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2002年8月21日 (水)

恵まれた教室

 今日の『朝日新聞』の「声」欄に、65歳の女性の高校教員が「夏休みの教室には冷房を入れてほしい」と訴える投書が載っていた。「室温35度以上という厳暑の教室で勉強していると、汗は目に入るし、滝のようにほおを伝わる」という。そんな酷暑を押してなぜ登校して来るかというと、完全週休2日制が実施されたため、授業時間が足りないというのである。私は、これを読んで複雑な気持になった。

 というのは、私の3人の子供たちは、夏休みに補習のために登校したことなどないからだ。「成績がいい」という意味ではなく、大学とつながった私立の高校だから、いわゆる“受験勉強”がなく、それほどの勉学を要求されないのだ。私をさらに複雑な気持にさせたのは、子供たちは冷房の効いた教室で勉強していたということだ。しかも娘などは、「クーラーが効きすぎる」と言って、夏の学校にセーターを持っていくのである。

 今の高校の教科書では、地球温暖化のメカニズムや環境保全の必要性をきちんと説明しているから、試験でもそういう問題が出されるはずだ。現在の地球温暖化の主な原因の一つは、先進国のエネルギーの使いすぎである−−ということを彼らは十分知っているはずだ。しかし、「知っている」ことと、「すること」がまるで分離している。学校で学ぶ知識と、自分たちの現実生活の関係が薄い。だから、寒さを感じるほど教室を冷やしていても、教師は一向問題を感じないのだろう、と私は長らく不審に思っていた。ところが、こういう問題は公立高校には存在しないということを、遅ればせながら私は初めて知った。

 それだけ私の子供たちの通った学校は“恵まれている”と言えば、言えないこともない。しかし、物質的環境に恵まれていることが、成長過程にある子供たちにとって果たして“善いこと”なのかどうかは、簡単には判断できない。大体、私の高校時代には、教室に暖房はあったが冷房など入らなかった。それでいて、夏季に「暑くて勉強にならない」などと思った記憶はない。また、当時はコンビニとかバーガー・ショップとか自動販売機もなかったから、買い食いをしたり、酒やタバコを手に入れる機会もほとんどなかった。月々の小遣い銭の額も少なかったし、ましてやケータイなどなかったから、“出会い系サイト”や“エンコー(援助交際)”などの問題も存在しなかった。つまり、人間は“恵まれた社会”を作りながら、同時に“複雑な問題”も作りつつあるのだ。

 先に、私の子供たちが“受験勉強”をしなかったことに触れたが、これははたして“恵まれている”ことなのだろうか。不況下の現在、単に「有名大学卒業」という肩書きでは、いい会社に就職できない。「有名」なだけでは不十分で、「東大」「早稲田」あるいは「慶応」の卒業でなければ希望通りの就職は難しい。成績優秀でも、自分の専門分野で働けるとは限らない。だから、“恵まれていない”と言うこともできる。しかし、高校時代、受験勉強に使う時間をスポーツや交友や読書に振り向ける方が、人格の幅を拡げることにつながるかもしれない。その方が、大人になってエリート・コースを歩めなくとも、「知っていること」と「すること」が分離しない生き方を選べるかもしれない。そんなことを親は勝手に期待しているが、それこそ本人の考え方によるのだから、結局、何をもって“恵まれている”とするかは、簡単に言えることではないだろう。   (谷口 雅宣)

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