自然と人間

2017年4月24日 (月)

“愛のある秩序”の実現へ

 今日は澄みきった晴天のもと、午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山で「谷口輝子聖姉二十九年祭」が執り行われた。御祭が行われた谷口家奥津城前の広場には、地元・長崎南部教区、同北部教区の幹部・信徒など百余名が参集し、谷口輝子聖姉の遺徳を偲び、人類光明化運動・国際平和信仰運動の益々の進展を誓い合った。本年祭の模様は一部、インターネットを経由して全世界に中継された。 
 
 私は御祭の最後に概略、以下のような挨拶を行った-- 
 
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  皆さん、今日は「谷口輝子聖姉二十九年祭」にお集まりくださり、誠にありがとうございます。谷口輝子先生は、生長の家創始者、谷口雅春先生の妻として、生長の家の人類光明化運動を力強く支え、今日の私たちの運動の基盤を整えてくださいました。皆さまもご存じのように、現在の私たちの運動は、生長の家白鳩会が主力となって展開されていますから、初代の白鳩会総裁だった谷口輝子先生の御功績は、雅春先生よりも目立たないかもしれませんが、大変大きなものであります。 
 
 今日は、その輝子先生が書かれたご著書の中から、夫婦関係、家族関係について書かれたものの一つを紹介し、生前、輝子先生がどのようなお考えとお気持をもって運動を進めてこられたかを学ぶ機会にしたいと考えます。 
 
 ここに持って来たのは、輝子先生が昭和33年に出版された『光をみつめて』というご著書です。この中に「秩序といういふこと」という随筆がありますが、そこに昭和31(1956)年の3月号の『生長の家』誌に掲載された家族写真について触れたご文章があるのであります。今から61年も前の写真ですが、その頃には私はすでに生まれていて4~5歳の年齢でしたから、家族写真には総勢8人が写っています。谷口雅春先生ご夫妻と、清超先生ご夫妻、そして私を含めた4人の孫です。3月号に載った写真ですから、それより2カ月前の元旦に撮影されていて、大人たちは皆、着物の正装です。この8人がどういう順番に並んでいるかを皆さん、想像してみてください。『生長の家』誌3月号の口絵として掲載された写真です。 
 
 その写真を見て、輝子先生に投書してきた人がいるのですが、その投書の内容を紹介します-- 
 
「3月号の『生長の家』誌の御家族の御写真を拝見して以来今日まで、十数日考えましたが、思い切って御尋ねいたします。何故、総裁先生と若先生が真中で、大奥様と若奥様を外側へ立たせられているのですか。家長中心と云うことは知っていますが、せめて総裁先生と大奥様とを真中にして、若先生御夫婦は両側に立たせられませぬか、西洋臭くなりますが、お二人の奥様を中にして、先生お二人が外側に立たせられた方が自然のように思われます。主人が中心ではあるが、婦人のカヨワさを護られる意味の(愛)現れが必要ではありませんか。あのお写真は如何にも不自然に見えます。何かに拘泥(とらわれ)がありませんか。動物でも、女性を保護します。何かの機会に御答え下さい。」(同書、p.87. 原文は旧漢字旧カナ遣い) 
 
 こういう内容の葉書が届いたというのであります。葉書の主は女性ではなく、男性です。輝子先生はこの男性の意見に対して、次のように書いておられます-- 
 
「この一誌友の言われる通り、女性は男性に比して肉体的には骨格も逞しくなく、筋肉も強くなく、身長も短いし、精神的にも男性の雄々しさに比べて、やさしく柔かいのが天性であるから、この人の言われるごとくカヨワい存在であるかも知れない。男性はその力強い手によって女性に力を貸し、保護すべき時は大いに保護していただきたいものである。 
  しかし、いつどのような場合でも、男性は女性に手を貸さねばならないであろうか。否と私は言いたい。カヨワいと言われる女性でも、事柄によっては、誰の手も借りないで立派に処理出来るばかりでなく、男性に手を貸すことも屡々(しばしば)あるのである。女性は外面的には優しく弱弱しく見えているけれども、時に応じては、男性に劣らぬ健気(けなげ)な働きをする力を内に蔵してもいるものである。どんな場合に男性は女性を保護すべきであるか、それは人、時、処をわきまえなければならないと思う。男性は女性を保護すべき者だと云うことにとらわれて、無闇に女性を甘やかしてはならない。時には、冷ややかそうに見過ごすことによって、女性は自分に内蔵されている逞しい実力を発揮させることが出来ることもある。今、この時にこの場合に於いて、如何に処すのがふさわしいかを考えて行動しなければならない。」(pp.87-88) 
 
 ここには、男女の違いについての輝子先生のお考えが書かれていると解釈できます。外面的、肉体的には男性は女性を上回ることがほとんどだが、内面的、精神的には女性は男性に劣ることはない、というお考えです。では、これが男女関係だけでなく、夫婦関係、家族関係に拡がっていくとどうなるか--それについて、輝子先生は次のように書かれています-- 
 
「写真を撮るとき、女性をカヨワいと意識して並べ方を考える必要はないと私は思う。あの場合、私は、雄々しいだの繊(か)弱いだのとは考えていなかった。ふた夫婦が上段に並んで、子供たちは姉から妹(いもうと)弟(おとうと)へと順序よく並べただけであった。二夫婦のうち、夫が中心に立つか、妻が中心に立つか、それをいずれと迷う人などあろうとは思わない。夫が主であって妻が副であることは当然の秩序である。」 
 
 --このように書かれています。男女が結ばれて家族を構成するときには、男女の肉体的、精神的な強弱のことなど意識するのではなく、一つの有機体として、生命体としての「家族」はどうあるべきかを考えて--言い換えれば、家族構成員のそれぞれの“機能”をもとにして順序を考える、ということですね。これは極めて合理的なお考えだと私は思います。その場合、忘れてはならないことは、誰が家族の“中心”か、ということです。また、夫婦が2組いるときには、どちらが“軸”の役割をするかということです。 
 
 しかし、その一方で、家族はいつもこういう原理原則や機能本位で生きているわけではありません。このような“固定的”な関係では息がつまってしまうし、第一不自然です。そこには当然、家族相互の愛情や喜怒哀楽が自由に表現される“流動的”な関係があるはずです。そこで、輝子先生は次のように、書かれています-- 
 
「私たちは、家庭に於いて時々写真を撮って貰うことがある。不断着のままで、室内で撮ったり、庭で撮ったり、親を中心に撮ったり、子供たちを中心に撮ったり、いろいろな撮り方をして貰うことがある。いちいち窮屈に親を中心とばかり考えていては、有りのままの面白い写真は撮れないものである。 
 三月号に載った写真は、元旦に於ける、紋服と云う正装をしたものであった。不断着でふざけている姿ではないのであった。正装をした場合は、秩序に従って整然と列び、紋服にふさわしく、子供と雖も、礼儀正しく立っているのである。凡(すべ)て、その時に、その場に相応しくあるのが正しい在り方なのである。」(p.89) 
 
 このような輝子先生のお考えを知ってみると、私たちは生長の家が人・時・処のそれぞれに適応した柔軟で、自由な考えの中で進展してきたということが分かるのであります。それは、「勝手気まま」というのではなく、さりとて原理原則を貫いて「型にはめる」のでもない。社会の公的、正式な場ではきちんと秩序を重んじながらも、それ以外では、構成員それぞれの個性と時と場所に合った生き方を薦め、応援する。そのように「規律と愛」「秩序と自由」が共存するような関係が、輝子先生がおっしゃる「正しい在り方」なのであり、それが私たち生長の家の目標とするものでもある、と思うのであります。 
 
 私たちが進めている光明化運動も、白・相・青という三つの組織が大きな枠組みや秩序として続いていて、その組織内には役職者と一般会員など、どちらかというと階層的な役割分担があります。しかしそれだけでは、「型にはまった」固定的で、つまらない運動になる恐れがあります。そこで最近では、三つの組織に囚れない、組織協働的、組織横断的な活動--例えば「自然の恵みフェスタ」や、会員個人の趣味や特技や個性を生かし、従来の組織の制約を超えた「プロジェクト型組織」などが推進されているのであります。 
 
 もし皆さんの中に、こんなカタカナの名前のものは谷口雅春先生や輝子先生の時代にはなかったから、“余計な運動”だと考えられている人がいたならば、どうかそうではないことを理解し、そのことをお伝えしていただきたい。生長の家は、ゴリゴリの上意下達の軍隊のような組織ではありません。有機的な運動としての秩序を重んじますが、その運動を展開する人々の間には、血の通った家族同士のような、愛と知恵と命に溢れた温かい関係がなければなりません。谷口輝子先生は、そういう“愛のある秩序”を希求された人であることをこの機会にぜひ確認されて、これからの運動を先生の御心に沿う形で喜びをもって伸び伸びと展開してまいりたいと念願いたします。 
 
 これをもちまして「谷口輝子聖姉二十九年祭」に当たっての所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2017年3月11日 (土)

自然界に“与え返す”生き方

 今日は午前10時から、山梨県北杜市にある生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールで「神・自然・人間の大調和祈念祭」が厳かに行われた。会場には、主としてオフィス勤務の職員が集まったが、御祭の様子はインターネットを通じて国内外に中継され、前もって通知されていた全国の教化部や海外伝道本部等でも、多くの信徒が同祭典には間接的に参列した。 
 
 私は「四無量心を行ずる神想観」の先導をさせていただき、御祭の最後に概略、以下のような所感を述べた-- 
 
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 皆さま、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」に参列いただき、ありがとうございます。 
 
  今日は「東日本大震災」と呼ばれるようになった大地震が起こって、ちょうど6年がたった日です。私はその時、東京・原宿にあった生長の家本部にいて、確定申告の締め切り日が近かったものですから、税理士さんと打ち合わせをしていました。私の執務室は細長い6階建ての建物の最上階にあったので、東京は「震度5強」ですから、相当揺れたのであります。危険を感じた私は、まずデスクの下に潜り込みましたが、余震が続くので、階段を使って降り結局、建物の外へ避難しました。 
 
  皆さんもきっと、あの日のそれぞれの体験を、まだ生々しく記憶されていることと思います。私の記憶は、先ほど述べたような個人的なものにとどまりません。ご存じのように、白鳩会総裁が朗読された「自然と人間との大調和を観ずる祈り」は、大地震の6日後の「3月17日」のブログに発表したものです。だから一種“公的”にも、私はあの祈りの言葉を読むたびに、5年間ずっと、そして今でも震災のことを思い出します。特にその中の-- 
 
 「人間よもっと謙虚であれ」
 「自然の一部であることを自覚せよ」
 「自然と一体の自己を回復せよ」 
 
 という言葉が、心の中に染み入るのであります。 
 
 また、今日、地球の温暖化とともに世界中で気候変動が益々深刻化していますが、そういう災害や被害を見聞するたびに、この祈りにある次の言葉が思い出されるのであります-- 
 「人間が自然を敵視すれば、その迷い心の反映として、自然の側から“敵”として扱われるような事態が現れてくるのである。」 
 
 私たち人類は、自然界を「全体」として受け入れるのではなく、「一部」だけを取り出してそれを偏愛し、他の部分を嫌って遠ざけたり破壊することによって、現代文明を築き上げてきました。だから今、洪水や旱魃、暴風雨の襲来などを頻繁に伴う気候変動に直面している。そのことを、この祈りの言葉は指摘しているのです。 
 
 その一方で、私たちは「自然界に甘える」--という心理ももち続けてきました。これは「自然からどんなに奪っても、自然は黙って与え続けてくれるだろう」という自分勝手で、甘ったれた子供のような考え方であり感情です。私たちの中には、自然界を擬人化して、無限に与え続ける“お母さん”だと考える傾向があります。だから、「母なる自然」という言葉があり、英語にも「Mother Nature」という言い方があります。しかし、それはずいぶん人間本位の、人間至上主義的なご都合主義の裏返しです。私たちは自然から奪うことで一時的に“幸福”を感じることがあっても、その幸福は決して長続きせず、かえって心の寂しさを増幅することになる。奪うのではなく、自然に与え、自然を育てることで、もっと永続性と広がりのある幸福感が、人間には生まれるし、人間は魂的にも成長し、深い満足感を得ることができる。このことは、ペットを飼ったり、作物を育てたり、森の手入れをしている人にはよく分かるでしょう。 
 
 子供は小さいときは、母から与えられることを当然に思い、母に要求し、母から奪いながら成長します。しかし、成人して人生経験を重ねるにつれて、親の立場を理解するようになりますから、母をいたわり、母を護り、母に与え返すことで、より深い満足を得、人間的に成長します。これは個人の人生の一般的姿です。人類全体と自然界との関係も、これと同じように「ギブ・アンド・テイク」あるいは「テイク・アンド・ギブ」とも表現できるような、双方向的な“与える”動きがなければならないと、私は考えます。自然から奪うだけではなく、与えることができて、初めて人類は進歩したと言えるでしょう。ところが、産業革命以来の人類全体の生き方は、自然から単に奪うだけでしたから、まだ“子ども”と変わらない状態です。しかし、これからは自然破壊は人類破壊につながりますから、自然に対して“与える”こと“与え返す”ことで喜びを感じるような人々が、もっともっと増えていかねばなりません。 
 
 私は最近、『おおきな木』という絵本と出会いました。いや、もっと正確に言うと、出会ってからは4~5年たっているのですが、きちんと本を開いて中身をしっかりと読んだのは最近だということです。この本は、アメリカのシェル・シルヴァスタインという絵本作家の作品で、1964年に出版されて以来、今日まで38カ国で900万部を超える数が売られているロングセラーですから、皆さんの中にも読んだ方はいると思います。日本語版は現在、作家の村上春樹さんの訳で「あすなろ書房」から出ています。実は、この本のことは、谷口純子・白鳩会総裁が2013年10月号の『日時計24』に掲載された「“ただ与える”こと」というエッセイの中で紹介しているのです。 
 
 このたび彼女の著書が『この星で生きる』という題名で出ることになり、そこにこのエッセイが収録されているので、その文章を引用しながら絵本の内容を紹介しましょう-- 
 
「ある所にリンゴの木があった。その木は小さな少年を愛した。少年も木が好きで、毎日木のところに来て、葉っぱを拾ったり、木に登って遊んだり、リンゴを食べたりした。やがて少年は成長して、あまり遊びに来なくなり、木は寂しくなった。そんなある日、少年はまた木のところにやってきたが、自分は大きくなりすぎてもう木では遊べないと言う。それよりお金がおしい、と木にねだる。木は自分はお金は持っていないが、自分の枝に実ったリンゴを売ればいいという。そこで少年は、リンゴを抱えて帰っていく。木は、その後ろ姿を見て幸せを感じる。 
 何年もたち、少年は成長し、ある日またリンゴの木を訪れる。そして、“家がほしい”と木に頼む。木は自分の枝を切って家を作ればいいという。少年はリンゴの枝を伐って家を建てる。少年の役に立って、リンゴの木は幸せだった。 
 さらに何年もたち、少年は中年になって木のところへやってくる。そして、“遠くへ行くためにボートがほしい”と木にねだる。木は自分を切り倒してボートを作ればいいという。リンゴの木は倒され、切り株だけが残る。 
 やがて、さらに何年もたった後に、年老いた少年がやってくる。彼はもう何もほしがらないが、疲れたので休みたいという。そこで木は、切り株になった自分に座って休めばいいと言い、少年はそれに従い、木は幸せを感じる。」 
 
 --まあ、ストーリーはこう展開します。この物語と絵から生まれる解釈には、いろいろのものがあるでしょう。その1つは、リンゴの木は、少年から愛されること以外は何も求めず、ただ自分の命を与え続けていくという“無償の愛”を象徴しているという解釈です。しかし私は、ここにある「リンゴの木」を「自然界の代表」と捉え、「少年」を「人間の代表」として見る解釈もできると思いました。すると、次のようなストーリーを物語に重ねることができます-- 
 
 人間は昔、自然と共に生き、自然界の恩恵をふんだんにもらって生きていたが、時代の流れとともに、行動範囲が拡大し、自然との触れ合いが減り、さらには自然が犠牲になることを顧みず、自分勝手な要求をして自然を傷めつけながら、家を建て、船を作り、そして自然の生命力を極端に小さなものにしてしまった。しかし、「自然の懐で休みたい」という生来の感情を否定できず、自然のもとにもどってくるのだが、その時には、すでに人間は老いて生命力も衰え、自然も人間の生命を回復させるのに必要な力を失っている-- 
 
 これは、現代の人類が直面することになる、あるいはすでに一部で直面している地球上の出来事ではないでしょうか。このような解釈をすると、『おおきな木』という絵本は、痛烈な文明批判と予言とを内包した作品だと見ることができます。 
 
 では、私たちは、人類と自然界とをこのような悲惨で寂しい状態に陥らせないために、何をしたらいいのでしょうか? その答えは、この絵本が意識的に省略していること--つまり、作者シルヴァスタインが、この物語を寂しく悲しい結末に結びつけるために、敢えて描かなかったことはないか、を考えてみればいいでしょう。私たちは、オフィスを“森の中”に移転し、毎日、自然界と密接な関係のもとに業務を進めていますから、自然と人間との関係で、この絵本から抜け落ちていることを見つけることは、簡単にできると思います。それは何でしょうか? 
 
 それはすでに、私が述べたことの中に含まれます。人間は“母なる自然”から奪うだけでなく、与えることができるし、そうすべきであると申し上げました。その点を考えてみてください。私たちは、リンゴの実から種をとって殖やすことができます。また、リンゴの木に栄養を与えることができます。これは化学肥料である必要はまったくない。森を育てて土を豊かにし、生物多様性を拡大して、自然界全体の生命力を向上させることで、土は豊かになります。このような自然界に与え返すことを、私たちはオフィスと周辺の森の中で「自然を伸ばす活動」として実践してきました。これは、自然と人間との「ギブ・アンド・テイク」を実践することですから、「テイク」ばかりを進めてきた“旧い文明”とは異なる“新しい文明”に向かう先進的な活動と言えるのです。別の言い方をすれば、私たちは自然に“甘えて”ばかりいた生き方を改めて、自然に“与え返す”生き方を進めていくのです。 
 
 私たち生長の家は、今後さらに、この生き方を3つの“プロジェクト型組織”を通して全国に、さらには全世界に展開していく途上にあります。皆さんのご理解と、温かいご協力、そして斬新で、積極的なアイディアをいただきながら、この運動をぜひ、大成功に導きたいと心から念願するしだいです。それが、東日本大震災とそれに伴う津波によって霊界に旅立たれた多くの人々に対する、私たちの心からの追悼とご恩返しの表現だと信ずるのであります。 
 
 それではこれをもって、「神・自然・人間の大調和祈念祭」での所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2017年1月16日 (月)

凡庸の唄 (7)

 凡庸はときどき考える――
 先を目指し
 縦方向へ上ることに
 しのぎを削る人たちが、
 もっと周囲に気を配り、
 横方向に意識をひろげ、
 競争するのではなく、
 協働することに
 喜びを見出す生き方に
 転じてくれる日のことを。
 人より秀でることは
 確かに素晴らしい。
 記録を塗り変えることは
 称讃に値する。
 優秀な作品や商品や
 サービスを創造することは、
 人間社会への大なる貢献だ。
 しかし、人間社会は
 地球のごく一部だ。
 そのために森林の破壊に目を閉じ、
 生物種や資源が減っていくのを顧みず、
 地球全体を暖める原因をつくることは、
 人間社会を超えて横方向に拡がる
 広大な生物共存の世界を壊すことだ。
 天と地と人との
 仕合わせを否定することだ。
 凡庸は思う――
 それはきっと彼らの本心ではないと。
 先を見て急ぎすぎるために、
 彼らの視野が狭まり
 周囲の豊かな世界、
 豊潤で知恵に溢れた地球世界を
 味わい楽しむ余裕がない。
 もっと凡庸であれば、
 心が開き拡大して
 世界に滲(にじ)み出ていくから、
 彼らだって
 人・物・事の結びつきが
 自分の幸せだと合点する。
 地球世界から分離しない
 本来の自分が感じられるに違いない。
 優秀と凡庸は
 本当は異質ではない。
 見ている方向が違うだけだ。
 優秀な彼らに
 凡庸の視点を与えよ。
 凡庸な我らに
 秀逸なる彼らの業績を与えよ。
 秀逸な才能の開花、
 秀逸な業績の実現は、
 実は
 凡庸の希望でもある。
 だから、大勢の凡庸は
 静かに彼らに協力し、
 応援している。
 凡庸は秀逸の母でありたいと願う。
 凡庸は秀逸を、
 人間社会だけでなく、
 地球世界の誇りにまで飛翔させたいと願う。
                        (了)
                   谷口 雅宣

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2017年1月14日 (土)

凡庸の唄 (6)

 凡庸と敗北主義を
 混同してはいけない。
 敗北主義は“及び腰”の生き方だ。
 自信がなく
 勇気がなく
 屈従が
 密かな慣(ならい)となっている。
 それでいて、
 自分の殻に閉じこもり、
 他人を信じず
 白眼(はくがん)で見る精神から離れられない。
 凡庸はしかし、
 自分の殻をもたないのだ。
 たといもっていても、
 それを破る生き方が
 正しいことを知っている。
 凡庸は“粘り腰”の生き方だ。
 他人の主張を
 壁のようにはねつけるのではなく、
 扉を開けて受け入れ、
 理解しようとする。
 自分が彼だったら、
 何が本当に言いたいのか、
 心を澄まして感じ取り、
 自分の言葉に翻訳する。
 それが心に染み込んでいくのを
 時間をかけて快く感じる。
 こうなれば、
 自分と他人との壁は消える。
 否、
 本当は壁などないことに
 気がつくのだ。
 自分は他人であり、
 他人は自分の代弁者だ。
 自分の本心を
 他人の声の中に聴き、
 他人の声を
 自分の中に聴くことができる。
 これが、
 本当の“粘り腰”だ。
 他人はいないから、
 もう他人に小突かれ、
 押し出されることもない。

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2017年1月13日 (金)

凡庸の唄 (5)

 凡庸は、
 こんな機械の専制支配を
 笑いながら拒否するのだ。
 なぜ笑う――
 凡庸は機械の力を知っているのだ。
 機械に任せば
 仕事の効率は格段に向上する。
 出来栄えも一見、
 美しく
 正確で
 均整がとれている。
 規格通りの品が
 大量に、短時間で完成する。
 単価が下がり
 数多く売れるに違いない。
 が、しかし
 規格品は
 ボタンを押せば誰でも作れる。
 人が作るのではなく、
 機械が作るからだ。
 人間は、
 人間であることをやめ、
 ボタンを押すだけの機械になる。
 製作の技術が不要になるから、
 世界と人間との
 接点が希薄になる。
 世界に直接触れ、
 傷つけ疵(きず)ついているという
 切実な実感が失われる。
 ある物の製作が楽になっても
 別の物の製作ができず、
 応用がきかず、
 視野が狭くなる。
 それは、
 スペシャリゼーションと同じだ。
 
                      谷口 雅宣

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2017年1月12日 (木)

凡庸の唄 (4)

 凡庸の好きな言葉――
 下手の横好き。
 何事にも興味をもって当たること。
 関心を横に拡げることで
 世界の広さ、
 物事の豊かさ、
 人々の多様性、
 社会の許容量が実感できる。
 縦方向にだけ進んでいては、
 孤高の山は見えても
 牛馬が草食む草原、
 銀鱗ひらめく緑の湖(うみ)を
 見ることはできない。
 高山植物の名前を覚えられても、
 平地や森を彩る
 他の無数の植物について、
 花に来る虫たちについて、
 人に聞かねば分からない。
 分からなければ、
 彼らの助けを得られず、
 生きていけない。
 凡庸は
 雑学者であることを少しも恥じない。
 雑学は無知よりも数段優れている。
 スペシャリゼーションが
 もてはやされた時、
 凡庸はその道を断(ことわ)った。
 「下手の横好き」ができないからだ。
 白亜の城に囚われること――
 凡庸が最も嫌ったことだ。
 スペシャリゼーションの階段を昇っていくと、
 専門外が見えなくなる。
 専門外の知識を
 他に頼らねばならなくなる。
 知識だけでなく、
 技術も他人任せになる。
 技術が機械に移行した現代(いまのよ)では、
 機械に頼って生きなければならない。
 機械の指示に耳を傾け、
 目を皿にしてパネルを見つめ、
 マニュアルを片手に
 オロオロしながらボタンを押す。
 押し間違えて頭を抱える。
 いったいこれが人間の進歩か、
 文明の発展か。
                      谷口 雅宣

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2017年1月11日 (水)

凡庸の唄 (3)

 凡庸は今、
 白昼夢を見ているのではない。
 心が開かれれば
 人は皆、
 自分の周囲を理解し、
 慈しむ能力をもっている。
 それなのに
 先を急ぐ人は、
 「先」しか見ないと心に決め、
 目的をしぼって心を閉ざす。
 でも、よく考えてほしい。
 「先」しか見ないということは、
 何も見ないことではないか。
 Aの地点にせっかく来ても、
 彼はその先
 Bのことを考える。
 Bに到達すれば、
 彼はCの様子が気になり、
 電話して担当者を呼び出す。
 担当者に仕事を頼んだあとは、
 今いるBを楽しめばいい。
 しかし周囲の喧噪は、
 道を急ぐ人々の流れは、
 客引きの呼び声、
 パチンコ玉の跳ね散る音は、
 彼の心を急き立てる――
 今もっと何かすべきではないか。
 自分にし残したことはないか。
 彼の心は
 目の前にあるのと別のことを探している、
 考えている。
 そっちの方が
 価値あることだと信じている。
 そんな彼こそ
 白昼夢を見ているのだ。
                                  谷口 雅宣

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2017年1月10日 (火)

凡庸の唄 (2)

 凡庸であることを
 「恥」と思ってはいけない。
 凡庸は人生の達人である。
 一芸に長ずることで失われる
 時間と
 視野の広さと
 細かい気配りを
 自分のものとすることができる。
 凡庸は時間を大切にする。
 何かをするための時間ではない。
 そこに在るがままの時を味わう。
 通勤途上に仕事などしない。
 Aの駅ではAを味わい、
 Bのバス停では
 広告のデザインを楽しみ、
 学び、
 Cの町角では
 路傍の花に留まる虫に語りかける。
 おい、
 そんな小さな花でも
 お前の好みの色香を放つのか?
 凡庸は、
 ミツバチの視覚を自分のものとし、
 モンシロチョウになって
 民家の屋根より
 ずっと、ずっと高くへ昇り、
 トンボの複眼をもつ自分を想像する。
 空に上れば
 視野は広がり、
 自分が世界の一部だと感じる。
 その世界とは、
 ニュース報道が教える
 暴力と混沌の世界ではない。
 生きものがつながり合った
 自由で軽ろやかな
 地球大の紐帯(むすびつき)の世界だ。
 それぞれが主人公でありながら、
 それぞれが他者を支えている。
                               谷口 雅宣

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2017年1月 9日 (月)

凡庸の唄 (1)

 凡庸を馬鹿にするな。
 凡庸こそ
 時代の寵児だ。
 凡庸は威張らない。
 凡庸は欲張らない。
 凡庸は他を蹴落として
 世に先んじようと思わない。
 なぜなら凡庸は
 自分の技量と
 器量を心得ているからだ。
 凡庸は諦めているのではない。
 凡庸は知っているのだ。
 世の中には、
 他より先へ行くことよりも
 大切なことはいくらでもあると。
 他と競うよりも
 別の楽しみはいくらでもあると。
 競争者は
 目標とライバル周辺のことしか
 目に入らない。
 競争者の見る世界は
 味方と敵に二分される。
 争う心は他を傷つけ
 自分を不快にする。
 しかし凡庸なる人は、
 先を見て争うのではなく、
 周りを見て楽しむ。
 新幹線に乗っていては
 駅の名前さえ分からない。
 黄金色の稔りの秋は
 単一の黄色の帯だ。
 普通列車に乗ってみると、
 駅名だけでなく
 看板の古さ、
 新しさがよく分かる。
 名産品の広告が読める。
 駅員の声が聞こえ、
 ああ
 父と同じ年頃だと分かる。
 途中下車して田圃道を歩けば、
 今年の稔りの様子が分かる。
 垂れた稲穂を持ち上げれば、
 ああこのおかげで
 自分は今日まで生きてきたと
 天と地と人との仕合わせに納得する。
 そう、
 幸せとは
 人・物・事のめぐり合わせに
 価値を見出すこと。
 見出すだけでなく、
 しっかりと味わうこと、
 触れること、
 皆仲間じゃないかと慈しむこと。
 せっかく旅に出ているのに、
 出立地と目的地しか味わえないのでは、
 本当に生きているとは言えない。
 凡庸は、
 そのことを知っている。
               谷口 雅宣

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2017年1月 1日 (日)

“新しい文明”の基礎づくりを始めよう

  全世界の生長の家信徒の皆さん、新年おめでとうございます。
 
 この新しい年を、皆さんと共につつがなく迎えることができたことを神様に心から感謝申し上げます。ありがとうございます。 
 
 本年は「“新しい文明”の基礎を作るための3カ年計画」がスタートする年です。“新しい文明”とは、人間の幸福と自然界の発展とが両立するような生き方であり、そんな生き方を支え、拡大する力となる信仰、哲学、科学技術、政治、経済の全体をいいます。私たちはそれを今後、ゼロから作り上げるのではありません。人類は何千年もの歩みの中で、すでにそれに該当する業績を世界各地で数多く生み出してきました。しかし、それらの業績は、今私たちの目の前にある人間本位の価値観を基礎とする“旧い文明”では取り入れられず、一部取り入れられたとしても、経済発展優先の政治により、脇に追いやられてきたのでした。私たちはそれらを繋ぎ合わせ、補強し、血を通わせて体系化し、できるところから実行に移すことによって、“新しい文明”の基礎を整えようと考えています。 
 
 そのための活動として、3つの実践項目を提案しています。1つは「ノーミート、低炭素の食生活」、2つ目は「省資源、低炭素の生活法」、そして3つ目は「自然重視、低炭素の表現活動」です。この3つは、私たちの運動の中で、すでに昨年から各地で実践され始めていますが、これらをもっと積極的、大々的に、そして私たち信仰者の「倫理的な生き方」の証として、喜びをもって展開していくことを通して、周囲の人々に生長の家の御教えを確実に伝えていきたいと念願しています。 
 
 昨年、2016年の世界で特徴的だったのは、ポピュリズムの台頭でした。日本だけでなく、ヨーロッパでも、アメリカでも、これまでの政治・経済の仕組みを否定する一方で、適切な方策を伴わない大きな変化が起こっています。この動きはしかし、過剰なグローバリゼーションの弊害を教えてくれるのですが、反面、危険な方向を示しています。エリート支配でなく大衆支配を、グローバリズムでなくナショナリズムを、自由貿易ではなく自国の産業擁護を、移民の受け入れではなく移民排斥を、軍縮でなく軍備拡大を、この動きは提案しているのです。これらは、社会の急激な変化に反対する大勢の人々の“叫び”であることは否定できません。しかし、この“叫び”をそのまま実行すれば、各国が互いに利害を主張し合う“対立の世界”に移行することは明らかです。 
 
 私は、この叫びは社会の「不平等感の拡大」が大きな原因の一つだと考えます。ある社会において、少数のエリートだけが利益を享受する一方で、大多数の構成員が社会の恩恵を受けられず、心理的にも取り残された状態にある場合、そういう社会に貢献する意欲が失われてしまうのは当然です。そんな人々の目には、民主主義の理想は“美しい飾り”にしか見えません。だから、それらの価値に反逆して、極端な主張を唱え、極端な行動を起こす人たちも出てくるのです。 
 
 これを宗教的に言い直すと、現在の社会には、神の御徳である「知恵」「愛」「命」の表現が、極端に偏っているということです。だから、私たちはもっと強力に、社会の全面に神の御心を表す活動を、積極的に展開していかねばなりません。そのためには、自然界をこれ以上破壊するのをやめなければなりません。神の御心は、自然界に充満していることを忘れてはなりません。自然から奪うことが富の実現だと考える“旧い文明”に別れを告げましょう。そして、自然を養うことにより人間の幸福を実現する“新しい文明”を構築しましょう。それが、この地球社会を“対立の世界”へ転落させるのを防ぎ、平和の道へ引きもどす唯一の方法です。 
 
 それでは皆さん、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
 谷口 雅宣

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