地球環境問題

2021年7月 7日 (水)

「万教包容」から「万物包容」へ

 今日は午前11時から、山梨県北杜市にある生長の家国際本部--“森の中のオフィス”の万教包容の広場において「万教包容の御祭」が挙行された。新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、大人数が参加する方式は採用せず、オフィス常勤の参議など少数が参加し、御祭の映像と音声がインターネットを介して同時中継された。私は、御祭の最後に概略、以下のような話をしたーー

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 本日は「万教包容の御祭」にご参列下さり、ありがとうございます。

 今日の御祭はちょうど8年前、生長の家の国際本部が東京から八ヶ岳南麓に移転した際に、今日、7月7日――つまり「万教包容の神示」が下された日に因んで始められたものです。私が今立っているこの場所も「万教包容の広場」という名前がつけられました。これによって、生長の家の信仰は、世界のすべての宗教を包容する広大で、懐の深い信仰であることが改めて明確にされました。

 さて、私たちがこちらに来させていただいてから、今年は8年目になります。ですから、この御祭も「今回で8回目になる」と申し上げたいところですが、昨年のこの御祭は行われませんでした。その理由は、新型コロナウイルスの感染拡大によります。また、もう一つの要素として、昨年はこの時期に梅雨前線が約1ヵ月にわたって日本列島に停滞して、主として九州地方ですが、岐阜県や長野県などを含めて7日本各地で大きな水害が発生したからでした。後に、この時の豪雨は「令和2年7月豪雨」と命名されました。犠牲者は熊本、福岡、大分の3県だけで死者73人、住宅浸水被害は1万棟以上に及びました。

 ところで私は、昨年の今ごろはすでに「急設スタジオ」による動画配信を始めていました。そして7月7日には自宅からオフィスまで歩き、この「万教包容の広場」で、ちょうど7基そろった七重塔を背景に、三角形とムスビの働きなどについて話しました。11回目の配信です。その動画の最初には、「令和2年7月豪雨」の被害について次のように言及していました--

「梅雨前線の影響で、7月6日から九州を中心に降り続いている豪雨の被害によって亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、被災された多くの方々を衷心からお見舞い申し上げます。」

 そして今日は、あれからちょうど1年後です。今年も梅雨前線の影響で、静岡県、神奈川県、千葉県などで水害が発生しています。今年はさらに問題なのは、新型コロナウイルスのパンデミックが終息していない中で、日本政府がオリンピックとパラリンピックを強行しようとしていることです。1年前には、気候変動と感染症拡大との間には関係があると一般には思われていなかったですが、今は違います。この2つの世界的問題は、いずれも人間が自然破壊を続けていることに起因することが、科学者はもちろん、一般の人々の間にも理解されるようになっています。その中での五輪開催の強行には、私たちももっと大きな声を上げて反対せざるを得ないと考えて、私は数日前、Facebookを通じて、心ある信徒の皆さんに「反対署名」をお願いしたところです。

 さて、このような状況の中で、今日の御祭をすることの意義を私は考えました。昭和7年(1932)の今日、ちょうど89年前に谷口雅春大聖師に下された「万教包容の神示」には、何が説かれているかを改めて振り返りました。この神示は、192910月のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発する世界大恐慌の影響を日本が受けて、後に「昭和恐慌」と呼ばれる経済的危機を経験した直後に当たり、1931年には中国大陸に侵出した関東軍によって満州事変が引き起こされただけでなく、これをきっかけにして日本軍の中国侵攻が拡大し、翌(1932)年には「上海事変」まで起こった。その停戦協定の調印が昭和7年の5月5日です。軍隊の独走が始まっていて、停戦協定調印の2週間後には、当時の犬養首相が殺される5・15事件も起こっています。日本も世界も混乱状態にあった時代と言えます。そのことを念頭に置いて、神示の次の文章を読んでください――

「キリスト教では聖地エルサレムが世界の中心であると言い、大本教では丹波の綾部が世界の中心であると言い、天理教では大和の丹波市(たんばいち)が世界の中心であると言い、天行居(てんこうきょ)では周防の岩城山が世界の中心であると言う。世界の中心争いも久しいものである。併しわれは言う、それらは悉く皆世界の中心であると。一定の場所が世界の中心だと思っているものは憐れなるかな。生命の実相の教えが最も鮮やかに顕れたところが形の世界の中心であるのである。そこは最も世を照らす光が多いからである。基督教でもイエスの教えがエルサレムに最もよく輝いていた時代はエルサレムが世界の中心であったのである。天理教でも教えの光が最もよく輝いていた時代は大和の丹波市が世界の中心であったし、大本教でも教えの光が最もよく輝いていた時代は丹波の綾部が中心であったのである。わが行きてとどまるところは悉く世界の中心であるのである。誰にてもあれ生命の実相を此世に最も多く輝かせた処に吾は行きてとどまり其処が世界の中心となるのである。」(『“新しい文明”を築こう』上巻、pp. 222-223)

 ここでは、宗教の隆盛と真理との関係について、3つのポイントが示されています――

 1.形の上での“世界の中心”は移り変わる。

 2.移り変わる原因は、地上のある場所で真理が鮮やかに説かれているかどうかによる。

 3.その移り変わる範囲には国境はなく、真理は国家や民族を超えている。

 この神示の中の考え方は、当時の日本の状況から考えると画期的だと思います。神示に例示されている宗教は、キリスト教のような世界宗教もあれば、天行居のような、普通の人があまり耳にしないような宗教もあります。それらすべてについて「悉く皆世界の中心である」と宣言しているところが注目されます。また、「一定の場所が世界の中心だと思っているものは憐れなるかな」とありますから、この神示が説く「世界の中心」という言葉には地理的な意味はないということでしょう。神示が下された当時の日本では、「日本は神国であるとか」「日本は東洋の中心、世界の中心になるべし」という考え方に人気がありました。満州事変以後の軍部の中国侵攻は、大方のマスメディアも国民も支持していました。しかしこの神示では、何をもって「世界の中心」であるか否かを判断するかといえば、神示は「最も世を照らす光が多い」ところが世界の中心となる、と説いています。つまり、宗教的真理が輝くところが“世界の中心”であり、それは国家や民族によらないということです。ユニバーサルな価値のあるところが“世界の中心”だと説いているのです。

 人間はとかく特定の地理的位置に価値をおいて、そこを“中心地”とか“聖地”などと呼びますが、生長の家ではそういう考え方をとらないということが分かります。私はかつて「生長の家には、地理的な意味での“聖地”はない」という話をして、それが本にも載っています。(『次世代への決断』、pp. 171-175)それは、本当の意味で「聖なるもの」とは、実相世界だと考えるからです。それに対し、特定の地理的位置を聖地だと考えると、その地に執着し、そこへ行きたい、そこにとどまりたい、自分のものにしたい……などという欲望が生れ、奪い合いが起こりやすいからです。エルサレムという都市をめぐる中東の国際紛争、宗教対立のことを考えると、そのことがよく分かります。

 このことは、国際政治や国際関係を考えるときに大変大きな示唆を与えてくれます。アメリカ合衆国は一時、「MAGA(Make America Great Again)というスローガンを掲げた人を大統領に選んで混乱しました。それによって世界も混乱しました。この混乱はまだ残っているようですが、大分落ち着いてきたように感じます。私は、「自国が偉大な国でなければならない」と考えることは間違いではない、と思います。しかし、その「偉大」という言葉の意味が重要です。単なる軍事力や経済力、技術力や学問の力が大きいだけでは、いけないと思います。なぜなら、ある一国がそれらの力を増強してくると、他の国がその国を恐れて、軍備増強や技術開発を急ぐ可能性が増大するからです。かつての“冷戦”や現在の米中関係がそれを示しています。何が大切かといえば、「他国から信頼される」ということです。国際関係では、これが最も難しいのです。また、日本は現在、五輪競技を強行しようとしていますが、その強行する理由の中に、「日本が東日本大震災から立ち直った証とする」とか「人類がウイルスに打ち勝った証拠を見せる」というような、自国第一主義や、人間中心主義があることは、感心できません。「日本が、日本が」という自国第一主義や、「人類が、人類が」という人間中心主義は、ひと昔前ならともかく、現代においては「信頼」される原因にはならないのです。これらは、「日本が世界の中心である」と言うことや、「人類が自然界の中心である」と言うに等しいのです。

 トランプさんが大統領を務めたアメリカとの経験を踏んで、世界では恐らく「一つの超大国が世界の中心となる」ことを求める人は減っているのではないでしょうか? さらに、現在私たちが経験している気候変動による災害の増大や感染症の世界的流行から学ぶならば、「1つの生物種が自然界全体をほしいままに支配する」――つまり、人間中心主義の危険性を、今や多くの人類が実感していると思います。

 生長の家はそのことを早くから気がついて、「神・自然・人間は本来一体である」という実相顕現を進めているのですから、今こそ人類が最も必要とするこのメッセージを強力に伝え、自らの生活の中に展開し、多くの人々にも参加してもらう必要を感じる次第です。「万教包容」は「万国包容」に通じ、そこからさらに「万物包容」に向かって前進いたしましょう。

 それでは、これで私の話を終わります。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣

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2021年4月26日 (月)

「第1回ノンロック・リレー」が終わる

 今日は4月17日から始まった「ノンロック・リレー」最終日なので、予定していた通り最終走者として目的地である生長の家福島・西郷ソーラー発電所まで自転車で約7.6kmを走った。当初の計画では、リレーのバトンである“観音棒”は私一人が携帯し、妻は伴走者になると思っていたが、彼女のアイディアで、コースの前半を妻がバトンをかつぎ、後半を私がかついで目的地入りをすることにした。事前の調査では、このコースは緩やかな上り坂で始点から終点までの獲得標高は192m、平均勾配は2.5%、最大勾配は8.1%だと分かっていたので、緊張せずに走ることができた。私が地元の北杜市でよく上る天女山(標高1529m)の場合、平均勾配は8%、最大勾配は12%あるからだ。走ったあとの機械による計測では、走行距離は7.42km、それに要した時間は33分14秒だった。ただし、この時間は、中間地点でのバトンの受け渡しを含めたものだ。

 到着地点付近には、地元・福島の信徒の皆さんを含め、栃木県からも信徒の方々が集まってくださっており、旗を振って迎えてくださったことに感動した。ひと息入れた後、発電所の敷地内で「第1回ノンロック・リレー帰着式」という簡単な行事を行った。私はその行事の最後に概略、以下のようなスピーチをした:

 皆さん、今日は生長の家が始まって以来の自転車による広域リレー「ノンロック・リレー」の帰着式に、この場において、またオンラインによって参加くださったこと、心から感謝申し上げます。

 私は、このリレーの初日の「出発式」で、ここにある「観音棒」の宗教的意義について少しお話ししました。出発式の日はあいにくの雨で、本来だったら“森の中のオフィス”の敷地内にできた「ムスビの庭」で式を行うことになっていましたが、イベント・ホールを使うことになりました。私はその時、「観世音菩薩を称うる祈り」の一節を引用して、観音さまの重要な働きの1つはムスビであるという話をしました。女子競泳の池江璃花子さんの例を引いて、困難を克服することで人間は魂の飛躍を遂げるという話もしました。

 で、今日はそれらの話も受けて、この観音棒の額にある三角形のことを話します。分かりますね。この観音さまの額のところには、大きな三角形が彫られています。そして、私は過去に何回も、「ムスビの働きを形で表せばそれは三角形になる」と申し上げました。私たちは、その三角形を額に刻んだ観音さまをバトンとして、山梨県の大泉町から福島県の西郷村まで何キロですか? ずいぶんの距離をリレーでつないできました。正確に言えば、79人のリレーにより、約691kmの距離を走りました。このイベントの象徴的意味を皆さんには考えほしいのです。

 これは多くの信仰者が同じ信仰を受け取り、次に渡しながら「ムスビの働き」を広げていく活動を進めていく、ということです。今、全世界で、新型コロナウイルス感染症の蔓延によって神社や教会、モスクでの行事やお祭りが制限されていて、生長の家も例外ではありません。しかし、信仰の受け渡し、真理の拡大は、ある方法が制限されたならば、別の方法で遂行することができるのです。それを今回、私たちは実際に証明しました。とても変則的な方法でしたが、現代のテクノロジーは、私たちがインターネットを利用したように、これまでになかった様々な方法を提供してくれていることに、私たちは感謝しましょう。

 宗教だけでなく、ビジネスも学校も、今回のピンチに遭遇して、ネットを使ったテクノロジーを利用した様々な方法で、仕事や教育を進めていることは皆さんもご存じの通りです。これは、「ムスビの働き」と言えるのです。ムスビとは「本来同一の基盤をもつ2つのものが、互いに寄り合って、2つとは異なる新しい価値が創造されること」でした。ウイルスと人間は、生命体として同一の基盤をもちます。私たち人間の中には、ウイルス由来の遺伝子がいっぱい存在します。ウイルスは人間を侵して殺すだけでなく、生かし、発展させてもいるのです。ただ、新型のものは人間との相性がうまくいかないものがあり、それが人間に被害を与えるのです。これは、ウイルスに責任があるというよりも、人間の側が急激な生活の変化や自然への大きな介入を仕掛けているためです。しかし、免疫系がその被害を克服すると、人間とウイルスは共存することになります。それも「ムスビの働き」の一つです。

 これは遺伝子レベルの話ですが、もっと広いレベルの共存の働きもすでに生じています。最近出版されたアメリカの時事週刊誌『タイム』に興味ある記事が載っています。主題は「Climate is Everything.」といい、副題にこうありますーー「How The Pandemic Can Lead Us To A Better, Greener World」です。翻訳すれば、「この世界規模の感染症拡大は、どのようにして世界をより良い世界、より環境に配慮した世界に導いていけるか」ということです。この副題の中のキーワードは「can」という助動詞です。この語は可能性を表すのですが、未来の必然を表す「will」ではないので、「そうならないかもしれない」ことを言外に表現しています。

 で、ここで言われている感染症拡大と環境問題解決への取り組みの関係は、こういうものです。新型コロナの犠牲となって大勢の人々がなくなりました。それを恐れて世界中で、社会経済活動の停止と制限が行われ、今も続いています。この制限の影響をマトモに食ったのは、社会の中で不利な立場にいる人々、貧しい人々、そして貧しい国々です。この大問題を解決するためには、国家や大企業は、これまでのような姑息な手段に訴えても間に合いません。今後の中・長期的展望に立てば、地球環境問題、特に気候変動に対応した政策を中心にすえ、それに必要な技術や製品、サービスをどんどん開発していかねばならない。ということで、いろいろな国や企業が、今や電気自動車、水素エネルギー、洋上風力発電、そしてCO2などを排出しない技術開発に本腰を入れ始めました。これが、パンデミックを克服した後に作られるべき“新しい価値”です。しかしその反面、このような動きに反対する勢力も少なからずあります。アメリカの場合、トランプさんの時代にそういう勢力が国政を担当した。今、バイデンさんに替わって急速に方向転換をしています。しかし、現状維持を望む人たちも半数いる。

 日本では、アメリカのマネをするのが得意な自民党政権ですから、今、急に、「カーボン・ニュートラル」などと言い始めた。生長の家が10年以上前から言っていることを、「今更なにを」と申し上げたい。遅すぎるし、やり方が小さいです。私たちはもう、その段階は通り越して、実際のライフスタイルの転換へと舵を切っていることは、皆さんもご承知の通りです。このノンロック・リレーをやった「プロジェクト型組織」が今、それをやっています。

 宗教における伝道は、真理を他の人にどんどんリレーしていくことです。これは「ムスビの働き」であり、新しい価値の創造です。どうか皆さん、今回のリレーを、実生活における“真理の伝達”の分野に拡大して、「神・自然・人間は本来一体」の真理を多くの人々に伝え、“自然と共に伸びる”という新しい価値の実現に邁進していきましょう。

 それではこれで、私の話を終わります。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣

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2021年3月11日 (木)

人間中心主義から抜け出そう

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”のイベントホールにおいて、「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われた。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、会場には人を集めず、御祭の様子はビデオカメラを通してネット配信され、多くの人々に伝えられた。私は御祭の最後に概略、以下のような言葉を述べた――

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 皆さん、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」にお集まりくださり、誠にありがとうございます。昨年に引き続き今回も、皆さんとともに一堂に会することなく、インターネットを通じての参加となります。ありがとうございます。

  今年は2021年であり、日本では東日本大震災からちょうど10年がたつということで、また東京オリンピックの開催が間近だというので、「東北は復興した」とか「復興に至っていない」とか、経済やスポーツ、興行に焦点を合わせた報道や評論が行われています。また、昨年来の新型コロナウイルス感染症の問題も、主として経済活動再開との関係からしか論評されていません。これは日本の指導者や政治家、オピニオンリーダーの多くが、人類が今直面している問題の本質を理解していないことを示しているので、悲しい気持になるのであります。

  ここに、2つの大災害に関する統計的な数字を並べて考えてみましょう。まず、東日本大震災ですが、その犠牲者数はすでに各メディアに発表されているので、皆さんもご存じと思います。この犠牲者数の中には、地震と津波による直接的な死者に加え、行方不明者、そして震災関連死亡者も含まれていますが、すべてで「2万2198人」です。そして、新型コロナウイルス感染症による日本国内の死者数は、昨日の時点で「8,301人」です。大震災に比べて少ないようですが、この感染症はパンデミックですから、日本国内だけの数字を見ても、全貌はわかりません。そこで世界全体の昨日までの死亡者の総計を出します。それは「2607,852人」です。とんでもない数字です。201510月の国勢調査によると、大阪市の人口が「2,691,185人」であり、名古屋市は「2,295, 638人」ですから、この1年間で、大阪市または名古屋市から人がすべて消えたことに匹敵するほどの大災害なのです。そして、この数字は現在も毎日、増え続けていることは、皆さんもご存じの通りです。

  今私は、大震災とパンデミックの両方を呼ぶのに「大災害」という言葉を使いましたが、これは必ずしも正しい表現ではありませんね。ご存じのように、10年前の大震災と津波、原発事故については、「人災」の要素がかなり含まれていることが指摘されてきました。そして、今回の新型ウイルスによるパンデミックについても、人間の行動に起因する要素が数多く指摘されています。人間の行動が感染症を拡大させるので、それを防ぐために今、私たちは家に籠り、リモートで仕事をし、経済活動を縮小しているのです。

 では、人間の何がこのような大惨事を引き起こす要因になっているのでしょうか? それは、私たちの考え方、思考形式、思想などと呼ばれているものです。端的に言えば、それは「人間至上主義」です。

  私たち生長の家は、もう20年も前から、人類が現在抱える地球温暖化などの大問題の多くは、「人間至上主義」が原因だと指摘してきました。このものの考え方は、「人間中心主義」とも呼ばれます。今、画面に出ているのは、私が200210月に上梓させていただいた『今こそ自然から学ぼう』という本です。この本には「人間至上主義を超えて」という副題がついて、英訳として「beyond anthropocentrism」という語が添えられています。また、これより1年前に出た『神を演じる前に』(2001年1月)にも、「人間至上主義の矛盾」という見出しがついた文章が5ページにわたって書かれています。

  では、なぜ人間至上主義が間違っているかという理由については、『今こそ自然から学ぼう』の「はじめに」に引用されているエドワード・O・ウィルソン博士の言葉を紹介するのがいいと思います。なぜなら、彼は世界的に尊敬されている生物学の権威で、ピューリッツァー賞を2度もとっている人だからです。

 ウィルソン博士は、人類がこれまで他の生物からどれほど恩恵を受けて生きてきたかを忘れていると指摘し、それを「健忘症」と批判しているのだった。博士はこう続ける--

 こうした健忘症気味の空想の中では、生態系が人間に提供してきた恩恵(サービス)もえてして見逃されがちである。だが生態系は土地を肥やし、私たちがこうして今呼吸している大気をも作り出しているのだ。こうした恩恵なしには、これから先に残された人類の生活は、さぞかし短く険悪なものとなろう。そもそも生命を維持する基盤は緑色植物とともに、微生物や、ほとんどが小さな無名な生きもの、言い換えれば雑草や虫けらの大集団から成り立っているのだ。非常に多様であるため地表くまなく覆いつくし、分業して働くことができるこのような生きものたちは、世界を実に効率的に維持している。彼らは人類がかくあって欲しいと思うとおりのやり方で世界を管理しているが、それはなぜかというと、人類自体この生きた群集の中に混じって進化してきた動物であり、かつ人間の体の機能は人類以前にすでにできあがっていた特定の環境に合うよう、念入りに調整されているからである。(p. ii

  ここには、私たちが呼吸している空気が植物のおかげで成り立っていること、大地はその植物や、動植物を分解する菌類や、無数の昆虫類が作り上げていること、そういう多様な生物たちが地球の表面を覆いながら、お互いに深い関係をもって協力し合っていることが暗黙のうちに描かれています。そして、博士の表現を借りれば、これらの生きものが「世界を実に効率的に維持している」だけでなく、その維持の仕方は「人類がかくあって欲しいと思うとおり」であると書いてあります。このことを私たちは忘れているか、もしくは全く知らないのではないでしょうか?

  多くの都会人は、特に都会で生まれて育った人たちは、人間以外の自然界の生物は人間の生活の邪魔だと感じていないでしょうか? 彼らは「人類がかくあって欲しくない」存在だと感じている人が多い。だから、スーパーへ行けば殺虫剤とか殺鼠剤とか、ゴキブリホイホイとか農薬とか、消毒薬など沢山売られている。また、私たちは日常的に「雑草」とか「害虫」とか「害鳥」とか「害獣」などの言葉を使います。これは、自然界の生きものには「善」と「悪」があると考えている証拠ではないでしょうか。しかし、ウィルソン博士は、それら一見「悪い」と見られる生物もすべて含めて、「彼らは人類がかくあって欲しいと思うとおりのやり方で世界を管理している」と言っているのです。皆さんは、これに同意できますか?

  ウィルソン博士は次に、なぜそんなことが言えるのかという理由をきちんと書いています。この理由は、とても重要だと私は思います--

「それはなぜかというと、人類自体この生きた群集の中に混じって進化してきた動物であり、かつ人間の体の機能は人類以前にすでにできあがっていた特定の環境に合うよう、念入りに調整されているからである」

 この考え方は、博士の進化生物学者としての長年の研究と深い、優れた洞察から来るものです。白鳩会総裁の著書に46億年のいのち』という本があります。この題は、先ほど皆さんと一緒に読誦した『大自然讃歌』の中にある「地球誕生して46億年」という言葉から来ていますね。しかし、地球ができてすぐ生物が生まれたのではなく、生命の誕生はそれより10憶年ほど後です。すると、人間以外の生物は36億年もの進化を経験して今日に至っているのです。人類が誕生したのはわずか「20万年前」です。ということは、人類が地球で生活するようになった時には、すでに「359,980万年」もの時間をかけて、他の生物たちは進化を繰り返していたということです。このことが何を意味しているかを、ウィルソン博士はこう表現しているのです--「人類自体この生きた群集の中に混じって進化してきた動物であり、かつ人間の体の機能は人類以前にすでにできあがっていた特定の環境に合うよう、念入りに調整されているからである」

  

ここで少し、地球上の生物の歴史を概観しましょう。そうすることで、ウィルソン博士の言っていることがより深く、理解できると考えるからです。Lifehistory この図は、画面の左上から右下に向かって時間が流れていることを示しています。左上の端が今から36億年前の「生命誕生」の時で、1本の黄色い棒が横方向に10億年を表していると考えてください。画面の最下段にある棒は、他の棒より短くて、6億年を表しています。そうすると、画面には長い棒が3本と、短い棒が1本なので、全部で「36億年」を示しています。グラフの中にある数字は、100万年を単位とした数です。したがって左上端に「3600」とあるのは、「36億年前」という意味で、その下に「2600」「1600」「600」と続いているのは、それぞれ「26億年前」「16億年前」「6億年前」という意味です。

  この図をさっと眺めただけで分かるのは、一番下の棒だけが賑やかだということです。その棒の左端には水色で「カンブリア紀」と書いてあります。この水色の帯は、今から6億年から5億年にかけてで、この地質時代に膨大な数の生物種が一気に地上に現れたことで有名です。その現象を「カンブリア大爆発」と呼びます。そして、その一番下の棒の右端には赤い色がついていて、「人類誕生~現代」とあります。人類の誕生は今から20万年前と言われているので、この赤い線のところが、地球上に人類が存在している「20万年」を表しているのです。生物全体の進化の歴史と比べると、何と短い期間ではありませんか? しかし、私たち人類は、この進化の歴史の上に、それを前提として存在しているのです。それを、私たちは変えることなどできないのです。そのことをウィルソン博士は、こう言っているのです――「人類自体この生きた群集の中に混じって進化してきた動物であり、かつ人間の体の機能は人類以前にすでにできあがっていた特定の環境に合うよう、念入りに調整されている」。

  つまり、博士が言おうとしていることは、人類は他の生物と分離しては生きられず、また人間の肉体は、その基本的構造や機能は、すでに20万年前に決定されているということです。ところがご存じのように、私たち人間の中には、かなりの数の人たちが、この地球上の環境は、他の生物も含めて、人間の邪魔になることが多いから、それを人間の都合に合わせて改変することで、将来は天国のように生きやすい、便利な世界が実現するなどと考えているのです。私が「人間至上主義」と呼んでいるのはこの考え方のことです。「人間の幸福のためならば、自然界のあらゆるものは破壊したり、利用したり、改変したりできる」という思想です。これが間違いであることは、人類は長い時間をかけてゆっくり、ゆっくりと学びつつある――私はそう思いたい。日本の自民党政権が菅内閣になって初めて、突然のように「炭素排出を2050年までに実質ゼロにする」などと言い出しました。これは、先進国の中でもずいぶん遅れた取り組みです。が、まったく取り組まないよりはいいのですが、それでも私は、今の人類には30年もの時間の余裕はないと考えます。

  その証拠の1つが今、人類の目の前に突きつけられている新型コロナウイルスによるパンデミックです。これも地球温暖化も、人間至上主義がもたらしたものです。根っこは同じなのです。

  最近私は、オークヴィレッジ創設者の稲本正さんの『脳と森から学ぶ日本の未来』(WAVE出版、2020年)という本を読む機会があったのですが、稲本さんは「人間至上主義」という言葉は使っていませんが、それと同様の人間の身勝手な振る舞いが、この新型コロナの問題の背景にあるというお考えです。稲本さんは、この問題の原因は「人類側にある」とはっきり書いておられます。引用しましょう――

 新型コロナウイルス問題は人類が今まで歩んできて、大いに成功だと思い込んでいた近代文明の工業化により、自然を破壊し、巨大都市を造り、人間を都市に密集させつつ、長距離移動システムの確立と情報化へと移った一連の進歩を、根本から問い直すように促している。(pp. 46-47)

 

 人類が自分で生み出した問題を、解決に結びつかないように、自分自身で複雑にしている。原因は、経済や人種、国益などの理由を探して一致団結しようとしない人類の考え方にあるのだ。(p. 49)

  今、経済や国益を理由に、新型コロナウイルスのワクチンを独占しようとする動きがあります。また、ワクチンを自分たちの知的財産権の対象として考える傾向があります。しかし、そんな利己的な考えをしていると、グローバル化した世界経済と地球温暖化の中ではウイルスの脅威を抑え込むことなどできません。ウイルスは細菌よりもずっと小さいので、私たちは原始的で、単純な生物だと思いがちですが、決してあなどることはできません。ウイルス学の専門家の評価を紹介します――

  大方の推測では、ウイルスの総数は10の31乗と、地球上で最も多種多様な生命体である。ということは、進化上、最も成功をおさめた生命体である。ウイルスは、感染した細胞の代謝系を変換し、自分が増えやすい環境をつくるという事実から、宿主の細胞よりも複雑な生命の営みをする。だから、最も単純な生命体ではない。

  1リットルの海水があれば、その中にいるウイルスの数は地球上に住む人間の総計を、恐らく10倍ほど上回る。ウイルスの種類も、細胞をもつ生物全体の種類を上回り、推定で1兆種も存在する。 そして、人類のゲノムの8%はウイルス由来のものである。

  細胞レベルでは、私たち人間よりも複雑な動きをする生命体が、細胞をもつ生物全体の種類を上回るほど多種にわたって存在し、1リットルの海水に世界人口の10倍もの数で存在するのです。だから、今回のウイルスの脅威を取り除いたとしても、次が来ないなどとは決して言えません。その可能性を地球温暖化が増幅していることを、皆さんはご存じでしょうか?

  最近の急激な温暖化で、ロシアの北極圏にある永久凍土が溶け出しています。その結果、大変なことが起こると警告する科学者は少なくありません。次の写真を見てください。これはすでに起こってしまっていることです――

  今年の3月7日付のインターネットのNHKのニュースサイトにあった写真ですが、ロシアの北極圏にあるヤマル半島という所の永久凍土が溶け出していて、直径が数十メートルもある巨大な穴があいているというのです。それも1つだけでなく、十数個もです。こういう穴が開くと、中から何が出てくるかということも分かっています。

  次の写真を見てください。これは今年1月25日のNHK番組『クローズアップ現代 の内容を伝えるサイトです。ここに簡潔にまとめられていますが、永久凍土が溶け出すと、その下からは、二酸化炭素の25倍もの温室効果があるメタンガスが出てきた。それとともに、人類がこれまで知らなかった「モリウイルス」というウイルスも発見されたというのです。

  ですから、私たち人類が今のような人間中心主義の考え方を改めずに自然破壊を続け、経済発展ばかりを進める生き方をしていれば、私たちは自分たちの生活基盤をも破壊してしまう可能性さえあるのです。これは、遠い将来のことではなくて、現在それが起こりつつあるという認識をもたねばなりません。必要なことは、まず人類共通の「哲学・信仰」を確立することです。その基本は、生長の家が20年前から言っているとおり、「神・自然・人間は本来一体」ということです。もし「神」という言葉を使いたくなければ、先ほど引用したウィルソン博士や稲本さんのような言い方でもいい。とにかく、人間さえよければ自然界の他の生物や鉱物資源はどうでもいいという考え方から、早急に脱却しなければならないのです。

  そして、私たちの生活の仕方を改めていく。つまり、信念を行動で表現していくのです。そして、自分ひとりで納得するのではなく、多くの人々にその信念を伝え、それらの人々と共に日常生活の中にその考えをどんどん反映させていかねばなりません。そういう運動を、これからも皆さんと一緒に力強く進めてまいりたいと、今日のこの祈念祭に当たり強く思うものであります。

それではこれで、私の話を終わらせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣

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2021年1月 1日 (金)

幸福とは自然を愛すること 

 全世界の生長の家の信徒の皆さん、新年おめでとうございます。

  私たちは2021年、令和3年という新しい年を迎えました。新年を迎えて喜びの言葉を交わす習慣は、世界中で当たり前のように続いてきましたが、本年はその“当たり前”の新年を迎えることのできる人が、例年より少ないことを悲しく思います。しかし、それでも新年の到来は、私たちにとって希望と前進と活力を与えてくれます。日時計主義を生きる私たちにとっては、そのことはなおさらです。新型コロナウイルスによる感染症の蔓延の中でも、私たちはこの年を積極的に受け止め、希望を胸に抱いて前へ進む生き方を放棄することはありません。

 今から76年前、日本が第二次大戦で敗れ、国土が一面の焦土と化した時でさえ、私たちは過去に過ちがあればそれを正し、神の御心を体して明るく前進したことを忘れてはいけません。生長の家創始者・谷口雅春先生はこの時、私たちが敵を作って戦う生き方をやめ、人類全体を「神の子」として拝みながら、明るく生きる方法を伝えることに全力を尽くすべきだと説かれたのでした。

 昭和20年、194511月号の月刊誌のご文章から引用します――

   “今後の教化方針は「天地一切に和解」「従って天下無敵」(敵あって「勝つ」と云うのは本来の生長の家の教ではない、戦争無の哲学が生長の家の哲学である)を説き、今後の日本の運命も、苦難が来る荊棘(けいきょく)の道だなどと「言葉」で云っていると「言葉は種子」であり苦難が来るから、吾々は今後日本国民に明るく生きる方法を教えるのに全力を尽くさねばならぬのです。吾等は対立国家としての日本ビイキ的なことを説かず、世界人類は一様に「神の子」として説き、特に『人生は心で支配せよ』『新百事如意』を中心に説いて行けば好いのであります。”


 この引用の最後に出てきたのは、2冊の本の名前です。これらは、いずれもアメリカで生まれたニューソート系の光明思想家の著書に触発されて、大戦以前に、雅春先生が翻訳あるいはリライトされたものです。生長の家はこのように、すでに戦前から、グローバルな視点をもち、普遍的な価値を説く宗教運動でした。だから私たちは、現在もこの伝統を受け継ぎ、狭い国家主義、国益主義を超えて、人類最大の課題となっている自然破壊と地球温暖化の抑制に全力で取り組んでいるところです。

  今回の世界規模の感染症の拡大で、私たちは多くのことを学んでいます。その重要な1つは、「自然を侮るなかれ」ということです。目に見えない半生物のウイルスのおかげで、世界では1年もたたないうちに150万人を超える人々が死に至り、世界経済は劇的に縮小し、国際関係は不安定となり、そのおかげで職を失った人々が大量の流民となって地上をさまよっています。この感染症の原因は何でしたか?

 専門家の分析によれば、中国内陸部の野生動物取引市場で、人間と野生動物とが濃厚接触したことが、その原因です。コウモリの体内に潜むウイルスが、今回のパンデミックを引き起こしたウイルスと遺伝子型が酷似しているといいます。そのウイルスが、センザンコウなどの小動物が中間宿主となって、人間社会に取り込まれてしまったようです。またその後、デンマークでは、やはり同じ小動物のミンクから、人に感染したコロナウイルスの変異種が発見され、それが開発中のワクチンの効力を弱めるのではないかとして、大問題になりました。つまりウイルスは、変異しながら人間と他の動物の間を行き来しているのです。

  これらの事実は何を教えているのでしょう? それは、人間は自然界の一部だということです。哺乳動物としての人間は、他の哺乳動物とそれほど変わらないのです。また、自然界は人間のためだけにあるのではないということです。にもかかわらず、人間が自然界を破壊しながら本来、近づくべきでない領域にまで欲望の手を伸ばし、その一部を自己目的のためだけに改変したり、利用する行為を続けていれば、自然界のこれまでの秩序は崩れ、その秩序によって保障されていた私たち人類の生活も破壊されるのです。この因果関係は、現下喫緊の問題である地球温暖化と全く同じだと言わねばなりません。

  つまり、新型コロナウイルス感染症も地球温暖化も、天罰や神罰ではなく、私たち人類のこれまでの考えと行動によって引き起こされたものなのです。仏教では、こういうことを「自業自得」と表現します。

  この仏教用語は、近代以降の人類の足跡を痛烈に批判していますが、その反面、私たちに問題解決の道を示してくれています。なぜなら、「自業自得」とは、人間が起こした誤りは、人間によって正せるという意味だからです。私たちが自然界の過度の破壊をやめ、自然が本来の活力を取り戻すように私たちの生き方を変えれば、人類はこの自業自得から脱却できるでしょう。生長の家は今、そのような生き方を信仰の情熱をもって推し進めています。大都会・東京から標高1300mの八ヶ岳南麓に国際本部を移し、二酸化炭素を排出しない業務を実現し、自然破壊の大きな原因である肉食から遠ざかり、資源の無駄遣いをやめ、日用品を手づくりし、無農薬・無化学肥料栽培を実践し、自動車の利用よりも自転車の利用を行う中で、自分が自然の一部であることを実感し、その実感の中に人間の幸福があることを体験する――これを理論だけではなく、日常生活の中で、省力化に走るのではなく、私たちが自分の体を積極的に使いながら、自然との切実な一体感を得る生き方こそ、現代に必要な信仰生活だと私たちは考えています。

  もし私たちが創造者としての神を信ずるなら、これ以上、自然破壊を続けることはできません。なぜなら、神は人間を創造されただけでなく、自然界全体を創造されたのですから、私たちは神の創造を自己目的のために破壊することはできません。私たち人間は、他者の喜びを見て幸福を感じます。それと同じように、私たち人類は自然を愛する生き方の中に幸福を見出すのです。なぜなら、個人はバラバラで無関係な存在ではないように、人間は自然から分離することはできないからです。そして、それらすべては神の作品であり、神の一部であるからです。

 私たちはこれからも、「神・自然・人間は本来一体である」とのメッセージとそれに基づく生活法を、広く世界にひろめてまいりましょう。皆さま、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 谷口 雅宣

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2020年11月20日 (金)

居住地の自然と文化を顕彰する

 今日は午前10時から、山梨県北杜市にある生長の家国際本部“森の中のオフィス”を中心に、インターネットを介した行事「生長の家代表者ネットフォーラム2020」の同時交流会が開催された。この行事は、昨年までは「生長の家代表者会議」という名前で行われていたもの。ここでは、日本全国はもちろん、韓国や台湾、ブラジル、アメリカ、ヨーロッパなどで活躍している生長の家の信徒代表が一堂に集まり、来年度以降の私たちの宗教運動の基本を定めた運動方策(運動方針)について議論し、理解を深めるためのものだった。ところが、今年は新型コロナウイルスによる感染症の世界的蔓延で、人の移動や大勢の集会ができないために、インターネットを使って映像と音声を世界に配信する形式に変更したのだった。運動方策をめぐる議論や質疑応答は、この日までにネット上で行われてきた“逐次交流会”で大方がすんでいたから、今日は生長の家参議長によるまとめと挨拶、信徒代表による決意発表に続き、私のスピーチなどで会は終わった。

 私は概略、以下のような話をした--

 皆さま本日は、今回初めて行われる「生長の家代表者ネットフォーラム2020」の同時交流会にご参加くださり、ありがとうございます。

 すでにご案内しているように、またすでに多くの参加者の方が積極的な発言をしてくださっているように、今回の同時交流会は、これまでネット上で進められてきた“逐次交流会”を受けて行われています。この逐次交流会では、去る10月23日の「生長の家拡大参議会」で決定された来年度の運動方針の内容について、活発な質疑応答が行われてきました。

 私もその一部を拝見させていただきましたが、その中では、日本国内の教区レベルでの組織を変える“枠組み”というものが注目されていました。これは、白鳩会と相愛会の教区の副会長の一人を、「PBS担当」という新しい業務に専属させるという方策でした。この方策は、階層型の従来組織の重要な一員を、階層のないPBSに専属させるという画期的なものです。生長の家の運動の目的は変わらないので、この新しい「PBS担当」の副会長さんの目的も変わりません。しかし、そのやり方が根本的に変わってくるので、当初は混乱があるかもしれませんが、ぜひ成功させたいと考えています。

 このほか、新しい方策の中では「講師教育」との関連で「講話ビデオ」の製作に関する質問もありました。それは、ネットを介して講話を聴くのに、リアルタイムで講話を流す方式ではなく、録画したビデオを使う理由は何かという質問でした。これについては、だいたい3つの理由があります:

① 講話の質の向上、
② 講話の複数回の利用、
③ 講話の広範囲の利用、です。

 優れた講話は真理宣布の有効な手段ですから、それを多く生み出し、あらゆる機会に大勢の人に聞いてもらい、広く日本全国、さらには海外の人々にも利用してもらう――そういう構想に基づいているものです。
 
 しかし、今日はこの「講話ビデオ」のことではなく、自然遺産、文化遺産の顕彰について少しお話ししたいのであります。「顕彰」という意味は、「世間にあらわすこと。世間にあらわれること」です。運動方針書は、直接この「顕彰」という言葉を使っていませんが、同じ意味のことが表現されています。お持ちの方は、5ページの真ん中から下にかけて、<“新しい文明”構築のためのライフスタイルの拡大と地球社会への貢献>という項の「2021年度の新たな取り組み」の第4項目をご覧ください。(4)と書いてあるところを読みます--

「(4) 幹部・信徒は、居住する地域の自然や文化遺産の豊かさを改めて見直し、固有の自然の恵みと、その自然と調和した文化的伝統に感謝し、所属教区の教化部のサイト等に掲載し、自然と人間との深い関わりを提示する。」

 このように書いてあります。
 このことが、<“新しい文明”構築のためのライフスタイルの拡大と地球社会への貢献>の項に入っているということは、この「固有の自然の恵みと、その自然と調和した文化的伝統に感謝する」ことが、私たちの「自然と調和する」ライフスタイルの拡大と、地球社会への貢献になるという判断があるわけです。この意味をお分かりでしょうか? 居住する地域の自然と文化遺産を見直し、それらに感謝することは、それらを無視したり、破壊することではないですね。これは誰でも分かります。しかし、「見直したり感謝する」とは、具体的に何をすることなのでしょうか? 

 私は、この項目に関連して、11月12日にフェイスブックの「生長の家総裁」というページに、「柿と馬頭観音」という題の動画を登録しました。すでにご覧になった方は多いと思います。長さが12分弱の短い動画なので、多くのことは語れなかったのですが、昨今のグローバリゼーションの影で見えなくなりつつある2つのことを表現する試みでした。その第1は、「柿」という植物と、特にその果実が、私たち日本人にとって実利的にも感情的にも、多くの価値をもたらしてきたという事実です。そして2番目は、 「馬頭観音」という文化遺産が、宗教的な価値があるだけでなく、日本人の生活の中に占めてきた「馬」という動物の重要性を示していることを伝えたかったのです。

 柿は、食品としては、海外からくる砂糖や人口甘味料、バナナやパイナップル、マンゴーなどの輸入果物に押され、染料や塗料としては、石油製品に取って代わられつつあります。私たちは、刺激の強いもの、手軽で手っ取り早いもの、華やかなものに惹かれます。これを言い換えると、私たちは感覚的な「刺激の強さと効率性/即効性」に魅力を感じるのです。この2つを価値あるものとして追究することで、現代の物質文明が築き上げられてきたと言っても過言ではありません。ということは、この2つの側面で劣るものは、本当は価値があっても、現代人の目からは見逃されがちであり、しだいに忘れ去られることになります。そういう観点から「柿」を考えてみると、バナナやパイナップル、マンゴーなど南洋からの輸入果物は、柿に比べて香りや甘味が強く、成長が速く、今のグローバルな貿易環境においては、入手することも簡単です。バナナを置いていないコンビニはなくても、柿をコンビニで買うことは不可能でなくても、簡単ではありません。

 馬と自動車の比較についても、同様のことが言えるのではないでしょうか? つまり、この双方は交通手段、運搬手段として見た場合、自動車は馬より刺激が強く、手っ取り早く、華やかです。違いますか? その意味は、馬よりも自動車の方が人間の自由になるから、高速で、いろいろな所へ行けるだけでなく、荷物の積み下ろしも楽です。また、自動車の販売店は馬の販売所よりもはるかに数が多いし、カーステレオやDVDプレイヤー、コンピューターなどを積んでいるから刺激が多く、華やかです。また、「効率性/即効性」の観点から比べても、自動車の維持管理は、生き物である馬の世話に比べて簡単ではないでしょうか? 今では技術の発達により、スマホを使って家の中から自動車のエンジンをかけたり、ライトを点けたりできるようです。

 このように考えてくると、私たちが今の時代に直面している資源の枯渇、エネルギー問題、地球温暖化などの諸問題の多くは、私たちの“内部”にその原因があるということに気がつきます。その原因とは、「感覚的な刺激の強さと効率性/即効性に魅力を感じる」ということです。このことは、人間は罪が深いということでしょうか? あるいは、人間には基本的な欠陥があるということでしょうか? 私はそうは思いません。なぜなら、生長の家では「人間は神の子である」と説いているのですから……。では、どう考えたらいいのでしょうか? 私はこう考えます。ここには、人間の“迷い”があるからだと。

 『大自然讃歌』の一節を読みます。この一節は、私たち人間がもつ「個の意識」の意義について、天の使いが説いている箇所(p.35-)です--

 天の童子さらに反問すーー 
 「師よ、神の愛・仏の四無量心は
 個の意識と相容れぬに非ざるや」。
 天使説き給う--
 個の意識の目的は
 自らの意(こころ)をよく識(し)ることなり。
 自らの“神の子”たる本性に気づくことなり。
 多くの人々
 自ら本心を欺き、
 他者の告ぐるままに
 自ら欲し、
 自ら動き、
 自ら倦怠す。
 自らを正しく知らぬ者
 即ち「吾は肉体なり」と信ずる者は、
 肉体相互に分離して合一せざると想い、
 利害対立と孤立を恐れ、
 付和雷同して心定まらず、
 定まらぬ心を他者に映して
 自らの責任を回避せん。
 されど自らの意をよく識る者は、
 自己の内に神の声を聴き、
 神に於いて“他者”なきこと知るがゆえに、
 自己の如く他者も想わんと思いはかることを得。
 即ち彼は、
 神に於いて自と他との合一を意識せん。

 ここには、自分の本心を忘れているために、コマーシャリズムに振り回されて、本当は自分が欲していない商品や、欲していないサービスを追い求める現代人の姿が描かれています。このような私たちの行動は、“迷い”の結果なのです。その迷いの原因は何かといえば、ここではそれは「自らを正しく知らない」こと、「自分は肉体だ」と信じているからである、と説いています。私たちは、自分が一個の肉体であると信じると、この小さな肉塊のままでは根本的に何かが欠落していると感じます。すると、いろいろな物やサービスを外から付け加えることで、その心の欠乏感を取り去ろうとします。こういう心理状態にある人は、コマーシャリズムに踊らされやすい。自分の中にしっかりとした判断基準がないので、他人や企業の判断基準を無批判に受け入れ、コマーシャルが「これがいい」「これが流行だ」「これが進歩だ」と言うものを得ることが、人生の目的だという錯覚に陥るのです。別の言い方でこれを表現すると、「感覚的な刺激の強さと効率性/即効性に魅力を感じる」ということになります。

 私は最近、妻と一緒に『鬼滅の刃』(きめつのやいば)というアニメ作品を見る機会がありました。私は若いころは漫画が好きだったのですが、大人になってからはアニメと言えば宮崎駿(はやお)さんの作品以外はほとんど見ることがなかったです。しかし今回、この作品が日本で異常なブームになっていると聞いたので、一体どんなに素晴らしい作品かと思ってネット上で見たのであります。そのきっかけは、ニュース報道です。日本のある神社で頒布されているお守りが、ネット上ではそのお守りの頒布金の何倍もの値段で売られているというのです。生長の家総本山でもお守りは頒布されていますが、それがネットオークションで高値で売れるなどという話は聞いたことがないので、よほど素晴らしいお守りなのだろうと思いました。が、事実は、お守りは普通のものでした。普通でないのは、そのお守りや神社とは直接関係がない『鬼滅の刃』の人気なのです。

 このアニメの主人公は「竈門炭治郎」(かまどたんじろう)というのですが、その苗字の「竈門」という言葉が使われている神社が全国にいくつかあるのですが、そこをアニメファンが“聖地”として訪れるブームが起こっているのです。で、「竈門」がついたお守りを持っていると、このアニメの主人公のように、鬼を上回るようなパワーがもてるとか、そういうパワーに自分が守ってもらえるとか……そんな話が作られ、それを信じる人々がどんどん増えているようなのです。ウィキペディアの描写によると、このアニメは最初は漫画の単行本として16巻まで出版されましたが、2019年の春からテレビでアニメとして放送されたそうです。すると、「放送終了から約1か月後の10月23日時点で累計発行部数1600万部を突破、約1か月で累計発行部数を400万部増やし、さらに約1か月後の11月27日には累計発行部数2500万部、最新18巻は初版100万部を刷るなど、2000万部ほど部数を伸ばしている」といいます。そして、「シリーズ累計発行部数は単行本22巻の発売時点で1億部を突破する」そうです。

 こんな話を知ってみると、このアニメ作品がよほど素晴らしい内容だと考えない方がオカシイではないでしょうか? で、私と妻はある晩、ネット経由でこのアニメドラマの第1回と第2回を見ました。オニが人間にとりつくと人間がオニになり、人間を食べるという前提で、人間がオニと戦うというストーリーで、作品のほとんどの場面は、山の中でのオニと人間の派手で残酷な戦闘シーンなのです。ストーリーが荒唐無稽であるだけでなく、戦闘シーンで使われる武器や妖術なども全く現実離れしていて、私は見ていてウンザリしました。

 ウィキペディアの説明では、このアニメは「大正時代を舞台に描く和風剣戟奇譚。作風としては身体破壊や人喰いなどのハードな描写が多い」といいます。まさに、その通りだと感じました。

 私はここで、この漫画の作者や作品自体の批判をするつもりはありません。世の中には、いろいろな発想からいろいろな作品を生み出す人があっていいのです。多様性は大切です。ただ、その多様な表現の中の1つか2つに焦点を絞って、「これを選ばなければ世の中に遅れている」と跳びつく姿勢、あるいは跳びつかせる姿勢が問題だと思います。『大自然讃歌』にあるように、

 利害対立と孤立を恐れ、
 付和雷同して心定まらず、
 定まらぬ心を他者に映して
 自らの責任を回避せん。

 という態度が、問題なのです。

 ここで皆さんに気づいていただきたいのは、このブームの背景には、私が先ほど指摘したように、「感覚的な刺激の強さと効率性/即効性に魅力を感じる」という私たちの弱さ、あるいは“迷い”があることです。今のブームは、その弱さや迷いをうまく利用して作られているのでしょう。今回は、そのブームに宗教が利用されているという側面がある点が、とても残念です。
 さて、「刺激の強さを求める」という心境とは、アニメ作品の虜になることだけを指しているのではありません。その中には、「よく知っている近くのものより、遠くにある知らないものを求める」心が含まれます。また、「小さいものより大きいもの」「当たり前のものより、珍しく、異常なものを求める」心が含まれます。そういう欲求にこたえるためのサービスや商品が、今の世の中にはあふれています。私は何のことを言っているのでしょう? それは、輸入品や海外ブランドを求める心、海外旅行や危険な冒険を求める心、よく知っている田舎よりも変化の激しい都会の生活を求める心……などです。私は、そういう心をもってはいけないと言っているのではありません。先ほども言ったように、人間は「感覚的な刺激の強さと効率性/即効性に魅力を感じる」ようにできています。これは、「人間には欲望がある」と言っているのと、意味はほとんど変わりません。しかし、「人間は欲望である」とか「人間は欲望の塊である」という意味では決してありません。『大自然讃歌』では、人間の欲望は悪であるとは説かれていません。

 次の一節(p.42)を思い出してください--

 肉体は神性表現の道具に過ぎず、
 欲望もまた神性表現の目的にかなう限り、
 神の栄光支える“生命の炎”なり。
 ……(中略)……
 されば汝らよ、
 欲望の正しき制御を忘るべからず。
 欲望を
 神性表現の目的に従属させよ。
 欲望を自己の本心と錯覚すべからず。
 欲望燃え上がるは、
 自己に足らざるものありと想い、
 その欠乏感を埋めんとするが故なり。

 ここに書いてあることは、欲望と自分は同じではないから、その2つを切り離して、欲望を制御し、神性表現の目的に使おう、ということです。そのような生き方を私たちの居住地で実践するにはどうしたらいいでしょうか? その一つが今回、私が最初に引用した運動方針の方策になると考えます。その方策とは、私たちが自分の居住地の「固有の自然の恵みと、その自然と調和した文化的伝統に感謝する」ということです。感謝するためには、まずその対象をよく知らなくてはなりません。自分の居住地に固有の自然の営みとは何であるか? これは、一般的な「日本の自然」 の営みのことではありません。例えば私の場合、八ヶ岳南麓の大泉町に固有の自然とは何であるか、を知ることです。また、「その自然と調和した文化的伝統」を知らなくてはなりません。戦後日本の急速な経済成長にともなって、高速道路や新幹線が通り、飛行場ができて、日本の各地にあった「文化的伝統」の多くが失われたかもしれません。その場合は、何が失われたかを知る必要があります。失われたものの中で、「自然の営みと調和したもの」があったら、その伝統を顕彰し、場合によっては復活させるのも、「感謝」の思いの表現です。単に復活させるのではなく、現代人の視点から、新しい、ユニバーサルな要素を付け加えることも「感謝」の表現でありえます。そういう活動を、私たちはこれからやっていこうというのが、ここにある運動方策なのです。

 かつて私は、どこかの会合で皆さんに、自分の住んでいる県で定めた「県の花」「県の木」が何であるかをご存じですか、と尋ねたことがあります。これを案外知らない人が多かったですが、今回の新しい方策は、「県全体」のことと関係はしていますが、私たちそれぞれの居住地という、さらにローカルな自然について、またその土地の伝統的文化について知ろう、顕彰しようという活動です。これには「数」の目標はありませんが、内容が多岐にわたるため、従来型組織がバラバラに行うのではなく、PBSの活動やネットの活用を通して広い範囲の人々との協力で行うのが適切かもしれません。ぜひ、皆さま方のこれまでの経験や知識、地域の人々とのつながりを生かして、力強く展開していってください。

 それではこれで、私の本日の話を終わります。ご清聴、ありがとうございました。

谷口 雅宣

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2020年5月12日 (火)

ボードゲーム「コロナバスターズ」について

 本年4月19日付で、私はフェイスブック上で運営する「生長の家総裁」のページに「コロナバスターズ」というボードゲームを発表した。このゲームは、同じくボードゲームである「オセロ」からヒントを得た対戦ゲームで、相手の円盤(石)を自分の2個の円盤で挟むことで、自分の円盤としてしまう。この「敵であったものが味方になる」というゲームの基本が、私が表現したかったポイントの1つである。

 このゲームは「新型コロナウイルス感染症」という面白くないことから生まれた。それなのに「面白い」ことを目的とするゲームにして遊ぶというのは、不謹慎だと感じられた人もいるだろう。実際、このゲームの発表後、私に対して「ゲームは恐怖心を煽る」とか「日時計主義でない」などという不満を漏らす人もいた。しかし、ゲームの内容を知れば、この種の不満は的外れであることが分かったはずだ。ゲームでは、ウイルスを自分の味方につけることで、感染拡大を防げることになっている。この筋書きが荒唐無稽でないことは、本文の後半で述べる通りだ。

 しかし、その前にひと言――
 この病気により、世界中でたいへん多くの方々が亡くなっていることに、私は心が傷む。それだけでなく、経済活動は中断し、失業者は増加を続け、一部の途上国では、国内の政治的対立も加わって貧困がさらに深刻化し、国家の存続にかかわる非常事態にいたっている。そして医療現場では、医療従事者の方々が文字通り「命がけ」の努力を続けられている。このような深刻な事態になる前に、人類は何か予防措置を講じられたはずだ。しかし、実際はできなかった。その原因は何か? この疑問に答えることが、今後の私たち人類全体の行方の吉凶を決めるだろう。

 多くの人々は、こんな悲惨な事態をひき起こす「ウイルス」のことを、とんでもなく“悪い”ものだと考え、恐怖に駆られたり、憎しみに燃えたりするかもしれない。しかし、ウイルスによる感染症の歴史を振り返ってみると、エイズや狂牛病、鳥インフルエンザ、ジカ熱、デング熱、SARS、MERS……など、その原因を作っているのは、実は人間の方であるという事実に突き当たるのである。今回の感染症も同様の起源があることは、各方面から指摘されているし、私もすで本欄などで述べた。

 ウイルス感染症の誕生と人間との関係をひと言でいえば、人間は自然界のすみずみに、そして自然の奥深くにまで手を伸ばし、自己本位の目的でそれを改変し、また無秩序に利用してきたことで、永年安定していた自然界のバランスを崩しているということだ。このアンバランスの状態から、自然がバランスを取り戻そうとする過程で、人間に致命的な毒性をもつウイルスや細菌が生まれ、あるいはもともと存在していても、人間と関係しなかったウイルスや細菌が、人間の生活圏に飛び込んでくるのである。語弊を恐れずに言えば、人間は自然を壊しながら自然に近づきすぎている結果、人間に致命的な影響を与えるウイルスの産生に大きく関与しているのである。

 こんな書き方をすると、読者は、ウイルスはもっぱら人間に有害であるとの印象をもつかもしれない。しかし、それは誤りである。人間の遺伝子全体のことを意味する「ヒトゲノム」という言葉があるが、このヒトゲノムの8%以上は、人間が進化の過程で関係してきたウイルスゲノム、またはその残骸からできていると考えられている。つまり、ウイルスは人類の生存と発展に有益に働いてきた証拠が、私たちの遺伝子の中にきちんと残っているのだ。例えば、人間を含む哺乳動物は、母親とは遺伝子が異なる胎児を、拒絶反応を起こさずに長期にわたって母体内で育てる能力をもっている。これには先に述べた“内在性ウイルス”の働きが関与しているとされている。

 ウイルスが感染すれば、感染した人(宿主)はすぐに病気になるという考え方も、多くの場合、間違っている。そうではなく、大抵は感染自体は無症状に終わる。しかし、ウイルスがまだ新しい宿主(ヒト)に適応しきれていない今回のような場合に、重篤な症状が起こるのである。この激しい症状は、感染したウイルスに対する宿主側の免疫反応であることが多い。つまり、私たち人間の側が新しい“異物”に対して激しい拒絶反応を起こすのである。ウイルス学の知見によると、特定のウイルスが人間と接触する時間が長くなると、双方が相手に適応する形で症状の激しさを減らしていく傾向があるという。そして、病気の症状を引き起こしにくくして、しばしば長期間の(無症状の)感染を続けるという。つまり、ウイルスと宿主とは一種の“平和共存”を達成するのだ。

 ウイルスと宿主とのこのような関係を考え合わせると、私たちは今回の新型コロナウイルスの登場を“悪魔の仕業”だとか“神の処罰”だなどと考えて恐怖し、あるいはウイルス全般に対して憎悪の感情を振り向けることは見当違いであることが分かる。人類を集合的に「私たち」と呼ぶ場合、この新型コロナウイルスは、私たちが自然破壊とグローバル化の過程で作り出したものである。また、その誕生の原因としては、宿主となる野生動物(コウモリやセンザンコウの名が挙がっている)と人間との必要以上の濃厚で密接な接触が挙げられるのだ。

 オーストラリアのABCテレビは、今回の新型コロナウイルスによる大規模な感染症拡大は、「人間の地球規模の自然と動物軽視」が原因だというジェーン・グドオール博士(Jane Goodall)とのインタビューを、今年4月11日付でウェブサイト上に公開した。グドオール博士はアフリカでのチンパンジーの研究で有名で、自然保護の必要を説き続けてきた環境運動家でもある。記事の中でグドオール博士は、ウイルスが動物から人間に感染する原因の一つは、動物の生息地の減少と大規模農法にともなう森林伐採だと述べ、これにより動物同士の、また動物と人間との接触が深まり、異種間での感染に結びついていると語っている。

 また、同国のチャールズ・スタート大学(Charles Sturt University)の生物学者、アンドリュー・ピーターズ博士(Andrew Peters)は、今回のコロナウイルス感染症のほかにも、同国ではいくつかの感染症の危険が拡がっていると指摘している。その1つは、ヘンドラウイルス(Hendra virus)による感染症で、このウイルスはコウモリから人と馬に感染して宿主を死に至らせるといい、「この感染症は、オーストラリアの海岸地域から森林が失われ、冬場のコウモリの生息地が減少していることが原因だと言われている」と語っている。

 「コロナバスターズ」のゲームでは、ウイルスは取扱い次第で人間の敵にも味方にもなる。私たちは、科学的にも正しいこのウイルスの特徴を知りながらゲームを行なうことで、感情に流されず、理性的な判断と方法で、この問題の解決に取り組む――そういう精神を広めていきたいものである。

 谷口 雅宣 

【参考文献】
〇西條政幸著『グローバル時代のウイルス感染症』(日本医事新報社、2019年)
〇デービッド・R・ハーパー著/下遠野邦忠、瀬谷司監訳『生命科学のためのウイルス学――感染と宿主応答のしくみ、医療への応用』(南江堂、2015年

 

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2020年4月11日 (土)

コロナウイルスは何を教える (2)

 生長の家は、山梨県北杜市にある国際本部“森の中のオフィス”と、同本部の広報・制作/編集部門がある別棟のメディアセンターの2つの施設を明日、4月12日から同21日まで閉鎖することにした。これは、同メディアセンターに勤務する男性職員が4月初旬から発熱や倦怠感などを覚えて体調が優れず、4月7日からは休務していることを重く見たもの。同職員はPCR検査をまだ受けていないが、検査を実施して結果が出るまで対応を長引かせるよりは、新型コロナウイルスの感染拡大防止を最優先に考え、迅速な対応を行なうことにしたもの。2施設の閉鎖中の業務は、基本的に職員が「在宅」で行うことになる。

 今回の新型コロナウイルスによる感染症の世界的蔓延は、かつて例のない規模と速度を伴いつつ、人命や社会の経済活動に甚大な影響を及ぼしている。私は前回のブログで、この感染症によって現代社会が甚大な被害を受ける理由の1つとして、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」を挙げた。この表現は、社会のあり方のマイナス面を強調したものだが、プラス面を強調して言い直せば、今の社会の営みは細部まで分業が進行しているため、物事が正常に進んでいれば“便利で効率がいい”ということなのだ。

 しかし、21世紀の世界での一番の問題は、「物事が正常に進んでいる」という最も基本的で、重要な前提が崩れつつあることである。戦後の日本は、9年前の3月11日までは、「原発が正常に動いている」という基本的な前提が存在した。しかし、東日本大震災と東京電力の業務上の判断ミスなどが重なって、未曾有の原発事故が起こった。戦後の世界の経済発展は一見、「物事が正常に進んでいる」という認識を私たちに与えたが、その陰で自然破壊や温室効果ガスの大量排出の影響が無視され続けてきたため、今や地球規模の気候変動が不可逆的に起こっていて、その影響として、台風やハリケーンは巨大化・凶暴化し、豪雨が河川を決壊させ、人家を押し流し、旱魃が肥沃の地を不毛化し、人間の手に負えない山火事が都市部まで広がり、そして、これまでにない新種のウイルスや細菌による感染症が世界に拡がっているのである。これらの一連の“マイナスの変化”は、人間の活動から生まれているという事実を、私たちはこれ以上無視してはならないのである。

 人間が原因を作っているために起こる現象のことを、「自然現象」とか「自然災害」と呼んではならない。それらはすべて「人為現象」「人為災害」と呼び、人間に改めるべきところがあれば、改めなければなくならない。「自然が相手だから仕方がない」という言葉は、一時代前には妥当だったとしても、現在ではあまり物を考えない人のゴマカシの弁でしかない。私は2012年に出版した『次世代への決断』(生長の家刊)という本の中で、「人間が生んだ地球」(the anthropogenic Earth)という言葉を紹介したが、この言葉の通り、現在私たちが足を踏みしめている地球は、そこに生える植物、空を飛ぶ鳥、動き回る虫や獣、そして目に見えない細菌やウイルスを含めて、人間の影響を受けているものの方が、受けていないものよりも圧倒的に多いのである。

 地球環境を含む自然界の秩序を無視または軽視して、“便利で効率がいい”という方向にのみ社会を発展させてきたことが、今ある「人間が生んだ地球」の原因である。この表現を“裏返し”にすれば、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」の結果を、私たちは今目の前にしていると言えるだろう。だから、現在の社会で私たちが“便利”と“効率”を考えるときには、それらの裏側にある「過剰なスペシャリゼーション」の問題を思い出してほしい。「過剰なスペシャリゼーション」とは、自分の力や努力によらず、他人や他者(社会制度やインフラ)に生活の多くのものを依存しているということである。自立のための知恵や技術の習得、自律心・独立心を放棄して、金銭によって何でも得られると考えることである。そういう考え方の誤りを、新型コロナウイルスは私たちに教えている、と私は思う。

 今、世界の多くの人々ーーとりわけ都市で生きる大勢の人々が、自宅や自室から外に出られず、出ても自由に歩き回れず、買い物に制限を加えられ、娯楽や遊興が白眼視される風潮を感じていることだろう。そんな時、他に依存せず、他から求めず、慣れないことも自ら行い、自ら学び、自ら製作し、他に与える生き方をしてみるのはどうだろう? そう、これが「メンドー臭い生き方」である。しかし、これが「過剰なスペシャリゼーション」から自由になる唯一の方法だと私は思う。物事が正常に進んでいたときには、すべて省略していたことでも、この機会に自分で頭を使い、手を使ってやってみるのである。きっと「不自由」と思っていた領域が減り、内心の「自由」が拡がっていくことを体験されることと思う。

谷口 雅宣 拝

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2020年3月22日 (日)

コロナウイルスは何を教える

 本年3月1日の生長の家春季記念日でも、それに続く3月11日の「神・自然・人間大調和祈念祭」でも述べたように、今回の新型コロナウイルスの地球規模の拡大が教えていることは、数多くある。そのうち、前記の2回の機会で強調したのは、「人間中心主義の弊害」ということだった。それを別の言葉で表現すれば、私たちは『生長の家』誌創刊号にあった「生長の家の宣言」の第1項が目指していた「生命を礼拝する」ことも「生命の法則に随順する」こともせずに、人間の物質的、肉体的欲望を満足させることを至上目的として、長期にわたって自然破壊を進めてきたという事実を指している。このことが、かえって人類社会の脆弱性(ぜいじゃくせい)を増幅しているのである。

 宇宙広しといえども、この「地球」という小惑星にしかない生命与え合いのシステムを、「人間だけがよければいい」という人類エゴが破壊している。私はすでに9年前に発表した「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中で、このことを次のように述べている――

 「多くの生物を絶滅させ、自然の与え合い、支え合いの仕組みを破壊しておいて、人間だけが永遠に繁栄することはありえない。生物種は互いに助け合い、補い合い、与え合っていて初めて繁栄するのが、大調和の世界の構図である。それを認めず、他の生物種を“道具”と見、あるいは道具と見、さらには“邪魔者”と見てきた人間が、本来安定的な世界を不安定に改変しているのである。その“失敗作品”から学ぶことが必要である。」

 今、肉眼には見えない極小の半生物・ウイルスのおかげで、世界中の株式が暴落し、交通機関は停止し、経済活動は極端に縮小し、多くの産業が経営危機や倒産のリスクに直面している。パリのルーブル博物館やニューヨークの公立図書館のような文化施設も次々と閉鎖され、大相撲春場所のような大規模スポーツイベントは軒並みに中止となるか、“観客ゼロ”という珍妙な方式で一見“通常どおり”を維持する努力を続けている。このあとに来るはずだった東京オリンピックが延期されるなどということは、今年初めには誰も予測しなかっただろう。

 このような人類社会の脆弱性は、いったいどこから来るのだろうか? それは、私が先の祈念祭でも紹介したイギリスの科学誌の記事に、分かりやすく説明されている――

「人間以外の動物に棲(す)むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる“動物由来ウイルス病”を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25五億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。動物由来ウイルス病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 このウイルス病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。」

 

 ここにあるように、地球上の生物種と生物種の関係は、何億年、何十億年もの進化の過程で“天敵”と共存してきた。この“天敵”という用語は誤解を招きやすい。これは、「相手の絶滅を期して死闘する相手」ではない。前掲の文章にあるように、「時間が経つうちに相手に合わせて致死率を下げる」などして共存してきた捕食ないし寄生関係にある他の生物種のことだ。ところが人類だけが、多くの生物種を文字通り絶滅に追いやっている。そのことがかえって「自然の側から“敵”として扱われるような事態」(前掲の祈り)を現出しているのだ。

 もう一つ、今回の新型コロナウイルスの世界的伝播が教えているのは、過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)の弊害である。

 今の世界経済は、専門化による地球規模の分業が極端なレベルにまで進んでいる。ある製品を製造するためには、自前で部品を作るのではなく、外国の特定の会社からAという部品を、また別の国の特定の会社からBという部品を……というように、技術力と効率と価格の点で最も優れている会社に部品の供給を依存する傾向が強い。そうしなければ、他社との競争に勝てない場合が多いからだ。こういう相互依存関係が、網の目のように張り巡らされている。すると、災害などでこの網の目が突然切れると、製品全体の生産がストップしてしまうことになる。それが、今回のウイルス伝播でも起こっている。

 アメリカの外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』は本年3月16日の記事で、このことを「脆弱な効率性(fragile efficiency)」と呼び、実例を挙げて警告を発している。例えば、西ヨーロッパの自動車メーカーが生産する車の小型電子部品は、すべてを1社が担当しているので、その社のイタリアにある工場の1つが今回のウイルス感染で操業停止になると、西ヨーロッパで生産されるすべての自動車の生産がストップしたというのだ。また、ムダを省くために「できるだけ在庫を抱えない」という生産方式も、経済が順調であれば問題ないが、いったん災害や伝染病が発生すると、機能マヒに陥る可能性を生む。“ムダ”とされた製品在庫や部品在庫、生産能力の余剰が、非常時には一種の“安全装置”として働くのに、それが欠落しているからだ。

 このような効率優先、コスト優先の文明の弱点が今、明らかになっているのである。

谷口 雅宣 拝

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2020年3月11日 (水)

「生命の法則に随順する」とは?

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”において「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われ、その様子はインターネットを通じて全世界に放映された。以下は、同祈念祭での私のスピーチの概略である--

 皆さん、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」にお集まりくださり、ありがとうございます。今「お集まりくださり」とは申しましたが、ご存じのように、現在、新型コロナウイルスの拡大抑止を目的として、大勢の人間による集会やイベントは行わないようにとの政府の方針に協力しているので、今回のこの祈念祭では、ほとんどの参加者はインターネットを経由して、お祭を間接的に視聴するという方式を採っています。にもかかわらず、恐らく大勢の方がここまでの祈念祭の様子に合わせて黙祷を捧げたり、神想観を実修されたと考え、心から御礼申し上げる次第です。ありがとうございます。

 さて、私は去る3月1日の立教記念日に、『生長の家』誌創刊号の裏表紙にある「生長の家の宣言」という歴史的文章を引用して、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」という言葉の意味をお話したのであります。その時、この「生命の法則」とは「生命顕現の法則」であって、それは決して「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が示すように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、力まかせにいわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということを述べました。また、「生命を礼拝する」という意味は、「人間だけを尊重するのではなく、人間を含めたすべての生命を尊重する」ということだとお話しました。しかし、人間はまさにその「人間だけを尊重する」人間至上主義的な生き方を長年、続けてきたために、今日、地球環境問題を含む深刻な問題に直面しているのですね。そのことを私は、『今こそ自然から学ぼう』というこの本から引用して、「自然への拷問が人間への拷問となっている」という言い方もしたのであります。

 私たちは現在「自然と共に伸びる」運動というのをしています。この「自然と共に伸びる」という意味は、これまでの“古い文明”のように、人間の幸福のためだけに自然を破壊する--例えば、生長の家の過去の運動を振り返ってみると、月刊誌の購読数や購読者を増やすために、その原料である紙パルプの消費を増大させ、森林伐採を促進し、あまつさえ大量の月刊誌が配布されずに多くの会員宅に積まれてあっても構わない--そんな考えではいけないということですね。こんな人間至上主義に陥らずに、運動が進展することと自然界が繁栄することを共に実現しようという運動であります。

 今日はその目的を念頭に置きながら、人類は今後、自然とどう付き合っていくべきかを考えたいのです。「生長の家の宣言」の第1項にあった「生命を礼拝する」とは、また「生命の法則に随順する」とは、具体的にどんなことをするのかということです。

 私たちは今、新型コロナウイルス(COVID-19)による感染症の拡大によって、多くの重要な教育を受けていると感じます。これを生長の家では“観世音菩薩の教え”とも言いますね。先ほど、白鳩会総裁が読まれた、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中にも、この言葉は出てきました。「大地震は“神の怒り”にあらず、“観世音菩薩の教え”である」とありましたね。そこで、この教えの1つとして、私が立教記念日の時に申し上げたのは、この感染症の原因は、ウイルスとか動物の側にあるのではなく、人間の側にあるということでした。

 その時は、センザンコウという動物が、ワシントン条約で交易が禁止されているにもかかわらず、大量に取引きされているという話をしました。しかし、その際も申し上げましたが、今回のコロナウイルスの感染源ーー正確には「中間宿主」と言いますが、それはまだ確定されていません。また、センザンコウは単にウイルスを仲介しただけで、コロナウイルスはもともとコウモリと共生しているという学者もいるようです。そうです。コウモリはコロナウイルスを体内にもっていても、平和共存していて病気にはならないということですね。自然界には、そういう野生動物はたくさんいるし、私たち人間の体内にも沢山の細菌が棲んでいて、人体との間にギブアンドテイクの関係が成立しているのです。

 ところが、このような自然界のバランスを壊すと、生物同士が互いに傷つけ合う現象が起こるようになる。私がセンザンコウの例を挙げたのは、センザンコウが“悪い動物”だという意味ではなく、それを扱う人間の側に問題があるということでした。人間は、食用や医療の用途にするために、多くの動物を自然状態から引き離して、動けないほどの狭い場所に囲い込み、そこで残虐な方法で大量に屠殺するのです。

 この方法は、センザンコウだけでなく、ブタもウシもニワトリもヒツジも何もかも、現在、世界中で大々的に行われていることです。そういう食肉産業を発達させてきたのが、私たちの中にある人間至上主義の考え方です。本来動き回るのが自然の生き方だった動物たちを、狭い空間に閉じ込めながら、無理やりに不自然な食事を与え、彼等の苦しみや悲しみを全く無視して殺戮する。動物を殺せば当然、血や体液が周囲に飛散して、人間がそれを浴びることになります。人間に近い家畜の扱いがこれですから、野生動物を扱うにも、それとほとんど変わらない、いやそれ以上に残酷な方法を使うのです。

 このような屠殺によって、人間と動物の肉体の一部が混じることになります。そこで皆さんは、これを「自然と人間が一体」になったと考えますか? あるいは、ブタやウシの筋肉や内臓を人間が食することで、「自然と人間は一体だ」という自覚が生まれると思いますか? 私は断じて、そう思いません。これは動物たちの感情や意思をまったく無視して、人間本位の役割を強制する「自然侮蔑」の心、「生命功利論」の表現だと思います。生長の家の目的は、先に触れたように、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」ことですから、私たちは、その考えと反対の立場にある肉食の習慣をやめるという決断をしたのであります。

 では、ウシやブタのような家畜を食べることと、今回疑われているような野生動物を殺して人間の薬用や食用にすることの違いはどこにあるのでしょう? これに答えるには、質問を言い換えた方がいいかもしれません。私たちは家畜を屠殺して食することを長年やってきましたが、では、なぜ家畜の身体に棲んでいるウイルスや細菌が人間に感染して、病気を発症しないのでしょうか? また、発症してもそれが世界中に拡大して経済活動を阻害する、今回のような大被害を起こさないのでしょうか? 

Ns020820   この疑問に答えてくれる記事を、私はイギリスの科学誌『ニューサイエンティスト』の中に見つけました。ここにあるのは、今年2月8日付の同誌の表紙で、ご覧のように「コロナウイルス」の特集をしています。そして、「Viruses from animals」(動物からくるウイルスたち)という題の記事には、こうあります:

「人間以外の動物に棲むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる zoonotic disease (人間に感染する動物病)を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。人間に感染する動物病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 この動物病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。感染後の1日以内に人間が死んでしまうと、ウイルスはそれ以上繁殖できない。動物の体内にいるウイルスがヒトに感染するためには、そのウイルスに感染している動物と人間が接触しなければならない」

 ということで、動物のウイルスや細菌が人間に感染するためには、人間と動物との距離が接近する必要があることが分かります。現在の文明が進む方向で、それが起こっているのです。人間が自然を破壊して動物に近づいている。別の言い方をすれば、人間が不自然に近く、自然に近づいているということです。これは肉食の習慣が世界的に拡がっていることも指せば、それだけでなくて、人口爆発によって、都市が拡大し、森林がなくなり、動物の住処がなくなり、あるいは動物の食べ物が減って、生きるために動物たちが人家や民家の近くまで来ることも含んでいます。私が申し上げたいのは、生長の家がいう「神・自然・人間は本来一体」という教えは、人間が他の生物と物理的に一体になるという意味ではないということです。

 自然界を観察すれば、それぞれの生物種の個体と個体との間には、自然な距離があります。それを「縄張り」と呼ぶこともあります。同一種の生物だから、いつも互いに密着して生きているわけではない。子供と親は当初は密着していても、成長すると互いに距離をもつようになる。子供がまだ密着していたいという素振りを見せると、親の方が自分の子を攻撃することもありますね。私たちはそういう生き方も全部含めて「自然」と呼ぶのです。そう考えると、異種の生物間に物理的な距離があり、それが守られているということが「自然」なのであります。また、それが「生命の法則」だと考えることができます。すると、「生命の法則に随順する」ということは、人間があらゆる生物を物理的に近くに引き寄せて、自分たちの用途に供しようとすることは、「生命の法則に随順しない」ということになる。

 私は、今回の新型ウイルスによる感染症の拡大は、私たちが人間至上主義によって、動物たちとの間にあった自然な距離を撤廃し、不自然な距離にまで近づいていることに対する“警鐘”だと感じるのであります。自然を自然のままにしておかずに、欲望をもって引き寄せ、徹底的に利用する、あるいは利用しない部分は粗末にかなぐり棄てる。そういう“古い文明”が進めてきた生き方をやめ、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」必要がある。人間以外の生物と私たちとの間には“適切な距離”があるのが自然であり、生命の法則に随順することである--今回の感染症が教えていることの1つは、これだと思います。また、それが私たちが目指す“新しい文明”の方向であることを、ここで確認したいのであります。

 それでは、これをもって今回の「神・自然・人間の大調和祈念祭」での所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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2020年3月 1日 (日)

すべての生物を礼拝・尊重する

   今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”で「立教91年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式」が行われた。以下は、同式典での私のスピーチの概略である--

 皆さん、ありがとうございます。

Coronavirus2019 本日は、例年ならば「生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」を長崎の生長の家総本山で行なう日でありましたが、ご存じのように、新型コロナウイルスの感染防止対策に協力するため、急遽、式典の会場を総本山からここ山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”に移し、規模を大幅に縮小して、立教記念日をお祝いする会をもつことになりました。そして、この会場での式典の様子をできるだけ多くの幹部・信徒の皆さんに視聴してもらうために、インターネットで中継しているところであります。

 皆さん、本日は「立教91年」を迎えたこと、誠におめでとうございます。「立教91年」ということは、生長の家の運動が始まってから90年が経過し、今日から91年目に入るということですね。

 私はこの立教記念日には、立教の端緒である3月1日付の月刊誌『生長の家』創刊号を引き合いに出して、その創刊号の中の記事を様々な角度から紹介し、生長の家の創始者であられる谷口雅春先生、輝子先生の立教時のお気持や、視野や関心の広さ、知識や見識の素晴らしさ、神への信仰の深さなどについて述べてきたのであります。今日も、それと同じことをするのですが、今回は、創刊号の表紙の反対側、つまり裏表紙に掲げられた「生長の家宣言」について、皆さんと共に考えたいのであります。

 ここにあるのは、今日、「七つの光明宣言」と呼ばれているもの、これは『生命の實相』頭注版第1巻に収録されていますが、そのの“原型”とも言うべきもので、次の6項目です--

1.吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
2.吾等は生命の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。
3.吾等は人類が無限生長の真道を歩まんがために生命の創化の法則を研究す。
4.吾等はリズム即ち言葉を以て生命の創化力なりと信ず。
5.吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんがために善き言葉の雑誌『生長の家』を発行す。
6.吾等は心の法則と言葉の創化力を応用して、病苦その他の人生苦を克服すべき実際方法を指導し、相愛協力の天国を地上に建設せんことを期す。

 この6項目の最初と2番目の項目に、「生命の法則」という言葉が出てきます。また、第3項目には、「生命の創化の法則」という言葉があって、この言葉は、どうも「生命の法則」をより詳しく述べた言葉と思われます。そう考えると、第4項にある「生命の創化力」という言葉は、この「生命の創化の法則」と関係が深いと考えられます。すると「言葉の創化力」という言葉も、「生命の創化の法則」と密接に関係していることになり、ここに挙げた6項目のすべてが、どうも「生命の創化の法則」「生命の法則」を基本として書かれていると、解釈できるのであります。

 では、その「生命の法則」とは何かといいますと、それは『生命の實相』第1巻に「『七つの光明宣言』の解説」として、雅春先生の解説が載っているのであります。ただ、『生命の實相』では、第2項は「生命の法則」ではなく「生命顕現の法則」という表現になっている点、創刊号の表記とは違います。そして、生命顕現の法則とは何かについて、解説には「生命顕現の法則とはなんであるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります」とあります。

 解説は、次のように続きますーー

「われわれは事実上生まれてきて生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき、生命の法則は“生長”することにあるので退歩することではないことがわかるのであります。退歩する者は生命の法則にかなわないのでありまして、“生命の法則”にかなわないものは生命の世界においては落後することになっているのであります。」

 ここに書かれたことは、読み方によっては、かなり厳しい指針であると受け取られるかもしれません。今年は日本でオリンピック/パラリンピックがありますが、スポーツにおける“生長”や“進歩”とは、過去の記録を更新していくことですから、「退歩する者は生命の法則かなわず、生命の世界では落後する」ということは、「記録を破れない者は、スポーツの世界では落後する」と言っているようにも解釈できます。

 また、これに続いて『生命の實相』には次のように書いてありますーー

「進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのは、いずれもこの現象(ことがら)をいい表わしたものなのであります。生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩にうち負かされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にもうち負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長する、という厳とした法則によっておのおのの『生命』は宣告されているのであります。」

 これを読むと、生長の家では、生存競争や優勝劣敗--つまり、この世界は強い者が勝って、弱い者は負けていくーーという弱肉強食の世界を肯定しているかのように聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか? この第2項の前に置かれた第1項の説明には、次のようにあります--

「自分自身が尊い『生命』であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることもできるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの『生命』の大元(もと)の『大生命』をも尊び礼拝したくなるのであります。」

 つまり、ここに書かれてあることは、私たちの実相は神の子であり、本質は皆、素晴らしい存在であるけれども、そのことに甘んじてしまっていて、実相を表現する努力をしないのではいけない、ということですね。今、流行っている言葉を使えば--「ボーッとして生きてんじゃないよ!」ということです。

 さて、そこで今日は、今世界中で問題になっている新型コロナウイルスについて少し考えてみたいのであります。生長の家では、すべての現象は、善いものも悪いものも皆、観世音菩薩の教えであると言いますから、今回のウイルス問題から私たちは何を学ぶべきかを考えましょう。

 先ほど、七つの光明宣言の第1項と第2項を紹介して、私は、人間の生き方として、「自己に宿る“神の子”の真性を表現する努力を怠ってはならない」という意味の話をしました。それが、立教当初からの生長の家の考え方の基本であるわけです。では、人類全体を考えてみた時は、私たちはこの基本的教えに沿って、ここまで生きてきたのでしょうか? 

Beyondanthro  私はこれまで、いろいろの本の中で、人類の歩みを振り返って、神の子の真性がまったく表現されて来なかったとは書きませんでした。しかし、人類の歩みに問題がなかったとも書きませんでした。特に、産業革命後の人類の歩みについては、公害問題を起こし、自然破壊を大々的に進めてきたことに批判的でした。例えば、今から18年前に出した『今こそ自然から学ぼう』という本には「人間至上主義を超えて」という副題をつけて、多くの私たちの考えの根本にある思想を批判しました。はしがきから少し、引用します。ここにはピューリッツア賞を取った生物学者、E・O・ウィルソン博士に触れてこう書いていますーー

「ウィルソン博士は“人類は地球というこの特定の惑星上で他の生きものといっしょに進化してきた。私たちの遺伝子の中には、これより他の世界はない”と言っている。この言葉を、私は生物の遺伝子操作によって世界が改善すると考えているすべての人々に読んでほしい。そして味わってほしい。ここで“他の生きもの”と博士が言っているのは、千や二千の種類ではない。何十万種、何百万種の生物を指しており、そのなかのほとんどは、どのような生き方をし、どのような機能を自然界で果たしているのか、人類はまだまったく知らないのである。
 が、我々はその生物種を急速に絶滅に追い込んでいる。自分の目先の利益を快適さのために、自然界の調和と安定を支えてきた無数の生物種を犠牲にし、少数の生物種だけを殖やし、新種を開発し、あまつさえ別種の生物との間で遺伝子を入れ替えたり、つけ加えたり、機能を止めたり、混ぜ合わせたりする作業に血眼になっている。これらはすべて、“自然は人間に不都合にできている”という考え方の産物だ。」

「生長の家創始者、谷口雅春先生の言葉を引用させていただけば、“宇宙全体が神の自己実現であるのである。”(天下無敵となる祈り)この“宇宙”とはもちろん“人間”だけの棲家(すみか)ではない。それを忘れて、人間だけの“天国”や“浄土”をつくることはできない。そのような人間至上主義は、個々の肉体としての人間を至高のものとする“肉体人間至上主義”である。生長の家は“人間は神の子”と教えるが、それは“肉体に執着した現象人間”が尊いという意味ではなく、宇宙の一切の存在を神の自己実現として観ずることのできる“本来の人間”(仏)が至高だという意味である。
 人間の多くがそのような自覚に達するには、まだ時間がかかる。それまでは、自然はその自覚を促す“警鐘”を我々の内外に鳴らし続けるだろう。我々はその意味を正しく理解し、間違いを正していかねばならない。自然を拷問にかけることで、我々自身を拷問にかけることは避けねばならない。」

 ここに「自然を拷問にかけることで、我々自身に拷問をかけている」という表現がありますが、ひと言でいうと、それが今回の新型コロナウイルスの世界的拡大から学ぶべきことなのです。先ほどの文章の中に「狂牛病」と「口蹄疫」という家畜の伝染病のことが出てきましたが、このあとには「SARS」とか「MERS」の流行があり、そして今回の新型コロナウイルスの事件があるという、一連の新しい感染症拡大は、人間の側に大きな原因があると考えるべきなのです。

 少し説明をしましょう。SARSは「severe acute respiratory syndrome」の略で、「重症急性呼吸器症候群」と訳されています。MERS「Middle East respiratory syndrome」の略で、「中東呼吸器症候群」です。それと今回のウイルスの共通点は「コロナウイルス」である点です。「コロナウイルス」は太洋の「コロナ」の形に似ていることから、その名がついたといいます。写真をご覧に入れますーー

 SARSは、2002年11月に中国広東省で発生し、翌年の7月末に終息するまでの9カ月に32カ国へ広がり、8,096人が発症し、死者は774人に上りました。致死率は9.6%といいます。MERSは、2012年9月以降、サウジアラビアやアラブ首長国連邦などの中東で蔓延し、3年後の2015年6月半ばまでに1,293人に感染し、うち458人が死亡しています。SARSの原因については、まだ確定的になっていませんが、ハクビシンだろうとか、もともとはコウモリがもっているウイルスだとか言われています。これに対し、MERSのウイルスはヒトコブラクダがもっているそうです。それとの“濃厚接触”が原因のようです。今回の新型コロナウイルスによる呼吸器症候群も、原因はまだ確定していませんが、センザンコウが中間宿主ではないかという説が、有力視されています。
これは2月22日付の『ナショナル・ジオグラフィック』誌のウェブサイトの記事に載っています--

「センザンコウが本当に新型コロナウイルスの中間宿主であるかについては、まだ正式な論文で発表されたわけではない。センザンコウからヒトにウイルスが感染したことが確認されてもいない。それでも、2020年2月現在、検証されている説の一つであり、アジア(とりわけ中国とベトナム)でのセンザンコウの消費と、大規模な違法取引に対する監視の目が厳しくなると考えられている。」

 センザンコウがどんな動物かを見てみましょう。

 センザンコウは、哺乳動物の中の「鱗甲目」に所属する動物の総称で、英語では「pangolin」といいます。アリやシロアリを食する。世界に8種類いて、アジアに4種、アフリカに4種。大きさは、小さい種類がイエネコぐらいで、大きい種類は体長75~85センチ。ワシントン条約で取引が禁止されているが、「世界で最も多く密売されている哺乳類」と言われ、毎年数万匹が密猟されている。とりわけ近年になって押収量が増加している。これは、中国が2018年に象牙の国内取引を禁止したことと関係があると見られている。象牙の値段が下がり、取引きのウマ味がなくなったため、犯罪組織がセンザンコウの取引に切り換えた可能性がある。ある調査によると、2016年には平均で2.4トンだったセンザンコウの押収量は、2019年には6.8トンまで急増している。

 センザンコウは肉が珍味とされ、ウロコは伝統薬の材料に使われ、ウロコの取引き価格は1匹あたり2700ドルという(2017年現在)。また、胎児のスープは、男性用の強壮剤になるとして売られている。またウロコは、インドではリウマチに効くお守りとして用いられ、アフリカでは魔除けとして用いられ、ベトナムではジャライ族が民族楽器クニーの素材として使うという。

 今回の新型コロナウイルスの感染は、武漢市の市場から始まったと言われているのですが、動物を生きたまま取引きする現場というのは、いわゆる「濃厚接触」が頻繁に起こることが分かります。動物は、センザンコウに限らずいろいろな種類のものが、小さな籠に入れられて市場の狭い空間に積み上げられたりするからです。これは皆、人間のためだけにそうするのです。自然界では、広い森や草原などで、外敵から身を守るためには、あるいは自分の縄張りをもつために、動物と動物の間には必然的に距離が生まれます。ところがそれを人間が市場で売買したり、飼育したりする場合には、そんな距離がなくなり、同種の動物も異種の動物も一緒にされて“満員電車”のような状態に長期に置かれます。また、殺されて肉になる場合は、血液、体液、内臓などが人間と直接接触する。そこに、人間がもともともっていない細菌やウイルスが、人間の体内に入る機会が生まれます。

Hogfactory  繰り返しになりますが、今回の感染症がセンザンコウのもつウイルスが原因かどうかはまだ確定していませんが、仮にそうでなくても、過去にはハクビシンやコウモリ、ヒトコブラクダの例があり、また狂牛病や口蹄疫の場合は、狭い空間にたくさんの動物を詰め込んで飼う飼育法が、人間のためだけの目的で行われているという事実を、確認しなければなりあせん。そして、まさにこの人間至上主義的な動物への処置が、結果的に人間に大きな被害や損害を与えているのです。私が「自然への拷問が人間への拷問となっている」というのは、こういう意味であります。

 さて私は、この話の最初に「生命顕現の法則」という言葉に触れましたが、この自然界と人間の関係を考えると、ある生命が現れて発展するためには、「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が暗示するように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、いわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということが分かります。そのような人間至上主義的生き方をしていると、人間自身が大きな問題を抱えることになる。生長の家では、「人間は神の最高の自己実現」といいますが、この意味は、人間が他の生物種を自己目的のために生殺与奪の権を振るって支配するということではない。それは「神」がすべての生物種の創造者であり、それら生物種を愛されているのと同じように、人間もすべての生物種を、自分もその一部である自然界の仲間として、また“神の作品”として尊重し、愛するというのでなければならないのです。そのことを説いているのが、生長の家の宣言の第1項目だと私は思います--「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。」

 皆さんもこの運動を進める中で、「自然と共に伸びる」という意味は、『七つの光明宣言』の第1項を生活に生きるということであることを、機会あるたびに思い出し、人々にも伝えていただきたいと念願する次第です。

 91回目の立教記念日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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