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2002年4月21日 (日)

釈迦と行者

 強風が吹きすさぶ4月のある日、ヒマラヤの中腹にある洞窟の中で瞑想をしている釈迦のもとに、行者の格好をした顔面蒼白の男が近づいてきて言った:

行者--お釈迦さん久しぶりです。お元気でお過ごしでしたか。
釈迦--(半眼の目を上げて男を見て)さて、どなただったかな。
行者--私です。10年前に一度ここへ参りました。その時は、頭に角が生えていたかもしれません。あなたが「悪はない」と仰ったので、角は取れてしまいましたが……。
釈迦--ああ、君か。自分は悪魔だと主張していた人だね。ずいぶん顔色がよくないが。
行者--そうです。悩みが深くて、調子が悪いんです。だから、お釈迦さんに助けていただこうと思って来ました。
釈迦--今度は、何を悩んでいるのかね。
行者--この前の話のおかげで、人間とは別の、悪の第一原因であるような「悪魔」などいないということは分かりました。だから、私は「自分が悪魔である」という先入観念から解放されました。そのことは大変ありがたくて、お釈迦さんに何度お礼を言っても足りないくらいです。だから私はあの後仏門に入って、もっとお釈迦さんの教えを勉強しようと決意しました。ところがどんなに修行しても、私は悟りに達することができないのです。
釈迦--悟りに達するとは、どういう状態をいうのかね。
行者--それは、悩みから解放されることです。
釈迦--で、君の悩みとは。
行者--悪があるということです。
釈迦--悪があってはいけないのか。
行者--もちろん、いけません。私は仏門の導師から、あらゆる生物に同悲同慈の心を起こすことを教わりました。だから、罪のない人や生物が無為に殺されていく姿を見ると、胸が痛みます。気が滅入ります。そして、どうして自分にはこのような悪を防ぐ力がないのかと、自分を責める気持が湧いてきます。
釈迦--君はなぜ、悪を防がねばならないと思うのかね。
行者--それは、死んだり苦しんでいる人々や、生き物の無念さを感じるからです。彼らが抱く「もっと生きたい」という思い、「もっと楽になりたい」という願い、「もっと自分を表現したい」という情熱。これは皆、正当な願いだと思うのに、それが死や病気や災難によって無惨にも否定されていく。私はそれを、黙って見ていられないのです。
釈迦--すると、君の言う「悪」とは、人々や生物の抱く希望が実現しない状態ということかな。

行者--単なる希望ではありません。「正当な権利」が無惨に剥奪されることです。
釈迦--それが「正当」だと、どうして分かるのか。
行者--生まれてまもない子が死にます。無辜の少女がレイプされます。新婚カップルの乗った列車が衝突します。芸術家が手を失います。数学者が脳腫瘍で廃人となります。こういうことは、あってはならない悪ではないでしょうか。
釈迦--なぜ、あってはならないと思うのか。
行者--罪もないのに、責任もないのに、むごい仕打ちを受けるからです。
釈迦--前世に因があるかもしれず、自ら選んで不幸を望むものもいる。
行者--しかし、前世のことは本人には分からない。
釈迦--分からないほうがいい場合が多いのだが。
行者--そんなことはない、と思います。自分の苦しみが過去世の何を因としているかが分かれば、納得する気持になれます。
釈迦--諦めの人生に価値があるというのかね。
行者--諦めるのではなく、納得するのです。
釈迦--納得すれば、その状況を改善し、乗り越えていこうとする力が出てくるだろうか。
行者--…………
釈迦--自分や他人の不幸が、前世からの業であると納得すれば、それが救いになるだろうか。
行者--分かりません。しかし、少なくとも人生は「不合理」であり「不条理」であるとする造物主への怒りや、呪いは消えます。
釈迦--そういう「不合理」や「不条理」の感覚を、20世紀の社会心理学者は「認知の不協和」と呼んだ。この感覚があるから、人間には自己変革や社会改革の力が出ると、その人は考えた。
行者--悪は、善のためにあるというのですか?
釈迦--私は「悪がある」とは言っていない。
行者--死やレイプや、ケガや障害は悪ではなく、善なのですか?
釈迦--因果の法則が存在するかぎり、善因は善果を生み、悪因は悪果を生む。悪果は、それ自体を見れば確かに悪いが、悪因から悪果が生じることは因果の法則が働いている証拠だから、それはある意味では“善い”とも言える。法則が働かないことは、悪果が生じるよりはるかに悪い。なぜなら、どんな積善の人も善を得る保障がなくなってしまうからだ。また、悪によっても善を得る道があることになり、人々は善を行わなくなってしまう。悪因が確実に悪果を招くことで、人々はやがて善を選択するようになる。
行者--しかし、前世の記憶が人々になければ、今生の悪が前世の悪因から来ていることを知ることはできません。
釈迦--人間は、現世の出来事のすべての原因を理性によって知る必要はない。
行者--なぜですか?
釈迦--あまりに荷が重いからだ。記憶が時とともに薄れるのは、救いの働きでもある。君が今、赤ん坊の時代からのあらゆる体験をすべて鮮明に記憶していたとしたら、その重圧にはたして耐えられるか。
行者--…………
釈迦--母の産道を通った時から、初めて目が見えた時、何度も転んで体のあちこちを打った時、食べ物でないものを食べた時、ケガをした時、手術の痛さ、雑踏の中で母を見失った時の絶望感、様々な未知のものへの恐怖……人間の心は、耐えがたい苦しみや恐れを「忘れる」ということで克服するようにできている。そのことは、現代の心理学者ならずとも知っている。
行者--悪果も忘却も不知も、すべて善いというわけですか?
釈迦--観点を変えれば、悪は消える。悪とは本来そういうものだ。
行者--しかし、現世の悩みの原因が過去世にあるのだとしたら、私はやはりそれを知りたい。
釈迦--何のために?
行者--知れば、もっと積極的に善を行うことができるでしょう。
釈迦--それでは、本当の意味での善行ではない。善果を得るために善を行うのでは、一種の功利主義だ。善行を、自己の利益を得るための手段にしている。ただ善のためにのみ善を行う--それが本来の善行であり、そのためには妙な理性や理屈は邪魔になることもある。
行者--お釈迦さま、私の悩みの原因がわかりました。私は、人々に誇示できるような大きな善行をしたかったのです。世の中の“悪”をすべて無くすような、何か大きな仕事をしたかった。しかし、それは利己主義の裏返しであることが今わかりました。
釈迦--ユダヤの聖人も言っている、「私の兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしたのである」と。ただ自らの良心にしたがって善を行えばよい。
行者--分かりました。ありがとうございます、お釈迦さま。
(谷口 雅宣)

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