「万教包容」から「万物包容」へ
今日は午前11時から、山梨県北杜市にある生長の家国際本部--“森の中のオフィス”の万教包容の広場において「万教包容の御祭」が挙行された。新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、大人数が参加する方式は採用せず、オフィス常勤の参議など少数が参加し、御祭の映像と音声がインターネットを介して同時中継された。私は、御祭の最後に概略、以下のような話をしたーー
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本日は「万教包容の御祭」にご参列下さり、ありがとうございます。
今日の御祭はちょうど8年前、生長の家の国際本部が東京から八ヶ岳南麓に移転した際に、今日、7月7日――つまり「万教包容の神示」が下された日に因んで始められたものです。私が今立っているこの場所も「万教包容の広場」という名前がつけられました。これによって、生長の家の信仰は、世界のすべての宗教を包容する広大で、懐の深い信仰であることが改めて明確にされました。
さて、私たちがこちらに来させていただいてから、今年は8年目になります。ですから、この御祭も「今回で8回目になる」と申し上げたいところですが、昨年のこの御祭は行われませんでした。その理由は、新型コロナウイルスの感染拡大によります。また、もう一つの要素として、昨年はこの時期に梅雨前線が約1ヵ月にわたって日本列島に停滞して、主として九州地方ですが、岐阜県や長野県などを含めて7日本各地で大きな水害が発生したからでした。後に、この時の豪雨は「令和2年7月豪雨」と命名されました。犠牲者は熊本、福岡、大分の3県だけで死者73人、住宅浸水被害は1万棟以上に及びました。
ところで私は、昨年の今ごろはすでに「急設スタジオ」による動画配信を始めていました。そして7月7日には自宅からオフィスまで歩き、この「万教包容の広場」で、ちょうど7基そろった七重塔を背景に、三角形とムスビの働きなどについて話しました。11回目の配信です。その動画の最初には、「令和2年7月豪雨」の被害について次のように言及していました--
「梅雨前線の影響で、7月6日から九州を中心に降り続いている豪雨の被害によって亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、被災された多くの方々を衷心からお見舞い申し上げます。」
そして今日は、あれからちょうど1年後です。今年も梅雨前線の影響で、静岡県、神奈川県、千葉県などで水害が発生しています。今年はさらに問題なのは、新型コロナウイルスのパンデミックが終息していない中で、日本政府がオリンピックとパラリンピックを強行しようとしていることです。1年前には、気候変動と感染症拡大との間には関係があると一般には思われていなかったですが、今は違います。この2つの世界的問題は、いずれも人間が自然破壊を続けていることに起因することが、科学者はもちろん、一般の人々の間にも理解されるようになっています。その中での五輪開催の強行には、私たちももっと大きな声を上げて反対せざるを得ないと考えて、私は数日前、Facebookを通じて、心ある信徒の皆さんに「反対署名」をお願いしたところです。
さて、このような状況の中で、今日の御祭をすることの意義を私は考えました。昭和7年(1932)の今日、ちょうど89年前に谷口雅春大聖師に下された「万教包容の神示」には、何が説かれているかを改めて振り返りました。この神示は、1929年10月のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発する世界大恐慌の影響を日本が受けて、後に「昭和恐慌」と呼ばれる経済的危機を経験した直後に当たり、1931年には中国大陸に侵出した関東軍によって満州事変が引き起こされただけでなく、これをきっかけにして日本軍の中国侵攻が拡大し、翌(1932)年には「上海事変」まで起こった。その停戦協定の調印が昭和7年の5月5日です。軍隊の独走が始まっていて、停戦協定調印の2週間後には、当時の犬養首相が殺される5・15事件も起こっています。日本も世界も混乱状態にあった時代と言えます。そのことを念頭に置いて、神示の次の文章を読んでください――
「キリスト教では聖地エルサレムが世界の中心であると言い、大本教では丹波の綾部が世界の中心であると言い、天理教では大和の丹波市(たんばいち)が世界の中心であると言い、天行居(てんこうきょ)では周防の岩城山が世界の中心であると言う。世界の中心争いも久しいものである。併しわれは言う、それらは悉く皆世界の中心であると。一定の場所が世界の中心だと思っているものは憐れなるかな。生命の実相の教えが最も鮮やかに顕れたところが形の世界の中心であるのである。そこは最も世を照らす光が多いからである。基督教でもイエスの教えがエルサレムに最もよく輝いていた時代はエルサレムが世界の中心であったのである。天理教でも教えの光が最もよく輝いていた時代は大和の丹波市が世界の中心であったし、大本教でも教えの光が最もよく輝いていた時代は丹波の綾部が中心であったのである。わが行きてとどまるところは悉く世界の中心であるのである。誰にてもあれ生命の実相を此世に最も多く輝かせた処に吾は行きてとどまり其処が世界の中心となるのである。」(『“新しい文明”を築こう』上巻、pp. 222-223)
ここでは、宗教の隆盛と真理との関係について、3つのポイントが示されています――
1.形の上での“世界の中心”は移り変わる。
2.移り変わる原因は、地上のある場所で真理が鮮やかに説かれているかどうかによる。
3.その移り変わる範囲には国境はなく、真理は国家や民族を超えている。
この神示の中の考え方は、当時の日本の状況から考えると画期的だと思います。神示に例示されている宗教は、キリスト教のような世界宗教もあれば、天行居のような、普通の人があまり耳にしないような宗教もあります。それらすべてについて「悉く皆世界の中心である」と宣言しているところが注目されます。また、「一定の場所が世界の中心だと思っているものは憐れなるかな」とありますから、この神示が説く「世界の中心」という言葉には地理的な意味はないということでしょう。神示が下された当時の日本では、「日本は神国であるとか」「日本は東洋の中心、世界の中心になるべし」という考え方に人気がありました。満州事変以後の軍部の中国侵攻は、大方のマスメディアも国民も支持していました。しかしこの神示では、何をもって「世界の中心」であるか否かを判断するかといえば、神示は「最も世を照らす光が多い」ところが世界の中心となる、と説いています。つまり、宗教的真理が輝くところが“世界の中心”であり、それは国家や民族によらないということです。ユニバーサルな価値のあるところが“世界の中心”だと説いているのです。
人間はとかく特定の地理的位置に価値をおいて、そこを“中心地”とか“聖地”などと呼びますが、生長の家ではそういう考え方をとらないということが分かります。私はかつて「生長の家には、地理的な意味での“聖地”はない」という話をして、それが本にも載っています。(『次世代への決断』、pp. 171-175)それは、本当の意味で「聖なるもの」とは、実相世界だと考えるからです。それに対し、特定の地理的位置を“聖地”だと考えると、その地に執着し、そこへ行きたい、そこにとどまりたい、自分のものにしたい……などという欲望が生れ、奪い合いが起こりやすいからです。エルサレムという都市をめぐる中東の国際紛争、宗教対立のことを考えると、そのことがよく分かります。
このことは、国際政治や国際関係を考えるときに大変大きな示唆を与えてくれます。アメリカ合衆国は一時、「MAGA」(Make America Great Again)というスローガンを掲げた人を大統領に選んで混乱しました。それによって世界も混乱しました。この混乱はまだ残っているようですが、大分落ち着いてきたように感じます。私は、「自国が偉大な国でなければならない」と考えることは間違いではない、と思います。しかし、その「偉大」という言葉の意味が重要です。単なる軍事力や経済力、技術力や学問の力が大きいだけでは、いけないと思います。なぜなら、ある一国がそれらの力を増強してくると、他の国がその国を恐れて、軍備増強や技術開発を急ぐ可能性が増大するからです。かつての“冷戦”や現在の米中関係がそれを示しています。何が大切かといえば、「他国から信頼される」ということです。国際関係では、これが最も難しいのです。また、日本は現在、五輪競技を強行しようとしていますが、その強行する理由の中に、「日本が東日本大震災から立ち直った証とする」とか「人類がウイルスに打ち勝った証拠を見せる」というような、自国第一主義や、人間中心主義があることは、感心できません。「日本が、日本が」という自国第一主義や、「人類が、人類が」という人間中心主義は、ひと昔前ならともかく、現代においては「信頼」される原因にはならないのです。これらは、「日本が世界の中心である」と言うことや、「人類が自然界の中心である」と言うに等しいのです。
トランプさんが大統領を務めたアメリカとの経験を踏んで、世界では恐らく「一つの超大国が世界の中心となる」ことを求める人は減っているのではないでしょうか? さらに、現在私たちが経験している気候変動による災害の増大や感染症の世界的流行から学ぶならば、「1つの生物種が自然界全体をほしいままに支配する」――つまり、人間中心主義の危険性を、今や多くの人類が実感していると思います。
生長の家はそのことを早くから気がついて、「神・自然・人間は本来一体である」という実相顕現を進めているのですから、今こそ人類が最も必要とするこのメッセージを強力に伝え、自らの生活の中に展開し、多くの人々にも参加してもらう必要を感じる次第です。「万教包容」は「万国包容」に通じ、そこからさらに「万物包容」に向かって前進いたしましょう。
それでは、これで私の話を終わります。ご清聴、ありがとうございました。
谷口 雅宣