黄色い庭
八ヶ岳南麓の大泉村に山荘を得るため、妻と私が村の不動産会社の案内で、海抜1200メートルの土地を見に行った時、カラマツやアカマツが鬱蒼と繁るその山林は、まさに“自然の宝庫”と呼ぶにふさわしいような、緑で覆われ、可憐な花の咲く緩やかな傾斜地にあった。それは2000年の10月のことである。
「こんな森の中に家を建てるのか……」
と、少し不安な気持がないわけではなかった。それは、「暗い森の中に埋もれる」ことへの不安だった。直径50センチほどの太さのカラマツの真っ直ぐな幹が、1.5メートルから2メートルの間隔で密生しているだけでなく、足元は高さ4~50センチの下生えの草々や、頑丈な根を張るクマザサなどで一面に覆われ、歩を進めるにも注意がいる。家を建てる分の木を切り倒しても、周囲で待機している実生の木々がすぐに伸びて、1~2年で自然の中に埋まってしまう――そんな気持さえ抱かせる“豊饒の地”が、そこにあるように思えた。
妻は「眺めのよい土地」を望んでいた。私は「森の中」でも構わないと思っていた。森を切り拓いて牧場や畑にした土地の中にも眺望のよい場所はあったが、それでは「山に棲む」という感じがあまりしなかった。そういう土地は比較的低地にあり、病院や役所や商業施設にも近いから、定住するつもりならそちらの方が便利である。しかし私たちは、当面は「週末の利用」しか考えていなかったから、生活に多少不便でも、いかにも「山に来た」という感じのする土地を探していた。
目の前にある土地は、そんな私たちの希望通りの森であったばかりでなく、妻の求めた眺望にも優れていた。大泉村は、山梨県の西北の端に聳える八ヶ岳の長い、なだらかな裾野にある。南向きの斜面だから、気候は太平洋型で温暖である。しかし、八ヶ岳の南側の裾野が終った先は、平地ではなく南アルプスが立ち上がる。ほぼ真南に荒倉山(1132m)、甘利山(1745m)が見え、その右手(西)に甲斐駒ヶ岳(2965m)やアサヨ峰(2799m)が聳え、そして日本第二の高峰である北岳(3192m)の頭も見える。私たちが来た土地からは、これらすべての山々は臨めなかったが、甲斐駒ヶ岳、アサヨ峰、そして北岳の頭が木々の上から覗いていた。
妻と私がその土地を気に入った様子を見て取った案内人は、次回見に来るまでに、立て込んだ木々を少し伐採しておくと言った。その方が、家を建てた時の感じがよく分かるという理由だった。しかし、その「次回」に私たちがそこへ行くと、売地の敷地内の木がほとんどなくなっていたので驚いた。しかも、一人でそれをしたらしい。「そんなに切らなくても」と思ったが、敷地内の南側は急な斜面になっていて、そこを避けるためには家を北側に寄せて建てねばならず、そうすると、木材などの建築材料を置いたり、整地や基礎工事用の重機を動かすための空き地が必要になるらしかった。
私はこの時、一見どんなに深い森であっても、今の機械を使えば木は簡単に伐採できるということを実感した。
山荘の建設は、雪解けを待って2001年3月に始まり、7月の末には建物が完成した。しかし、庭を造ることは頼まなかった。自分で造るつもりだったからだ。東京の自宅の庭では、土が露出している所には、何もしなくてもすぐに草や木が生えてくるので、八ヶ岳山麓の“豊饒の地”ならば、なおさら緑に不足することはないと安易に考えていた。大体すぐ隣は森なのだから、植物の種子は頼まなくても先を争ってこの地に根付こうとするに違いない、と私は思った。
8月の夏休みに1週間少し山荘に滞在し、庭造りをした。建物に近い敷地の東側に、まず花壇を作った。そのために客土が必要なことがやがて分かった。というのは、山荘の土地は、黄色い堅い土の中に無数の小石が詰まっていて、容易に耕すことができなかったからだ。鍬を入れるとすぐに石に当たり、それを掘り出すためにシャベルかスコップに持ち替えねばならない。しかも、掘り出そうと思った石が片手で持てるほど小さければいいが、両手で持ちきれない大きさの岩もいくつも埋まっているのだった。そして、そういう岩や石をすべて掘り出したとしても、残った黄色の土は、「土」と呼ぶにはあまりにも粗い直径数ミリの粒で、その粒は小石のように堅い。簡単に言ってしまえば、この土地の地盤は礫岩と小石でできていたのである。
八ヶ岳は100万年から300万年も前にいくつもの噴火が起こってできたと言われているが、その時の火山礫や火山灰が堆積してできたのが裾野だ。だから、山腹の地盤が岩や小石でできていることに何の不思議もないはずだった。しかし、鬱蒼と繁った森や、深い下草を見てきた私は、そのわずか数十センチ下に、そういう太古の地層が眠っていることなど想像もできなかった。山荘の工事で、森の薄い表土を掘り返してしまった後は、そこはもう“豊饒の地”などではなかったのだ。
小石だらけの庭は、朝は露が降りてしっとり焦げ茶色に湿っているが、太陽が上がり、十数メートルの高さのカラマツ林の上方から夏の陽が差し込むようになると、地面は水蒸気を立ち上らせながら急速に乾いて黄色くなる。そこへ植物を植えて水をあげても、その黄色い土は砂地のように水分を吸い込んでいき、長く水気を保たないのだった。庭ですぐ植物を育てるためには、どこからか土を運んでくるほかはなかった。
2トン積みトラック1台分の畑の土を注文し、庭の真ん中に下ろしてもらった。その土の中にも小石が多く混じっていたから、フルイを使って取り除き、細かい土を花壇となる場所に入れる。そういう作業をせっせと繰り返しながら、山荘での休日を私は過ごした。そして思ったことは、土は初めから地球上にあったのではなく、「森によって作られる」ということだった。その森を破壊すれば、土も失われるのである。それが、土地の「砂漠化」である。環境問題の解説書なら、どんな本にもそんなことは書いてある。しかし私は、そういう場合の「森の破壊」とは、チェーンソーとブルドーザーを使って、大勢の人が、広大な領域の森を伐採することだと思っていた。また、その結果できる「砂漠」とは、イラクやアラビアの砂漠のような、あるいは少なくとも鳥取砂丘のような広さをもった“不毛の地”のことだと思っていた。ところが、目の前の黄色い庭は、それが「砂漠」以外の何ものでもないことを否応なく私に告げていた。大げさに聞こえるかもしれないが、私は山荘を建てるために、付近の土地を砂漠化したのである。 (谷口 雅宣)
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