生物学

2015年3月25日 (水)

結び合うこと (3)

「ムスビ」のゲームで使う牌は、28枚である。これは、7種類の生物をペアにした時の可能な組み合わせすべてで、計算式で表すと(7×7-21=28)となる。「-21」とするのは、「人」と「花」の組み合わせには(人,花)(花,人)の2種が考えられるが、両者は同じものと見なせるからだ。ゲームでは、これらのうち2~4人のプレイヤーに手札として6枚を配り、残りは場に山札として伏せて置く。そして、プレイヤーは時計回りに、自分の手札から、場に置かれた牌の絵柄と“ムスビ合う”絵柄の牌を探して、場に並べていく。該当する絵柄を描いた牌を持ってない場合は、山札から1枚引いて手札とする。こうして順々に牌を場に置いていき、自分の手札がなくなれば上がりである。
 
Musubigrid  これだけ書くと簡単そうだが、問題は「ムスビ合う絵柄とは、何と何か?」を憶えることだ。それをここに一覧表としてまとめてみた。この表に書かれたことは、専門の生物学者から見れば異論があるかもしれない。しかし、これはあくまでもゲームだから、「直観的で憶えやすい」という点を優先した。生物種の数は気が遠くなるほど多く、それぞれの生態を一般人が詳しく知ることはできず、ましてや憶えられない。その点は御了承願いたい。
 
 表の上方から簡単に説明する--まず「人」と他の生物とのムスビ合いだが、これは「すべてと結び合うことができる」と考えた。簡単に言えば、人間はここにある7種の生物のどれもを鑑賞し、また食用にしているからだ。「虫」とは昆虫のことだが、これが「花」を好きであり、「魚」や「亀」「鳥」のエサになることは、ご存じの通りだ。「菌」とはキノコのことである。「茸」は俗字だというので、あえて使わなかった。「花」との関係では「鳥」が蜜を吸いに来るのはよく知られているが、キノコとは関係ないように感じる。が、ここでは「樹木にも花が咲く」ことを思い出してほしい。キノコは「木の子」だから当然、樹木と結び合っている。「魚」は「鳥」に食べられるし、「亀」も小魚を食う。「亀」と「鳥」とは無関係のように感じられるが、カミツキガメは水鳥のヒナを捕食し、小亀(幼体)は猛禽類の餌食になる。
 
 同種の生物は互いに結び合わないのかというと、もちろん結び合う。が、このゲームは、ドミノ・ゲームの原理を“逆用”するところにポイントがあるから、ルールとして「同種の結びつき」を禁じ、「他種との結びつき」だけを可とすることにした。
 次に、ゲームのやり方を説明しよう--
 
 まず、すべての牌を伏せて、麻雀牌と同様にかきまぜる。これを山札とし、各プレイヤーは決められた枚数(今回は6枚)を山から取って手札とする。手札は他のプレイヤーから見えないように立てて置く。ジャンケンで最初に牌を置くプレイヤーを決め、時計回りに場に置かれた牌の、置かれた側に自分の牌をつなげていく。出す牌は、普通つなげる牌と同じMusubi_1463 向きに置くが、テーブルに余裕がなければ、90°向きを変えて置いてもいい。また、(花,花)のようなダブル牌(“ゾロ目”の牌)を置くときは、並んだ列に直交するように置く。ダブル牌にシングル牌(ゾロ目でない牌)をつなぐときには、ダブル牌の側面につなげる。
 
 プレイヤーの手札がなくなるか、誰も牌を出せなくなったら、ゲームは終了する。私が、秘書室の3人とプレーしたときの最終図を、ここに掲げる。
 
 谷口 雅宣

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2015年3月23日 (月)

結び合うこと (2)

 前回の本欄では、「ムスビ」という考え方の背後にある「隠された関係性」について書いた。これは哲学的考察のテーマになる命題ではあるが、今はこれ以上深く追求しない。なぜなら今回、表題のテーマを選んだ目的は、もっと気軽で、楽しいものだからだ。実は、私は今、ゲームを作ろうと考えている。何年か前にも、postingjoy上で有志を募ってゲームを作ろうとしたが、うまくいかなかった。だから、今回は成功させたいと願っている。ゲームを作る目的は、「ムスビ」という考え方を広く社会に浸透させたいからだ。今日の社会には、イジメを初め、孤立、離反、分離、遊離、対立、隔絶……などの「ムスビ」とは逆方向の現象が広がっているように見える。そんな時、世界の本当の姿はそんなものではないというメッセージを、気むずかしい顔で発するのではなく、気軽に、楽しく、笑いながら拡大していく方法はないものかと思案していたとき、「ゲームを作る」という発想が浮かんだのである。
 読者は、「ドミノ」というゲームをご存じだろうか? サイコロの目のような数が1組2枚で刻まれている長方形の牌が、ドミノ牌だ。それを数多く長々と床の上に立てて並べ、倒して遊ぶのが「ドミノ倒し」である。これは昔、私が少年の頃に、テレビでやっていて面白かったのを憶えている。自宅でもマネをしてやったかもしれない。実は、ドミノ牌を使ったゲームは「ドミノ倒し」だけではなく、麻雀や、トランプにも似た、もっと頭を使う種類のものがいくつもある。私は、そのドミノ・ゲームの原則を見て、「これはゲームに使える!」と思ったのである。ただし、その原則をありのまま使うのではなく、逆立ちさせて使う。そうすれば、「ムスビ」の考えをゲームに表現できると思ったのだ。
Domino00  ドミノ・ゲームの原則は、牌に刻まれたサイコロの目の、同じ数同士をつなげていく。その例をここに掲げるが、この図の左側には、サイコロの目の「1」と「4」がつながった牌--以下(1, 4)と表記する--と、サイコロ目の「4」と「3」がつながった牌--以下(4, 3)と表記--がある。その場合、2つの牌に共通した数「4」があるので、この2牌は連結することができる。連結した様子を、図の右側に描いた。連結の仕方は、右に90°回転しているが、これは0°でもよく、-90°でもいい。状況によって変化する。この角度は重要ではなく、ポイントは「共通した数があれば、牌と牌をつなげていける」という考え方である。これは、言い換えれば「同類がつながる」という考え方であり、とても分かりやすい。しかし、「ムスビ」の考え方はむしろ逆である。
 男女間のムスビは「補足の原理」で成り立つと言われることもあり、生物学的な側面でも、男女は異質なものの結合であることは明らかだ。もちろん「夫婦は似た者同士」という言葉もあるから、まったく異質な2人は結ばれないだろう。が逆に、まったく同質の2人が結ばれることは決してない。そもそもそんな2人は、結ばれる意味があまりないからだ。この観点を生物間のムスビに拡大して考えると、昆虫と植物、木とキノコ、果樹と鳥、人間と大腸菌……など、自然界には異質のもの同士の結合が当たり前に存在する。そして、そういう結合の網によって、全体的に安定した生態系が形成されているのである。だから、ドミノ・ゲームの原則を逆転して、「違うもの同士の結合」をルールにすれば、自然の事象を材料にしてムスビの考え方を理解し、楽しむゲームが作れるかもしれない。
 私はこう考えて、ドミノ・ゲームでは「ダブル・シックス」と呼ばれる28枚1組の牌を考えてみた。ドミノの場合、この28枚の牌は、0~6の数で可能な目の組合せすべてである。それを、私の「ムスビ」のゲームでは、数ではなく、7種の生物の組み合わせに置き換えた。それらは、「人」「虫」「花」「魚」「亀」「菌」「鳥」の7種である。
 谷口 雅宣

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2015年3月 1日 (日)

「生命を礼拝する」とは?

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山で「立教86年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が開催され、ブラジル、アメリカ、台湾からの海外信徒代表者を初め、国内各教区から約800人の幹部・信徒が集まって、生長の家立教の精神を振り返り、今後の運動の進展を誓い合った。この式典は、昨年に続いてインターネットを利用して世界に中継されただけでなく、時差を利用した音声の外国語訳が試みられた。私は式典の中で概略、以下のような内容の挨拶を行った--
 
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 皆さん、本日は立教記念日おめでとうございます。この日は、生長の家の86回目の誕生日であります。人間の場合、「85歳」や「86歳」は“老人”かもしれませんが、団体や宗教運動の場合は、何千年も前に誕生したものもありますので、大変「若い」運動であり、まだ「草創期」と言っても間違いではないかもしれません。だから、今日のように、春の息吹を感じる日には、私たちも「さあ、これから運動は伸びるぞ!」という意気込みを感じるのではないでしょうか。
 
 86年前にこの運動を始められた谷口雅春先生と輝子先生も、きっとそんなお気持で昭和5年の春を迎えられたに違いないのであります。私はこの立教記念日には、毎年のように、昭和5年3月1日発行の『生長の家』誌創刊号をもってきて、その中に表れた立教の精神に学び、またその精神を現代にどう生かしていくべきかを皆さんに提案してきたのでありますが、今日もそれをしたいと考えます。 
 
 ここに『生長の家』誌創刊号がありますが、この雑誌の裏表紙には「生長の家の宣言」という6カ条の宣言文が掲げられています。これは、現在は『生命の實相』などの中で「七つの光明宣言」として書かれ、私たちの運動の目標とされているものの原型であります。当初は6カ条だったものが、後に7カ条になったということです。私は2年前のこの日には、この宣言文から「創化力」という言葉を引用して、その意味について述べましたが、今日は、この第1条にある「生命を礼拝する」ということについてお話したいのであります。 
 
 第1条には、こうあります-- 
 
「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」 
 
 これが、創刊号に掲載された第1条で、後に発行された『生命の實相』では、この最初の所に「宗派を超越し」という文言が挿入されています。つまり、こうなっています-- 
 
「吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」 
 
 生長の家は「万教帰一」でありますから、「宗派を超越する」ということは皆さんも大いに賛成されているだろうし、現在の世界情勢を見ると、まさにこの考え方が必要であることは疑う余地はありません。しかし、ではもう一つの「生命を礼拝する」とは、どんなことを言うのでしょうか?  
 
 昨今、日本のメディアで騒がれているのは、中学1年の男の子が、川崎市の多摩川の河川敷で酷い方法で殺されたという事件についてです。これは明らかに、「生命を礼拝」していない行為です。被害者の少年は13歳ですから、これからまだまだ成長し、いろいろな経験を積みながら人生を謳歌し、また社会にも貢献していける可能性をもった中学生の意志を蹂躙し、命を奪う行為は、明らかに「生命を礼拝しない」行為です。そのような行為が野放しになることは、許されないことです。では、人殺しさえしなければ、動植物を殺すのであれば「生命を礼拝」していると言えるのでしょうか? 私はそうは思いません。ここにある「生命」という言葉は、人間の命のことだけを指すのではないからです。もし、人間が生きるためだからといって、多くの生物種が絶滅し、あるいはウシやブタなどの家畜たちが、劣悪な環境で苦しみながら育てられ、そして大量に殺戮されていくならば、それは生命を蹂躙しているのですから、生長の家の信仰者は、そんな行為に加担するような生き方をしてはいけません。 
 
 今、私たちの運動が生物多様性を尊重し、肉食を減らそうとしている重要な理由の1つが、ここにあります。つまり、私たちの運動は、『生長の家』誌創刊号のこの宣言の第1条の精神に忠実に従い、それを世界的に展開していこうとしているのです。 
 
 ところで、生長の家の国際本部が東京・原宿から山梨県の八ヶ岳南麓に引っ越してから1年半がたちました。東京生まれ、東京育ちの私は、その間、これまでの人生で体験したことがないほど、自然との濃密な関係の中で生きることができて、この生活を選んだことを「本当に良かった」と感じています。これは皆さん、決して負け惜しみなんかじゃありません。もちろん、都会と比べて田舎は不便です。特に、私が住んでいる地域は、田んぼも、畑もありませんから、田舎というよりは「山の中」「森の中」です。畑に野菜や果物を植えれば、すぐにシカが来て食べてしまいます。雪が降れば、車の出入りもままならない所です。世の中の流行や、食べ歩きや、映画やゲームなどの娯楽からはずいぶん遠くなりました。でも、その代りに得た自然界との濃密な関係は、都会の生活では決してわからない重要な事実を教えてくれます。それは、「人間は自然の一部だ」ということです。だから、本当の意味で人間の命を大切にするためには、その基盤である自然を大切にしなければならないということです。 
 
 このことは、理論的には、私自身がこれまで繰り返して訴えてきたことですが、それはどちらかというと、頭による理解でした。ところが、“森の中”での生活を実際に経験して、私は「人間は自然の一部だ」と全身で感じることができるようになりました。具体的に説明しましょう-- 
 
Kamoshika  私は今、自宅からオフィスまでを徒歩で通っています。雪が降るまでは自転車通勤が可能でしたが、標高1200~1300メートルの土地に雪が降ると、道路が凍結します。ですから、徒歩に替えました。徒歩だと、オフィスまではほとんど上り坂ですから、雪の中を行くと約1時間かかり、帰りは下り坂が多いので40分ぐらいです。この往復の道で、ときどき野生動物に出会います。シカ、キツネ、タヌキ、キジなどですが、クマには会いたくないので、季節になると鈴を付けます。ついこの間(正確には2月24日の夕方ですが)、特別天然記念物に指定されている動物に出会いました。ニホンカモシカです。普通のシカは、人間と出会うとすぐに逃げてしまいますが、このカモシカはじっと立ち止まって私の方を見ています。そろそろと近づいていって写真を撮りましたが、5~6メートルの距離まで近づくと逃げていきました。その間、私とカモシカは見つめ合います。お互いの意図を探り、距離を測るのです。そういう直接の触れ合いの中で、私は「人間は自然の一部だ」と感じ、喜んでいる自分を発見するのです。 
 
 この話を、帰宅してから妻に話すと、彼女も「動物と出会うのは楽しい」と言います。人間は、野生の動物と出会うことに喜びを感じるということは、彼女もずっと感じていたことでした。その時、私は、ピューリッァー賞を受賞したアメリカの生物学者、エドワード・ウィルソン(Edward O. Wilson)の言葉を思い出しました。それは彼の本のタイトルにもなった「バイオフィリア」(biophilia)という言葉です。「バイオ」(bio)は生物、「フィリア」(philia)は愛するということです。彼の考えによると、人間にはその心の奥深いところに、自分の同類である人類はもちろん、人間以外の生物を愛する感情があるというのです。彼の言葉を引用しましょう-- 
 
「どんな生物であれ、生命なき物質のあらゆるバラエティをすべて合わせたよりも遥かに興味深いものだ。生命のない物質は、どれだけ組成の似た生体組織の代謝に役立つか、あるいは有用な生体物質へと変化させられるかによって、その主な価値が決まると言っても過言ではない。健全な精神をもった人間なら、生きている木よりも、そこから落ちた枯葉の山を好んだりはしないだろう。」 
 
「(…中略…)なかでも、ある種の生物は、精神の発達に特別な影響を与えるために、より多くのものをもたらしてくれる。他の生物と結びつきたいという欲求は、ある程度まで生得的であり、“生物愛好”(バイオフィリア)とでも呼ぶべきのだと私は考えている。この仮説の根拠は、科学的な意味で言えばそう確固たるものではない。(…中略…)だが、生物を好む傾向は、日常生活において明瞭なかたちで、しかも広く見られるものであり、真剣な考察を向けるに値する。それは、幼年期から、予測可能な幻想や個人的反応のなかに姿を現わし、やがて大部分もしくはすべての社会で繰り返し見られるパターン、人類学の文献のなかにしばしば見られる一貫性へと収斂されていく。」(pp. 138-139) 
 
 ウィルソン博士は、この本の別の所ではこう書いています-- 
 
「私がこの本で論じてきたのは、われわれ人間が人間たる所以は、かなりの部分まで、われわれと他の生物との特殊な結びつきにあるということだった。生物は、そこから人間の精神が生じ、また永遠に根を置きつづける基盤(マトリックス)であり、われわれが本能的に探し求めている自由や試練を提供してくれるものだ。ひとりひとりの人間がナチュラリストに近づけば近づくほど、かつての自由な世界の興奮を取り戻すことができる。これは、詩や神話を喚起する魔法の再現の公式だと言ってもいい。」(pp. 228-229) 
 
 この人の文章は、短い中に多くの意味を含んでいるので、少しわかりにくいのですが、結局、こういうことを言っているのだと思います--「人間には、本来的に他の生物と結びつきたいという欲求があるが、その感情の基盤は、われわれ人間が他の生物と“近い”という事実にある。人間の精神は、そういう他の生物との特殊な結びつきを基盤とし、そこから生まれているのだから、われわれが自然に近づけば近づくほど、人間本来の自由と喜びを得る機会を広げることができる」。 
 
 この考えをもう少し、宗教的に、生長の家で使われる言葉によって表現すれば、こういうことになるでしょう--「人間は“神の子”として、神が創造された他の生物すべてと本来、一体の関係にあるから、他の生物と結びつきたいという感情が湧き上がる。他の生物との“自他一体”の感情があるということが、私たち人間が人間である所以である」。このように言い換えてみると、ウイルソン博士が言っていることは、『生長の家』誌創刊号の「生長の家の宣言」の第一条と、ほとんど同じ意味になるのであります。それは、「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」ということです。 
 
 ですから、生命を礼拝するということは、人間はもちろん他の生物との“自他一体”の感情を尊重して生きるということです。それは肉食を避け、自然環境を破壊せず、他の生物との接触の場を多くもつということでもあります。こういう生き方にもっとも相応しい場所は、都会ではなく自然の中です。生長の家が今、国際本部を大都会から“森の中”へ移して運動を展開している理由が、ここにあります。皆さまも、人間本来の生き甲斐や幸福は他の生物との関係の中にある、つまり自然の中にあるということを忘れずに、都会に住む人も、田舎に住む人も、人間の命だけでなく、他の生物の生命も礼拝し、尊重する生き方を実践していただきたい。それが私たち人間の幸福の源泉であり、世界平和への道でもあるのです。 
 
 立教86年の記念日に当たり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣 
【参考文献】
○E.O.ウィルソン著/狩野秀之訳『バイオフィリア:人間と生物の絆』(ちくま学芸文庫、2008年)

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2013年12月17日 (火)

クマさんと出会ったら? (2)

 ところが、この歌のオリジナルである英語の歌詞は、日本語の訳詞とはずいぶん違う内容なのだ。英語の歌詞は何種類もあるようだが、そのいずれも、森の中でクマに遭遇することの恐ろしさを強調しているようだ。たぶんこの歌は、ボーイスカウトやガールスカウトのメンバーに、キャンプなどで野生のクマと遭うことの危険さを警告するためのものなのだ。
 
 代表的歌詞としてネット上に掲げられている英文は、こんなものだった--
 
  The other day, I met a bear,
  A great big bear, away up there.
  He looked at me, I looked at him,
  He sized up me, I sized up him.
  He says to me, "Why don't you run?"
  "Cause I can see, you have no gun."
  I say to him, "That's a good idea."
  "Now let's get going, get me out of here!"
  I began to run, away from there.
  But right behind me was that bear.
  ......
 
 これを拙訳をすれば、こんな感じだろうか--
 
 あの日、私はクマに会った。
 大きな大きなクマが、向こうの方にいた。
 彼は私を見、私は彼を見た。
 彼は私を見定め、私は彼を見定めた。
 彼が言う、
 「なぜあんたは逃げないの。
 銃を持ってないくせに?」
 私は彼に言った、
 「そうだね、ほんとに逃げようかな」
 「さあ、私をここから逃げさせて!」
 私は走り出した。その場から遠くへ行くために。
 でもクマは追ってきて、私のすぐ後ろにいるじゃない。
 
 日本語の童謡では「花咲く森の道」でクマに出会い、あわてて落とした「白い貝殻の小さなイヤリング」をクマに拾ってもらうのだが、そんな美しい光景や可愛いらしい出来事など、どこにもないのである。英語では、「クマを遠くに見ても、油断すれば大変な結果になるぞ」というメッセージが伝わってくるのである。まず第一に、クマの大きさが強調されている。次にクマは、人間を見定める。英語の「size up」という語は、「寸法を取る」という意味がある。動物同士が出会って戦うときは、相手のサイズがどうかが重要である。自分より大きいものからは逃げ、そうでないときは戦う。そういうギリギリの判断がここで行われたというニュアンスが、この語にはある。にもかかわらず、自分より小さい人間が逃げないので、クマは不思議がって訊くのである--
 
 「おまえ、銃を持ってないのになぜ逃げないんだ?」
 
 私の解釈では、英語のオリジナルでは、この語がこの歌のメインテーマだと思う。つまり、「森の中でクマを見たら、銃を持っていない場合は、遠くにいてもすぐ逃げろ!」ということだろう。
 
 私がなぜこの歌の日英両歌詞を比較したかというと、この“クマとの遭遇”の描写の中に、日本とアメリカの自然観の違いが表れていると感じたからだ。日本では、クマは「クマさん」であり、外見はちょっとこわくても、人間に好意を示す安全な存在である。これに対してアメリカでは、クマは銃をもって対峙する相手である。スキを見せれば、すぐに襲ってくる。馬場祥弘氏は訳詞を作るときに、英語のオリジナルに忠実な訳を書くこともできただろうが、それはきっと日本では面白くないということを直観したのだろう。英語のオリジナルは、スカウトたちが自然を甘く見ないようにという実利的な目的から作られた。が、日本では、それを採用しても評判はよくないだろうから、カワイく仕立てた。それが功を奏して、NHKの電波にも乗り、童謡としての地位を確立した。
 
 しかし、実際にクマと遭遇するリスクの中で生きる人間にとっては、歌の中のクマの人気など気にしていられない。クマの“本性”をきちんと把握することは死活問題でさえある。私は、今日も自転車でオフィスから帰る道すがら、自分はどちらのクマを相手にすべきかを考えていた。
 
 谷口 雅宣

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2013年12月16日 (月)

クマさんと出会ったら?

 12月に入ってまもなく、大泉町にツキノワグマが現れたとの情報が入った。山荘の管理を頼んでいる会社からのメールで、次のようなものだった--
 
 日時:12月3日午前
 場所:北杜市大泉町北部 甲川上流の西側の沢、砂防ダム近辺
   (標高1300m付近、八ヶ岳横断道南側)
 状況:冬眠中もしくは冬眠直前と思われる大型の熊(ツキノワグマ)
 
 その1週間後に、今度は職場の人間から、これとは別の情報にもとづき、地元の市立泉小学校が登下校する子供たちとその親たちに、注意を促す印刷物を配布したとの話を聞いた。インターネットを調べると、北杜市のサイトにクマの目撃地点が地図で示されていた。一箇所はロイヤルホテル南側の森。もう一箇所は井富橋付近だった。
 
 私は「まさか」と思った。井富橋とは、私が通勤時にいつも通る小さな橋だ。そこでクマが目撃されていたのであれば、妻と私はクマの生息地に住んでいることになる。このことは、しかし初耳とは言えなかった。実は昨年から、井富橋から数メートル先の舗装された山道の電柱に、「クマ注意」を知らせる北杜市の貼り紙が付けられていた。が、私たちは「それは昔のことだろう」とか「もっと遠くで見たのを、安全を考えてここに貼ったに違いない」などと解釈し、あまり真剣に考えなかった。それでも、この地に定住を始めた今秋からは、さすがに不安を感じて、一種の保険のつもりで二人とも1つずつ「クマ除け」の鈴を買っていた。そして、キノコ採りのために自宅の裏山へ入る時には、それを腰に下げたり下げなかったりしていたのである。
 
 北杜市のサイトを読むと、スキノワグマは例年、同市内の南アルプス山系や八ヶ岳山系などで6月下旬から11月下旬頃まで目撃されるという。生態としては、「主に植物性に偏った雑食性」だといい、植物以外にはアリやハチなどの昆虫類や動物の死体などを食べることもあるらしい。暖かい時期に活動し、冬眠前は「11月頃まで脂肪を蓄えるため行動範囲を広げる」とある。そして私たちが住む大泉町では、12月3日の午前7時半ごろ、西井出地内の井富橋付近で目撃された後、同9日には朝7時半ごろ、大泉ロイヤルホテルの南側付近で小学生が目撃したらしい。
 
 生長の家の環境共生部が大泉総合支所に問い合わせた話では、大泉町はクマの目撃情報が少ない地域で、この次期の目撃情報は初めてだという。
 
 このツキノワグマが「大型」だとの情報が気になったので、百科事典を調べてみると「ヒグマよりずっと小さく、体長130~160センチ、尾長8センチ前後、体重120キロ前後」とある。少し安心するが、野生動物は人間より体が小さくても力ははるかに強いものが多いから、油断は禁物だ。どんな性格かと読み進めると、「肉食性の傾向の強いヒグマに比べて、植物性の傾向が強いためかはるかにおとなしいが、突然の出会いなどによる人の被害がわずかながら毎年ある」と書いてある。
 
 私の脳裏には、軽快なリズムに乗って、ある歌が聞こえてきた--
 
「あるひ もりのなか
 くまさんに であった……」
 
 という、あの童謡である。
 
 『森のくまさん』と題されたこの歌は、アメリカでボーイスカウトやガールスカウトで歌われていたものを、馬場祥弘(よしひろ)氏の訳詞でダークダックスが歌い、1972年からNHKの『みんなのうた』で放送されたことで一躍有名になった。この日本語の訳詞では、女の子に森の中で会ったクマは、あわてて逃げるその子が落としたイヤリングを拾って届けてあげるなど、人間に好意を示す善意いっぱいの動物として描かれている。だから私はこの時、無意識にこの歌を思い出して、自分の中の不安を和らげようとしていたのかもしれない。
 
 谷口 雅宣
 

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2013年11月19日 (火)

自然界のムスビの働き

 このように、食事にはもともと宗教性があったのだが、神は自然界を通して「食材」ばかりを提供してくださるのではない。そもそも自然界とは、私たちの肉体も含めた地上のすべての存在のことを言うのである。だから、食事のときにだけ神・自然・人間の大調和のことを祈るのでは、まるで自然全体を人間の食欲を満たす「食材」として見ているようで、何ともバランスがとれていない。私たちの肉体が自然の一部であり、また肉体の生存を保証する適切な量の酸素や水や温度も自然の一部であり、私たちの五官の感覚そのものも、実は自然と不可分の関係の中で形成されてきたことを思えば、私たち人間の地上生活のすべては「自然の恩恵」と言えるのである。だから私たちは、朝目覚めてから夜眠りにつくまでの四六時中、「自然よありがとう」と感謝し、その自然を与えてくださった神に対しては、言い尽くせぬ謝意を表するのが当然と言えば当然なのである。
 
 しかし、悲しいかな、現代に生きる私たちはこの事実を意識する機会が少なすぎるのである。多くの人々が日常の私的関心事に忙殺されて、自分が常に大いなる神の御手に抱かれていることに気づかない。それはちょうど雲に乗った孫悟空が、大得意で自分の力を示そうとして飛び回るように、自己顕示の欲望に目を眩ませているのである。そして行きついた先で、まだ仏の掌中から一歩も出ていないことを知る。そんな愚を繰り返さないためにも、「自然即我」「我即自然」を自覚する行事が食事以外にあってもいい--否、食事以外にもあるべきだ、と私は考える。
 
 そういう意識をもって私たちの周囲を見渡すと、自然界のムスビの働きが注目されるのである。ムスビとは「縁結び」という言葉があるように、もともと離れていた存在が1つに結ばれることだ。「おむすび」と言えば、もともとバラバラだった飯粒が握り固められて一つになったものだ。「結びつき」というのは、2つ以上のものの関係を意味する。そこから「条約を結ぶ」「手を結ぶ」などの表現が生まれ、さらにそういう関係から生み出された結果を示す「実を結ぶ」「露を結ぶ」などの用法もできた。
 
 自然界は、このムスビの働きに満ちている。植物が「実を結ぶ」ことに触れたが、そのためには多くの場合、花の色や香りに誘われて昆虫が飛んできて、雄しべの花粉を雌しべに付けることが必要だ。これは動物と植物という異種の生物のムスビつきによるもので、これによって双方が繁栄する。花の蜜や花粉は昆虫の栄養源となり、花から実が結ぶと、その実が別の動物の栄養源となり、実を食した動物が種を遠方に運んで地に落とすことで、植物は子孫を殖やすことができる。これらの関係は、すべてムスビである。そして、これと似た異種間の共存共栄の関係は、生物界のいたる所に見られるのである。
 
Withbike1113131_4  私はこのたび、八ヶ岳南麓の大泉町に引っ越してきて秋を過ごしてみて、自然界は「与えること」で成り立ち、繁栄している、と強く感じた。「与える」ことができるのは「受ける」側がいるからで、この両者の関係がムスビである。私の家の周囲はカラマツ林が続いているが、今、その葉が大量に散り敷いて、地面を橙色に染めている。カラマツが落葉する前は、クリやコナラが落葉し、その前には実を大量に落とす。これらの実は、リスやヤマネなど森の小動物の餌となり、落ち葉は地上で腐って翌年の草木の栄養源となるだけでなく、昆虫やキノコたちの寝床となる。シカにもたびたび遭遇するが、彼らは農産物だけでなく、植物の芽や葉、木の皮まで食べるので“害獣”として扱われることもあるが、それは天敵がいなくなって数が増えすぎたからだ。適切な頭数が保たれていれば、彼らも自然の守り手である。山を歩けば彼らの排泄物をよく見かける。小指の頭ほどの大きさの球状の粒が、数十個固まって落ちている。これは立派な天然肥料だし、その中に植物の種があれば、彼らも鳥と同様に森の生物多様性を守ることになる。彼らの旺盛な食欲も、一面では森が繁りすぎるのを防ぐ役割を果たしているのである。
 
 これらのムスビの働きが自然界の特徴だとすれば、それと同じ働きが私たち人間の中にもあることをしっかりと思い起こすべきだろう。自分と他人とを鋭く切り分けて、自分の利益のみ追求するという生き方も、確かにある。しかし、そういう生き方は「人間らしくない」というのが、先人たちの教えである。宗教や倫理の基本は、ここにある。「対称性の論理」と「非対称性の論理」という言葉を使って、私はこのことをすでに述べた。私たちが今、盛りたてていくべきなのは前者なのだから、そのことを常に意識し、かつ生活に実践していくためには、自然界のムスビの働きを機会あるごとに思い起こし、それが生み出す豊かさに感謝し、それと同じ働きが自分の中にあることを実感する--「自然即我」「我即自然」を自覚することが必要なのである。
 
 谷口 雅宣

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2013年5月20日 (月)

奇蹟の果実

Japaneseplum  今年初めて、庭のスモモの木に実がついた。

 都内のDIY店で3年ほど前に買ってきた若木だった。スモモは、暑い盛りに水分の多い実を提供してくれるので、それにあやかりたいと考えたのだ。簡単に実ができると思っていたが、そうではなかった。当初は1.2メートルほどの高さだったのが、上にぐんぐん伸びてくれた。が、葉が茂ったころを見計らうように、カナブンが飛んできてムシャムシャと葉を食べるのだ。その数は20から30、あるいはそれ以上だ。近くにブルーベリーの木があって、カナブンはこれにも食らいつくが、スモモの葉の方が柔らかいからか、先に狙われる。そして、スモモを無残な姿にしてから、ブルーベリーへと移動する。
 
 私は最初、この緑色の甲虫に憎しみを感じて捕まえたりしていたが、殺虫剤は使わない主義だし、彼らとて食事をする権利は認めるべきだし、それに、人間が近づくと枝から落ちて必死に逃げ、手でつかむと力いっぱい抵抗する。そんな彼らをいじらしく感じて、見て見ぬふりをするようになった。こうして、1年目と2年目は、花ひとつつけない若木を見て過ぎた。ところが今年、まだ寒い頃に白い花がいくつも咲いているのを妻が見つけた。そして、二人して、「今年はカナブンが発生しないように……」と願っていた。花が終わっても、カナブンは姿を現さなかった。「もしかしたら……」と私たちは期待した。そして5月になって、ほんの数個だが、実ができているのを知った。
 
 ものの本を見ると、スモモは「自家不結実性が強い」と書いてある。つまり、花が咲いても、同一樹の花同士では、メシベにオシベの花粉がついても結実するのが難しいということだ。だから、「受粉樹の混植または人工授粉が必要である」とも書いてあるのだ。わが家の庭には、このほかにスモモはない。ということは、今回は同一樹の花の間で受粉と結実が行われた可能性が大きい。もちろん、私の知らない人さまの庭や、マンションのベランダに別のスモモがあった可能性はある。が、その場合でも、その花の蜜を吸ったチョウかミツバチが、たまたまわが家のスモモにも来てくれたのでなければ、結実はなかったのだ。その虫を探し当てて、「ありがとう」と言いたい気持になった。
 
 スモモにとっても、虫にとっても、人間にとっても、うれしい状況が実現している。願わくは、この実が無事育って、(カナブンの口にではなく)人間の口の中に入るように、などと思わずにいられない。が、ひるがえってスモモの立場になってみると、どちらの動物の口に入るのがいいのか……そして、この実の中で生長しつつある種のことに考えが至るのである。
 

自然の中に神さまの命を感じる祈り

 自然界では、多くの種類の生物が、あらゆる場所で工夫をこらしつつ、おたがいに助け合う愛の中で生きています。私はそこに、神さまの命と知恵と愛を感じます。
 
 命あるもののみが命を感じ、知恵あるもののみが知恵を感じ、愛あるもののみが愛を感じるのです。私が自然界のすべてのものの中に神さまの命を感じることができるのは、私の中に神さまの命があふれているからです。私は今、そのことをアリアリと知り、私が神の子であることを深い感動をもって思いおこします。そして、すべての人々が、すべての生物が私の命と一体であるだけでなく、神さまの命が私と彼らを一つに結んでいるという、生命の荘厳な実相を悟ります。神さま、ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣
 

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2013年5月13日 (月)

鳥と人間の関係

 春になって一斉に花々が咲き、それが落ちて実ができる。木々には無数の昆虫が現れ、それを求めて鳥たちがどこからともなく飛来する--毎年繰り返される光景だが、こういう自然のサイクルの始まりを見て、聞いて、私たち人間も種を蒔き、漁に出かけ、新学期をスタートし、新入職員を迎える。
 
 今年も各地にツバメがやってきて、巣づくりを始めている。鳥たちは人間をどう思っているのだろうか? 「スキあらば、自分たちを捕らえて焼き鳥にする邪悪な動物……」とは、どうも思っていないようだ。ごく近くに来て巣をつくるからだ。数日前、原宿の目抜き通りにあるラフォーレ原宿の1階駐車場で、2羽のツバメが飛び回っていた。何年か前には、青山通りの商業ビルの同じような1階駐車場で、巣を構えているツバメの親子を見たことがある。彼らは、“悪”とか“善”などという概念をもっていないかに見える。もしもっていたとしても、「人間」は彼らの“悪”の分類の中には入れられていない。
 
 スズメやハトも、人間のかなり近くにやってくる。銀座通りに面するフレンチ・レストランの前で、パンくずをついばみに来るスズメを見た。明治神宮外苑で休憩するタクシー運転手から餌をもらうために、十数羽のハトが群がっているのを見た。新宿の公園では、何かを空に放り投げ、それをヒヨドリが急降下して空中で捕らえるのを楽しんでいる人がいた。
 
Rooster  人間は、空を飛ぶことができる鳥たちに「憧れ」の感情をもっている。その能力を獲得しようとして、両腕に翼を取り付けるなどして、多くの発明家が努力した。現代のようなスペースシャトルの時代になっても、ハングライダーやパラグライダーに興じる人々がいる。私たち人間の努力は、「鳥になりたい」との隠れた願いに由来するのかもしれない。
 
鳥やけもののすばらしさを称える祈り

 カワセミは空中から川へ飛び込んで魚を捕らえ、渡り鳥は寒い冬の空を何千キロも飛んで、間違わずに目的地に降り立ちます。カモシカは岩山の絶壁を軽々と駆け上がり、チーターは時速100キロ近くで草原を走り、モモンガは森の中を飛び回ります。
 
 神さま、私は鳥やけものの愛らしさ、俊敏さ、美しさ、力強さを讃嘆の思いをもって感じます。彼らの存在に荘厳な意義を感じ、彼らとともに地上に生きることを誇りに思います。彼らはそれぞれ人間のおよばない美点を備え、私に神さまの無限の命と知恵がそこ(○○)にあることを教えてくれます。
 
 私は、神さまのメッセンジャーである彼らに、心から感謝します。ありがとうございます。
 
 谷口 雅宣

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2013年5月 7日 (火)

自然は与える

Mushrooms  森の中を歩いていて楽しいことの一つは、予期しないときに、予期しない場所に、予期しないキノコを発見することだ。それも1株や2株ではなく、一面に群生していたりすると、不思議な命の集団に出会ったような気がして、一瞬、躊躇する。人間の自分がこんなところにいて良いのか……という遠慮がちな気持になるのである。何に遠慮するかというと、自分の知らない、何か神秘な生命の循環の最終段階を目撃していると思うからだ。キノコを含む菌類は、動物や植物が命を終えて、土に還る前の段階の重要な分解過程を担当している。それなら、菌類を食べるものはいないかというと、まったく逆で、たくさんの昆虫がそのおかげで栄養を得る。どんなに新しい、きれいなキノコの中にも、必ずといっていいほど虫が発見される。虫を呼ぶために芳香を発しているものもあれば、異臭を放っているのもある。

 こういう偶然の出会いとは違って、キノコ採りを目的として森に入る場合は、ハンターの心境になっているから躊躇などまったくしない。コレと思うものを発見すると、すぐに手が伸びてしまい、多数を見つけると不必要な量を採ってしまうことが多い。森の動物の中にもキノコを食するものがいて、傘の一部がかじり取られているのを見つけることがあるが、周囲全部を食い尽くした跡など見たことがない。たまに、引き抜かれたキノコがいくつも散らばっている光景に出会うことがあるが、その“下手人”は人間に決まっているのである。私は最近になってようやく、キノコを適当な量だけ採るコツを覚えたようである。要は「与える心」の実践である。

●自然の与え合いに感謝する祈り

 愛にあふれているものは、必ず愛を他に与えます。太陽からエネルギーを得た植物は、動物のために酸素や糖を豊かに与えます。植物から力を得た動物は、二酸化炭素を植物に与え返し、花粉や種を遠方に運んで植物が繁栄するのを助けます。動物は老廃物や死骸をカビやキノコなどの菌類に与えて、菌類はそれを分解して動植物に必要な栄養素に変え、土を肥やします。一見、無関係と思う生物界のすべてのものが、与え合う愛の活動をしていることを私は知っています。そして、私たち人間は、これらすべてに支えられ、愛にあふれて生きているのです。だから、必ず愛を他に与えます。
 
 私たちが「自然」と呼ぶものは、無限に他を生かし、他に与える、神さまの豊かな愛の流れの別名です。だから自然は善いものであり、調和していて、美しいのです。

 私は神さまを愛し、尊敬するように、自然を愛して敬います。ありがとうございます。

 谷口 雅宣

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2013年1月13日 (日)

コーヒーを子孫に残すべきか?

Caputino2012  自分で言うのはやや気が引けるが、私は“コーヒー党”である。とは言っても、ガブ飲みすることはしない。朝食時に1杯、午後2時ごろに1杯飲んで満足する。疲れた時に飲むのもいい。だから、生長の家の講習会の帰途、航空機や列車の中で飲むことも多い。わが家では、朝食時のコーヒーは私が淹れる。これは結婚して以来の“伝統”である。この1杯がうまいかマズイかは、その日の気分を左右する--と言えばいかにも大げさだが、わが家の構成員(たった二人だが)にとって、重要事項の1つである。幸いなことに、私の熟練のおかげか、朝のコーヒーがマズイという事態は、もうほとんど起こらない。学生時代にはサイフォンで淹れるのが流行ったが、その後、ネルのドリップを使うのもやってみた。さすがに豆の焙煎まではしなかったが、豆で買い、ミルで挽き、ドリップで淹れるというは、当たり前になった。今も、その方法だ。

 で、そういう大事な嗜好品の1つが、孫の世代の人々には「手が届かなくなる」という可能性を考えてみた。それは好ましいことだろうか? いや、好ましくない。では、その可能性を減らす努力をすべきだろうか? その通りだと思う。しかし、今の自分の生活の一部を犠牲にしてでも、その努力をすべきだろうか? それは、程度問題ではなかろうか。一体何をどの程度犠牲にすれば、孫世代にも現在と同様に、コーヒーに手が届く状況であり続けるのか? その答えが「よく分からない」のである。これが地球環境問題で、我々が確信をもって対策を講じにくい原因の1つである。気候変動のメカニズムがあまりに複雑すぎるので、確かな“未来図”が予測できない。したがって、「危ない」という人がいる一方で、「大丈夫」という人も同じくらいいる。そして結局、抜本的対策は講じられず、“ハーメルンの笛吹き男”はさらに崖っぷちに近づいていく。そんなことが何回も繰り返されている。
 
 コーヒーは16~17世紀にアフリカからヨーロッパに導入され、それ以降、人類の創造性と活力を引き出す重要な役割を果たしてきた。産業革命を生んだ要因の1つに、コーヒーを挙げる人もいるくらいだ。その消費量は、石油に次いで第2位なのだそうだ。コーヒーカップの数に換算すれば、世界中で年間5千億杯が飲まれていて、コーヒー輸出産業は150億ドルを稼いでおり、2千600万人の農民がその栽培に従事している。しかし問題なのは、コーヒー豆の品質は生育条件--特に、気温と降雨量ーーに左右されやすいという点だ。そして、ご存じのように、地球温暖化は世界各地の気温と降雨量を変えつつある。つまり、これまで生育の好適地だったところが、そうでなくなりつつあるのだ。イギリスの科学誌『New Scientist』は1月5日号でこの問題を取り上げ、IPCCによる「最悪の予測によれば、現在コーヒー栽培の適地となっているほとんどすべての地域が、2080年までに適地でなくなる」と警告している。IPCCが掲げる“最善の予測”では、適地でなくなる地域の割合は「65%」だが、前回述べたように、この可能性はもうなくなった。

 私は、ブラジルが世界一のコーヒー産地だという情報から、コーヒーの木は気温が高い熱帯でよく育つのだと思っていた。が、「気温が高い」という条件はマイナスに働くこともあり、それより降雨量とその変化の仕方が重要であるようだ。同誌の記事によれば、コーヒーは蕾みが膨らむまでは乾燥した気候を好み、開花するためには雨が必要という。しかし、雨が降りすぎると実がつかない。しかし、実の成長過程ではまた雨が必要なのだそうだ。現在、世界で栽培されているコーヒーはアラビカ種(Arabica)とローバスタ種(Robusta)の2種だけで、前者は標高1000~2000メートルの高地で気温が18~21℃の時が成長に最適であるのに対し、後者は湿気の多い低地で22~26℃の時が最適であるという。しかし、気候変動の影響は、こういう条件を乱しつつある。例えば、世界第2のアラビカ種生産地・コロンビアでは、2009年から2012年までの3年間、ほとんど雨が降りっぱなしだったため、カビによる伝染病が発生して35年来の少ない収穫量だったという。
 
 温暖化が進行すればアラビカ種のコーヒーはしだいに収量が減り、より温暖な地に適したローバスタ種の栽培に移行することを余儀なくされそうだ。しかし、コーヒーの「香り」を演出するのがアラビカ種で、ローバスタ種は強い苦味を特徴とするため、ほとんどはアラビカ種とブレンドして売られているのだという。また、値段でもアラビカ種がローバスタ種に勝るため、移行は簡単でないらしい。そこで必要になるのがアラビカ種の品種改良だが、野生のアラビカ種が残っている所はエチオピアの一部に限定されており、昨今の温暖化で、その範囲も急速に狭まりつつあるという。

 コーヒーは嗜好品だから、飲めなくなっても人類にとって悲劇ではないという考え方は、確かにある。しかし、温暖化によって収量が減っていくのは、何もコーヒーだけではない。コーヒーほど気候に敏感でなくても、このままでは主食穀物の収量も減るだろう。その中で世界人口が増え続けるという構図は、決して歓迎すべきものではない。読者諸賢には、コーヒーを飲む機会があるたびに、この問題を思い出してほしいのである。
 
 谷口 雅宣

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