地球環境問題

2017年1月16日 (月)

凡庸の唄 (7)

 凡庸はときどき考える――
 先を目指し
 縦方向へ上ることに
 しのぎを削る人たちが、
 もっと周囲に気を配り、
 横方向に意識をひろげ、
 競争するのではなく、
 協働することに
 喜びを見出す生き方に
 転じてくれる日のことを。
 人より秀でることは
 確かに素晴らしい。
 記録を塗り変えることは
 称讃に値する。
 優秀な作品や商品や
 サービスを創造することは、
 人間社会への大なる貢献だ。
 しかし、人間社会は
 地球のごく一部だ。
 そのために森林の破壊に目を閉じ、
 生物種や資源が減っていくのを顧みず、
 地球全体を暖める原因をつくることは、
 人間社会を超えて横方向に拡がる
 広大な生物共存の世界を壊すことだ。
 天と地と人との
 仕合わせを否定することだ。
 凡庸は思う――
 それはきっと彼らの本心ではないと。
 先を見て急ぎすぎるために、
 彼らの視野が狭まり
 周囲の豊かな世界、
 豊潤で知恵に溢れた地球世界を
 味わい楽しむ余裕がない。
 もっと凡庸であれば、
 心が開き拡大して
 世界に滲(にじ)み出ていくから、
 彼らだって
 人・物・事の結びつきが
 自分の幸せだと合点する。
 地球世界から分離しない
 本来の自分が感じられるに違いない。
 優秀と凡庸は
 本当は異質ではない。
 見ている方向が違うだけだ。
 優秀な彼らに
 凡庸の視点を与えよ。
 凡庸な我らに
 秀逸なる彼らの業績を与えよ。
 秀逸な才能の開花、
 秀逸な業績の実現は、
 実は
 凡庸の希望でもある。
 だから、大勢の凡庸は
 静かに彼らに協力し、
 応援している。
 凡庸は秀逸の母でありたいと願う。
 凡庸は秀逸を、
 人間社会だけでなく、
 地球世界の誇りにまで飛翔させたいと願う。
                        (了)
                   谷口 雅宣

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2017年1月14日 (土)

凡庸の唄 (6)

 凡庸と敗北主義を
 混同してはいけない。
 敗北主義は“及び腰”の生き方だ。
 自信がなく
 勇気がなく
 屈従が
 密かな慣(ならい)となっている。
 それでいて、
 自分の殻に閉じこもり、
 他人を信じず
 白眼(はくがん)で見る精神から離れられない。
 凡庸はしかし、
 自分の殻をもたないのだ。
 たといもっていても、
 それを破る生き方が
 正しいことを知っている。
 凡庸は“粘り腰”の生き方だ。
 他人の主張を
 壁のようにはねつけるのではなく、
 扉を開けて受け入れ、
 理解しようとする。
 自分が彼だったら、
 何が本当に言いたいのか、
 心を澄まして感じ取り、
 自分の言葉に翻訳する。
 それが心に染み込んでいくのを
 時間をかけて快く感じる。
 こうなれば、
 自分と他人との壁は消える。
 否、
 本当は壁などないことに
 気がつくのだ。
 自分は他人であり、
 他人は自分の代弁者だ。
 自分の本心を
 他人の声の中に聴き、
 他人の声を
 自分の中に聴くことができる。
 これが、
 本当の“粘り腰”だ。
 他人はいないから、
 もう他人に小突かれ、
 押し出されることもない。

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2017年1月13日 (金)

凡庸の唄 (5)

 凡庸は、
 こんな機械の専制支配を
 笑いながら拒否するのだ。
 なぜ笑う――
 凡庸は機械の力を知っているのだ。
 機械に任せば
 仕事の効率は格段に向上する。
 出来栄えも一見、
 美しく
 正確で
 均整がとれている。
 規格通りの品が
 大量に、短時間で完成する。
 単価が下がり
 数多く売れるに違いない。
 が、しかし
 規格品は
 ボタンを押せば誰でも作れる。
 人が作るのではなく、
 機械が作るからだ。
 人間は、
 人間であることをやめ、
 ボタンを押すだけの機械になる。
 製作の技術が不要になるから、
 世界と人間との
 接点が希薄になる。
 世界に直接触れ、
 傷つけ疵(きず)ついているという
 切実な実感が失われる。
 ある物の製作が楽になっても
 別の物の製作ができず、
 応用がきかず、
 視野が狭くなる。
 それは、
 スペシャリゼーションと同じだ。
 
                      谷口 雅宣

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2017年1月12日 (木)

凡庸の唄 (4)

 凡庸の好きな言葉――
 下手の横好き。
 何事にも興味をもって当たること。
 関心を横に拡げることで
 世界の広さ、
 物事の豊かさ、
 人々の多様性、
 社会の許容量が実感できる。
 縦方向にだけ進んでいては、
 孤高の山は見えても
 牛馬が草食む草原、
 銀鱗ひらめく緑の湖(うみ)を
 見ることはできない。
 高山植物の名前を覚えられても、
 平地や森を彩る
 他の無数の植物について、
 花に来る虫たちについて、
 人に聞かねば分からない。
 分からなければ、
 彼らの助けを得られず、
 生きていけない。
 凡庸は
 雑学者であることを少しも恥じない。
 雑学は無知よりも数段優れている。
 スペシャリゼーションが
 もてはやされた時、
 凡庸はその道を断(ことわ)った。
 「下手の横好き」ができないからだ。
 白亜の城に囚われること――
 凡庸が最も嫌ったことだ。
 スペシャリゼーションの階段を昇っていくと、
 専門外が見えなくなる。
 専門外の知識を
 他に頼らねばならなくなる。
 知識だけでなく、
 技術も他人任せになる。
 技術が機械に移行した現代(いまのよ)では、
 機械に頼って生きなければならない。
 機械の指示に耳を傾け、
 目を皿にしてパネルを見つめ、
 マニュアルを片手に
 オロオロしながらボタンを押す。
 押し間違えて頭を抱える。
 いったいこれが人間の進歩か、
 文明の発展か。
                      谷口 雅宣

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2017年1月11日 (水)

凡庸の唄 (3)

 凡庸は今、
 白昼夢を見ているのではない。
 心が開かれれば
 人は皆、
 自分の周囲を理解し、
 慈しむ能力をもっている。
 それなのに
 先を急ぐ人は、
 「先」しか見ないと心に決め、
 目的をしぼって心を閉ざす。
 でも、よく考えてほしい。
 「先」しか見ないということは、
 何も見ないことではないか。
 Aの地点にせっかく来ても、
 彼はその先
 Bのことを考える。
 Bに到達すれば、
 彼はCの様子が気になり、
 電話して担当者を呼び出す。
 担当者に仕事を頼んだあとは、
 今いるBを楽しめばいい。
 しかし周囲の喧噪は、
 道を急ぐ人々の流れは、
 客引きの呼び声、
 パチンコ玉の跳ね散る音は、
 彼の心を急き立てる――
 今もっと何かすべきではないか。
 自分にし残したことはないか。
 彼の心は
 目の前にあるのと別のことを探している、
 考えている。
 そっちの方が
 価値あることだと信じている。
 そんな彼こそ
 白昼夢を見ているのだ。
                                  谷口 雅宣

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2017年1月10日 (火)

凡庸の唄 (2)

 凡庸であることを
 「恥」と思ってはいけない。
 凡庸は人生の達人である。
 一芸に長ずることで失われる
 時間と
 視野の広さと
 細かい気配りを
 自分のものとすることができる。
 凡庸は時間を大切にする。
 何かをするための時間ではない。
 そこに在るがままの時を味わう。
 通勤途上に仕事などしない。
 Aの駅ではAを味わい、
 Bのバス停では
 広告のデザインを楽しみ、
 学び、
 Cの町角では
 路傍の花に留まる虫に語りかける。
 おい、
 そんな小さな花でも
 お前の好みの色香を放つのか?
 凡庸は、
 ミツバチの視覚を自分のものとし、
 モンシロチョウになって
 民家の屋根より
 ずっと、ずっと高くへ昇り、
 トンボの複眼をもつ自分を想像する。
 空に上れば
 視野は広がり、
 自分が世界の一部だと感じる。
 その世界とは、
 ニュース報道が教える
 暴力と混沌の世界ではない。
 生きものがつながり合った
 自由で軽ろやかな
 地球大の紐帯(むすびつき)の世界だ。
 それぞれが主人公でありながら、
 それぞれが他者を支えている。
                               谷口 雅宣

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2017年1月 9日 (月)

凡庸の唄 (1)

 凡庸を馬鹿にするな。
 凡庸こそ
 時代の寵児だ。
 凡庸は威張らない。
 凡庸は欲張らない。
 凡庸は他を蹴落として
 世に先んじようと思わない。
 なぜなら凡庸は
 自分の技量と
 器量を心得ているからだ。
 凡庸は諦めているのではない。
 凡庸は知っているのだ。
 世の中には、
 他より先へ行くことよりも
 大切なことはいくらでもあると。
 他と競うよりも
 別の楽しみはいくらでもあると。
 競争者は
 目標とライバル周辺のことしか
 目に入らない。
 競争者の見る世界は
 味方と敵に二分される。
 争う心は他を傷つけ
 自分を不快にする。
 しかし凡庸なる人は、
 先を見て争うのではなく、
 周りを見て楽しむ。
 新幹線に乗っていては
 駅の名前さえ分からない。
 黄金色の稔りの秋は
 単一の黄色の帯だ。
 普通列車に乗ってみると、
 駅名だけでなく
 看板の古さ、
 新しさがよく分かる。
 名産品の広告が読める。
 駅員の声が聞こえ、
 ああ
 父と同じ年頃だと分かる。
 途中下車して田圃道を歩けば、
 今年の稔りの様子が分かる。
 垂れた稲穂を持ち上げれば、
 ああこのおかげで
 自分は今日まで生きてきたと
 天と地と人との仕合わせに納得する。
 そう、
 幸せとは
 人・物・事のめぐり合わせに
 価値を見出すこと。
 見出すだけでなく、
 しっかりと味わうこと、
 触れること、
 皆仲間じゃないかと慈しむこと。
 せっかく旅に出ているのに、
 出立地と目的地しか味わえないのでは、
 本当に生きているとは言えない。
 凡庸は、
 そのことを知っている。
               谷口 雅宣

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2017年1月 1日 (日)

“新しい文明”の基礎づくりを始めよう

  全世界の生長の家信徒の皆さん、新年おめでとうございます。
 
 この新しい年を、皆さんと共につつがなく迎えることができたことを神様に心から感謝申し上げます。ありがとうございます。 
 
 本年は「“新しい文明”の基礎を作るための3カ年計画」がスタートする年です。“新しい文明”とは、人間の幸福と自然界の発展とが両立するような生き方であり、そんな生き方を支え、拡大する力となる信仰、哲学、科学技術、政治、経済の全体をいいます。私たちはそれを今後、ゼロから作り上げるのではありません。人類は何千年もの歩みの中で、すでにそれに該当する業績を世界各地で数多く生み出してきました。しかし、それらの業績は、今私たちの目の前にある人間本位の価値観を基礎とする“旧い文明”では取り入れられず、一部取り入れられたとしても、経済発展優先の政治により、脇に追いやられてきたのでした。私たちはそれらを繋ぎ合わせ、補強し、血を通わせて体系化し、できるところから実行に移すことによって、“新しい文明”の基礎を整えようと考えています。 
 
 そのための活動として、3つの実践項目を提案しています。1つは「ノーミート、低炭素の食生活」、2つ目は「省資源、低炭素の生活法」、そして3つ目は「自然重視、低炭素の表現活動」です。この3つは、私たちの運動の中で、すでに昨年から各地で実践され始めていますが、これらをもっと積極的、大々的に、そして私たち信仰者の「倫理的な生き方」の証として、喜びをもって展開していくことを通して、周囲の人々に生長の家の御教えを確実に伝えていきたいと念願しています。 
 
 昨年、2016年の世界で特徴的だったのは、ポピュリズムの台頭でした。日本だけでなく、ヨーロッパでも、アメリカでも、これまでの政治・経済の仕組みを否定する一方で、適切な方策を伴わない大きな変化が起こっています。この動きはしかし、過剰なグローバリゼーションの弊害を教えてくれるのですが、反面、危険な方向を示しています。エリート支配でなく大衆支配を、グローバリズムでなくナショナリズムを、自由貿易ではなく自国の産業擁護を、移民の受け入れではなく移民排斥を、軍縮でなく軍備拡大を、この動きは提案しているのです。これらは、社会の急激な変化に反対する大勢の人々の“叫び”であることは否定できません。しかし、この“叫び”をそのまま実行すれば、各国が互いに利害を主張し合う“対立の世界”に移行することは明らかです。 
 
 私は、この叫びは社会の「不平等感の拡大」が大きな原因の一つだと考えます。ある社会において、少数のエリートだけが利益を享受する一方で、大多数の構成員が社会の恩恵を受けられず、心理的にも取り残された状態にある場合、そういう社会に貢献する意欲が失われてしまうのは当然です。そんな人々の目には、民主主義の理想は“美しい飾り”にしか見えません。だから、それらの価値に反逆して、極端な主張を唱え、極端な行動を起こす人たちも出てくるのです。 
 
 これを宗教的に言い直すと、現在の社会には、神の御徳である「知恵」「愛」「命」の表現が、極端に偏っているということです。だから、私たちはもっと強力に、社会の全面に神の御心を表す活動を、積極的に展開していかねばなりません。そのためには、自然界をこれ以上破壊するのをやめなければなりません。神の御心は、自然界に充満していることを忘れてはなりません。自然から奪うことが富の実現だと考える“旧い文明”に別れを告げましょう。そして、自然を養うことにより人間の幸福を実現する“新しい文明”を構築しましょう。それが、この地球社会を“対立の世界”へ転落させるのを防ぎ、平和の道へ引きもどす唯一の方法です。 
 
 それでは皆さん、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
 谷口 雅宣

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2016年7月 7日 (木)

今こそ「万物調和」の教えを拡げよう

 今日は午前11時から、山梨県北杜市にある生長の家“森の中のオフィス”の万教包容の広場で、「万教包容の御祭」が行われた。同祭にはオフィス職員が参加したほか、御祭の様子を伝える映像は、インターネットを通じて生長の家の国内の教化部を初め、海外の各拠点にも配信された。 
 
 私は御祭の最後に、概略以下のような言葉を述べた-- 
 
-------------------------------------- 
 
 皆さん本日は、第4回目の「万教包容の御祭」にご参加くださり、ありがとうございます。この御祭は、3年前の7月7日に、“森の中のオフィス”の落慶を記念して始められました。その目的は、世界の宗教や民族、文化などが、多様性をもちながらも一つの中心のもとに大調和する実相世界の構図を、私たちの運動を通して現実世界にも現していくことを誓い、祈念するためであります。そのことを象徴するのが、七重塔であります。 
 
 今日は先ほど、この万教包容の広場で4基目の七重塔が除幕され、その基台に『甘露の法雨』と『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』の経本が納められました。この3つの経本は、これまでの1年間、オフィスの本部講師、本部講師補の方々が心を込めて読誦してきたもので、「神・自然・人間の大調和」実現を目指す私たちの誓願が込められています。 
 
 いま「神・自然・人間」と3つの言葉を使いましたが、この3つは本来、一体のものであるというのが、私たちが信ずるところであります。言葉というものは--特に、私たちが「名詞」と呼んでいるものは、人間の感覚でみれば「別々に分かれて見えるもの」を取り上げ、それらに名前をつけたものです。この現象世界の中には、実に膨大な数、膨大な量のものが存在しますが、その全体を捉えることは人間の感覚によっては不可能なので、私たちはそのごく一部を頭の中で切り取って名前をつけ、その名前を使って世界を理解しようとしているのです。 
 
 写真撮影を例にとれば、世界全体の写真はどんなカメラによっても撮れないので、その一部をフレーミングで切り取り、切り取った画面に大きく写ったものに名前をつけるようなものです。これが私たちが普段使っている言葉の重要な機能です。これはとても便利な機能なので、日常生活で普通に使っている分には問題は少ない。しかし、デメリットがないわけではない。その1つは、言葉で名前をつけた部分が、それ以外の部分とは別個に、独立して存在するような印象が生まれるということです。しかし、本当は、その名前の部分と写真のその他の部分は、別個で、相互に無関係であることはなく、同じものの一部であったり、密接な関係で結ばれていることがほとんどです。 
 
 例えば、「山川草木」という言葉がありますが、この言葉の文字面だけを見ていると、「山」と「川」と「草」と「木」は、別個の独立したもののように感じられますが、私たちがこの八ヶ岳の麓で生活していてよく分かることは、これら4つは決して分離することができない全体の一部で、相互に密接に支え合っているということです。山があれば必ず川が流れます。川の周辺には草木がよく繁り、そのおかげで川が氾濫しないで一定のコースを流れる。だから、山の形が一定なのも、草木が繁っているからと言えます。 
 
 『観世音菩薩讃歌』の終りの部分には、これと同様のことが「空をゆく雁の群」を例に挙げて描かれているのを、思い出してください。 
 
<--天使かく説き給えば、 
天の童子の姿かき消え 
虚空高く雁の一群の飛び行く姿見ゆ。 
その時天空より大音声の響きて曰く 
「見よ、雁と虚空と分かつこと能わず。 
虚空と山河と分かつこと能わず。 
山河と海は不可分なり。 
すべての生物と地球は一体なり。 
汝ら自らを一個の卑小な肉体と見るべからず。 
人間は山河なくして存在せず、 
海陸と別に存在せず、 
そこに生くるすべての生物と共に在るなり。> 
 
 この引用箇所は、文学的表現のように聞こえますが、生物学や生態学が発達した今日では、科学的事実でもあるわけですね。人間は、生態系の一部として、空や山河や海陸と、そこに生きるすべての生物に支えられて生きている、ということです。これが生物としての人類の真実なのですから、人間社会の中での個人の位置も、この全体的構造と違うはずはないのです。つまり、すべての人々は、お互いに助け合い、支え合って生きているのです。しかし、人間には、そういう大調和の全体像が見えなくなることがある。それは、社会全体の中での自分の位置が分からなくなる時です。これを「identity crisis」とか「自己同一性喪失の危機」とか呼びます。 
 
 自分が一体何者であって、何に価値を見出せるか分からなくなってしまう。社会での自分の位置が失われる。どこへ行っても、そこは自分の居場所ではないような気がする。人とのコミュニケーションがうまくとれず、友だちができない。友達がいても、別れてしまった……そういう精神的危機は、貧困の中で生まれることもあるけれども、先進諸国の物質的繁栄の中でも生まれることがあります。自分の“本当の姿”を忘れ、一個の肉体だと思う。そういう人間の中には、自分を疎外する社会を破壊して、自分自身も破壊したいという願望を抱く人もいるのです。 
 
 私は、ISの呼びかけに応えてテロを行う人々の多くが、そのような自己同一性の危機に陥った人だと考えています。つい最近も、バングラデッシュのダッカで、外国人向けレストランを狙ったテロが起こり、日本人7人を含む20人が犠牲になりました。一見、このこととは関係がないように見えますが、より広く世界に目を向けると、イギリスの国民投票ではEUからの離脱派が多数を占めました。これは、ヨーロッパへの大量の移民の流入によって、イギリスの文化的・社会的同一性が失われると感じた人々の、恐怖心から生まれた結果と思われます。アメリカの大統領選挙でも、移民流入の制限と、人種や宗教差別を隠さない大富豪の候補者が、国民の半分を代表する立場にあるというような、アメリカ史上稀にみる異常事態が起こっています。 
 
 そして日本では、過去の憲法を復活させ、中国に対抗するために軍備増強を推進しようとする総理大臣が、高い支持率を維持していることは、皆さんもご存じの通りです。 
 
 このように、世界の多くの人々が、本来一体で大調和している世界の構図を認めずに、分離・独立・相互対立の動きが世界中で広がっているように見える今こそ、この「七重塔」に象徴される「万教包容」「万物調和」の教えと、アイディアと、生活法を推進していく私たちの運動の重要性は増大していると言わねばなりません。七重塔の「7」は「すべて」を表します。そのすべてが、それぞれの個性を失わずに、中心軸(つまり神意)から逸れずに全体を構成している。その姿は、調和していて美しい。 
 
 それを表現しいるのが、七重塔です。この塔は毎年、この日に一基ずつ増設していくことが決まっていますが、その理由は、私たちの万教包容・万物調和のメッセージが年ごとに世界にどんどん拡大していくことを誓願し、その誓いを視覚的にも表現することによって、運動の拡大を進めるためです。 
 
 どうか皆さん、「神・自然・人間の大調和」という実相世界への信仰をこれからも高く掲げるとともに、人間社会の分離・対立を未然に防止するために、「人間は皆、神の子である」という真理を益々多くの人々にお伝えください。 
 
 それでは、これをもって今日の御祭のご挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
谷口 雅宣 

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2016年4月24日 (日)

真理を生活に表そう

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山で「谷口輝子聖姉28年祭」がしめやかに行われた。あいにくの降雨のため、祭場は谷口家奥津城から出龍宮顕斎殿に移され、地元・長崎県の幹部・信徒を中心として約110名が参列し、谷口輝子先生の遺徳を偲び、御教えのさらなる宣布と運動の拡大を心に誓った。私は御祭の最後に概略、以下のような挨拶を行った-- 
 
--------------------------------- 
 
 皆さん、本日は「谷口輝子聖姉28年祭」にご参列くださり、ありがとうございます。谷口輝子先生は、ご存命であったならば、今は120歳ぐらいであられるはずですが、残念ならが28年前に昇天されたのであります。一昨年、この年祭にお集まりくださった方は、私が輝子先生が90歳のころに講話の準備のために書かれたメモを紹介して、「先生は信仰と信念の人であった」という話をしたのを憶えておられるかもしれません。その時にはまた、「大地震が来る」という噂に怯える人の相談に、輝子先生がどう答えられたかも紹介しました。 
 
 ご存じのように、今年は4月半ばに熊本と大分を中心とした九州地方には、大地震が起こりました。今回の地震は、最初の大きな揺れから1週間がたっても震度3~4クラスの揺れが続いているので、皆さんも不安の日を過ごされているかもしれませんが、昨年の今日に紹介させていただいた輝子先生のお言葉を、ここでもう一度、ご披露して、皆さんに輝子先生の信仰心の強さを思い出していただきたいのであります-- 
 
「不幸を恐れるより、自分がその日その日をすき間なく、完全に行動するように心懸けること。その日、その日を、怠りなく生活していると、何がやって来ても落ちついて対処して、不幸を招くようなことはない。」 
 
 --こういうお言葉でした。 
 
 常に神想観を怠らず、三正行を通して神の御心をわが心とすることを心がけていれば、大地震が起こっても、慌てずに、落ち着いて適切な対処ができるという教えでした。このように生長の家は、信仰を生活に生かすこと--別の表現をすれば、生活に表れない信仰は本物でないと考えるのであります。 
 
 ところで生長の家は、今年の運動方針から、信仰にもとづく倫理的な生活を実践するために、3つの分野で、全国的な同好会のようなものを作って活動することを始めました。これも「信仰を生活に表す」のが目的です。正式な言葉では「プロジェクト型組織」といいますが、「SNI自転車部」「SNIクラフト倶楽部」「SNIオーガニック菜園部」の3つがあります。また、「自然の恵みフェスタ」を各教区で開催して、これらの同好の仲間が育てた作物や作品を、生長の家の仲間や地域の人々と共有する活動を盛り上げていこうとしています。このような活動は、谷口輝子先生がご存命の時にはまったくなかった、と感じておられる人がいるかもしれません。しかし、輝子先生は、またその時代の大多数の日本人は、「ものを大切にする」ということは、生活信条の一つであったのです。 
 
 だから今のように、“使い捨て”や“ムダ遣い”をできるだけ避け、古いものも修理して大切に使うことは、当たり前の生き方でした。このほど活動を始めたプロジェクト型組織というものは、とりわけ「SNIクラフト倶楽部」では、今日当たり前になっている“使い捨て”や“ムダ遣い”の文化に対してハッキリと「ノー」と言い、何でも簡単に“百均”とかコンビニの店で買うのではなく、できるものは丁寧に自分で作り、それを地域の人々と共有する、という生き方を拡げていくのが目的です。 
 
 この精神は、輝子先生の時代には常識であったのですが、現代の経済至上主義の社会では、顧みられなくなっており、そのために私たちの社会ではムダなものが溢れ、廃棄物が大量に排出され、そして地球温暖化が加速しているのです。 
 
 輝子先生の著書『人生の光と影』(1972年刊)から引用します。「名人芸のこころ」という随筆の一部です-- 
 
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 私の持っている帯の中で、もはや派手になってしめる気にならないが、と言って手放す気にもならない黒地の一本があった。毎年秋の虫干しの日に、その帯は綱にかけて空気にさらされる。私はそれを眺めてなつかしい思い出を家人に語るのであった。 
 
 その帯は、生長の家のマークの図案者、山根八春先生の妹のよしのさんの作になる、柿の葉の刺繍であった。私はその柿の葉の刺繍が大好きであった。否、好きというだけでなく、その帯が私にすがり付いているように感じられるので、我が家の外へは出したくないのであった。 
 
 もはや30年以上も前だったか、私が40歳を出た頃であった。赤坂の生長の家本部で「家庭光明寮」という花嫁学校が創設された。沢山の科目の中の刺繍科の教師として、山根よしのさんに来て貰った。よしのさんは、真面目すぎるほど真面目な人であり、至極謙遜な人柄であった。その作品を誉めたりすると、いつも恐縮して、 
 
 「いいえ、まだまだ勉強中でございます」 
 と恥ずかしそうに頭を下げられるのであった。 
 
 ある日、私のために帯を一本作りたいと申出られたので、私は喜んで承諾した。それは秋もすでに終りに近い頃であった。我家の庭へ来られて、柿の樹の下に行き、持参の紙に写生をしはじめられた。まだ樹に付いている紅葉した葉、虫食いの葉、地に落ちている黄ばんだ葉、大きい葉、小さい葉、さまざまの柿の葉が描かれて行った。 
 
 それから一週間も過ぎたであろうか。よしのさんが訪れて来られた。私の前にひろげられたものは、色とりどりに染められた絹糸であった。 
 
「写生した葉の色に合わせて染めて見ました。これらの色で奥様お気に召しましょうか」 
 と言われるのであった。中年の私にふさわしく、渋く高尚な色ばかりであった。私はその帯の出来上がりを楽しみに待った。 
 
 黒地にさまざまの色と形の柿の葉の縫模様の帯が私の許へやって来た。調った葉の形もよく、欠けた葉の形も面白かった。渋い紅色も美しく、枯れ葉も味があった。私はうれしがって、11月22日の秋の記念日に、訪問着にそれをしめて、夫と二人で全身の写真を撮って貰った。 
 
 私は、私のためにとて、柿の葉を写生し、その色を染め、黒地の帯にそれらの葉を蒔き散らされたよしのさんの厚意を、いつまでも忘れられない。一つの仕事に一心をこめる人は、有合せの物で間に合わせるということはしないものだと知った。 
 
 私の女学生の頃は、日本刺繍の時間が楽しみであった。縋糸(すがいと)を半分に割って、それをまた半分に割って二本の縒糸(よりいと)を作ることが面倒くさいと思った。ちゃんと細く縒った糸があればよいなどとも思った。色糸はもちろん糸屋にあるものを買って来た。よしのさんのように、自分の心にぴったり合った色を、自分の手で染めることなどは思いもつかなかった。私はよしのさんの、仕事に対する真剣な心構えに感動した。こんな先生に教えて貰う光明寮の生徒たちは幸せだと思った。(pp. 228-230) 
 
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 これは本格的な帯の刺繍のことですが、これほど大掛かりでなくても、日常的に使う道具や小物を自分の手で作るということは、多忙な現代人の生活からはほとんどなくなってしまいました。そんな時間はないし、技術を憶えるのは面倒くさいから、百円ショップやコンビニや、デパートで買えばいいじゃないか……というのが、大方の理由でしょう。しかし、簡単に買えるものは、簡単に捨てられます。また、安価なものはぞんざいに扱われます。「ものを大切にする」ということは、輝子先生のエピソードにもあるように、本当は物質を大切にするのではなく、その物を製作してくれた人の気持や愛念、努力や技術を意識して、感謝を忘れないということなのです。 
 
 私たちは日用品のデザインの良し悪しを気にしたり、その機能をよく問題にします。私はそれを否定するつもりは毛頭ありません。しかし、その品物がどんな人々によって、どうやって作られているかは知らないし、知ろうと思ってもよく分からない。素材はどうやって入手され、原材料はどんな国から来ているか……こういうことは、現代のグローバル経済の中ですっかり見えなくなっている。そんな中で、自分が手づくりしたもの、あるいは自分がよく知っている“あの人”が作ってくれたものが幾つかあると、日用品に対する感じ方が違ってくるのではないでしょうか? また、地元の原材料で、地域に貢献しているのかいないのか分かることは重要です。「デザインが古い」「機能が劣っている」という理由だけで廃棄していたものにも、作り手がいて、自分と同様に努力し、心を込めて作ってくれたかもしれない--そういう可能性を意識することは、廃棄物を出さず、ムダ遣いをしない生き方、温暖化を抑制する生き方、さらにはすべての物は、物質ではなく、心の表現であるとの真理を、生活の中に生きることにつながると考えます。 
 
 皆さんもどうか、このような丁寧な、愛溢れる生き方を通して、地域の人々と共に、神・自然・人間の大調和した世界の実現に向けて明るく、生き甲斐をもって進んでください。 
 これをもって、輝子聖姉の28年祭のあいさつと致します。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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