地球環境問題

2020年5月12日 (火)

ボードゲーム「コロナバスターズ」について

 本年4月19日付で、私はフェイスブック上で運営する「生長の家総裁」のページに「コロナバスターズ」というボードゲームを発表した。このゲームは、同じくボードゲームである「オセロ」からヒントを得た対戦ゲームで、相手の円盤(石)を自分の2個の円盤で挟むことで、自分の円盤としてしまう。この「敵であったものが味方になる」というゲームの基本が、私が表現したかったポイントの1つである。

 このゲームは「新型コロナウイルス感染症」という面白くないことから生まれた。それなのに「面白い」ことを目的とするゲームにして遊ぶというのは、不謹慎だと感じられた人もいるだろう。実際、このゲームの発表後、私に対して「ゲームは恐怖心を煽る」とか「日時計主義でない」などという不満を漏らす人もいた。しかし、ゲームの内容を知れば、この種の不満は的外れであることが分かったはずだ。ゲームでは、ウイルスを自分の味方につけることで、感染拡大を防げることになっている。この筋書きが荒唐無稽でないことは、本文の後半で述べる通りだ。

 しかし、その前にひと言――
 この病気により、世界中でたいへん多くの方々が亡くなっていることに、私は心が傷む。それだけでなく、経済活動は中断し、失業者は増加を続け、一部の途上国では、国内の政治的対立も加わって貧困がさらに深刻化し、国家の存続にかかわる非常事態にいたっている。そして医療現場では、医療従事者の方々が文字通り「命がけ」の努力を続けられている。このような深刻な事態になる前に、人類は何か予防措置を講じられたはずだ。しかし、実際はできなかった。その原因は何か? この疑問に答えることが、今後の私たち人類全体の行方の吉凶を決めるだろう。

 多くの人々は、こんな悲惨な事態をひき起こす「ウイルス」のことを、とんでもなく“悪い”ものだと考え、恐怖に駆られたり、憎しみに燃えたりするかもしれない。しかし、ウイルスによる感染症の歴史を振り返ってみると、エイズや狂牛病、鳥インフルエンザ、ジカ熱、デング熱、SARS、MERS……など、その原因を作っているのは、実は人間の方であるという事実に突き当たるのである。今回の感染症も同様の起源があることは、各方面から指摘されているし、私もすで本欄などで述べた。

 ウイルス感染症の誕生と人間との関係をひと言でいえば、人間は自然界のすみずみに、そして自然の奥深くにまで手を伸ばし、自己本位の目的でそれを改変し、また無秩序に利用してきたことで、永年安定していた自然界のバランスを崩しているということだ。このアンバランスの状態から、自然がバランスを取り戻そうとする過程で、人間に致命的な毒性をもつウイルスや細菌が生まれ、あるいはもともと存在していても、人間と関係しなかったウイルスや細菌が、人間の生活圏に飛び込んでくるのである。語弊を恐れずに言えば、人間は自然を壊しながら自然に近づきすぎている結果、人間に致命的な影響を与えるウイルスの産生に大きく関与しているのである。

 こんな書き方をすると、読者は、ウイルスはもっぱら人間に有害であるとの印象をもつかもしれない。しかし、それは誤りである。人間の遺伝子全体のことを意味する「ヒトゲノム」という言葉があるが、このヒトゲノムの8%以上は、人間が進化の過程で関係してきたウイルスゲノム、またはその残骸からできていると考えられている。つまり、ウイルスは人類の生存と発展に有益に働いてきた証拠が、私たちの遺伝子の中にきちんと残っているのだ。例えば、人間を含む哺乳動物は、母親とは遺伝子が異なる胎児を、拒絶反応を起こさずに長期にわたって母体内で育てる能力をもっている。これには先に述べた“内在性ウイルス”の働きが関与しているとされている。

 ウイルスが感染すれば、感染した人(宿主)はすぐに病気になるという考え方も、多くの場合、間違っている。そうではなく、大抵は感染自体は無症状に終わる。しかし、ウイルスがまだ新しい宿主(ヒト)に適応しきれていない今回のような場合に、重篤な症状が起こるのである。この激しい症状は、感染したウイルスに対する宿主側の免疫反応であることが多い。つまり、私たち人間の側が新しい“異物”に対して激しい拒絶反応を起こすのである。ウイルス学の知見によると、特定のウイルスが人間と接触する時間が長くなると、双方が相手に適応する形で症状の激しさを減らしていく傾向があるという。そして、病気の症状を引き起こしにくくして、しばしば長期間の(無症状の)感染を続けるという。つまり、ウイルスと宿主とは一種の“平和共存”を達成するのだ。

 ウイルスと宿主とのこのような関係を考え合わせると、私たちは今回の新型コロナウイルスの登場を“悪魔の仕業”だとか“神の処罰”だなどと考えて恐怖し、あるいはウイルス全般に対して憎悪の感情を振り向けることは見当違いであることが分かる。人類を集合的に「私たち」と呼ぶ場合、この新型コロナウイルスは、私たちが自然破壊とグローバル化の過程で作り出したものである。また、その誕生の原因としては、宿主となる野生動物(コウモリやセンザンコウの名が挙がっている)と人間との必要以上の濃厚で密接な接触が挙げられるのだ。

 オーストラリアのABCテレビは、今回の新型コロナウイルスによる大規模な感染症拡大は、「人間の地球規模の自然と動物軽視」が原因だというジェーン・グドオール博士(Jane Goodall)とのインタビューを、今年4月11日付でウェブサイト上に公開した。グドオール博士はアフリカでのチンパンジーの研究で有名で、自然保護の必要を説き続けてきた環境運動家でもある。記事の中でグドオール博士は、ウイルスが動物から人間に感染する原因の一つは、動物の生息地の減少と大規模農法にともなう森林伐採だと述べ、これにより動物同士の、また動物と人間との接触が深まり、異種間での感染に結びついていると語っている。

 また、同国のチャールズ・スタート大学(Charles Sturt University)の生物学者、アンドリュー・ピーターズ博士(Andrew Peters)は、今回のコロナウイルス感染症のほかにも、同国ではいくつかの感染症の危険が拡がっていると指摘している。その1つは、ヘンドラウイルス(Hendra virus)による感染症で、このウイルスはコウモリから人と馬に感染して宿主を死に至らせるといい、「この感染症は、オーストラリアの海岸地域から森林が失われ、冬場のコウモリの生息地が減少していることが原因だと言われている」と語っている。

 「コロナバスターズ」のゲームでは、ウイルスは取扱い次第で人間の敵にも味方にもなる。私たちは、科学的にも正しいこのウイルスの特徴を知りながらゲームを行なうことで、感情に流されず、理性的な判断と方法で、この問題の解決に取り組む――そういう精神を広めていきたいものである。

 谷口 雅宣 

【参考文献】
〇西條政幸著『グローバル時代のウイルス感染症』(日本医事新報社、2019年)
〇デービッド・R・ハーパー著/下遠野邦忠、瀬谷司監訳『生命科学のためのウイルス学――感染と宿主応答のしくみ、医療への応用』(南江堂、2015年

 

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2020年4月11日 (土)

コロナウイルスは何を教える (2)

 生長の家は、山梨県北杜市にある国際本部“森の中のオフィス”と、同本部の広報・制作/編集部門がある別棟のメディアセンターの2つの施設を明日、4月12日から同21日まで閉鎖することにした。これは、同メディアセンターに勤務する男性職員が4月初旬から発熱や倦怠感などを覚えて体調が優れず、4月7日からは休務していることを重く見たもの。同職員はPCR検査をまだ受けていないが、検査を実施して結果が出るまで対応を長引かせるよりは、新型コロナウイルスの感染拡大防止を最優先に考え、迅速な対応を行なうことにしたもの。2施設の閉鎖中の業務は、基本的に職員が「在宅」で行うことになる。

 今回の新型コロナウイルスによる感染症の世界的蔓延は、かつて例のない規模と速度を伴いつつ、人命や社会の経済活動に甚大な影響を及ぼしている。私は前回のブログで、この感染症によって現代社会が甚大な被害を受ける理由の1つとして、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」を挙げた。この表現は、社会のあり方のマイナス面を強調したものだが、プラス面を強調して言い直せば、今の社会の営みは細部まで分業が進行しているため、物事が正常に進んでいれば“便利で効率がいい”ということなのだ。

 しかし、21世紀の世界での一番の問題は、「物事が正常に進んでいる」という最も基本的で、重要な前提が崩れつつあることである。戦後の日本は、9年前の3月11日までは、「原発が正常に動いている」という基本的な前提が存在した。しかし、東日本大震災と東京電力の業務上の判断ミスなどが重なって、未曾有の原発事故が起こった。戦後の世界の経済発展は一見、「物事が正常に進んでいる」という認識を私たちに与えたが、その陰で自然破壊や温室効果ガスの大量排出の影響が無視され続けてきたため、今や地球規模の気候変動が不可逆的に起こっていて、その影響として、台風やハリケーンは巨大化・凶暴化し、豪雨が河川を決壊させ、人家を押し流し、旱魃が肥沃の地を不毛化し、人間の手に負えない山火事が都市部まで広がり、そして、これまでにない新種のウイルスや細菌による感染症が世界に拡がっているのである。これらの一連の“マイナスの変化”は、人間の活動から生まれているという事実を、私たちはこれ以上無視してはならないのである。

 人間が原因を作っているために起こる現象のことを、「自然現象」とか「自然災害」と呼んではならない。それらはすべて「人為現象」「人為災害」と呼び、人間に改めるべきところがあれば、改めなければなくならない。「自然が相手だから仕方がない」という言葉は、一時代前には妥当だったとしても、現在ではあまり物を考えない人のゴマカシの弁でしかない。私は2012年に出版した『次世代への決断』(生長の家刊)という本の中で、「人間が生んだ地球」(the anthropogenic Earth)という言葉を紹介したが、この言葉の通り、現在私たちが足を踏みしめている地球は、そこに生える植物、空を飛ぶ鳥、動き回る虫や獣、そして目に見えない細菌やウイルスを含めて、人間の影響を受けているものの方が、受けていないものよりも圧倒的に多いのである。

 地球環境を含む自然界の秩序を無視または軽視して、“便利で効率がいい”という方向にのみ社会を発展させてきたことが、今ある「人間が生んだ地球」の原因である。この表現を“裏返し”にすれば、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」の結果を、私たちは今目の前にしていると言えるだろう。だから、現在の社会で私たちが“便利”と“効率”を考えるときには、それらの裏側にある「過剰なスペシャリゼーション」の問題を思い出してほしい。「過剰なスペシャリゼーション」とは、自分の力や努力によらず、他人や他者(社会制度やインフラ)に生活の多くのものを依存しているということである。自立のための知恵や技術の習得、自律心・独立心を放棄して、金銭によって何でも得られると考えることである。そういう考え方の誤りを、新型コロナウイルスは私たちに教えている、と私は思う。

 今、世界の多くの人々ーーとりわけ都市で生きる大勢の人々が、自宅や自室から外に出られず、出ても自由に歩き回れず、買い物に制限を加えられ、娯楽や遊興が白眼視される風潮を感じていることだろう。そんな時、他に依存せず、他から求めず、慣れないことも自ら行い、自ら学び、自ら製作し、他に与える生き方をしてみるのはどうだろう? そう、これが「メンドー臭い生き方」である。しかし、これが「過剰なスペシャリゼーション」から自由になる唯一の方法だと私は思う。物事が正常に進んでいたときには、すべて省略していたことでも、この機会に自分で頭を使い、手を使ってやってみるのである。きっと「不自由」と思っていた領域が減り、内心の「自由」が拡がっていくことを体験されることと思う。

谷口 雅宣 拝

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2020年3月22日 (日)

コロナウイルスは何を教える

 本年3月1日の生長の家春季記念日でも、それに続く3月11日の「神・自然・人間大調和祈念祭」でも述べたように、今回の新型コロナウイルスの地球規模の拡大が教えていることは、数多くある。そのうち、前記の2回の機会で強調したのは、「人間中心主義の弊害」ということだった。それを別の言葉で表現すれば、私たちは『生長の家』誌創刊号にあった「生長の家の宣言」の第1項が目指していた「生命を礼拝する」ことも「生命の法則に随順する」こともせずに、人間の物質的、肉体的欲望を満足させることを至上目的として、長期にわたって自然破壊を進めてきたという事実を指している。このことが、かえって人類社会の脆弱性(ぜいじゃくせい)を増幅しているのである。

 宇宙広しといえども、この「地球」という小惑星にしかない生命与え合いのシステムを、「人間だけがよければいい」という人類エゴが破壊している。私はすでに9年前に発表した「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中で、このことを次のように述べている――

 「多くの生物を絶滅させ、自然の与え合い、支え合いの仕組みを破壊しておいて、人間だけが永遠に繁栄することはありえない。生物種は互いに助け合い、補い合い、与え合っていて初めて繁栄するのが、大調和の世界の構図である。それを認めず、他の生物種を“道具”と見、あるいは道具と見、さらには“邪魔者”と見てきた人間が、本来安定的な世界を不安定に改変しているのである。その“失敗作品”から学ぶことが必要である。」

 今、肉眼には見えない極小の半生物・ウイルスのおかげで、世界中の株式が暴落し、交通機関は停止し、経済活動は極端に縮小し、多くの産業が経営危機や倒産のリスクに直面している。パリのルーブル博物館やニューヨークの公立図書館のような文化施設も次々と閉鎖され、大相撲春場所のような大規模スポーツイベントは軒並みに中止となるか、“観客ゼロ”という珍妙な方式で一見“通常どおり”を維持する努力を続けている。このあとに来るはずだった東京オリンピックが延期されるなどということは、今年初めには誰も予測しなかっただろう。

 このような人類社会の脆弱性は、いったいどこから来るのだろうか? それは、私が先の祈念祭でも紹介したイギリスの科学誌の記事に、分かりやすく説明されている――

「人間以外の動物に棲(す)むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる“動物由来ウイルス病”を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25五億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。動物由来ウイルス病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 このウイルス病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。」

 

 ここにあるように、地球上の生物種と生物種の関係は、何億年、何十億年もの進化の過程で“天敵”と共存してきた。この“天敵”という用語は誤解を招きやすい。これは、「相手の絶滅を期して死闘する相手」ではない。前掲の文章にあるように、「時間が経つうちに相手に合わせて致死率を下げる」などして共存してきた捕食ないし寄生関係にある他の生物種のことだ。ところが人類だけが、多くの生物種を文字通り絶滅に追いやっている。そのことがかえって「自然の側から“敵”として扱われるような事態」(前掲の祈り)を現出しているのだ。

 もう一つ、今回の新型コロナウイルスの世界的伝播が教えているのは、過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)の弊害である。

 今の世界経済は、専門化による地球規模の分業が極端なレベルにまで進んでいる。ある製品を製造するためには、自前で部品を作るのではなく、外国の特定の会社からAという部品を、また別の国の特定の会社からBという部品を……というように、技術力と効率と価格の点で最も優れている会社に部品の供給を依存する傾向が強い。そうしなければ、他社との競争に勝てない場合が多いからだ。こういう相互依存関係が、網の目のように張り巡らされている。すると、災害などでこの網の目が突然切れると、製品全体の生産がストップしてしまうことになる。それが、今回のウイルス伝播でも起こっている。

 アメリカの外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』は本年3月16日の記事で、このことを「脆弱な効率性(fragile efficiency)」と呼び、実例を挙げて警告を発している。例えば、西ヨーロッパの自動車メーカーが生産する車の小型電子部品は、すべてを1社が担当しているので、その社のイタリアにある工場の1つが今回のウイルス感染で操業停止になると、西ヨーロッパで生産されるすべての自動車の生産がストップしたというのだ。また、ムダを省くために「できるだけ在庫を抱えない」という生産方式も、経済が順調であれば問題ないが、いったん災害や伝染病が発生すると、機能マヒに陥る可能性を生む。“ムダ”とされた製品在庫や部品在庫、生産能力の余剰が、非常時には一種の“安全装置”として働くのに、それが欠落しているからだ。

 このような効率優先、コスト優先の文明の弱点が今、明らかになっているのである。

谷口 雅宣 拝

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2020年3月11日 (水)

「生命の法則に随順する」とは?

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”において「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われ、その様子はインターネットを通じて全世界に放映された。以下は、同祈念祭での私のスピーチの概略である--

 皆さん、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」にお集まりくださり、ありがとうございます。今「お集まりくださり」とは申しましたが、ご存じのように、現在、新型コロナウイルスの拡大抑止を目的として、大勢の人間による集会やイベントは行わないようにとの政府の方針に協力しているので、今回のこの祈念祭では、ほとんどの参加者はインターネットを経由して、お祭を間接的に視聴するという方式を採っています。にもかかわらず、恐らく大勢の方がここまでの祈念祭の様子に合わせて黙祷を捧げたり、神想観を実修されたと考え、心から御礼申し上げる次第です。ありがとうございます。

 さて、私は去る3月1日の立教記念日に、『生長の家』誌創刊号の裏表紙にある「生長の家の宣言」という歴史的文章を引用して、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」という言葉の意味をお話したのであります。その時、この「生命の法則」とは「生命顕現の法則」であって、それは決して「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が示すように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、力まかせにいわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということを述べました。また、「生命を礼拝する」という意味は、「人間だけを尊重するのではなく、人間を含めたすべての生命を尊重する」ということだとお話しました。しかし、人間はまさにその「人間だけを尊重する」人間至上主義的な生き方を長年、続けてきたために、今日、地球環境問題を含む深刻な問題に直面しているのですね。そのことを私は、『今こそ自然から学ぼう』というこの本から引用して、「自然への拷問が人間への拷問となっている」という言い方もしたのであります。

 私たちは現在「自然と共に伸びる」運動というのをしています。この「自然と共に伸びる」という意味は、これまでの“古い文明”のように、人間の幸福のためだけに自然を破壊する--例えば、生長の家の過去の運動を振り返ってみると、月刊誌の購読数や購読者を増やすために、その原料である紙パルプの消費を増大させ、森林伐採を促進し、あまつさえ大量の月刊誌が配布されずに多くの会員宅に積まれてあっても構わない--そんな考えではいけないということですね。こんな人間至上主義に陥らずに、運動が進展することと自然界が繁栄することを共に実現しようという運動であります。

 今日はその目的を念頭に置きながら、人類は今後、自然とどう付き合っていくべきかを考えたいのです。「生長の家の宣言」の第1項にあった「生命を礼拝する」とは、また「生命の法則に随順する」とは、具体的にどんなことをするのかということです。

 私たちは今、新型コロナウイルス(COVID-19)による感染症の拡大によって、多くの重要な教育を受けていると感じます。これを生長の家では“観世音菩薩の教え”とも言いますね。先ほど、白鳩会総裁が読まれた、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中にも、この言葉は出てきました。「大地震は“神の怒り”にあらず、“観世音菩薩の教え”である」とありましたね。そこで、この教えの1つとして、私が立教記念日の時に申し上げたのは、この感染症の原因は、ウイルスとか動物の側にあるのではなく、人間の側にあるということでした。

 その時は、センザンコウという動物が、ワシントン条約で交易が禁止されているにもかかわらず、大量に取引きされているという話をしました。しかし、その際も申し上げましたが、今回のコロナウイルスの感染源ーー正確には「中間宿主」と言いますが、それはまだ確定されていません。また、センザンコウは単にウイルスを仲介しただけで、コロナウイルスはもともとコウモリと共生しているという学者もいるようです。そうです。コウモリはコロナウイルスを体内にもっていても、平和共存していて病気にはならないということですね。自然界には、そういう野生動物はたくさんいるし、私たち人間の体内にも沢山の細菌が棲んでいて、人体との間にギブアンドテイクの関係が成立しているのです。

 ところが、このような自然界のバランスを壊すと、生物同士が互いに傷つけ合う現象が起こるようになる。私がセンザンコウの例を挙げたのは、センザンコウが“悪い動物”だという意味ではなく、それを扱う人間の側に問題があるということでした。人間は、食用や医療の用途にするために、多くの動物を自然状態から引き離して、動けないほどの狭い場所に囲い込み、そこで残虐な方法で大量に屠殺するのです。

 この方法は、センザンコウだけでなく、ブタもウシもニワトリもヒツジも何もかも、現在、世界中で大々的に行われていることです。そういう食肉産業を発達させてきたのが、私たちの中にある人間至上主義の考え方です。本来動き回るのが自然の生き方だった動物たちを、狭い空間に閉じ込めながら、無理やりに不自然な食事を与え、彼等の苦しみや悲しみを全く無視して殺戮する。動物を殺せば当然、血や体液が周囲に飛散して、人間がそれを浴びることになります。人間に近い家畜の扱いがこれですから、野生動物を扱うにも、それとほとんど変わらない、いやそれ以上に残酷な方法を使うのです。

 このような屠殺によって、人間と動物の肉体の一部が混じることになります。そこで皆さんは、これを「自然と人間が一体」になったと考えますか? あるいは、ブタやウシの筋肉や内臓を人間が食することで、「自然と人間は一体だ」という自覚が生まれると思いますか? 私は断じて、そう思いません。これは動物たちの感情や意思をまったく無視して、人間本位の役割を強制する「自然侮蔑」の心、「生命功利論」の表現だと思います。生長の家の目的は、先に触れたように、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」ことですから、私たちは、その考えと反対の立場にある肉食の習慣をやめるという決断をしたのであります。

 では、ウシやブタのような家畜を食べることと、今回疑われているような野生動物を殺して人間の薬用や食用にすることの違いはどこにあるのでしょう? これに答えるには、質問を言い換えた方がいいかもしれません。私たちは家畜を屠殺して食することを長年やってきましたが、では、なぜ家畜の身体に棲んでいるウイルスや細菌が人間に感染して、病気を発症しないのでしょうか? また、発症してもそれが世界中に拡大して経済活動を阻害する、今回のような大被害を起こさないのでしょうか? 

Ns020820   この疑問に答えてくれる記事を、私はイギリスの科学誌『ニューサイエンティスト』の中に見つけました。ここにあるのは、今年2月8日付の同誌の表紙で、ご覧のように「コロナウイルス」の特集をしています。そして、「Viruses from animals」(動物からくるウイルスたち)という題の記事には、こうあります:

「人間以外の動物に棲むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる zoonotic disease (人間に感染する動物病)を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。人間に感染する動物病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 この動物病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。感染後の1日以内に人間が死んでしまうと、ウイルスはそれ以上繁殖できない。動物の体内にいるウイルスがヒトに感染するためには、そのウイルスに感染している動物と人間が接触しなければならない」

 ということで、動物のウイルスや細菌が人間に感染するためには、人間と動物との距離が接近する必要があることが分かります。現在の文明が進む方向で、それが起こっているのです。人間が自然を破壊して動物に近づいている。別の言い方をすれば、人間が不自然に近く、自然に近づいているということです。これは肉食の習慣が世界的に拡がっていることも指せば、それだけでなくて、人口爆発によって、都市が拡大し、森林がなくなり、動物の住処がなくなり、あるいは動物の食べ物が減って、生きるために動物たちが人家や民家の近くまで来ることも含んでいます。私が申し上げたいのは、生長の家がいう「神・自然・人間は本来一体」という教えは、人間が他の生物と物理的に一体になるという意味ではないということです。

 自然界を観察すれば、それぞれの生物種の個体と個体との間には、自然な距離があります。それを「縄張り」と呼ぶこともあります。同一種の生物だから、いつも互いに密着して生きているわけではない。子供と親は当初は密着していても、成長すると互いに距離をもつようになる。子供がまだ密着していたいという素振りを見せると、親の方が自分の子を攻撃することもありますね。私たちはそういう生き方も全部含めて「自然」と呼ぶのです。そう考えると、異種の生物間に物理的な距離があり、それが守られているということが「自然」なのであります。また、それが「生命の法則」だと考えることができます。すると、「生命の法則に随順する」ということは、人間があらゆる生物を物理的に近くに引き寄せて、自分たちの用途に供しようとすることは、「生命の法則に随順しない」ということになる。

 私は、今回の新型ウイルスによる感染症の拡大は、私たちが人間至上主義によって、動物たちとの間にあった自然な距離を撤廃し、不自然な距離にまで近づいていることに対する“警鐘”だと感じるのであります。自然を自然のままにしておかずに、欲望をもって引き寄せ、徹底的に利用する、あるいは利用しない部分は粗末にかなぐり棄てる。そういう“古い文明”が進めてきた生き方をやめ、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」必要がある。人間以外の生物と私たちとの間には“適切な距離”があるのが自然であり、生命の法則に随順することである--今回の感染症が教えていることの1つは、これだと思います。また、それが私たちが目指す“新しい文明”の方向であることを、ここで確認したいのであります。

 それでは、これをもって今回の「神・自然・人間の大調和祈念祭」での所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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2020年3月 1日 (日)

すべての生物を礼拝・尊重する

   今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”で「立教91年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式」が行われた。以下は、同式典での私のスピーチの概略である--

 皆さん、ありがとうございます。

Coronavirus2019 本日は、例年ならば「生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」を長崎の生長の家総本山で行なう日でありましたが、ご存じのように、新型コロナウイルスの感染防止対策に協力するため、急遽、式典の会場を総本山からここ山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”に移し、規模を大幅に縮小して、立教記念日をお祝いする会をもつことになりました。そして、この会場での式典の様子をできるだけ多くの幹部・信徒の皆さんに視聴してもらうために、インターネットで中継しているところであります。

 皆さん、本日は「立教91年」を迎えたこと、誠におめでとうございます。「立教91年」ということは、生長の家の運動が始まってから90年が経過し、今日から91年目に入るということですね。

 私はこの立教記念日には、立教の端緒である3月1日付の月刊誌『生長の家』創刊号を引き合いに出して、その創刊号の中の記事を様々な角度から紹介し、生長の家の創始者であられる谷口雅春先生、輝子先生の立教時のお気持や、視野や関心の広さ、知識や見識の素晴らしさ、神への信仰の深さなどについて述べてきたのであります。今日も、それと同じことをするのですが、今回は、創刊号の表紙の反対側、つまり裏表紙に掲げられた「生長の家宣言」について、皆さんと共に考えたいのであります。

 ここにあるのは、今日、「七つの光明宣言」と呼ばれているもの、これは『生命の實相』頭注版第1巻に収録されていますが、そのの“原型”とも言うべきもので、次の6項目です--

1.吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
2.吾等は生命の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。
3.吾等は人類が無限生長の真道を歩まんがために生命の創化の法則を研究す。
4.吾等はリズム即ち言葉を以て生命の創化力なりと信ず。
5.吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんがために善き言葉の雑誌『生長の家』を発行す。
6.吾等は心の法則と言葉の創化力を応用して、病苦その他の人生苦を克服すべき実際方法を指導し、相愛協力の天国を地上に建設せんことを期す。

 この6項目の最初と2番目の項目に、「生命の法則」という言葉が出てきます。また、第3項目には、「生命の創化の法則」という言葉があって、この言葉は、どうも「生命の法則」をより詳しく述べた言葉と思われます。そう考えると、第4項にある「生命の創化力」という言葉は、この「生命の創化の法則」と関係が深いと考えられます。すると「言葉の創化力」という言葉も、「生命の創化の法則」と密接に関係していることになり、ここに挙げた6項目のすべてが、どうも「生命の創化の法則」「生命の法則」を基本として書かれていると、解釈できるのであります。

 では、その「生命の法則」とは何かといいますと、それは『生命の實相』第1巻に「『七つの光明宣言』の解説」として、雅春先生の解説が載っているのであります。ただ、『生命の實相』では、第2項は「生命の法則」ではなく「生命顕現の法則」という表現になっている点、創刊号の表記とは違います。そして、生命顕現の法則とは何かについて、解説には「生命顕現の法則とはなんであるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります」とあります。

 解説は、次のように続きますーー

「われわれは事実上生まれてきて生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき、生命の法則は“生長”することにあるので退歩することではないことがわかるのであります。退歩する者は生命の法則にかなわないのでありまして、“生命の法則”にかなわないものは生命の世界においては落後することになっているのであります。」

 ここに書かれたことは、読み方によっては、かなり厳しい指針であると受け取られるかもしれません。今年は日本でオリンピック/パラリンピックがありますが、スポーツにおける“生長”や“進歩”とは、過去の記録を更新していくことですから、「退歩する者は生命の法則かなわず、生命の世界では落後する」ということは、「記録を破れない者は、スポーツの世界では落後する」と言っているようにも解釈できます。

 また、これに続いて『生命の實相』には次のように書いてありますーー

「進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのは、いずれもこの現象(ことがら)をいい表わしたものなのであります。生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩にうち負かされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にもうち負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長する、という厳とした法則によっておのおのの『生命』は宣告されているのであります。」

 これを読むと、生長の家では、生存競争や優勝劣敗--つまり、この世界は強い者が勝って、弱い者は負けていくーーという弱肉強食の世界を肯定しているかのように聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか? この第2項の前に置かれた第1項の説明には、次のようにあります--

「自分自身が尊い『生命』であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることもできるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの『生命』の大元(もと)の『大生命』をも尊び礼拝したくなるのであります。」

 つまり、ここに書かれてあることは、私たちの実相は神の子であり、本質は皆、素晴らしい存在であるけれども、そのことに甘んじてしまっていて、実相を表現する努力をしないのではいけない、ということですね。今、流行っている言葉を使えば--「ボーッとして生きてんじゃないよ!」ということです。

 さて、そこで今日は、今世界中で問題になっている新型コロナウイルスについて少し考えてみたいのであります。生長の家では、すべての現象は、善いものも悪いものも皆、観世音菩薩の教えであると言いますから、今回のウイルス問題から私たちは何を学ぶべきかを考えましょう。

 先ほど、七つの光明宣言の第1項と第2項を紹介して、私は、人間の生き方として、「自己に宿る“神の子”の真性を表現する努力を怠ってはならない」という意味の話をしました。それが、立教当初からの生長の家の考え方の基本であるわけです。では、人類全体を考えてみた時は、私たちはこの基本的教えに沿って、ここまで生きてきたのでしょうか? 

Beyondanthro  私はこれまで、いろいろの本の中で、人類の歩みを振り返って、神の子の真性がまったく表現されて来なかったとは書きませんでした。しかし、人類の歩みに問題がなかったとも書きませんでした。特に、産業革命後の人類の歩みについては、公害問題を起こし、自然破壊を大々的に進めてきたことに批判的でした。例えば、今から18年前に出した『今こそ自然から学ぼう』という本には「人間至上主義を超えて」という副題をつけて、多くの私たちの考えの根本にある思想を批判しました。はしがきから少し、引用します。ここにはピューリッツア賞を取った生物学者、E・O・ウィルソン博士に触れてこう書いていますーー

「ウィルソン博士は“人類は地球というこの特定の惑星上で他の生きものといっしょに進化してきた。私たちの遺伝子の中には、これより他の世界はない”と言っている。この言葉を、私は生物の遺伝子操作によって世界が改善すると考えているすべての人々に読んでほしい。そして味わってほしい。ここで“他の生きもの”と博士が言っているのは、千や二千の種類ではない。何十万種、何百万種の生物を指しており、そのなかのほとんどは、どのような生き方をし、どのような機能を自然界で果たしているのか、人類はまだまったく知らないのである。
 が、我々はその生物種を急速に絶滅に追い込んでいる。自分の目先の利益を快適さのために、自然界の調和と安定を支えてきた無数の生物種を犠牲にし、少数の生物種だけを殖やし、新種を開発し、あまつさえ別種の生物との間で遺伝子を入れ替えたり、つけ加えたり、機能を止めたり、混ぜ合わせたりする作業に血眼になっている。これらはすべて、“自然は人間に不都合にできている”という考え方の産物だ。」

「生長の家創始者、谷口雅春先生の言葉を引用させていただけば、“宇宙全体が神の自己実現であるのである。”(天下無敵となる祈り)この“宇宙”とはもちろん“人間”だけの棲家(すみか)ではない。それを忘れて、人間だけの“天国”や“浄土”をつくることはできない。そのような人間至上主義は、個々の肉体としての人間を至高のものとする“肉体人間至上主義”である。生長の家は“人間は神の子”と教えるが、それは“肉体に執着した現象人間”が尊いという意味ではなく、宇宙の一切の存在を神の自己実現として観ずることのできる“本来の人間”(仏)が至高だという意味である。
 人間の多くがそのような自覚に達するには、まだ時間がかかる。それまでは、自然はその自覚を促す“警鐘”を我々の内外に鳴らし続けるだろう。我々はその意味を正しく理解し、間違いを正していかねばならない。自然を拷問にかけることで、我々自身を拷問にかけることは避けねばならない。」

 ここに「自然を拷問にかけることで、我々自身に拷問をかけている」という表現がありますが、ひと言でいうと、それが今回の新型コロナウイルスの世界的拡大から学ぶべきことなのです。先ほどの文章の中に「狂牛病」と「口蹄疫」という家畜の伝染病のことが出てきましたが、このあとには「SARS」とか「MERS」の流行があり、そして今回の新型コロナウイルスの事件があるという、一連の新しい感染症拡大は、人間の側に大きな原因があると考えるべきなのです。

 少し説明をしましょう。SARSは「severe acute respiratory syndrome」の略で、「重症急性呼吸器症候群」と訳されています。MERS「Middle East respiratory syndrome」の略で、「中東呼吸器症候群」です。それと今回のウイルスの共通点は「コロナウイルス」である点です。「コロナウイルス」は太洋の「コロナ」の形に似ていることから、その名がついたといいます。写真をご覧に入れますーー

 SARSは、2002年11月に中国広東省で発生し、翌年の7月末に終息するまでの9カ月に32カ国へ広がり、8,096人が発症し、死者は774人に上りました。致死率は9.6%といいます。MERSは、2012年9月以降、サウジアラビアやアラブ首長国連邦などの中東で蔓延し、3年後の2015年6月半ばまでに1,293人に感染し、うち458人が死亡しています。SARSの原因については、まだ確定的になっていませんが、ハクビシンだろうとか、もともとはコウモリがもっているウイルスだとか言われています。これに対し、MERSのウイルスはヒトコブラクダがもっているそうです。それとの“濃厚接触”が原因のようです。今回の新型コロナウイルスによる呼吸器症候群も、原因はまだ確定していませんが、センザンコウが中間宿主ではないかという説が、有力視されています。
これは2月22日付の『ナショナル・ジオグラフィック』誌のウェブサイトの記事に載っています--

「センザンコウが本当に新型コロナウイルスの中間宿主であるかについては、まだ正式な論文で発表されたわけではない。センザンコウからヒトにウイルスが感染したことが確認されてもいない。それでも、2020年2月現在、検証されている説の一つであり、アジア(とりわけ中国とベトナム)でのセンザンコウの消費と、大規模な違法取引に対する監視の目が厳しくなると考えられている。」

 センザンコウがどんな動物かを見てみましょう。

 センザンコウは、哺乳動物の中の「鱗甲目」に所属する動物の総称で、英語では「pangolin」といいます。アリやシロアリを食する。世界に8種類いて、アジアに4種、アフリカに4種。大きさは、小さい種類がイエネコぐらいで、大きい種類は体長75~85センチ。ワシントン条約で取引が禁止されているが、「世界で最も多く密売されている哺乳類」と言われ、毎年数万匹が密猟されている。とりわけ近年になって押収量が増加している。これは、中国が2018年に象牙の国内取引を禁止したことと関係があると見られている。象牙の値段が下がり、取引きのウマ味がなくなったため、犯罪組織がセンザンコウの取引に切り換えた可能性がある。ある調査によると、2016年には平均で2.4トンだったセンザンコウの押収量は、2019年には6.8トンまで急増している。

 センザンコウは肉が珍味とされ、ウロコは伝統薬の材料に使われ、ウロコの取引き価格は1匹あたり2700ドルという(2017年現在)。また、胎児のスープは、男性用の強壮剤になるとして売られている。またウロコは、インドではリウマチに効くお守りとして用いられ、アフリカでは魔除けとして用いられ、ベトナムではジャライ族が民族楽器クニーの素材として使うという。

 今回の新型コロナウイルスの感染は、武漢市の市場から始まったと言われているのですが、動物を生きたまま取引きする現場というのは、いわゆる「濃厚接触」が頻繁に起こることが分かります。動物は、センザンコウに限らずいろいろな種類のものが、小さな籠に入れられて市場の狭い空間に積み上げられたりするからです。これは皆、人間のためだけにそうするのです。自然界では、広い森や草原などで、外敵から身を守るためには、あるいは自分の縄張りをもつために、動物と動物の間には必然的に距離が生まれます。ところがそれを人間が市場で売買したり、飼育したりする場合には、そんな距離がなくなり、同種の動物も異種の動物も一緒にされて“満員電車”のような状態に長期に置かれます。また、殺されて肉になる場合は、血液、体液、内臓などが人間と直接接触する。そこに、人間がもともともっていない細菌やウイルスが、人間の体内に入る機会が生まれます。

Hogfactory  繰り返しになりますが、今回の感染症がセンザンコウのもつウイルスが原因かどうかはまだ確定していませんが、仮にそうでなくても、過去にはハクビシンやコウモリ、ヒトコブラクダの例があり、また狂牛病や口蹄疫の場合は、狭い空間にたくさんの動物を詰め込んで飼う飼育法が、人間のためだけの目的で行われているという事実を、確認しなければなりあせん。そして、まさにこの人間至上主義的な動物への処置が、結果的に人間に大きな被害や損害を与えているのです。私が「自然への拷問が人間への拷問となっている」というのは、こういう意味であります。

 さて私は、この話の最初に「生命顕現の法則」という言葉に触れましたが、この自然界と人間の関係を考えると、ある生命が現れて発展するためには、「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が暗示するように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、いわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということが分かります。そのような人間至上主義的生き方をしていると、人間自身が大きな問題を抱えることになる。生長の家では、「人間は神の最高の自己実現」といいますが、この意味は、人間が他の生物種を自己目的のために生殺与奪の権を振るって支配するということではない。それは「神」がすべての生物種の創造者であり、それら生物種を愛されているのと同じように、人間もすべての生物種を、自分もその一部である自然界の仲間として、また“神の作品”として尊重し、愛するというのでなければならないのです。そのことを説いているのが、生長の家の宣言の第1項目だと私は思います--「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。」

 皆さんもこの運動を進める中で、「自然と共に伸びる」という意味は、『七つの光明宣言』の第1項を生活に生きるということであることを、機会あるたびに思い出し、人々にも伝えていただきたいと念願する次第です。

 91回目の立教記念日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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2019年11月22日 (金)

“他を害する心”を捨てよう

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の龍宮住吉本宮出龍宮顕斎殿で、九州地方と山口県の幹部・信徒290名が参列して「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が厳かに執り行われた。私は式典の最後に概略、以下のような言葉を述べた:

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 皆さん、本日は「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」にお集まり下さり、有難うございます。皆さんとは毎年この時期に、ここ総本山の出龍宮顕斎殿でお会いして、あるいは最近は、皆さんがお住まいのそれぞれの地でインターネットを通じてお会いして、谷口雅春大聖師が約90年前に始められた人類光明化運動の意義を確かめ、今後の運動発展への決意を新たにする機会をもてることは、大変ありがたく、すばらしいことと感じ、神さまと皆様に心から御礼申し上げます。ありがとうございます。

 さて、昨年のこの記念日では、私は昨今の気候変動にともなう世界各地の災害の増加を話題にしました。ご記憶の人は多いと思いますが、昨年は夏に、広島、岡山など中国地方で洪水が起こり、山肌が崩壊して人家に大きな被害が起こりました。生長の家の幹部や信徒の家にも被害がありました。その時、私はこの種の災害は今後、頻繁に起こることが予測できるので、生長の家ではその際の「救援活動」を教団として組織的に行うための仕組みを作ったことを報告いたしました。

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 残念ながら、この予測は的中して、今年も台風15号、19号などが襲来して、日本中に甚大な被害をもたらしました。しかし、「不幸中の幸い」と言えるのは、生長の家ではこの救援活動のための組織ができていたので、今年はそれを利用して、日本各地で信徒のボランティア活動による救援活動が展開されました。信徒の皆さんの愛行の実践が、新たな分野に展開されていることを感じ、心から感謝、讃嘆申し上げます。ありがとうございます。

 今年の日本での自然災害のうち、大きかったのは台風19号によるものではなかったかと思うのですが、実は私20191124_img_0546
も妻と共に、長野県の被災地に救援活動のため入らせていただきました。千曲川の氾濫により、長野市のリンゴ農家が被災したところへ10月20日に行ってまいりました。台風19号が山梨県・長野県を通過したのは10月の12日ごろですから、被災から約1週間たっていましたが、現場は大変な状態でした。何枚か写真を示してご説明します。

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 この救援活動をして感じたことは、いくつもありますが、一番強く感じたことは、「ひとりの人間の力はわずかだ」ということです。また、それに比べて「自然の力は偉大だ」と感じました。約20人のボランティアが汗と泥だらけになって、1日中仕事をしても、リンゴ農家の倉庫1棟から、泥に埋まった様々な物品を持ち出して庭の一角に集め、後に残った泥をかき出すことしかできませんでした。私は出張で北杜市を離れるとき以外は、約4キロの上り坂を仕事場まで自転車通勤しているので、肉体的にはまだ老衰していないと自負していましたが、水をたっぷり含んだ泥を運び出す重労働には、さすがに疲労を感じました。当たり前のことなのですが、人間の肉体の力は、被災地のように最低限の道具しか使えない環境では、ほんとにわずかなものなのです。

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しかしその反面、人間は科学技術を道具として使うと、大変な力を発揮して、自然を破壊することができます。大体、今回の台風による洪水や、水害の原因には、人間の活動が大きく関わっています。私が申し上げているのは、地球温暖化は人間の活動の影響であるということで、世界のほとんどの気象学者がそれを指摘しています。それにも拘わらず 、先進国の政治指導者は経済発展を優先して、温暖化対策と真剣に取り組もうとしていません。

生長の家は、この問題の大きさに早くから気がついて、温暖化の防止、そして最近では温暖化が進む世界でどう考え、どう生きるかを提案し、実践しつつあるのですが、その考え方の元となっているのが「神・自然・人間は本来一体」という信仰です。これは何も私が発明した考えではなく、谷口雅春先生の教えであることを忘れないで頂きたい。

多くの方はすでにお持ちと思いますが、雅春先生と私の祈りの言葉を6つ集めた『万物調和六章経』というのがあります。その中に、『真理の吟唱』から転載した雅春大聖師の「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」がありますが、一部を次に引用して、そこに「神・自然・人間は本来一体」であることが説かれていることを確認いたしましょう--

「すべての生きとし生けるもの、在りとしあらゆる物ことごとくに“神の生命(いのち)”が宿っており、そのすべてが私たちの生命と一体であるから、天地一切のものは、私たちの心の響きに感応して、或る結果をもたらすのである。それゆえに、物質と見えているものでも、私たちがそれに感謝し、それに宿る神の生命(いのち)を直視して祝福するならば、その祝福に感応するのである。」

 ここには、自然界のすべてのものと「私たち」すなわち人間は一体であることが説かれています。私たち人間と自然界とが一体である理由は、すべてに“神の生命がやどっているから”だと、ここでは説かれています。つまり、神を媒介として、自然界のすべてのものと私たち人間はつながっているということです。

 少し先には、次のように書いてありますーー

「神は人間を万物の霊長として、天地一切のものを霊的に支配する権能を与え給うたのである。それゆえ、如何なる物も、人間が義しき心をもって生活し、他を害する心を起こさない限り、自分が害されるということはあり得ないのである。」

20191124_img_0555  ここで重要なのは、人間が他の生物など“天地一切のもの”を「霊的に支配する」と書かれていることです。「物質的に支配する」とは書かれていません。この違いは何でしょうか? 私たちが現在、動植物に対してどのように対処しているかを思い出してみてください。今、私が住んでいる山梨県では、韮崎市で豚コレラという病気が発生したため、発病したブタのいる農場のブタ890頭が、17日までに、健康なブタも含めてすべて殺処分されました。感染を防ぐためです。今回はまだ千頭未満の犠牲でしたが、かつて宮崎県で口蹄疫が発生した時は、何十万頭もの家畜が殺されたことがありました。これは「霊的な支配」でしょうか、それとも「物質的な支配」でしょうか? 答えは、明らかに後者ですね。では、生物の細胞内にあるDNAを組み替えて、人間に都合のよい形質をもたせることは「霊的な支配」でしょうか、「物質的な支配」でしょうか? DNAはデオキシリボ核酸という物質ですから、これを人工的に組み替えるのはもちろん「物質的支配」です。それでは、山の中にダムを建設したり、コンクリートで川岸を固めることは「霊的支配」でしょうか、それとも「物質的支配」でしょうか? この答えも、明白ですね。

20191124_img_0557  このように考えてくると、私たち人類がこれまで進んできた道は、他の生物や自然環境を物質的に支配しようとした歴史であることが分かります。では、その物資的支配の「動機」は何だったでしょうか? それらの科学技術を開発するに当たり、「義しき心」をもってそれをなし、「他を害する心」を起こさなかったでしょうか? 決してそうではありませんでした。私たちが科学技術を開発してきた最大の動機は、経済発展--つまり、人間本位の他の動植物の利用であり、物資的繁栄ではなかったでしょうか? 核エネルギーの利用技術の開発などは、敵国を破壊する--つまり「他を害する心」そのものが最初の動機でした。

 「他を害する心」は、核エネルギー以外にも多くの技術の元になっていることがあります。例えば、「農薬」などは如何ですか? また、樹木を育てるときに剪定というのをやりますが、これをやりすぎると、樹木は枯れてしまいます。では、電線の邪魔にならないように、街路樹をボコボコに短く伐ることはどうでしょうか? 効率よく食肉を生産するために、本来、動き回ることが好きな動物や魚類を、狭い囲いの中に詰め込んで飼うことは、どうでしょうか? これらは、「他を害する心をもって動植物を物質的に支配」してきたことを示していないでしょうか? 私は、その通りだと思います。

 私は今回、台風19号の被災地で汚泥の掻き出し作業をしながら、不思議な光景を目にしました。それは、予測はしていたのですが、リンゴ畑のリンゴの木は、すべて人間の手が届くような低さに剪定されていること。このため、木を見ても少しも美しくないのです。いびつに曲り、多くの枝が垂れ下がったリンゴの木に沢山の実が成っているのです。すると、洪水が起こると、ほとんどすべての実が泥の中に浸るか、泥がかかってしまい出荷できません。また、倉庫にあったほとんどすべてのものが泥だらけでしたが、中には、泥がついているだけで、使えるものも沢山ありました。が、そこのご主人に訊くと、「全部捨てて下さい」と言うのです。例えば、植物を支える支柱など、泥を洗えばまだ充分に使えると思うのですが、ご主人は見向きもしないのです。また、中身がいっぱい入った灯油の缶もありましたが、それも「全部捨てて下さい」と言われました。

 が、その一方で、ご主人に「それは取っておいて」と言われたものがあります。それは小型のペットボトルに入った農薬でした。それも1本や2本でなく、10本以上のものを、ご主人は大切そうに別の場所へ持って行かれました。また、倉庫内には、大型の農薬散布用の車があって、それをご主人はいかにも大切そうに扱っていることが、私たちには分かりました。

 私はここで、このリンゴ農家が洪水の被害に遭ったのは、「他を害する心」をもっていたからだと言いたいのではありません。地球温暖化の問題は、ある特定の個人の心がどうだったかというミクロの原因では説明できないし、解決できないでしょう。しかし、産業革命以降、長年にわたって、地球全体に住む多くの人々が、人間中心主義の考えにもとづいて繰り返し繰り返し、他の生物や自然環境を傷めつけながら物質的に支配しようとしてきたと言えないかを、皆さんには考えていただきたい。

20191124_img_0559  雅春大聖師の祈りの言葉には、「如何なる物も、人間が義しき心をもって生活し、他を害する心を起こさない限り、自分が害されるということはあり得ない」と説かれています。これを言い換えれば、「人間が邪な心をもって生活し、他を害する心を起こして、霊的にではなく、物質的に自然界を支配しようとしてきた」ことが、現代社会の様々な問題の背景にはあるということです。

 この人類的な心の傾向は、今も続いています。だから、それを正し、「神・自然・人間は本来一体である」という真理に、もっともっと多くの人々が目覚めることが、そして、人間を含めた自然界に対して、様々なやり方で四無量心を行じることが、今日ほど求められている時代はないと考える次第です。このことは、約90年前に、この運動を始められた谷口雅春大聖師の御心を現代に反映させるご恩返しになるということを、今日はぜひ皆様には知っていただきたいのであります。
 
 それでは、これをもって大聖師ご生誕日記念式典の所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。
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谷口 雅宣 拝

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2019年11月19日 (火)

社会を離れず、されど社会に呑まれず

 今日は午前9時半から、山梨県北杜市の生長の家国際本部「森の中のオフィス」で第68回生長の家代表者会議が行われた。この会議は、生長の家の運動を展開している全世界の幹部・代表者が集まり、次年度の人類光明化運動・国際平和信仰運動の方針や方策について説明を受け、質疑応答によって内容をよく理解するために毎年開かれている。この日は、ブラジル、アメリカなどの海外からの出席者やオブザーバーを含め338名が参加し、熱心な議論が行われた。私は、本会議の最後に概略、以下のような挨拶を行なった--

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 皆さん、ありがとうございます。


 今日、皆さんに申し上げたいのは「社会を離れず、社会に呑まれず」ということです。皆さんもご存じのように、私たち生長の家は、宗教としては早い時期から地球温暖化問題の重要性に気づき、その防止や抑制を運動として展開してきました。また、長年、東京という大都会に中心地を置いて布教活動を展開してきました。にもかかわらず、6年前の2013年、その便利さを捨てて標高1300mのこの“森の中”に中心地を移しました。東京は、日本社会の中心地ですから、これによって言わば「社会から離れた」わけです。

Dm_img_0532  その理由は、すでに何回も申し上げていますが、物質中心、経済中心であり、資源・エネルギーの大量消費を前提とし--したがって温室効果ガスの排出が多い、大都市の生活を自ら楽しんでいながら、他人に対して「温室効果ガスの排出をやめよう」というような運動は、論理的に矛盾している。それは、自分でできないことを人にさせようとしているという意味で、自己欺瞞に陥っているから効果的でなく、したがって成功しないということです。これを言い直せば、「社会に呑まれたまま社会の動向を批判できない」ということです。

 そこで私たちは、物理的に「社会から離れた」わけです。では、「社会に呑まれないために社会から離れる」というだけでいいのでしょうか? これだけでいいのならば、私たちは今日もここでこんな会議をする必要はまったくないですね。なぜなら、国際本部は“森の中”にあっても、そこへ集まった皆さん方の大部分は、都市から来ているからです。生長の家は都市には不要であるというのならば、都市から来た皆さんも不要であるということになりま  す。しかし、宗教は第一義的には自然を救うためにあるのではなく、人間を救うことが目的です。人間の大部分は都市生活者です。その都市生活者を相手にしないのでは、宗教は存在意義がなくなってしまう。また、都市に住む皆さんが不要であるということになると、運動自体が成り立たないことは明白です。

Dm_img_0533_20191124134101  そこで重要になってくるのが、「社会を離れず、しかし社会に呑まれず」ということです。これは、「都市を離れず、しかし都市に呑まれず」と言い換えることができるのですが、このことは実は「言うは易く行うは難し」であります。

 私たち国際本部の役職員は、東京から物理的に離れましたが、それによって心もある程度「都市を離れる」ことになったと思います。しかし、私たちの関心が完全に都市から離れるということは、あってはなりません。それは、先ほど言ったように、宗教の第一の使命は人々を救うことで、大部分の人々は都市に住んでいるからです。その都市で、人々がどのような問題を抱え、どのように感じて生きているかを知らずして、それらの人々を救うことはできません。だから、宗教者の心が「都市を離れない」ことは重要です。

Dm_img_0534  しかし、その一方で、都市は“欲望の中心地”であります。このことは、『宗教はなぜ都会を離れるか?』(拙著)という本の中にも詳しく書きました。都市に長く生活していると、そこでのやり方や価値観が当たり前で当然のものになる。宗教もその例外ではなく、とりわけ宗教が、都市を拠点とする権力や富と結びつくと、腐敗の道へ歩み始めることになります。

 次の文章は、イスラーム最大の歴史哲学者の一人とされるイブン・ハルドゥーン(1332~1406)のものです--

Dm_img_0535 「都会の人は一般にさまざまな快楽に耽(ふけ)り、奢侈(しゃし)や現世における栄達や欲望の追求に身を委ねがちである。このためかれらの心は悪に染まってしまい、善の道からはずれてしまっている。田舎や砂漠の人は都会の人と同じように現世のことに関心をもっているといっても、生活必需品に関してであって、奢侈とか快楽の対象となるものについてではない。田舎や砂漠の人の行動を規制する習慣は、その生活同様に単純であって、かれらの犯す過ちも都会の人の過ちと較べると微々たるものでしかない。

 田舎や砂漠の人は自然状態に近く、都会の人と違い、罪深くて醜い行為を繰り返すうちに芽生える悪徳に、その心が染まっていない。田舎や砂漠の人に対しては容易に罪を諭し、善行に導くことができる。都会の生活は文化の頂点であると同時に、堕落への出発点である。都市生活は悪の最後の段階であり、善から最も遠い。」(同書、pp. 259-260)

 イブン・ハルドゥーンが生まれたのは、日本では鎌倉幕府が亡びる前年ですから、時代的にはずいぶん昔の人です。しかし、私はここに描かれている都市の人々の関心事については、現代とそれほど違わないと感じます。もちろん、皆さま方は都市から来たといえども、宗教運動の中心にいる方々ですから、この描写には当てはまりません。が、都会生活の悪い所を見てみると、この描写に当てはまる人は数多くいるのではないでしょうか?

 ただし、現代は鎌倉時代やその後に続く室町時代とは違います。大きく違う点の一つは、多様な情報が簡単に入手できる点でしょう。だから、週刊誌やインターネットにどんなに低俗な情報が溢れていても、生長の家の聖典等のような、低俗でない情報を得ることも簡単にできますから、きっと皆さま方は、それを意識して毎日、「善を選ぶ」ことをされていると思います。違いますか? しかし、都市は欲望の対象となるものを数多く備え、しかもそれらを宣伝する手段に溢れています。コマーシャルや広告や看板、スマホに飛び込むネット広告、チラシ、景品販売……などです。それらすべてを退けて、正しい選択をするということは、至難の業ではないでしょうか?

Dm_img_0537  しかし、この「正しい選択をする」ということが今、いちばん求められていることだと私は思います。また、先ほど「多様な情報が簡単に入手できる」という現代社会の特徴に触れましたが、そういう環境の中で正しい選択をするためには、従来のピラミッド型組織は不十分なのですね。これまでの運動では、本部の会議で決まったことが、時間をかけて地方の運動に伝わっていく。第一線の皆様にとっては、「上からの指示待ち」の状態が多かったと思います。しかし、「上からの指示待ち」ではスピードが足りず、創造性が生かされず、内発的でないため、他人任せで面白くないのです。

Dm_img_0540  生長の家の運動は、ご存じのように、“文書伝道”の形で推進されてきました。また、地域をベースにした細分化した組織を、ピラミッド型の階層に組み立てて運動してきました。ところが、いわゆる“文書”が発行されるのは多くても1カ月に1回です。その文書にもとづいて運動を進める場が“誌友会”ですから、これも多くて1カ月に1回です。これに対して、私たちが日常的に接する新聞やテレビは、毎日更新されます。ネット上の情報は、それこそ分刻みに変っていきます。こういう情報の大部分が“欲望中心”の“迷いの情報”だと考えると、私たちの光明化運動は、もう最初から負けていると言わねばなりません。

 もっと迅速に、日時計主義に立った正しい情報を私たちが入手し、それに基づいて、もっと頻繁に私たちの行動を更新していく必要があるのです。そのためには、文書伝道と階層的組織運営を基本としている従来型組織では、対応しきれないというところに、1つ問題があると考えます。この従来型組織の弱点をカバーするために考案されたのが、プロジェクト型組織(PBS)だと言えます。

Dm_img_0541  ご存じのようにPBSの活動は、インターネットを主なコミュニケーション手段、情報源として使います。しかしインターネットは、これまた皆さんご存じのように、フェイクニュースやニセ情報が本物らしく飛び交っています。しかし、ネットの速報性や情報量の多さ、そこからの情報の入手のしやすさは、ほかの手段を大きく上回っている。ですから、私たちも運動の中でそれを積極的に使っていくのですが、それに際して大切なことを1つ申し上げたい。それは、生長の家による「生え抜き」の情報をどんどん提供すべきだということと、そうでない「接ぎ木」や「借り物」や「寄せ集め」は極力避けようということです。

 「生え抜き」の情報とは、生長の家の教えから直接出てくるもののことです。これに対して「接ぎ木」「借り物」「寄せ集め」というのは、その名のごとく、生長の家とは異なる運動や考え方であっても、外見が似ているものを運動の中に取り入れて、これを推進していくことです。具体的な例を、いくつか申し上げましょう。

Dm_img_0542  1つは、「バービー人形」です。これは何年か前、自然の恵みフェスタでの展示物に、大量のバービー人形を導入した所があった。ヴィンテージ物だから、古いものの再利用になると考えたのでしょうか? フェスタでは、地元の材料を使った手作り品や不用品を別の用途に再利用することは歓迎されます。しかし、この場合は、外見的には「古い人形の再展示」で、廃品の再利用のように見えるかもしれないが、実質的には、アメリカの大手玩具メーカーが作った比較的高価な製品を展示して、宣伝することになった。

 2つめの例は、初期のクラフト倶楽部の活動の中で、100円ショップで売られている工作キットやそれに類する材料を使った手作り品を自分で作り、写真に撮って出していた人がいました。これなんかは、「手作り品」なら何でもいいと考えた人が当初はいたことを示しています。でも、今ではクラフト倶楽部で“べからず集”みたいなものを出していますから、間違う人は少ないでしょう。また自転車部でも、海外製の高価なスポーツタイプの自転車を買わないといけないと誤解した人がいたようです。省資源、省エネ、あるいは低炭素の活動になるのか否かを、きちんと考えて判断することが必要です。

 また、3つ目の例は、食生活の面に関することです。昨年の国際教修会での発表が、『ムスビの概念の普遍性を学ぶ』(谷口監修、生長の家刊)という本に掲載されています。これを読むと分かりますが、「マクロビオティック」と呼ばれている料理は「身土不二」の思想から出発していて「自然食」と呼んでもいいかもしれない。私たちの考え方と近いと言えば近いのですが、日本で生まれた考えであるにもかかわらず、マクロビの料理では、それを日本で作るのに海外から輸入した食材に頼っていたりするし、肉食はあまり問題にされないのです。

 さらに環境運動の面では、「グリーンピース」という団体は生長の家より昔から、世界的な環境保護活動を展開しています。しかし、皆さんもご存じと思いますが、かなり先鋭的で、過激な側面をもっている。つまり、目的のためには手段を選ばない傾向があり、社会の混乱を作り出すことを意識しているようにも思われます。こういう点では、生長の家がマネをすべきでない活動と言えます。しかし、彼らの目的は私たちの目的とそれほど違わないところにあるようです。

Dm_img_0543  このように考えてくると、私たちは生長の家の教えから直接導き出される活動指針や活動形態を早く作り、皆さんに提供する必要があるのです。そのことを今年の運動方針では、2カ所で謳っています。2頁と3頁です。2頁では、「インタープリテーションの方法を取り入れた生長の家独自の環境教育」とは何であるかを、早く明確化する必要が書かれています。また、3頁の表現で重要なのは、「時代の変遷や科学上の真理との整合性を常に意識する」ということですね。生長の家は、科学を否定していないどころか、科学上の真理が生長の家の教えの正しさを証明しているということは、私はいつも講習会で申し上げていることの1つです。しかし、生長の家の講師の中には、まだ、科学や医学を否定するような言動をする人がいる。それは、誤解にもとづくものがほとんどなので、そういう点を、講師教育の中で正していく必要があります。

 これらはほとんど私と国際本部の仕事ですが、皆さんもこの方向性をしっかりと見定めて、普段から聖典等をよく読んで研鑽を続けていただきたいと考えます。私が来年、研鑽会のためにブラジルへ行かせていただくのも、そういう目的だとご理解ください。

 それでは、「社会を離れず、社会に呑まれず」の標語の下、生長の家「生え抜き」の情報の学習と拡大に向かって、来年度の運動を明るく、積極的に展開していきましょう。皆さん、よろしくお願い申し上げます。これで私の話を終ります。

 ご清聴、ありがとうございました。

谷口 雅宣 拝

 

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2019年3月 1日 (金)

自然と共に栄えるライフスタイルへ

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の出龍宮顕斎殿に約560人を集めて、立教90年を祝う生長の家春季記念式典が行われた。私は同式典にて概略、以下のような言葉を述べた――

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 皆さん、本日は立教90年のおめでたい記念日に大勢参加くださり、誠にありがとうございます。 

 

 私は昨年のこの立教記念日には、『生長の家』創刊号にある谷口雅春先生のご文章から「生命は働くことによって生長する」という教えを取り上げました。そして、その教えは今の時代では、「肉体と脳は使うことによって発達し、使うことによって幸福感が得られる」という形に翻訳されて、PBSの活動に反映されていることを強調したのであります。 

 

  今回は、この長崎県に越させていただく前に、鹿児島・宮崎両教区による生長の家講習会があったので、九州地方の人にはまたまたお会いすることができて光栄であります。この鹿児島市で行われた講習会の午後の講話では、私は受講者の質問に答えて「安全保障」の話をしたのであります。安全保障とか政治に関する質問が3通ぐらいありました。その中には、憲法改正の動きに対してどう考えるべきかという質問があったので、地球温暖化時代の国家の安全は、軍備によっては充分保障できないという話をしました。安倍首相は、憲法改正に固執しているようですが、現在の国際情勢はそんな個人の古い拘りを推し進めている余裕はないのです。生長の家の中にも、かつて政治運動を経験した年齢層の人の中には、この憲法問題が大変重要だと考えている人がまだいるようですが、地球世界は、ものすごく速いスピードで変化しているということを忘れてはいけません。 

 

Snihist  ここで少し歴史を振り返ってみましょう。生長の家が政治団体を結成して明治憲法復元運動をしたのは、1964年から1983年の間の約20年間です。今年は立教90年ですから、この90年の歴史の中では、20年というのは「四分の一」に満たない期間です。また、この時代の特殊性に気づかねばなりません。このような烈しい政治運動をしたのは、戦後の例外的時代だったのですね。このことはブックレット『戦後の運動の変化について』の中に詳しく書きましたが、それは現代史の中では「冷戦時代」と呼ばれています。この時代の特徴は、世界を“善”と“悪”の敵対する二大勢力に分割して、そのどちらかにつくことが求められただけでなく、反対陣営の勢力や人達と鋭く対立するという点でした。 

 

  生長の家は「対立の教え」ではなく「大調和の教え」ですから、このような善悪対立の世界を想定して、その一方につくような運動は、当時は政治的に必要に迫られていたことは事実ですが、本来は似つかわしくないのです。ですから、冷戦が終結して、ソ連が崩壊し、中国も資本主義を採用するなど、世界情勢が大きく変化した現在、35年以上前の課題が同じ重要性をもっているかというと、決してそうではないのであります。このことは、古くからの信徒の中にもきちんと理解しておられる人もいて、講習会ではこんな質問を投げかけて下さいました。日向市に住む72歳の女性の方です―― 

 「生長の家の御教えを知りましてから久しいのですが、近頃良く、この美しい地球を人類はキズ付けよごし、地球温暖化を止める事が出来ず、このままでは、愛する子や孫に負の遺産を残す事になりそうです。私共の祈りが足りないのか? この真理を知る人が少ないのか? もどかしい思いをいだいております。どうしましょうか?」 

 

Globenviron  この方の主要な関心事は、日本国内の“右”と“左”の対立ではなく、さらには国家と国家の対立でもなく、自然界と人類との不調和が続いて、私たちの子孫に良好な地球環境を残していけそうもないという問題です。これを一般的に「地球環境問題」と呼びますが、これは国内政治や国際政治とは関係のない別の問題だと思っている人もいますが、決してそうではありません。地球環境とは、私たちが棲んでいるこの地球全体のことです。その中に日本があり、その他各国があり、世界があるのです。だから、国内政治も国際政治も、農漁業も商工業もすべて、地球環境から大きな影響を受けることになります。 

 

Co2con_may2018_2  そして、多くの方はすでにご存じのように、この地球環境問題の根本的な原因も分かっている。それこそ、私たち人類の自然破壊と温室効果ガスの大気圏への過剰な排出です。それによって地球の表面の温度がどんどん上昇している。これにともない、北極や南極などの極地や高地の氷が大量に溶けだして海に流れ出ています。だから、海面が上昇し、人類が棲むことができる土地の面積がジワジワと狭くなっている。世界の人口は増えているのに、です。また、気候変動が起こって農産物、海産物が獲れなくなっている。貧しい国では、その影響を受けて政治が破綻し、大量の難民が、アフリカでも中南米でも、東南アジアでも、祖国を捨てて外国へ移動しています。気候の変化は、それほど巨大な影響を地球の自然界と人間界に及ぼしているのです。国家間の対立は、それと無縁ではありません。だから、一国が軍事力を増強してみても、これらの解決の役には立たないのです。それはかえって隣国を警戒させ、国際関係をさらに緊張させます。 

 

 

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 また、地球温暖化という現象は、長期的には人類と他の生物に大きな問題をもたらすのですが、短期的には、一部の地域や、一部の人々に“恩恵”をもたらすこともあることを、知っておいてください。例えば、先ほど北極海の氷が溶けている話をしましたが、これによってロシアなどの北極圏に領土をもつ国は、夏場に氷のない海を得ることになります。そうすると、そこで漁業をしたり、航路を開設したりできるので、経済的な恩恵が得られる。また、ニューヨークタイムズ紙の最近の記事によると、スイスはエネルギーの6割を水力発電に頼っているのですが、近年は山岳地帯に一年中あった氷河が融解しつつあるので、利用できる水の量がさらに増え、水力発電のブームになっているそうです。 

 

 しかし、いずれの場合も、これまで氷として地表付近で固まっていた水が溶け出すのですから「海面上昇 → 陸地の減少」が起こるだけでなく、地球表面を循環する水の量が増えることで、大雨や洪水が起きやすくなると考えねばなりません。いや実際、そういう現象が日本を含めて世界各地で起こっています。 

 

 このようにして、私たちは“荒れた地球”“住みにくい地球”を子供や孫たちに残していくことになりそうなのです。そんな事態はぜひ、避けねばなりません。 

 

  先ほど紹介した講習会での質問では、「祈りが足りないのか、真理を知らないのか、もどかしい。どうしましょう?」と言われましたが、私は、もうすでに生長の家はPBSの活動を通して、自分たちのライフスタイルを自然を傷つけないものに転換することで対応している、とお答えしたのです。PBSの活動のことは、私がすでに今年の新年の挨拶で申し上げました。この活動は、きわめて具体的な生活変革の運動で、しかも、やろうと思ったら誰でも実行できるものです。私たちは宗教運動をしているのですから、もちろん真理研鑽や伝道や祈りは必要です。しかし、それだけでは足りない。信仰や祈りは、具体的な生活変革が伴わなければ、今、人類が向かっている“誤った方向”への巨大な流れを是正する力にはならないのです。 

 

  PBSの活動についてもし問題があるとするならば、それは「インターネットを使う」という点でしょう。生長の家の中には、この新しい文化に親しんでいない人がまだ相当数いるでしょう。特に、古くから信仰している人の中には、スマホを使ったことがないし、今さらそんなメンドーな機械は使いたくない、という人もいるでしょう。しかし、そういう場合でも、生活変革は日常生活から可能です。そのヒントは毎月発行される機関誌や普及誌に書いてあるし、従来の組織運動の中でも、いわゆる“Bタイプの誌友会”というのはPBSと親和性が強いことは、すでにお分かりの人も多いでしょう。また、“自然の恵みフェスタ”は、スマホもパソコンももっていなくても参加できます。 

 

 このようなPBSの活動、あるいは生活変革の活動は、何も「目を三角にして」やる必要はないのです。つまり、歯を食いしばって無理をしたり、人と競争してやる必要はない。このことは、私が今年の「新年の挨拶」でも申し上げました。その時の言葉を思い出していただくために、次に引用しましょう-- 

 「そのような宗教本来の活動が、毎日の生活の仕方を変えることででき、しかも“苦行”によってではなく、自然の恩恵をいっぱいに感じる“楽行”によってできるならば、これほど嬉しいことはないと思います。」 

 このことは、昨年の立教記念日でも申し上げたことで、人間の肉体と脳は使うことによって発達し、使うことによって幸福感が得られることは、すでにPBSやBタイプの誌友会、自然の恵みフェスタなどを経験した人は皆、ご存じのことでしょう。 

 

 今年の冬、私が体験したことを話させてください。この間の鹿児島・宮崎両教区合同の講習会でも話したことです。それは、冬場の寒さを利用して、新しいクラフト作りに挑戦したことです。 

  (氷のリースの話をする)

  このように私たちは、効率とか省力とか、大規模化とか大量生産というような“古い文明”の基準に囚われなければ、新しい発想のもとにまだまだ幸福を拡大させることはできる、と私は考えます。如何でしょうか? 九州の人に「氷のリース」を作れとは言いませんが、南国では南国に相応しい自然があり、山地には山地でなければない自然があり、平野には平野独特の自然があります。それらを破壊せずに豊かさを保ち、人間も幸福に生きるライフスタイルをぜひ開発し、広めていってください。その基礎をつくるのが、本年2019年であり、それは立教90年の年であり、さらにこの年は、日本では新たな年号の出発となることは決して偶然ではありません。

 

  それでは、これをもちまして立教記念日の所感とさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

 

 谷口 雅宣

 

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2018年12月26日 (水)

緑のクリスマス

 クリスマスが終わって、ひと息ついている家庭も多いと思う。私たち家族もその例に違わない。で、わが家ではどんなクリスマスをしたかを、少しお話ししよう。が、その前に、この「緑のクリスマス」について説明させてほしい。
 
「ホワイト・クリスマス」という言葉は昔からあるが、「グリーン・クリスマス」という言葉もあることを、私は今年初めて知った。それはイギリスの科学誌『New Scientist』の12月1日号を読んだからだ。以前、本欄か本欄の前身のブログで「緑の聖書」について紹介したことがあるが、この言葉はそれと同じ発想から生まれた。つまり、「環境を傷つけない」とか「温室効果ガスを極力出さない」という意味で「グリーン(緑)」という言葉を使った場合、クリスマスはどんな方法で祝うべきかを、同誌は特集していた。題して「金ピカ飾りから七面鳥まで--倫理的クリスマスへの科学的なご案内」(From tinsel to turkey: A scientific guide to an ethical Christmas)である。
 
 ご存じのように、クリスマスというお祭は、屋外の電飾や装飾に始まり、室内の派手な飾り、プレゼントや食料の買い出し、物品の輸送、過剰包装と廃棄物の山、大勢の人々の遠方への移動などがほとんど全世界で一斉に行われるから、それに伴う温室効果ガスの排出や環境破壊は目に余るものがある。ひと昔前は、それは言わば“当たり前”だったが、イギリスの科学誌がこんな記事を書くのだから、昨今は、「商業主義的お祭は環境に有害」という認識を多くの人々がもち始めたのだろう。私はそれをうれしく思う。 
 
 では、「私たちはクリスマスを祝うのをやめ、家族団欒の時をもつのもやめよう!」と言うべきなのか? 私はそうは言わないし、実際、わが家では一貫してクリスマスを家族で祝ってきた。その理由は、同じクリスマスでも、祝い方によって環境破壊を増す場合とそうでない場合があるからだ。 
 
 環境破壊と人類の幸福増進は「二者択一」の問題だと考えるのは“古い文明”のメンタリティーである。生長の家ではこの二者は両立すると考えたからこそ、東京・原宿から八ヶ岳南麓に本部機能を移転したことを、思い出してほしい。そして、その後に行われている“自然の恵みフェスタ”やPBS(プロジェクト型組織)の活動が、このことを証明しているはずなのである。クリスマスは一種の“フェスタ”だから、それと同じことが言えるのである。では、実際にどうすべきか? 
 
 前掲の記事はまず、クリスマス・ツリーについて考える。本物のモミノキとプラスチック製のモミノキでは、どちらが環境への被害が少ないだろう。この疑問については、実際に細かく研究した人がいて、その結果は、「本物を使う方がよりグリーンだ」という。なぜなら、プラスチック製の木は製造過程でCO2を出すだけでなく、輸送時にもそれを排出し、さらに廃棄時にも環境を汚染する。が、その一方、本物のモミノキのように1回きりの使用ではなく、何回も使えるから環境にいいようにも思える。この点については、同誌はカナダのコンサルティング会社の実地調査を引用して、自然破壊を本物のモミノキと同等のレベルに留めるためには、プラスチック製のモミノキは「20年間」使い続けねばならない、と結論する。で、そんな長期に使用し続けると、プラスチック製品は劣化して哀れな姿になるのがオチだという。 
 
 では、どんな場合でもプラスチック製品を使わず、本物にすればいいのかというと、そう単純でもない。海外や遠方から取り寄せるのではなく、できるだけ近くで栽培された木を使うか、もっと言えば、自分の敷地で育てたものをポットに入れて使うべきだという。翌年もそのまま使えるからだ。使い終わったモミノキは、庭に廃棄して腐らせるのではメタンを排出することになる。(日本では、そんな伝統はないが)イギリスでは多くの自治体が、使用後に回収して根覆いをしてくれるから、リサイクルされるという。 
 
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 わが家では今年、地元のホームセンターでポット入りのモミノキを買った。高さ180センチぐらいのもので、使用後は庭で育てるつもりだ。昨年はそれをせず、森から“代替品”を切り出した。つまり、私の所有する森の隅にイチイの若木が何本も生えていたので、その中の適当な形で適当な高さのものをノコギリで切って、室内に持ち込んだ。しかし、そうやってみると、いかにも「可哀そうだなぁ~」という気がしたので、今年は方法を変えたのだ。 

 
 同誌の記事は、ツリーの次には食事について語っている。照りで光ったパイ、肉汁豊かなハム、オーブンで丸焼きにされた七面鳥……などが槍玉に上がっていて、その種の豪華な食事の環境負荷は大きいが、それらを“主菜”にするのをやめ、完全になくさなくても“脇役”にして、その代りに根菜類や豆類を多く使うことを勧めている。それでも、「七面鳥のないクリスマスなど許せない」と思う人は、クリスマスにはそれを食べても、その代りに日常の食事からは肉類を減らす--例えば、クリスマス後の数ヵ月に、週に1日、ノーミートの日を設ける--のはどうかと提案している。 
 
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 わが家の場合、すでに大分前からノーミート食が日常になっているから、この問題はない。妻はこの分野でずいぶん工夫を重ね、美味しいノーミート食を開発してくれていて、本当にありがたい。今回のクリスマス・ディナーのメニューは、サケとタラとホウレンソウとホタテのテリーヌ、マグロ入りトマトソースのラザーニャ、ニンジンとクルミのサラダ、ゴボウの赤ワイン煮、レンコンのトマトソース煮、キノコのショウガ酢煮、野菜のポタージュ、などと相当の豪華版だった。 

 
 環境負荷の面でクリスマス・プレゼントがもつ問題の1つに、そのきらびやかな包装がある。同誌の記事では、2017年に行なわれた調査によると、イギリスでは毎年1億800万ロールの包装紙が廃棄されているという。これらの多くは、プラスチック処理や金属処理を施したもので、リサイクルが効かないという。クリスマスカードの多くも、その種の処理をした紙製品だ。 
 
 日本では最近、デパート各社が「簡易包装」の選択肢を用意してくれているのはありがたい。が、わが家でのプレゼントの多くは、簡易包装もせずに、ユーズド包装紙(一度使ったものを、できるだけ綺麗な状態で残しておく)を再利用して、豪華に見せる工夫をしている。また、プレゼントを飾るリボン各種も、使用ずみのものを何年も取っておいて、それらを再利用、再々利用する。紙箱も同様に、贈答品などで使われたものを取っておいて、プレゼント用に使う。このようにすれば、紙類の廃棄を極力抑えることができる。紙類の使用を減らすことは直接、森林伐採の削減につながることは言うまでもない。 
 
 そして最後は、プレゼントそのものの内容だ。これについては同誌の記事は何も書いていない。しかし、プラスチックを使った製品が溢れている現代文明(旧文明)では、これを使わないプレゼントを考えることは難しい。特に、小さい子ども用に企業が提供する玩具類は、プラスチックを含む石油製品を使ったものが主流であると言えるだろう。私には3人の子(男2、女1)と3人の孫(男2、女1)がいる。そこで今年は、妻と相談して、私が男用のプレゼントを、妻が嫁さんを含めた女用のプレゼントを考えることにした。私は今回、男共にはプラスチックを使わないプレゼントをあげようと決意した。そして、木工によるクラフトを製作することにした。「SNIクラフト倶楽部」所属しているのだから、当然と言えば当然だ。こうして、今年のクリスマス祭はかなり「緑色」になってきたと感じている。 
 
 私が木工で何を作ったかという話は、別の機会に譲る。 
 
 谷口 雅宣

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2018年9月 9日 (日)

北海道大地震で考える

 「震度7」という最大規模の地震が北海道の中心部を襲った。震源地は胆振(いぶり)地方で、マグニチュードは6.7。揺れの強さを示す震度は厚真町で7、むかわ町と安平町が震度6強、200万都市の札幌も震度5強という揺れで、多くの被害が出ている。亡くなられた方々、被災者の方々には心からお悔やみと、お見舞いを申し上げます。 
 
 妻と私は、9月9日に札幌と小樽の両教区での生長の家講習会を予定していたが、被災地の人々の様子や希望、会場の状況などを考えたすえ、この行事を中止することにした。この日まで、講習会の推進活動や伝道に熱心に取り組んできてくださった両教区の幹部・信徒の皆さまには、誠に残念な決定かもしれない。しかし今は、無理を強いて行事を開くよりは、地域の人たちとの一致協力のもと、被災者の救済と救援、破壊された住宅や施設、インフラの復興に全力を尽くすべきと考えた。 
 
 「震度7」の大地震は、最近では阪神淡路大震災(1995年)、新潟県中越地震(2004年)、東日本大震災(2011年)、熊本地震(2016年)だから、頻度が増していると言わねばならない。また、9月7日付の『日本経済新聞』は、政府の地震調査委員会が、今回の地震は国内の地震で広く見られる「逆断層型」だと結論したことを報じている。そのような地震も、予知がまったくできなかったことを考えると、私たちは国内のどこにいても、大地震に突然遭遇する可能性があることを忘れてはいけないだろう。私が住む山梨県北杜市でも、すぐ近くに釜無川断層帯が走っている。だから、大きな自然災害が起こるたびに、私はとても他人事ではないとの感を強くするのである。 
 
 しかし今回の大地震は、その前に続いた自然災害と考え合わせると、私にとってとりわけ“自然界の大転換”を実感させる出来事である。ご存じのように、9月4日には台風21号が猛スピードで西日本を縦断した。その際、関西国際空港は水に浸かり、強風で錨が役に立たなかったタンカーが連絡橋に激突、橋が半壊したため、数千人が一時、空港島に取り残されたばかり。空港の機能がまだ正常に回復していない矢先に、この大地震が発生したのである。それに、6月末から7月の初めにかけては、台風7号と梅雨前線が「西日本豪雨」をもたらして、各地で大規模な河川の氾濫や浸水、土砂崩れが発生して200人以上の犠牲者が出たばかりなのだ。 
 
 上掲の『日経』には、連続する自然災害への対応を続けている政府機関は「短い期間に連続して起きる複合災害に、限られた人員で立ち向かう」ことの難しさが書かれている。例えば、災害派遣が続く自衛隊の場合は、こうある-- 
 
「北海道地震で人命救助や給水などに従事する自衛隊は6日午後に約4,900人で、7日に2万4千人、9日に2万5千人まで増やす。 
 自衛隊は今年に入り2月の北陸地方の記録的な大雪、4月の大分県の山崩れ、6月の大阪北部地震と相次ぎ災害派遣にあたった。7月の西日本豪雨では最大3万3千人の態勢を組み、8月18日に派遣を終えたばかりだ。」 
 
 ご存じの方もいられるだろうが、このような大規模な自然災害や異常気象の連続は、日本だけで起こっているのではない。世界各地で今、一斉に起こっているのだ。だから、この事実が何を示しているかを、私たちは正しく学び、個人のレベルに留まらず、地域社会や国家、地球全体のレベルに於いても、今後の人類の生き方や文明のあり方を再検討し、変えるべきものは変えていかねばならない、と私は思う。 
 
 アメリカのカリフォルニア州は今夏、同州の歴史上かつてない山火事に見舞われた。『ニューヨークタイムズ』によると、8月7日現在の数字でいえば、17箇所の60万エーカーの山林が焼け、1万3千人の消防士が出動し、2,300人の州兵が消火活動に動員された。同州だけでは消防士の数は足りずに、東部のメイン、ニュージャージー、ミシガン、南ダコダなど、同州外の17州から装備や人員が補充されただけでなく、陸軍からは1歩兵大隊が動員された。さらにオーストラリアやニュージランドなどの外国からも“援軍”が派遣された。この8月初めの時点での焼失面積は454平方マイルで昨年の3倍に近い。何万人もが、住む場所を失って焼け出された。北カリフォルニアの有名なヨセミテ国立公園やサクラメント渓谷なども観光不能となり、多くのワイナリーが大損害を被った。 
 
 同紙はこの熱波の原因について、「科学者たちは、カリフォルニア上空の大気の成分を変化させ、山火事を極端に危険な状態にした中心的な原因は、気候変動だという」と明確に述べている。同州では旱魃と熱波が拡大しているため、山火事が起こる時期が早まり、終るのが長引いているのだ。 
 
 イギリスの科学誌『New Scientist』が7月14日号で伝えたヨーロッパと中東の状況は、こんなだ--「スコットランドは6月28日に33.2℃となり、2003年8月に達成した32.9℃という過去の記録が破られた。中東のオマーンでは、6月26日に42.6℃という最高気温に達し、この高温が夜まで続いた」という。南半球も例外ではない。同誌が伝える最大の異常高温は「南極」の気温だ。北半球の“夏”は南極の“冬”だが、南極では平年より暖かい日が続いているという。ここで同誌が言いたいのは、南半球は北半球に比べて陸地面積がずっと少ないのに、それでも大気の温度が上昇していることの理由である。陸地は温まりやすく、海は温まりにくい。地球のあらゆる地点では、それぞれの地域的特徴から気温のばらつきがあることは当然だ。しかし、地球上のいずれの地域でも共通して気温上昇が見られることの原因は、地球温暖化以外には考えられないということである。 
 
 同じ『New Scientist』誌は、8月4日号では「深部からの混乱」という表題で4ページの特集記事を載せ、「我々は大西洋の攪拌機を混乱させてしまい、このままだと将来の気象はさらに極端になる」と伝えている。この“攪拌機”とは、通称「大西洋ベルトコンベイヤー」と呼ばれるもので、正式には「Atlantic Meridional Overturning Circulation (大西洋での南北方向の撹拌循環、AMOC)」という地球を南北方向に走る巨大な海流システムのことだ。 
 

Oceancurrentsj_20180908  図の中で大西洋に描かれた赤い曲線は、北方向に海洋の浅い部分を流れる海流を示す。ラブラドル海盆(L)と北極圏内のノルウェー海(N)にあるオレンジ色の楕円は、海面近くを進む海流が冷却されて密度が濃くなったことを示している。こうなると海水は大西洋の海底方向へ沈んでいく。この過程は「水塊の変化」とか「深海の形成(deep water formation)」などと呼ばれていて、この時、海水の熱は大気中へ発散される。このオレンジ色の楕円と接する水色の曲線は、南方向への海流を示す。つまり、大西洋では、暖かい水は海の比較的浅い部分を北上して北極近くまで行き、そこで冷やされて深海へ潜り、今度は海の深部を南方向に流れて南極付近まで行くのである。この巨大な海流を「AMOC」と呼ぶ。そして、AMOCは、大西洋の南端までいくと、南極の周囲を巡る円環状の海流(ACC)に連結する。 
 
 地球温暖化が進むと、北極の氷やグリーンランドの氷床が溶け出すため、海水の塩分が薄まることでAMOCが深海へ進む速度が減少する。巨大海流の一端の流れが遅くなれば、全体の流れが緩慢になると考えられている。ここで注目されるのは、AMOCの一部であるメキシコ湾流の動向である。この海流は赤道近くの温暖な海水をヨーロッパの西側まで運ぶことで、アメリカ東海岸やヨーロッパの諸都市を緯度の割には暖かにしている。北海道の北端にある稚内市は「北緯45度」付近にあるが、イタリアのミラノ、フランスのパリやリヨン、ドイツのボン、ハンブルク、イギリスのロンドン、スコットランドなどは皆、それより北に位置していることを思えば、メキシコ湾流の影響は大きいことが分かるだろう。 
 
 北極付近でのAMOCの停滞が世界各地にどんな影響をもたらすかは、複雑で予測が難しい。上述した『New Scientist』の記事は、こう書いている--「アメリカ東海岸に沿って極端に速く海面上昇がもたらされる。ある推定では、ニューヨーク市の海岸では、2100年までに15~21センチの海面上昇があると予測する。そうなった場合、ハリケーンなどの嵐が来たときには洪水の規模が拡大するだろう」。これに対して、温暖なメキシコ湾流の北上速度が弱まれば、ヨーロッパの温暖化の程度も緩和されるという議論もあるらしい。 
 
 しかし、大量の氷の融解によって、太陽からの熱を地球が吸収する量は増えているのだから、吸収された熱はヨーロッパに向かわなくとも、地球のどこかへ向かうことになる。だから、温暖化の問題は解決しない。また、ヨーロッパが涼しくなっても、それは地上の水の蒸発を弱めることになるから、雲が形成されにくくなり、乾燥が進んで農作物の生育に悪影響を与えるかもしれない。また、冬季には嵐が激化し、洪水が増えるという予測もあり、実際にそのような傾向が観察されている。さらに、海水温の変化や海流の変化は、漁業に影響を与えることは明白だ。 
 
 この「AMOCの減衰」の可能性については、イギリスの科学誌『ネイチャー』も今年4月12日付で、これについての2編の研究論文を掲載し、その重要性について、「AMOCの減衰によって北半球全体で気候パターンと降水パターンがかなり変わってしまう可能性があるからである」と述べている。 
 
 これらの科学者の分析と、最近の異常気象の頻発を目撃して、私はこう考えるのである--人類は際限なくエネルギーや資源の消費を続けてきたために、地球の大気の構成が激変しつつあり、それに伴い温暖化、海水の成分の変化、海水温の上昇、AMOCを含む地球規模の海流システムの変化、生物界の変化が大規模に進行している。だから、これからの広域にわたる気象は、従来のデータを基にして想定する気象予報が、ほとんど役に立たなくなる可能性を排除すべきではない。これを言い直すと、「従来は“想定外”だった気象現象も、今後は想定しなければならない」ということだ。 
 
 これはもちろん、「過去の経験は参考にならないから、将来に向かって勝手放題をすればいい」ということではない。私たち人類は“地球生命の一部”だから、地球環境を破壊することは自己破壊であるとの認識を明確にもち、環境破壊をやめ、環境と共生することに幸福を見出す生き方の創造と実践を、従来の習慣に引きずられることなく、強固な決意のもとに進めていく以外に選択肢はないのである。 
 
谷口 雅宣

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