自然と人間

2020年8月 7日 (金)

縄文時代は長かった

 7月27日の本欄では、生長の家の“森の中のオフィス”で先日行われた「石上げ」の行事の解説で、私は「石と人間の関係」の次に、「縄文時代の特殊性」について話した、と書いた。しかし、この話の全体の時間は30分ほどだったので、詳しい話はできず、ごくごく一般論を述べるに留まった。縄文時代の人々の生活の様子や信仰の中身、文化論のようなものを話したわけでは決してない。だいたい私は縄文文化の専門家ではなく、考古学マニアでもなく、ましてや考古学者ではないから、縄文時代の文化について自信をもって話せることはあまりない。が、たった1つ、これまで専門家や研究者のあいだで合意されている事実の中で、私が素人なりに「特筆すべきだ」と感じたことを述べたに過ぎなかった。それは、この時代の「長さ」だった。

 中学や高校の教科書にある縄文時代の記述を読んで、この時代の重要性をすぐに理解できる人は少ないだろう。少なくとも私自身は、高校生の時に、この時代が重要だとはまったく思わなかった。むしろ、「すごい昔だから、今の時代や生活とは関係が薄く、だから重要でない」と感じていた。時代の古さについては、平凡社の『世界大百科事典』の「縄文文化」の項には次のようにある--

「日本列島における旧石器時代文化に後続する狩猟漁労採集経済段階の文化。縄文土器編年に基づいて草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に区分される。その開始は、炭素14法の年代測定値や汎世界的な海水準変動の地質学的年代などから前1万年前後と推定する長編年説、相対年代法により約前2500年とする山内清男の短編年説があるが、実際は長編年説にやや近い年代と考えられる。」

 入り組んだ文章でわかりにくいが、これを簡単な日本語に“翻訳”すれば、縄文時代の始まりは「明確には分からないが紀元前1万年前後と推定される」ということだ。私が注目したのは、この時代の始まりと推定される「紀元前1万年」という古さではなく、この時代がいつまで続いたかという「長さ」だった。同じ事典には、炭素14法による測定をもとにして、縄文文化が終る年代を「前300」と書いてある。つまり、約1万年も続いた文化が日本にはあったのだ。

 このような理解は、しかし一時代前には存在しなかった。例えば、1972年に発行された高校用の教科書『新訂 日本史』には、「縄文文化は約1万年前から数千年にわたって、大陸から孤立した日本列島の各地に普及した」と書いてある。(p.11)この教科書が当時の文部省の検定を通ったのは1970年である。また、これより17年後に検定を通った『新詳説日本史』という教科書は、「弥生文化の成立」という項目を次のような書き出しで始めている--

「日本列島で数千年にわたって縄文文化がつづいている間、中国大陸では、紀元前5000~4000年ころ、黄河中流で畑作がおこり、長江(揚子江)下流域でも稲作がはじまり農耕社会が成立した。」(p.14)

 これらの教科書の「数千年」という表現が「約1万年」よりも短いということだけを、私は言っているのではない。縄文文化という言葉を聞いて、「中国大陸から孤立した」とか「農耕を知らない」などという語が頭に浮かんできたのは、昔の話で、1980年代後半からの発掘調査や研究によると、古い縄文時代観は書き換えられつつあるという。

 考古学者の岡村道雄氏によると、技術革新に加え、考古学と自然科学との連携が新しい発見を次々と生んでいるのだ--

「多くの現場を広く深く、しかも確かな発掘技術を持つプロが掘る。そして、現場から出土した遺物を科学の力も借りて微細なレべルまで分析する。その成果の積み重ねが縄文ブーム、縄文観の書き換え、ひいては考古学ブームの根底にあるのである。(…中略)…
 細々と獲物を捕り、貝を拾い、木の実を集めて、竪穴住居にひっそり暮らしてきた二十人から三十人の集団があったという縄文人のイメージは、この十年で完全に塗り替えられたのである」(『縄文の生活誌』、pp.87-88)

 さて、縄文時代への理解の変化についてはこのくらいにして、その文化が「1万年も続いた」という主題にもどろう。
 言うまでもないことだが、今年は西暦の2020年である。つまり、イエスが誕生したと推定される年から2020年たったということだが、このイエス誕生の頃に、日本では弥生時代が始まったとされている。約2000年前である。で、この弥生時代が現代まで続いていたら、どんなだろう? 私たちは、そんな世界を想像できるだろうか? 鉄道はなく、航空機もなく、ビルもなく、自動車もなく、もちろん電話やパソコンやスマホもないし、映画や遊園地、オリンピック、レストラン、金融機関、そして政府もない。これだけでも大変なことだが、1万年はその5倍の長さである。


 この時代の長さは、数字でデジタルに考えるよりも、視覚的にアナログ化することでより明確になる。先日行われた「石上げ」の行事の解説では、私は「縄文スティック」(=写真)と名づけた木の棒を参加者に配り、手に取ってもらった。そして、写真にあるように、赤い色が塗ってある側を左に向け、色の塗っていない部分を右に向けて眺めてみる。これを“時の流れ”として見るのである。もっと具体的には、7ミリの長さを「500年」の時間の経過とすると、赤い色の部分が1万年、青い部分が2000年になる。色のない部分は、これからの未来だ。こうすると縄文時代に比べ、古墳時代以降、現代に至るまでの時の流れがどんなに短いかが、視覚的によく分かるのである。こんな長期にわたって、さほど大きく変化しない生活を人々が延々と続けていたのが縄文時代なのである。

 現代人が考えると、こんなに変化がなくつまらない、退屈な時代はないと考えがちだが、同じことを別の角度から表現すれば、こう言えないだろうか?--「それほど長期にわたって、人々は生活パターンを大きく変えることなく平和に共存してきた」のである。あえて理想化の危険を冒して言えば、この時代には、多少の血が流れるような小競り合いはあったかもしれないが、何万人も、何十万人もの死者が出る戦争はなく、他国や他民族を襲って奴隷とすることもなく、されることもなく、血なまぐさい革命はなく、経済恐慌が起こって大量の失業者が出ることもない。恐らく、大量の死者が出る飢饉や感染症の蔓延もなかっただろう。

 そんな安定した文化が続いた後に、日本人は(そして人類全体も)、その5分の1という極めて短い時間の中で、生活様式を変え、技術を変え、武器を変え、社会制度を変え、ものの考え方を変え、自然を変え、原子爆弾を爆発させ、公害をまき散らし、農薬やプラスチックを全世界に拡大し、多くの生物種を絶滅させてしまった。「縄文人と現代人と、どちらが幸せなのだろう?」などという疑問が湧いてこないだろうか。この疑問は、しかし人類の歴史のマイナス面に注目したものだ。

 生長の家は日時計主義だから、プラス面にも注目すると、また別の設問が浮かび上がる。それは、「弥生時代から現代に至る時の流れの5倍もの長きにわたって続いた縄文文化は、現代人と全く無関係なのか?」ということだ。言い直すと、「縄文人の遺伝子の一部を現代人が共有している可能性はないか?」ということだ。現代の遺伝学の発見によると、ヒトとチンパンジーなどの類人猿との遺伝子は、95%以上が共通しているというのだから、私は、その可能性は十分あると考える。とすると、私たちは今、現代社会が生んだ深刻な問題に対処するに際し、縄文人の生き方から学ぶべきことは多くあるのではないだろうか。そんな問題意識が、今回の「石上げ」の発想と結びついているのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○風間康男他著『新訂 日本史』(東京書籍出版、1972年刊)
○井上光貞他著『新詳説日本史』(山川出版社、1987年刊)
○岡村道雄著『縄文の生活誌』(講談社、2008年刊)
○下中弘編集発行『世界大百科事典』(平凡社、1988年刊)

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2020年8月 3日 (月)

石と信仰 (4)

 ところで読者は、「石」という漢字の由来をご存じだろうか。
 私が昔から使っている机上版の『新明解 漢和辞典』を引くと、「字源」の項目にこうある--

 「象形、厂(がけ)の下に口(石)がころがってある形」

 これは「口」と「石」とを同一視した説明である。ところが、同じ辞典で「口」という漢字の字源を見てみると、

 「象形、口の形にかたどる」

 とあるだけで、「石」については何も触れていない。「石という漢字は石の形をまねた」と言っているから、その「石の形」はどんなかと聞くと「口の形」だというのである。人間の口と石と、形がどう似ているのだろう。何だか判然としない。そこで、白川静氏の『字統』を見ると、こうある--

 「石は厂(かん)と口とに従う。厂は崖岸の象。口は□(さい)、祝禱を収める器の形で、石塊の形ではない。」

 さらにこうある--

「九下に〝山石なり。厂の下に在り。口は象形なり〟とするが、口は卜文・金文において祈禱の器とする形にしたがうものが多く、宕(とう)の字形もなおその形である。宕は廟形に従い、■(せき)も祭卓に従うていて、明らかに神事的な儀礼を示す字であるから、石の従う口も、祈禱の儀礼に関する意味をもつものとしなければならない。」

 ここにある「九下」や「卜文・金文」は、漢字研究の古い
資料を指すが、詳しいことは省略する。また、引用文中に「□」と「■」という伏字で示した文字は、現代の漢字表には存在しない文字で、画像で再現したものをここに添付した。白川氏が述べているのは、ある資料には「石の字源は山の崖の下にある石だ」と書いてあるが、古代文字の資料を見ると、これは「小石ではなく祝詞を収める器」を象ったもので、古代においては、「石」は崖の一部を構成するような「大石」や「岩」を意味していたということだ。そういう岩の下で(つまり、岩に直面して)祈りを捧げていたのが古代人だということになる。こうなると、「石」はもともと宗教行事と不可分の扱いを受けていたことになり、「石と信仰」の間はピッタリとつながるのである。

 日本全国の由緒ある岩石をめぐっている磐座(いわくら)研究家、池田清隆氏も、著書『磐座百選』の中で白川氏のこの解釈を引用し、「石の語源が、“巌のもとで祭祀を行う意”であることを知り、もっとも古い祈りの形であったことを理解する」と賛同している。

 この「磐座」という言葉は、前回の本欄でも出てきて「何だろう」と思った読者もいるかもしれない。そこで、同時に出てきた「磐境(いわさか)」と共に、池田氏の定義を紹介しよう--

「ようするに、岩石信仰といえるものを広い意味で磐座と表現するが、そのなかで、石そのものを神として信仰するものを石神とし、石や岩に神が依りつくという信仰を磐座とし、石で区切られた“空間”に神が降臨するという信仰を磐境とするというものだ」。(前掲書、p.10)

 そして池田氏は、この本の中で石神、磐境も含めた広義での「磐座」を表現した神社を百社選んで、写真入りで紹介している。それを見ると、日本人はいかに“大きな石”を宗教心をもって扱ってきたかがよく分かるのである。大体、神社や仏閣の名称自体に「石」や「岩」が多く使われてきたのである。例を挙げれば、次のようになる(括弧内は所在地の県名)ーー

 岩木山・大石神社(青森)、三ツ石神社(岩手)、磐神社・女石神社(岩手)、釣石神社(宮城)、立石寺・元山寺(山形)、石楯尾神社(神奈川)、石山寺(滋賀)、磐船神社(大阪)、石像寺(兵庫)、飯石神社(島根)、天岩戸神社(宮崎)

 では、これらの事実は日本人特有の感性を表しているのかと問うと、そうは言えないのである。このことはすでに本シリーズの2回目で、聖書の石に関する記述などに触れたので、了解されている読者もいるかもしれない。また、先に挙げた白川氏の見解が、日本だけに及ぶのではなく、漢字文化の発祥の地、中国にも適用されることは言うまでもない。このように考えれば、石と信仰とのつながりは地球上の一部の文化圏に限定されずに、人類すべてに及ぶ可能性は否定できないのである。

 そのことを暗示するもう一つの例は、あの有名なイギリスのストーンヘンジである。これは、同国南部のウィルトシャーにある古代遺跡で、講談社の『大事典desk』は次のように説明している--

「中央に祭壇石、その周囲に4重の列石と3重の穴の列があり、さらにその外側に溝がめぐらされてある。環石は北東方向に開いていて、そこにヒールストーンという石柱がおいてある。これは太陽崇拝に関係あるものといわれ、中央の祭壇石とヒールストーンを結んだ線上に当時の夏至の太陽が昇ったと考えられている。」

 フランスのブルターニュ地方にも「カルナック立石群」と呼ばれる新石器時代の大規模な遺跡があり、そこにはメネック、ケルマリオ、ケルレスカンという3群に分かれた5千もの立石が並んでいる。ケルトのデザインなどを研究している美術史家のイアン・ツァイセック氏によると、この立石群の目的は不明であるが、「ケルマリオが“死者の館”を意味するところから、立石群が弔いの儀式に関係があると古来信じられてきたが、現代の考古学者はそれらが天文学上の目的と結びついていたのではないかという説に傾いている」という。(山本史郎・山本素子訳『図説 ケルト神話物語』、p.253)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○長澤規矩也編『新明解 漢和辞典』第二版机上版(三省堂、1981年刊)
○白川静著『字統』(平凡社、1994年刊)
○池田清隆著『磐座百選--日本人の「岩石崇拝」再発見の旅』(出窓社、2018年刊)
○イアン・ツァイセック著/山本史郎・山本素子訳『図説 ケルト神話物語』(原書房、1998年刊)

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2020年8月 1日 (土)

石と信仰 (3)

 日本人は自然の営みの中に“八百万の神”を見出して、それらを信仰していたと指摘する人は数多くいるが、「日本人は岩石を信仰していた」と唱える人もいる。それは考古学者の吉川宗明氏で、その著書の中で次のように書いている--

「学校の歴史の授業でもほとんど習うことのない岩石信仰だが、日本列島に1千例以上ある信仰体系であることは揺るぎのない事実だ。その総数がどれほどの数に上るのか、全容については筆者自身もまったく把握できていない。
 ただ、一つはっきりしていることがある。それは、岩石はただ信仰されるだけにとどまらず、祭祀の道具や施設・装置にも使われており、信仰対象と同様に神聖な存在とみなされているということだ。信仰の目的や用途ごとに岩石の役割が使い分けられているため、その幅広さが岩石信仰を奥深く、かつ全貌をつかみにくくしているのである。
 また、岩石信仰は過去行われていただけの信仰ではない。現在も祭祀が続いている事例は多いばかりか、新しく信仰が生まれるケースも見受けられる。昨今盛んなパワースポットブームでも、岩石をパワースポットや癒しの対象とみなす新たな信仰が続々と生産中だ。岩石信仰は、昔も今も進行する人々がいる、現在進行形の生きた信仰ということにも注意したい」(『岩石を信仰していた日本人』、p. 12)

 「岩石を信仰する」という表現は、まるで岩石自体を神仏と見なして信仰するように聞こえるが、そうではなく、吉川氏によると、「岩石を使った祭祀行為全般をひっくるめた概念」のことを「岩石祭祀」と呼ぶ。そして、同氏は「その岩石が、人々によってどのような役割を与えられているか」という機能に注目して、次の5分類を提示している--

(1) 信仰対象 (280)
(2) 媒体 (934)
(3) 聖跡 (344)
(4) 痕跡 (8)
(5) 祭祀に至らなかったもの (362)

 同氏は、日本全国の2,187の事例に当たって分類した結果、上記リストの括弧内の数字を得たという。この分類は、神道考古学者の大場磐雄氏が1942年に提唱した「石神」「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)」の3分類を取り込みながら、神道の範囲を超えて普遍化したものとしている。

 上記の分類結果を見ると、日本で多く見られる岩石に関わる信仰形態は、岩石そのものを信仰するのではなく、それを信仰の「媒体」とするものだということが分かる。具体的には、岩石を神や仏が宿る施設と見なしたり、願いをかなえる道具として岩石を使ったり、岩石を神性な空間の領域を示す道具に使ったり、祭祀を遂行する道具としたりすることである。

 このような学問的なアプローチを採用すれば、生長の家が「石上げ」などの行事を通じて岩石を利用する場合、あるいは自然解説/文化遺産

解説の過程で岩石に言及する場合も、教義との矛盾を起こさずも行えるだろう。言うまでもなく、生長の家は唯一絶対神を信仰する宗教だから、上記の(1)の意味で岩石を使用することはあり得ない。しかし、(2)の観点から利用することに教義上の矛盾はないのである。だから、2011年3月の東日本大震災を契機として、その2年後に、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山の敷地内には、「自然災害物故者慰霊塔」が建てられた。この慰霊塔には、兵庫県で産出される安山岩の一種「生野丹波石」という自然石が使われている。また、私が勤める“森の中のオフィス”の敷

地内には、そこを流れる沢に5つの橋がかかっているが、その傍らにはそれぞれの名前を記した石碑(=写真)が立っている。これらも「信仰の対象」ではなく、信仰の内容を言葉で表した「媒体」としての石の利用なのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○吉川宗明著『岩石を信仰していた日本人ーー石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究』(遊タイム出版、2011年刊)

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2020年7月29日 (水)

石と信仰 (2)

 石上げの自然解説では、私は3つのポイントを話した--①石と人間の関係、②縄文時代の特殊性、③数の「3」と三角形だ。

 石と人間は、生活の手段や道具としてだけでなく、宗教や信仰とも深く関係している。世界の神話をひもとくと、石や岩は、人間の生活や行動の中で重要な位置を占めている。ギリシャ神話の「シーシュポスの岩」や日本神話の「天の岩戸」の話はすぐ思い出すが、そのほかにも数多くの事例がある。東京大学出版会が出した『宗教学辞典』の「石」の項には、次のようにある--

「古代人は、道具・器物として石を用いるかたわら、幸運や力の分与を期待して石を崇拝した。小石、大石、板石、石塊、窪みのある石、穴のあいた石、人獣の姿に似た形の自然石、立石、環状列石(メンヒル)、境界石、墓石(ドルメン)、隕石、フリント、砥石、石斧、水晶、各種宝石、人跡まれな場所で見いだされた石、特定の人間や出来事にかかわる石等々。このような石が、力・毅然・新鮮・豊饒・生命・堅忍・永続・幸運・信頼の象徴として、それぞれの時代や地域における社会や文化に規定された儀礼や伝説・物語の結晶核となった。」(p. 18)

 このような包括的なまとめの後に、同辞典は、石の宗教的機能として①呪術的な力、②神の座・神的表象、③原因譚的・神話的説明を人間に与えるとして、様々な時代、様々な文化圏で石が具体的にどう扱われてきたかを記述している。ここではそれらのごく一部を紹介しようーー

・インドには浄めのため、あるいは潔白の証明として、石の穴や下をくぐりぬける慣行がある。
・南インドのバラモンたちは、家庭での礼拝のために神性を表象する5つの石を使った。
・ギリシャでは、ヘラクレスやエロスなどの神々の名のついた自然石が戸外に置かれている。
・ユダヤでは、神との契約の証として石を立てた。(『ヨシュア記』第24章26ー28節)
・アラブのサヘル族は、自分たちはモアブの地の石から出生したと信じた。
・神のお告げを受けたヤコブは、自分が枕にしていた石を立てて「神の家」とした。(『創世記』第28章18-22節)

 これらに加え興味深いのは、人間が山から切り出した石と自然石に対する見方の違いである。中世のキリスト教芸術に詳しいミシェル・フイエ氏によると、石は神がそこにある(臨在する)しるしであり、したがって「祭壇を築くには、切り出した石を使うことは禁じられ、自然のままの石だけを使わねばならないとされた」という。その理由は、「自然石は天から落ちてきた聖なるものであるのに対して、切り出した石は、人間が作り出したものであるため、けがれていると考えられた」からだという。(『キリスト教シンボル事典』、p.19)

 このように、自然石には「神性が宿る」という考え方があるならば、それより大きい「岩」には、さらに偉大な力があるとの考えが生まれたとしても不思議ではない。同氏の「岩」の意味についての記述には、その通りのことが書いてある。

「①頑丈でびくともしない岩は、権力と永遠性のシンボルである。聖書の数多くの節で、ヤハウェは苦境に陥った人間がすがりつくべき岩にたとえられている。ヤハウェが岩であると言われるのは、彼が--モーセによれば--“正しくてまっすぐな方”だからだ。シナイの荒れ野で、モーセがホレブの岩を杖で叩くと、清水が湧き出した。
 ②この岩は、キリスト教の伝統では、キリストの予示とされる。キリストは霊の飲み物がほとばしり出る岩なのである。」(前掲書、pp. 24-25)

 岩や石が力と永遠性を象徴するという感性は、ユダヤ=キリスト教圏だけにあるのではない。日本神話には、ニニギノミコトが容姿端麗なコノハナノサクヤヒメに一目ぼれし、結婚相手として父神のオオヤマツミノミコトに所望した際のエピソードがあるが、そこには結婚生活は「美しい」とか「華やか」だけではいけないというメッせージが盛り込まれている。世界の神話に詳しい吉田敦彦氏の解説で紹介しよう--

「オオヤマツミは大喜びして、姉娘のイワナガヒメまで付け、たくさんの贈り物を持たせて、姉妹二人を妻に奉った。ところがホノニニギは、石のように醜い姉のほうを嫌って、手をつけずに送り返してしまって、妹のほうだけを妻にした。そうするとオオヤマツミは怒って、『古事記』によれば、“イワナガヒメを妻にされることで、あなたのお命が、石のようにいつまでも堅固であられるように、またコノハナノサクヤヒメを妻にされることで、花のように栄えられるようにと祈願して、二人を奉ったのに、イワナガヒメを返し、コノハナノサクヤヒメだけを妻にされたので、あなたの寿命は花のようにはかなくなるでしょう”と言って、ホノニニギと、その子孫の代々の天皇の命を短くしてしまったといわれている。」(『世界神話事典』、p.113)

 この箇所で私が重要だと思うのは、イワナガヒメとコノハナサクヤヒメの双方が揃うことの意味を、『古事記』(の作者)がどう訴えているかという点である。上記の解説では、美醜の違い、華やかな美と堅固さとの対照が示されているが、原文では、オオヤマツミは、自分の怒りの理由を次のように述べている--

「我が女(むすめ)二たり並べて立奉(たてまつ)りし由は、石長比売(いわながひめ)を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零(ふ)り風吹くとも、恒(つね)に石(いわ)の如くに、常(とき)はに堅(かき)はに動かずまさむ。また木花の佐久夜毘売(さくやひめ)を使はさば、木の花の栄ゆるが如(ごと)栄えまさむと誓ひて貢進(たてまつ)りき。かくて石長比売を返さしめて、ひとり木花の佐久夜毘売を留めたまひき。故、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみまさむ。」といひき。

 当時の日本は一夫一婦制ではなかったから、二人の妻の一方を拒否する理由は現代人が考えるものとは一致しないだろう。これは個人の嗜好の問題としてではなく、人間が表面的な派手さや短期的な繁栄に目を奪われがちであることへの警告だ、と私は受け取る。また、上述した他の文化圏での「石」や「岩」のシンボリズムを考え合わせると、神や“神性”が表面的な美や短期的栄華の中にはないとする英知が暗示されていると解釈できる。

【参考文献】
○小口偉一/堀一郎監修『宗教学辞典』(東京大学出版会、1973年刊)
○ミシェル・フイエ著/武藤剛史訳『キリスト教シンボル事典』(白水社、2006年刊)
○大林太良、伊藤清司他編『世界神話事典』(角川書店、2005年刊)
○倉野憲司校注『古事記』(岩波書店刊、1963年)

 

 

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2020年5月12日 (火)

ボードゲーム「コロナバスターズ」について

 本年4月19日付で、私はフェイスブック上で運営する「生長の家総裁」のページに「コロナバスターズ」というボードゲームを発表した。このゲームは、同じくボードゲームである「オセロ」からヒントを得た対戦ゲームで、相手の円盤(石)を自分の2個の円盤で挟むことで、自分の円盤としてしまう。この「敵であったものが味方になる」というゲームの基本が、私が表現したかったポイントの1つである。

 このゲームは「新型コロナウイルス感染症」という面白くないことから生まれた。それなのに「面白い」ことを目的とするゲームにして遊ぶというのは、不謹慎だと感じられた人もいるだろう。実際、このゲームの発表後、私に対して「ゲームは恐怖心を煽る」とか「日時計主義でない」などという不満を漏らす人もいた。しかし、ゲームの内容を知れば、この種の不満は的外れであることが分かったはずだ。ゲームでは、ウイルスを自分の味方につけることで、感染拡大を防げることになっている。この筋書きが荒唐無稽でないことは、本文の後半で述べる通りだ。

 しかし、その前にひと言――
 この病気により、世界中でたいへん多くの方々が亡くなっていることに、私は心が傷む。それだけでなく、経済活動は中断し、失業者は増加を続け、一部の途上国では、国内の政治的対立も加わって貧困がさらに深刻化し、国家の存続にかかわる非常事態にいたっている。そして医療現場では、医療従事者の方々が文字通り「命がけ」の努力を続けられている。このような深刻な事態になる前に、人類は何か予防措置を講じられたはずだ。しかし、実際はできなかった。その原因は何か? この疑問に答えることが、今後の私たち人類全体の行方の吉凶を決めるだろう。

 多くの人々は、こんな悲惨な事態をひき起こす「ウイルス」のことを、とんでもなく“悪い”ものだと考え、恐怖に駆られたり、憎しみに燃えたりするかもしれない。しかし、ウイルスによる感染症の歴史を振り返ってみると、エイズや狂牛病、鳥インフルエンザ、ジカ熱、デング熱、SARS、MERS……など、その原因を作っているのは、実は人間の方であるという事実に突き当たるのである。今回の感染症も同様の起源があることは、各方面から指摘されているし、私もすで本欄などで述べた。

 ウイルス感染症の誕生と人間との関係をひと言でいえば、人間は自然界のすみずみに、そして自然の奥深くにまで手を伸ばし、自己本位の目的でそれを改変し、また無秩序に利用してきたことで、永年安定していた自然界のバランスを崩しているということだ。このアンバランスの状態から、自然がバランスを取り戻そうとする過程で、人間に致命的な毒性をもつウイルスや細菌が生まれ、あるいはもともと存在していても、人間と関係しなかったウイルスや細菌が、人間の生活圏に飛び込んでくるのである。語弊を恐れずに言えば、人間は自然を壊しながら自然に近づきすぎている結果、人間に致命的な影響を与えるウイルスの産生に大きく関与しているのである。

 こんな書き方をすると、読者は、ウイルスはもっぱら人間に有害であるとの印象をもつかもしれない。しかし、それは誤りである。人間の遺伝子全体のことを意味する「ヒトゲノム」という言葉があるが、このヒトゲノムの8%以上は、人間が進化の過程で関係してきたウイルスゲノム、またはその残骸からできていると考えられている。つまり、ウイルスは人類の生存と発展に有益に働いてきた証拠が、私たちの遺伝子の中にきちんと残っているのだ。例えば、人間を含む哺乳動物は、母親とは遺伝子が異なる胎児を、拒絶反応を起こさずに長期にわたって母体内で育てる能力をもっている。これには先に述べた“内在性ウイルス”の働きが関与しているとされている。

 ウイルスが感染すれば、感染した人(宿主)はすぐに病気になるという考え方も、多くの場合、間違っている。そうではなく、大抵は感染自体は無症状に終わる。しかし、ウイルスがまだ新しい宿主(ヒト)に適応しきれていない今回のような場合に、重篤な症状が起こるのである。この激しい症状は、感染したウイルスに対する宿主側の免疫反応であることが多い。つまり、私たち人間の側が新しい“異物”に対して激しい拒絶反応を起こすのである。ウイルス学の知見によると、特定のウイルスが人間と接触する時間が長くなると、双方が相手に適応する形で症状の激しさを減らしていく傾向があるという。そして、病気の症状を引き起こしにくくして、しばしば長期間の(無症状の)感染を続けるという。つまり、ウイルスと宿主とは一種の“平和共存”を達成するのだ。

 ウイルスと宿主とのこのような関係を考え合わせると、私たちは今回の新型コロナウイルスの登場を“悪魔の仕業”だとか“神の処罰”だなどと考えて恐怖し、あるいはウイルス全般に対して憎悪の感情を振り向けることは見当違いであることが分かる。人類を集合的に「私たち」と呼ぶ場合、この新型コロナウイルスは、私たちが自然破壊とグローバル化の過程で作り出したものである。また、その誕生の原因としては、宿主となる野生動物(コウモリやセンザンコウの名が挙がっている)と人間との必要以上の濃厚で密接な接触が挙げられるのだ。

 オーストラリアのABCテレビは、今回の新型コロナウイルスによる大規模な感染症拡大は、「人間の地球規模の自然と動物軽視」が原因だというジェーン・グドオール博士(Jane Goodall)とのインタビューを、今年4月11日付でウェブサイト上に公開した。グドオール博士はアフリカでのチンパンジーの研究で有名で、自然保護の必要を説き続けてきた環境運動家でもある。記事の中でグドオール博士は、ウイルスが動物から人間に感染する原因の一つは、動物の生息地の減少と大規模農法にともなう森林伐採だと述べ、これにより動物同士の、また動物と人間との接触が深まり、異種間での感染に結びついていると語っている。

 また、同国のチャールズ・スタート大学(Charles Sturt University)の生物学者、アンドリュー・ピーターズ博士(Andrew Peters)は、今回のコロナウイルス感染症のほかにも、同国ではいくつかの感染症の危険が拡がっていると指摘している。その1つは、ヘンドラウイルス(Hendra virus)による感染症で、このウイルスはコウモリから人と馬に感染して宿主を死に至らせるといい、「この感染症は、オーストラリアの海岸地域から森林が失われ、冬場のコウモリの生息地が減少していることが原因だと言われている」と語っている。

 「コロナバスターズ」のゲームでは、ウイルスは取扱い次第で人間の敵にも味方にもなる。私たちは、科学的にも正しいこのウイルスの特徴を知りながらゲームを行なうことで、感情に流されず、理性的な判断と方法で、この問題の解決に取り組む――そういう精神を広めていきたいものである。

 谷口 雅宣 

【参考文献】
〇西條政幸著『グローバル時代のウイルス感染症』(日本医事新報社、2019年)
〇デービッド・R・ハーパー著/下遠野邦忠、瀬谷司監訳『生命科学のためのウイルス学――感染と宿主応答のしくみ、医療への応用』(南江堂、2015年

 

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2020年4月11日 (土)

コロナウイルスは何を教える (2)

 生長の家は、山梨県北杜市にある国際本部“森の中のオフィス”と、同本部の広報・制作/編集部門がある別棟のメディアセンターの2つの施設を明日、4月12日から同21日まで閉鎖することにした。これは、同メディアセンターに勤務する男性職員が4月初旬から発熱や倦怠感などを覚えて体調が優れず、4月7日からは休務していることを重く見たもの。同職員はPCR検査をまだ受けていないが、検査を実施して結果が出るまで対応を長引かせるよりは、新型コロナウイルスの感染拡大防止を最優先に考え、迅速な対応を行なうことにしたもの。2施設の閉鎖中の業務は、基本的に職員が「在宅」で行うことになる。

 今回の新型コロナウイルスによる感染症の世界的蔓延は、かつて例のない規模と速度を伴いつつ、人命や社会の経済活動に甚大な影響を及ぼしている。私は前回のブログで、この感染症によって現代社会が甚大な被害を受ける理由の1つとして、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」を挙げた。この表現は、社会のあり方のマイナス面を強調したものだが、プラス面を強調して言い直せば、今の社会の営みは細部まで分業が進行しているため、物事が正常に進んでいれば“便利で効率がいい”ということなのだ。

 しかし、21世紀の世界での一番の問題は、「物事が正常に進んでいる」という最も基本的で、重要な前提が崩れつつあることである。戦後の日本は、9年前の3月11日までは、「原発が正常に動いている」という基本的な前提が存在した。しかし、東日本大震災と東京電力の業務上の判断ミスなどが重なって、未曾有の原発事故が起こった。戦後の世界の経済発展は一見、「物事が正常に進んでいる」という認識を私たちに与えたが、その陰で自然破壊や温室効果ガスの大量排出の影響が無視され続けてきたため、今や地球規模の気候変動が不可逆的に起こっていて、その影響として、台風やハリケーンは巨大化・凶暴化し、豪雨が河川を決壊させ、人家を押し流し、旱魃が肥沃の地を不毛化し、人間の手に負えない山火事が都市部まで広がり、そして、これまでにない新種のウイルスや細菌による感染症が世界に拡がっているのである。これらの一連の“マイナスの変化”は、人間の活動から生まれているという事実を、私たちはこれ以上無視してはならないのである。

 人間が原因を作っているために起こる現象のことを、「自然現象」とか「自然災害」と呼んではならない。それらはすべて「人為現象」「人為災害」と呼び、人間に改めるべきところがあれば、改めなければなくならない。「自然が相手だから仕方がない」という言葉は、一時代前には妥当だったとしても、現在ではあまり物を考えない人のゴマカシの弁でしかない。私は2012年に出版した『次世代への決断』(生長の家刊)という本の中で、「人間が生んだ地球」(the anthropogenic Earth)という言葉を紹介したが、この言葉の通り、現在私たちが足を踏みしめている地球は、そこに生える植物、空を飛ぶ鳥、動き回る虫や獣、そして目に見えない細菌やウイルスを含めて、人間の影響を受けているものの方が、受けていないものよりも圧倒的に多いのである。

 地球環境を含む自然界の秩序を無視または軽視して、“便利で効率がいい”という方向にのみ社会を発展させてきたことが、今ある「人間が生んだ地球」の原因である。この表現を“裏返し”にすれば、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」の結果を、私たちは今目の前にしていると言えるだろう。だから、現在の社会で私たちが“便利”と“効率”を考えるときには、それらの裏側にある「過剰なスペシャリゼーション」の問題を思い出してほしい。「過剰なスペシャリゼーション」とは、自分の力や努力によらず、他人や他者(社会制度やインフラ)に生活の多くのものを依存しているということである。自立のための知恵や技術の習得、自律心・独立心を放棄して、金銭によって何でも得られると考えることである。そういう考え方の誤りを、新型コロナウイルスは私たちに教えている、と私は思う。

 今、世界の多くの人々ーーとりわけ都市で生きる大勢の人々が、自宅や自室から外に出られず、出ても自由に歩き回れず、買い物に制限を加えられ、娯楽や遊興が白眼視される風潮を感じていることだろう。そんな時、他に依存せず、他から求めず、慣れないことも自ら行い、自ら学び、自ら製作し、他に与える生き方をしてみるのはどうだろう? そう、これが「メンドー臭い生き方」である。しかし、これが「過剰なスペシャリゼーション」から自由になる唯一の方法だと私は思う。物事が正常に進んでいたときには、すべて省略していたことでも、この機会に自分で頭を使い、手を使ってやってみるのである。きっと「不自由」と思っていた領域が減り、内心の「自由」が拡がっていくことを体験されることと思う。

谷口 雅宣 拝

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2020年3月22日 (日)

コロナウイルスは何を教える

 本年3月1日の生長の家春季記念日でも、それに続く3月11日の「神・自然・人間大調和祈念祭」でも述べたように、今回の新型コロナウイルスの地球規模の拡大が教えていることは、数多くある。そのうち、前記の2回の機会で強調したのは、「人間中心主義の弊害」ということだった。それを別の言葉で表現すれば、私たちは『生長の家』誌創刊号にあった「生長の家の宣言」の第1項が目指していた「生命を礼拝する」ことも「生命の法則に随順する」こともせずに、人間の物質的、肉体的欲望を満足させることを至上目的として、長期にわたって自然破壊を進めてきたという事実を指している。このことが、かえって人類社会の脆弱性(ぜいじゃくせい)を増幅しているのである。

 宇宙広しといえども、この「地球」という小惑星にしかない生命与え合いのシステムを、「人間だけがよければいい」という人類エゴが破壊している。私はすでに9年前に発表した「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中で、このことを次のように述べている――

 「多くの生物を絶滅させ、自然の与え合い、支え合いの仕組みを破壊しておいて、人間だけが永遠に繁栄することはありえない。生物種は互いに助け合い、補い合い、与え合っていて初めて繁栄するのが、大調和の世界の構図である。それを認めず、他の生物種を“道具”と見、あるいは道具と見、さらには“邪魔者”と見てきた人間が、本来安定的な世界を不安定に改変しているのである。その“失敗作品”から学ぶことが必要である。」

 今、肉眼には見えない極小の半生物・ウイルスのおかげで、世界中の株式が暴落し、交通機関は停止し、経済活動は極端に縮小し、多くの産業が経営危機や倒産のリスクに直面している。パリのルーブル博物館やニューヨークの公立図書館のような文化施設も次々と閉鎖され、大相撲春場所のような大規模スポーツイベントは軒並みに中止となるか、“観客ゼロ”という珍妙な方式で一見“通常どおり”を維持する努力を続けている。このあとに来るはずだった東京オリンピックが延期されるなどということは、今年初めには誰も予測しなかっただろう。

 このような人類社会の脆弱性は、いったいどこから来るのだろうか? それは、私が先の祈念祭でも紹介したイギリスの科学誌の記事に、分かりやすく説明されている――

「人間以外の動物に棲(す)むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる“動物由来ウイルス病”を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25五億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。動物由来ウイルス病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 このウイルス病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。」

 

 ここにあるように、地球上の生物種と生物種の関係は、何億年、何十億年もの進化の過程で“天敵”と共存してきた。この“天敵”という用語は誤解を招きやすい。これは、「相手の絶滅を期して死闘する相手」ではない。前掲の文章にあるように、「時間が経つうちに相手に合わせて致死率を下げる」などして共存してきた捕食ないし寄生関係にある他の生物種のことだ。ところが人類だけが、多くの生物種を文字通り絶滅に追いやっている。そのことがかえって「自然の側から“敵”として扱われるような事態」(前掲の祈り)を現出しているのだ。

 もう一つ、今回の新型コロナウイルスの世界的伝播が教えているのは、過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)の弊害である。

 今の世界経済は、専門化による地球規模の分業が極端なレベルにまで進んでいる。ある製品を製造するためには、自前で部品を作るのではなく、外国の特定の会社からAという部品を、また別の国の特定の会社からBという部品を……というように、技術力と効率と価格の点で最も優れている会社に部品の供給を依存する傾向が強い。そうしなければ、他社との競争に勝てない場合が多いからだ。こういう相互依存関係が、網の目のように張り巡らされている。すると、災害などでこの網の目が突然切れると、製品全体の生産がストップしてしまうことになる。それが、今回のウイルス伝播でも起こっている。

 アメリカの外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』は本年3月16日の記事で、このことを「脆弱な効率性(fragile efficiency)」と呼び、実例を挙げて警告を発している。例えば、西ヨーロッパの自動車メーカーが生産する車の小型電子部品は、すべてを1社が担当しているので、その社のイタリアにある工場の1つが今回のウイルス感染で操業停止になると、西ヨーロッパで生産されるすべての自動車の生産がストップしたというのだ。また、ムダを省くために「できるだけ在庫を抱えない」という生産方式も、経済が順調であれば問題ないが、いったん災害や伝染病が発生すると、機能マヒに陥る可能性を生む。“ムダ”とされた製品在庫や部品在庫、生産能力の余剰が、非常時には一種の“安全装置”として働くのに、それが欠落しているからだ。

 このような効率優先、コスト優先の文明の弱点が今、明らかになっているのである。

谷口 雅宣 拝

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2020年3月11日 (水)

「生命の法則に随順する」とは?

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”において「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われ、その様子はインターネットを通じて全世界に放映された。以下は、同祈念祭での私のスピーチの概略である--

 皆さん、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」にお集まりくださり、ありがとうございます。今「お集まりくださり」とは申しましたが、ご存じのように、現在、新型コロナウイルスの拡大抑止を目的として、大勢の人間による集会やイベントは行わないようにとの政府の方針に協力しているので、今回のこの祈念祭では、ほとんどの参加者はインターネットを経由して、お祭を間接的に視聴するという方式を採っています。にもかかわらず、恐らく大勢の方がここまでの祈念祭の様子に合わせて黙祷を捧げたり、神想観を実修されたと考え、心から御礼申し上げる次第です。ありがとうございます。

 さて、私は去る3月1日の立教記念日に、『生長の家』誌創刊号の裏表紙にある「生長の家の宣言」という歴史的文章を引用して、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」という言葉の意味をお話したのであります。その時、この「生命の法則」とは「生命顕現の法則」であって、それは決して「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が示すように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、力まかせにいわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということを述べました。また、「生命を礼拝する」という意味は、「人間だけを尊重するのではなく、人間を含めたすべての生命を尊重する」ということだとお話しました。しかし、人間はまさにその「人間だけを尊重する」人間至上主義的な生き方を長年、続けてきたために、今日、地球環境問題を含む深刻な問題に直面しているのですね。そのことを私は、『今こそ自然から学ぼう』というこの本から引用して、「自然への拷問が人間への拷問となっている」という言い方もしたのであります。

 私たちは現在「自然と共に伸びる」運動というのをしています。この「自然と共に伸びる」という意味は、これまでの“古い文明”のように、人間の幸福のためだけに自然を破壊する--例えば、生長の家の過去の運動を振り返ってみると、月刊誌の購読数や購読者を増やすために、その原料である紙パルプの消費を増大させ、森林伐採を促進し、あまつさえ大量の月刊誌が配布されずに多くの会員宅に積まれてあっても構わない--そんな考えではいけないということですね。こんな人間至上主義に陥らずに、運動が進展することと自然界が繁栄することを共に実現しようという運動であります。

 今日はその目的を念頭に置きながら、人類は今後、自然とどう付き合っていくべきかを考えたいのです。「生長の家の宣言」の第1項にあった「生命を礼拝する」とは、また「生命の法則に随順する」とは、具体的にどんなことをするのかということです。

 私たちは今、新型コロナウイルス(COVID-19)による感染症の拡大によって、多くの重要な教育を受けていると感じます。これを生長の家では“観世音菩薩の教え”とも言いますね。先ほど、白鳩会総裁が読まれた、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中にも、この言葉は出てきました。「大地震は“神の怒り”にあらず、“観世音菩薩の教え”である」とありましたね。そこで、この教えの1つとして、私が立教記念日の時に申し上げたのは、この感染症の原因は、ウイルスとか動物の側にあるのではなく、人間の側にあるということでした。

 その時は、センザンコウという動物が、ワシントン条約で交易が禁止されているにもかかわらず、大量に取引きされているという話をしました。しかし、その際も申し上げましたが、今回のコロナウイルスの感染源ーー正確には「中間宿主」と言いますが、それはまだ確定されていません。また、センザンコウは単にウイルスを仲介しただけで、コロナウイルスはもともとコウモリと共生しているという学者もいるようです。そうです。コウモリはコロナウイルスを体内にもっていても、平和共存していて病気にはならないということですね。自然界には、そういう野生動物はたくさんいるし、私たち人間の体内にも沢山の細菌が棲んでいて、人体との間にギブアンドテイクの関係が成立しているのです。

 ところが、このような自然界のバランスを壊すと、生物同士が互いに傷つけ合う現象が起こるようになる。私がセンザンコウの例を挙げたのは、センザンコウが“悪い動物”だという意味ではなく、それを扱う人間の側に問題があるということでした。人間は、食用や医療の用途にするために、多くの動物を自然状態から引き離して、動けないほどの狭い場所に囲い込み、そこで残虐な方法で大量に屠殺するのです。

 この方法は、センザンコウだけでなく、ブタもウシもニワトリもヒツジも何もかも、現在、世界中で大々的に行われていることです。そういう食肉産業を発達させてきたのが、私たちの中にある人間至上主義の考え方です。本来動き回るのが自然の生き方だった動物たちを、狭い空間に閉じ込めながら、無理やりに不自然な食事を与え、彼等の苦しみや悲しみを全く無視して殺戮する。動物を殺せば当然、血や体液が周囲に飛散して、人間がそれを浴びることになります。人間に近い家畜の扱いがこれですから、野生動物を扱うにも、それとほとんど変わらない、いやそれ以上に残酷な方法を使うのです。

 このような屠殺によって、人間と動物の肉体の一部が混じることになります。そこで皆さんは、これを「自然と人間が一体」になったと考えますか? あるいは、ブタやウシの筋肉や内臓を人間が食することで、「自然と人間は一体だ」という自覚が生まれると思いますか? 私は断じて、そう思いません。これは動物たちの感情や意思をまったく無視して、人間本位の役割を強制する「自然侮蔑」の心、「生命功利論」の表現だと思います。生長の家の目的は、先に触れたように、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」ことですから、私たちは、その考えと反対の立場にある肉食の習慣をやめるという決断をしたのであります。

 では、ウシやブタのような家畜を食べることと、今回疑われているような野生動物を殺して人間の薬用や食用にすることの違いはどこにあるのでしょう? これに答えるには、質問を言い換えた方がいいかもしれません。私たちは家畜を屠殺して食することを長年やってきましたが、では、なぜ家畜の身体に棲んでいるウイルスや細菌が人間に感染して、病気を発症しないのでしょうか? また、発症してもそれが世界中に拡大して経済活動を阻害する、今回のような大被害を起こさないのでしょうか? 

Ns020820   この疑問に答えてくれる記事を、私はイギリスの科学誌『ニューサイエンティスト』の中に見つけました。ここにあるのは、今年2月8日付の同誌の表紙で、ご覧のように「コロナウイルス」の特集をしています。そして、「Viruses from animals」(動物からくるウイルスたち)という題の記事には、こうあります:

「人間以外の動物に棲むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる zoonotic disease (人間に感染する動物病)を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。人間に感染する動物病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 この動物病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。感染後の1日以内に人間が死んでしまうと、ウイルスはそれ以上繁殖できない。動物の体内にいるウイルスがヒトに感染するためには、そのウイルスに感染している動物と人間が接触しなければならない」

 ということで、動物のウイルスや細菌が人間に感染するためには、人間と動物との距離が接近する必要があることが分かります。現在の文明が進む方向で、それが起こっているのです。人間が自然を破壊して動物に近づいている。別の言い方をすれば、人間が不自然に近く、自然に近づいているということです。これは肉食の習慣が世界的に拡がっていることも指せば、それだけでなくて、人口爆発によって、都市が拡大し、森林がなくなり、動物の住処がなくなり、あるいは動物の食べ物が減って、生きるために動物たちが人家や民家の近くまで来ることも含んでいます。私が申し上げたいのは、生長の家がいう「神・自然・人間は本来一体」という教えは、人間が他の生物と物理的に一体になるという意味ではないということです。

 自然界を観察すれば、それぞれの生物種の個体と個体との間には、自然な距離があります。それを「縄張り」と呼ぶこともあります。同一種の生物だから、いつも互いに密着して生きているわけではない。子供と親は当初は密着していても、成長すると互いに距離をもつようになる。子供がまだ密着していたいという素振りを見せると、親の方が自分の子を攻撃することもありますね。私たちはそういう生き方も全部含めて「自然」と呼ぶのです。そう考えると、異種の生物間に物理的な距離があり、それが守られているということが「自然」なのであります。また、それが「生命の法則」だと考えることができます。すると、「生命の法則に随順する」ということは、人間があらゆる生物を物理的に近くに引き寄せて、自分たちの用途に供しようとすることは、「生命の法則に随順しない」ということになる。

 私は、今回の新型ウイルスによる感染症の拡大は、私たちが人間至上主義によって、動物たちとの間にあった自然な距離を撤廃し、不自然な距離にまで近づいていることに対する“警鐘”だと感じるのであります。自然を自然のままにしておかずに、欲望をもって引き寄せ、徹底的に利用する、あるいは利用しない部分は粗末にかなぐり棄てる。そういう“古い文明”が進めてきた生き方をやめ、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」必要がある。人間以外の生物と私たちとの間には“適切な距離”があるのが自然であり、生命の法則に随順することである--今回の感染症が教えていることの1つは、これだと思います。また、それが私たちが目指す“新しい文明”の方向であることを、ここで確認したいのであります。

 それでは、これをもって今回の「神・自然・人間の大調和祈念祭」での所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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2020年3月 1日 (日)

すべての生物を礼拝・尊重する

   今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”で「立教91年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式」が行われた。以下は、同式典での私のスピーチの概略である--

 皆さん、ありがとうございます。

Coronavirus2019 本日は、例年ならば「生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」を長崎の生長の家総本山で行なう日でありましたが、ご存じのように、新型コロナウイルスの感染防止対策に協力するため、急遽、式典の会場を総本山からここ山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”に移し、規模を大幅に縮小して、立教記念日をお祝いする会をもつことになりました。そして、この会場での式典の様子をできるだけ多くの幹部・信徒の皆さんに視聴してもらうために、インターネットで中継しているところであります。

 皆さん、本日は「立教91年」を迎えたこと、誠におめでとうございます。「立教91年」ということは、生長の家の運動が始まってから90年が経過し、今日から91年目に入るということですね。

 私はこの立教記念日には、立教の端緒である3月1日付の月刊誌『生長の家』創刊号を引き合いに出して、その創刊号の中の記事を様々な角度から紹介し、生長の家の創始者であられる谷口雅春先生、輝子先生の立教時のお気持や、視野や関心の広さ、知識や見識の素晴らしさ、神への信仰の深さなどについて述べてきたのであります。今日も、それと同じことをするのですが、今回は、創刊号の表紙の反対側、つまり裏表紙に掲げられた「生長の家宣言」について、皆さんと共に考えたいのであります。

 ここにあるのは、今日、「七つの光明宣言」と呼ばれているもの、これは『生命の實相』頭注版第1巻に収録されていますが、そのの“原型”とも言うべきもので、次の6項目です--

1.吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
2.吾等は生命の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。
3.吾等は人類が無限生長の真道を歩まんがために生命の創化の法則を研究す。
4.吾等はリズム即ち言葉を以て生命の創化力なりと信ず。
5.吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんがために善き言葉の雑誌『生長の家』を発行す。
6.吾等は心の法則と言葉の創化力を応用して、病苦その他の人生苦を克服すべき実際方法を指導し、相愛協力の天国を地上に建設せんことを期す。

 この6項目の最初と2番目の項目に、「生命の法則」という言葉が出てきます。また、第3項目には、「生命の創化の法則」という言葉があって、この言葉は、どうも「生命の法則」をより詳しく述べた言葉と思われます。そう考えると、第4項にある「生命の創化力」という言葉は、この「生命の創化の法則」と関係が深いと考えられます。すると「言葉の創化力」という言葉も、「生命の創化の法則」と密接に関係していることになり、ここに挙げた6項目のすべてが、どうも「生命の創化の法則」「生命の法則」を基本として書かれていると、解釈できるのであります。

 では、その「生命の法則」とは何かといいますと、それは『生命の實相』第1巻に「『七つの光明宣言』の解説」として、雅春先生の解説が載っているのであります。ただ、『生命の實相』では、第2項は「生命の法則」ではなく「生命顕現の法則」という表現になっている点、創刊号の表記とは違います。そして、生命顕現の法則とは何かについて、解説には「生命顕現の法則とはなんであるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります」とあります。

 解説は、次のように続きますーー

「われわれは事実上生まれてきて生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき、生命の法則は“生長”することにあるので退歩することではないことがわかるのであります。退歩する者は生命の法則にかなわないのでありまして、“生命の法則”にかなわないものは生命の世界においては落後することになっているのであります。」

 ここに書かれたことは、読み方によっては、かなり厳しい指針であると受け取られるかもしれません。今年は日本でオリンピック/パラリンピックがありますが、スポーツにおける“生長”や“進歩”とは、過去の記録を更新していくことですから、「退歩する者は生命の法則かなわず、生命の世界では落後する」ということは、「記録を破れない者は、スポーツの世界では落後する」と言っているようにも解釈できます。

 また、これに続いて『生命の實相』には次のように書いてありますーー

「進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのは、いずれもこの現象(ことがら)をいい表わしたものなのであります。生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩にうち負かされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にもうち負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長する、という厳とした法則によっておのおのの『生命』は宣告されているのであります。」

 これを読むと、生長の家では、生存競争や優勝劣敗--つまり、この世界は強い者が勝って、弱い者は負けていくーーという弱肉強食の世界を肯定しているかのように聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか? この第2項の前に置かれた第1項の説明には、次のようにあります--

「自分自身が尊い『生命』であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることもできるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの『生命』の大元(もと)の『大生命』をも尊び礼拝したくなるのであります。」

 つまり、ここに書かれてあることは、私たちの実相は神の子であり、本質は皆、素晴らしい存在であるけれども、そのことに甘んじてしまっていて、実相を表現する努力をしないのではいけない、ということですね。今、流行っている言葉を使えば--「ボーッとして生きてんじゃないよ!」ということです。

 さて、そこで今日は、今世界中で問題になっている新型コロナウイルスについて少し考えてみたいのであります。生長の家では、すべての現象は、善いものも悪いものも皆、観世音菩薩の教えであると言いますから、今回のウイルス問題から私たちは何を学ぶべきかを考えましょう。

 先ほど、七つの光明宣言の第1項と第2項を紹介して、私は、人間の生き方として、「自己に宿る“神の子”の真性を表現する努力を怠ってはならない」という意味の話をしました。それが、立教当初からの生長の家の考え方の基本であるわけです。では、人類全体を考えてみた時は、私たちはこの基本的教えに沿って、ここまで生きてきたのでしょうか? 

Beyondanthro  私はこれまで、いろいろの本の中で、人類の歩みを振り返って、神の子の真性がまったく表現されて来なかったとは書きませんでした。しかし、人類の歩みに問題がなかったとも書きませんでした。特に、産業革命後の人類の歩みについては、公害問題を起こし、自然破壊を大々的に進めてきたことに批判的でした。例えば、今から18年前に出した『今こそ自然から学ぼう』という本には「人間至上主義を超えて」という副題をつけて、多くの私たちの考えの根本にある思想を批判しました。はしがきから少し、引用します。ここにはピューリッツア賞を取った生物学者、E・O・ウィルソン博士に触れてこう書いていますーー

「ウィルソン博士は“人類は地球というこの特定の惑星上で他の生きものといっしょに進化してきた。私たちの遺伝子の中には、これより他の世界はない”と言っている。この言葉を、私は生物の遺伝子操作によって世界が改善すると考えているすべての人々に読んでほしい。そして味わってほしい。ここで“他の生きもの”と博士が言っているのは、千や二千の種類ではない。何十万種、何百万種の生物を指しており、そのなかのほとんどは、どのような生き方をし、どのような機能を自然界で果たしているのか、人類はまだまったく知らないのである。
 が、我々はその生物種を急速に絶滅に追い込んでいる。自分の目先の利益を快適さのために、自然界の調和と安定を支えてきた無数の生物種を犠牲にし、少数の生物種だけを殖やし、新種を開発し、あまつさえ別種の生物との間で遺伝子を入れ替えたり、つけ加えたり、機能を止めたり、混ぜ合わせたりする作業に血眼になっている。これらはすべて、“自然は人間に不都合にできている”という考え方の産物だ。」

「生長の家創始者、谷口雅春先生の言葉を引用させていただけば、“宇宙全体が神の自己実現であるのである。”(天下無敵となる祈り)この“宇宙”とはもちろん“人間”だけの棲家(すみか)ではない。それを忘れて、人間だけの“天国”や“浄土”をつくることはできない。そのような人間至上主義は、個々の肉体としての人間を至高のものとする“肉体人間至上主義”である。生長の家は“人間は神の子”と教えるが、それは“肉体に執着した現象人間”が尊いという意味ではなく、宇宙の一切の存在を神の自己実現として観ずることのできる“本来の人間”(仏)が至高だという意味である。
 人間の多くがそのような自覚に達するには、まだ時間がかかる。それまでは、自然はその自覚を促す“警鐘”を我々の内外に鳴らし続けるだろう。我々はその意味を正しく理解し、間違いを正していかねばならない。自然を拷問にかけることで、我々自身を拷問にかけることは避けねばならない。」

 ここに「自然を拷問にかけることで、我々自身に拷問をかけている」という表現がありますが、ひと言でいうと、それが今回の新型コロナウイルスの世界的拡大から学ぶべきことなのです。先ほどの文章の中に「狂牛病」と「口蹄疫」という家畜の伝染病のことが出てきましたが、このあとには「SARS」とか「MERS」の流行があり、そして今回の新型コロナウイルスの事件があるという、一連の新しい感染症拡大は、人間の側に大きな原因があると考えるべきなのです。

 少し説明をしましょう。SARSは「severe acute respiratory syndrome」の略で、「重症急性呼吸器症候群」と訳されています。MERS「Middle East respiratory syndrome」の略で、「中東呼吸器症候群」です。それと今回のウイルスの共通点は「コロナウイルス」である点です。「コロナウイルス」は太洋の「コロナ」の形に似ていることから、その名がついたといいます。写真をご覧に入れますーー

 SARSは、2002年11月に中国広東省で発生し、翌年の7月末に終息するまでの9カ月に32カ国へ広がり、8,096人が発症し、死者は774人に上りました。致死率は9.6%といいます。MERSは、2012年9月以降、サウジアラビアやアラブ首長国連邦などの中東で蔓延し、3年後の2015年6月半ばまでに1,293人に感染し、うち458人が死亡しています。SARSの原因については、まだ確定的になっていませんが、ハクビシンだろうとか、もともとはコウモリがもっているウイルスだとか言われています。これに対し、MERSのウイルスはヒトコブラクダがもっているそうです。それとの“濃厚接触”が原因のようです。今回の新型コロナウイルスによる呼吸器症候群も、原因はまだ確定していませんが、センザンコウが中間宿主ではないかという説が、有力視されています。
これは2月22日付の『ナショナル・ジオグラフィック』誌のウェブサイトの記事に載っています--

「センザンコウが本当に新型コロナウイルスの中間宿主であるかについては、まだ正式な論文で発表されたわけではない。センザンコウからヒトにウイルスが感染したことが確認されてもいない。それでも、2020年2月現在、検証されている説の一つであり、アジア(とりわけ中国とベトナム)でのセンザンコウの消費と、大規模な違法取引に対する監視の目が厳しくなると考えられている。」

 センザンコウがどんな動物かを見てみましょう。

 センザンコウは、哺乳動物の中の「鱗甲目」に所属する動物の総称で、英語では「pangolin」といいます。アリやシロアリを食する。世界に8種類いて、アジアに4種、アフリカに4種。大きさは、小さい種類がイエネコぐらいで、大きい種類は体長75~85センチ。ワシントン条約で取引が禁止されているが、「世界で最も多く密売されている哺乳類」と言われ、毎年数万匹が密猟されている。とりわけ近年になって押収量が増加している。これは、中国が2018年に象牙の国内取引を禁止したことと関係があると見られている。象牙の値段が下がり、取引きのウマ味がなくなったため、犯罪組織がセンザンコウの取引に切り換えた可能性がある。ある調査によると、2016年には平均で2.4トンだったセンザンコウの押収量は、2019年には6.8トンまで急増している。

 センザンコウは肉が珍味とされ、ウロコは伝統薬の材料に使われ、ウロコの取引き価格は1匹あたり2700ドルという(2017年現在)。また、胎児のスープは、男性用の強壮剤になるとして売られている。またウロコは、インドではリウマチに効くお守りとして用いられ、アフリカでは魔除けとして用いられ、ベトナムではジャライ族が民族楽器クニーの素材として使うという。

 今回の新型コロナウイルスの感染は、武漢市の市場から始まったと言われているのですが、動物を生きたまま取引きする現場というのは、いわゆる「濃厚接触」が頻繁に起こることが分かります。動物は、センザンコウに限らずいろいろな種類のものが、小さな籠に入れられて市場の狭い空間に積み上げられたりするからです。これは皆、人間のためだけにそうするのです。自然界では、広い森や草原などで、外敵から身を守るためには、あるいは自分の縄張りをもつために、動物と動物の間には必然的に距離が生まれます。ところがそれを人間が市場で売買したり、飼育したりする場合には、そんな距離がなくなり、同種の動物も異種の動物も一緒にされて“満員電車”のような状態に長期に置かれます。また、殺されて肉になる場合は、血液、体液、内臓などが人間と直接接触する。そこに、人間がもともともっていない細菌やウイルスが、人間の体内に入る機会が生まれます。

Hogfactory  繰り返しになりますが、今回の感染症がセンザンコウのもつウイルスが原因かどうかはまだ確定していませんが、仮にそうでなくても、過去にはハクビシンやコウモリ、ヒトコブラクダの例があり、また狂牛病や口蹄疫の場合は、狭い空間にたくさんの動物を詰め込んで飼う飼育法が、人間のためだけの目的で行われているという事実を、確認しなければなりあせん。そして、まさにこの人間至上主義的な動物への処置が、結果的に人間に大きな被害や損害を与えているのです。私が「自然への拷問が人間への拷問となっている」というのは、こういう意味であります。

 さて私は、この話の最初に「生命顕現の法則」という言葉に触れましたが、この自然界と人間の関係を考えると、ある生命が現れて発展するためには、「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が暗示するように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、いわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということが分かります。そのような人間至上主義的生き方をしていると、人間自身が大きな問題を抱えることになる。生長の家では、「人間は神の最高の自己実現」といいますが、この意味は、人間が他の生物種を自己目的のために生殺与奪の権を振るって支配するということではない。それは「神」がすべての生物種の創造者であり、それら生物種を愛されているのと同じように、人間もすべての生物種を、自分もその一部である自然界の仲間として、また“神の作品”として尊重し、愛するというのでなければならないのです。そのことを説いているのが、生長の家の宣言の第1項目だと私は思います--「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。」

 皆さんもこの運動を進める中で、「自然と共に伸びる」という意味は、『七つの光明宣言』の第1項を生活に生きるということであることを、機会あるたびに思い出し、人々にも伝えていただきたいと念願する次第です。

 91回目の立教記念日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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2019年11月22日 (金)

“他を害する心”を捨てよう

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の龍宮住吉本宮出龍宮顕斎殿で、九州地方と山口県の幹部・信徒290名が参列して「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が厳かに執り行われた。私は式典の最後に概略、以下のような言葉を述べた:

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 皆さん、本日は「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」にお集まり下さり、有難うございます。皆さんとは毎年この時期に、ここ総本山の出龍宮顕斎殿でお会いして、あるいは最近は、皆さんがお住まいのそれぞれの地でインターネットを通じてお会いして、谷口雅春大聖師が約90年前に始められた人類光明化運動の意義を確かめ、今後の運動発展への決意を新たにする機会をもてることは、大変ありがたく、すばらしいことと感じ、神さまと皆様に心から御礼申し上げます。ありがとうございます。

 さて、昨年のこの記念日では、私は昨今の気候変動にともなう世界各地の災害の増加を話題にしました。ご記憶の人は多いと思いますが、昨年は夏に、広島、岡山など中国地方で洪水が起こり、山肌が崩壊して人家に大きな被害が起こりました。生長の家の幹部や信徒の家にも被害がありました。その時、私はこの種の災害は今後、頻繁に起こることが予測できるので、生長の家ではその際の「救援活動」を教団として組織的に行うための仕組みを作ったことを報告いたしました。

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 残念ながら、この予測は的中して、今年も台風15号、19号などが襲来して、日本中に甚大な被害をもたらしました。しかし、「不幸中の幸い」と言えるのは、生長の家ではこの救援活動のための組織ができていたので、今年はそれを利用して、日本各地で信徒のボランティア活動による救援活動が展開されました。信徒の皆さんの愛行の実践が、新たな分野に展開されていることを感じ、心から感謝、讃嘆申し上げます。ありがとうございます。

 今年の日本での自然災害のうち、大きかったのは台風19号によるものではなかったかと思うのですが、実は私20191124_img_0546
も妻と共に、長野県の被災地に救援活動のため入らせていただきました。千曲川の氾濫により、長野市のリンゴ農家が被災したところへ10月20日に行ってまいりました。台風19号が山梨県・長野県を通過したのは10月の12日ごろですから、被災から約1週間たっていましたが、現場は大変な状態でした。何枚か写真を示してご説明します。

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 この救援活動をして感じたことは、いくつもありますが、一番強く感じたことは、「ひとりの人間の力はわずかだ」ということです。また、それに比べて「自然の力は偉大だ」と感じました。約20人のボランティアが汗と泥だらけになって、1日中仕事をしても、リンゴ農家の倉庫1棟から、泥に埋まった様々な物品を持ち出して庭の一角に集め、後に残った泥をかき出すことしかできませんでした。私は出張で北杜市を離れるとき以外は、約4キロの上り坂を仕事場まで自転車通勤しているので、肉体的にはまだ老衰していないと自負していましたが、水をたっぷり含んだ泥を運び出す重労働には、さすがに疲労を感じました。当たり前のことなのですが、人間の肉体の力は、被災地のように最低限の道具しか使えない環境では、ほんとにわずかなものなのです。

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しかしその反面、人間は科学技術を道具として使うと、大変な力を発揮して、自然を破壊することができます。大体、今回の台風による洪水や、水害の原因には、人間の活動が大きく関わっています。私が申し上げているのは、地球温暖化は人間の活動の影響であるということで、世界のほとんどの気象学者がそれを指摘しています。それにも拘わらず 、先進国の政治指導者は経済発展を優先して、温暖化対策と真剣に取り組もうとしていません。

生長の家は、この問題の大きさに早くから気がついて、温暖化の防止、そして最近では温暖化が進む世界でどう考え、どう生きるかを提案し、実践しつつあるのですが、その考え方の元となっているのが「神・自然・人間は本来一体」という信仰です。これは何も私が発明した考えではなく、谷口雅春先生の教えであることを忘れないで頂きたい。

多くの方はすでにお持ちと思いますが、雅春先生と私の祈りの言葉を6つ集めた『万物調和六章経』というのがあります。その中に、『真理の吟唱』から転載した雅春大聖師の「有情非情悉く兄弟姉妹と悟る祈り」がありますが、一部を次に引用して、そこに「神・自然・人間は本来一体」であることが説かれていることを確認いたしましょう--

「すべての生きとし生けるもの、在りとしあらゆる物ことごとくに“神の生命(いのち)”が宿っており、そのすべてが私たちの生命と一体であるから、天地一切のものは、私たちの心の響きに感応して、或る結果をもたらすのである。それゆえに、物質と見えているものでも、私たちがそれに感謝し、それに宿る神の生命(いのち)を直視して祝福するならば、その祝福に感応するのである。」

 ここには、自然界のすべてのものと「私たち」すなわち人間は一体であることが説かれています。私たち人間と自然界とが一体である理由は、すべてに“神の生命がやどっているから”だと、ここでは説かれています。つまり、神を媒介として、自然界のすべてのものと私たち人間はつながっているということです。

 少し先には、次のように書いてありますーー

「神は人間を万物の霊長として、天地一切のものを霊的に支配する権能を与え給うたのである。それゆえ、如何なる物も、人間が義しき心をもって生活し、他を害する心を起こさない限り、自分が害されるということはあり得ないのである。」

20191124_img_0555  ここで重要なのは、人間が他の生物など“天地一切のもの”を「霊的に支配する」と書かれていることです。「物質的に支配する」とは書かれていません。この違いは何でしょうか? 私たちが現在、動植物に対してどのように対処しているかを思い出してみてください。今、私が住んでいる山梨県では、韮崎市で豚コレラという病気が発生したため、発病したブタのいる農場のブタ890頭が、17日までに、健康なブタも含めてすべて殺処分されました。感染を防ぐためです。今回はまだ千頭未満の犠牲でしたが、かつて宮崎県で口蹄疫が発生した時は、何十万頭もの家畜が殺されたことがありました。これは「霊的な支配」でしょうか、それとも「物質的な支配」でしょうか? 答えは、明らかに後者ですね。では、生物の細胞内にあるDNAを組み替えて、人間に都合のよい形質をもたせることは「霊的な支配」でしょうか、「物質的な支配」でしょうか? DNAはデオキシリボ核酸という物質ですから、これを人工的に組み替えるのはもちろん「物質的支配」です。それでは、山の中にダムを建設したり、コンクリートで川岸を固めることは「霊的支配」でしょうか、それとも「物質的支配」でしょうか? この答えも、明白ですね。

20191124_img_0557  このように考えてくると、私たち人類がこれまで進んできた道は、他の生物や自然環境を物質的に支配しようとした歴史であることが分かります。では、その物資的支配の「動機」は何だったでしょうか? それらの科学技術を開発するに当たり、「義しき心」をもってそれをなし、「他を害する心」を起こさなかったでしょうか? 決してそうではありませんでした。私たちが科学技術を開発してきた最大の動機は、経済発展--つまり、人間本位の他の動植物の利用であり、物資的繁栄ではなかったでしょうか? 核エネルギーの利用技術の開発などは、敵国を破壊する--つまり「他を害する心」そのものが最初の動機でした。

 「他を害する心」は、核エネルギー以外にも多くの技術の元になっていることがあります。例えば、「農薬」などは如何ですか? また、樹木を育てるときに剪定というのをやりますが、これをやりすぎると、樹木は枯れてしまいます。では、電線の邪魔にならないように、街路樹をボコボコに短く伐ることはどうでしょうか? 効率よく食肉を生産するために、本来、動き回ることが好きな動物や魚類を、狭い囲いの中に詰め込んで飼うことは、どうでしょうか? これらは、「他を害する心をもって動植物を物質的に支配」してきたことを示していないでしょうか? 私は、その通りだと思います。

 私は今回、台風19号の被災地で汚泥の掻き出し作業をしながら、不思議な光景を目にしました。それは、予測はしていたのですが、リンゴ畑のリンゴの木は、すべて人間の手が届くような低さに剪定されていること。このため、木を見ても少しも美しくないのです。いびつに曲り、多くの枝が垂れ下がったリンゴの木に沢山の実が成っているのです。すると、洪水が起こると、ほとんどすべての実が泥の中に浸るか、泥がかかってしまい出荷できません。また、倉庫にあったほとんどすべてのものが泥だらけでしたが、中には、泥がついているだけで、使えるものも沢山ありました。が、そこのご主人に訊くと、「全部捨てて下さい」と言うのです。例えば、植物を支える支柱など、泥を洗えばまだ充分に使えると思うのですが、ご主人は見向きもしないのです。また、中身がいっぱい入った灯油の缶もありましたが、それも「全部捨てて下さい」と言われました。

 が、その一方で、ご主人に「それは取っておいて」と言われたものがあります。それは小型のペットボトルに入った農薬でした。それも1本や2本でなく、10本以上のものを、ご主人は大切そうに別の場所へ持って行かれました。また、倉庫内には、大型の農薬散布用の車があって、それをご主人はいかにも大切そうに扱っていることが、私たちには分かりました。

 私はここで、このリンゴ農家が洪水の被害に遭ったのは、「他を害する心」をもっていたからだと言いたいのではありません。地球温暖化の問題は、ある特定の個人の心がどうだったかというミクロの原因では説明できないし、解決できないでしょう。しかし、産業革命以降、長年にわたって、地球全体に住む多くの人々が、人間中心主義の考えにもとづいて繰り返し繰り返し、他の生物や自然環境を傷めつけながら物質的に支配しようとしてきたと言えないかを、皆さんには考えていただきたい。

20191124_img_0559  雅春大聖師の祈りの言葉には、「如何なる物も、人間が義しき心をもって生活し、他を害する心を起こさない限り、自分が害されるということはあり得ない」と説かれています。これを言い換えれば、「人間が邪な心をもって生活し、他を害する心を起こして、霊的にではなく、物質的に自然界を支配しようとしてきた」ことが、現代社会の様々な問題の背景にはあるということです。

 この人類的な心の傾向は、今も続いています。だから、それを正し、「神・自然・人間は本来一体である」という真理に、もっともっと多くの人々が目覚めることが、そして、人間を含めた自然界に対して、様々なやり方で四無量心を行じることが、今日ほど求められている時代はないと考える次第です。このことは、約90年前に、この運動を始められた谷口雅春大聖師の御心を現代に反映させるご恩返しになるということを、今日はぜひ皆様には知っていただきたいのであります。
 
 それでは、これをもって大聖師ご生誕日記念式典の所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。
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谷口 雅宣 拝

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