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2002年4月24日 (水)

祖母のメモ帳

 祖母の十四年祭に参列するため、長崎県西彼町の生長の家総本山へ来た。祖母が晩年を過ごした生長の家公邸に両親と妻の4人で宿泊したが、この家の1階にある座敷の次の間が、祖母が原稿や手紙を書く仕事場として使っていた。そこには今も幅1.2メートル、奥行き60センチほどの小型の文机があり、主のないまま畳の上で安らいでいるように見えた。同じ部屋には壁に埋め込み式の神棚もある。公邸に泊めてもらう時は、朝食前に、そこで4人は天津祝詞をあげ聖経読誦をすることになっている。この日もその御勤めをした後、私は文机の前に何気なく座って右側にある抽斗を引いてみた。祖母が亡くなって10年以上たつのでその中は空っぽだと想像していたが、そうではなく、故人が使っていたものがそのまま残っていた。

 最上段の抽斗には、筆記具に混じってメモ帳が数冊あった。紙を切り離して使える方式の、銀行などで景品にくれる葉書より一回り小さいメモ帳である。地元の銀行の名前も印刷してある。中を開いてみると、ブルーブラックのペン書きの細かい文字で何かがびっしりと書き込んであった。懐かしい祖母の書体だった。空白の紙は一枚もなく、最初のページから最後のページまで文字がいっぱい詰まっているのだ。枚数を数えてみると、全部で20枚ある。別のメモ帳も、同じように祖母の手書き文字で埋まっていた。その文字は、一角が2ミリから5ミリほどの小ささだから、視力が衰えてきた私は読むのに苦労する。妻と母も、それを見て「わー小さい」などと言いながら文字の判読を試みた。

 私は当初、それは月刊誌用の原稿の下書きではないかと思った。その理由は、私が読んだメモの部分には、祖母が海外へ行った時の、人とのやりとりが記されていたからだ。祖母は、海外旅行にはもちろん原稿用紙を持っていっただろうが、最初行ったときは1963年で7ヶ月もの長期間だったから、書くことが多くて手持ちの用紙がなくなったかもしれない。そんな時、ホテルに備え付けのメモ用紙を使うというのはあり得ることだ、と思った。しかし、そのメモ用紙が長崎の銀行のものであることを思うと、この推測の根拠がグラついた。しかも、このメモ帳の裏表紙には2年分のカレンダーが印刷してあり、それは「1978年」と「1979年」だった。そんな頃に、祖母が海外へ行ったことはない。

 妻の推測は、これらのメモ書きは、長崎で講演をする際の準備に使ったものだろうというものだった。その証拠に、メモ帳の表紙には「(1)スミ」とか「話しスミ」などとペンで書いてある。これは、「この中身は講話で話しずみ」という意味だというのである。なるほどそうかもしれない、と私は思った。だが、私自身が講話の準備をする時は、小さい紙にメモ書きをすることはあっても、それは話の“荒筋”や“柱”を箇条書きにする程度である。ところが祖母のメモ帳には、まるで雑誌に掲載するためのような、きちんとした文章が書きとめられているのだった。内容は、1963年の最初の海外講演旅行の際のものだ。その旅行から15年後に、地元の長崎で発行されたメモ帳に、何のためにそれを書くのか。その疑問への回答は、やはり講話準備以外には考えられない。1978年とは、生長の家総本山に龍宮住吉本宮が落慶した年である。

 私は若い頃から祖母の講話を何回も聞いていたが、その時は「実にスラスラとよどみなく話をする人だ」という印象をもっていた。この印象は、祖母が普段の生活の中で、我々孫たちに色々な“昔話”をしてくれる時の印象と一部重なっていたかもしれない。とにかく、祖母は力まないで、人に自由に話ができる人だという印象があったから、「小さい紙に細かい字でびっしりとメモ書きをして講話の準備をする」という祖母像には、新鮮な驚きがあった。さらにその時母から聞いた話では、祖母は講話の始まる前は独りで部屋にこもって、人が近づくのを嫌ったらしい。祖母のそういう神経質な側面も、私には意外に感じられた。

 それと同時に、以前とは違う親しみを祖母に感じていた。そういう祖母は、私自身の現在の姿とかなり近かったからだ。自分の講習会前の神経質な状態と、細かくメモをとる祖母の姿が重なり合った。私の場合はメモをとるのではなく、パソコン上で講話のリハーサルをするのだが、使う道具は違っても、心の中で起きている事態にさほど違いはないだろう。そんな新しい親近感を胸に抱きながら、祖母の墓前に参ることができたのは幸いだった。

 この日は、泊まった部屋に飾られていたデンドロビュームを描いてみた。   (谷口 雅宣)

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2002年4月21日 (日)

釈迦と行者

 強風が吹きすさぶ4月のある日、ヒマラヤの中腹にある洞窟の中で瞑想をしている釈迦のもとに、行者の格好をした顔面蒼白の男が近づいてきて言った:

行者--お釈迦さん久しぶりです。お元気でお過ごしでしたか。
釈迦--(半眼の目を上げて男を見て)さて、どなただったかな。
行者--私です。10年前に一度ここへ参りました。その時は、頭に角が生えていたかもしれません。あなたが「悪はない」と仰ったので、角は取れてしまいましたが……。
釈迦--ああ、君か。自分は悪魔だと主張していた人だね。ずいぶん顔色がよくないが。
行者--そうです。悩みが深くて、調子が悪いんです。だから、お釈迦さんに助けていただこうと思って来ました。
釈迦--今度は、何を悩んでいるのかね。
行者--この前の話のおかげで、人間とは別の、悪の第一原因であるような「悪魔」などいないということは分かりました。だから、私は「自分が悪魔である」という先入観念から解放されました。そのことは大変ありがたくて、お釈迦さんに何度お礼を言っても足りないくらいです。だから私はあの後仏門に入って、もっとお釈迦さんの教えを勉強しようと決意しました。ところがどんなに修行しても、私は悟りに達することができないのです。
釈迦--悟りに達するとは、どういう状態をいうのかね。
行者--それは、悩みから解放されることです。
釈迦--で、君の悩みとは。
行者--悪があるということです。
釈迦--悪があってはいけないのか。
行者--もちろん、いけません。私は仏門の導師から、あらゆる生物に同悲同慈の心を起こすことを教わりました。だから、罪のない人や生物が無為に殺されていく姿を見ると、胸が痛みます。気が滅入ります。そして、どうして自分にはこのような悪を防ぐ力がないのかと、自分を責める気持が湧いてきます。
釈迦--君はなぜ、悪を防がねばならないと思うのかね。
行者--それは、死んだり苦しんでいる人々や、生き物の無念さを感じるからです。彼らが抱く「もっと生きたい」という思い、「もっと楽になりたい」という願い、「もっと自分を表現したい」という情熱。これは皆、正当な願いだと思うのに、それが死や病気や災難によって無惨にも否定されていく。私はそれを、黙って見ていられないのです。
釈迦--すると、君の言う「悪」とは、人々や生物の抱く希望が実現しない状態ということかな。

行者--単なる希望ではありません。「正当な権利」が無惨に剥奪されることです。
釈迦--それが「正当」だと、どうして分かるのか。
行者--生まれてまもない子が死にます。無辜の少女がレイプされます。新婚カップルの乗った列車が衝突します。芸術家が手を失います。数学者が脳腫瘍で廃人となります。こういうことは、あってはならない悪ではないでしょうか。
釈迦--なぜ、あってはならないと思うのか。
行者--罪もないのに、責任もないのに、むごい仕打ちを受けるからです。
釈迦--前世に因があるかもしれず、自ら選んで不幸を望むものもいる。
行者--しかし、前世のことは本人には分からない。
釈迦--分からないほうがいい場合が多いのだが。
行者--そんなことはない、と思います。自分の苦しみが過去世の何を因としているかが分かれば、納得する気持になれます。
釈迦--諦めの人生に価値があるというのかね。
行者--諦めるのではなく、納得するのです。
釈迦--納得すれば、その状況を改善し、乗り越えていこうとする力が出てくるだろうか。
行者--…………
釈迦--自分や他人の不幸が、前世からの業であると納得すれば、それが救いになるだろうか。
行者--分かりません。しかし、少なくとも人生は「不合理」であり「不条理」であるとする造物主への怒りや、呪いは消えます。
釈迦--そういう「不合理」や「不条理」の感覚を、20世紀の社会心理学者は「認知の不協和」と呼んだ。この感覚があるから、人間には自己変革や社会改革の力が出ると、その人は考えた。
行者--悪は、善のためにあるというのですか?
釈迦--私は「悪がある」とは言っていない。
行者--死やレイプや、ケガや障害は悪ではなく、善なのですか?
釈迦--因果の法則が存在するかぎり、善因は善果を生み、悪因は悪果を生む。悪果は、それ自体を見れば確かに悪いが、悪因から悪果が生じることは因果の法則が働いている証拠だから、それはある意味では“善い”とも言える。法則が働かないことは、悪果が生じるよりはるかに悪い。なぜなら、どんな積善の人も善を得る保障がなくなってしまうからだ。また、悪によっても善を得る道があることになり、人々は善を行わなくなってしまう。悪因が確実に悪果を招くことで、人々はやがて善を選択するようになる。
行者--しかし、前世の記憶が人々になければ、今生の悪が前世の悪因から来ていることを知ることはできません。
釈迦--人間は、現世の出来事のすべての原因を理性によって知る必要はない。
行者--なぜですか?
釈迦--あまりに荷が重いからだ。記憶が時とともに薄れるのは、救いの働きでもある。君が今、赤ん坊の時代からのあらゆる体験をすべて鮮明に記憶していたとしたら、その重圧にはたして耐えられるか。
行者--…………
釈迦--母の産道を通った時から、初めて目が見えた時、何度も転んで体のあちこちを打った時、食べ物でないものを食べた時、ケガをした時、手術の痛さ、雑踏の中で母を見失った時の絶望感、様々な未知のものへの恐怖……人間の心は、耐えがたい苦しみや恐れを「忘れる」ということで克服するようにできている。そのことは、現代の心理学者ならずとも知っている。
行者--悪果も忘却も不知も、すべて善いというわけですか?
釈迦--観点を変えれば、悪は消える。悪とは本来そういうものだ。
行者--しかし、現世の悩みの原因が過去世にあるのだとしたら、私はやはりそれを知りたい。
釈迦--何のために?
行者--知れば、もっと積極的に善を行うことができるでしょう。
釈迦--それでは、本当の意味での善行ではない。善果を得るために善を行うのでは、一種の功利主義だ。善行を、自己の利益を得るための手段にしている。ただ善のためにのみ善を行う--それが本来の善行であり、そのためには妙な理性や理屈は邪魔になることもある。
行者--お釈迦さま、私の悩みの原因がわかりました。私は、人々に誇示できるような大きな善行をしたかったのです。世の中の“悪”をすべて無くすような、何か大きな仕事をしたかった。しかし、それは利己主義の裏返しであることが今わかりました。
釈迦--ユダヤの聖人も言っている、「私の兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしたのである」と。ただ自らの良心にしたがって善を行えばよい。
行者--分かりました。ありがとうございます、お釈迦さま。
(谷口 雅宣)

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2002年4月14日 (日)

花壇づくり

 3月29日の本欄で、大泉村の山荘の「黄色い庭」のことを書いたが、この“砂漠”のような不毛の土地も、去年の秋には、一部に客土して花壇をつくり始めていた。今日は妻と娘を伴って山荘に来ているが、その時妻の植えたスイセンとラッパズイセンが、この庭の隅で可憐な花を咲かせていた。1~2ヶ月前、東京の家の庭で咲いたものより小さい花で、植物自体の背も低い。しかし、このほかに花をつけた草が周囲にほとんど見当たらないこの地では、それだけでも我々の心を豊かにしてくれる。花にはそういう力がある。この作りかけの花壇には、スイセンの隣にチューリップも植えてあるが、こちらの方は緑の葉と茎を伸ばしているだけで、花はまだ蕾の状態だった。

 前日の土曜日に、妻は中央道の長坂インター近くにあるホームセンターで、色とりどりの花をつけた数種類の園芸種の植物を買った。それを植えるために花壇のスペースを広げるのが、今日の私の仕事だった。4月5日の本欄にも書いたが、私はこういう“外来”の園芸種を山荘の庭に持ち込むことに一抹の疑念をもっていた。この土地の人も言っていたが、外からわざわざ植物を持ち込まなくても、この地に適した植物は付近にたくさん生えているのだから、2~3年もすれば、鳥や風が運んできた種から成長した植物で、庭の格好は充分つく。問題は、山荘を建てた人間が「それまで待てない」ということなのだ。

 こうして、人間の好む種類の植物が、山の中にどんどん入っていく。そういう植物が山の生態系にどのような影響を与えるかは、簡単に予想できるものではない。だから、山荘の住人に新しい植物を「持ち込むべきか」「持ち込むべきでないか」と聞いたら、きっとその人は前者を答えるほかはないだろう。なぜなら、そもそも山荘を建てたのは、山の生態系を守るためではなく、「自分の好み」をその場所に見出したからだ。その「自分の好み」をさらに徹底させるために庭を造るのである。生態系のことが気になっていても、“自然”を優先させるならば、そもそも山荘など建てるべきではない。だから山荘の住人は、いろいろ矛盾を感じたとしても「自分の好み」を追求することになるのが普通だ。

 しかし、そうは言っても「いったん始めたことは極限までやるべきだ」という運動選手のような論理は考えものだ。それは、「いったんタバコを吸い始めたら、肺ガンで死ぬまで吸い続けるべきだ」という論理と似ている。ニコチンの麻薬的作用と花の好みを同列に扱うのは問題かもしれないが、何事もゴリ押しはいけない。そもそも山荘を建てたのは、自分の知らない環境に魅力を感じたからなのだから、その周囲を、自分の知っている植物ばかりで埋めつくすのは無意味である。できるだけ、その土地のものを活かして使うのが本道だろう。いや、「使う」という考え方が、そもそも問題なのかもしれない。その土地の生物が本来の力を発揮して伸びることが自分の好みにも一致するような、人間と自然との“共存点”--幸せなバランス--を見出すべきなのだ。

 ところで、こんなことを考えたのは妻が花を買い、花壇に花を植えてしまった後のことだった。彼女が娘と相談しながらホームセンターで花々を物色していた時、私は別の場所でサクラの苗木が売っていないか探していた。理由は、やはり人間本位だ。この時、大泉村の低地ではサクラがちょうど満開で、その美しさを翌年、あるいは数年後に山荘近くに再現したいと考えたからだ。実は今も、山荘の南側デッキの真ん前に、ヤマザクラの木が1本ある。しかし、その木は、カラマツの森の中で日照を競い合って生きてきたから、ひょろ長く伸びており、花の咲く枝は頭上高くにある。私は、もっと首の疲れない位置に、白いサクラ(ヤマザクラ)ではなく、ピンクがかったサクラの花を見たいと思ったのである。人間は実に、自分勝手な考え方をするものである。

 妻が前日に買った花は、パンジー、ブルー・デージー、エスコルチア、アレナリア・モンタナ、そしてルピナスだった。全部がカタカナの名前だから、これらの花の“お里”は推して知るべしである。私は、この日の午前中、山荘の黄色い庭の東側の一角に鍬を入れ、石だらけの土を掘り返し、フルイで細かい土を残した後、山荘の薪ストーブから出た灰を土に混ぜ、さらに東京から運んできた腐葉土を混ぜ合わせて、花壇を6平方メートルほど延長した。東京の腐葉土は、家の庭の落葉を集めて2年ほど腐らせたものだ。だから、この中には東京の庭にある植物の種や虫の卵、幼虫、ミミズも入っている。こうして“東京の自然”と“外国の自然”の一部が大泉の山に移植され、これからは現地の自然との“共存点”を探していくことになる。   (谷口 雅宣)

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2002年4月 9日 (火)

大合併時代

 今日の『産経新聞』で、作家の深田祐介氏が公正取引委員会の考え方を手厳しく批判していた。JALとJASの合併に関連して、これらの大手航空会社が新規参入者に羽田空港の発着枠を譲ると決めたことを同委員会が評価したことを取り上げて、「“競争至上”の愚劣な思い込みに開いた口がふさがらない」と言うのである。深田氏はむしろ、JALもJASもANAも合併して、来るべき世界的“大対決時代”に備えるべきだと主張している。そうしないと、日本の航空会社はこれからの国際競争を戦っていけないというのである。一方、この「正論」と同じ紙面にある投書欄で、神奈川県に住む設計士の荒川英明氏が、日本の都市の再開発は、どこもかしこも高層化であり、経済効率優先で価値ある古い建物を無視し景観を損なっていると嘆いていた。

 この2つは、まるで関係のない別個の現象のように見えるかもしれないが、私には共通の原因があるような気がしてならない。というのは、つい数日前に京都府の福知山市へ行って、私自身が荒川氏の嘆きに近いものを感じ、それが大企業の進出と密接な関係があると思ったからだ。福知山市へは、生長の家の講習会のために行った。同市へ行くのは2年ぶりだったが、一昨年行った時よりも、明らかに町がさびれていた。土曜日だというのに、駅前の商店街を歩いても人の数は少なく、シャッターを閉めている店や、閉ざされたガラス戸の向こうが真っ暗な店がいくつもあるのである。地元の人に聞いてみると、町の人口は毎年減っているそうだ。しかし、その中でも目立つのは、東京や大阪などの有名企業の支店や出張所、それに名の通ったコンビニエンス・ストアーで、そういう場所にはかろうじて人が集まっていた。

 深田氏の論理を延長すれば、福知山市の現状は悲しむべきことではなく、もっと大企業が合併・連携を進め、駅前は大手ファースト・フード店が1軒、スーパーも大手が1軒、ホテルも巨大資本のものが数軒、銀行も証券会社も最大手があれば他は不要であり……ということになるのだろうか。そんな動きが各地にひろがれば、福知山駅前も綾部駅前も、大企業の看板ばかりが並んだ京都駅前や東京駅前の、単なる“ミニチュア版”になるだけではないか。そんなものが地方の価値を高めるはずがないから、地方都市は益々さびれていく。私には、そう思えてならない。

 鳥取県の米子市に昨年行った時も、これと似た寂しさを感じた。その2年前にスケッチをした旧税務署の「素鳳館」(木造2階建て)を見に行ったのだが、手入れが充分でなく、色あせて古ぼけて見えた。その理由の一つは、すぐ隣に10階建てぐらいの、立派なレンガ色の米子市役所が建っていたからかもしれない。両者の組み合わせは、いかにもアンバランスなのだった。2年前にもこの新市庁舎はあったのだが、それほどの違和感は感じなかった。建物を一軒だけ保存しても、それが周囲の町の機能から隔離されている場合、却って逆効果のようだ。そういう点で、小樽や函館の歴史的建築物は、まだ使われているものも多く、古いままで周囲の町並みと調和し、「生きづいている」という感じがする。

 古い建物が保存されていても、町全体の景観が壊れてしまっている所は、京都にも数多くある。大体、あの京都の高層駅ビルはいけない。設計者は特徴を出したつもりかもしれないが、名古屋や大阪と雰囲気はほとんど変わらない。その町の特徴を歴史的な流れの中でとらえ、それを自然の地形を含めた景観の中で生かしていくという考え方を、日本の町はあまり考えていないようだ。いたずらに流行と経済効率を追うばかりだから、日本中どの町へ行っても駅前はほとんど個性のない画一的な風景になってきた。そんな中に、さらに合併による大資本が進出し、どこにでもあるロゴマークのついた看板や同一イメージの店舗を並べたとて、地方の経済が復興するとはとても思えない。

 自然界には、確かに厳しい競争関係はあるが、地味で目立たない生物が繁殖できる“懐の深さ”がある。高い木が陽光をさえぎっても、潅木が生き延び、下草が生え、蔓草が伸び、隠花植物が殖え、キノコが傘を広げる余地がある。そして、これらすべてが互いに栄養素を与え合っている。そういう多様性が、自然の美しさと豊かさと安定性の基礎である。日本経済も、自然から学ぶべきことが数多くあるように思うのだ。

 福知山の駅前商店街を歩いていて、周囲のくすんだ町並みとはまるで異質の、一軒の新築住宅に行き当たった。その住宅には店舗らしきものはなく、その代わり玄関が10メートル近く商店街からステップ・バックしている。その空いた“庭”のような部分に、見事に咲いた色とりどりの花々を植えた鉢が、所狭しと並んでいた。私はしばし、その美しさに見とれながら、この家の主が一体どういう考えの人なのか、想像した。結局、答えは分からなかったが、いろんな考えの人がいてもいいのだと思った。   (谷口 雅宣)

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2002年4月 5日 (金)

鳥の飛行路

 森の木を切り倒した結果“砂漠化”が起こることは、目で見てはっきりと分かる影響である。しかし、森の中に家を建てれば、人間の目には見えないところでも、きっと数多くの影響が周囲の生態系に及んでいるはずだ。我々は「山荘が一軒建ったぐらいで……」と考えがちだが、家が一軒建つためには、基礎工事用の重機や建材を運ぶための道路を通さねばならず、また電気や水道を引くための工事が行われるから、建築現場以外の場所でも多くの木が倒され、表土が掘り返され、砂利が持ち込まれる。加えて造園が行われれば、客土とともに新しい虫や菌類や植物の種が持ち込まれるだろう。また植栽により、その土地にはなかった動植物が(時には海外から)移植される可能性もある。

 こういう生態系への影響は、ある程度までのものならば、自然のもつ“回復力”によって元通りに修復されるか、あるいはしばらくの期間、生態系が撹乱された後に新しい秩序に到達して安定する。しかし、その「ある程度」の人間の介入が、実際どの程度のものなのかは恐らく誰にも分からない。だから、私の山荘が建ったことで、大泉村周辺の生態系にどの程度の影響が与えられるのかは全く不明である。その影響が、自然の回復力の範囲内にあることを私は願っている。しかし、想像するに、きっと山荘を建てるすべての人が、私と同じ願いをもちながら木を切り倒し、土を掘り返し、その地にはない植物や動物を持ち込むのだ。これは、自然の回復力にボディーブローを打ち込みつつあるということであり、私の“一発”が他の人の“一発”より罪が軽いわけではないのである。

 2001年8月上旬、妻と私は、建ったばかりの山荘に満を持して1週間以上滞在したが、そんなある日の朝、薄く霧のかかった大気を吸い込みながらデッキに出た時のことだった--

 朝の八ヶ岳南麓は、鳥の声で満ちていた。

 といっても、様々な種類の鳥が声が交じり合った音ではなく、ヒガラの声だけが、空や山のいたるところから聞こえてくるのだった。その一音一音は、グランドピアノの最高音よりなお高い周波数だったが、決して耳障りではない澄み切った声だった。それが、周囲の森の全面から、互いに呼び交わすような掛け合いとなって響き、遠くの霧の中に吸い込まれていくのである。そんな音に、しばしうっとりとして耳を傾けていると、遠くでJR小海線の2両編成の列車が走る音がコトコトとリズミカルに聞こえだし、やがてそれも小さくなって消えていく。

 八ヶ岳の山荘に来てもう5日目になるが、朝からデッキの上に出てゆっくりできるのは、これが初めてだった。前日まで、朝は雨が降っていたか、深い霧に包まれていたから、デッキの上のテーブルや椅子はびしょ濡れだった。しかし、その朝は、久し振りに椅子の上が乾いていた。私は椅子に腰かけ、両足を前に伸ばして空を見上げた。

 鳥の声は、ゆっくりと打ち寄せる波に似ていた。

 鳥たちは、朝の山では単独行動をしているのではなく、集団で森を巡っているらしかった。目を閉じて耳をすませていると、ある時は、同じ声の掛け合いが輪唱のようなハーモニーをつくって押し寄せてくるかと思うと、しばらくすると、波が引くようにその声は消えていき、その代わりに、別の鳥の呼び声が前面に押し出て聞こえてくるのである。そして、その呼び声に応えるかのように、同じ鳴き声が、遠方の森からも聞こえてきたりする。

 ヒガラは全長が10センチ前後で、スズメやシジュウカラより小型の鳥だ。尾はシジュウカラより短く、主翼は灰青色、頭が黒く、目から嘴にかけて顔の横にも黒い線が走り、頬から喉にかけてと、腹は白いが、胸にワンポイントの黒い印をつけている。その小鳥が、人間がいることを気にすることなく、デッキの脇に立つヤマザクラやダンコウバイの木の枝に来たり、デッキの手すりに止まったりする。その時、低音の唸るような音を出すのに私は気がついた。この鳥は、体が小さいくせに妙に低い声を出す、と私は最初思った。しかし、よく観察していると、それは、この鳥が飛び立つ時、その短い翼が高速に振動して空気を揺らす音だった。

 小鳥たちは、山荘近くの木に飛んでくると、垂直に立つ幹の側面を上下方向に、いかにも軽々と移動しながら、そこで見つけた子虫を素早くつつき、2~3回それを繰り返したかと思うと、ピーピーという高音を残して、別の木に移動していく。デッキの上に舞い降りた鳥は、板の隙間にいるらしい小虫をついばんでいるのだった。

 突然、目の前を小石のような影が横切ったかと思うと、山荘の居間のガラス戸にぶつかって鈍い音をさせた。見ると、この鳥がデッキの上で白い腹を見せて、仰向きになってもがいているのだった。脳震盪を起こして体のバランス感覚を失っているようだ。私は、そのうちに快復して立ち直るだろうと思って見ていたが、その鳥はデッキに張った板の間の溝に片足をひっかけて、立ち上がれそうもない。そこで私はこの鳥を両手ですくい上げて、頭だけ出す格好で手の中に包んであげた。鳥は、少しの間、足を動かして抵抗する様子だったが、やがて静かになった。何事が起こったのかまだ理解しない様子で、目だけ盛んに動かしている。その小さな生物の体温を手の中に感じながら、私はなぜか幸せな気持になっていた。

 それは偶然、労せずして小鳥を手に入れたからではなく、この小動物が私を敵と思わず、大人しく身を任せてくれたことに対する感動だった。10分間ほど、そうして手の中で鳥を暖めながら、私は時々、親指で鳥の頭をなでで、早く快復することを祈った。そして1度、テーブルの上に鳥を下ろしてみた。鳥は、体を傾かせた姿勢で足を踏ん張っている。どうも、まだ左足に力が入っていない様子だ。そこで私は、再び鳥を取り上げて両手で包み、山荘のデッキの上をゆっくりとした歩調で歩いた。仲間の鳥たちは、私の近くにある木々の小枝をまだ揺らしており、その短い高音の鳴き声に反応するかのように、手の中の鳥は頭と目を、空のあちこちに向けるのが分かった。

 さらに15分くらいして、私は手の中で、鳥に自分の人差し指をつかませてみた。すると、ややぎこちない調子だったが、鳥の左足も私の指をつかむ力があることが分かった。そこで片手を鳥から離すと、鳥は逃げもせずに私の指につかまっている。私が椅子から立ち上がろうとしたとたん、例のブルブルッという音をさせて鳥は飛び立ち、すぐ近くのヤマザクラの幹に頭を下に向けた姿勢で止まった。そこは、私より一メートルほど高い位置にあるので、下向きになった鳥は、私から見ると、こちらを向いているように見えるのである。その姿勢で、鳥はさらに10分ほど同じ位置にじっとしていた。そして時々、あの高音の鳴き声を発するようになった。さらに5分ほどすると、鳥は姿勢を変え、木の幹を軽快に2メートルほど登り、今度は空に顔を向けて鳴きだした。「ああ、これで快復したな」と私は思いながら、少し寂しい気持で鳥を眺めた。仲間からはぐれないうちに、飛び立ってほしいと思った。

 装丁家で、随筆家でもある荒川じんぺい氏の本の中にも、鳥が窓ガラスにぶつかる話が出てくる。私は最初、鳥は「ガラス」という無色透明の物質を知らないために、家の中に飛び込もうとして衝突するのだと解釈していた。しかし、荒川氏によると、明るい空と暗い室内の間にガラスがあれば、そのガラスは室内の様子を隠して、空を映すのである。だから鳥は、空がまだ続いていると思って飛行速度を緩めずにガラスに激突してしまうのだ。当たり所が悪ければ、脳震盪ではすまずに死んでしまうだろう。荒川氏は、そんな不幸な小鳥の死骸を、建てたばかりの自分の山小屋のベランダで何回も見つけたという。そして、その原因は「山小屋が、鳥たちの飛行コースを塞いでいた」からだと結論づけている。

 私の目の前で起こったことも、それと同じだったかもしれない。幸いなことに、私は山荘のデッキで気を失っている鳥を見たのは、これが最初であり、7ヶ月たった今も、まだ2回目を見ていない。ヒガラは集団で山を移動するそうだが、あの時以来、私の山荘の上を移動するのをやめたのかもしれない。本当のところは分からないが、私たちは山荘を出る時は、用心も兼ねて、いつもガラスの内側のカーテンは下ろすことにしている。(谷口 雅宣)

【参考文献】
・ 荒川じんぺい著『週末は森に棲んで』(講談社、1994年)  

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