自然と人間

2017年1月16日 (月)

凡庸の唄 (7)

 凡庸はときどき考える――
 先を目指し
 縦方向へ上ることに
 しのぎを削る人たちが、
 もっと周囲に気を配り、
 横方向に意識をひろげ、
 競争するのではなく、
 協働することに
 喜びを見出す生き方に
 転じてくれる日のことを。
 人より秀でることは
 確かに素晴らしい。
 記録を塗り変えることは
 称讃に値する。
 優秀な作品や商品や
 サービスを創造することは、
 人間社会への大なる貢献だ。
 しかし、人間社会は
 地球のごく一部だ。
 そのために森林の破壊に目を閉じ、
 生物種や資源が減っていくのを顧みず、
 地球全体を暖める原因をつくることは、
 人間社会を超えて横方向に拡がる
 広大な生物共存の世界を壊すことだ。
 天と地と人との
 仕合わせを否定することだ。
 凡庸は思う――
 それはきっと彼らの本心ではないと。
 先を見て急ぎすぎるために、
 彼らの視野が狭まり
 周囲の豊かな世界、
 豊潤で知恵に溢れた地球世界を
 味わい楽しむ余裕がない。
 もっと凡庸であれば、
 心が開き拡大して
 世界に滲(にじ)み出ていくから、
 彼らだって
 人・物・事の結びつきが
 自分の幸せだと合点する。
 地球世界から分離しない
 本来の自分が感じられるに違いない。
 優秀と凡庸は
 本当は異質ではない。
 見ている方向が違うだけだ。
 優秀な彼らに
 凡庸の視点を与えよ。
 凡庸な我らに
 秀逸なる彼らの業績を与えよ。
 秀逸な才能の開花、
 秀逸な業績の実現は、
 実は
 凡庸の希望でもある。
 だから、大勢の凡庸は
 静かに彼らに協力し、
 応援している。
 凡庸は秀逸の母でありたいと願う。
 凡庸は秀逸を、
 人間社会だけでなく、
 地球世界の誇りにまで飛翔させたいと願う。
                        (了)
                   谷口 雅宣

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2017年1月14日 (土)

凡庸の唄 (6)

 凡庸と敗北主義を
 混同してはいけない。
 敗北主義は“及び腰”の生き方だ。
 自信がなく
 勇気がなく
 屈従が
 密かな慣(ならい)となっている。
 それでいて、
 自分の殻に閉じこもり、
 他人を信じず
 白眼(はくがん)で見る精神から離れられない。
 凡庸はしかし、
 自分の殻をもたないのだ。
 たといもっていても、
 それを破る生き方が
 正しいことを知っている。
 凡庸は“粘り腰”の生き方だ。
 他人の主張を
 壁のようにはねつけるのではなく、
 扉を開けて受け入れ、
 理解しようとする。
 自分が彼だったら、
 何が本当に言いたいのか、
 心を澄まして感じ取り、
 自分の言葉に翻訳する。
 それが心に染み込んでいくのを
 時間をかけて快く感じる。
 こうなれば、
 自分と他人との壁は消える。
 否、
 本当は壁などないことに
 気がつくのだ。
 自分は他人であり、
 他人は自分の代弁者だ。
 自分の本心を
 他人の声の中に聴き、
 他人の声を
 自分の中に聴くことができる。
 これが、
 本当の“粘り腰”だ。
 他人はいないから、
 もう他人に小突かれ、
 押し出されることもない。

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2017年1月13日 (金)

凡庸の唄 (5)

 凡庸は、
 こんな機械の専制支配を
 笑いながら拒否するのだ。
 なぜ笑う――
 凡庸は機械の力を知っているのだ。
 機械に任せば
 仕事の効率は格段に向上する。
 出来栄えも一見、
 美しく
 正確で
 均整がとれている。
 規格通りの品が
 大量に、短時間で完成する。
 単価が下がり
 数多く売れるに違いない。
 が、しかし
 規格品は
 ボタンを押せば誰でも作れる。
 人が作るのではなく、
 機械が作るからだ。
 人間は、
 人間であることをやめ、
 ボタンを押すだけの機械になる。
 製作の技術が不要になるから、
 世界と人間との
 接点が希薄になる。
 世界に直接触れ、
 傷つけ疵(きず)ついているという
 切実な実感が失われる。
 ある物の製作が楽になっても
 別の物の製作ができず、
 応用がきかず、
 視野が狭くなる。
 それは、
 スペシャリゼーションと同じだ。
 
                      谷口 雅宣

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2017年1月12日 (木)

凡庸の唄 (4)

 凡庸の好きな言葉――
 下手の横好き。
 何事にも興味をもって当たること。
 関心を横に拡げることで
 世界の広さ、
 物事の豊かさ、
 人々の多様性、
 社会の許容量が実感できる。
 縦方向にだけ進んでいては、
 孤高の山は見えても
 牛馬が草食む草原、
 銀鱗ひらめく緑の湖(うみ)を
 見ることはできない。
 高山植物の名前を覚えられても、
 平地や森を彩る
 他の無数の植物について、
 花に来る虫たちについて、
 人に聞かねば分からない。
 分からなければ、
 彼らの助けを得られず、
 生きていけない。
 凡庸は
 雑学者であることを少しも恥じない。
 雑学は無知よりも数段優れている。
 スペシャリゼーションが
 もてはやされた時、
 凡庸はその道を断(ことわ)った。
 「下手の横好き」ができないからだ。
 白亜の城に囚われること――
 凡庸が最も嫌ったことだ。
 スペシャリゼーションの階段を昇っていくと、
 専門外が見えなくなる。
 専門外の知識を
 他に頼らねばならなくなる。
 知識だけでなく、
 技術も他人任せになる。
 技術が機械に移行した現代(いまのよ)では、
 機械に頼って生きなければならない。
 機械の指示に耳を傾け、
 目を皿にしてパネルを見つめ、
 マニュアルを片手に
 オロオロしながらボタンを押す。
 押し間違えて頭を抱える。
 いったいこれが人間の進歩か、
 文明の発展か。
                      谷口 雅宣

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2017年1月11日 (水)

凡庸の唄 (3)

 凡庸は今、
 白昼夢を見ているのではない。
 心が開かれれば
 人は皆、
 自分の周囲を理解し、
 慈しむ能力をもっている。
 それなのに
 先を急ぐ人は、
 「先」しか見ないと心に決め、
 目的をしぼって心を閉ざす。
 でも、よく考えてほしい。
 「先」しか見ないということは、
 何も見ないことではないか。
 Aの地点にせっかく来ても、
 彼はその先
 Bのことを考える。
 Bに到達すれば、
 彼はCの様子が気になり、
 電話して担当者を呼び出す。
 担当者に仕事を頼んだあとは、
 今いるBを楽しめばいい。
 しかし周囲の喧噪は、
 道を急ぐ人々の流れは、
 客引きの呼び声、
 パチンコ玉の跳ね散る音は、
 彼の心を急き立てる――
 今もっと何かすべきではないか。
 自分にし残したことはないか。
 彼の心は
 目の前にあるのと別のことを探している、
 考えている。
 そっちの方が
 価値あることだと信じている。
 そんな彼こそ
 白昼夢を見ているのだ。
                                  谷口 雅宣

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2017年1月10日 (火)

凡庸の唄 (2)

 凡庸であることを
 「恥」と思ってはいけない。
 凡庸は人生の達人である。
 一芸に長ずることで失われる
 時間と
 視野の広さと
 細かい気配りを
 自分のものとすることができる。
 凡庸は時間を大切にする。
 何かをするための時間ではない。
 そこに在るがままの時を味わう。
 通勤途上に仕事などしない。
 Aの駅ではAを味わい、
 Bのバス停では
 広告のデザインを楽しみ、
 学び、
 Cの町角では
 路傍の花に留まる虫に語りかける。
 おい、
 そんな小さな花でも
 お前の好みの色香を放つのか?
 凡庸は、
 ミツバチの視覚を自分のものとし、
 モンシロチョウになって
 民家の屋根より
 ずっと、ずっと高くへ昇り、
 トンボの複眼をもつ自分を想像する。
 空に上れば
 視野は広がり、
 自分が世界の一部だと感じる。
 その世界とは、
 ニュース報道が教える
 暴力と混沌の世界ではない。
 生きものがつながり合った
 自由で軽ろやかな
 地球大の紐帯(むすびつき)の世界だ。
 それぞれが主人公でありながら、
 それぞれが他者を支えている。
                               谷口 雅宣

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2017年1月 9日 (月)

凡庸の唄 (1)

 凡庸を馬鹿にするな。
 凡庸こそ
 時代の寵児だ。
 凡庸は威張らない。
 凡庸は欲張らない。
 凡庸は他を蹴落として
 世に先んじようと思わない。
 なぜなら凡庸は
 自分の技量と
 器量を心得ているからだ。
 凡庸は諦めているのではない。
 凡庸は知っているのだ。
 世の中には、
 他より先へ行くことよりも
 大切なことはいくらでもあると。
 他と競うよりも
 別の楽しみはいくらでもあると。
 競争者は
 目標とライバル周辺のことしか
 目に入らない。
 競争者の見る世界は
 味方と敵に二分される。
 争う心は他を傷つけ
 自分を不快にする。
 しかし凡庸なる人は、
 先を見て争うのではなく、
 周りを見て楽しむ。
 新幹線に乗っていては
 駅の名前さえ分からない。
 黄金色の稔りの秋は
 単一の黄色の帯だ。
 普通列車に乗ってみると、
 駅名だけでなく
 看板の古さ、
 新しさがよく分かる。
 名産品の広告が読める。
 駅員の声が聞こえ、
 ああ
 父と同じ年頃だと分かる。
 途中下車して田圃道を歩けば、
 今年の稔りの様子が分かる。
 垂れた稲穂を持ち上げれば、
 ああこのおかげで
 自分は今日まで生きてきたと
 天と地と人との仕合わせに納得する。
 そう、
 幸せとは
 人・物・事のめぐり合わせに
 価値を見出すこと。
 見出すだけでなく、
 しっかりと味わうこと、
 触れること、
 皆仲間じゃないかと慈しむこと。
 せっかく旅に出ているのに、
 出立地と目的地しか味わえないのでは、
 本当に生きているとは言えない。
 凡庸は、
 そのことを知っている。
               谷口 雅宣

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2017年1月 1日 (日)

“新しい文明”の基礎づくりを始めよう

  全世界の生長の家信徒の皆さん、新年おめでとうございます。
 
 この新しい年を、皆さんと共につつがなく迎えることができたことを神様に心から感謝申し上げます。ありがとうございます。 
 
 本年は「“新しい文明”の基礎を作るための3カ年計画」がスタートする年です。“新しい文明”とは、人間の幸福と自然界の発展とが両立するような生き方であり、そんな生き方を支え、拡大する力となる信仰、哲学、科学技術、政治、経済の全体をいいます。私たちはそれを今後、ゼロから作り上げるのではありません。人類は何千年もの歩みの中で、すでにそれに該当する業績を世界各地で数多く生み出してきました。しかし、それらの業績は、今私たちの目の前にある人間本位の価値観を基礎とする“旧い文明”では取り入れられず、一部取り入れられたとしても、経済発展優先の政治により、脇に追いやられてきたのでした。私たちはそれらを繋ぎ合わせ、補強し、血を通わせて体系化し、できるところから実行に移すことによって、“新しい文明”の基礎を整えようと考えています。 
 
 そのための活動として、3つの実践項目を提案しています。1つは「ノーミート、低炭素の食生活」、2つ目は「省資源、低炭素の生活法」、そして3つ目は「自然重視、低炭素の表現活動」です。この3つは、私たちの運動の中で、すでに昨年から各地で実践され始めていますが、これらをもっと積極的、大々的に、そして私たち信仰者の「倫理的な生き方」の証として、喜びをもって展開していくことを通して、周囲の人々に生長の家の御教えを確実に伝えていきたいと念願しています。 
 
 昨年、2016年の世界で特徴的だったのは、ポピュリズムの台頭でした。日本だけでなく、ヨーロッパでも、アメリカでも、これまでの政治・経済の仕組みを否定する一方で、適切な方策を伴わない大きな変化が起こっています。この動きはしかし、過剰なグローバリゼーションの弊害を教えてくれるのですが、反面、危険な方向を示しています。エリート支配でなく大衆支配を、グローバリズムでなくナショナリズムを、自由貿易ではなく自国の産業擁護を、移民の受け入れではなく移民排斥を、軍縮でなく軍備拡大を、この動きは提案しているのです。これらは、社会の急激な変化に反対する大勢の人々の“叫び”であることは否定できません。しかし、この“叫び”をそのまま実行すれば、各国が互いに利害を主張し合う“対立の世界”に移行することは明らかです。 
 
 私は、この叫びは社会の「不平等感の拡大」が大きな原因の一つだと考えます。ある社会において、少数のエリートだけが利益を享受する一方で、大多数の構成員が社会の恩恵を受けられず、心理的にも取り残された状態にある場合、そういう社会に貢献する意欲が失われてしまうのは当然です。そんな人々の目には、民主主義の理想は“美しい飾り”にしか見えません。だから、それらの価値に反逆して、極端な主張を唱え、極端な行動を起こす人たちも出てくるのです。 
 
 これを宗教的に言い直すと、現在の社会には、神の御徳である「知恵」「愛」「命」の表現が、極端に偏っているということです。だから、私たちはもっと強力に、社会の全面に神の御心を表す活動を、積極的に展開していかねばなりません。そのためには、自然界をこれ以上破壊するのをやめなければなりません。神の御心は、自然界に充満していることを忘れてはなりません。自然から奪うことが富の実現だと考える“旧い文明”に別れを告げましょう。そして、自然を養うことにより人間の幸福を実現する“新しい文明”を構築しましょう。それが、この地球社会を“対立の世界”へ転落させるのを防ぎ、平和の道へ引きもどす唯一の方法です。 
 
 それでは皆さん、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
 谷口 雅宣

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2016年4月24日 (日)

真理を生活に表そう

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山で「谷口輝子聖姉28年祭」がしめやかに行われた。あいにくの降雨のため、祭場は谷口家奥津城から出龍宮顕斎殿に移され、地元・長崎県の幹部・信徒を中心として約110名が参列し、谷口輝子先生の遺徳を偲び、御教えのさらなる宣布と運動の拡大を心に誓った。私は御祭の最後に概略、以下のような挨拶を行った-- 
 
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 皆さん、本日は「谷口輝子聖姉28年祭」にご参列くださり、ありがとうございます。谷口輝子先生は、ご存命であったならば、今は120歳ぐらいであられるはずですが、残念ならが28年前に昇天されたのであります。一昨年、この年祭にお集まりくださった方は、私が輝子先生が90歳のころに講話の準備のために書かれたメモを紹介して、「先生は信仰と信念の人であった」という話をしたのを憶えておられるかもしれません。その時にはまた、「大地震が来る」という噂に怯える人の相談に、輝子先生がどう答えられたかも紹介しました。 
 
 ご存じのように、今年は4月半ばに熊本と大分を中心とした九州地方には、大地震が起こりました。今回の地震は、最初の大きな揺れから1週間がたっても震度3~4クラスの揺れが続いているので、皆さんも不安の日を過ごされているかもしれませんが、昨年の今日に紹介させていただいた輝子先生のお言葉を、ここでもう一度、ご披露して、皆さんに輝子先生の信仰心の強さを思い出していただきたいのであります-- 
 
「不幸を恐れるより、自分がその日その日をすき間なく、完全に行動するように心懸けること。その日、その日を、怠りなく生活していると、何がやって来ても落ちついて対処して、不幸を招くようなことはない。」 
 
 --こういうお言葉でした。 
 
 常に神想観を怠らず、三正行を通して神の御心をわが心とすることを心がけていれば、大地震が起こっても、慌てずに、落ち着いて適切な対処ができるという教えでした。このように生長の家は、信仰を生活に生かすこと--別の表現をすれば、生活に表れない信仰は本物でないと考えるのであります。 
 
 ところで生長の家は、今年の運動方針から、信仰にもとづく倫理的な生活を実践するために、3つの分野で、全国的な同好会のようなものを作って活動することを始めました。これも「信仰を生活に表す」のが目的です。正式な言葉では「プロジェクト型組織」といいますが、「SNI自転車部」「SNIクラフト倶楽部」「SNIオーガニック菜園部」の3つがあります。また、「自然の恵みフェスタ」を各教区で開催して、これらの同好の仲間が育てた作物や作品を、生長の家の仲間や地域の人々と共有する活動を盛り上げていこうとしています。このような活動は、谷口輝子先生がご存命の時にはまったくなかった、と感じておられる人がいるかもしれません。しかし、輝子先生は、またその時代の大多数の日本人は、「ものを大切にする」ということは、生活信条の一つであったのです。 
 
 だから今のように、“使い捨て”や“ムダ遣い”をできるだけ避け、古いものも修理して大切に使うことは、当たり前の生き方でした。このほど活動を始めたプロジェクト型組織というものは、とりわけ「SNIクラフト倶楽部」では、今日当たり前になっている“使い捨て”や“ムダ遣い”の文化に対してハッキリと「ノー」と言い、何でも簡単に“百均”とかコンビニの店で買うのではなく、できるものは丁寧に自分で作り、それを地域の人々と共有する、という生き方を拡げていくのが目的です。 
 
 この精神は、輝子先生の時代には常識であったのですが、現代の経済至上主義の社会では、顧みられなくなっており、そのために私たちの社会ではムダなものが溢れ、廃棄物が大量に排出され、そして地球温暖化が加速しているのです。 
 
 輝子先生の著書『人生の光と影』(1972年刊)から引用します。「名人芸のこころ」という随筆の一部です-- 
 
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 私の持っている帯の中で、もはや派手になってしめる気にならないが、と言って手放す気にもならない黒地の一本があった。毎年秋の虫干しの日に、その帯は綱にかけて空気にさらされる。私はそれを眺めてなつかしい思い出を家人に語るのであった。 
 
 その帯は、生長の家のマークの図案者、山根八春先生の妹のよしのさんの作になる、柿の葉の刺繍であった。私はその柿の葉の刺繍が大好きであった。否、好きというだけでなく、その帯が私にすがり付いているように感じられるので、我が家の外へは出したくないのであった。 
 
 もはや30年以上も前だったか、私が40歳を出た頃であった。赤坂の生長の家本部で「家庭光明寮」という花嫁学校が創設された。沢山の科目の中の刺繍科の教師として、山根よしのさんに来て貰った。よしのさんは、真面目すぎるほど真面目な人であり、至極謙遜な人柄であった。その作品を誉めたりすると、いつも恐縮して、 
 
 「いいえ、まだまだ勉強中でございます」 
 と恥ずかしそうに頭を下げられるのであった。 
 
 ある日、私のために帯を一本作りたいと申出られたので、私は喜んで承諾した。それは秋もすでに終りに近い頃であった。我家の庭へ来られて、柿の樹の下に行き、持参の紙に写生をしはじめられた。まだ樹に付いている紅葉した葉、虫食いの葉、地に落ちている黄ばんだ葉、大きい葉、小さい葉、さまざまの柿の葉が描かれて行った。 
 
 それから一週間も過ぎたであろうか。よしのさんが訪れて来られた。私の前にひろげられたものは、色とりどりに染められた絹糸であった。 
 
「写生した葉の色に合わせて染めて見ました。これらの色で奥様お気に召しましょうか」 
 と言われるのであった。中年の私にふさわしく、渋く高尚な色ばかりであった。私はその帯の出来上がりを楽しみに待った。 
 
 黒地にさまざまの色と形の柿の葉の縫模様の帯が私の許へやって来た。調った葉の形もよく、欠けた葉の形も面白かった。渋い紅色も美しく、枯れ葉も味があった。私はうれしがって、11月22日の秋の記念日に、訪問着にそれをしめて、夫と二人で全身の写真を撮って貰った。 
 
 私は、私のためにとて、柿の葉を写生し、その色を染め、黒地の帯にそれらの葉を蒔き散らされたよしのさんの厚意を、いつまでも忘れられない。一つの仕事に一心をこめる人は、有合せの物で間に合わせるということはしないものだと知った。 
 
 私の女学生の頃は、日本刺繍の時間が楽しみであった。縋糸(すがいと)を半分に割って、それをまた半分に割って二本の縒糸(よりいと)を作ることが面倒くさいと思った。ちゃんと細く縒った糸があればよいなどとも思った。色糸はもちろん糸屋にあるものを買って来た。よしのさんのように、自分の心にぴったり合った色を、自分の手で染めることなどは思いもつかなかった。私はよしのさんの、仕事に対する真剣な心構えに感動した。こんな先生に教えて貰う光明寮の生徒たちは幸せだと思った。(pp. 228-230) 
 
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 これは本格的な帯の刺繍のことですが、これほど大掛かりでなくても、日常的に使う道具や小物を自分の手で作るということは、多忙な現代人の生活からはほとんどなくなってしまいました。そんな時間はないし、技術を憶えるのは面倒くさいから、百円ショップやコンビニや、デパートで買えばいいじゃないか……というのが、大方の理由でしょう。しかし、簡単に買えるものは、簡単に捨てられます。また、安価なものはぞんざいに扱われます。「ものを大切にする」ということは、輝子先生のエピソードにもあるように、本当は物質を大切にするのではなく、その物を製作してくれた人の気持や愛念、努力や技術を意識して、感謝を忘れないということなのです。 
 
 私たちは日用品のデザインの良し悪しを気にしたり、その機能をよく問題にします。私はそれを否定するつもりは毛頭ありません。しかし、その品物がどんな人々によって、どうやって作られているかは知らないし、知ろうと思ってもよく分からない。素材はどうやって入手され、原材料はどんな国から来ているか……こういうことは、現代のグローバル経済の中ですっかり見えなくなっている。そんな中で、自分が手づくりしたもの、あるいは自分がよく知っている“あの人”が作ってくれたものが幾つかあると、日用品に対する感じ方が違ってくるのではないでしょうか? また、地元の原材料で、地域に貢献しているのかいないのか分かることは重要です。「デザインが古い」「機能が劣っている」という理由だけで廃棄していたものにも、作り手がいて、自分と同様に努力し、心を込めて作ってくれたかもしれない--そういう可能性を意識することは、廃棄物を出さず、ムダ遣いをしない生き方、温暖化を抑制する生き方、さらにはすべての物は、物質ではなく、心の表現であるとの真理を、生活の中に生きることにつながると考えます。 
 
 皆さんもどうか、このような丁寧な、愛溢れる生き方を通して、地域の人々と共に、神・自然・人間の大調和した世界の実現に向けて明るく、生き甲斐をもって進んでください。 
 これをもって、輝子聖姉の28年祭のあいさつと致します。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2016年3月11日 (金)

原発と決別し「大調和の神示」の教えを生きよう

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールで、「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われた。同ホールでの参加者は、オフィスに勤務する職員だけだったが、祈念祭の様子はインターネットを通じて全世界に放映された。私は同祭の最後に概略、以下のような挨拶を行った-- 
 
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 皆さん、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」にお集まりくださり、有難うございます。この御祭は、2011年3月11日に起きた東日本大震災と福島県の原子力発電所の事故をきっかけにして、新しく設けられた重要な御祭です。その意義については、すでに多くの方はご存じと思いますが、この場で改めて確認させてください。 
 
 先ほどは「黙祷」のあとで聖歌『水と森の歌』を皆さんと一緒に歌いましたが、この歌の歌詞を読むと、自然界のすべてのものは「ありがたい」と讃嘆する内容であることが分かります。特に強調されているのは、タイトルにある「水」と「森」の恩恵についてです。普通の考え方では、台風やハリケーン、大雨などは、人間の生活の障害になるから迷惑だと嫌われて当たり前ですが、作者の谷口清超先生は、もっと広い視点から、こう歌われている-- 
 
 大いなる 日のちから 
 限りなく照り むら雲となり 
 台風や ハリケーン  
 大雨となり 大河となりて 
 果てしなく どこまでも  
 水は流れて やむことなきか 
 ありがたきかな 
 
 つまり、ここには、太陽の温める力で地球の表面の大気に対流が起こり、それが一定の条件下では、台風やハリケーンとなる、という科学的な分析が入っています。それだけでなく、台風やハリケーンがもたらす大雨は、大河のように陸を流れて海へ入る。この水の流れが途絶えることがないのは、ありがたいことだと感謝の気持を述べています。「台風やハリケーンもありがたい水の流れの一つだ」ということで、これはなかなか簡単に言えることではない。テレビで気象予報士がそんなことを言えば、視聴者からきっと非難の電話がかかてくるでしょう。なぜなら、台風の被害に遭う人にとっては、台風は“悪”としてしか感じられないからです。それを「ありがたい」とは、トンデモないというわけです。しかし、生長の家は、そんな現象の表面的な姿に一喜一憂せず、背後にある神の御心--実相--を直視して本当のことを言うのです。 
 
 この聖歌のあとで、私たちは「四無量心を行ずる神想観」を実修しました。この神想観のポイントは、「すべての衆生」--つまり、人間や一部の動物--だけでなく、「地球のすべての生命と鉱物の一切」に対して--つまり、植物や菌類や石ころも含めた自然界全体に対して、慈悲喜捨の心を起こすことでした。これもなかなか普通の人はしないことです。私たち人間は普通、自分の好みを優先して、人を差別的に扱うことはもちろん、同じ哺乳動物であっても、イヌやネコをそれこそ“ネコかわいがり”する一方で、ブタやウシは残酷な飼い方をして殺し、舌鼓を打って食べます。こういう自己中心的で、自分の嗜好を中心にした執着心を野放しにしたまま、さらにはそれを経済発展の原動力として称揚しているのでは、人間と自然との調和を実現することは難しいでしょう。 
 
 そのことは、神想観の次に朗読された「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中にも、はっきり書かれていました-- 
 
“その実相を見ず、「個」が実在であり、世界の中心であると見るのは迷妄である。「個人の損得」を中心にすえるとき、人間は自然との大調和を見失うのである。自然界に不足を見出し、自然界を障害と見なし、自然界を自己の支配下に置こうとして、自然界の機構を自己目的に改変し利用することは、愚かなことである。自然の一部を敵視して破壊することは、恥ずべきことである。” 
 
 この一節は、私たちの現在の文明のことを批判しているのです。肉体的な個人を世界の中心に置いて、その個人が自然界からどれだけ快楽を得ることができるかで、ものの価値を決めようとする傾向が強い。私は今、個人の考え方だけを言っているのではなく、社会全体がそういう動きをしていて、それを“善”だと考えている点を問題にしているのです。都市とか都会というものは、人間が「自然界を障害と見なし、自然界を自己の支配下に置こうとして」建設されたものです。だから、森林を伐採して道路を通し、“害虫”や“害獣”は死滅させて、鉄筋コンクリートのビルを建てるのです。この考え方を徹底させていくと、原子力発電所の建設と、放射性物質の大量生産に結びつく、と私は考えます。 
 
 私は、生長の家講習会ではいつも、この“森の中のオフィス”の紹介ビデオを上映するのですが、その中では、5年前の3月11日を経験して、生長の家はその時、設計を進めていた「オフィスの建設計画を大幅に変更した」というナレーションが流れます。何のことか分かりますね? そうです。それは、当初、東京電力との電力の売買によって“炭素ゼロ”を目指していたものを、この時から考えを変えて、東京電力から電気をもらわないでも“炭素ゼロ”を実現する--つまり、電力自給を目指す方向に切り替えたのであります。その理由は、「原発によるエネルギーを使うべきでない」という判断があったからです。 
 
 原発の利用は、なぜいけないのでしょうか? それは、原子力発電という技術の基本にあるものの考え方が、「自然と人間の大調和」という私たちの運動の目的に反するからです。もっと言えば、生長の家の最も重要な神示である「大調和の神示」の教えに反するからです。どうしてそう言えるでしょう? それは、大量の放射性物質を排出せずに、原子力発電を行うことはできないからです。この放射性物資は、人間のみならず、すべての生物の設計図であるDNAを破壊することがよく知られています。にもかかわらず、そういう危険物質を大量生産してでも、人間にだけ有益な結果がもたらせると信じることは、事実上、「自然と人間の利害は相反する」と信じていることになる。その考え方は「大調和の神示」の否定であり、「神・自然・人間の大調和」の否定です。 
 
 『ニューヨークタイムズ』国際版に、3月7日付で、イギリスのオックスフォード大学で核エネルギーと環境学の研究をしているピーター・ウィン・カービー(Peter Wynn Kirby)という人が、福島第一原発の事故後の処理について論説を書いていました。それによると、福島県ではこれまで、政府による放射能除染のための大規模な作業が行われてきたが、削り取った表土などの汚染物質の廃棄場所と処理方法が決まっておらず、決まる見込みもたっていないと言っています。 
 
 カービー氏は、この「除染」という言葉は誤解を招きやすく、その作業は簡単に言えば“間違い”だと批判しています。福島県で実際に起こっていることは、「除染」ではなく、「汚染の移動(transcontamination)」だというのです。つまり、汚染物質はいったん集められ、袋に入れられてから、県内のある場所から他の場所に移され、さらに別の場所に移動されている、それだけだという意味です。いわゆる“仮仮置き場”から“仮置き場”へ移されている。環境省の職員によると、最高で3千万トンの汚染土壌は結局、福島第一原発の近くに設けられた、さらにもう一段階上の第3レベルの中間処理施設に収められるだろうといいます。しかし、その施設の建設は、地主から用地買収の同意が得られていないため、まだほとんど行われていないそうです。だから現在、汚染土壌などは、風呂の浴槽ぐらいの大きさの袋に詰められたまま、福島県内のあちこちに--道路脇や耕作放棄地などに放置されたままだといいます。昨年の10月半ば、富岡町では40個ぐらいの袋詰めの汚染土壌が小さな墓地の端に置かれていて、雑草に覆われているのを、カービー氏は見たそうです。 
 
 この袋は3年が寿命なので、定期的に詰め直す必要がある。そしてこの袋は、そこから出る放射線量にしたがって置き場を移動させられます。昨秋までには、1トンの袋にして900万個分の汚染廃棄物が出ていました。トラック1台に積めるのは10袋ぐらいですから、これらの汚染物質は、ゆっくりと福島県内を定期的に循環していることになります。カービー氏によると、放射性物質から現実的、また経済合理的に放射線を出させなくする方法は、ありません。だから、汚染土壌などは、取り除かれ、他のものから分離され、自然に崩壊するのを待つしかありません。ということは、そこから出る放射能の扱いには、基本的に2つの選択肢しかない--①汚染地域の放射線量が自然に減るのを待つ、②汚染物質を隔離する--です。 
 
 人口密度の高い日本では、福島県のような広大な土地を放棄するわけにはいかないでしょう。だから、最初の選択肢はありません。すると、汚染物質を除去して隔離しなければならないのですが、汚染物質を恒久的に安全に貯蔵しておく施設はまだ存在しないのです。そこで日本の政策決定者たちは、汚染物質を順繰りに県内を移動させていく方法を採用しているのです。しかしこれは時間稼ぎに過ぎず、首尾一貫した処理方針とは言えません。 
 
 こう述べた後、カービー氏は、2つの方法を提言しています。1つは、日本政府が汚染物質の最終貯蔵施設を作る地域を半ば強制的に決定するか、2番目は、福島第一原発跡の立入禁止地域を、巨大な汚染物質のごみ捨て場として、永久的に使う決定をすることです。 
 
 福島第一原発だけでも、これほどの問題があるのですが、原子力発電所からは、どんな原発も、稼働していれば常に大量の放射性廃棄物が出ます。そして、その処分についても同じ困難があるのです。日本は、人口に比べて土地が狭く、また、火山の噴火や地震が頻繁に起こる不安定な地殻の上にあります。そんなところには、将来にわたって絶対安全に放射性廃棄物を貯蔵することなど不可能です。 
 
 ということは、原子力発電を日本のエネルギー政策の中に組み入れる決定は間違いなのです。これは、核エネルギーの専門家が、科学的、技術的見地から言っていることですが、私たちはそれ以上に、「神・自然・人間の大調和」が実相世界の構図であるとの信仰上の観点からも、原子力発電という技術からの決別を声を大にして訴えなければなりません。 
 
 この“森の中のオフィス”は、それを理論や信仰告白として宣言するだけでなく、実生活上にも具体的に実践することを意図し、今日、見事に実現させていると言えます。どうか皆さん、人類が文明的な岐路に立つこの時代にあって、多くの人々に私たちの信仰と考え方を伝え、また私たちの実生活においても、「神・自然・人間の大調和」の実現に向かってライフスタイルを開発し、勇気をもって実践していこうではありませんか。 
 
 それでは、これをもって私の挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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