宗教・哲学

2020年3月22日 (日)

コロナウイルスは何を教える

 本年3月1日の生長の家春季記念日でも、それに続く3月11日の「神・自然・人間大調和祈念祭」でも述べたように、今回の新型コロナウイルスの地球規模の拡大が教えていることは、数多くある。そのうち、前記の2回の機会で強調したのは、「人間中心主義の弊害」ということだった。それを別の言葉で表現すれば、私たちは『生長の家』誌創刊号にあった「生長の家の宣言」の第1項が目指していた「生命を礼拝する」ことも「生命の法則に随順する」こともせずに、人間の物質的、肉体的欲望を満足させることを至上目的として、長期にわたって自然破壊を進めてきたという事実を指している。このことが、かえって人類社会の脆弱性(ぜいじゃくせい)を増幅しているのである。

 宇宙広しといえども、この「地球」という小惑星にしかない生命与え合いのシステムを、「人間だけがよければいい」という人類エゴが破壊している。私はすでに9年前に発表した「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中で、このことを次のように述べている――

 「多くの生物を絶滅させ、自然の与え合い、支え合いの仕組みを破壊しておいて、人間だけが永遠に繁栄することはありえない。生物種は互いに助け合い、補い合い、与え合っていて初めて繁栄するのが、大調和の世界の構図である。それを認めず、他の生物種を“道具”と見、さらには“邪魔者”と見てきた人間が、本来安定的な世界を不安定に改変しているのである。その“失敗作品”から学ぶことが必要である。」

 今、肉眼には見えない極小の半生物・ウイルスのおかげで、世界中の株式が暴落し、交通機関は停止し、経済活動は極端に縮小し、多くの産業が経営危機や倒産のリスクに直面している。パリのルーブル博物館やニューヨークの公立図書館のような文化施設も次々と閉鎖され、大相撲春場所のような大規模スポーツイベントは軒並みに中止となるか、“観客ゼロ”という珍妙な方式で一見“通常どおり”を維持する努力を続けている。このあとに来るはずだった東京オリンピックが延期されるなどということは、今年初めには誰も予測しなかっただろう。

 このような人類社会の脆弱性は、いったいどこから来るのだろうか? それは、私が先の祈念祭でも紹介したイギリスの科学誌の記事に、分かりやすく説明されている――

「人間以外の動物に棲(す)むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる“動物由来ウイルス病”を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25五億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。動物由来ウイルス病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 このウイルス病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。」

 

 ここにあるように、地球上の生物種と生物種の関係は、何億年、何十億年もの進化の過程で“天敵”と共存してきた。この“天敵”という用語は誤解を招きやすい。これは、「相手の絶滅を期して死闘する相手」ではない。前掲の文章にあるように、「時間が経つうちに相手に合わせて致死率を下げる」などして共存してきた捕食ないし寄生関係にある他の生物種のことだ。ところが人類だけが、多くの生物種を文字通り絶滅に追いやっている。そのことがかえって「自然の側から“敵”として扱われるような事態」(前掲の祈り)を現出しているのだ。

 もう一つ、今回の新型コロナウイルスの世界的伝播が教えているのは、過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)の弊害である。

 今の世界経済は、専門化による地球規模の分業が極端なレベルにまで進んでいる。ある製品を製造するためには、自前で部品を作るのではなく、外国の特定の会社からAという部品を、また別の国の特定の会社からBという部品を……というように、技術力と効率と価格の点で最も優れている会社に部品の供給を依存する傾向が強い。そうしなければ、他社との競争に勝てない場合が多いからだ。こういう相互依存関係が、網の目のように張り巡らされている。すると、災害などでこの網の目が突然切れると、製品全体の生産がストップしてしまうことになる。それが、今回のウイルス伝播でも起こっている。

 アメリカの外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』は本年3月16日の記事で、このことを「脆弱な効率性(fragile efficiency)」と呼び、実例を挙げて警告を発している。例えば、西ヨーロッパの自動車メーカーが生産する車の小型電子部品は、すべてを1社が担当しているので、その社のイタリアにある工場の1つが今回のウイルス感染で操業停止になると、西ヨーロッパで生産されるすべての自動車の生産がストップしたというのだ。また、ムダを省くために「できるだけ在庫を抱えない」という生産方式も、経済が順調であれば問題ないが、いったん災害や伝染病が発生すると、機能マヒに陥る可能性を生む。“ムダ”とされた製品在庫や部品在庫、生産能力の余剰が、非常時には一種の“安全装置”として働くのに、それが欠落しているからだ。

 このような効率優先、コスト優先の文明の弱点が今、明らかになっているのである。

谷口 雅宣 拝

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2020年3月11日 (水)

「生命の法則に随順する」とは?

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”において「神・自然・人間大調和祈念祭」が行われ、その様子はインターネットを通じて全世界に放映された。以下は、同祈念祭での私のスピーチの概略である--

 皆さん、本日は「神・自然・人間大調和祈念祭」にお集まりくださり、ありがとうございます。今「お集まりくださり」とは申しましたが、ご存じのように、現在、新型コロナウイルスの拡大抑止を目的として、大勢の人間による集会やイベントは行わないようにとの政府の方針に協力しているので、今回のこの祈念祭では、ほとんどの参加者はインターネットを経由して、お祭を間接的に視聴するという方式を採っています。にもかかわらず、恐らく大勢の方がここまでの祈念祭の様子に合わせて黙祷を捧げたり、神想観を実修されたと考え、心から御礼申し上げる次第です。ありがとうございます。

 さて、私は去る3月1日の立教記念日に、『生長の家』誌創刊号の裏表紙にある「生長の家の宣言」という歴史的文章を引用して、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」という言葉の意味をお話したのであります。その時、この「生命の法則」とは「生命顕現の法則」であって、それは決して「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が示すように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、力まかせにいわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということを述べました。また、「生命を礼拝する」という意味は、「人間だけを尊重するのではなく、人間を含めたすべての生命を尊重する」ということだとお話しました。しかし、人間はまさにその「人間だけを尊重する」人間至上主義的な生き方を長年、続けてきたために、今日、地球環境問題を含む深刻な問題に直面しているのですね。そのことを私は、『今こそ自然から学ぼう』というこの本から引用して、「自然への拷問が人間への拷問となっている」という言い方もしたのであります。

 私たちは現在「自然と共に伸びる」運動というのをしています。この「自然と共に伸びる」という意味は、これまでの“古い文明”のように、人間の幸福のためだけに自然を破壊する--例えば、生長の家の過去の運動を振り返ってみると、月刊誌の購読数や購読者を増やすために、その原料である紙パルプの消費を増大させ、森林伐採を促進し、あまつさえ大量の月刊誌が配布されずに多くの会員宅に積まれてあっても構わない--そんな考えではいけないということですね。こんな人間至上主義に陥らずに、運動が進展することと自然界が繁栄することを共に実現しようという運動であります。

 今日はその目的を念頭に置きながら、人類は今後、自然とどう付き合っていくべきかを考えたいのです。「生長の家の宣言」の第1項にあった「生命を礼拝する」とは、また「生命の法則に随順する」とは、具体的にどんなことをするのかということです。

 私たちは今、新型コロナウイルス(COVID-19)による感染症の拡大によって、多くの重要な教育を受けていると感じます。これを生長の家では“観世音菩薩の教え”とも言いますね。先ほど、白鳩会総裁が読まれた、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中にも、この言葉は出てきました。「大地震は神の怒りにあらず、観世音菩薩の教えである」とありましたね。そこで、この教えの1つとして、私が立教記念日の時に申し上げたのは、この感染症の原因は、ウイルスとか動物の側にあるのではなく、人間の側にあるということでした。

 その時は、センザンコウという動物が、ワシントン条約で交易が禁止されているにもかかわらず、大量に取引きされているという話をしました。しかし、その際も申し上げましたが、今回のコロナウイルスの感染源ーー正確には「中間宿主」と言いますが、それはまだ確定されていません。また、センザンコウは単にウイルスを仲介しただけで、コロナウイルスはもともとコウモリと共生しているという学者もいるようです。そうです。コウモリはコロナウイルスを体内にもっていても、平和共存していて病気にはならないということですね。自然界には、そういう野生動物はたくさんいるし、私たち人間の体内にも沢山の細菌が棲んでいて、人体との間にギブアンドテイクの関係が成立しているのです。

 ところが、このような自然界のバランスを壊すと、生物同士が互いに傷つけ合う現象が起こるようになる。私がセンザンコウの例を挙げたのは、センザンコウが“悪い動物”だという意味ではなく、それを扱う人間の側に問題があるということでした。人間は、食用や医療の用途にするために、多くの動物を自然状態から引き離して、動けないほどの狭い場所に囲い込み、そこで残虐な方法で大量に屠殺するのです。

 この方法は、センザンコウだけでなく、ブタもウシもニワトリもヒツジも何もかも、現在、世界中で大々的に行われていることです。そういう食肉産業を発達させてきたのが、私たちの中にある人間至上主義の考え方です。本来動き回るのが自然の生き方だった動物たちを、狭い空間に閉じ込めながら、無理やりに不自然な食事を与え、彼等の苦しみや悲しみを全く無視して殺戮する。動物を殺せば当然、血や体液が周囲に飛散して、人間がそれを浴びることになります。人間に近い家畜の扱いがこれですから、野生動物を扱うにも、それとほとんど変わらない、いやそれ以上に残酷な方法を使うのです。

 このような屠殺によって、人間と動物の肉体の一部が混じることになります。そこで皆さんは、これを「自然と人間が一体」になったと考えますか? あるいは、ブタやウシの筋肉や内臓を人間が食することで、「自然と人間は一体だ」という自覚が生まれると思いますか? 私は断じて、そう思いません。これは動物たちの感情や意思をまったく無視して、人間本位の役割を強制する「自然侮蔑」の心、「生命功利論」の表現だと思います。生長の家の目的は、先に触れたように、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」ことですから、私たちは、その考えと反対の立場にある肉食の習慣をやめるという決断をしたのであります。

 では、ウシやブタのような家畜を食べることと、今回疑われているような野生動物を殺して人間の薬用や食用にすることの違いはどこにあるのでしょう? これに答えるには、質問を言い換えた方がいいかもしれません。私たちは家畜を屠殺して食することを長年やってきましたが、では、なぜ家畜の身体に棲んでいるウイルスや細菌が人間に感染して、病気を発症しないのでしょうか? また、発症してもそれが世界中に拡大して経済活動を阻害する、今回のような大被害を起こさないのでしょうか? 

Ns020820   この疑問に答えてくれる記事を、私はイギリスの科学誌『ニューサイエンティスト』の中に見つけました。ここにあるのは、今年2月8日付の同誌の表紙で、ご覧のように「コロナウイルス」の特集をしています。そして、「Viruses from animals」(動物からくるウイルスたち)という題の記事には、こうあります:

「人間以外の動物に棲むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる zoonotic disease (人間に感染する動物病)を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。人間に感染する動物病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 この動物病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。感染後の1日以内に人間が死んでしまうと、ウイルスはそれ以上繁殖できない。動物の体内にいるウイルスがヒトに感染するためには、そのウイルスに感染している動物と人間が接触しなければならない」

 ということで、動物のウイルスや細菌が人間に感染するためには、人間と動物との距離が接近する必要があることが分かります。現在の文明が進む方向で、それが起こっているのです。人間が自然を破壊して動物に近づいている。別の言い方をすれば、人間が不自然に近く、自然に近づいているということです。これは肉食の習慣が世界的に拡がっていることも指せば、それだけでなくて、人口爆発によって、都市が拡大し、森林がなくなり、動物の住処がなくなり、あるいは動物の食べ物が減って、生きるために動物たちが人家や民家の近くまで来ることも含んでいます。私が申し上げたいのは、生長の家がいう「神・自然・人間は本来一体」という教えは、人間が他の生物と物理的に一体になるという意味ではないということです。

 自然界を観察すれば、それぞれの生物種の個体と個体との間には、自然な距離があります。それを「縄張り」と呼ぶこともあります。同一種の生物だから、いつも互いに密着して生きているわけではない。子供と親は当初は密着していても、成長すると互いに距離をもつようになる。子供がまだ密着していたいという素振りを見せると、親の方が自分の子を攻撃することもありますね。私たちはそういう生き方も全部含めて「自然」と呼ぶのです。そう考えると、異種の生物間に物理的な距離があり、それが守られているということが「自然」なのであります。また、それが「生命の法則」だと考えることができます。すると、「生命の法則に随順する」ということは、人間があらゆる生物を物理的に近くに引き寄せて、自分たちの用途に供しようとすることは、「生命の法則に随順しない」ということになる。

 私は、今回の新型ウイルスによる感染症の拡大は、私たちが人間至上主義によって、動物たちとの間にあった自然な距離を撤廃し、不自然な距離にまで近づいていることに対する“警鐘”だと感じるのであります。自然を自然のままにしておかずに、欲望をもって引き寄せ、徹底的に利用する、あるいは利用しない部分は粗末にかなぐり棄てる。そういう“古い文明”が進めてきた生き方をやめ、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」必要がある。人間以外の生物と私たちとの間には“適切な距離”があるのが自然であり、生命の法則に随順することである--今回の感染症が教えていることの1つは、これだと思います。また、それが私たちが目指す“新しい文明”の方向であることを、ここで確認したいのであります。

 それでは、これをもって今回の「神・自然・人間大調和祈念祭」での所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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2020年3月 1日 (日)

すべての生物を礼拝・尊重する

   今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”で「立教91年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式」が行われた。以下は、同式典での私のスピーチの概略である--

 皆さん、ありがとうございます。

Coronavirus2019 本日は、例年ならば「生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」を長崎の生長の家総本山で行なう日でありましたが、ご存じのように、新型コロナウイルスの感染防止対策に協力するため、急遽、式典の会場を総本山からここ山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”に移し、規模を大幅に縮小して、立教記念日をお祝いする会をもつことになりました。そして、この会場での式典の様子をできるだけ多くの幹部・信徒の皆さんに視聴してもらうために、インターネットで中継しているところであります。

 皆さん、本日は「立教91年」を迎えたこと、誠におめでとうございます。「立教91年」ということは、生長の家の運動が始まってから90年が経過し、今日から91年目に入るということですね。

 私はこの立教記念日には、立教の端緒である3月1日付の月刊誌『生長の家』創刊号を引き合いに出して、その創刊号の中の記事を様々な角度から紹介し、生長の家の創始者であられる谷口雅春先生、輝子先生の立教時のお気持や、視野や関心の広さ、知識や見識の素晴らしさ、神への信仰の深さなどについて述べてきたのであります。今日も、それと同じことをするのですが、今回は、創刊号の表紙の反対側、つまり裏表紙に掲げられた「生長の家宣言」について、皆さんと共に考えたいのであります。

 ここにあるのは、今日、「七つの光明宣言」と呼ばれているもの、これは『生命の實相』頭注版第1巻に収録されていますが、そのの“原型”とも言うべきもので、次の6項目です--

1.吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
2.吾等は生命の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。
3.吾等は人類が無限生長の真道を歩まんがために生命の創化の法則を研究す。
4.吾等はリズム即ち言葉を以て生命の創化力なりと信ず。
5.吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんがために善き言葉の雑誌『生長の家』を発行す。
6.吾等は心の法則と言葉の創化力を応用して、病苦その他の人生苦を克服すべき実際方法を指導し、相愛協力の天国を地上に建設せんことを期す。

 この6項目の最初と2番目の項目に、「生命の法則」という言葉が出てきます。また、第3項目には、「生命の創化の法則」という言葉があって、この言葉は、どうも「生命の法則」をより詳しく述べた言葉と思われます。そう考えると、第4項にある「生命の創化力」という言葉は、この「生命の創化の法則」と関係が深いと考えられます。すると「言葉の創化力」という言葉も、「生命の創化の法則」と密接に関係していることになり、ここに挙げた6項目のすべてが、どうも「生命の創化の法則」「生命の法則」を基本として書かれていると、解釈できるのであります。

 では、その「生命の法則」とは何かといいますと、それは『生命の實相』第1巻に「『七つの光明宣言』の解説」として、雅春先生の解説が載っているのであります。ただ、『生命の實相』では、第2項は「生命の法則」ではなく「生命顕現の法則」という表現になっている点、創刊号の表記とは違います。そして、生命顕現の法則とは何かについて、解説には「生命顕現の法則とはなんであるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります」とあります。

 解説は、次のように続きますーー

「われわれは事実上生まれてきて生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき、生命の法則は“生長”することにあるので退歩することではないことがわかるのであります。退歩する者は生命の法則にかなわないのでありまして、“生命の法則”にかなわないものは生命の世界においては落後することになっているのであります。」

 ここに書かれたことは、読み方によっては、かなり厳しい指針であると受け取られるかもしれません。今年は日本でオリンピック/パラリンピックがありますが、スポーツにおける“生長”や“進歩”とは、過去の記録を更新していくことですから、「退歩する者は生命の法則かなわず、生命の世界では落後する」ということは、「記録を破れない者は、スポーツの世界では落後する」と言っているようにも解釈できます。

 また、これに続いて『生命の實相』には次のように書いてありますーー

「進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのは、いずれもこの現象(ことがら)をいい表わしたものなのであります。生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩にうち負かされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にもうち負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長する、という厳とした法則によっておのおのの『生命』は宣告されているのであります。」

 これを読むと、生長の家では、生存競争や優勝劣敗--つまり、この世界は強い者が勝って、弱い者は負けていくーーという弱肉強食の世界を肯定しているかのように聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか? この第2項の前に置かれた第1項の説明には、次のようにあります--

「自分自身が尊い『生命』であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることもできるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの『生命』の大元(もと)の『大生命』をも尊び礼拝したくなるのであります。」

 つまり、ここに書かれてあることは、私たちの実相は神の子であり、本質は皆、素晴らしい存在であるけれども、そのことに甘んじてしまっていて、実相を表現する努力をしないのではいけない、ということですね。今、流行っている言葉を使えば--「ボーッとして生きてんじゃないよ!」ということです。

 さて、そこで今日は、今世界中で問題になっている新型コロナウイルスについて少し考えてみたいのであります。生長の家では、すべての現象は、善いものも悪いものも皆、観世音菩薩の教えであると言いますから、今回のウイルス問題から私たちは何を学ぶべきかを考えましょう。

 先ほど、七つの光明宣言の第1項と第2項を紹介して、私は、人間の生き方として、「自己に宿る“神の子”の真性を表現する努力を怠ってはならない」という意味の話をしました。それが、立教当初からの生長の家の考え方の基本であるわけです。では、人類全体を考えてみた時は、私たちはこの基本的教えに沿って、ここまで生きてきたのでしょうか? 

Beyondanthro  私はこれまで、いろいろの本の中で、人類の歩みを振り返って、神の子の真性がまったく表現されて来なかったとは書きませんでした。しかし、人類の歩みに問題がなかったとも書きませんでした。特に、産業革命後の人類の歩みについては、公害問題を起こし、自然破壊を大々的に進めてきたことに批判的でした。例えば、今から18年前に出した『今こそ自然から学ぼう』という本には「人間至上主義を超えて」という副題をつけて、多くの私たちの考えの根本にある思想を批判しました。はしがきから少し、引用します。ここにはピューリッツア賞を取った生物学者、E・O・ウィルソン博士に触れてこう書いていますーー

「ウィルソン博士は“人類は地球というこの特定の惑星上で他の生きものといっしょに進化してきた。私たちの遺伝子の中には、これより他の世界はない”と言っている。この言葉を、私は生物の遺伝子操作によって世界が改善すると考えているすべての人々に読んでほしい。そして味わってほしい。ここで“他の生きもの”と博士が言っているのは、千や二千の種類ではない。何十万種、何百万種の生物を指しており、そのなかのほとんどは、どのような生き方をし、どのような機能を自然界で果たしているのか、人類はまだまったく知らないのである。
 が、我々はその生物種を急速に絶滅に追い込んでいる。自分の目先の利益を快適さのために、自然界の調和と安定を支えてきた無数の生物種を犠牲にし、少数の生物種だけを殖やし、新種を開発し、あまつさえ別種の生物との間で遺伝子を入れ替えたり、つけ加えたり、機能を止めたり、混ぜ合わせたりする作業に血眼になっている。これらはすべて、“自然は人間に不都合にできている”という考え方の産物だ。」

「生長の家創始者、谷口雅春先生の言葉を引用させていただけば、“宇宙全体が神の自己実現であるのである。”(天下無敵となる祈り)この“宇宙”とはもちろん“人間”だけの棲家(すみか)ではない。それを忘れて、人間だけの“天国”や“浄土”をつくることはできない。そのような人間至上主義は、個々の肉体としての人間を至高のものとする“肉体人間至上主義”である。生長の家は“人間は神の子”と教えるが、それは“肉体に執着した現象人間”が尊いという意味ではなく、宇宙の一切の存在を神の自己実現として観ずることのできる“本来の人間”(仏)が至高だという意味である。
 人間の多くがそのような自覚に達するには、まだ時間がかかる。それまでは、自然はその自覚を促す“警鐘”を我々の内外に鳴らし続けるだろう。我々はその意味を正しく理解し、間違いを正していかねばならない。自然を拷問にかけることで、我々自身を拷問にかけることは避けねばならない。」

 ここに「自然を拷問にかけることで、我々自身に拷問をかけている」という表現がありますが、ひと言でいうと、それが今回の新型コロナウイルスの世界的拡大から学ぶべきことなのです。先ほどの文章の中に「狂牛病」と「口蹄疫」という家畜の伝染病のことが出てきましたが、このあとには「SARS」とか「MERS」の流行があり、そして今回の新型コロナウイルスの事件があるという、一連の新しい感染症拡大は、人間の側に大きな原因があると考えるべきなのです。

 少し説明をしましょう。SARSは「severe acute respiratory syndrome」の略で、「重症急性呼吸器症候群」と訳されています。MERS「Middle East respiratory syndrome」の略で、「中東呼吸器症候群」です。それと今回のウイルスの共通点は「コロナウイルス」である点です。「コロナウイルス」は太洋の「コロナ」の形に似ていることから、その名がついたといいます。写真をご覧に入れますーー

 SARSは、2002年11月に中国広東省で発生し、翌年の7月末に終息するまでの9カ月に32カ国へ広がり、8,096人が発症し、死者は774人に上りました。致死率は9.6%といいます。MERSは、2012年9月以降、サウジアラビアやアラブ首長国連邦などの中東で蔓延し、3年後の2015年6月半ばまでに1,293人に感染し、うち458人が死亡しています。SARSの原因については、まだ確定的になっていませんが、ハクビシンだろうとか、もともとはコウモリがもっているウイルスだとか言われています。これに対し、MERSのウイルスはヒトコブラクダがもっているそうです。それとの“濃厚接触”が原因のようです。今回の新型コロナウイルスによる呼吸器症候群も、原因はまだ確定していませんが、センザンコウが中間宿主ではないかという説が、有力視されています。
これは2月22日付の『ナショナル・ジオグラフィック』誌のウェブサイトの記事に載っています--

「センザンコウが本当に新型コロナウイルスの中間宿主であるかについては、まだ正式な論文で発表されたわけではない。センザンコウからヒトにウイルスが感染したことが確認されてもいない。それでも、2020年2月現在、検証されている説の一つであり、アジア(とりわけ中国とベトナム)でのセンザンコウの消費と、大規模な違法取引に対する監視の目が厳しくなると考えられている。」

 センザンコウがどんな動物かを見てみましょう。

 センザンコウは、哺乳動物の中の「鱗甲目」に所属する動物の総称で、英語では「pangolin」といいます。アリやシロアリを食する。世界に8種類いて、アジアに4種、アフリカに4種。大きさは、小さい種類がイエネコぐらいで、大きい種類は体長75~85センチ。ワシントン条約で取引が禁止されているが、「世界で最も多く密売されている哺乳類」と言われ、毎年数万匹が密猟されている。とりわけ近年になって押収量が増加している。これは、中国が2018年に象牙の国内取引を禁止したことと関係があると見られている。象牙の値段が下がり、取引きのウマ味がなくなったため、犯罪組織がセンザンコウの取引に切り換えた可能性がある。ある調査によると、2016年には平均で2.4トンだったセンザンコウの押収量は、2019年には6.8トンまで急増している。

 センザンコウは肉が珍味とされ、ウロコは伝統薬の材料に使われ、ウロコの取引き価格は1匹あたり2700ドルという(2017年現在)。また、胎児のスープは、男性用の強壮剤になるとして売られている。またウロコは、インドではリウマチに効くお守りとして用いられ、アフリカでは魔除けとして用いられ、ベトナムではジャライ族が民族楽器クニーの素材として使うという。

 今回の新型コロナウイルスの感染は、武漢市の市場から始まったと言われているのですが、動物を生きたまま取引きする現場というのは、いわゆる「濃厚接触」が頻繁に起こることが分かります。動物は、センザンコウに限らずいろいろな種類のものが、小さな籠に入れられて市場の狭い空間に積み上げられたりするからです。これは皆、人間のためだけにそうするのです。自然界では、広い森や草原などで、外敵から身を守るためには、あるいは自分の縄張りをもつために、動物と動物の間には必然的に距離が生まれます。ところがそれを人間が市場で売買したり、飼育したりする場合には、そんな距離がなくなり、同種の動物も異種の動物も一緒にされて“満員電車”のような状態に長期に置かれます。また、殺されて肉になる場合は、血液、体液、内臓などが人間と直接接触する。そこに、人間がもともともっていない細菌やウイルスが、人間の体内に入る機会が生まれます。

Hogfactory  繰り返しになりますが、今回の感染症がセンザンコウのもつウイルスが原因かどうかはまだ確定していませんが、仮にそうでなくても、過去にはハクビシンやコウモリ、ヒトコブラクダの例があり、また狂牛病や口蹄疫の場合は、狭い空間にたくさんの動物を詰め込んで飼う飼育法が、人間のためだけの目的で行われているという事実を、確認しなければなりあせん。そして、まさにこの人間至上主義的な動物への処置が、結果的に人間に大きな被害や損害を与えているのです。私が「自然への拷問が人間への拷問となっている」というのは、こういう意味であります。

 さて私は、この話の最初に「生命顕現の法則」という言葉に触れましたが、この自然界と人間の関係を考えると、ある生命が現れて発展するためには、「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が暗示するように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、いわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということが分かります。そのような人間至上主義的生き方をしていると、人間自身が大きな問題を抱えることになる。生長の家では、「人間は神の最高の自己実現」といいますが、この意味は、人間が他の生物種を自己目的のために生殺与奪の権を振るって支配するということではない。それは「神」がすべての生物種の創造者であり、それら生物種を愛されているのと同じように、人間もすべての生物種を、自分もその一部である自然界の仲間として、また“神の作品”として尊重し、愛するというのでなければならないのです。そのことを説いているのが、生長の家の宣言の第1項目だと私は思います--「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。」

 皆さんもこの運動を進める中で、「自然と共に伸びる」という意味は、『七つの光明宣言』の第1項を生活に生きるということであることを、機会あるたびに思い出し、人々にも伝えていただきたいと念願する次第です。

 91回目の立教記念日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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2019年11月22日 (金)

“他を害する心”を捨てよう

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の龍宮住吉本宮出龍宮顕斎殿で、九州地方と山口県の幹部・信徒290名が参列して「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が厳かに執り行われた。私は式典の最後に概略、以下のような言葉を述べた:

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 皆さん、本日は「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」にお集まり下さり、有難うございます。皆さんとは毎年この時期に、ここ総本山の出龍宮顕斎殿でお会いして、あるいは最近は、皆さんがお住まいのそれぞれの地でインターネットを通じてお会いして、谷口雅春大聖師が約90年前に始められた人類光明化運動の意義を確かめ、今後の運動発展への決意を新たにする機会をもてることは、大変ありがたく、すばらしいことと感じ、神さまと皆様に心から御礼申し上げます。ありがとうございます。

 さて、昨年のこの記念日では、私は昨今の気候変動にともなう世界各地の災害の増加を話題にしました。ご記憶の人は多いと思いますが、昨年は夏に、広島、岡山など中国地方で洪水が起こり、山肌が崩壊して人家に大きな被害が起こりました。生長の家の幹部や信徒の家にも被害がありました。その時、私はこの種の災害は今後、頻繁に起こることが予測できるので、生長の家ではその際の「救援活動」を教団として組織的に行うための仕組みを作ったことを報告いたしました。

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 残念ながら、この予測は的中して、今年も台風15号、19号などが襲来して、日本中に甚大な被害をもたらしました。しかし、「不幸中の幸い」と言えるのは、生長の家ではこの救援活動のための組織ができていたので、今年はそれを利用して、日本各地で信徒のボランティア活動による救援活動が展開されました。信徒の皆さんの愛行の実践が、新たな分野に展開されていることを感じ、心から感謝、讃嘆申し上げます。ありがとうございます。

 今年の日本での自然災害のうち、大きかったのは台風19号によるものではなかったかと思うのですが、実は私20191124_img_0546
も妻と共に、長野県の被災地に救援活動のため入らせていただきました。千曲川の氾濫により、長野市のリンゴ農家が被災したところへ10月20日に行ってまいりました。台風19号が山梨県・長野県を通過したのは10月の12日ごろですから、被災から約1週間たっていましたが、現場は大変な状態でした。何枚か写真を示してご説明します。

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 この救援活動をして感じたことは、いくつもありますが、一番強く感じたことは、「ひとりの人間の力はわずかだ」ということです。また、それに比べて「自然の力は偉大だ」と感じました。約20人のボランティアが汗と泥だらけになって、1日中仕事をしても、リンゴ農家の倉庫1棟から、泥に埋まった様々な物品を持ち出して庭の一角に集め、後に残った泥をかき出すことしかできませんでした。私は出張で北杜市を離れるとき以外は、約4キロの上り坂を仕事場まで自転車通勤しているので、肉体的にはまだ老衰していないと自負していましたが、水をたっぷり含んだ泥を運び出す重労働には、さすがに疲労を感じました。当たり前のことなのですが、人間の肉体の力は、被災地のように最低限の道具しか使えない環境では、ほんとにわずかなものなのです。

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しかしその反面、人間は科学技術を道具として使うと、大変な力を発揮して、自然を破壊することができます。大体、今回の台風による洪水や、水害の原因には、人間の活動が大きく関わっています。私が申し上げているのは、地球温暖化は人間の活動の影響であるということで、世界のほとんどの気象学者がそれを指摘しています。それにも拘わらず 、先進国の政治指導者は経済発展を優先して、温暖化対策と真剣に取り組もうとしていません。

生長の家は、この問題の大きさに早くから気がついて、温暖化の防止、そして最近では温暖化が進む世界でどう考え、どう生きるかを提案し、実践しつつあるのですが、その考え方の元となっているのが「神・自然・人間は本来一体」という信仰です。これは何も私が発明した考えではなく、谷口雅春先生の教えであることを忘れないで頂きたい。

多くの方はすでにお持ちと思いますが、雅春先生と私の祈りの言葉を6つ集めた『万物調和六章経』というのがあります。その中に、『真理の吟唱』から転載した雅春大聖師の「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」がありますが、一部を次に引用して、そこに「神・自然・人間は本来一体」であることが説かれていることを確認いたしましょう--

「すべての生きとし生けるもの、在りとしあらゆる物ことごとくに“神の生命(いのち)”が宿っており、そのすべてが私たちの生命と一体であるから、天地一切のものは、私たちの心の響きに感応して、或る結果をもたらすのである。それゆえに、物質と見えているものでも、私たちがそれに感謝し、それに宿る神の生命(いのち)を直視して祝福するならば、その祝福に感応するのである。」

 ここには、自然界のすべてのものと「私たち」すなわち人間は一体であることが説かれています。私たち人間と自然界とが一体である理由は、すべてに“神の生命がやどっているから”だと、ここでは説かれています。つまり、神を媒介として、自然界のすべてのものと私たち人間はつながっているということです。

 少し先には、次のように書いてありますーー

「神は人間を万物の霊長として、天地一切のものを霊的に支配する権能を与え給うたのである。それゆえ、如何なる物も、人間が義しき心をもって生活し、他を害する心を起こさない限り、自分が害されるということはあり得ないのである。」

20191124_img_0555  ここで重要なのは、人間が他の生物など“天地一切のもの”を「霊的に支配する」と書かれていることです。「物質的に支配する」とは書かれていません。この違いは何でしょうか? 私たちが現在、動植物に対してどのように対処しているかを思い出してみてください。今、私が住んでいる山梨県では、韮崎市で豚コレラという病気が発生したため、発病したブタのいる農場のブタ890頭が、17日までに、健康なブタも含めてすべて殺処分されました。感染を防ぐためです。今回はまだ千頭未満の犠牲でしたが、かつて宮崎県で口蹄疫が発生した時は、何十万頭もの家畜が殺されたことがありました。これは「霊的な支配」でしょうか、それとも「物質的な支配」でしょうか? 答えは、明らかに後者ですね。では、生物の細胞内にあるDNAを組み替えて、人間に都合のよい形質をもたせることは「霊的な支配」でしょうか、「物質的な支配」でしょうか? DNAはデオキシリボ核酸という物質ですから、これを人工的に組み替えるのはもちろん「物質的支配」です。それでは、山の中にダムを建設したり、コンクリートで川岸を固めることは「霊的支配」でしょうか、それとも「物質的支配」でしょうか? この答えも、明白ですね。

20191124_img_0557  このように考えてくると、私たち人類がこれまで進んできた道は、他の生物や自然環境を物質的に支配しようとした歴史であることが分かります。では、その物資的支配の「動機」は何だったでしょうか? それらの科学技術を開発するに当たり、「義しき心」をもってそれをなし、「他を害する心」を起こさなかったでしょうか? 決してそうではありませんでした。私たちが科学技術を開発してきた最大の動機は、経済発展--つまり、人間本位の他の動植物の利用であり、物資的繁栄ではなかったでしょうか? 核エネルギーの利用技術の開発などは、敵国を破壊する--つまり「他を害する心」そのものが最初の動機でした。

 「他を害する心」は、核エネルギー以外にも多くの技術の元になっていることがあります。例えば、「農薬」などは如何ですか? また、樹木を育てるときに剪定というのをやりますが、これをやりすぎると、樹木は枯れてしまいます。では、電線の邪魔にならないように、街路樹をボコボコに短く伐ることはどうでしょうか? 効率よく食肉を生産するために、本来、動き回ることが好きな動物や魚類を、狭い囲いの中に詰め込んで飼うことは、どうでしょうか? これらは、「他を害する心をもって動植物を物質的に支配」してきたことを示していないでしょうか? 私は、その通りだと思います。

 私は今回、台風19号の被災地で汚泥の掻き出し作業をしながら、不思議な光景を目にしました。それは、予測はしていたのですが、リンゴ畑のリンゴの木は、すべて人間の手が届くような低さに剪定されていること。このため、木を見ても少しも美しくないのです。いびつに曲り、多くの枝が垂れ下がったリンゴの木に沢山の実が成っているのです。すると、洪水が起こると、ほとんどすべての実が泥の中に浸るか、泥がかかってしまい出荷できません。また、倉庫にあったほとんどすべてのものが泥だらけでしたが、中には、泥がついているだけで、使えるものも沢山ありました。が、そこのご主人に訊くと、「全部捨てて下さい」と言うのです。例えば、植物を支える支柱など、泥を洗えばまだ充分に使えると思うのですが、ご主人は見向きもしないのです。また、中身がいっぱい入った灯油の缶もありましたが、それも「全部捨てて下さい」と言われました。

 が、その一方で、ご主人に「それは取っておいて」と言われたものがあります。それは小型のペットボトルに入った農薬でした。それも1本や2本でなく、10本以上のものを、ご主人は大切そうに別の場所へ持って行かれました。また、倉庫内には、大型の農薬散布用の車があって、それをご主人はいかにも大切そうに扱っていることが、私たちには分かりました。

 私はここで、このリンゴ農家が洪水の被害に遭ったのは、「他を害する心」をもっていたからだと言いたいのではありません。地球温暖化の問題は、ある特定の個人の心がどうだったかというミクロの原因では説明できないし、解決できないでしょう。しかし、産業革命以降、長年にわたって、地球全体に住む多くの人々が、人間中心主義の考えにもとづいて繰り返し繰り返し、他の生物や自然環境を傷めつけながら物質的に支配しようとしてきたと言えないかを、皆さんには考えていただきたい。

20191124_img_0559  雅春大聖師の祈りの言葉には、「如何なる物も、人間が義しき心をもって生活し、他を害する心を起こさない限り、自分が害されるということはあり得ない」と説かれています。これを言い換えれば、「人間が邪な心をもって生活し、他を害する心を起こして、霊的にではなく、物質的に自然界を支配しようとしてきた」ことが、現代社会の様々な問題の背景にはあるということです。

 この人類的な心の傾向は、今も続いています。だから、それを正し、「神・自然・人間は本来一体である」という真理に、もっともっと多くの人々が目覚めることが、そして、人間を含めた自然界に対して、様々なやり方で四無量心を行じることが、今日ほど求められている時代はないと考える次第です。このことは、約90年前に、この運動を始められた谷口雅春大聖師の御心を現代に反映させるご恩返しになるということを、今日はぜひ皆様には知っていただきたいのであります。
 
 それでは、これをもって大聖師ご生誕日記念式典の所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。
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谷口 雅宣 拝

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2019年11月19日 (火)

社会を離れず、されど社会に呑まれず

 今日は午前9時半から、山梨県北杜市の生長の家国際本部「森の中のオフィス」で第68回生長の家代表者会議が行われた。この会議は、生長の家の運動を展開している全世界の幹部・代表者が集まり、次年度の人類光明化運動・国際平和信仰運動の方針や方策について説明を受け、質疑応答によって内容をよく理解するために毎年開かれている。この日は、ブラジル、アメリカなどの海外からの出席者やオブザーバーを含め338名が参加し、熱心な議論が行われた。私は、本会議の最後に概略、以下のような挨拶を行なった--

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 皆さん、ありがとうございます。


 今日、皆さんに申し上げたいのは「社会を離れず、社会に呑まれず」ということです。皆さんもご存じのように、私たち生長の家は、宗教としては早い時期から地球温暖化問題の重要性に気づき、その防止や抑制を運動として展開してきました。また、長年、東京という大都会に中心地を置いて布教活動を展開してきました。にもかかわらず、6年前の2013年、その便利さを捨てて標高1300mのこの“森の中”に中心地を移しました。東京は、日本社会の中心地ですから、これによって言わば「社会から離れた」わけです。

Dm_img_0532  その理由は、すでに何回も申し上げていますが、物質中心、経済中心であり、資源・エネルギーの大量消費を前提とし--したがって温室効果ガスの排出が多い、大都市の生活を自ら楽しんでいながら、他人に対して「温室効果ガスの排出をやめよう」というような運動は、論理的に矛盾している。それは、自分でできないことを人にさせようとしているという意味で、自己欺瞞に陥っているから効果的でなく、したがって成功しないということです。これを言い直せば、「社会に呑まれたまま社会の動向を批判できない」ということです。

 そこで私たちは、物理的に「社会から離れた」わけです。では、「社会に呑まれないために社会から離れる」というだけでいいのでしょうか? これだけでいいのならば、私たちは今日もここでこんな会議をする必要はまったくないですね。なぜなら、国際本部は“森の中”にあっても、そこへ集まった皆さん方の大部分は、都市から来ているからです。生長の家は都市には不要であるというのならば、都市から来た皆さんも不要であるということになりま  す。しかし、宗教は第一義的には自然を救うためにあるのではなく、人間を救うことが目的です。人間の大部分は都市生活者です。その都市生活者を相手にしないのでは、宗教は存在意義がなくなってしまう。また、都市に住む皆さんが不要であるということになると、運動自体が成り立たないことは明白です。

Dm_img_0533_20191124134101  そこで重要になってくるのが、「社会を離れず、しかし社会に呑まれず」ということです。これは、「都市を離れず、しかし都市に呑まれず」と言い換えることができるのですが、このことは実は「言うは易く行うは難し」であります。

 私たち国際本部の役職員は、東京から物理的に離れましたが、それによって心もある程度「都市を離れる」ことになったと思います。しかし、私たちの関心が完全に都市から離れるということは、あってはなりません。それは、先ほど言ったように、宗教の第一の使命は人々を救うことで、大部分の人々は都市に住んでいるからです。その都市で、人々がどのような問題を抱え、どのように感じて生きているかを知らずして、それらの人々を救うことはできません。だから、宗教者の心が「都市を離れない」ことは重要です。

Dm_img_0534  しかし、その一方で、都市は“欲望の中心地”であります。このことは、『宗教はなぜ都会を離れるか?』(拙著)という本の中にも詳しく書きました。都市に長く生活していると、そこでのやり方や価値観が当たり前で当然のものになる。宗教もその例外ではなく、とりわけ宗教が、都市を拠点とする権力や富と結びつくと、腐敗の道へ歩み始めることになります。

 次の文章は、イスラーム最大の歴史哲学者の一人とされるイブン・ハルドゥーン(1332~1406)のものです--

Dm_img_0535 「都会の人は一般にさまざまな快楽に耽(ふけ)り、奢侈(しゃし)や現世における栄達や欲望の追求に身を委ねがちである。このためかれらの心は悪に染まってしまい、善の道からはずれてしまっている。田舎や砂漠の人は都会の人と同じように現世のことに関心をもっているといっても、生活必需品に関してであって、奢侈とか快楽の対象となるものについてではない。田舎や砂漠の人の行動を規制する習慣は、その生活同様に単純であって、かれらの犯す過ちも都会の人の過ちと較べると微々たるものでしかない。

 田舎や砂漠の人は自然状態に近く、都会の人と違い、罪深くて醜い行為を繰り返すうちに芽生える悪徳に、その心が染まっていない。田舎や砂漠の人に対しては容易に罪を諭し、善行に導くことができる。都会の生活は文化の頂点であると同時に、堕落への出発点である。都市生活は悪の最後の段階であり、善から最も遠い。」(同書、pp. 259-260)

 イブン・ハルドゥーンが生まれたのは、日本では鎌倉幕府が亡びる前年ですから、時代的にはずいぶん昔の人です。しかし、私はここに描かれている都市の人々の関心事については、現代とそれほど違わないと感じます。もちろん、皆さま方は都市から来たといえども、宗教運動の中心にいる方々ですから、この描写には当てはまりません。が、都会生活の悪い所を見てみると、この描写に当てはまる人は数多くいるのではないでしょうか?

 ただし、現代は鎌倉時代やその後に続く室町時代とは違います。大きく違う点の一つは、多様な情報が簡単に入手できる点でしょう。だから、週刊誌やインターネットにどんなに低俗な情報が溢れていても、生長の家の聖典等のような、低俗でない情報を得ることも簡単にできますから、きっと皆さま方は、それを意識して毎日、「善を選ぶ」ことをされていると思います。違いますか? しかし、都市は欲望の対象となるものを数多く備え、しかもそれらを宣伝する手段に溢れています。コマーシャルや広告や看板、スマホに飛び込むネット広告、チラシ、景品販売……などです。それらすべてを退けて、正しい選択をするということは、至難の業ではないでしょうか?

Dm_img_0537  しかし、この「正しい選択をする」ということが今、いちばん求められていることだと私は思います。また、先ほど「多様な情報が簡単に入手できる」という現代社会の特徴に触れましたが、そういう環境の中で正しい選択をするためには、従来のピラミッド型組織は不十分なのですね。これまでの運動では、本部の会議で決まったことが、時間をかけて地方の運動に伝わっていく。第一線の皆様にとっては、「上からの指示待ち」の状態が多かったと思います。しかし、「上からの指示待ち」ではスピードが足りず、創造性が生かされず、内発的でないため、他人任せで面白くないのです。

Dm_img_0540  生長の家の運動は、ご存じのように、“文書伝道”の形で推進されてきました。また、地域をベースにした細分化した組織を、ピラミッド型の階層に組み立てて運動してきました。ところが、いわゆる“文書”が発行されるのは多くても1カ月に1回です。その文書にもとづいて運動を進める場が“誌友会”ですから、これも多くて1カ月に1回です。これに対して、私たちが日常的に接する新聞やテレビは、毎日更新されます。ネット上の情報は、それこそ分刻みに変っていきます。こういう情報の大部分が“欲望中心”の“迷いの情報”だと考えると、私たちの光明化運動は、もう最初から負けていると言わねばなりません。

 もっと迅速に、日時計主義に立った正しい情報を私たちが入手し、それに基づいて、もっと頻繁に私たちの行動を更新していく必要があるのです。そのためには、文書伝道と階層的組織運営を基本としている従来型組織では、対応しきれないというところに、1つ問題があると考えます。この従来型組織の弱点をカバーするために考案されたのが、プロジェクト型組織(PBS)だと言えます。

Dm_img_0541  ご存じのようにPBSの活動は、インターネットを主なコミュニケーション手段、情報源として使います。しかしインターネットは、これまた皆さんご存じのように、フェイクニュースやニセ情報が本物らしく飛び交っています。しかし、ネットの速報性や情報量の多さ、そこからの情報の入手のしやすさは、ほかの手段を大きく上回っている。ですから、私たちも運動の中でそれを積極的に使っていくのですが、それに際して大切なことを1つ申し上げたい。それは、生長の家による「生え抜き」の情報をどんどん提供すべきだということと、そうでない「接ぎ木」や「借り物」や「寄せ集め」は極力避けようということです。

 「生え抜き」の情報とは、生長の家の教えから直接出てくるもののことです。これに対して「接ぎ木」「借り物」「寄せ集め」というのは、その名のごとく、生長の家とは異なる運動や考え方であっても、外見が似ているものを運動の中に取り入れて、これを推進していくことです。具体的な例を、いくつか申し上げましょう。

Dm_img_0542  1つは、「バービー人形」です。これは何年か前、自然の恵みフェスタでの展示物に、大量のバービー人形を導入した所があった。ヴィンテージ物だから、古いものの再利用になると考えたのでしょうか? フェスタでは、地元の材料を使った手作り品や不用品を別の用途に再利用することは歓迎されます。しかし、この場合は、外見的には「古い人形の再展示」で、廃品の再利用のように見えるかもしれないが、実質的には、アメリカの大手玩具メーカーが作った比較的高価な製品を展示して、宣伝することになった。

 2つめの例は、初期のクラフト倶楽部の活動の中で、100円ショップで売られている工作キットやそれに類する材料を使った手作り品を自分で作り、写真に撮って出していた人がいました。これなんかは、「手作り品」なら何でもいいと考えた人が当初はいたことを示しています。でも、今ではクラフト倶楽部で“べからず集”みたいなものを出していますから、間違う人は少ないでしょう。また自転車部でも、海外製の高価なスポーツタイプの自転車を買わないといけないと誤解した人がいたようです。省資源、省エネ、あるいは低炭素の活動になるのか否かを、きちんと考えて判断することが必要です。

 また、3つ目の例は、食生活の面に関することです。昨年の国際教修会での発表が、『ムスビの概念の普遍性を学ぶ』(谷口監修、生長の家刊)という本に掲載されています。これを読むと分かりますが、「マクロビオティック」と呼ばれている料理は「身土不二」の思想から出発していて「自然食」と呼んでもいいかもしれない。私たちの考え方と近いと言えば近いのですが、日本で生まれた考えであるにもかかわらず、マクロビの料理では、それを日本で作るのに海外から輸入した食材に頼っていたりするし、肉食はあまり問題にされないのです。

 さらに環境運動の面では、「グリーンピース」という団体は生長の家より昔から、世界的な環境保護活動を展開しています。しかし、皆さんもご存じと思いますが、かなり先鋭的で、過激な側面をもっている。つまり、目的のためには手段を選ばない傾向があり、社会の混乱を作り出すことを意識しているようにも思われます。こういう点では、生長の家がマネをすべきでない活動と言えます。しかし、彼らの目的は私たちの目的とそれほど違わないところにあるようです。

Dm_img_0543  このように考えてくると、私たちは生長の家の教えから直接導き出される活動指針や活動形態を早く作り、皆さんに提供する必要があるのです。そのことを今年の運動方針では、2カ所で謳っています。2頁と3頁です。2頁では、「インタープリテーションの方法を取り入れた生長の家独自の環境教育」とは何であるかを、早く明確化する必要が書かれています。また、3頁の表現で重要なのは、「時代の変遷や科学上の真理との整合性を常に意識する」ということですね。生長の家は、科学を否定していないどころか、科学上の真理が生長の家の教えの正しさを証明しているということは、私はいつも講習会で申し上げていることの1つです。しかし、生長の家の講師の中には、まだ、科学や医学を否定するような言動をする人がいる。それは、誤解にもとづくものがほとんどなので、そういう点を、講師教育の中で正していく必要があります。

 これらはほとんど私と国際本部の仕事ですが、皆さんもこの方向性をしっかりと見定めて、普段から聖典等をよく読んで研鑽を続けていただきたいと考えます。私が来年、研鑽会のためにブラジルへ行かせていただくのも、そういう目的だとご理解ください。

 それでは、「社会を離れず、社会に呑まれず」の標語の下、生長の家「生え抜き」の情報の学習と拡大に向かって、来年度の運動を明るく、積極的に展開していきましょう。皆さん、よろしくお願い申し上げます。これで私の話を終ります。

 ご清聴、ありがとうございました。

谷口 雅宣 拝

 

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2019年4月 1日 (月)

新元号「令和」について思う

 来月1日から始まる新元号が「令和」と決まった。
 安倍首相は、『万葉集』からの引用だと説明するが、引用元を見ると「令月」と「和(やわら)ぐ」との間には、省略された文字が3つある。原文は万葉仮名だから文字数は異なるだろうが、政府が示した歌の書き下し文を使えば、「初春の令月にして、気淑(よ)く風和ぎ……」から取ったという。

「令月」は普通は「二月」を意味するが、「令」の字に「二」の意味があるのではなく、季節の移ろいの中で「清らかで美しい」あるいは「縁起がよい」月だとの意味を込めて使われるという。これと同様の用法には、「令嬢」「令夫人」「令室」「令息」「令日」……などがある。『学研 漢和大字典』(藤堂明保編、1978年刊)では、この用法について「相手の人の妻・兄弟を尊んでいうことばとしても用いられる」と説明している。なぜ「令」が清らかで美しく、また縁起がよいとされ、さらには「尊敬」を表すかというと、その考え方の背後には、古代の宗教への見方が横たわっているようだ。

 日本の漢字の権威である白川静氏の『字統 普及版』(平凡社、初版1994年)によると、「令」の字は「礼冠を着けて、跪(ひざまず)いて神意を聞く神職のものの形」を表し、「古く令の意と、またその字形のままで命の字にも用いた」という。つまり昔、「令」は「命」と同じ意味で使われたらしい。したがって、「大令」「天令」「明令」「休令」「先王の令」「祖考の令」と書かれた場合、「大命」「天命」「明命」……という意味だったという。また、「鈴」の字の旁(つくり)が「令」であるのは、神道の儀式にあるように、鈴は「神を降し、神を送るときの楽器である」からだという。だから、「令」とは「神意に従う」ことなのだ。

 この古義を、私は素晴らしいと思う。生長の家は神意を最大に尊重するから、この古義を積極的に支持したい気持だ。しかし、それならば、安倍首相はなぜ、この「令」の古義について記者会見で何も語らなかったのだろう。元号は、少数の知識人を集めた“閉じられた空間”で決定されたから、その経緯の詳細はよく分からない。しかし、すでに発表された情報では、元号の候補としては本件を含めて6つの案が出され、それにいろいろな人からの意見が出て、その意見を参考にして安倍首相が選んだという。知識人が、字典の意味を知らないはずがない。だから、それへの言及があったに違いない。が、首相は、国民の前ではそれをあえて口にせず、『万葉集』の表現についてだけ語った。その理由を、私は知りたい。

「令」の古義について、私はまったく異議を唱えない。しかし、それを21世紀の現代で元号に採用するという点では、一抹の不安を覚える。なぜなら、人類は中世、近世、現代を通して、政治と宗教との結びつきが、世界中で大変な混乱と不幸をもたらしてきたことを経験しているからだ。古代において、政治はシャーマンや聖職者が担ってきた。日本も例外ではない。この“神権政治”によって善政が実現したことはもちろんあるが、そうでない場合の方が数が多かった。宗教弾圧や宗教戦争も頻繁にあり、その延長が一部、現代でもまだ続いている。為政者が拳を振り上げて「これが神の御心である!」などと叫び、国民を戦争に駆り立てた時代は、そんなに昔のことではない。「政教分離」「信教の自由」「立憲主義」という近代民主主義の政治原則は、そういう悲惨で苦しい体験から学んだ人類共通の知恵である。

 その知恵から学びつつ実際の政治を行なってきた人が、「新元号は“令和”とする」と決めたのであれば、私は不安を感じない。しかし、憲法違反の法案を何本も束にして強行に成立させ、「立憲主義は古い時代の考え」などと発言した権力者が、テレビカメラの前で「令和が自分の理想である」かのような説明をするのを見ると、私は「ダブル・ミーニング(double meaning、両義性)」という言葉を思い出すのである。1つの言葉に、表と裏との相反する意味を含ませる表現法である。

「令和」には、解釈によって別の意味が容易に付加できる。それは「令に和する時代」という意味である。この場合の「令」とは、政府の命令であり、政権の意思である。『万葉集』の昔には「令」は「清らかで美しい」と見なされたかもしれないが、時代がくだるにつれて、その意味は「律令」「勅令」「県令」「軍令」「指令」「司令」「法令」「政令」「省令」……などと使われるように、世俗の権威や権力が定める規則や命令の意味に変ってきている。そして、そういう世俗権力に国民が「和する」という時代を夢見ている人は、残念ながら現代の政治家にもいるのである。日本のことは言わなくても、アメリカのトランプ大統領やロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席、フィリピンのドゥテルテ大統領は言うまでもなく、ハンガリーやトルコ、ブラジルなどの政治指導者にもその傾向は強く見られる。

 そういう時代に、あえて「令和」を新元号としたことに、私たちは注意を払わねばならないと思う。私は、安倍首相にそんな“下心”があると言っているのではない。安倍首相は、令和の時代にずっと首相であり続けるわけではない。次の首相、次の次の首相……と政治が遷移しても、「令和とは、権力者に和することだ」などと誰も考えないように、立憲主義の原則を護るとともに、宗教運動としては「“令”とは神意に従うこと」という古義を忘れずに、神の御心の表現に向かって力強く進んでいきたい。

 谷口 雅宣

 

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2018年7月 7日 (土)

今こそ「対立から調和へ」の運動を

 皆さん、本日は「万教包容の御祭」に参加くださり、有難うございます。この御祭も今年で6回目を迎え、先ほど、このオフィスの敷地においては6基目となる七重塔が除幕されました。“森の中のオフィス”の落慶から丸5年になるということです。

 

 この七重塔が何を象徴するかは、毎年、この御祭で説明してきたので、今日はそれを詳しくは申しません。しかし、「万教帰一」の真理を表しているということだけは、何回でも強調しておかねばならないでしょう。というのは、今日の7月7日が「万教包容の神示」が下された日であるからだけでなく、「すべての良き宗教の神髄は共通している」というこの教えが、今日ほど重要になっている時はないからです。

 

 皆さんもご存じのように、現在の世界では、各国が自国の利益を最優先して外交を行う傾向が顕著に出てきています。昨年の今日も、私はトランプ大統領の「アメリカ・ファースト」の政策を批判しましたが、その後、イギリスのEU離脱の動きだけでなく、中国にもフィリピンにも、ハンガリーやポーランドなどにも、よく似た動きが拡がっています。現在はそれが、米中間の“貿易戦争”にも発展してきています。地理的にアメリカと中国の間に位置する日本は、これによって最も大きな影響を被ることになるかもしれません。 

 

このような政治の動きには、実は気候変動や内戦の影響から大量の難民や移民が世界各国に流出していることが深く関係しているのです。日本は今、かつてない規模の短期間の降雨による洪水に見舞われている。一方、アメリカは東海岸にはハリケーンの襲来が、西海岸には異常乾燥と高温による山火事が拡がっています。日米などの先進国では、自然災害に遭った場合、避難することができますが、貧しい国々では、避難場所がないことも多く、そうすると難民となって外国へ逃げ出す以外の選択肢がなくなってしまいます。最近の報道によると、日本のすぐ近くに位置する韓国の済州(チェジュ)島にさえ、イエメンから500人以上の難民が押し寄せているそうです。こういう中では、どうしても“自国第一主義”や“自国民優先”の考えが国民から支持されるようになり、そこから国家間の争いが生じやすくなるのです。 

そんな時こそ、国や民族の違いを乗り越える価値が必要となります。そして、そこに宗教の使命があると言わねばなりません。私がこう申し上げるのは、「宗教は国や民族を超えた価値を示している」という前提があるからです。そうでない場合、宗教は国や民族の道具になって、大変残虐な、非人道的な行為に走ることがあることは、日本の現代史を含めた世界各地の紛争や戦争が示している通りです。 

私はこのことを念頭に置いて、『観世音菩薩讃歌』の中に次のように書きました-- 

 

「されば汝らよ、

 善を行わんと欲すれば、

 神の御心を知らざるべからず。

 自己の立場に固執し

 神を見失うことなかれ。

 自己の属する社会の利益、

 必ずしも善に非ず。

 他者の属する社会の利益、

 必ずしも善に非ず。」

 

 私たち信仰者は、「神の御心を第一にする」ということが最も大切です。その「神の御心」について私たちが知っているのは、「人間は皆、神の子であって尊い存在だ」ということです。また、神の御心は「他を排除しない」ということも明確です。なぜなら、「神は全ての総て」であり、神にとって「他のもの」は存在しないからです。このことを強調するために、私たちは現在、「ムスビ」の働きを推進する運動をしているところであります。それは「神・自然・人間は本来一体」という言葉の中にも表れています。 

 ご存じの通り、この7月は28日から29日にかけて、世界平和のための国際教修会がここ“森の中のオフィス”で開催されます。そこでの研修のテーマは「ムスビの働きの普遍性を学ぶ」というものです。このテーマを選んだ理由には、「ムスビ」という言葉が日本語なので、日本語を理解しない人にとっては何か難しい概念のように誤解されるかもしれず、その場合、私たちの運動は日本人向けの、日本人だけの運動であるかのような印象が生まれるのを防ぎたいという意図があります。 

 「ムスビ」の働きとは、もっとユニバーサルで、何も難しいことはなく、自然界に溢れているばかりでなく、人間の心の中でも普通に起こる出来事であり、さらにどの国の人々の食生活にも表現されていることを、私たちはそこで学ぶ予定です。この教修会には、誰でも出席できるわけではないので、今日は、教修会での研修の内容から1つだけ、分かりやすいものを紹介させていただきます。 

 それは、ムスビの働きを数字で表せば「3」になり、図形で表せば「三角形」になる、ということです。これだけでは、私が何を言っているのか分からないと思うので、さらに説明します。まず「結婚生活」を考えてみてください。これは普通、1組の男女が社会的に結ばれて、共同生活をすることを意味します。そうすると、1人と1人が寄り合って、それ以前にはなかった「結婚生活」という“新しい価値”が生まれることになります。その価値のことを「1」と勘定すれば、1組の男女は2つの価値をもちますから、全部で「3」の価値となる、と言えます。これがムスビの働きです。 

 同じような考え方を採用すれば、植物が昆虫によって受粉し、種や果実が生まれることも「3」と数えられます。また、白いご飯と梅干を結び合わせてお握りを作れば、そのお握りの価値も「3」と数えることができます。同様の考えを芸術や文化の領域に向けてみれば、さらに多くの「3」が見えてきます。「対話」や「対談」という文学の形式があります。2人の人間が話をすることで、それぞれ1人だけでは生まれなかった“新しい価値”がそこに生じる場合、それを「3」と数えることができます。哲学の分野では「弁証法」という考え方があるのを、思い出してください。また、合唱には「デュエット」という形式があります。私たちが惹きつけられるスポーツの試合や競技にも、同じように1人や1チームだけでは出すことのできない価値が、2人で競ったり、2チームで対戦することで生まれてきます。このように、「ムスビの働き」の例を挙げれば、いくらでも出てくるでしょう。 

 では、そのムスビの働きを図形で表す三角形になるとは、どういうことでしょうか? 皆さんは三角形を、特に二等辺三角形を思い浮かべてみてください。また、立体を思い浮かべるならば、円錐とか方錐(四角錐)を思い浮かべてください。どれも横からは三角形に見えます。 

 そういう意味では、「山」は基本的に三角形をしています。富士山の姿を思い出してください。もちろん八ヶ岳のように、山の上部が割れたように見える山もありますが、しかしそれは八つの頂をもった連山だということを、皆さんはご存じです。そういう山を見て、私たち人間は「崇高さ」を感じないでしょうか? その頂上へ登ることは、日常生活から離れて、一段と高い経験と境地へ、私たちを導いてくれると感じないでしょうか? 私はそれは、基本的で自然な人間の感情であると考えます。人間と自然とが互いに近づいていって、その結果、一段と高い境地に達するのは「ムスビ」の働きそのものです。 

 そして、このことは宗教ととても深い関係にあります。宗教施設は勿論都会にもありますが、わざわざ山の上に建設する習慣は、東洋にも西洋にもあります。ピラミッドは偉大な宗教施設ですが、これは四角錐(方錐形)の形です。同じ四角錐は、教会建築にも仏教建築にも、特に屋根の部分などに多用されています。それを見て、私たち人間は信仰心を深めるのです。だいたい皆さん、今、私たちの目の前にある七重塔には、7つの四角錐があるではありませんか? 屋根を見てください。七重塔のモデルとなった仏教建築の多宝塔の屋根も、基本的には四角錐であることを思い出してください。 

 このように考えていくと、私たち人類には基本的に共通したものの見方、感じ方があるという事実を認めざるを得ないのであります。そして、そのような共通した見方や感じ方を前提として、宗教や信仰が成り立っていることに気づきます。もちろん、違うところもありますが、それは基本が違うのではなく、同一の基本の中のバリエーションが違うだけなのであります。そのことは、中国の寺院と日本の寺院との屋根の傾きとか、反り方の具合が違うことに表れているように、文化や美意識の微妙な違いです。そのような“違い”の側に注目して、共通して流れる基本設計を無視することは、愚かだと言わねばなりません。しかし、現代は残念ながら、自と他とを峻別して、差別する動きが、世界各地で顕著に出てきているのです。これは対立や戦争の原因となるものです。 

 私たちは国際平和信仰運動を展開しているのですから、このような対立や差別の動きには断乎として反対し、人類共通の基本的な精神構造や感じ方を正しく、より多く知り、それを人々に伝えることによって、万教帰一、万教包容のこの教えをさらに多くの人々に伝えていき、「対立から調和へ」の動きを力強く推進していきたいと念願するしだいです。 

 それでは、これをもって本日の「万教包容の御祭」に際しての所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。 

 谷口 雅宣


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2018年6月17日 (日)

“より高い段階”に運動を進めよう

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の谷口家奥津城で「谷口雅春大聖師三十三年祭」が執り行われ、団体参拝練成会に参加中の生長の家信徒を初め、長崎北部、同南部教区の幹部・信徒など746名が参列して、聖経読誦の中、玉串拝礼や焼香を行なって、生長の家創始者の遺徳を偲び、運動推進の誓いを新たにした。 
 
 私は、御祭の最後に概略、以下のような挨拶の言葉を述べた-- 
 
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 皆さん、本日は谷口雅春大聖師三十三年祭にお集まりくださり、誠にありがとうございます。 
 
 谷口雅春先生は、今から33年前のこの日に霊界に旅立たれたのでありますが、この「33年」という期間は、1世紀の三分の一ということですから、人間の一生を考えてみると「長い」期間であるとの印象を持ちます。「印象」だけではなく、実際、生まれたばかりの人間が33歳になるまでの間には、私的にも公的にも大変、多くの出来事が起こります。また、この同じ期間は、33歳だった若者が66歳になる期間ですから、「一時代を画する」という表現が適切であるかもしれません。 
 
 私ごとで恐縮ですが、こういう言い方をするのは、私が33歳のときに雅春先生が昇天され、その前年に生まれた娘が、実は今33歳であり、私は今66歳であるからです。これは私的な変化についてのほんの一例ですが、公的な変化ーー例えば、国際情勢の変化を考えてみれば、30年で世界は様変わりします。 
 
 雅春先生が亡くなられた1985年は、世界はまだ“冷戦”の最中であり、その2年前の1983年には「大韓航空機撃墜事件」というのがあり、さらに4年後の1987年には同じ大韓航空機の「爆破事件」というのがありました。「撃墜事件」は、大韓航空機が航路を誤って当時のソ連の領空に侵入したことにより、ソ連の戦闘機によって撃墜されたのでした。この時の死亡者は269人でした。また「爆破事件」は、日本人名で偽造パスポートを使用した北朝鮮の男女2人の工作員によるテロ事件でした。この時も、旅客機が墜落して115人が死亡しました。 
 
 いずれにせよ、イデオロギーの違いによって、人が一度に何百人も死んでも構わないという判断が通用した異常な時代でした。それが皆さん、今の朝鮮半島や、ロシアと西側諸国の関係を見れば、30年での世界の変化は、大きなものであることがお分かりになるでしょう。 
 
 ところで皆さん、今日は雅春先生の三十三年祭なので、「3」という数に焦点を合わせてお話ししています。3が2つ並んだ「33」は、もちろん観世音菩薩が私たちを救うために姿を変えると言われる「三十三身」という言葉に含まれています。しかし、「三十三身に身を変ずる」という時の「33」の数は、文字通りの「33」--つまり、32より1つ多く34より1つ少ないという意味の「33」でないことは、皆さんもご存じでしょう。これは、「あらゆる姿」「無限の姿」に表れるという意味ですね。では、なぜ「33」という数は「あらゆる」とか「無限」の意味をもっているのでしょうか? 改めてそう問われてみると、説明するのは難しくありませんか? 
 
 これは「3」という数に「数多くの」とか「無限」という意味合いが含まれているからです。「3」にはこのほか、「新しい」とか「進む」という意味合いもあるようです。この辺の詳しいことは、今度、7月に行われる生長の家国際教修会のときにお話しする予定ですが、簡単に言えば、「3」には「より高い段階に進む」という暗黙の意味が含まれていると言えます。 
 
 谷口雅春先生は、ご生前に「13」という数について説かれたことがあります。それは、雅春先生の人生に大きな変化が起きるのは、「13」という数のついた日だったという事実を回想されてのことです。 
 
 昭和4年12月13日、生長の家の原稿を書き始められた日 
 昭和50年1月13日、東京から長崎へ移住 
 
「13」は、キリスト教の文化圏では、忌避される数でありますが、これはイエスの弟子の13番目がイスカリオテのユダであったことによるのでしょう。しかし、最後の晩餐では、イエスはユダに「あなたのすべきことをしなさい」と言って、晩餐の場から追い出しています。神話学者のジョーゼフ・キャンベル氏は、「13」という数は忌避すべき数ではなく、「変身と再生」の数だと言っています。十二使徒とイエスを加えて13人が最後の晩餐をし、その後、イエスは死んで、また生き返ることになったという解釈です。「12という限界範囲から脱出して超越界に入ることを示す」というのです。黄道には十二宮があります。「黄道」とは、地球から見て、太陽が地球を中心に運行するように見える天球上の大きな円のことです。この大円に沿って太陽だけでなく、惑星や月が運行するので、これを帯状に捉えて黄道帯(zodiac)と呼び、それを十二分したものが「十二宮」です。古来、星占いなどに使われる概念です。 
 
 生長の家は、別に星占いを信じているわけではありませんが、「13」という数が、昔から特別に見られてきたことの例を示すためにお話ししました。1年は12カ月であるということも、「13」が「変身と再生」を意味することと関係があるでしょう。 
 
 さて、「3」には「新しい」とか「より高い段階に」という意味があるという話をしてきましたが、生長の家の家が現在進めている運動の中にも「3」がありますね。それは何でしょうか? 一つは組織運動におけるいわゆる「三者」です。生長の家白鳩会、相愛会、青年会の3つの組織です。もう1つの「3」は、私たちが今進めている“自然と共に伸びる運動”の中での3つの活動と、それを進める3つのプロジェクト型組織のことです: 
 
①省資源、低炭素の生活法 → SNI自転車部 
②自然重視、低炭素の表現活動 → SNIクラフト倶楽部 
③ノーミート、低炭素の食生活 → SNIオーガニック菜園部 
 
 それらの活動の内容については、皆さんはすでに団体参拝練成会などで詳しく学ばれているところだと思います。従来からある三者組織を基礎としながら、それぞれの興味ある分野で、また能力を発揮するために、プロジェクト型組織の活動に参加し、観世音菩薩が三十三身に身を変じて人々を救ったように、「人間・神の子」の真理をいろいろの方面で生活に実践しながら、多くの人々に伝えていただくことをお願い申し上げます。 
 ところで、「3」に関係する最近の事象を最後に挙げれば、生長の家の国際本部が東京・原宿から“森の中”へ移転したのは、2013年でした。そして、今日はどういう日でしょうか? 平成30年の6月17日です。ここに「3」が1つあります。もう1つは隠れています。「6+17」を計算してください。答えは「23」です。 
 
 それでは、これをもって谷口雅春大聖師三十三年祭の所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2018年1月 1日 (月)

新年のご挨拶

 皆さん、明けましておめでとうございます。 

 この新しい年、2018年を、皆さんと共に健康でつつがなく迎えられることを神さまに心から感謝申し上げます。有り難うございます。 

 

昨年、私たちは「“新しい文明”の基礎を作るための3カ年計画」をスタートさせました。“新しい文明”とは、自然の繁栄が人間の繁栄と幸福であるような生き方であり、そんな生き方を支え、拡大する力となる信仰や哲学、科学技術、経済、政治の全体をいいます。私たちは、それを築く土台として、まず私たちの価値観とライフスタイルを変えなければならないと考え、昨年度から次の“3つの実践”を本格化させています: 

ノーミート、低炭素の食生活 

省資源、低炭素の生活法 

自然重視、低炭素の表現活動 

です。 

また、本年からは、この3つのライフスタイルをより具体的、組織的に展開していくために、次の3つの活動を推進することを決定しました: 

SNIオーガニック菜園部  

SNI自転車部  

SNIクラフト倶楽部  

です。 

これらの3つの名前でお分かりのように、私たちはこれから日常の生活の中で、有機野菜を作り、自転車に乗り、日用品を自分で製作するようなライフスタイルに転換していくことを目指しているのです。 

皆さん、これは“時代錯誤”の生き方でしょうか? 

いいえ、決してそうではありません。これは、自然と人間との一体感を取りもどすための古いけれども、新しいライフスタイルです。 

18世紀の産業革命に始まる“古い文明”では、科学技術は一般に「自然からどれだけ奪えるか」を基準にして評価されてきました。山を削り、海底に穴を開けて、一度にどれだけの石炭を採掘できるか、鉱石を掘り出せるか、石油を搾り出せるか……と、より多くの資源やエネルギーを人間のために、そして人間のためだけに取り出すことができる技術が、“優秀な技術”“先進的な技術”として高く評価されてきました。その結果、物質原子を破壊して莫大なエネルギーを得る原子力発電が誕生しました。しかし、この人間中心の旧文明は、副産物としてミサイルや戦闘機や核兵器を生み出し、世界の平和を脅かしています。 

農林・水産業でも、同じ“人間中心”の基準で生物資源が利用されたために、獣や鳥は絶滅に追いやられ、森は切り倒されて家畜が地上に溢れ、魚介は乱獲され、昆虫や植物の多くが絶滅しています。世界では、人間の好みに合った種類の生物だけが増え、それ以外は年々姿を消し、生物多様性は危機に瀕しています。これらの総合的な結果として、海水の酸化、地球温暖化、気候変動が起こっていることは、皆さんもご承知の通りです。 

私たちは長きにわたり、あまりにも大規模に、無秩序に地球の自然から奪い続けてきたために、何万年、何十万年にもわたって自然界の安定を保ってきた物質的、生物的な循環とバランスを破壊しつつあります。このことは、おびただしい数の科学的研究で証明されています。にもかかわらず、世界各国の指導者たちは、従来通りの経済発展を至上目的とする“旧文明”の考え方、生き方から抜け出す方策を見出していません。 

私たちは、この人類的な悪循環の原因の1つは、人間が自然を自分と対立して捉え、自然との一体感を失っているからだと考えます。すでに数年前から、人類の半数以上が、自然豊かな田舎を捨てて都市に棲むようになっている、と国連の統計は伝えています。私たちは、この動きに「ノー」と言うために、大都会・東京から豊かな自然を抱く八ヶ岳南麓の“森の中”に移転しました。そして、実際に日常生活の中で肉食をやめ、有機野菜を作り、自転車に乗り、日用品を自作するライフスタイルに切り換えつつあります。 

アメリカの社会学者であり、自ら音楽を奏でクラフトを製作するリチャード・セネット博士は、第二次大戦の末期、倫理感に溢れる優秀な科学者であった人々が、なぜ原子爆弾の製造に関わっていったかという問題に取り組み、『クラフツマン』という本を書きました。「クラフツマン」とは、「もの作りをする人」という意味です。博士の結論は、分業が極度に進み、自分の仕事の全体が見渡せなくなって久しい現代社会の構造と、その中で自分の仕事の倫理性を考えずに競争に明け暮れる私たちの心の貧しさに原因がある、ということです。 

私たちは、大きな機械の中の一枚の“歯車”として、自分の信念や倫理感とは違う仕事を営々と行うべきなのか、それとも、一人の独立した信仰者として、たとえ時間がかかっても、仕事の全体を把握しつつ、信念と倫理感に従って、社会や次世代の幸福のために生きるかを今、選択しなければなりません。 

自ら有機野菜を作り、木や石の肌触りを感じてクラフトを製作し、自分の肉体をフルに動かして、風や日光を感じながら自転車のペダルを漕ぐことで、私たちは「自然と人間は神において一体である」ことを実感し、「すべての人間は神の子である」という信仰を深め、拡大することができます。そして、この生き方によって、気候変動による世界の混乱を最小限に留めることができるでしょう。 

生活に生きる信仰を通して、世界の平和に共に喜びをもって貢献してまいりましょう。本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。 

谷口 雅宣

本メッセージは、動画でも見ることができます。

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2017年11月22日 (水)

“個人の救い”は自然との調和の中に

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山出龍宮顕齋殿に、地元の長崎県などから約280名を集めて「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が執り行われた。私は同式典にて祝詞奏上を行ったほか、谷口雅春先生のお誕生日に因んで概略、以下のような挨拶を行った。 
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 皆さん本日は、谷口雅春大聖師御生誕日記念式典のために、この生長の家総本山・出龍宮顕齋殿にお集まりくださり、有難うございます。また、この顕齋殿には来られていませんが、インターネットを通じて式典に参加して下さっている日本全国の、さらには海外在住の生長の家信徒の方々にも心から感謝申し上げます。ありがとうございます。 
 
 さて、谷口雅春先生は、明治26年のこの日、西暦では1893年のお生まれですから、現在肉体を表しておられたならば、今日で満124歳になられることになります。亡くなられたのが、今から32年前ですから、ずいぶん歳月が過ぎました。今年の雅春大聖師の三十二年祭では、私は雅春先生がご生前、物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない、と説き続けられたことをお話ししました。それは人にそう説かれたというだけでなく、ご自身の生活においても、贅沢や無駄遣いを決してされない質素なライフスタイルを貫徹されたということであります。 
 
 雅春先生は82歳のときに、この総本山の地へ移住され、山と森だけだった広大な敷地に、顕齋殿を初めとした数々の建物、また金龍湖、七つの燈台などの宗教的な建造物を構想され、総本山建設の陣頭指揮に立たれました。ですから、この地は、雅春先生の自然に対するお考え--難しく言えば「自然観」がよく表現されているのであります。 
 
 どうですか皆さん、この地では自然と人間とがケンカしているでしょうか。それとも仲良く調和しているでしょうか? 今、長崎の地は紅葉の季節でありますが、皆さんは今日、都会を離れてここへ来られ、秋の自然界の美しさを存分に堪能されているのではないでしょうか? 「神・自然・人間の大調和」という標語、あるいは、「自然と人間は神において本来一体である」という表現は、今の時代に作られました。しかし、これらの表現は、雅春先生の自然観、雅春先生の自然に対するお考えを反映していると信じて疑わないのであります。 
 
Kamishizen2  こちらへ寄越していただく前の11月19日には、私が住んでいる山梨県北杜市の“森の中のオフィス”では、生長の家代表者会議という重要な会議がありました。その会議は、全世界の生長の家の幹部が一堂に集まって、来年度の運動方針について理解を深める場でした。そこでの質疑応答の時間に、ある教区の幹部の人が、「今の生長の家の運動では、“個人の救い”が疎んじられているのではないか?」との疑問が提出されました。これはきっと、私たちの現在進めている運動の中で、「神・自然・人間の大調和」という言葉が頻繁に出てくるからだと思います。その人は、「神・自然・人間の大調和」はもちろん大切だが、宗教運動では「個人の救い」も大切で、それを言わないのはオカシイという意見を表明されたのです。 
 
 しかし、皆さん、よく考えていただきたいのですが、「神・自然・人間の大調和」という標語と、“個人の救い”とは別々のものなのでしょうか? 私は決してそう思いません。生長の家は今も昔も、“個人の救い”を軽視したり、無視してはいません。「神・自然・人間の大調和」を実現しようという現在の運動は、“個人の救い”を無視しているのではなく、21世紀の現代では、本当の意味での“個人の救い”を成就するためには、「自然と人間は神に於いて一体である」という真理を知ることが必要だと考えるのであります。 
 
 だいたい「個人」と「自然」とを分離して考え、一方が繁栄すれば、他方はその犠牲になるというような視点を、生長の家はもたないのであります。これは、自然と人間を対立させて考える“旧い文明”の基礎にある考え方で、今日の科学的知見にも反します。今日の生態学、遺伝学、分子生物学、認知心理学などが教えてくれるのは、人間は周囲の生態系の一部であり、人間の肉体の構造は、自然界を構成する他の生物と基本的に変わらず、人間の心の幸福は自然界と切り離して考えられないということです。 
 
 そのことは、東日本大震災とそれに伴う原発事故で、福島県を含む東北地方の多くの人々が体験されたことではないでしょうか? 「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川……」という唄が、何を教えてくれるかを思い出してください。それは、私たちの心の故郷は、自然界との交わりの中にあるということです。にもかかわらず、私たちは経済発展を目指して、山を崩し、森林を破壊し、川を埋め立てて、高速道路やショッピングセンターを造ることで、自然を自分から遠ざけてきました。こうしてGNPやGDPの数値は上がりましたが、自殺者は減らず、先端的技術を使った新しい詐欺が次々と生まれ、子供たちの間にはアレルギーが蔓延しています。 
 
Kamishizen3  生長の家は、決して“個人の救い”をやめたのではありません。雅春先生の時代からずっと継続的に、各地の練成会や練成道場や誌友会の場において、“個人の救い”のためにも真剣に取り組んでいます。しかし、今日の運動では、“個人”を自然から切り離して考えるのではなく、「自然と人間との関係において捉える」という、より大きな視点をもって取り組んでいるという点が、違うといえば違うのです。また、「日本」という地理的に限定された地域の人間のことだけを考えるのではなく、「地球」という大きな環境の中で人間社会全体が自然と共存・共栄する方法を、信仰のレベルから考え、具体的に提案しようとしているのであります。 
 
 私は最近、人間が自然の一部であり、人間の幸福は自然を壊すのではなく、その懐に入って仲良くすることで体験できるということをよく感じるのであります。 
 
 NHKの番組でマツタケを育てている長野県・伊那地方の人のことを伝えていました。この人は毎年、トラック何台分ものマツタケを収穫するというのです。マツタケはアカマツと共生するキノコですが、アカマツがあれば必ずマツタケが出るというような簡単なものではないことは、皆さんはご存じでしょう。日本の森にはアカマツ林はいくらでもありますが、マツタケが採れるのは、その中のごく一部です。この番組によると、日本では昔はマツタケがよく採れたのに、私たちの生活上のある変化がきっかけになって、採れなくなっていくのです。その変化とは、何でしょうか? それは、化石燃料の利用です。もっと具体的には、プロパンガスを利用する生活が都会だけでなく、田舎にも普及してくると、人々は山に入って燃料用の木ーー折れた枝や灌木など--を採らなくなってしまった。つまり、日本昔話にあるように、「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に……」というライフスタイルがなくなってしまい、山や森が放置されていくのです。 
 
 マツタケは、落ち葉や折れた枝がたくさんある土地には生えないそうです。湖や沼に栄養分が過度に流れ込んだ状態を「富栄養化」と言いますが、そんなところはプランクトンが増殖しすぎて魚が棲めなくなります。それと同じように、人々が山に入って下草を取ったり柴刈りをしなくなると、それは言わば“富栄養化”された森になって、そこではマツタケは発生しないそうです。だから、テレビで紹介されたマツタケ名人は、定期的にアカマツの森に入って、せっせと下草刈りや枯れ枝、枯葉の除去をして、土地を“貧栄養化”する作業をしているそうです。 
 
 この話を聞いて、私は自然界の絶妙なバランスの素晴らしさに感動しました。人間が自然に関与することによって、自然は必ずしも破壊されないどころが、生物多様性が拡大し、人間も自然も共に栄えるウィンウィンの状態が実現するーーこのことは、田圃のある里山の自然についても言われていることですから、決して例外的に起こることではないのです。ただ、問題なのは、私たち人間が欲望を掻き立てて、人間が好む生物種だけを数多く生産して金儲けを企むと、生物多様性は破壊され、自然と人間のウィンウィンの関係もなくなってしまうのです。 
 
Owlapple2  もう1つ、同じような人間と自然との仲良い関係を教えてくれる例がありました。それはついこの間、11月18日付の『朝日新聞』夕刊で取り上げられていた「リンゴとフクロウ」の話です。リンゴの産地である青森県の人は、すでにご存じのことでしょう。しかし、そうでない人は、いったいリンゴとフウロウの間にどんな関係があるか想像できるでしょうか? 私はできませんでした。フクロウは猛禽類で肉食ですから、リンゴの実を食べるのではないし、かと言って、リンゴに発生する虫は、フウロウが食べるには小さすぎます。記事を読みますーー 
 
「フクロウに期待されているのはネズミ退治だ。
 リンゴの木は苗木から採算が取れるまでに7、8年かかるとされるが、ネズミは冬場にエサが不足すると、リンゴの木をかじり出す。冬の間は1.5メートルもの積雪があるため、春まで被害がわからず、枯れてしまうケースもある。(中略)
 かつてリンゴ農園でよく見かけられたフクロウにとって、ネズミは子育てに欠かせないものだった。普段は森や林の木の上で生活しているフクロウは、3月ごろにリンゴの木の幹に空いた洞の中で産卵。ヒナが巣立つまでの約2カ月、農園にいるネズミをエサに子育てをしていた。 
 ところが、リンゴ農園では1970年代以降、生産効率向上や省力化のため、小ぶりな木への植え替えが進んだ。その結果、洞のある古い大きな木が減少し、フクロウは姿を消した。」 
 
 ここにあるように、自然と人間はもともと対立しているのではないのですね。ある土地に適切な量のリンゴを作るので満足していれば、リンゴを太くなるまで大切に育て、その木に洞ができてフクロウが棲みつき、冬場にネズミが木をかじるのを防いでくれる。しかし、人間の欲望の度が過ぎてしまうと、リンゴの木の苗を不自然な形に育て、木を太らせず、したがってフクロウは巣を作らないし、やって来ない。すると人間が自分の力でネズミと戦うことになり、殺鼠剤を撒く。それは当然、人間の体にも害が及ぶ。こうして自然と人間との良好な関係が崩れてしまうことが分かります。 
 
 先ほど、現代人のアレルギーの問題に触れましたが、これも人間が自然界の生物を過度に嫌って、抗菌剤とか、殺虫剤とかを多用してきたために、本来もっていた抵抗力を失ったことが、大きな原因だと言われています。言い換えれば、親や祖父母の時代には存在した自然と人間との体内での調和が失われたため、ソバが食べられない、ダイズが食べられない、小麦製品が食べられない、ミルクが飲めない、チーズが食べられない……そういう子供たちが増えている。これは“個人の救い”の問題ですか、それとも「神・自然・人間の大調和」の問題でしょうか? もちろん、その答えは「両方の問題」なのです。これら2つは、別々の問題ではないのです。 
 
 11月20日付の『読売新聞』には、こういう記事が載っていますーー 
 
「日本小児アレルギー学会は19日、アレルギー専門医療機関への全国調査で、食物アレルギーの検査や少しずつ食べて体に慣れさせる経口免疫療法に関連して、少なくとも7医療機関で9人が、人工呼吸器が必要になるなどの重いアレルギー症状を起こしたことが分かった、と発表した。」 
 
 この記事にあるように、現在、子供の食物アレルギーについては、アレルギー源を避けるのではなく、少しずつ食べさせて体に慣れさせるという方法が有望な治療法として採用されているのです。薬で治すのではなく、アレルギー源を与えることで、アレルギーを治すのです。人間の体には、いろいろの重要な食物に対して、アレルギー反応を起こさせないような仕組みが本来備わっているのですが、何らかの理由でその仕組みが壊れてしまった。私はこれは、自然を敵視する過度な衛生管理の結果だと思います。その証拠に、アレルギー源を与え続けるとアレルギー反応がなくなるという逆説的な治療が有効だからです。 
 
 同じ記事に、こうありますーー 
 
「有効な治療薬もない中で、原因となる卵、牛乳などを少しずつ食べて体を慣れさせる経口免疫療法は大きな福音となっている。食物の種類で効果は違うが、3~8割の患者で症状が出なくなるという報告もある」。
 
 このような例を考えてみると、私たちの現在の生活における“悩み”の中には、人間と自然との良好な関係が壊れてしまったことが原因になっていることが結構あることがわかります。それらは、“個人の悩み”であることは勿論ですが、それと同時に社会の問題であり、自然と人間の関係の問題であり、さらには自然と人間の関係をどうとらえるかという哲学や信仰の問題でもあるわけです。 
 
 そういう広い視野で現代の様々な問題をとらえて、「神・自然・人間の大調和」を訴えているのが生長の家の運動です。ですから、自分の悩みの根源について深く理解せずに、狭い周辺のことしか考えない人にとっては、生長の家の運動は“個人の悩み”を軽視していると見えるかもしれません。しかし、思い出してください。生長の家の教えでは“個人”などという肉体的に孤立した人間など、ニセモノだと説いているのです。「人間は神の子である」という教えは、バラバラな存在としての「個」なるものは、あくまでも仮の姿であって、実相ではないと否定しています。なぜなら、神はすべてのすべてだからです。その御徳をすべて譲り受けている神の子同士は、バラバラの“個”であるはずがないのです。 
 
 皆さんはぜひ、この教えの一部分だけを見て、「これが生長の家だ」と限定してしまわないようお願い致します。そして、谷口雅春先生は、この自然豊かな長崎の地で晩年を過ごされながら、公私両面から自然と調和した生き方を実践されたことを忘れずに、「神・自然・人間の大調和」実現に向かって、喜びをもって進んでいこうではありませんか。雅春先生の御生誕日に当たって、所感を述べさせていただきました。 
 
 ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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