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2002年5月18日 (土)

人工的な自然

 人間は、目に見える世界の中に“秩序性”を求める。無秩序があれば、その世界に手をつけて何らかの秩序性を実現しようとする−−そういう得体の知れない奥深い欲求が人間には(少なくとも私の中には)横たわっていることを感じる。「得体の知れない」と書いたのは、この欲求が「気味が悪い」という意味ではなく、「説明が難しい」という意味である。

 山梨県大泉村の山荘で庭造りを始めてから、そういう実感が益々強くなった。私は時々、スケッチを描いたり写真を撮ったりしていたのだから、そんなことはとおの昔に気がついていなければならなかったかも知れない。なぜなら、絵も写真も、四角い画面の中に対象や被写体を無秩序に配置してはいけないことは、誰に教えられなくても分かるからだ。しかし私は、絵や写真の場合は、「世界を四角い枠の中に押し込める」という無理なことをするから、そういう特殊事情のある小空間には“人工的”な秩序性が必要になる、というぐらいにしか考えていなかった。つまり、人が作る「人工」の中には当然「人工的な秩序」がある、という程度の理解である。

 だから、人工でない「自然」の中にも秩序性がほしくなるという経験は、予想外のものだった。

 大泉の山荘は、造園をせずに引渡しを受けた。その理由の第一は、予算が足りなかったからだが、別にも理由があったとしたら、それは「自然の森の中に人工の“庭園”のようなものは不要だろう」という漠然とした気持があったからだ。また、物件を見て回っている時、山荘の庭を持主が自ら造っている場面に何回か出合って、私自身もやってみたいと強く感じたからでもある。

「庭を造る」というのは実は大仕事なのだが、私は当初、自然の中の山荘の庭は文字通り「自然」であればいいのだから、家ができたあとの敷地に最小限に手を加えれば、満足のいく庭がすぐできるだろうと、高をくくっていた。しかし、3月29日の本欄にも書いたように、山荘の敷地は礫岩と小石がゴロゴロ出てくる固い地盤で、保水力もない。だから、花壇を作るにも畑から客土しなければならなかった。

 花壇は、そこに花を植えて目を楽しませるためのものだが、そういう段階へ行く前に、もっと実用的な仕事が必要だった。それは、人の歩く「道」を作ることだった。山荘は、引渡しの時点で、すでに駐車スペースと、そこから玄関まで歩いて行ける砕石敷きの道ができていた。しかしそれは、幅が1メートルに満たない狭い道で、人がぶつからずに擦れ違うことができない。そこで私は、まずその道幅を倍に拡げる作業に取り組んだ。それが終ると、その道(主道)とは別に、駐車スペースから庭を突っ切って山荘のデッキまで歩けるような、細い脇道を作った。これも実用上の理由からである。

 山荘を利用し始めたころは、そこでの生活用品や小さな家具、什器類がまだ揃っていなかったから、そういう様々なものを持ち込む日が続いた。その場合、車を降りて荷物を運び込むには、誰もが最短距離を歩きたかった。しかし、玄関へ行く主道は、敷地の北東の端から北側を通り、カーブしながら北向きの玄関へと続く。この道よりは、庭を対角線上に突っ切って山荘のデッキへ達する方が、よほど距離が短かった。だから、何回か山荘に出入しているうちに、そのルートの土が自然に踏み固められて、道のような線上の痕跡がついていた。

 それをまともな道にするために私がやったことは、そんなに多くない。そこの土を20〜30センチ掘り下げて細長い溝をつくり、その両脇を石やレンガで縁取りして、最後に溝の中に砕石を埋め込んで踏み固める−−それだけのことだ。こうして、砕石を敷いた白っぽい道の、幅広のものが1本、狭いものが1本、駐車スペースから山荘に向けてV字型に通った。こうすると、石コロだらけの黄色い地面にも、何となく「庭」の面影が感じられてきたから不思議だ。

 私が先に「秩序性」と書いたのは、このV字型の線が通ることで、黄色の地面に或る種の“まとまり”が生まれたことを指す。「V」の字の内側と外側が道によって区分され、さらに「V」の上方にも若干の空間があったから、敷地の北東側に3つの区画が生まれた。それを見ているうちに、3つそれぞれを別の用途に使おうという“発想”が出てきたのだった。道は、純粋に実用上の要請から作られたものだが、その2本の線の視覚的特徴から、実用性とは別のアイディア−−つまり、庭のデザイン−−が生まれてきた。妻と私は、このV字の内側は花壇にしようと決めていたから、そこに各種の花を植えたことはすでに書いた。まだ書いてなかったのは、V字の上方にある土地の用途で、そこには各種のハーブを植えている。ここは、山荘のデッキから一番近いので、料理中にもハーブを取りに行ける。また花壇は、奥行きがありすぎると植物の世話がしにくいと考え、V字型の内側にも小道を作った。

 こんな具合に、私は「実用」と「視覚」の双方の要請にしたがって庭造りを進めていったが、できつつある庭を見て感じたのが、最初に書いた言葉である。「自然の中に庭園はいらない」という私の当初の考えを、私自身が見事に裏切っているのだった。人間は「自然」を求めているようでいて、「自然」だけでは満足しないようだ。何らかの視覚的秩序を実現しようとして、結局「人工的な自然」を作らざるをえないという奇妙な、矛盾した情熱があるのだろうか。   (谷口 雅宣)

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