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2002年1月28日 (月)

ブタとホウレンソウ

 1月24日付の『産経新聞』の夕刊に、ブタにホウレンソウの遺伝子を組み込むことに近畿大の研究グループが成功したという記事が載っていた。植物の遺伝子を哺乳類の個体で機能させることに成功したのは、世界で初めてだという。その目的は、哺乳類が自分自身ではつくれない植物性油のリノール酸をブタの体内でつくらせることで、ブタ肉を「よりヘルシーに改善」するためという。この研究で誕生した遺伝子組み換えブタは、通常のブタに比べて脂肪中のリノール酸の割合が約2割増加し、この形質が3代目まで受け継がれているという。

 この2日後の1月26日の『朝日新聞』は、日本で未承認の遺伝子組み換えパパイヤが埼玉県のスーパーで売られているのが見つかった、と伝えていた。このパパイヤは米国産で、アメリカではすでに承認されて流通しているものだが、日本では厚生労働省でまだ審査中だ。恐らく「ウイルス病に強く」するための遺伝子組み換えが行われているのだろうが、審査をパスすれば「遺伝子組み換え」を示すシールを貼って流通することになるはずだ。ところがそれが、承認前に表示なしで流通していたわけだ。

 私は、遺伝子組み換え食品についていろいろな所で懐疑的な意見を吐露しているが、この2つの“新製品”のうち最初のものを見ると、この疑いはさらに深まるのである。ブタの遺伝子組み換えの場合、人間が動物性の脂肪の採りすぎで高脂血症などの成人病になるのが問題ならば、ブタなどの肉の摂取量を減らしてホウレンソウを食べればいいのである。なぜ高額な研究費を投入し、ブタの遺伝子組み換えまでして“ヘルシーな肉”などつくらなければいけないのだろう。ブタ肉を食べるだけで、野菜も一緒に食べたのと同じ効果を生み出すことをねらっているのだろうか。そんなことをすれば、野菜を食べない子どもたちがますます増えていかないか。そして、そういうブタが殖えればふえるほど、それを飼育するための土地が必要となり、田畑や森林が減る。遺伝子組み換えブタの「開発動機」は一見善いように見えるが、どうも狭い視野から物事を見ているような気がする。

 それとも科学者たちは、もっと大がかりなことを考えているのだろうか。このブタとホウレンソウの合体の研究は単なる“足場”で、もっと広範囲にわたる植物と動物との合体をねらっているのだろうか。それとも、ブタは実験台に使っただけで、本当は人間自身が体内でリノール酸をつくれるような、人体改造を視野に入れて遺伝子組み換えを行っているのだろうか。

 こういう疑問は、恐らく考えすぎだろう。私は、基本的に科学者の良識を信じているのだが、科学者がいかに善意で研究を進めても、それによって開発された技術が、企業や普通の人々によって必ず善の目的に使われることは、誰も保証できない。今回発覚した大手食品メーカーの牛肉の原産地詐称では、大企業で働く人たちのモラルの低さを見せつけられたようで、暗澹たる気分になる。食品を販売する企業の社員が、それを体内に入れる消費者の健康を一顧もせずに、企業利益のために原産地詐称を組織的に行っていた疑いがある。オーストラリア産を国産と偽ったのは、国産とすれば、狂牛病対策として政府に買い取ってもらえるからだが、それはつまり国民の税金を企業の懐に入れる行為に等しい。また、狂牛病感染の危険性が否定できない北海道産の牛肉を熊本産と偽ったことは、万一、消費者がそれで死病に感染しても、企業の実入りが減らなければいいという判断があったからだろう。そういう社員が、大手の食品会社で働いているならば、科学者が国民の健康の維持や増進を目指して遺伝子組み換え食品を開発することに、一体どれだけの意味があるのかと思えてくる。

 今回行われた食品のラベル貼り替えが、もし他の企業においても恒常的に行われていたなどということになれば、原産地詐称に止まらず、賞味期限や品質の詐称、遺伝子組み換え表示の詐称の可能性も浮かび上がってくる。こういう人間のモラル低下は、技術の進歩を無意味にするだけでなく、技術の進歩が、かえって消費者の受けるダメージを広げることにもつながりかねない。だから、今日のような高度技術社会では、人間の倫理性がもっともっと磨かれねばならないのだ。それとも、もう食品の表示など信じずに、自分でブタを飼い、ホウレンソウを育てることにしましょうか。   (谷口 雅宣)

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2002年1月23日 (水)

クモの糸 (2)

 夢の中で、霊界にいる芥川龍之介に会ったので、お釈迦様が人間の開発した「切れない糸」を使った場合の物語を書いてもらった。題して、『新 蜘蛛の糸』という:

 お釈迦様がある日、極楽の庭を散歩しておられた時のことです。お庭の蓮池には、緑の団扇を広げたような蓮の葉が所狭しと並ぶ中、ピンクや白の美しい花がいくつも大輪を広げてお釈迦様をお迎えしていました。ふとその花の陰から、地獄の様子が透けて見えているのに気がつかれたお釈迦様は、大泥棒のカンダタが地獄の血の池で息も絶え絶えにもがいている姿を見つけられました。

 このカンダタは、もう何回も地上に生まれ変わっていて、ごく最近は21世紀の初頭にアメリカに生まれて、バイテク企業の研究員をしていました。その時、彼は遺伝子組み換えの技術を使って、柔軟で強靭な糸を作る能力をクモから盗み、それで大金持になったのでした。彼は、働いていたバイテク企業からその技術をもって飛び出し、アメリカ陸軍や医療品メーカーに売ったばかりでなく、秘密裏にイラク軍や国際テロ組織にもそれを売却したので、彼の懐はさらに豊かになったのでした。ところが、やがて何度目かのパレスチナ紛争が起こった時、パレスチナの反政府ゲリラがこのクモの糸製の防弾チョッキを着用していたことからCIAが調査に動き出し、カンダタの所業が明らかとなりました。そして彼は、ついに国家反逆罪で逮捕、処刑されて地獄へ落ちたのでした。

 お釈迦様はしかし、カンダタがこの技術開発の過程で、クモをできるだけ殺さないように心がけていたことをご存知でしたから、そういう彼の“仏性の芽”をもっと伸ばしてあげたいと思い、地獄で苦しむ彼の鼻の先に、彼が開発した強靭なクモの糸をこっそりと垂らしてあげたのでした。カンダタは、赤い雲の合間から何か細い筋がキラキラと光りながら下がっているのを見て、「まさか」と思いました。この地獄の血の池で、地雷で飛ばされた人の手足や、中絶胎児の体の残骸が浮かんだり沈んだりする中、疲労でぼんやりした頭の片隅でカンダタが感じていたのは、「こんな光景をいつか体験したことがある」という感覚でした。その微かな記憶によると、この糸はクモの糸で、これを伝って昇っていけば地獄から抜け出せるかもしれないということでした。それに、この光るクモの糸には、何だか見覚えがあるのでした。

 カンダタは、片手をうんと伸ばして糸をつかまえ、力を入れてそれを手繰り寄せると、自分の体が池から浮かびかかっているのでした。「よし、このチャンスを無駄にするな!」と彼は喜び、生き返ったように体を動かしながら、クモの糸をよじのぼり始めました。最初のうちは、エイエイと心で気合いをかけながら元気よく昇っていきましたが、やはり普段からロクな食事をしていないので元気は続かず、50メートルも昇ったところで息が切れだしました。そこでカンダタは、少し休むつもりで体を止め、自分の昇ってきた下界を眺めました。彼は、血の池地獄をこんな高さから見るのは初めてでした。だから、この池がブタの心臓の形をしていて、所々で白い噴煙を上げているのを知って驚きました。しかしもっと驚いたのは、自分の下方40メートルくらいの所で、彼のつかまっている同じ糸を伝って、無数の人がアリの行列のように昇ってくることでした。「冗談じゃない」とカンダタは思いました。こんな細い糸に大勢の人間がつかまれば、いくら強靭なクモの糸でも、すぐに切れてしまう、と彼は思いました。「この糸はオレのものだ。オマエらは昇ってくるな。下りろ、下りろ!」と、彼は下に向かって叫びました。

 しかし、下から続く人の列は、カンダタの言うことなど一向に構わず、どんどん昇ってくるのでした。そこで彼は、自分の体のあちこちを触って、ハサミかナイフがないかを探しましたが、ありません。じゃあ、歯で切ってやろうと思って糸に口を当てましたが、彼の歯は、地獄の責め苦の中で鬼に抜かれて全部なくなっていたことに気がつきました。「チクショー」と思ったカンダタは、もうこの上は、糸が切れる前に脱出するほかはないと決意し、改めて全身に力を込めて昇りはじめました。しかし、この努力も、さらに50メートル昇るまでは続きませんでした。手に汗をかいて糸が滑りだしたことと、体の疲労が限界に達したからです。体の力が抜けてくると、カンダタの体はすーっと下へ滑っていきました。最初は、1メートル滑ったところで手の力でやっと止めました。しかし、その後は、2メートル、3メートルと、体は下へ下へと滑っていくのでした。そしてついに、カンダタは下から昇ってくる人の群に追いつかれました。

 「バカヤロー」と、下の男が怒鳴りました。「ジャマしないでよけろ!」とその男は言うのですが、皆が1本しかない糸につかまっているのに「よける」ことなどできません。そこで、ケンカが始まりました。ただでさえ疲れているのに、ケンカのために足や手を使うとなると、耐え切れずに糸から放れて下へ落ちていく者も出てきます。カンダタは3人の男を突き落としたところで力が尽き、4人目の男に足を引っ張られて、下へ落ちていきました。50メートルも落下して血の池に落ちる衝撃は、相当なものです。ダイビング選手でも、20メートルの高さがあれば、打ち所が悪いと体が赤く腫れ上がります。カンダタは、横っ腹から血の池に落ちましたから、一言「ウーーン」とうなると気絶してしまいました。

 地上の世界では、池の中で気を失えば、普通は窒息死してしまいます。しかし、死んでから行く地獄ではもう死ぬことはないので、カンダタはやがて意識を取りもどしました。そして、池から顔を出して糸の行方を捜してみると、そこには先を争う人々が数珠つなぎになって、突いたり、蹴ったり、落ちたり、落としたりしているのでした。カンダタは、しばらくその様子を眺めて見ていましたが、やはりこのあさましい争いばかりの地獄から逃げ出したいという思いが募り、戦場と化したクモの糸に向かって、再び決意を込めて進んで行きました。

 一方、極楽では、お釈迦様がそんな地獄の様子を眺めておられましたが、やがて悲しそうな顔をされて首を横に振られました。両手には、無限の長さの糸を用意しておられたのに、下の人間が正しい心を起こさないために、それが使えず、彼ら自身が自分たちをわざわざ救われない状態に置いているのでした。無限の長さの糸があれば、それを撚って紐とし、その紐をさらに撚ってロープとし、ロープの所々にコブを作って足場にすれば、多くの人が、休みながら、それを伝って極楽へ来ることができるのでした。しかし、そのためには、皆が一致協力する心、他人を思いやる心を起こす必要がありました。かつてカンダタが、研究に利用しながらもクモを思いやった心を取りもどすのを、お釈迦様は期待しておられたのでした。   (谷口 雅宣)

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2002年1月20日 (日)

ク モ の 糸

 大寒の空の下では、動き回る虫の数は少ない。当然、それを捕食するクモの姿も、クモの巣もないのが普通だ。これは、晴天が多いことに加えて、関東の冬の、もう一つのいいところでもある。わが家には草木が多いから、夏場などは飛び回る虫を捕るために、クモが各所に巣をかける。その糸は目に見えないほど繊細だから、庭を歩いているうちに人間がクモの糸にかかることも珍しくない。顔や目など、感覚が敏感な所にクモの糸がかかった時の突然の不快感は、なかなか慣れることができない。手で払っても、その手にまとわりついてくる。糸はよく伸びるから、なかなか切れない。

 このクモの糸の強靭さと軽さを繊維に利用するための技術が最近、開発されたらしい。クモの糸は絹よりも強く、ナイロンよりよく伸び、薬品や熱にも強いらしいが、このほどカナダのバイテク企業が、米陸軍の研究グループとともに、この糸を作るクモのタンパク質を牛とハムスターの細胞に組み込み、その細胞を培養して繊維を取り、細い糸に紡ぐことに成功したという。まだ、本物のクモの糸ほどの強度はないというが、今後の研究で改善の余地は十分あるらしい。また、ヤギの細胞にこのタンパク質を組み込み、ヤギの乳から繊維を採る計画もあるという。こうすれば、このヤギのクローンを作ることで、クモの糸の繊維を乳から大量に生産することが可能になる。この繊維は強靭なばかりでなく「自然に還る」性質をもっているから、用途は広く、手術用の糸、腐る釣糸、軽くて柔軟な防弾チョッキなどが考えられているという。

 ところで、芥川龍之介の書いた作品に『蜘蛛の糸』という有名な短編小説がある。ある日、極楽を散策していたお釈迦様が、蓮池の下に見える地獄にクモの糸を垂らして、カンダタという大泥棒を助けようとするが、カンダタはクモの糸を伝わって途中まで昇ってきたところで下を見る。すると、無数の罪人たちが同じ糸を伝ってアリの行列のように昇ってくるので、ただでさえ細い糸が切れるのを恐れたカンダタが「この糸はオレのものだ。下りろ、下りろ」と大声で怒鳴ったところ、糸は急に彼の手元から切れて地獄に舞いもどってしまう--こういう話である。「人の不幸を顧みずに自分だけ幸福になろうとしても、それはできない」という教訓が含まれた話で、学校の授業で取り上げられることもあるから、憶えている人も多いと思う。芥川自身の言葉によれば、「自分ばかり地獄からぬけ出そうとする……無慈悲な心が、そうしてその心相当の罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまった」というわけである。

 私は中学生の頃にこの話を読んだと記憶しているが、その鮮明な描写とリズミカルな文体を通して語られる「エゴイズムはいけない」というメッセージには、大いに説得された。こういう倫理的な教えは、しかし頭で納得しただけではあまり意味はなく、自分がそれを行動で示せるかどうかがその人の倫理性を決める。が、これがかなり難物である。朝の通勤ラッシュ時に、人を押しのけて自分だけが電車に乗ろうとしないか。自分だけが良い成績をとろうとしていないか。他人を犠牲にして出世を考えていないか。自分や家族だけの健康を考えて農産物を作っていないか。自分の会社だけで市場を独占しようとしていないか。自国だけが繁栄しようとしていないか。人間だけの繁栄を意図していないか……? こう考えていくと、我々はよほど心して生きなければ、カンダタと同じような結末が待っていそうである。

 お釈迦様が極楽から垂れたクモの糸を、人間は今、バイオテクノロジーで作り利用しようとしているわけだ。カンダタが下を見て「下りろ、下りろ」と言った時、その糸は切れたが、今度はどうだろう。体に吸収される手術用の糸や、自然に還る釣糸は一見、問題なさそうに思えるが、それを大量生産するためにヤギや牛の遺伝子を組み換えたりするのは、いかがなものだろう? 防弾チョッキは警察や軍隊には重宝がられるに違いないが、銀行強盗やテロリストが着用しないという保障はない。“技術の糸”は、いったん開発されれば、誰でもそれをつたって昇ってくる。芥川サンが生きていたなら、お釈迦様が「切れない糸」を垂らした場合の物語も書いてもらえたかもしれない。   (谷口 雅宣)

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2002年1月17日 (木)

カンダハール

 休日の木曜日だったので、妻と2人で映画『カンダハール』を見た。最近の映画は“水もの”で、前評判とか観客動員数などで“いい映画”かと思って見にいくと、ガッカリすることがよくある。最近では、日本映画史の記録を破ったなどと言われ、いまだにロングランを続けている『千と千尋の神隠し』を見て、そういう実感をもった。これは、個々の映画の「質」の問題というよりは、私の感覚や問題意識と、今の日本の一般的なものの考え方や問題意識との間のギャップを示しているのだろう、と私は考えている。そもそも本や映画のような個人の感性に関わるものは、個人差があるのが当然である。

 アフガニスタンの問題は本欄でも過去に何回か取り上げ、昨年末に書いた「今年を振り返って (2)」ではイスラム教内部の各派との関連でもこれに触れた。しかし、はっきり言って、彼の国では何がどうなっているのか私にはよく分かっていない。普段接しているこの国に関する情報が、日本を含めた“西側”の情報ばかりであることも気になっていた。だから、隣国イランの人気映画監督が作り、アフガニスタンの女性ジャーナリストの実際体験にもとづいて、その女性本人が主演するこの映画は、この国の実情を知るうえで一見の価値があるに違いないと思った。

 この映画は、タリバン政権下のアフガン女性の生活の一断面をフィクションの形で描いたドキュメンタリーである。ストーリは単純で、祖国を捨ててカナダ人となったアフガン女性が、カンダハールに住む自分の妹の自殺予告の手紙を読んで助けに行く、というものだ。私が見慣れたハリウッド映画だったら、こんなストーリーでも随所に観客サービスのための「ハラハラ、ドキドキ」が出てくるだろうが、この映画ではその種のことは何も起こらないし、大体、ストーリーの結末が欠けている。つまり、主人公が妹に会えないうちに、映画はいきなり終る。その代わり、脳裏に焼きついて残るものは、色とりどりのブルカを来た大勢のアフガン女性と、空からパラシュートで降ろされる義足と、それを松葉杖をつきながら必死に追いかける無数の男たちである。男は負傷し、女は自由を奪われている--そういう最貧の国では、人は何のために生きるのかということを考えさせる作品だった。

 映画に登場する人々は皆、極限状態に生きている。が、そういう状況下でも、人間はやはり人間を頼らなければ生きられないことを、この作品は教えてくれる。主人公の女性は妹を助けるために、イランからカンダハール入りを敢行するが、そこは戦場であるから、金を積んでも案内人になる人は少ない。そこへ、日本だったら小学校高学年ぐらいの少年が登場して、徒歩での案内を申し出る。が、砂漠の中で少年と2人きりになった主人公の心は不安で揺れる。途中で少年が、白骨化した女性の死体から指輪を取るのを見て、彼女の不安はさらに深まる。井戸に案内され水を飲んでから、主人公は体調を崩す。その地で医師を見つけだすと、その医師は英語で彼女に忠告する--「その子は危険だから、早く別れなさい」と。医師はその子が目を光らせる前で、現地の言葉で診察する振りをしながら、主人公には英語で危険を知らせる。この地では、大人も子どもも生きるために手段を選ばず、必死の駆引きをするのだ。

 男たちは、義足をめぐって駆引きをする。アフガニスタンには「一千万個」とも言われる地雷が埋められている。ソ連が埋めたあと、内戦でも埋められた。中には、子どもをねらって人形の形をした爆発物もあるらしい。これで40万人が死亡し、同じ数の負傷者がいるという。だから、義足は1年待っても手に入らないことがある。赤十字の職員が義足を提供するのだが、その際、男たちは様々な理由を言って義足を手に入れようとする。手を飛ばされた男が「すぐに足も飛ばされるから」と言う。それで無理だと知ると「友人がやられた」とか「母親がやられたから」と言う。結局、この男は古い義足を手に入れるが、後になって主人公にそれを売りつけようとする。また、「足が痛くて夜も眠れない」という理由で義足をほしがっていた男たちが、パラシュートで降ろされる義足を見つけると、松葉杖をつきつき驚くべき速さでそれを追いかける……。人を頼らねば生きられないことを知りながら、人を欺くことが当たり前の世界--それが内戦下の無政府状態のアフガニスタンである。

 だから、どんな圧政でも、タリバーンによる秩序回復をアフガンの人々は支持したのだろう。女性たちも、体全体を覆うブルカの着用を義務づけられながら、その内側で化粧し、マニキュアを塗り、腕輪をはめる。ブルカの下に、禁制品である楽器や本を隠す。また、ブルカそれ自体の色を競い、刺繍をほどこし、個性を表現する。こういう“反骨”の映像は、一部はこの映画の作者の演出かもしれないが、見ているものにはアフガン女性への親近感と、この国の将来への希望を感じさせてくれる。主人公を演じたニルファー・パズィラさんに言わせれば、「ブルカとはすなわち抑圧の象徴であると考えていたのが、だんだんと、危険な所に住む人間にとっては、抑圧から自分を守ってくれるものへと変わってゆくのだということ、精神的な拠り所にもなるということがわかった」という。

 ブルカという“隠れ蓑”が必要でなくなった今、アフガニスタンの人々が、男も女も、早く相互の信頼関係を取りもどし、国家再建と個性尊重への道を団結して進んでほしい、と私は思う。   (谷口 雅宣)

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2002年1月12日 (土)

桜  島

 生長の家の講習会で鹿児島市に来た。今日の西日本は春を思わせる陽気で、鹿児島の気温に18.9℃まで上がったという。ちょうどこの1月12日は、大正3年(1914)に桜島が大爆発した日で、それまで文字通り「島」だったこの山が、流れ出た溶岩のために大隈半島と陸続きになった。この大噴火の災害を忘れないように、毎年この日には、鹿児島県主催の防災訓練が行われており、今日も桜島町溶岩グラウンドと鹿児島港本港区南埠頭を中心に、約4000人が参加して防災訓練が行われたという。

 雲一つない空の中を、鹿児島空港に午後4時半すぎに着いた。空港から宿舎まで行く車中で聞いた話では、桜島は最近はあまり噴火をしなくなったという。日本には86の活火山があるそうだが、過去4回大爆発を起こした桜島は、その中でも最も活動的な火山のはずだ。それなのになぜ? そこで「最近は年を取って元気がなくなったのですか?」と冗談半分の質問をしてから、これはお粗末な擬人化だと思った。人間の生物学的時間と、火山などの地質学的時間とを同列に扱ってはいけない。地質学的な「最近」とは、日本に国がまだ存在せず、マンモスが歩き回っていた氷河期を指すかもしれないのだ。

 ところで車窓から見た桜島は、山の上半分がレンガ色に染まっていたので少し驚いた。ちょうど日没前で、夕陽を浴びていたからだが、以前に絵を描いた時は朝だったため、桜島は霧の中で青々としていた。その印象が強かったためか、「桜島は青い」などという先入観があった。先入観を破られることは新鮮な驚きである。ホテルの部屋に入って、さっそく筆を動かしてみた。

 桜島の火山灰地で育つものに、桜島大根がある。地元では「しまでこん」と呼ばれる。このダイコンは世界一の大きさを誇ることは有名だが、数年前に鹿児島から現物を送っていただいた時には、さすがにその大きさに驚いた。根の直径が30センチ以上もあり、茎の長さは50センチを上回る。それが細長いダンボール箱に入ってドンと届けられた。感激して絵に描いたものが、今もわが家の食堂の壁に飾ってある。ところが、この“世界一ダイコン”の市場入荷量は、10年単位で見るとかなり減少している。

                 総株数(概算)  1日当り
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 昭和43年  1,274 トン   254,800 株   2,123 株
 昭和53年   986 トン   197,200 株    1,643
 昭和63年   295 トン   59,000 株      491
 平成10年    78 トン   15,600 株      130
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  鹿児島市場年報より(トン以下は四捨五入)

 上の数字は地元の青果店「鹿児島青果」のホームページから拝借したものだが、このホームページの情報によると、重さは標準で1株5Kg、大きいもので40Kgにもなるという。巨大ながら“大味”ではなく、柔らかく甘味があって美味である。こんな上等なダイコンが火山灰地で育つのだから、自然界の出来事は実に奥が深いと思う。上等で美味しいものの栽培が年々減っていくのは不思議であり、残念な現象だが、もしかしたら「過疎化」の問題と関係しているのだろうか。その一方で、明るい動きもある。桜島の“悪条件”を克服したダイコンだから、きっと他の土地でも育つに違いないと考えた人々が今、全国で桜島大根の栽培実験をしているらしい。この実験は、「全国一斉桜島大根栽培プロジェクト2001」という名前で、鹿児島県のみならず、北は北海道、東北から、関東、四国、九州にいたる公立小学校27校が参加しており、遠くアフリカの地での栽培も計画されているという。「人間よ、悪条件を恐れることなかれ!」と、このダイコンは言っているようだ。   (谷口 雅宣)

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2002年1月 7日 (月)

ヨーロッパの大実験

 2002年の元旦を期して、EUに所属する12ヶ国に一斉にユーロ紙幣と貨幣が導入された。これにより、3億人を超える“ヨーロッパ人”が同じ通貨を手にもって経済活動を始めた。もっとも金融機関同士のやりとりは、数年前から域内ではユーロで行われていたから、ユーロの初登場ではない。しかし、目に見え、手に取れる現金が、まったく新しいものに入れ替わることの心理的影響は、域内の人々にとっては大変強力なものだろう。

 EUでは、すでに1995年のシェンジン合意以来、人々はパスポートなしで他の域内諸国のどこへでも行けるし、住居を構えることも、学校へ行くこともできていた。この「人の自由な流れ」を促進するためのインフラを整える巨大プロジェクトも次々に完成し、今ではイギリスと欧州大陸は地下トンネルで結ばれ、スカンジナビア半島とデンマークが全長16キロに及ぶ橋とトンネルで結ばれている。我々日本人にとっては、欧州統合はヨーロッパ旅行や当地での買い物がしやすくなる程度の出来事に感じられるかもしれないが、よく考えてみると、これは壮大なる“心の実験”である。

 紙幣や貨幣は、印刷物や鋳造物としては、額面通りの価値があるわけではない。別の言い方をすれば、「1万円札」を印刷するのに1万円のコストがかかるわけではない。その表面に書かれた金額が、その通りの価値として通用するのは、それを国家が保証する(と人々が考える)からである。つまり、お金を発行した国への「信頼」が紙幣や貨幣の価値を支えている。だから、ユーロ紙幣/貨幣の導入は、EUという経済・政治連合の将来を、人々がどれだけ信頼するかにその成否がかかっている。これまでの報道では、従来の貨幣とユーロとの交換は(イタリアを除いては)順調に進んでいるようだから、少なくともEU域内では、人類史上初のこの“国家を超えた経済・政治連合”の将来を信じる人々はかなり多いと言えよう。

 この人類初の壮大な実験は、もちろん一朝一夕で行われたものではない。中世以来のヨーロッパの歴史の中で、この地に住む人々の間に共通の価値観がいくつも生まれ、それが政治や経済・文化交流、あるいは戦争を通じ、長い時間をかけて取捨選択・周知徹底され、今日“ヨーロッパ人”と呼ばれる人々共通の精神的拠り所になったと見るべきだろう。『ワシントン・ポスト』紙のT・R・リード記者によると、その精神的拠り所とは「個人の自由の尊重と、自由な討議による民主主義への堅い信念」だという。これはほとんどアメリカ人のそれと同じだが、アメリカでは個人の生活にたいする政府の介入を極力嫌う「個人主義」が顕著なのに対し、一般にヨーロッパでは、国家にある程度の力を与えることで、国民に健康・教育・交通・雇用を保障させようとする「福祉国家」の考え方が浸透しているようだ。こういう精神的基盤の底辺には、もちろん宗教や哲学がある。そして、この共通基盤があったからこそ、言語や文化の表面的違いを超えた国家連合が可能になりつつあるのだろう。

 さて、ヨーロッパから東アジアに目を転じてみよう。ここでの政治・経済状況は、欧州のそれとはかなり異なる。サッカーのワールドカップの日韓共同開催の難しさを見ても、日本人があと数年後に「円」を放棄して「ウォン」や「元」に乗り換えるとはとても考えられない。中国や韓国に対する“土下座外交”を勧める人々が日本国内に多くいたとしても、円の放棄は我々の国民意識(ナショナリズム)やプライドが許さないだろう。では、ヨーロッパのように、他国の貨幣ではなく、第3の“共通貨幣”を日中韓の3国で採用するという話は、どうだろうか? これとて、かなり多くの障害が3国間にはあるだろう。

 “土下座外交”の話を出したが、こういう言葉が使われる背後には、3国間(特に日中、日韓の間)に共通の歴史認識が存在しないという問題がある。ある国にとっては“当たり前”のことが、他の国にとっては屈辱的な“土下座”として映るということは、20世紀の東アジアでの戦争の原因について3国間に共通認識が欠けている証拠だ。ヨーロッパ各国は、中世の時代から戦争を繰り返していながら、また、互いに他国を占領した経験をもちながら、この問題について深刻な対立はもうないようだ。つまり、前世紀の2回にわたる欧州大戦に関しては、当事者間では共通認識ができ上がっているのだろう。また、東アジア3国に比べると、欧州諸国間には、経済や文化の発達程度にも共通のものが多くある。だから、「過去にはいろんなことがあったけれども、将来に向けて、ひとつまとまって行こうや」という気運が今、生まれているのだろう。

 欧州統合にはもちろん、国際競争に勝ち抜くための“似たもの連合”という側面もある。欧州統合が言われだした頃(もう20年以上も前だろうか)、その一つの有力な理由の中に、近代化を終え、人口の減少と高齢化が始まった欧州が、各国バラバラにやっていたのでは、アメリカや日本の経済力にとても対抗できない、というのがあった。今は日本経済がガタガタで、その代わりに中国やブラジルなどの経済力が向上してきているが、欧州統合が成功すれば、こういう“新しい大国”の台頭にも対抗できる準備が整うことになる。

 そういう中で、新世紀に東アジア3国がどのような関係を結んでいくかが、西太平洋沿岸諸国全体にとって大変重要になると思う。日韓は歴史認識で一致しない部分が多いが、政治・経済関係では共通部分が多い。日中は歴史認識だけでなく、民主主義に対する考え方や政治手法で大きな違いがある。北朝鮮は、そういう各国間の違いをうまく利用して自国の利益を強引に追求しようとしている。この中に、さらに“両岸関係”や日台関係などがからまってくる。もちろん、この地域でのアメリカの強力なプレゼンスも重要な要素である。こういう複雑な国際政治のモツレを、我々がどのようにほぐし、東アジア諸国間で共有できる価値観を見つけだし、あるいは創り出していくかが、これからの西太平洋の平和維持の鍵を握っているように思う。

 小泉首相は東南アジア訪問の後に中国訪問の可能性をさぐっているらしいが、まずはその中国訪問の成功、そして日韓の歴史認識共有化の成功を祈りたい。  (谷口 雅宣)

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2002年1月 5日 (土)

年頭の霍乱

 東京・原宿の生長の家本部会館で行われる元旦恒例の新年祝賀式に、今年は出席できなかった。私が生長の家の役職員になってから初めてのことで、まったくお恥ずかしい次第だ。これを「鬼の霍乱(かくらん)」というのだろうが、実は38℃を超える熱が出て、顔の右半分が腫れ上がっていた。みっともない話だが、その経緯をここに書いておくことにする。

 暮れの29日ごろから、上の前歯の付け根が痛みだした。理由はよく分からない。私は過去に歯を何本か治療しているが、ここ1年以上、歯痛を経験したことがなかった。その前に治療したのは下の奥歯で、それも新たに虫歯になったのではなく、治療ずみの歯から補填材が外れたのを埋め直してもらった程度の治療だった。ところが今回痛みだしたのは、そことはまったく関係のない上の前歯で、虫歯などないはずの歯だった。こういう言い方ができるのは、私は歯磨きに関しては歯科医に誉められるほどと自負していたからだ。これまでの歯の治療の過程で、私は行きつけの歯科で歯ブラシの正式な使い方を教わり、毎日毎食後、律義に実践していた。特に朝食後は念入りで、歯ブラシも1種類でなく、3種類を使う。普通の形のものに加え、奥歯の裏側などにも届く毛足の長い、先のとがったブラシ、それから歯と歯の間を掃除する歯間ブラシを使う。それだけ徹底していたから、虫歯になるはずがないと思っていた。

 しかし、実際に歯痛になったのだから、前歯のどこかに黴菌が入って炎症を起こしているに違いなかった。最初のうちは「そのうち痛みは引くだろう」などと高をくくっていたが、29日の午後になると、上顎から頭にかけてズキズキと痛みが走るようになった。それでも本欄の29日用の文章を書き、絵を描いてそれをデジカメで撮り、このウェッブ・サイトへ登録するところまでは何とかやった。しかし、その後は寝るしかなかった。行きつけの歯科はあいにく土曜日で休診である。妻は心配して、歯科のある救急病院がないか当たってくれたが、見つけることができなかった。そこで翌日の朝、年末年始の診療を交替でやっている歯科医院の中から、近いところを探して診てもらうことにした。

 12月30日の朝9時に、私は千駄ヶ谷のY歯科医院に跳び込んだ。歯茎の腫れが鼻の下から右側にかけて広がっていて、痛いしうっとうしい。話をしようとしても、口が自由に開かない。これを取り除いてもらわないと正月を迎える気分ではないし、元旦の祝賀式の話もままならない……などと考えて焦っていた。60代の小太りの歯科医は、私の前歯を見て、「どこかにブツケたんでしょう。黒くなってるし」と言う。私は「ブツケた記憶はありません」と言い、「黒いのは昔からそうです」と説明した。実は、私の歯の裏の所々には「茶渋」のような焦げ茶色の染み様のものがついている。これは幼児の頃、抗生物質を使ったときの影響だと母からは聞いていたし、行きつけの歯科医も「虫歯ではない」と言っていた。しかし、この小太りの歯科医は問題の歯のレントゲン写真を撮り、それを見て何か結論を出したようだった。それを私に言ってくれれば心の準備ができたのだが、いきなり椅子を倒して治療を始めた。

 こういう経験は初めてだった。医師は患者を診断したら、その結果を患者に話し、治療方針を前もって説明してから、患者の同意を得て治療を始めるものだと、私は思っていた。が、この歯科医は、アシスタントの女性に何か専門用語をボソボソと話しながら、私の上顎にいきなり麻酔注射をし、それからガリガリと問題の歯を削り始めた。そして、武骨な手に力を入れて、歯に開けた穴に何かをネジ込んでは引き抜き、またネジ込んでは引き抜く作業を3~4回やった。仰向けに寝かされた私は、「ウーーン」とか「アアー」とか声を上げながら、痛さに耐えた。で、それが終ってから「神経、抜きましたからね」と歯科医は言うのだった。事後説明なのだ。そして、そのあとの説明はアシスタントの女性にさせた。彼女によると、「歯の穴に綿が詰めてありますが、応急治療なので、1週間以内に行きつけの歯医者さんに診てもらって下さい」という。それだけの説明で、薬も何ももらわずに、私は鼻から口にかけて感覚のないまま家路についた。

 「これで楽になる」と私は期待していたが、それは大間違いだった。麻酔が引いてくるにつれて、鼻の下から頭にかけてズキズキという痛みがもどってきた。私は「神経を抜いたのになぜ?」と思い、「まだ抜けていないのかも」などと歯科医を疑った。私の行きつけの歯科医と、あまりにも違っていたからだ。行きつけの歯科医は、何でもていねいすぎるほど事前の説明をしてくれるし、それが終わり実際に歯を触るときにも「ちょっと削るだけですから、痛くないと思います」とか「痛かったら、顔をしかめてくださいね」などと気を遣ってくれた。その差が、不信感に結びつきそうだった。そこで、私は思い直して「暮れのこの忙しい時に治療してもらえたというだけで十分有り難い」と考えようとした。が、痛みや症状はどう考えても快方にではなく、悪化の方向に進んでいるのだった。

 神経を抜いた30日の午後には、顔の右側半分が腫れ上がってきた。特に、右側の小鼻の脇が盛り上がってきて、右目で右頬が見えるまでになった。さらに時間がたつと、右目で自分の瞼が見えるのだ。つまり、目の周りが腫れて分厚くなっているが、目玉の位置は変わらないから、目が腫れの中に陥没したような状態になった。鼻の下はパンパンに膨れていて、鏡で見る自分の顔は「人間」というより「犬」に近づいてきたと思った。妻が心配して私の顔を覗き込んだので、「ワン」と言って、手を犬の前足のように顔の前に持ち上げた。笑わしてやろうと思ったのだが、彼女は逆に悲しそうな、複雑な顔をした。よほど犬に似ていたのだろう。頭痛が激しくなり起きていられなかったので、私はベッドにもぐり、まもなく眠りについた。そして、時々目を覚まして、妻が用意してくれた流動食をとったりしながら、その他の時間は昏々と眠った。31日も似たような状態で、体温を測ると38℃あった。元旦の朝は、前日よりも楽にはなっていたが、顔の腫れはまだひどく、とても他人様に見せられる状態ではなかったし、体温も38℃以上あったので、新年祝賀式をやむなく欠席することにした。

 元旦の午後、新宿区にある別の歯科医へ行った。この歯科医は前の治療の状況を聞き、私の顔を見ると、腫れの原因をちゃんと説明してくれた。「神経を抜くために歯の裏側に開けた穴に綿が詰めてあるのですが、これがきついと空気が抜けなくなり、顔が腫れてきます。普通は化膿止めの抗生物質を出すのですが、それもないので菌が繁殖してしまったのでしょう」。私が「はあ、はあ」と聞いていると、歯科医が続けて「最悪の時期は過ぎてしまったようですから、空気を出して掃除をすれば、膿は出て楽になると思います」と言う。そして、腫れ上がった私の上唇をめくり上げたので、私は思わず「アー」と声を上げた。痛かったのだ。しかし、歯科医は安心したように言った--「膿を出すために歯茎を切開しようと思ったけれど、もう切れて血が出てますね。あとは自然に出てきますから」

 私は「へえー」と思った。歯茎から右目までの顔の右半分に膿がたまっても、ある段階になると、皮膚が自然に破れて膿を出そうとするらしい。そういうメカニズムが人体にはもともと備わっているのである。当の本人は、頭では何がどうなっているのか分からなくても、体は治る方法を知っているのである。この2番目の歯科医の手当てと、処方された薬のおかげで、私の顔と歯茎の腫れは、その後、日一日と引いていった。

 私はこの「痛さ」を経験して、歯1本でも世界はまるで変わってしまうことが分かった。皆さん、歯は十分気をつけて、大事にしてあげてください。   (谷口 雅宣) 

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