2001年10月28日 (日)

アフガン最前線

 生長の家講習会のため神戸市のホテルで朝を迎えた。朝食後に部屋にもどり、新聞を開きながらテレビから流れているニュースを聞くともなく聞いていた。イギリスのBBCのワールド・ニュースをやっていたが、アフガニスタン入りしたジョン・シンプソン記者が、タリバンと北部同盟の両軍が対峙する最前線の状況を報告している映像が出てきたので、思わず引きつけられた。今回のアフガンでの戦争は、湾岸戦争の時とは異なり、実際の前線からの具体的なナマの情報がほとんど伝えられない。伝えられるのは、米軍が何ヶ所爆撃したとか、何回出撃したとか、どの町が攻撃されたとかいう、人間の痛みや悲しみを取り除いた後の無味乾燥な数字や名前がほとんどだ。また、湾岸戦争時と同じような、米爆撃機からの誘導爆弾で破壊されるタリバン側の建物や戦車等のコンピューター映像も、繰り返して報道される。これも、破壊で死ぬ人の声も、苦しむ人の姿も見えず、まるでテレビゲームのようだ。

 そして、映像のない新聞の報道はもっと抽象的で、「今日の攻撃は、いつもより激しかった」とか「今日は米軍は○○○○を集中攻撃した」などという曖昧な表現の情報が多い。今日付の『日本経済新聞』にも「カブールでは26日から27日にかけて過去最大級の攻撃を展開。27日にはカブール北方のタリバン軍拠点などに30発以上の爆弾を相次いで投下し、住宅街の近くにも着弾した」などと、数字をつなぎ合わせた記事が載っている。我々は、そういう記事の「過去最大級」とか「相次いで投下し」とか「住宅街の近くにも着弾」などという言葉に驚いて、米軍の猛烈な爆撃でタリバンは大損害をうけているだけでなく、一般のアフガン市民にも大勢の犠牲者が出ているなどと想像しがちだ。

 ところが、シンプソン記者の伝える“最前線”なるものは、砲弾が飛び交ったり、肉弾戦が行われたり、絨毯爆撃によってタリバン側の前線部隊が大打撃を受けるなどの様子は、いっさいないのである。日没前のひと時、25℃の気温の中、風もなく、爆撃も散発的にしか行われない。それも高高度から進入してくる1~2機の米爆撃機の銀翼が、澄んだ青空の中に小さく見え、それに対する高射砲の応戦もない中で、地上でいくつか小爆発が起こり、小型のキノコ雲があそこに一つ、向こうに一つと散発的に浮かぶ。北部同盟の兵士たちは、その様子を余裕をもって雑談しながら眺めている。しかも、その北部同盟の司令官の解説では、目の前にあるタリバンの前線基地は攻撃されず、後方支援のトラックや戦車が狙い撃ち式に破壊されているというのだ。つまり、米軍はタリバンの主力を叩くことは避け、周辺部を散発的に攻撃しているのだ。考えてみれば、「過去最大級の攻撃」なのに落下した爆弾の数が「30発以上」(つまり39発以下)というのも奇妙である。15分間に1発というペースでも、10時間続ければ40発になるのだ。

 戦争は、戦闘や爆撃で死傷した兵士や市民にとっては確かに悲惨なものだが、政治目的のために手加減をしながら行われる戦争もあるようだ。ブッシュ大統領が最近「タリバンは手強い(タフだ)」と言ったことを思い出して不思議な気持がする。こっちが本気を出さないでいて「手強い」もないだろうと思う。この戦争では(そして、その他の戦争でも)、我々一般人には、何かが“反転”して伝えられているような気がする。

 宿泊先のホテルにあった液体石鹸の容器を、黒い色の紙の上に描いてみた。絵全体が“反転”したような不思議な効果が出た。

(谷口 雅宣)

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2001年9月16日 (日)

戦争の気配

 アメリカ社会の中枢部を標的とした同時多発テロは、新たな中東戦争へと発展しようとしているように見える。アメリカのブッシュ大統領は、NATO諸国から協力の約束を受けたばかりでなく、アフガニスタンの隣国のパキスタンからも“全面協力する”との言葉を引き出した。もう一つのアフガンの隣国、イランは、難民が自国へ流入するのを阻止するために国境の閉鎖を決定するなど、戦争の気配は濃厚である。人類全体にとってきわめて不幸なことであるが、アメリカとテロ組織との間に有力な仲介者が存在しない現状では、両者の間の“世界観”のギャップは、“憎悪の衝突”によってしか埋めることができないように思える。

 今朝放映されたアメリカのABCテレビの番組では、6歳から上の子供とその親をスタジオに呼んで、今回の事件について子供たちの意見をキャスターが聞き出していた。その中で、「これほどまでの憎悪をアメリカに抱く人々がいるのだから、一体アメリカは彼らに何をしたのか?」という質問を、女性ティーンエージャーが発した。これに対し、同年代の男の子が「何かしたとしても、それは意図して行ったものではないだろうから、罪のないアメリカ市民を大量に殺す行為は許されない」という意味の発言をした。この辺の疑問にきちんと答えることが、この事件を理解するための“鍵であるような気がしてならない。中東地域に住む一部の人々のもつ世界観と、日本を含む先進各国の共有する世界観との間に、あまりにも大きな隔たりができてしまったことが、この不幸な事件の背後にはあるだろう。

 しかし、すでに一方からの“第1撃”は放たれてしまった。これが放たれる前ならば、関係修復の希望はある程度あっただろう。しかし、5千人を越えるアメリカ市民が虐殺されてしまってから、「その報復をするな」と言うことは極めて難しい。しかも、その“第1撃”の仕方が、あらゆる国際的ルールを無視しており、それを放った相手が「国家」ではなく、憎悪に燃えた一団の人間であるという前代未聞の状況を考えると、それと同様の集団を内部にもつ多くの国家は、ここで決定的な行動をとらねば自国の治安問題が深刻化する可能性とも対面しているのである。だから、報復のための軍事行動を止めることは不可能だろう。

 さて、ここまでは「政治」の話である。テロや戦争は明らかに“闇”であり、生長の家の教えの中には「闇に対しては光をもって相対せよ」というのがある。これを現実に適用するために「ハイジャック機を高層ビルに衝突されても、真理の言葉を与え返せ」と唱える人がいるかもしれない。しかし、我々は「悪業は悪果を招く」という因果の法則も学んでいる。「ハイジャック機を衝突されたから真理の言葉を述べる」のでは不十分である。「真理の言葉を述べる」ことが足りないから、ハイジャック機が衝突したのである。さらなる戦火の拡大を防ぐために、「人間・神の子」「人類皆同胞」の言葉を弘めることが益々急がれる。

(谷口 雅宣)

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2001年9月12日 (水)

宗教とテロリズム

 アメリカに対する同時多発テロが起こり、世界が一挙に混乱の渦中に陥った。マスメディアは、もっぱら“イスラム過激派”の犯行という観測を流しているが、「宗教」と「暴力」を結びつけたこの種の言葉が世界を飛び回ることは、神仏への信仰をもつ世界中の人間にとって甚だ不幸なことだと思う。神仏への信仰は、過酷な状況に生きる人々にとっては、正邪の判断や生きる目的と希望を与えて、それらの人々の生存と発展を助ける役割をはたしてきた。しかし、その反面、「邪」とされた対象にとっては、その運動は脅威となり、抑圧や抹殺の対象ともなるのである。2000年前にユダヤの地で起こったイエスの運動が、その典型の一つを示している。

 複雑な現実社会を生きる人々の多くは、単純で分かりやすい原理や回答を求める。それを与えてきた宗教は、時に信者を獲得し、教勢を拡大して一大政治勢力となることもある。しかし、そのことによって現実社会が単純で分かりやすくなるわけではない。にもかかわらず、宗教が現実社会を支配しようとすると、それを単純な「白」か「黒」の色で塗り潰さねばならない。そうでなければ、教義が現実を説明できなくなるからだ。こうして無理矢理な現実解釈が生まれ、それを支持するための情報の操作や捏造が、最初は無意識に、次には意識的に行われるようになる。そして、こうして作り上げられた“宗教的世界観”自体が盲目的な信仰の対象になってくると、神仏の名において破壊や暴力が行われる土壌が生まれるのだろう。

 だから、宗教が破壊や暴力を行うように見えるときは、それは神や仏に原因があるのではなく、複雑さを理解しえない(あるいは理解しようとしない)、人間の側の欠陥や怠慢が原因なのだ。このような破壊や暴力に対しては、したがって同じ人間の欠陥や怠慢をもってしてはならない。すなわち、白黒で塗り潰された単純な世界観を提示し、その中で「邪」とされた対象を手段を選ばず破壊し抹殺するのでは、暴力が暴力を生むことになる。国際社会において明らかにルール違反のテロ行為を行ったものは、国際社会のルールに従って、正当な手段と、合意された手続きによって処罰されるべきである。ただ、残念なことに、現在の国際社会には、まだこのような法的枠組みが整っていない分野もあり、手段や手続きが完全に合意されているわけでもない。今回の未曾有の事件を機会に、国際社会がより高度な社会的、法的、倫理的、宗教的合意に達することを心から願うものである。

 最後に、アメリカに住むすべての人々に対して--特に私が若い頃、個人的に世話になったニューヨークの市民の方々に--心からなる哀悼の思いを捧げるとともに、今回の破壊と暴力を憎むあまりに、同様の破壊と暴力によって、罪のない人類の同胞に報いることのないよう切に祈るものである。

(谷口 雅宣)

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2001年7月 6日 (金)

歴史認識

 日本では中学校の歴史教科書をめぐって歴史認識の問題がかまびすしく論議されているが、歴史が国民に正しく理解されないことは、日本だけの特異現象ではないようである。アメリカの225回目の独立記念日である7月4日を期して発表されたある調査によると、アメリカのティーンエージャーの2割以上が、アメリカがどこの国から独立したかを正しく答えることができず、そのうち14%は、アメリカはフランスの植民地だったと答えたという。これを聞いた16歳の私の娘が目を丸くしていたから、十代の日本人に同じ調査をしたら、いったいどんな数字が出るのかと思う。

 日本人が戦後、アメリカの方を見ながら生きてきたことは紛れもない事実だろう。それは安全保障上の要請でもあるのだが、それにしても、二百数十年前の歴史的重要事項がこれほど間違って理解されていることはないだろう。この誤りを日本史に置き換えると、明治維新によって室町幕府が倒れたと考えるようなものだろうか。

 自国の歴史への無知も深刻だが、隣国に対する無知は、もっと実際上の問題を生み出すかもしれない。今日付の『ヘラルド朝日』紙(International Herald Tribune-The Asahi Shimbun)に、アメリカ人のカナダに対する無知の程度が報じられていた。例えば、ボストンで政治学を学んでいる大学生に「カナダでは、北アメリカに入るべきかどうかが議論されているが、どう思う?」と尋ねても「よく分からない」と答えたし、「トロントで北極グマを殺すことを禁止すべきか?」と聞くと、「もちろん禁止すべし!」と答えたそうだ。(正答は分かりますね?)しかし、翻って日本人に韓国や中国のことを聞いたらどうだろう--「韓国はベトナム戦争の時、何をしたか?」「先の大戦で日本と戦って勝ったのは、蒋介石か毛沢東か、それとも孫文か?」「韓国で今、一番人気の歌手は?」

 要するに、グローバリゼーションがこれだけ進んだ現代でも、我々は自分の生きる国のこと以外は、まだよく知らないのである。ましてや、他国の歴史について心をめぐらせるような人は数が少ない。誤解や差別意識は、そういうところから簡単に生まれるものだ。自国の歴史を正しく知ると同時に、他国の歴史も謙虚に学ぶ努力が必要だろう。

(谷口 雅宣)

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