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2002年8月30日 (金)

洪水の教訓

 中央ヨーロッパでの洪水のニュースがしばらく続いたが、イギリスの科学誌『New Scientist』は8月24日号で、その原因について分析している。それによると、“100年に一度”などと形容される洪水は、実は毎年のように起こっているのだそうだ。昨年の3月にはハンガリー、ウクライナ、ルーマニアが水に浸かり、7月にはポーランドが洪水の被害にあった。一昨年は東部ハンガリーとセルビアで洪水が起こった。1999年は7月にもセルビアが水浸しとなり、首都のベルグラードの大部分から住人が避難した。その前の年は、7月にチェコ、ポーランド、スロバキア、11月にはスロベニアとルーマニアで洪水が起こったという。

 夏季の降雨が激しくなっているのは確かなようだが、洪水の後に堤防をさらに高くするという人間の行為が、状況をさらに悪化させているらしい。洪水はその町に起こらなくても、単に下流の(しばしば人口の多い)町へ移動するだけなのだ。つまり、空と山から降りてくる水の絶対量が多いから、この辺りの夏季の洪水は歴史的には“自然現象”だったのだ。だから、エルベ川、ドナウ川、ライン川などの流域には「氾濫原(flood plain)」と呼ばれる地域があって、そこが冠水するようになっていた。ところが人間は、それを「力」によって征服しようとして、堤防を築いて人家を建てさせた。そういう方策が、かえって逆効果を生んでいるというのだ。

 氾濫原を住居や仕事場にしている人々は、ヨーロッパ人の一割に上ると見られ、ハンガリーでは、その数字は25%に上るという。オーストリアやチェコでは、川の流れる谷間に夏用の別荘を多く建てさせたことが洪水の被害を広げたとして、地元の市長らが批判されている。家を建てるためには当然、森の木を切り倒すことになるからだ。

 今年の洪水の背後には、地球温暖化の影響もあるだろう。今年、北半球はかつてないほど暑い夏で、これが大西洋上空に雨を降らせる大きな雲を形成した。それに加え、アルプスの氷河が早く溶けだして大量の水を川に流した。つまり、雪解けですでに増水している河川の地域に激しい雨が降ったのだ。雨は、オーストリア・アルプスからチェコにいたる地域で、特に激しく降った。チェコの一部では、36時間のうちに、平年の8月全体の降雨量に匹敵する雨が降ったという。

 こうした度重なる洪水から学んだライン川の流域の人々は、護岸工事に力を入れるのをやめ、川の自然な流れを尊重して氾濫原を生かす方策を採りだしたという。しかし、その他の川では、まだこの方策は実行されていない。長野県の知事選挙では、ダム建設問題に一応の結論が出ると思うが、このヨーロッパの洪水から学ぶことは多いと思う。

 今回の洪水では、ドイツ東部のエルベ川流域にある古都ドレスデンが水に浸かった様子が、世界中で大きく報道された。今回の洪水は、1845年に記録されたエルベ川の水かさの最高記録を50センチも上回ったことで、この現象が地球温暖化の結果であるかどうかという質問が、ドイツの環境科学者のもとへ殺到したという。一般的に環境意識の高いドイツではあるが、(どこかの国と同じように)温暖化による被害は自国以外の別の地域で起こると考えていた人々が多く、この洪水のおかげで環境意識と気象学への関心が一挙に高まっているという。

 私は数年前にこの町を訪れていて、黒っぽい砂岩でできた城などの古い建物群の魅力に惹かれたことをよく憶えている。エルベ河畔のレストランで一枚絵を描いたが、そのレストランもきっと水に浸かったに違いない。(谷口 雅宣)

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2002年8月25日 (日)

夏休みのご報告

 残暑お見舞い申し上げ候。

 しばらく本欄を書かなかったので、読者の中には私の容態を心配してメールをくださった方もいた。ご心配をかけたことをお詫びするとともに、この場を借りて親切なお気遣いに感謝したい。

 もうご存知の方もいると思うが、今年の秋の大祭を期して新刊書を出す計画が進行しているので、8月の上旬はそれにかかりきりの状態だった。『神を演じる前に』の“続編”とも言えるもので、月刊誌『光の泉』に連載中の記事を中心にまとめたものだが、全体を流れるテーマを記述する文章がまだなかったので、それを書き下ろすのに結構手間がかかった。本のタイトルはまだ決まっていない。

 そういう仕事の合間に、妻の両親が10歳の孫娘を連れてきたので、わが山荘で寛いでもらった。そのことは妻が月刊誌『白鳩』に書いたので、後でそちらを参照してほしい。8月18日には宇治市へ行き、翌日、生長の家宇治別格本山で盂蘭盆供養大祭をつかえた。その後、アパート住まいをしている大学生の息子2人を招いて、久し振りに家族が集まる“リユニオン”をやった。24日は北海道へ飛び、翌日、滝川市で生長の家の講習会を行った。そんなことで8月もアッという間に過ぎようとしている。

 この後に続くいくつかの文章に“絵”がついていないのは、こんな事情もある。ご容赦願いたい。

 読者の皆さんも、それぞれ思い思いの夏休みを過ごされたと思う。今年の夏は特に「暑い」という印象だったが、東北や北海道は「冷夏」という話も聞いている。夏バテの方も、9月に向けて英気を養っていただきたい。   (谷口 雅宣)

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2002年8月21日 (水)

恵まれた教室

 今日の『朝日新聞』の「声」欄に、65歳の女性の高校教員が「夏休みの教室には冷房を入れてほしい」と訴える投書が載っていた。「室温35度以上という厳暑の教室で勉強していると、汗は目に入るし、滝のようにほおを伝わる」という。そんな酷暑を押してなぜ登校して来るかというと、完全週休2日制が実施されたため、授業時間が足りないというのである。私は、これを読んで複雑な気持になった。

 というのは、私の3人の子供たちは、夏休みに補習のために登校したことなどないからだ。「成績がいい」という意味ではなく、大学とつながった私立の高校だから、いわゆる“受験勉強”がなく、それほどの勉学を要求されないのだ。私をさらに複雑な気持にさせたのは、子供たちは冷房の効いた教室で勉強していたということだ。しかも娘などは、「クーラーが効きすぎる」と言って、夏の学校にセーターを持っていくのである。

 今の高校の教科書では、地球温暖化のメカニズムや環境保全の必要性をきちんと説明しているから、試験でもそういう問題が出されるはずだ。現在の地球温暖化の主な原因の一つは、先進国のエネルギーの使いすぎである−−ということを彼らは十分知っているはずだ。しかし、「知っている」ことと、「すること」がまるで分離している。学校で学ぶ知識と、自分たちの現実生活の関係が薄い。だから、寒さを感じるほど教室を冷やしていても、教師は一向問題を感じないのだろう、と私は長らく不審に思っていた。ところが、こういう問題は公立高校には存在しないということを、遅ればせながら私は初めて知った。

 それだけ私の子供たちの通った学校は“恵まれている”と言えば、言えないこともない。しかし、物質的環境に恵まれていることが、成長過程にある子供たちにとって果たして“善いこと”なのかどうかは、簡単には判断できない。大体、私の高校時代には、教室に暖房はあったが冷房など入らなかった。それでいて、夏季に「暑くて勉強にならない」などと思った記憶はない。また、当時はコンビニとかバーガー・ショップとか自動販売機もなかったから、買い食いをしたり、酒やタバコを手に入れる機会もほとんどなかった。月々の小遣い銭の額も少なかったし、ましてやケータイなどなかったから、“出会い系サイト”や“エンコー(援助交際)”などの問題も存在しなかった。つまり、人間は“恵まれた社会”を作りながら、同時に“複雑な問題”も作りつつあるのだ。

 先に、私の子供たちが“受験勉強”をしなかったことに触れたが、これははたして“恵まれている”ことなのだろうか。不況下の現在、単に「有名大学卒業」という肩書きでは、いい会社に就職できない。「有名」なだけでは不十分で、「東大」「早稲田」あるいは「慶応」の卒業でなければ希望通りの就職は難しい。成績優秀でも、自分の専門分野で働けるとは限らない。だから、“恵まれていない”と言うこともできる。しかし、高校時代、受験勉強に使う時間をスポーツや交友や読書に振り向ける方が、人格の幅を拡げることにつながるかもしれない。その方が、大人になってエリート・コースを歩めなくとも、「知っていること」と「すること」が分離しない生き方を選べるかもしれない。そんなことを親は勝手に期待しているが、それこそ本人の考え方によるのだから、結局、何をもって“恵まれている”とするかは、簡単に言えることではないだろう。   (谷口 雅宣)

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2002年8月18日 (日)

信仰と環境保全

 世界の気候に異常な変化が起こっている−−最近の気象関係のニュースを注目している人は、きっとそう感じているだろう。『朝日新聞』の「天声人語」も『産経新聞』の「産経抄」も、今日付の紙面でこの問題を取り上げた。ヨーロッパの大洪水ばかりでなく、中国でも、南アジアでも大規模な水害が発生している。その反面、北アメリカでは日照りが続き、各地での森林火災の拡大が心配されている。ドイツの環境相のように、地球温暖化による被害がいよいよ深刻になってきたと考えるのが普通だろう。

 私は5月の生長の家の全国大会で地球環境問題を取り上げ、地球上の生物は皆「神において一体である」という宗教的信念を人々の間にもっと広めていかねば、この問題はどんどん悪化するし、根本的な解決はできないことを訴えた。しかし、世界情勢はご覧の通りで、「地球上の生物」を同類と見るどころか、同じ「人類」の中でも、“悪の枢軸”を早く撃滅しなければならないとするようなものの見方が、一向になくならない。アメリカだけのことではない。アラブとイスラエル、インドとパキスタンのように歴史的に対立している国々が、戦闘や軍備拡充に頭脳やエネルギーを注入していて、地球環境問題から顔を背けている。その他の国にも、隣国の経済力や軍事力が“脅威”だと叫ぶ人々もいる。確かにそういう種類の“脅威”もあるかもしれないが、人類の生き方が−−とりわけ先進諸国に住む我々の生活スタイルが−−人類自身に脅威を与えていることの方が、もっと深刻な問題ではないだろうか。

 宗教は地球環境問題などに関わらずに、もっと宗教本来の「神」や「信仰」の問題を説くべきであるという忠告を最近、ある人からいただいた。環境問題などは、普通の人が常識で判断できるのだから、宗教がわざわざ取り上げるほどのものではない、とその人は言うのである。私にはこういう意見がよく分からない。人が何かを強く信じることが「信仰」であるならば、その人の信仰は、必ず生活の上に具体的に表現されるだろう。「信じてはいるが何もしない」というのは、信じているのではなく、単に「知っている」だけである。「神は愛なり」との信仰をもっている人は、愛なる神が何でもしてくれるから、自分は子も親も友人も愛さないというのではなく、その愛なる神の御心に従って、家族や友人だけでなく、見知らぬ人々にも愛を「実践する」はずである。

 先進国に住む人間にとっての地球環境問題は、エネルギー浪費型の我々の生活スタイルに問題があることを認め、その犠牲者を減らす方向に我々の生活習慣を改めるという「実践」を求めるものだと思う。自分の生活スタイルが途上国に犠牲者を生んでいることを知りながら、それを一向に改めないのでは、愛なる神を「知っている」かもしれないが「信仰している」とは言えない。だから信仰者は、日常的で些細と思われることにも注目し、自分の生活の中でどの部分を改めれば、浪費するエネルギーの量を減らすことができるかを考えるべきである。特に神を信仰していない人々も今日ではそれをするのであるから、まして信仰者がそれをしないというわけにはいかないだろう。

 そういう考え方のもとに、宗教法人「生長の家」は昨年夏、“環境ISO”とも呼ばれる「ISO14001」の認定を、日本の宗教界では初めて取得した。この認定は、一度取得したらそれですむのではなく、毎年、第三者機関によって国際基準に基づいた厳しい審査を受け、基準に達していない場合は認定を取り消されることもある。そして今年からは、生長の家は日本各地の教化部に於いても、次々にこの認定を取得している。こういう目立たない、地道な努力は、思いつきや気まぐれでは続けることは不可能であり、個人レベルでの「意識の変革」があって初めて永続性のあるものとなる。だから、信仰にもとづいた地球環境保全運動が今求められているのである。

 もちろん「法人」や「団体」のレベルだけでなく、個人生活の上でも、我々は自分にできるところから生活スタイルの変革を行うべきだろう。自分のことを言うのは気がひけるが、私は、自宅に太陽光発電装置を設置してもう4年になるし、森林を破壊して家畜を養うムダを減らすために“四つ足”の肉を食べなくなって4〜5年になる。錆びの出た旧式のオーブン・トースターを使っていることは妻がどこかに書いたし、電気釜は買ってから15〜16年であり、洗濯機はもっと古く2回修理して使っている。今年の夏は自宅に冷房を入れたことはなく、事務所の私の部屋では1回だけエアコンのスイッチを入れた。こういうことは、妻や子供の理解と協力がなければとてもできない。

 これで地球温暖化が止まるなどとは決して思っていないが、もっと大勢の人々に意識変革が起こり、それが生活態度や消費行動に反映していけば、必ず大きな変化となる。こういう“グラスルート”での行動の変化なくして、地球環境問題の解決はないと私は考える。読者はどう思われるだろうか?   (谷口 雅宣)

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2002年8月16日 (金)

市場外の価値

 6月21日の本欄で、ラヴェンダー・スティックのことを書いたとき、現在の経済統計の取り方を批判してこう書いた−−「大体、ラヴェンダーが生育していること自体が恩恵を生んでいる。人間にだけでなく、虫にも土壌にも恩恵がある。それを加工して装飾品を作り上げることが、都会の映画館へ行った時よりも人の心に満足感を与えるならば、その価値が経済統計に表れないという現在の経済学の方がおかしいのである」。ここでは、ラヴェンダーが育っている土地で、それを使った装飾品や実用品を自分用に制作することが経済統計の中に入らないことへの不満を表しているが、勢いあまって「現在の経済学の方がおかしい」と書いたのは言いすぎだった。

 現在の経済学は、自然環境そのものの価値を数字に表そうとして、いろいろ努力していることを知った。例えば、8月9日発行のアメリカの科学誌『サイエンス』では、メリーランド大学の生態経済学者、ロバート・コスタンザ博士(Robert Costanza)らの研究チームが、人類が動植物の生息地を次々に農地や商用地に転換していくことによって、自然環境が破壊されるという意味だけでなく、最終的には経済的にも損をすることになるという研究結果を発表した。これは、世界中で行われている300の開発プロジェクトを調べた結果だという。

 この研究チームは、気候調整、土壌形成、栄養素の循環、野生種の動植物提供、燃料・繊維類・薬草の供給、そして自然美の提供など、豊かな自然環境が与えてくれる様々な恩恵を経済的価値(ドル値)に換算し、これに「生態系サービス」という名前をつけた。そして、この値と、農地で収穫された作物や森から切り出した材木などの値を比較してみた。すると、自然環境を維持していくことと、そこを開発して農地や商用地に転換することの地球規模での費用対効果の割合は、「少なくとも100対1」であることが分かったという。つまり、開発をすればするほど人類は損をするというのである。

 コスタンザ博士らは、1997年に未開発の地球の自然の価値を「年間平均38兆ドル」であると試算した。これにもとづくと、人類の開発行為によって毎年2500億ドルの「損失」が生まれているという。これは、開発によってもたらされた経済的利益をすべて加えたあとでの損失である。我々は、自分の目に見える範囲のものしか考慮しない“近視眼”的な傾向があるから、古い経済学では自然資本(natural capital)というものを考慮せず、「市場」の動きばかりに注目する傾向があった。しかし、コスタンザ博士は「人間にとって重要なことの多くは、市場の外にあることが分かってきた」と言う。この「市場の外の価値」を我々はもっと大切にしていくべきなのだ。

 「市場の外の価値」と言えば難しく聞こえるが、簡単に言えばそれは「お金で買えないもの」だ。例えば、ラヴェンダー・スティックを自分で作る経験は、お金では買えない。ラヴェンダー・スティック自体は、どこかのお店で買えるだろうが、それを自らの手を動かして作ることは、自分以外にはできないし、これと、店で買うことの間には大きな違いがある。同じように、(本欄でも書いたが)薪を自分で作ることと店で買ってくることの間には、大きな違いがある。弁当を作ることとコンビニで買うことの間にも、大きな違いがある。「自分でする」ことには、金銭で「買う」ことのできない貴重で、掛替えのない経験があると思う。

 我々はとかくそれを「面倒くさい」と考え、金銭を出して他人の作ったものを買ってしまう。それは、その“何か貴重なもの”を捨てることだ。何のためにそうするか。多くは「時間」を得るためである。しかし、それによって得られた時間は、浪費されることが多い。あるいは、さらに時間を買うための“仕事”に費やされる。そんなことを続けていれば、人生は“空回り”してしまうだろう。そうならないように、注意して生きていきたいと思う。 (谷口 雅宣)

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