような配慮がされると聞いていたが、三々九度ではどうなのだろう--などと余計なことが頭に浮かぶ。結婚する御両人は、もちろんそんなことは気にしないだろうが、盃一杯の酒を3回に分けて飲むなどという細かい動作を考案した人なら、飲口のことも考えたかもしれない、と勝手に想像する。また、酒に弱い人だったら、盃3杯を飲んで酔っ払ってしまわないだろうか。日本の神様は、酔っ払った心も大目に見てくれることになっているのだろうか--新郎新婦が盃を傾けている間、雅楽の演奏の流れに乗って、私の頭はクルクル動いていた。

 ひとつ盃を神前で大勢で飲みまわし、神霊と人、人と人との結合をさせ、あるいは結合を強めたり確認する行事を「盃事」という。近世以降、猪口盃が普及すると、それぞれが別の盃を使うようになったが、この三々九度の儀式には当初の意義と形が残っている。ところで、新婦側の出席者の中に、まだ2~3歳ぐらいの子供が3人いた。新郎新婦の盃の後で双方の親戚が盃を傾けるが、私が飲み終わって前を見ると、そのうちの1人が「うー苦い」というような顔をして舌なめずりをしていた。私は「あ、あ」と思ったが、「これで酒が嫌いになるか好きになるかは、一概に言えない」と考えて気にしないことにした。

(谷口 雅宣)

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2001年9月18日 (火)

寅さん埴輪

 今日の『朝日新聞』に面白い記事が載っていた。東京・葛飾の柴又八幡神社境内にある、6世紀後半に築かれたという古墳から、山田洋次監督作品の人気映画『男はつらいよ』の主人公「寅さん」によく似た顔の、帽子を被った人間の埴輪が出土したというのだ。しかも、それが見つかったのが、俳優の渥美清氏の命日である8月4日だったという。この記事には、さらに“おまけ”がついていて、奈良時代の柴又には「とら」という名前の男性が実際にいただけでなく、「さくら」という名前の女性もいたというから驚いた。記事についている写真には、その埴輪が大写しになっていて、「発掘された『寅さん』そっくりの埴輪」という説明もついている。

 その写真を一見すると、なるほど渥美清氏にそっくりに見えてくる。1300年も前の葛飾・柴又に「とら」や「さくら」という名前の人間が住んでいただけでなく、当時の人がシルクハットのような帽子を被っていたと考えると、『男はつらいよ』を作った山田洋次氏は、何か超能力のようなものをもっていて、奈良時代まで時間を溯ってこの作品をイメージした--などと、とんでもない妄想を抱きそうになる。「しかし待てよ……」と私の猜疑心がブレーキをかけた。

 記事をよく読むと、シルクハット型の帽子をかぶった埴輪は北関東ではよく出土するという。また奈良時代の「とら」や「さくら」は、それぞれ「刀良」「佐久良売」という漢字で表記されているから、現代の作品と同じ名前とは言えない。さらに、「寅さんそっくり」とされている埴輪の顔をまじまじと眺めてみると、渥美氏の「あごが張っていて四角い顔」と似ていると言えば言えないことはないが、しかし、別の人にも似ている。例えば、私の脳裏に浮かんだのは、生長の家本部の講師部に所属するある男性職員だ。彼の顔は卵型なのだが、眉と目が近接しているところや、鼻筋が通っているところは、渥美氏にはない特徴ではないか、などと思えてくる。

 つまり、この種の記事は「事実の報道」というよりは、「記者の観点に合致する事実を集めた」記事だ。だから、「事実に反することは書いてない」と言えばその通りだろうが、その「事実」の選択の仕方、並べ方の中に“創作的”な配慮がある。それを読んだ読者は一種の“不思議の世界”に引き込まれるが、この“世界”は必ずしも実在するのではなく、記者(あるいは取材源)によって作られた創作である。この創作の内容は、今回の場合は罪のないものだから、笑ってすませばいい。しかし、これと同じ方法で“イスラム過激派”や、その他の政治問題の報道が行われていないかと考えると、私には今日、その可能性を否定する自信がないのである。

(谷口 雅宣)

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2001年8月25日 (土)

小樽聖公会

 生長の家の講習会のため、2年ぶりに小樽市に来た。この町は、港に近い運河周辺を再開発して観光名所に仕立て上げているが、同時に古い建物も注意深く保存しているので、趣のある町並みがまだ各所に残っている。私は、前者よりも後者の方が好きで、かつて日本銀行小樽支店の重厚な建物をスケッチしたこともある。今年は、ホテルに着いてから夕食まで半時間余しかなかったので、通称“職人通り”と呼ばれる細い坂道を上って、1軒の教会まで行った。それは、水天宮のある高台への上り口の脇にひっそりと立っている、あまり目立たない建物だった。

 「小樽聖公会」の建物は、同市の定める「歴史的建造物」の中に入っていて、建築は明治40年(1907年)。素朴な木造建築で、板張りの白壁と、臙脂色の屋根や窓枠とのコントラストが美しい。屋根の破風部分が特徴的だ。破風(はふ)とは、屋根の棟側に合掌の形に組まれた板のことで、この建物では、教会建築にはあまり見かけない波型の模様が破風下側に続き、合掌の頂点には、日本建築にある「懸魚(げぎょ)」を思わせる飾りがついている。懸魚とは、破風の頂点と両端にある装飾で、もともと棟木や母屋桁、軒桁の木口を隠すためのものだったが、これが装飾に発展した。建物は火災を嫌うので、水に関係の深い「魚」を象ったと言われているが、日本では魚形の懸魚は見られないという。教会の敷地内に小樽市が立てた説明用の看板には、「地元大工の設計であると思われる」と書いてある。

 「和洋折衷」と言ってしまえばその通りかもしれないが、ここには日本の伝統を引き継ぐ職人が、西洋の伝統を表わすものを如何に表現するかという工夫と、苦悩と、発見があるように感じる。昔の人々はこれを勇敢にやった。そして、独特のオリジナリティーを示す建物を諸処に残してくれた。山梨県・清里にある「聖アンデレ教会」とか金沢市の「尾山神社神門」などが思い浮かぶ。“正統派”から見れば、これらは混血の“雑種”のように感じられるかもしれないが、雑種にも独特の力強さと、独創性と美しさがあるものである。私は、伊勢神宮のような“純系”の建物の美しさも愛するが、こういう“雑種”のオリジナリティーもぜひ、残しておいてほしいと思う。

(谷口 雅宣)

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2001年8月18日 (土)

山下清展

 京都の生長の家宇治別格本山で行われる盂蘭盆供養大祭に行くため、東京駅から出発する前の時間を利用して、大丸デパートで行われている「山下清展」を妻と一緒に鑑賞した。土曜日の午後ということもあり、会場は大変混雑していたが、人々の頭や肩の間からこの稀有な放浪の画家の作品を鑑賞できた。今年は彼の生誕80年ということで、初公開のものを含む160余点が展示されていたが、そのすべてをじっくり鑑賞する状況ではなかった。

 山下清は有名すぎるほどの画家だが、私が彼の作品をちゃんと鑑賞したのは、実はこれが初めてだった。彼の得意とする「貼り絵」という手法も珍しく、感嘆して見た。50号ぐらいの大きさの絵を、色紙を手で細かくちぎって貼ることで描く。だから大変な根気がいる。その方法で、髪の毛の1本1本、小枝の1本1本を描写する。それを現場のスケッチをしないで、もっぱら記憶によって描くという。ただし、1961年に40日間のヨーロッパ旅行をした時は、スケッチブックを持参して50枚以上のスケッチを描いたらしい。そのスケッチを見たいと思ったが、残念ながら会場には展示していなかった。

 「貼り絵」をする時には、彼は鋏を一切使わない。そのことが、絵の中の風景や物の形を柔らかく暖かくし、画面に色のグラデーションや混色の効果を現わす。それは、ゴッホが、絵筆の細かいタッチを画面いっぱい敷きつめるようにして描いたのと、ちょうど似たような効果だ。実際、展示の中にはそれを意識して描いたと思われる「ゴッホによるラ・ムスメ」という女性像の作品もあった。

 山下清は、3歳の時にかかった病気が原因で軽度の言語障害・知的障害となるが、そのために入所した養護施設で「ちぎり絵」を教わる。これによって貼り絵への道が拓かれた。もともと画才があったのだろうが、もし「障害」という困難に遭遇しなかったなら、彼が貼り絵に到達したかどうか、あるいはそもそも芸術家になったかどうか分からない。今年版の日訓『ひかりの言葉』に「環境は内在の無限力を引き出す“教師”である」と書いてあるが、、まさにその通りだと思う。そんな彼の、13歳の時の作品「蝶々」をまねて私も1枚描いてみた。
                                                     (谷口 雅宣)

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2001年7月12日 (木)

椅子選び

 休日を利用して、ダイニング用の椅子を見に、妻と娘の3人で東京・御台場の家具店に行った。そこは「世界一」のフロアー面積を誇るショールームをもつだけあって、アメリカ、ヨーロッパ、和風、アンティーク等、実に多彩・多様なデザインと素材の家具が魅力的に配置されていた。見て回るうちに、一脚の椅子といえども、それぞれがスタイルと表情をもっていることに気がついて、うれしくなった。椅子は一見“死物”のように思えるが、その上に腰かける人をどのように受け止めるかという造り手の考えが、スタイルや素材、造作の堅牢さ、繊細さ、柔らかさなどに反映していて面白い。それに、各国の文化や国民性も表わしている。例えば、アメリカのソファはあくまでもゆったりと柔らかだが、ヨーロッパのソファ、特にドイツのものはクッションが固めで、そこに座る人が機能的に動きやすい。

 ダイニング・チェアの候補は、やがて2種類にしぼられた。私はデザインよりも機能性を重視する傾向があり、その点で、デザイン重視の妻と意見を異にする場合がある。しかし、椅子の機能はとりあえず「座る」だけであり、その座り心地が問題になるのも、ダイニング・チェアの場合は食事中の30分から1時間だけである。そう考えてみると、デザイン主体で椅子を選んでも問題が少ないように思えた。そして、デザイン上の優劣で比べてみると、2種類のどちらがいいかは3人の意見が見事に一致した。

 選んだ椅子は、背もたれの曲線が優美で繊細な感じだったが、すわってみると、体をしっかりと支えてくれるし、肘かけのカーブも自然だった。人をすわらせるだけでなく、花をいっぱい詰めた花器を置いてもよく似合うかもしれない。それでいて、もう一つの候補より値段が少しだけ安かった。

 選んだあとで考えた。たかが食事中に体を支えるための道具一つに、人間はこれだけこだわるのだ。自然界の素材そのものでは満足せず、それに極限まで手を加えて自分のイメージに合った道具を作る。また、それを歩き回って探す人間がいる。この活動が文化を形成してきたのだが、同時に、今は自然を危機に導きつつある。人間は(そして私は)自然の味方なのか、それとも敵なのか?

(谷口 雅宣)

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2001年6月14日 (木)

てるてる坊主

6月14日:「てるてる坊主」

 休日の木曜日も、このところパッとしない天気が続いた。梅雨の最中だから当たり前だが、今日も前日の予報が「明日は梅雨前線が北上し、大雨が降りやすい」となっており、木曜日の東京地方は雨、降水確率は70%の予報だった。そこで昨夜、ポツポツと雫の垂れる軒先に、てるてる坊主を作って吊るした。こんなことは滅多にしない。昨夜、「明日は天気になってほしい」などと妻と話していたら、彼女が突然、「てるてる坊主、てる坊主、あーした天気にしておくれ……」の歌を唄いだしたので、そうだ本当に作ってみようと思って、小さい毛糸玉と古いハンカチを探し出してきて作ってしまった。妻は、てるてる坊主には顔も描くのだと言ったが、百科事典で調べてみると「目鼻口のない人形を作る」と書いてあったので、やめにした。どうせやるなら、何ごとも“正式”の方がいい。

 私たちは子供がまだ小さい頃、運動会とか遠足などの前日に、てるてる坊主を吊るしたことを憶えている。が、その時は顔を描いたと思う。しかし、事典の記述によると、『嬉遊笑覧』という本の中に「てるてる法師をつるして、もし雨がやめば、目鼻口をつけてお祭りする」と書いてあるという。ダルマに目を入れる儀式を思い出した。昔の人は、こういう儀礼を通して自分の心の願いを形に表わし、それによって願いを叶えようとしてきたのだ。「無形の願いも、形あるものに凝集することで力をもつ」という考え方だろう。病気平癒のために千羽鶴を折ったり、写経したりするのも、同様の理由によるのかもしれない。折った鶴の数や写経した巻数が増えればふえるほど、効力があると考えるのだ。

 しかし、こと天候に関して現代人が願いをもつ場合は、ちょっと複雑な心境になるのではないか。「天候は人間の力の及ばないところで、きわめて複雑に決定される」と考えるのが現代の常識だろう。この「複雑さ」は、最新型のスーパー・コンピューターによっても予測が難しいほどだから、上に書いた「きわめて複雑」は「ほぼ偶然」と言い換えても実質的に違わない。だから、天気予報が外れても損害賠償の訴訟は起こされない。そんな現代人の一員である私が昨夜、天気予報の降水確率が70%であることを知りながら、てるてる坊主を作った場合、その製作にかける私の「願い」は昔の人より“凝集力”がきっと小さくなる。言い換えれば、私は「半ば諦めながらてるてる坊主を作る」ことになるのかもしれない。

 今朝起きて、雨が降っていることを知った妻が、笑いながら言った--「てるてる坊主を、あなたに作らせなければよかった」。彼女は、お見通しだった。

(谷口 雅宣)

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2001年6月10日 (日)

人間の楽しみ

 生長の家の講習会で新潟市へ行くため、上越新幹線に乗った。JRの車内誌を開くと、作家の高橋克彦氏が縄文文化の特異性を書いている一文が目にとまった。縄文時代は、稲作が普及する前の狩猟採取の時代であり、恐らく農産物を貯蓄する技術もなかっただろうから、人々はその日の食糧を得るために結構、忙しい毎日を送っていた--というのが、私が漠然と抱いていたイメージだった。ところが高橋氏によると、縄文時代には狩猟の対象となる獲物は夥しく存在し、採取の対象となる山の幸や果実は豊富にあったから、人々は自由時間を楽しんでいたというのである。そして、氏の書いたこんな一節が、私の思考をしばし止めた--「模様が綺麗に残されている漆器や繊細な首飾りを間近で眺めていると、人はつくづく楽しみを求めて生きている動物なのだと思えてくる」。

 ここで言う「楽しみ」とは、縄文遺跡から出土する狩猟採取の道具や料理道具、食器類、衣類、土偶などに、当時の人々が美しく、豊かな装飾を施していることを指すのだろう。縄文人に自由時間が多かったとしたら、その時間を何もせずに昼寝して過ごしたり、もっと原始的な欲望に身を任せて、動物の大量殺戮やセックスに興じていてもいいはずだが、出土してくるものは、手のこんだ工芸品や、手間のかかる服飾品である。生物学的な「動物」という立場からは、こういう「楽しみ」に価値はあまりないように思える。にもかかわらず、人間は石器時代から、手を使い、道具を整え、目に楽しいものを、肌に心地よいものを手間暇かけてつくり続けてきたのだ。高橋氏は、それを「楽しみ」と言うが、なぜそのようなものの制作が人間にとって「楽しみ」に感じられるのか、私は逆に不思議に思う。

 そう思って周囲を見ると、現代人の楽しみも、縄文人とさほど違っていないように思われる。新幹線のデザイン、車内に飾られた写真、椅子と床の色の組み合わせ、雑誌の表紙、中のカラー写真、人々の服装の工夫、窓の向こうを過ぎ行く広告のデザイン、田んぼの形、橋のアーチ、屋根の色、鬼瓦……そういうものの製作に、現代人だって大変な時間と労力を使っている。サルが進化したにしては、サルとはあまりにも違うことをしているのが人間だ。

 講習会からの帰途、新潟市内の白山公園へ寄って、明治時代に建てられたという県政記念館を描いてみた。目の楽しみに加えて、館前のオランダ式庭園から漂うラベンダーの香りを楽しみながら……。

(谷口 雅宣)

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2001年1月24日 (水)

王冠

 何の変哲もない物が、なぜか驚くほど新鮮で美しく見える時がある。

 それがどんな時かは、人によってまちまちだろう。私の場合、午後、仕事場から抜け出してジョギングをし、体を伸ばしたり腕立て伏せなどをして、全身が解放感に満たされた時、そんなことがある。今日もいつものコースを走り、快い疲労感を味わいながら仕事場へ歩いてもどる途中、明治通りを渡ったところで、道端に落ちているビンの王冠が目についた。
 
 「赤と黒の王冠が二つか……」と思いながらそこを歩き過ぎたが、西日を受けて鮮やかに浮かび上がった二つの小さな円形の金属が、私の脳裏にこびりついていた。「後ろ髪を引かれる」というのだろう、私は10メートルほど行ったところで、踵を返して後戻りし、その二つの王冠を拾った。二つのうち、黒の王冠には、赤と黄で印刷したラベルが貼って在り、その色の組み合わせが何とも新鮮だった。最初、それは薬ビンかドリンック剤のビンの蓋かと思ったが、黄色の部分には「2001 辛口実感キャンペーン」と印刷してあった。ビールビンの王冠だった。

 子供の頃、意味もなく王冠を集めていた記憶がよみがえった。手に持った王冠のギザギザの感触が快く、色とりどりの王冠を集めて、その色を利用してモザイクの絵を作れるかもしれない--などと心が勝手に想像する。目は、歩道の植え込みの下に、もっと別の王冠がないかを探している。そんな子供の心の自由さを取りもどせたとき、周りの景色も人の顔も輝いて見えるのだった。
 
 ところで、この王冠を最初に考案したのは、アメリカ人のウィリアム・ペインターという人で、1892年に特許を取ったという。特許は、王冠とその裏のコルクを合わせた部分で、正式には「王冠コルク(crown cork)」と呼ぶのだそうだ。このネーミングもなかなかいいと思う。
 (谷口 雅宣)

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