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2002年5月26日 (日)

バベルの塔は崩壊する

 ノンフィクション作家の吉岡忍氏が日本エアシステムの機内誌の最新号に、新宿の高層ビル群のことを書いていた。新宿界隈に住む吉岡氏は、「人間の内面、現実の複雑さに分け入っていくような仕事」をしていて、人間と現実の「双方が入り組んでいる。からみ合って、あっちがこっちに、こっちがあっちに影響している。こんがらがった糸玉を解きほぐすのは容易ではない」という逃げ場がない状態のとき、この新宿副都心の高層ビル街に歩いて行くそうだ。すると自分が「空っぽになったような気」がして「生き返る」という。

 吉岡氏の言葉を正確に引用しよう:   「もちろんここにも人はぞろぞろ歩いていて、巷らしいものもあるのだが、林立する巨大ビルがそれらを圧倒している。そのフラットな壁面が人間を押しつぶし、鋭利なエッジが現実を切り刻み、その存在感がこんがらがった糸玉を吹き飛ばしてくれる。ふいに私は群衆も巷も人里も離れた気分になる。私自身がからっぽになった気がする。」

 そして氏によると、この感じは「雄大な自然と向かい合ったとき」と似ているというのだ。ただし、自然と接したときの「頭のなかも身体も洗われていくようなすがすがしさ」はない。「徹底して人工的で、巨大な空間は私を洗っていくのではなく、たんに抽象化していく。人間の闇を気化し、現実の複雑さを捨象し、人間と現実が織りなす曖昧な領域を幾何学模様に単純化していく」のだという。

 この文章には、ゴシック建築のような東京都庁のノッポビルの前で腕組みをしている吉岡氏の写真が添えられている。この都庁のビルの灰色の、複雑に入り組んだ、それでいて見る人の視線を否応なく高みへと運んでいくデザインは、現代建築の一つの“頂点”を表わしていると私は思う。しかし、その中で働く人々が公僕たる都職員であるということの意味を考え、私はこの建物に対して一種の不快感を覚えていた。だから、吉岡氏が仕事で疲れた心を休めるためにそこへ行くという話は、新鮮な驚きであった。氏は建築物を、その用途から切り離して、美術作品として鑑賞する術を心得ているのだろう。しかし、私はどうしてもその「用途」が気になってしまう。

 去年の9月11日以後、私はこの都庁の建物について或る“妄想”を捨て切れないでいる。それは、この塔に航空機が突入するイメージである。ニューヨークの世界貿易センタービルが、都庁と同じ“双子の塔”であったというだけでなく、前者がアメリカを象徴する建築物であるならば、現代日本を象徴する建物は、大企業がテナントとして入っている霞が関のビル群などではなく、恐らくこの都庁だと感じていたからだ。

 日本には、江戸時代からの“エリート支配”の考え方が根強く残っているように思う。それは、「庶民を支配するものは、選ばれた少数のエリートである」という考え方だ。この少数エリートは、受験勉強に象徴される実力主義の競争の中から選抜されるから、江戸時代の封建的役人とは多少異なるが、しかし人が一旦支配層まで上ってしまえば、後は庶民とは異なる倫理感をもつことが許されるという暗黙の了解があるように思う。昨今の外務省職員による恥ずべき行為の数々を知るにつれ、この感想はますます強まっている。またエリートだから、庶民よりも立派な建物で仕事をすべきだとの了解もあるようだ。これは、封建時代の武士の思想にも通じるもので、したがって武士は立派な城を築いてそこで生活した。それと同じように、現代日本では公務員が税金で立派な建物を建て、そこを都庁や県庁や市役所としても、庶民からは別段大きな反対の声は上がらないのだ。

 しかし、そんな状況がいつまでも続くとは思えない。世界の“少数エリート”であるアメリカの支配に反対の声を上げたのが9月11日の事件だとしたら、東京都庁もいつまでもその威容を誇示しつづけることはできないかもしれない。もちろん、私はアルカイダとは何の関係もない。私はアメリカに反対しているのでもない。私が注意を喚起したいのは、これらの高層建築を誇る側の人々と、それを攻撃したいと思う人々の間にある、救いがたいコミュニケーションの断絶である。日本においては、政治家や役人と一般庶民の間にこれがあり、世界的には先進諸国とイスラーム諸国の間にこれがある。『創世記』第11章の「バベルの塔」の神話は、それを警告しているのだ。人間の奢りを見て主は曰く--「さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」。

 言葉の重要さを学んだ人々は、もっと声を上げることで、この断絶を修復すべきなのだ。   (谷口 雅宣)

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2002年5月22日 (水)

グールド博士を悼む

 ハーバード大学の生物学者、スティーブン・J・グールド博士が、生まれ育った街、ニューヨークの自宅で肺ガンのため亡くなった。60歳の若さだった。進化生物学の第一人者と言われ、アメリカでは故カール・セーガン博士と共に、一般人向けに分かりやすく科学を解説して人気を博した人だった。私の尊敬する科学者の一人でもあり、生物学のことでは私は多くのことを博士から学んだ。拙著『神を演じる前に』(生長の家刊)でも同博士の言葉を2ヵ所で引用している。もっといろいろ学ばなければならないと思い、数年前、日本語で690ページもある大部の著作『人間の測りまちがい』(河出書房新社刊)を買ったが、書架に入れたままになっていた。この本は、全米図書評論家賞を受賞した名著だ。早く読まなければと思いながら、ついに博士の死を迎えてしまった。誠に残念なことだ。

 昨年9月のアメリカでのテロ事件後、私が9月28日に発表した「光の進軍を讃美する祈り」は、グールド博士が27日付の International Herald Tribune紙に書いた"Decency Trumps Depravity at Ground Zero, Too"(事件現場でも、品格は腐敗に勝利する)という論説に啓発されたものだ。あの惨事の中でも、人間の心の美しさを謳い上げた文章に感動して、こう書いたのだ:

 スティーブン・グールド博士が教えてくれた実話がある−−ある人は、ニューヨークの現場近くに中継所を設け、救助・復旧活動に必要と思われる細々とした品物−−防塵マスクから靴の中敷きまで−−を揃えて、無償で配布した。話を聞いて、沢山の人々がこれに加わり、電池やヘルメットも集まった。またある晩は、レストランのコックが「うちの店で自慢のリンゴのケーキが1ダースある。まだ暖かい」と言って紙袋を差し入れた。その中の1個をもらった消防士は、疲れきった顔に生気を取りもどしてこう言った。「ありがとう。これは、この4日間で私が見たものの中で最も愛すべきものだ。それに、まだ暖かいじゃないか!」

 グールド博士は、この時すでにガンに冒されていた。苦しい中、街頭に出て救援活動に身を投じたのかもしれない。事件の打撃が博士の死期を早めたとしたら、実に残念だ。同博士は、自分の死期を知っていたのかもしれない。というのは、博士にとってガンとの闘いは初めてではなかったからだ。博士は40歳の時、腹部中皮種(abdominal mesothelioma)の診断を受け、その病気が「不治のガンの一種で、死亡率の中間値は診断後8ヶ月」であることを、自分で調べて知った。当時は、ガンの告知はまだ一般的でなかったからだ。しかし、博士にそれを指摘された主治医は謝り、博士の合意のもとに実験的な治療法に挑戦した。これが奏効して、博士自身が「今やこの病気を完全に除去した」と思うような状態に達していた。医学の世界では、ガンは治療終了から5年たっても再発しなければ「治癒」と見なされるから、博士の悪性中皮種は「治った」と言ってよい。

 このことは、グールド博士が1996年に出した Full House: The Spread of Excellence From Plato to Darwin という本に書いてある。この本は、ポーカーの「フルハウス」という手に喩えて、優秀さ(excellence)とは何かを論じている。それによると、「フルハウス」は、配られたカードの偶然の組み合わせから始まっているが、やがてプレイヤーの選択によって、持ち札のすべての優秀さが表現されるようになったものである。つまり、無駄なカードは1枚もない。これが、本当の意味での進歩の尺度であり、優秀さの定義であるというのである。別の言い方をすれば、進歩とは、単純なものが複雑化したり、ある段階から別の段階へ上がったり下がったりすることではなく、単一的な状態から多様な状態になること−−というのである。プラトン(Plato)から始まってダーウィン(Darwin)が現われたのが進歩なのではなく、両者が共にある状態(spread)が素晴らしいというわけである。

 この説明が難解に聞こえる人には、グールド博士の別の喩えを示そう。それは、アメリカの野球界では、1941年にテッド・ウィリアムズが出した「0.406」というシーズン中の最高打率以来、四割打者はもう出なくなったという事実がある。それ以前は、1901年のアメリカン・リーグ発足から30年間に、7人の選手が四割を超える打率を記録している。一体これは野球が(そして野球選手が)進歩しているのか、それとも退歩しているのだろうか−−とグールド博士は問う。読者は、どう考えるだろうか? 博士の答えは明確である。これは疑いもなく、野球と野球選手の「進歩」であって「退歩」ではない。なぜなら、この期間に、すべての野球選手が全体として実力を向上させ、野球自体もレベルを高めたために、“一人勝ち”をするような選手が出なくなったことを示しているからだ。つまり、「打つ」だけでなく、「投げる」ことや「守る」ことにおいても優秀な選手が増えてきた。これが進歩の指標である、というわけである。

 私は、グールド博士の訃報を聞いてから、仕事場の書棚を物色していてこの Full House の本を見つた。以前買っておいて、一度途中まで読んだものだが、どのようにして入手したかは記憶に定かでない。手にとってパラパラとページを繰っていると、本扉の1枚前のページの中央に、ボールペンの手書き文字があることに気がついた。改めて本のカバーを見ると、「Autographed Edition」(著者サイン入り)というラベルが貼ってある。多様性を愛した科学者の“肉筆”だ。大切にしたいと思う。   (谷口 雅宣)

【参考文献】

○ Stephen Jay Gould, Full House: The Spread of Excellence from Plato to Darwin, (New York: Harmony Books, 1996)

○ スティーブン・J・グールド著/渡辺政隆訳『フルハウス 生命の全容−−四割打者の絶滅と進化の逆説』(早川書房、1998年)

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2002年5月18日 (土)

人工的な自然

 人間は、目に見える世界の中に“秩序性”を求める。無秩序があれば、その世界に手をつけて何らかの秩序性を実現しようとする−−そういう得体の知れない奥深い欲求が人間には(少なくとも私の中には)横たわっていることを感じる。「得体の知れない」と書いたのは、この欲求が「気味が悪い」という意味ではなく、「説明が難しい」という意味である。

 山梨県大泉村の山荘で庭造りを始めてから、そういう実感が益々強くなった。私は時々、スケッチを描いたり写真を撮ったりしていたのだから、そんなことはとおの昔に気がついていなければならなかったかも知れない。なぜなら、絵も写真も、四角い画面の中に対象や被写体を無秩序に配置してはいけないことは、誰に教えられなくても分かるからだ。しかし私は、絵や写真の場合は、「世界を四角い枠の中に押し込める」という無理なことをするから、そういう特殊事情のある小空間には“人工的”な秩序性が必要になる、というぐらいにしか考えていなかった。つまり、人が作る「人工」の中には当然「人工的な秩序」がある、という程度の理解である。

 だから、人工でない「自然」の中にも秩序性がほしくなるという経験は、予想外のものだった。

 大泉の山荘は、造園をせずに引渡しを受けた。その理由の第一は、予算が足りなかったからだが、別にも理由があったとしたら、それは「自然の森の中に人工の“庭園”のようなものは不要だろう」という漠然とした気持があったからだ。また、物件を見て回っている時、山荘の庭を持主が自ら造っている場面に何回か出合って、私自身もやってみたいと強く感じたからでもある。

「庭を造る」というのは実は大仕事なのだが、私は当初、自然の中の山荘の庭は文字通り「自然」であればいいのだから、家ができたあとの敷地に最小限に手を加えれば、満足のいく庭がすぐできるだろうと、高をくくっていた。しかし、3月29日の本欄にも書いたように、山荘の敷地は礫岩と小石がゴロゴロ出てくる固い地盤で、保水力もない。だから、花壇を作るにも畑から客土しなければならなかった。

 花壇は、そこに花を植えて目を楽しませるためのものだが、そういう段階へ行く前に、もっと実用的な仕事が必要だった。それは、人の歩く「道」を作ることだった。山荘は、引渡しの時点で、すでに駐車スペースと、そこから玄関まで歩いて行ける砕石敷きの道ができていた。しかしそれは、幅が1メートルに満たない狭い道で、人がぶつからずに擦れ違うことができない。そこで私は、まずその道幅を倍に拡げる作業に取り組んだ。それが終ると、その道(主道)とは別に、駐車スペースから庭を突っ切って山荘のデッキまで歩けるような、細い脇道を作った。これも実用上の理由からである。

 山荘を利用し始めたころは、そこでの生活用品や小さな家具、什器類がまだ揃っていなかったから、そういう様々なものを持ち込む日が続いた。その場合、車を降りて荷物を運び込むには、誰もが最短距離を歩きたかった。しかし、玄関へ行く主道は、敷地の北東の端から北側を通り、カーブしながら北向きの玄関へと続く。この道よりは、庭を対角線上に突っ切って山荘のデッキへ達する方が、よほど距離が短かった。だから、何回か山荘に出入しているうちに、そのルートの土が自然に踏み固められて、道のような線上の痕跡がついていた。

 それをまともな道にするために私がやったことは、そんなに多くない。そこの土を20〜30センチ掘り下げて細長い溝をつくり、その両脇を石やレンガで縁取りして、最後に溝の中に砕石を埋め込んで踏み固める−−それだけのことだ。こうして、砕石を敷いた白っぽい道の、幅広のものが1本、狭いものが1本、駐車スペースから山荘に向けてV字型に通った。こうすると、石コロだらけの黄色い地面にも、何となく「庭」の面影が感じられてきたから不思議だ。

 私が先に「秩序性」と書いたのは、このV字型の線が通ることで、黄色の地面に或る種の“まとまり”が生まれたことを指す。「V」の字の内側と外側が道によって区分され、さらに「V」の上方にも若干の空間があったから、敷地の北東側に3つの区画が生まれた。それを見ているうちに、3つそれぞれを別の用途に使おうという“発想”が出てきたのだった。道は、純粋に実用上の要請から作られたものだが、その2本の線の視覚的特徴から、実用性とは別のアイディア−−つまり、庭のデザイン−−が生まれてきた。妻と私は、このV字の内側は花壇にしようと決めていたから、そこに各種の花を植えたことはすでに書いた。まだ書いてなかったのは、V字の上方にある土地の用途で、そこには各種のハーブを植えている。ここは、山荘のデッキから一番近いので、料理中にもハーブを取りに行ける。また花壇は、奥行きがありすぎると植物の世話がしにくいと考え、V字型の内側にも小道を作った。

 こんな具合に、私は「実用」と「視覚」の双方の要請にしたがって庭造りを進めていったが、できつつある庭を見て感じたのが、最初に書いた言葉である。「自然の中に庭園はいらない」という私の当初の考えを、私自身が見事に裏切っているのだった。人間は「自然」を求めているようでいて、「自然」だけでは満足しないようだ。何らかの視覚的秩序を実現しようとして、結局「人工的な自然」を作らざるをえないという奇妙な、矛盾した情熱があるのだろうか。   (谷口 雅宣)

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2002年5月14日 (火)

口蹄疫とワールドカップ

 5月初めにあった生長の家組織の全国大会とその後の原稿執筆等で“小閑”を見つけることができなかったが、この10日前後の間でも、世の中には実にいろいろなことが起こる。サッカーのワールドカップが目前にある中、その背後で不吉な疫病が広がりつつあるのを読者はご存知だろうか。日本の新聞では1段組のベタ記事でしか扱われていないようだが、今日付の『ヘラルド朝日』紙は、ソウル発のAFP通信の記事を大きく取り上げて、韓国では口蹄疫に感染した疑いのあるブタを13日までに4万頭以上殺したことを伝えている。

 口蹄疫のことは昨年、本欄でも何回か取り上げたが(例えば、3月14日)、その発生はイギリスやフランスなどのEU諸国だった。しかし今回は、隣国の韓国であり、しかもワールドカップの開催で、世界中の人々が日本と韓国の間を行き来する時期に発生している点が、気になって仕方がない。

 口蹄疫は、主として哺乳動物の偶蹄類(牛、水牛、ブタ、ヒツジ、ヤギなど)に感染するウイルス性の急性熱性伝染病だ。昨年は、2月半ばごろからイギリスに広がった。感染力はきわめて強く、土や干し草、人間の衣服などに付着して運ばれるから、車のタイヤや人間の靴についた土からも感染する。さらに、風によって運ばれて感染することもある。感染した動物は、口や蹄や乳房付近の皮膚や粘膜に水泡ができ、この水泡や乳汁、糞尿の中に大量のウイルスが排出される。また、肉や臓器などにも大量のウイルスを含む。だから、群の中に一頭でも症状が出た家畜が発見されれば、群全体を殺して感染が広がるのを防ぎ、さらに他の動物や人、車の移動を制限しなければならない。昨年のイギリスの場合、感染地近くでは、スポーツ大会など人の集まる行事は中止されたのだ。

 今年は5月3日、韓国の農林省がソウル市郊外の農場で口蹄疫に感染した疑いのあるブタを発見、翌日の検査で感染が確認されたため、日本の農水省は同日付で韓国産の偶蹄類とその肉、肉製品の輸入を禁止した。その後口蹄疫は、12日までにソウル市の南80kmにある京畿道安城市や、さらに南方の忠清北道鎮川郡など計8ヵ所に飛び火し、この日までに感染の恐れがあるブタや牛が計5万5000頭殺されている。このために数百人の兵士が動員され、安城市近郊ではさらに6万~9万頭の動物が殺処分の対象となっているという。これは、感染地から半径3km以内で飼われているすべてのブタや牛を殺すためだ。また、安城市から半径10km以内では、人や動物の移動は厳しく制限されており、国内に106ある家畜市場のうち77ヵ所が閉鎖されている。

 イギリスの科学誌『<A href="http://www.newscientist.com/news/print.jsp?id=ns99992263">ニュー・サイエンティスト</A>』もこの問題を5月8日付で取り上げており、ワールドカップ開催によって何十万人もの人が国際移動することで、「その中の何人かはウイルスを自国へもち帰ったり、共同開催国の日本へ運んだりする可能性が恐れられている」と書いている。特に同誌が指摘しているのは、今回の口蹄疫はイギリスの場合と違い、ブタによって感染していることで、「ブタは羊や牛の100倍ものウイルスを吐き出す」ということ、また今回初めて感染が発見されたのは安城市だが、そこからすぐ仁川市に感染が広がったのは「風に運ばれて感染したことを暗示している」ことだ。なぜなら、両市間の距離は25kmあり、人や動物の移動制限域外にあったのに感染が起こったからだ。仁川市は、今回のワールドカップの会場の一つから30kmしか離れていない。

 試合開始まであと2週間のうちに、韓国政府がどれだけの対策を講じ、どれだけそれが効果を生むかが注目される。最悪の場合(もちろん、そうあってほしくないが)、日韓両政府は「畜産業への被害」か「試合中止」かのいずれかを選ばねばならなくなるかもしれない。

 ところで前にも書いたことが、口蹄疫は人に感染しないだけでなく、動物の“死病”でもない。ではなぜ、このような大量の“殺処分”が行われるかというと、感染した動物は「畜産品」として経済的価値を失うからである。しかも感染力がきわめて強いので、「感染範囲内のすべての動物を早く殺す」ことで感染の拡大を防ごうというのである。つまり、動物の命を人間の都合からだけ見るから、大量殺戮の必要性が生じるのだ。現代文明の大いなる矛盾を示してはいないだろうか。   (谷口 雅宣)

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2002年5月 3日 (金)

ロボット・ネズミ

 今日付の『ヘラルド朝日』紙に、アメリカの科学者たちがロボット・ネズミの作成に成功したことが報じられていた。「ロボット・ネズミ」などという表現では、この新技術の影響力の大きさは伝わらないかもしれない。もっと正確に書けば、科学者たちは生きているネズミの脳に電極を埋め込み、それに通信装置をつなげることによって、遠方からネズミの進む方向を制御する技術を開発したのだ。この技術を使えば、理論的には、ネズミの行ける所ならどこへでも、小型の機器や生物を意のままに運ぶことができる。この技術は、地雷の探知や地震で倒壊した建物内の探索活動に役立てることもできるが、その一方で、スパイ活動や要人暗殺、生物・化学兵器にも応用できるだろう。私は、こういう種類の技術の開発にどうしても疑念を抱いてしまう。

 この研究はイギリスの科学誌『Nature』の5月1日号に発表されたもので、研究者の動機には恐らく何の悪意も含まれていないだろう。事実、科学者たちは、神経に障害を受けたため、自分で体を自由に動かせない人が、その機能を回復するのを目的として研究を進め、この技術にたどりついたらしい。彼らは、ネズミの脳内に3つの電極を埋め込んだ。1つは、目的を達成したときに喜びを感じる“満足中枢”に、他の2つは、鼻の右側と左側にあるヒゲの束から刺激を受け取る部分だという。そして、ネズミを右へ行かせる時は、右側のヒゲの束と“満足中枢”を、左へ行かせる時は、左側のヒゲの束と“満足中枢”を同時に刺激する。そうすると、ちょうど犬ゾリの犬を操るように、ネズミの進む方向を制御することができるらしい。この“装置”を埋め込んで10日間訓練をすると、ネズミはノートパソコンの指示にしたがってハシゴを上ったり、坂を下ったり、パイプの上を進んだり、凸凹のある地表を一定方向に進んだりできるようになるという。この遠隔操作ができる距離は、最長で500メートルという。

 従来から我々が知っている「ロボット」は、こういう形で生物を利用するものではなかった。それらは、産業ロボットのように、主として人間の体の動きを一部代行し、省力化をはかるか、あるいは最近は愛玩用として開発されたものもある。いずれも機械やICなどの無機物のみを材料にしており、それを組み合わせて動力で動かし、あたかも人や動物のような有機体のように見せるところは共通している。そういう“無機物型ロボット”を我々が倫理的問題を感じずに利用していたのは、それらが本質的に生命のない無機物であり、人間から独立した意思をもたないからである。ところが今回のロボット・ネズミは、本質的に有機体であり、人間から独立した生命と意思をもっている。にもかかわらず、その意思を技術によって操り、人間の道具にしてしまうのである。我々はこれまで「伝書バト」や「盲導犬」のような形で動物を利用してきてはいたが、今回の技術は、動物の“意思を操作する”という一歩踏み込んだ段階に達している。

 なぜ、そこまでしなければならないのか。この技術の開発の動機についてはすでに述べたが、そういう人道的な動機とは別のものも、この研究の背後にあるような気がしてならない。従来の“無機物型ロボット”は、人間のように「歩行」させるための技術の開発に、相当苦労したようだ。この分野では、音楽のリズムに合わせて踊るロボットもすでに登場している。が、体を伏せて匍匐前進したり、立ち上がったり、木登りをしたりするようなロボットはまだない。そういうものができれば、事故現場や戦場などのように、いろいろな障害物のある環境でも大いに役立つだろう。そういう機能は、しかしすでに存在する動物を利用すれば、もっと簡単に実現する。

 例えば、ネズミは凸凹道はもちろん垂直の壁を登り、小さい穴もくぐり抜けるから、運搬手段としては、現在実現可能な無機物型ロボットよりもはるかに優れている。それに、ネズミは「鼻」をもっているから、それをセンサーとして利用すれば、特定の臭いのする方向にネズミを進ませ、行った先で仕組んだ装置を作動させることで、様々な用途に利用できるだろう。この研究に、米陸軍の高度国防技術計画局(Defense
Advanced Research Projects Agency)が資金を出しているというのが、とても気になるところだ。

 昨日付のイギリスの科学誌『ニュー・サイエンティスト』の記事によれば、動物愛護団体はこの研究を「あきれはてる」と言っており、「人間がいかに他の生物を道具にしてしまうかを示すもう一つの例だ」と批判しているそうだ。また、アメリカの合衆国動物愛護法は、哺乳動物でもネズミやモルモットなどのげっ歯類、それに鳥類は保護の対象にしていないそうだから、同じ方法を使ってこれらの動物をロボット化する研究をする人が、近い将来出てくるかもしれない。「他の生物は人間の道具にして構わない」という考え方が続くかぎり、この種の“残酷な”研究は今後も続いていくのだろう。   (谷口 雅宣)

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