生物学

2021年3月11日 (木)

人間中心主義から抜け出そう

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”のイベントホールにおいて、「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われた。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、会場には人を集めず、御祭の様子はビデオカメラを通してネット配信され、多くの人々に伝えられた。私は御祭の最後に概略、以下のような言葉を述べた――

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 皆さん、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」にお集まりくださり、誠にありがとうございます。昨年に引き続き今回も、皆さんとともに一堂に会することなく、インターネットを通じての参加となります。ありがとうございます。

  今年は2021年であり、日本では東日本大震災からちょうど10年がたつということで、また東京オリンピックの開催が間近だというので、「東北は復興した」とか「復興に至っていない」とか、経済やスポーツ、興行に焦点を合わせた報道や評論が行われています。また、昨年来の新型コロナウイルス感染症の問題も、主として経済活動再開との関係からしか論評されていません。これは日本の指導者や政治家、オピニオンリーダーの多くが、人類が今直面している問題の本質を理解していないことを示しているので、悲しい気持になるのであります。

  ここに、2つの大災害に関する統計的な数字を並べて考えてみましょう。まず、東日本大震災ですが、その犠牲者数はすでに各メディアに発表されているので、皆さんもご存じと思います。この犠牲者数の中には、地震と津波による直接的な死者に加え、行方不明者、そして震災関連死亡者も含まれていますが、すべてで「2万2198人」です。そして、新型コロナウイルス感染症による日本国内の死者数は、昨日の時点で「8,301人」です。大震災に比べて少ないようですが、この感染症はパンデミックですから、日本国内だけの数字を見ても、全貌はわかりません。そこで世界全体の昨日までの死亡者の総計を出します。それは「2607,852人」です。とんでもない数字です。201510月の国勢調査によると、大阪市の人口が「2,691,185人」であり、名古屋市は「2,295, 638人」ですから、この1年間で、大阪市または名古屋市から人がすべて消えたことに匹敵するほどの大災害なのです。そして、この数字は現在も毎日、増え続けていることは、皆さんもご存じの通りです。

  今私は、大震災とパンデミックの両方を呼ぶのに「大災害」という言葉を使いましたが、これは必ずしも正しい表現ではありませんね。ご存じのように、10年前の大震災と津波、原発事故については、「人災」の要素がかなり含まれていることが指摘されてきました。そして、今回の新型ウイルスによるパンデミックについても、人間の行動に起因する要素が数多く指摘されています。人間の行動が感染症を拡大させるので、それを防ぐために今、私たちは家に籠り、リモートで仕事をし、経済活動を縮小しているのです。

 では、人間の何がこのような大惨事を引き起こす要因になっているのでしょうか? それは、私たちの考え方、思考形式、思想などと呼ばれているものです。端的に言えば、それは「人間至上主義」です。

  私たち生長の家は、もう20年も前から、人類が現在抱える地球温暖化などの大問題の多くは、「人間至上主義」が原因だと指摘してきました。このものの考え方は、「人間中心主義」とも呼ばれます。今、画面に出ているのは、私が200210月に上梓させていただいた『今こそ自然から学ぼう』という本です。この本には「人間至上主義を超えて」という副題がついて、英訳として「beyond anthropocentrism」という語が添えられています。また、これより1年前に出た『神を演じる前に』(2001年1月)にも、「人間至上主義の矛盾」という見出しがついた文章が5ページにわたって書かれています。

  では、なぜ人間至上主義が間違っているかという理由については、『今こそ自然から学ぼう』の「はじめに」に引用されているエドワード・O・ウィルソン博士の言葉を紹介するのがいいと思います。なぜなら、彼は世界的に尊敬されている生物学の権威で、ピューリッツァー賞を2度もとっている人だからです。

 ウィルソン博士は、人類がこれまで他の生物からどれほど恩恵を受けて生きてきたかを忘れていると指摘し、それを「健忘症」と批判しているのだった。博士はこう続ける--

 こうした健忘症気味の空想の中では、生態系が人間に提供してきた恩恵(サービス)もえてして見逃されがちである。だが生態系は土地を肥やし、私たちがこうして今呼吸している大気をも作り出しているのだ。こうした恩恵なしには、これから先に残された人類の生活は、さぞかし短く険悪なものとなろう。そもそも生命を維持する基盤は緑色植物とともに、微生物や、ほとんどが小さな無名な生きもの、言い換えれば雑草や虫けらの大集団から成り立っているのだ。非常に多様であるため地表くまなく覆いつくし、分業して働くことができるこのような生きものたちは、世界を実に効率的に維持している。彼らは人類がかくあって欲しいと思うとおりのやり方で世界を管理しているが、それはなぜかというと、人類自体この生きた群集の中に混じって進化してきた動物であり、かつ人間の体の機能は人類以前にすでにできあがっていた特定の環境に合うよう、念入りに調整されているからである。(p. ii

  ここには、私たちが呼吸している空気が植物のおかげで成り立っていること、大地はその植物や、動植物を分解する菌類や、無数の昆虫類が作り上げていること、そういう多様な生物たちが地球の表面を覆いながら、お互いに深い関係をもって協力し合っていることが暗黙のうちに描かれています。そして、博士の表現を借りれば、これらの生きものが「世界を実に効率的に維持している」だけでなく、その維持の仕方は「人類がかくあって欲しいと思うとおり」であると書いてあります。このことを私たちは忘れているか、もしくは全く知らないのではないでしょうか?

  多くの都会人は、特に都会で生まれて育った人たちは、人間以外の自然界の生物は人間の生活の邪魔だと感じていないでしょうか? 彼らは「人類がかくあって欲しくない」存在だと感じている人が多い。だから、スーパーへ行けば殺虫剤とか殺鼠剤とか、ゴキブリホイホイとか農薬とか、消毒薬など沢山売られている。また、私たちは日常的に「雑草」とか「害虫」とか「害鳥」とか「害獣」などの言葉を使います。これは、自然界の生きものには「善」と「悪」があると考えている証拠ではないでしょうか。しかし、ウィルソン博士は、それら一見「悪い」と見られる生物もすべて含めて、「彼らは人類がかくあって欲しいと思うとおりのやり方で世界を管理している」と言っているのです。皆さんは、これに同意できますか?

  ウィルソン博士は次に、なぜそんなことが言えるのかという理由をきちんと書いています。この理由は、とても重要だと私は思います--

「それはなぜかというと、人類自体この生きた群集の中に混じって進化してきた動物であり、かつ人間の体の機能は人類以前にすでにできあがっていた特定の環境に合うよう、念入りに調整されているからである」

 この考え方は、博士の進化生物学者としての長年の研究と深い、優れた洞察から来るものです。白鳩会総裁の著書に46億年のいのち』という本があります。この題は、先ほど皆さんと一緒に読誦した『大自然讃歌』の中にある「地球誕生して46億年」という言葉から来ていますね。しかし、地球ができてすぐ生物が生まれたのではなく、生命の誕生はそれより10憶年ほど後です。すると、人間以外の生物は36億年もの進化を経験して今日に至っているのです。人類が誕生したのはわずか「20万年前」です。ということは、人類が地球で生活するようになった時には、すでに「359,980万年」もの時間をかけて、他の生物たちは進化を繰り返していたということです。このことが何を意味しているかを、ウィルソン博士はこう表現しているのです--「人類自体この生きた群集の中に混じって進化してきた動物であり、かつ人間の体の機能は人類以前にすでにできあがっていた特定の環境に合うよう、念入りに調整されているからである」

  

ここで少し、地球上の生物の歴史を概観しましょう。そうすることで、ウィルソン博士の言っていることがより深く、理解できると考えるからです。Lifehistory この図は、画面の左上から右下に向かって時間が流れていることを示しています。左上の端が今から36億年前の「生命誕生」の時で、1本の黄色い棒が横方向に10億年を表していると考えてください。画面の最下段にある棒は、他の棒より短くて、6億年を表しています。そうすると、画面には長い棒が3本と、短い棒が1本なので、全部で「36億年」を示しています。グラフの中にある数字は、100万年を単位とした数です。したがって左上端に「3600」とあるのは、「36億年前」という意味で、その下に「2600」「1600」「600」と続いているのは、それぞれ「26億年前」「16億年前」「6億年前」という意味です。

  この図をさっと眺めただけで分かるのは、一番下の棒だけが賑やかだということです。その棒の左端には水色で「カンブリア紀」と書いてあります。この水色の帯は、今から6億年から5億年にかけてで、この地質時代に膨大な数の生物種が一気に地上に現れたことで有名です。その現象を「カンブリア大爆発」と呼びます。そして、その一番下の棒の右端には赤い色がついていて、「人類誕生~現代」とあります。人類の誕生は今から20万年前と言われているので、この赤い線のところが、地球上に人類が存在している「20万年」を表しているのです。生物全体の進化の歴史と比べると、何と短い期間ではありませんか? しかし、私たち人類は、この進化の歴史の上に、それを前提として存在しているのです。それを、私たちは変えることなどできないのです。そのことをウィルソン博士は、こう言っているのです――「人類自体この生きた群集の中に混じって進化してきた動物であり、かつ人間の体の機能は人類以前にすでにできあがっていた特定の環境に合うよう、念入りに調整されている」。

  つまり、博士が言おうとしていることは、人類は他の生物と分離しては生きられず、また人間の肉体は、その基本的構造や機能は、すでに20万年前に決定されているということです。ところがご存じのように、私たち人間の中には、かなりの数の人たちが、この地球上の環境は、他の生物も含めて、人間の邪魔になることが多いから、それを人間の都合に合わせて改変することで、将来は天国のように生きやすい、便利な世界が実現するなどと考えているのです。私が「人間至上主義」と呼んでいるのはこの考え方のことです。「人間の幸福のためならば、自然界のあらゆるものは破壊したり、利用したり、改変したりできる」という思想です。これが間違いであることは、人類は長い時間をかけてゆっくり、ゆっくりと学びつつある――私はそう思いたい。日本の自民党政権が菅内閣になって初めて、突然のように「炭素排出を2050年までに実質ゼロにする」などと言い出しました。これは、先進国の中でもずいぶん遅れた取り組みです。が、まったく取り組まないよりはいいのですが、それでも私は、今の人類には30年もの時間の余裕はないと考えます。

  その証拠の1つが今、人類の目の前に突きつけられている新型コロナウイルスによるパンデミックです。これも地球温暖化も、人間至上主義がもたらしたものです。根っこは同じなのです。

  最近私は、オークヴィレッジ創設者の稲本正さんの『脳と森から学ぶ日本の未来』(WAVE出版、2020年)という本を読む機会があったのですが、稲本さんは「人間至上主義」という言葉は使っていませんが、それと同様の人間の身勝手な振る舞いが、この新型コロナの問題の背景にあるというお考えです。稲本さんは、この問題の原因は「人類側にある」とはっきり書いておられます。引用しましょう――

 新型コロナウイルス問題は人類が今まで歩んできて、大いに成功だと思い込んでいた近代文明の工業化により、自然を破壊し、巨大都市を造り、人間を都市に密集させつつ、長距離移動システムの確立と情報化へと移った一連の進歩を、根本から問い直すように促している。(pp. 46-47)

 

 人類が自分で生み出した問題を、解決に結びつかないように、自分自身で複雑にしている。原因は、経済や人種、国益などの理由を探して一致団結しようとしない人類の考え方にあるのだ。(p. 49)

  今、経済や国益を理由に、新型コロナウイルスのワクチンを独占しようとする動きがあります。また、ワクチンを自分たちの知的財産権の対象として考える傾向があります。しかし、そんな利己的な考えをしていると、グローバル化した世界経済と地球温暖化の中ではウイルスの脅威を抑え込むことなどできません。ウイルスは細菌よりもずっと小さいので、私たちは原始的で、単純な生物だと思いがちですが、決してあなどることはできません。ウイルス学の専門家の評価を紹介します――

  大方の推測では、ウイルスの総数は10の31乗と、地球上で最も多種多様な生命体である。ということは、進化上、最も成功をおさめた生命体である。ウイルスは、感染した細胞の代謝系を変換し、自分が増えやすい環境をつくるという事実から、宿主の細胞よりも複雑な生命の営みをする。だから、最も単純な生命体ではない。

  1リットルの海水があれば、その中にいるウイルスの数は地球上に住む人間の総計を、恐らく10倍ほど上回る。ウイルスの種類も、細胞をもつ生物全体の種類を上回り、推定で1兆種も存在する。 そして、人類のゲノムの8%はウイルス由来のものである。

  細胞レベルでは、私たち人間よりも複雑な動きをする生命体が、細胞をもつ生物全体の種類を上回るほど多種にわたって存在し、1リットルの海水に世界人口の10倍もの数で存在するのです。だから、今回のウイルスの脅威を取り除いたとしても、次が来ないなどとは決して言えません。その可能性を地球温暖化が増幅していることを、皆さんはご存じでしょうか?

  最近の急激な温暖化で、ロシアの北極圏にある永久凍土が溶け出しています。その結果、大変なことが起こると警告する科学者は少なくありません。次の写真を見てください。これはすでに起こってしまっていることです――

  今年の3月7日付のインターネットのNHKのニュースサイトにあった写真ですが、ロシアの北極圏にあるヤマル半島という所の永久凍土が溶け出していて、直径が数十メートルもある巨大な穴があいているというのです。それも1つだけでなく、十数個もです。こういう穴が開くと、中から何が出てくるかということも分かっています。

  次の写真を見てください。これは今年1月25日のNHK番組『クローズアップ現代 の内容を伝えるサイトです。ここに簡潔にまとめられていますが、永久凍土が溶け出すと、その下からは、二酸化炭素の25倍もの温室効果があるメタンガスが出てきた。それとともに、人類がこれまで知らなかった「モリウイルス」というウイルスも発見されたというのです。

  ですから、私たち人類が今のような人間中心主義の考え方を改めずに自然破壊を続け、経済発展ばかりを進める生き方をしていれば、私たちは自分たちの生活基盤をも破壊してしまう可能性さえあるのです。これは、遠い将来のことではなくて、現在それが起こりつつあるという認識をもたねばなりません。必要なことは、まず人類共通の「哲学・信仰」を確立することです。その基本は、生長の家が20年前から言っているとおり、「神・自然・人間は本来一体」ということです。もし「神」という言葉を使いたくなければ、先ほど引用したウィルソン博士や稲本さんのような言い方でもいい。とにかく、人間さえよければ自然界の他の生物や鉱物資源はどうでもいいという考え方から、早急に脱却しなければならないのです。

  そして、私たちの生活の仕方を改めていく。つまり、信念を行動で表現していくのです。そして、自分ひとりで納得するのではなく、多くの人々にその信念を伝え、それらの人々と共に日常生活の中にその考えをどんどん反映させていかねばなりません。そういう運動を、これからも皆さんと一緒に力強く進めてまいりたいと、今日のこの祈念祭に当たり強く思うものであります。

それではこれで、私の話を終わらせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣

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2020年5月12日 (火)

ボードゲーム「コロナバスターズ」について

 本年4月19日付で、私はフェイスブック上で運営する「生長の家総裁」のページに「コロナバスターズ」というボードゲームを発表した。このゲームは、同じくボードゲームである「オセロ」からヒントを得た対戦ゲームで、相手の円盤(石)を自分の2個の円盤で挟むことで、自分の円盤としてしまう。この「敵であったものが味方になる」というゲームの基本が、私が表現したかったポイントの1つである。

 このゲームは「新型コロナウイルス感染症」という面白くないことから生まれた。それなのに「面白い」ことを目的とするゲームにして遊ぶというのは、不謹慎だと感じられた人もいるだろう。実際、このゲームの発表後、私に対して「ゲームは恐怖心を煽る」とか「日時計主義でない」などという不満を漏らす人もいた。しかし、ゲームの内容を知れば、この種の不満は的外れであることが分かったはずだ。ゲームでは、ウイルスを自分の味方につけることで、感染拡大を防げることになっている。この筋書きが荒唐無稽でないことは、本文の後半で述べる通りだ。

 しかし、その前にひと言――
 この病気により、世界中でたいへん多くの方々が亡くなっていることに、私は心が傷む。それだけでなく、経済活動は中断し、失業者は増加を続け、一部の途上国では、国内の政治的対立も加わって貧困がさらに深刻化し、国家の存続にかかわる非常事態にいたっている。そして医療現場では、医療従事者の方々が文字通り「命がけ」の努力を続けられている。このような深刻な事態になる前に、人類は何か予防措置を講じられたはずだ。しかし、実際はできなかった。その原因は何か? この疑問に答えることが、今後の私たち人類全体の行方の吉凶を決めるだろう。

 多くの人々は、こんな悲惨な事態をひき起こす「ウイルス」のことを、とんでもなく“悪い”ものだと考え、恐怖に駆られたり、憎しみに燃えたりするかもしれない。しかし、ウイルスによる感染症の歴史を振り返ってみると、エイズや狂牛病、鳥インフルエンザ、ジカ熱、デング熱、SARS、MERS……など、その原因を作っているのは、実は人間の方であるという事実に突き当たるのである。今回の感染症も同様の起源があることは、各方面から指摘されているし、私もすで本欄などで述べた。

 ウイルス感染症の誕生と人間との関係をひと言でいえば、人間は自然界のすみずみに、そして自然の奥深くにまで手を伸ばし、自己本位の目的でそれを改変し、また無秩序に利用してきたことで、永年安定していた自然界のバランスを崩しているということだ。このアンバランスの状態から、自然がバランスを取り戻そうとする過程で、人間に致命的な毒性をもつウイルスや細菌が生まれ、あるいはもともと存在していても、人間と関係しなかったウイルスや細菌が、人間の生活圏に飛び込んでくるのである。語弊を恐れずに言えば、人間は自然を壊しながら自然に近づきすぎている結果、人間に致命的な影響を与えるウイルスの産生に大きく関与しているのである。

 こんな書き方をすると、読者は、ウイルスはもっぱら人間に有害であるとの印象をもつかもしれない。しかし、それは誤りである。人間の遺伝子全体のことを意味する「ヒトゲノム」という言葉があるが、このヒトゲノムの8%以上は、人間が進化の過程で関係してきたウイルスゲノム、またはその残骸からできていると考えられている。つまり、ウイルスは人類の生存と発展に有益に働いてきた証拠が、私たちの遺伝子の中にきちんと残っているのだ。例えば、人間を含む哺乳動物は、母親とは遺伝子が異なる胎児を、拒絶反応を起こさずに長期にわたって母体内で育てる能力をもっている。これには先に述べた“内在性ウイルス”の働きが関与しているとされている。

 ウイルスが感染すれば、感染した人(宿主)はすぐに病気になるという考え方も、多くの場合、間違っている。そうではなく、大抵は感染自体は無症状に終わる。しかし、ウイルスがまだ新しい宿主(ヒト)に適応しきれていない今回のような場合に、重篤な症状が起こるのである。この激しい症状は、感染したウイルスに対する宿主側の免疫反応であることが多い。つまり、私たち人間の側が新しい“異物”に対して激しい拒絶反応を起こすのである。ウイルス学の知見によると、特定のウイルスが人間と接触する時間が長くなると、双方が相手に適応する形で症状の激しさを減らしていく傾向があるという。そして、病気の症状を引き起こしにくくして、しばしば長期間の(無症状の)感染を続けるという。つまり、ウイルスと宿主とは一種の“平和共存”を達成するのだ。

 ウイルスと宿主とのこのような関係を考え合わせると、私たちは今回の新型コロナウイルスの登場を“悪魔の仕業”だとか“神の処罰”だなどと考えて恐怖し、あるいはウイルス全般に対して憎悪の感情を振り向けることは見当違いであることが分かる。人類を集合的に「私たち」と呼ぶ場合、この新型コロナウイルスは、私たちが自然破壊とグローバル化の過程で作り出したものである。また、その誕生の原因としては、宿主となる野生動物(コウモリやセンザンコウの名が挙がっている)と人間との必要以上の濃厚で密接な接触が挙げられるのだ。

 オーストラリアのABCテレビは、今回の新型コロナウイルスによる大規模な感染症拡大は、「人間の地球規模の自然と動物軽視」が原因だというジェーン・グドオール博士(Jane Goodall)とのインタビューを、今年4月11日付でウェブサイト上に公開した。グドオール博士はアフリカでのチンパンジーの研究で有名で、自然保護の必要を説き続けてきた環境運動家でもある。記事の中でグドオール博士は、ウイルスが動物から人間に感染する原因の一つは、動物の生息地の減少と大規模農法にともなう森林伐採だと述べ、これにより動物同士の、また動物と人間との接触が深まり、異種間での感染に結びついていると語っている。

 また、同国のチャールズ・スタート大学(Charles Sturt University)の生物学者、アンドリュー・ピーターズ博士(Andrew Peters)は、今回のコロナウイルス感染症のほかにも、同国ではいくつかの感染症の危険が拡がっていると指摘している。その1つは、ヘンドラウイルス(Hendra virus)による感染症で、このウイルスはコウモリから人と馬に感染して宿主を死に至らせるといい、「この感染症は、オーストラリアの海岸地域から森林が失われ、冬場のコウモリの生息地が減少していることが原因だと言われている」と語っている。

 「コロナバスターズ」のゲームでは、ウイルスは取扱い次第で人間の敵にも味方にもなる。私たちは、科学的にも正しいこのウイルスの特徴を知りながらゲームを行なうことで、感情に流されず、理性的な判断と方法で、この問題の解決に取り組む――そういう精神を広めていきたいものである。

 谷口 雅宣 

【参考文献】
〇西條政幸著『グローバル時代のウイルス感染症』(日本医事新報社、2019年)
〇デービッド・R・ハーパー著/下遠野邦忠、瀬谷司監訳『生命科学のためのウイルス学――感染と宿主応答のしくみ、医療への応用』(南江堂、2015年

 

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2020年4月11日 (土)

コロナウイルスは何を教える (2)

 生長の家は、山梨県北杜市にある国際本部“森の中のオフィス”と、同本部の広報・制作/編集部門がある別棟のメディアセンターの2つの施設を明日、4月12日から同21日まで閉鎖することにした。これは、同メディアセンターに勤務する男性職員が4月初旬から発熱や倦怠感などを覚えて体調が優れず、4月7日からは休務していることを重く見たもの。同職員はPCR検査をまだ受けていないが、検査を実施して結果が出るまで対応を長引かせるよりは、新型コロナウイルスの感染拡大防止を最優先に考え、迅速な対応を行なうことにしたもの。2施設の閉鎖中の業務は、基本的に職員が「在宅」で行うことになる。

 今回の新型コロナウイルスによる感染症の世界的蔓延は、かつて例のない規模と速度を伴いつつ、人命や社会の経済活動に甚大な影響を及ぼしている。私は前回のブログで、この感染症によって現代社会が甚大な被害を受ける理由の1つとして、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」を挙げた。この表現は、社会のあり方のマイナス面を強調したものだが、プラス面を強調して言い直せば、今の社会の営みは細部まで分業が進行しているため、物事が正常に進んでいれば“便利で効率がいい”ということなのだ。

 しかし、21世紀の世界での一番の問題は、「物事が正常に進んでいる」という最も基本的で、重要な前提が崩れつつあることである。戦後の日本は、9年前の3月11日までは、「原発が正常に動いている」という基本的な前提が存在した。しかし、東日本大震災と東京電力の業務上の判断ミスなどが重なって、未曾有の原発事故が起こった。戦後の世界の経済発展は一見、「物事が正常に進んでいる」という認識を私たちに与えたが、その陰で自然破壊や温室効果ガスの大量排出の影響が無視され続けてきたため、今や地球規模の気候変動が不可逆的に起こっていて、その影響として、台風やハリケーンは巨大化・凶暴化し、豪雨が河川を決壊させ、人家を押し流し、旱魃が肥沃の地を不毛化し、人間の手に負えない山火事が都市部まで広がり、そして、これまでにない新種のウイルスや細菌による感染症が世界に拡がっているのである。これらの一連の“マイナスの変化”は、人間の活動から生まれているという事実を、私たちはこれ以上無視してはならないのである。

 人間が原因を作っているために起こる現象のことを、「自然現象」とか「自然災害」と呼んではならない。それらはすべて「人為現象」「人為災害」と呼び、人間に改めるべきところがあれば、改めなければなくならない。「自然が相手だから仕方がない」という言葉は、一時代前には妥当だったとしても、現在ではあまり物を考えない人のゴマカシの弁でしかない。私は2012年に出版した『次世代への決断』(生長の家刊)という本の中で、「人間が生んだ地球」(the anthropogenic Earth)という言葉を紹介したが、この言葉の通り、現在私たちが足を踏みしめている地球は、そこに生える植物、空を飛ぶ鳥、動き回る虫や獣、そして目に見えない細菌やウイルスを含めて、人間の影響を受けているものの方が、受けていないものよりも圧倒的に多いのである。

 地球環境を含む自然界の秩序を無視または軽視して、“便利で効率がいい”という方向にのみ社会を発展させてきたことが、今ある「人間が生んだ地球」の原因である。この表現を“裏返し”にすれば、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」の結果を、私たちは今目の前にしていると言えるだろう。だから、現在の社会で私たちが“便利”と“効率”を考えるときには、それらの裏側にある「過剰なスペシャリゼーション」の問題を思い出してほしい。「過剰なスペシャリゼーション」とは、自分の力や努力によらず、他人や他者(社会制度やインフラ)に生活の多くのものを依存しているということである。自立のための知恵や技術の習得、自律心・独立心を放棄して、金銭によって何でも得られると考えることである。そういう考え方の誤りを、新型コロナウイルスは私たちに教えている、と私は思う。

 今、世界の多くの人々ーーとりわけ都市で生きる大勢の人々が、自宅や自室から外に出られず、出ても自由に歩き回れず、買い物に制限を加えられ、娯楽や遊興が白眼視される風潮を感じていることだろう。そんな時、他に依存せず、他から求めず、慣れないことも自ら行い、自ら学び、自ら製作し、他に与える生き方をしてみるのはどうだろう? そう、これが「メンドー臭い生き方」である。しかし、これが「過剰なスペシャリゼーション」から自由になる唯一の方法だと私は思う。物事が正常に進んでいたときには、すべて省略していたことでも、この機会に自分で頭を使い、手を使ってやってみるのである。きっと「不自由」と思っていた領域が減り、内心の「自由」が拡がっていくことを体験されることと思う。

谷口 雅宣 拝

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2020年3月22日 (日)

コロナウイルスは何を教える

 本年3月1日の生長の家春季記念日でも、それに続く3月11日の「神・自然・人間大調和祈念祭」でも述べたように、今回の新型コロナウイルスの地球規模の拡大が教えていることは、数多くある。そのうち、前記の2回の機会で強調したのは、「人間中心主義の弊害」ということだった。それを別の言葉で表現すれば、私たちは『生長の家』誌創刊号にあった「生長の家の宣言」の第1項が目指していた「生命を礼拝する」ことも「生命の法則に随順する」こともせずに、人間の物質的、肉体的欲望を満足させることを至上目的として、長期にわたって自然破壊を進めてきたという事実を指している。このことが、かえって人類社会の脆弱性(ぜいじゃくせい)を増幅しているのである。

 宇宙広しといえども、この「地球」という小惑星にしかない生命与え合いのシステムを、「人間だけがよければいい」という人類エゴが破壊している。私はすでに9年前に発表した「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中で、このことを次のように述べている――

 「多くの生物を絶滅させ、自然の与え合い、支え合いの仕組みを破壊しておいて、人間だけが永遠に繁栄することはありえない。生物種は互いに助け合い、補い合い、与え合っていて初めて繁栄するのが、大調和の世界の構図である。それを認めず、他の生物種を“道具”と見、あるいは道具と見、さらには“邪魔者”と見てきた人間が、本来安定的な世界を不安定に改変しているのである。その“失敗作品”から学ぶことが必要である。」

 今、肉眼には見えない極小の半生物・ウイルスのおかげで、世界中の株式が暴落し、交通機関は停止し、経済活動は極端に縮小し、多くの産業が経営危機や倒産のリスクに直面している。パリのルーブル博物館やニューヨークの公立図書館のような文化施設も次々と閉鎖され、大相撲春場所のような大規模スポーツイベントは軒並みに中止となるか、“観客ゼロ”という珍妙な方式で一見“通常どおり”を維持する努力を続けている。このあとに来るはずだった東京オリンピックが延期されるなどということは、今年初めには誰も予測しなかっただろう。

 このような人類社会の脆弱性は、いったいどこから来るのだろうか? それは、私が先の祈念祭でも紹介したイギリスの科学誌の記事に、分かりやすく説明されている――

「人間以外の動物に棲(す)むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる“動物由来ウイルス病”を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25五億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。動物由来ウイルス病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 このウイルス病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。」

 

 ここにあるように、地球上の生物種と生物種の関係は、何億年、何十億年もの進化の過程で“天敵”と共存してきた。この“天敵”という用語は誤解を招きやすい。これは、「相手の絶滅を期して死闘する相手」ではない。前掲の文章にあるように、「時間が経つうちに相手に合わせて致死率を下げる」などして共存してきた捕食ないし寄生関係にある他の生物種のことだ。ところが人類だけが、多くの生物種を文字通り絶滅に追いやっている。そのことがかえって「自然の側から“敵”として扱われるような事態」(前掲の祈り)を現出しているのだ。

 もう一つ、今回の新型コロナウイルスの世界的伝播が教えているのは、過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)の弊害である。

 今の世界経済は、専門化による地球規模の分業が極端なレベルにまで進んでいる。ある製品を製造するためには、自前で部品を作るのではなく、外国の特定の会社からAという部品を、また別の国の特定の会社からBという部品を……というように、技術力と効率と価格の点で最も優れている会社に部品の供給を依存する傾向が強い。そうしなければ、他社との競争に勝てない場合が多いからだ。こういう相互依存関係が、網の目のように張り巡らされている。すると、災害などでこの網の目が突然切れると、製品全体の生産がストップしてしまうことになる。それが、今回のウイルス伝播でも起こっている。

 アメリカの外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』は本年3月16日の記事で、このことを「脆弱な効率性(fragile efficiency)」と呼び、実例を挙げて警告を発している。例えば、西ヨーロッパの自動車メーカーが生産する車の小型電子部品は、すべてを1社が担当しているので、その社のイタリアにある工場の1つが今回のウイルス感染で操業停止になると、西ヨーロッパで生産されるすべての自動車の生産がストップしたというのだ。また、ムダを省くために「できるだけ在庫を抱えない」という生産方式も、経済が順調であれば問題ないが、いったん災害や伝染病が発生すると、機能マヒに陥る可能性を生む。“ムダ”とされた製品在庫や部品在庫、生産能力の余剰が、非常時には一種の“安全装置”として働くのに、それが欠落しているからだ。

 このような効率優先、コスト優先の文明の弱点が今、明らかになっているのである。

谷口 雅宣 拝

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2020年3月11日 (水)

「生命の法則に随順する」とは?

 今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”において「神・自然・人間の大調和祈念祭」が行われ、その様子はインターネットを通じて全世界に放映された。以下は、同祈念祭での私のスピーチの概略である--

 皆さん、本日は「神・自然・人間の大調和祈念祭」にお集まりくださり、ありがとうございます。今「お集まりくださり」とは申しましたが、ご存じのように、現在、新型コロナウイルスの拡大抑止を目的として、大勢の人間による集会やイベントは行わないようにとの政府の方針に協力しているので、今回のこの祈念祭では、ほとんどの参加者はインターネットを経由して、お祭を間接的に視聴するという方式を採っています。にもかかわらず、恐らく大勢の方がここまでの祈念祭の様子に合わせて黙祷を捧げたり、神想観を実修されたと考え、心から御礼申し上げる次第です。ありがとうございます。

 さて、私は去る3月1日の立教記念日に、『生長の家』誌創刊号の裏表紙にある「生長の家の宣言」という歴史的文章を引用して、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」という言葉の意味をお話したのであります。その時、この「生命の法則」とは「生命顕現の法則」であって、それは決して「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が示すように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、力まかせにいわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということを述べました。また、「生命を礼拝する」という意味は、「人間だけを尊重するのではなく、人間を含めたすべての生命を尊重する」ということだとお話しました。しかし、人間はまさにその「人間だけを尊重する」人間至上主義的な生き方を長年、続けてきたために、今日、地球環境問題を含む深刻な問題に直面しているのですね。そのことを私は、『今こそ自然から学ぼう』というこの本から引用して、「自然への拷問が人間への拷問となっている」という言い方もしたのであります。

 私たちは現在「自然と共に伸びる」運動というのをしています。この「自然と共に伸びる」という意味は、これまでの“古い文明”のように、人間の幸福のためだけに自然を破壊する--例えば、生長の家の過去の運動を振り返ってみると、月刊誌の購読数や購読者を増やすために、その原料である紙パルプの消費を増大させ、森林伐採を促進し、あまつさえ大量の月刊誌が配布されずに多くの会員宅に積まれてあっても構わない--そんな考えではいけないということですね。こんな人間至上主義に陥らずに、運動が進展することと自然界が繁栄することを共に実現しようという運動であります。

 今日はその目的を念頭に置きながら、人類は今後、自然とどう付き合っていくべきかを考えたいのです。「生長の家の宣言」の第1項にあった「生命を礼拝する」とは、また「生命の法則に随順する」とは、具体的にどんなことをするのかということです。

 私たちは今、新型コロナウイルス(COVID-19)による感染症の拡大によって、多くの重要な教育を受けていると感じます。これを生長の家では“観世音菩薩の教え”とも言いますね。先ほど、白鳩会総裁が読まれた、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中にも、この言葉は出てきました。「大地震は“神の怒り”にあらず、“観世音菩薩の教え”である」とありましたね。そこで、この教えの1つとして、私が立教記念日の時に申し上げたのは、この感染症の原因は、ウイルスとか動物の側にあるのではなく、人間の側にあるということでした。

 その時は、センザンコウという動物が、ワシントン条約で交易が禁止されているにもかかわらず、大量に取引きされているという話をしました。しかし、その際も申し上げましたが、今回のコロナウイルスの感染源ーー正確には「中間宿主」と言いますが、それはまだ確定されていません。また、センザンコウは単にウイルスを仲介しただけで、コロナウイルスはもともとコウモリと共生しているという学者もいるようです。そうです。コウモリはコロナウイルスを体内にもっていても、平和共存していて病気にはならないということですね。自然界には、そういう野生動物はたくさんいるし、私たち人間の体内にも沢山の細菌が棲んでいて、人体との間にギブアンドテイクの関係が成立しているのです。

 ところが、このような自然界のバランスを壊すと、生物同士が互いに傷つけ合う現象が起こるようになる。私がセンザンコウの例を挙げたのは、センザンコウが“悪い動物”だという意味ではなく、それを扱う人間の側に問題があるということでした。人間は、食用や医療の用途にするために、多くの動物を自然状態から引き離して、動けないほどの狭い場所に囲い込み、そこで残虐な方法で大量に屠殺するのです。

 この方法は、センザンコウだけでなく、ブタもウシもニワトリもヒツジも何もかも、現在、世界中で大々的に行われていることです。そういう食肉産業を発達させてきたのが、私たちの中にある人間至上主義の考え方です。本来動き回るのが自然の生き方だった動物たちを、狭い空間に閉じ込めながら、無理やりに不自然な食事を与え、彼等の苦しみや悲しみを全く無視して殺戮する。動物を殺せば当然、血や体液が周囲に飛散して、人間がそれを浴びることになります。人間に近い家畜の扱いがこれですから、野生動物を扱うにも、それとほとんど変わらない、いやそれ以上に残酷な方法を使うのです。

 このような屠殺によって、人間と動物の肉体の一部が混じることになります。そこで皆さんは、これを「自然と人間が一体」になったと考えますか? あるいは、ブタやウシの筋肉や内臓を人間が食することで、「自然と人間は一体だ」という自覚が生まれると思いますか? 私は断じて、そう思いません。これは動物たちの感情や意思をまったく無視して、人間本位の役割を強制する「自然侮蔑」の心、「生命功利論」の表現だと思います。生長の家の目的は、先に触れたように、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」ことですから、私たちは、その考えと反対の立場にある肉食の習慣をやめるという決断をしたのであります。

 では、ウシやブタのような家畜を食べることと、今回疑われているような野生動物を殺して人間の薬用や食用にすることの違いはどこにあるのでしょう? これに答えるには、質問を言い換えた方がいいかもしれません。私たちは家畜を屠殺して食することを長年やってきましたが、では、なぜ家畜の身体に棲んでいるウイルスや細菌が人間に感染して、病気を発症しないのでしょうか? また、発症してもそれが世界中に拡大して経済活動を阻害する、今回のような大被害を起こさないのでしょうか? 

Ns020820   この疑問に答えてくれる記事を、私はイギリスの科学誌『ニューサイエンティスト』の中に見つけました。ここにあるのは、今年2月8日付の同誌の表紙で、ご覧のように「コロナウイルス」の特集をしています。そして、「Viruses from animals」(動物からくるウイルスたち)という題の記事には、こうあります:

「人間以外の動物に棲むほとんどすべてのウイルスや細菌は、人間に全く無害である。しかし、そのうちのごく僅かな割合のものは、いわゆる zoonotic disease (人間に感染する動物病)を惹き起こす。そのような病気は、私たちにとって大問題だ。2012年の推計では、そういう病気は毎年25億人の人を傷つけ、270万人を死に至らせている。人間に感染する動物病のすべてが、人間に深刻な症状を起こさせるのではないが、例えば、エボラウイルスは、感染したほとんど全員を死に至らせる。

 この動物病の致死率がこれほど高い理由の1つは、そのウイルスに対する先天的な免疫を人間がもっていないからだ。もう1つの理由は、これらのウイルスが人間に適応していないからだ。人間同士の間で循環するウイルスは、時間が経つうちに人間に合わせて致死率を下げる。そうすれば、自分たちの勢力拡大がしやすいからだ。感染後の1日以内に人間が死んでしまうと、ウイルスはそれ以上繁殖できない。動物の体内にいるウイルスがヒトに感染するためには、そのウイルスに感染している動物と人間が接触しなければならない」

 ということで、動物のウイルスや細菌が人間に感染するためには、人間と動物との距離が接近する必要があることが分かります。現在の文明が進む方向で、それが起こっているのです。人間が自然を破壊して動物に近づいている。別の言い方をすれば、人間が不自然に近く、自然に近づいているということです。これは肉食の習慣が世界的に拡がっていることも指せば、それだけでなくて、人口爆発によって、都市が拡大し、森林がなくなり、動物の住処がなくなり、あるいは動物の食べ物が減って、生きるために動物たちが人家や民家の近くまで来ることも含んでいます。私が申し上げたいのは、生長の家がいう「神・自然・人間は本来一体」という教えは、人間が他の生物と物理的に一体になるという意味ではないということです。

 自然界を観察すれば、それぞれの生物種の個体と個体との間には、自然な距離があります。それを「縄張り」と呼ぶこともあります。同一種の生物だから、いつも互いに密着して生きているわけではない。子供と親は当初は密着していても、成長すると互いに距離をもつようになる。子供がまだ密着していたいという素振りを見せると、親の方が自分の子を攻撃することもありますね。私たちはそういう生き方も全部含めて「自然」と呼ぶのです。そう考えると、異種の生物間に物理的な距離があり、それが守られているということが「自然」なのであります。また、それが「生命の法則」だと考えることができます。すると、「生命の法則に随順する」ということは、人間があらゆる生物を物理的に近くに引き寄せて、自分たちの用途に供しようとすることは、「生命の法則に随順しない」ということになる。

 私は、今回の新型ウイルスによる感染症の拡大は、私たちが人間至上主義によって、動物たちとの間にあった自然な距離を撤廃し、不自然な距離にまで近づいていることに対する“警鐘”だと感じるのであります。自然を自然のままにしておかずに、欲望をもって引き寄せ、徹底的に利用する、あるいは利用しない部分は粗末にかなぐり棄てる。そういう“古い文明”が進めてきた生き方をやめ、「生命を礼拝し生命の法則に随順して生活する」必要がある。人間以外の生物と私たちとの間には“適切な距離”があるのが自然であり、生命の法則に随順することである--今回の感染症が教えていることの1つは、これだと思います。また、それが私たちが目指す“新しい文明”の方向であることを、ここで確認したいのであります。

 それでは、これをもって今回の「神・自然・人間の大調和祈念祭」での所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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2020年3月 1日 (日)

すべての生物を礼拝・尊重する

   今日は午前10時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”で「立教91年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式」が行われた。以下は、同式典での私のスピーチの概略である--

 皆さん、ありがとうございます。

Coronavirus2019 本日は、例年ならば「生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」を長崎の生長の家総本山で行なう日でありましたが、ご存じのように、新型コロナウイルスの感染防止対策に協力するため、急遽、式典の会場を総本山からここ山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”に移し、規模を大幅に縮小して、立教記念日をお祝いする会をもつことになりました。そして、この会場での式典の様子をできるだけ多くの幹部・信徒の皆さんに視聴してもらうために、インターネットで中継しているところであります。

 皆さん、本日は「立教91年」を迎えたこと、誠におめでとうございます。「立教91年」ということは、生長の家の運動が始まってから90年が経過し、今日から91年目に入るということですね。

 私はこの立教記念日には、立教の端緒である3月1日付の月刊誌『生長の家』創刊号を引き合いに出して、その創刊号の中の記事を様々な角度から紹介し、生長の家の創始者であられる谷口雅春先生、輝子先生の立教時のお気持や、視野や関心の広さ、知識や見識の素晴らしさ、神への信仰の深さなどについて述べてきたのであります。今日も、それと同じことをするのですが、今回は、創刊号の表紙の反対側、つまり裏表紙に掲げられた「生長の家宣言」について、皆さんと共に考えたいのであります。

 ここにあるのは、今日、「七つの光明宣言」と呼ばれているもの、これは『生命の實相』頭注版第1巻に収録されていますが、そのの“原型”とも言うべきもので、次の6項目です--

1.吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
2.吾等は生命の法則を無限生長の道なりと信じ、個人に宿る生命も不死なりと信ず。
3.吾等は人類が無限生長の真道を歩まんがために生命の創化の法則を研究す。
4.吾等はリズム即ち言葉を以て生命の創化力なりと信ず。
5.吾等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改善せんがために善き言葉の雑誌『生長の家』を発行す。
6.吾等は心の法則と言葉の創化力を応用して、病苦その他の人生苦を克服すべき実際方法を指導し、相愛協力の天国を地上に建設せんことを期す。

 この6項目の最初と2番目の項目に、「生命の法則」という言葉が出てきます。また、第3項目には、「生命の創化の法則」という言葉があって、この言葉は、どうも「生命の法則」をより詳しく述べた言葉と思われます。そう考えると、第4項にある「生命の創化力」という言葉は、この「生命の創化の法則」と関係が深いと考えられます。すると「言葉の創化力」という言葉も、「生命の創化の法則」と密接に関係していることになり、ここに挙げた6項目のすべてが、どうも「生命の創化の法則」「生命の法則」を基本として書かれていると、解釈できるのであります。

 では、その「生命の法則」とは何かといいますと、それは『生命の實相』第1巻に「『七つの光明宣言』の解説」として、雅春先生の解説が載っているのであります。ただ、『生命の實相』では、第2項は「生命の法則」ではなく「生命顕現の法則」という表現になっている点、創刊号の表記とは違います。そして、生命顕現の法則とは何かについて、解説には「生命顕現の法則とはなんであるかと申しますと、生々化育(生み生みて生長さす)ということであります」とあります。

 解説は、次のように続きますーー

「われわれは事実上生まれてきて生長しつつあるのであります。この事実より考えるとき、生命の法則は“生長”することにあるので退歩することではないことがわかるのであります。退歩する者は生命の法則にかなわないのでありまして、“生命の法則”にかなわないものは生命の世界においては落後することになっているのであります。」

 ここに書かれたことは、読み方によっては、かなり厳しい指針であると受け取られるかもしれません。今年は日本でオリンピック/パラリンピックがありますが、スポーツにおける“生長”や“進歩”とは、過去の記録を更新していくことですから、「退歩する者は生命の法則かなわず、生命の世界では落後する」ということは、「記録を破れない者は、スポーツの世界では落後する」と言っているようにも解釈できます。

 また、これに続いて『生命の實相』には次のように書いてありますーー

「進化といい生存競争といい優勝劣敗と申しますのは、いずれもこの現象(ことがら)をいい表わしたものなのであります。生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩にうち負かされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にもうち負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長する、という厳とした法則によっておのおのの『生命』は宣告されているのであります。」

 これを読むと、生長の家では、生存競争や優勝劣敗--つまり、この世界は強い者が勝って、弱い者は負けていくーーという弱肉強食の世界を肯定しているかのように聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか? この第2項の前に置かれた第1項の説明には、次のようにあります--

「自分自身が尊い『生命』であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることもできるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、われわれの『生命』の大元(もと)の『大生命』をも尊び礼拝したくなるのであります。」

 つまり、ここに書かれてあることは、私たちの実相は神の子であり、本質は皆、素晴らしい存在であるけれども、そのことに甘んじてしまっていて、実相を表現する努力をしないのではいけない、ということですね。今、流行っている言葉を使えば--「ボーッとして生きてんじゃないよ!」ということです。

 さて、そこで今日は、今世界中で問題になっている新型コロナウイルスについて少し考えてみたいのであります。生長の家では、すべての現象は、善いものも悪いものも皆、観世音菩薩の教えであると言いますから、今回のウイルス問題から私たちは何を学ぶべきかを考えましょう。

 先ほど、七つの光明宣言の第1項と第2項を紹介して、私は、人間の生き方として、「自己に宿る“神の子”の真性を表現する努力を怠ってはならない」という意味の話をしました。それが、立教当初からの生長の家の考え方の基本であるわけです。では、人類全体を考えてみた時は、私たちはこの基本的教えに沿って、ここまで生きてきたのでしょうか? 

Beyondanthro  私はこれまで、いろいろの本の中で、人類の歩みを振り返って、神の子の真性がまったく表現されて来なかったとは書きませんでした。しかし、人類の歩みに問題がなかったとも書きませんでした。特に、産業革命後の人類の歩みについては、公害問題を起こし、自然破壊を大々的に進めてきたことに批判的でした。例えば、今から18年前に出した『今こそ自然から学ぼう』という本には「人間至上主義を超えて」という副題をつけて、多くの私たちの考えの根本にある思想を批判しました。はしがきから少し、引用します。ここにはピューリッツア賞を取った生物学者、E・O・ウィルソン博士に触れてこう書いていますーー

「ウィルソン博士は“人類は地球というこの特定の惑星上で他の生きものといっしょに進化してきた。私たちの遺伝子の中には、これより他の世界はない”と言っている。この言葉を、私は生物の遺伝子操作によって世界が改善すると考えているすべての人々に読んでほしい。そして味わってほしい。ここで“他の生きもの”と博士が言っているのは、千や二千の種類ではない。何十万種、何百万種の生物を指しており、そのなかのほとんどは、どのような生き方をし、どのような機能を自然界で果たしているのか、人類はまだまったく知らないのである。
 が、我々はその生物種を急速に絶滅に追い込んでいる。自分の目先の利益を快適さのために、自然界の調和と安定を支えてきた無数の生物種を犠牲にし、少数の生物種だけを殖やし、新種を開発し、あまつさえ別種の生物との間で遺伝子を入れ替えたり、つけ加えたり、機能を止めたり、混ぜ合わせたりする作業に血眼になっている。これらはすべて、“自然は人間に不都合にできている”という考え方の産物だ。」

「生長の家創始者、谷口雅春先生の言葉を引用させていただけば、“宇宙全体が神の自己実現であるのである。”(天下無敵となる祈り)この“宇宙”とはもちろん“人間”だけの棲家(すみか)ではない。それを忘れて、人間だけの“天国”や“浄土”をつくることはできない。そのような人間至上主義は、個々の肉体としての人間を至高のものとする“肉体人間至上主義”である。生長の家は“人間は神の子”と教えるが、それは“肉体に執着した現象人間”が尊いという意味ではなく、宇宙の一切の存在を神の自己実現として観ずることのできる“本来の人間”(仏)が至高だという意味である。
 人間の多くがそのような自覚に達するには、まだ時間がかかる。それまでは、自然はその自覚を促す“警鐘”を我々の内外に鳴らし続けるだろう。我々はその意味を正しく理解し、間違いを正していかねばならない。自然を拷問にかけることで、我々自身を拷問にかけることは避けねばならない。」

 ここに「自然を拷問にかけることで、我々自身に拷問をかけている」という表現がありますが、ひと言でいうと、それが今回の新型コロナウイルスの世界的拡大から学ぶべきことなのです。先ほどの文章の中に「狂牛病」と「口蹄疫」という家畜の伝染病のことが出てきましたが、このあとには「SARS」とか「MERS」の流行があり、そして今回の新型コロナウイルスの事件があるという、一連の新しい感染症拡大は、人間の側に大きな原因があると考えるべきなのです。

 少し説明をしましょう。SARSは「severe acute respiratory syndrome」の略で、「重症急性呼吸器症候群」と訳されています。MERS「Middle East respiratory syndrome」の略で、「中東呼吸器症候群」です。それと今回のウイルスの共通点は「コロナウイルス」である点です。「コロナウイルス」は太洋の「コロナ」の形に似ていることから、その名がついたといいます。写真をご覧に入れますーー

 SARSは、2002年11月に中国広東省で発生し、翌年の7月末に終息するまでの9カ月に32カ国へ広がり、8,096人が発症し、死者は774人に上りました。致死率は9.6%といいます。MERSは、2012年9月以降、サウジアラビアやアラブ首長国連邦などの中東で蔓延し、3年後の2015年6月半ばまでに1,293人に感染し、うち458人が死亡しています。SARSの原因については、まだ確定的になっていませんが、ハクビシンだろうとか、もともとはコウモリがもっているウイルスだとか言われています。これに対し、MERSのウイルスはヒトコブラクダがもっているそうです。それとの“濃厚接触”が原因のようです。今回の新型コロナウイルスによる呼吸器症候群も、原因はまだ確定していませんが、センザンコウが中間宿主ではないかという説が、有力視されています。
これは2月22日付の『ナショナル・ジオグラフィック』誌のウェブサイトの記事に載っています--

「センザンコウが本当に新型コロナウイルスの中間宿主であるかについては、まだ正式な論文で発表されたわけではない。センザンコウからヒトにウイルスが感染したことが確認されてもいない。それでも、2020年2月現在、検証されている説の一つであり、アジア(とりわけ中国とベトナム)でのセンザンコウの消費と、大規模な違法取引に対する監視の目が厳しくなると考えられている。」

 センザンコウがどんな動物かを見てみましょう。

 センザンコウは、哺乳動物の中の「鱗甲目」に所属する動物の総称で、英語では「pangolin」といいます。アリやシロアリを食する。世界に8種類いて、アジアに4種、アフリカに4種。大きさは、小さい種類がイエネコぐらいで、大きい種類は体長75~85センチ。ワシントン条約で取引が禁止されているが、「世界で最も多く密売されている哺乳類」と言われ、毎年数万匹が密猟されている。とりわけ近年になって押収量が増加している。これは、中国が2018年に象牙の国内取引を禁止したことと関係があると見られている。象牙の値段が下がり、取引きのウマ味がなくなったため、犯罪組織がセンザンコウの取引に切り換えた可能性がある。ある調査によると、2016年には平均で2.4トンだったセンザンコウの押収量は、2019年には6.8トンまで急増している。

 センザンコウは肉が珍味とされ、ウロコは伝統薬の材料に使われ、ウロコの取引き価格は1匹あたり2700ドルという(2017年現在)。また、胎児のスープは、男性用の強壮剤になるとして売られている。またウロコは、インドではリウマチに効くお守りとして用いられ、アフリカでは魔除けとして用いられ、ベトナムではジャライ族が民族楽器クニーの素材として使うという。

 今回の新型コロナウイルスの感染は、武漢市の市場から始まったと言われているのですが、動物を生きたまま取引きする現場というのは、いわゆる「濃厚接触」が頻繁に起こることが分かります。動物は、センザンコウに限らずいろいろな種類のものが、小さな籠に入れられて市場の狭い空間に積み上げられたりするからです。これは皆、人間のためだけにそうするのです。自然界では、広い森や草原などで、外敵から身を守るためには、あるいは自分の縄張りをもつために、動物と動物の間には必然的に距離が生まれます。ところがそれを人間が市場で売買したり、飼育したりする場合には、そんな距離がなくなり、同種の動物も異種の動物も一緒にされて“満員電車”のような状態に長期に置かれます。また、殺されて肉になる場合は、血液、体液、内臓などが人間と直接接触する。そこに、人間がもともともっていない細菌やウイルスが、人間の体内に入る機会が生まれます。

Hogfactory  繰り返しになりますが、今回の感染症がセンザンコウのもつウイルスが原因かどうかはまだ確定していませんが、仮にそうでなくても、過去にはハクビシンやコウモリ、ヒトコブラクダの例があり、また狂牛病や口蹄疫の場合は、狭い空間にたくさんの動物を詰め込んで飼う飼育法が、人間のためだけの目的で行われているという事実を、確認しなければなりあせん。そして、まさにこの人間至上主義的な動物への処置が、結果的に人間に大きな被害や損害を与えているのです。私が「自然への拷問が人間への拷問となっている」というのは、こういう意味であります。

 さて私は、この話の最初に「生命顕現の法則」という言葉に触れましたが、この自然界と人間の関係を考えると、ある生命が現れて発展するためには、「優勝劣敗」とか「弱肉強食」という言葉が暗示するように、他の生命--他の生物種を駆逐したり、絶滅させたりして、いわゆる“ひとり勝ち”をすることではないということが分かります。そのような人間至上主義的生き方をしていると、人間自身が大きな問題を抱えることになる。生長の家では、「人間は神の最高の自己実現」といいますが、この意味は、人間が他の生物種を自己目的のために生殺与奪の権を振るって支配するということではない。それは「神」がすべての生物種の創造者であり、それら生物種を愛されているのと同じように、人間もすべての生物種を、自分もその一部である自然界の仲間として、また“神の作品”として尊重し、愛するというのでなければならないのです。そのことを説いているのが、生長の家の宣言の第1項目だと私は思います--「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。」

 皆さんもこの運動を進める中で、「自然と共に伸びる」という意味は、『七つの光明宣言』の第1項を生活に生きるということであることを、機会あるたびに思い出し、人々にも伝えていただきたいと念願する次第です。

 91回目の立教記念日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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2017年11月22日 (水)

“個人の救い”は自然との調和の中に

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山出龍宮顕齋殿に、地元の長崎県などから約280名を集めて「谷口雅春大聖師御生誕日記念式典」が執り行われた。私は同式典にて祝詞奏上を行ったほか、谷口雅春先生のお誕生日に因んで概略、以下のような挨拶を行った。 
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 皆さん本日は、谷口雅春大聖師御生誕日記念式典のために、この生長の家総本山・出龍宮顕齋殿にお集まりくださり、有難うございます。また、この顕齋殿には来られていませんが、インターネットを通じて式典に参加して下さっている日本全国の、さらには海外在住の生長の家信徒の方々にも心から感謝申し上げます。ありがとうございます。 
 
 さて、谷口雅春先生は、明治26年のこの日、西暦では1893年のお生まれですから、現在肉体を表しておられたならば、今日で満124歳になられることになります。亡くなられたのが、今から32年前ですから、ずいぶん歳月が過ぎました。今年の雅春大聖師の三十二年祭では、私は雅春先生がご生前、物質主義的繁栄を求めるだけでは人間は決して幸福になれない、と説き続けられたことをお話ししました。それは人にそう説かれたというだけでなく、ご自身の生活においても、贅沢や無駄遣いを決してされない質素なライフスタイルを貫徹されたということであります。 
 
 雅春先生は82歳のときに、この総本山の地へ移住され、山と森だけだった広大な敷地に、顕齋殿を初めとした数々の建物、また金龍湖、七つの燈台などの宗教的な建造物を構想され、総本山建設の陣頭指揮に立たれました。ですから、この地は、雅春先生の自然に対するお考え--難しく言えば「自然観」がよく表現されているのであります。 
 
 どうですか皆さん、この地では自然と人間とがケンカしているでしょうか。それとも仲良く調和しているでしょうか? 今、長崎の地は紅葉の季節でありますが、皆さんは今日、都会を離れてここへ来られ、秋の自然界の美しさを存分に堪能されているのではないでしょうか? 「神・自然・人間の大調和」という標語、あるいは、「自然と人間は神において本来一体である」という表現は、今の時代に作られました。しかし、これらの表現は、雅春先生の自然観、雅春先生の自然に対するお考えを反映していると信じて疑わないのであります。 
 
Kamishizen2  こちらへ寄越していただく前の11月19日には、私が住んでいる山梨県北杜市の“森の中のオフィス”では、生長の家代表者会議という重要な会議がありました。その会議は、全世界の生長の家の幹部が一堂に集まって、来年度の運動方針について理解を深める場でした。そこでの質疑応答の時間に、ある教区の幹部の人が、「今の生長の家の運動では、“個人の救い”が疎んじられているのではないか?」との疑問が提出されました。これはきっと、私たちの現在進めている運動の中で、「神・自然・人間の大調和」という言葉が頻繁に出てくるからだと思います。その人は、「神・自然・人間の大調和」はもちろん大切だが、宗教運動では「個人の救い」も大切で、それを言わないのはオカシイという意見を表明されたのです。 
 
 しかし、皆さん、よく考えていただきたいのですが、「神・自然・人間の大調和」という標語と、“個人の救い”とは別々のものなのでしょうか? 私は決してそう思いません。生長の家は今も昔も、“個人の救い”を軽視したり、無視してはいません。「神・自然・人間の大調和」を実現しようという現在の運動は、“個人の救い”を無視しているのではなく、21世紀の現代では、本当の意味での“個人の救い”を成就するためには、「自然と人間は神に於いて一体である」という真理を知ることが必要だと考えるのであります。 
 
 だいたい「個人」と「自然」とを分離して考え、一方が繁栄すれば、他方はその犠牲になるというような視点を、生長の家はもたないのであります。これは、自然と人間を対立させて考える“旧い文明”の基礎にある考え方で、今日の科学的知見にも反します。今日の生態学、遺伝学、分子生物学、認知心理学などが教えてくれるのは、人間は周囲の生態系の一部であり、人間の肉体の構造は、自然界を構成する他の生物と基本的に変わらず、人間の心の幸福は自然界と切り離して考えられないということです。 
 
 そのことは、東日本大震災とそれに伴う原発事故で、福島県を含む東北地方の多くの人々が体験されたことではないでしょうか? 「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川……」という唄が、何を教えてくれるかを思い出してください。それは、私たちの心の故郷は、自然界との交わりの中にあるということです。にもかかわらず、私たちは経済発展を目指して、山を崩し、森林を破壊し、川を埋め立てて、高速道路やショッピングセンターを造ることで、自然を自分から遠ざけてきました。こうしてGNPやGDPの数値は上がりましたが、自殺者は減らず、先端的技術を使った新しい詐欺が次々と生まれ、子供たちの間にはアレルギーが蔓延しています。 
 
Kamishizen3  生長の家は、決して“個人の救い”をやめたのではありません。雅春先生の時代からずっと継続的に、各地の練成会や練成道場や誌友会の場において、“個人の救い”のためにも真剣に取り組んでいます。しかし、今日の運動では、“個人”を自然から切り離して考えるのではなく、「自然と人間との関係において捉える」という、より大きな視点をもって取り組んでいるという点が、違うといえば違うのです。また、「日本」という地理的に限定された地域の人間のことだけを考えるのではなく、「地球」という大きな環境の中で人間社会全体が自然と共存・共栄する方法を、信仰のレベルから考え、具体的に提案しようとしているのであります。 
 
 私は最近、人間が自然の一部であり、人間の幸福は自然を壊すのではなく、その懐に入って仲良くすることで体験できるということをよく感じるのであります。 
 
 NHKの番組でマツタケを育てている長野県・伊那地方の人のことを伝えていました。この人は毎年、トラック何台分ものマツタケを収穫するというのです。マツタケはアカマツと共生するキノコですが、アカマツがあれば必ずマツタケが出るというような簡単なものではないことは、皆さんはご存じでしょう。日本の森にはアカマツ林はいくらでもありますが、マツタケが採れるのは、その中のごく一部です。この番組によると、日本では昔はマツタケがよく採れたのに、私たちの生活上のある変化がきっかけになって、採れなくなっていくのです。その変化とは、何でしょうか? それは、化石燃料の利用です。もっと具体的には、プロパンガスを利用する生活が都会だけでなく、田舎にも普及してくると、人々は山に入って燃料用の木ーー折れた枝や灌木など--を採らなくなってしまった。つまり、日本昔話にあるように、「おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に……」というライフスタイルがなくなってしまい、山や森が放置されていくのです。 
 
 マツタケは、落ち葉や折れた枝がたくさんある土地には生えないそうです。湖や沼に栄養分が過度に流れ込んだ状態を「富栄養化」と言いますが、そんなところはプランクトンが増殖しすぎて魚が棲めなくなります。それと同じように、人々が山に入って下草を取ったり柴刈りをしなくなると、それは言わば“富栄養化”された森になって、そこではマツタケは発生しないそうです。だから、テレビで紹介されたマツタケ名人は、定期的にアカマツの森に入って、せっせと下草刈りや枯れ枝、枯葉の除去をして、土地を“貧栄養化”する作業をしているそうです。 
 
 この話を聞いて、私は自然界の絶妙なバランスの素晴らしさに感動しました。人間が自然に関与することによって、自然は必ずしも破壊されないどころが、生物多様性が拡大し、人間も自然も共に栄えるウィンウィンの状態が実現するーーこのことは、田圃のある里山の自然についても言われていることですから、決して例外的に起こることではないのです。ただ、問題なのは、私たち人間が欲望を掻き立てて、人間が好む生物種だけを数多く生産して金儲けを企むと、生物多様性は破壊され、自然と人間のウィンウィンの関係もなくなってしまうのです。 
 
Owlapple2  もう1つ、同じような人間と自然との仲良い関係を教えてくれる例がありました。それはついこの間、11月18日付の『朝日新聞』夕刊で取り上げられていた「リンゴとフクロウ」の話です。リンゴの産地である青森県の人は、すでにご存じのことでしょう。しかし、そうでない人は、いったいリンゴとフウロウの間にどんな関係があるか想像できるでしょうか? 私はできませんでした。フクロウは猛禽類で肉食ですから、リンゴの実を食べるのではないし、かと言って、リンゴに発生する虫は、フウロウが食べるには小さすぎます。記事を読みますーー 
 
「フクロウに期待されているのはネズミ退治だ。
 リンゴの木は苗木から採算が取れるまでに7、8年かかるとされるが、ネズミは冬場にエサが不足すると、リンゴの木をかじり出す。冬の間は1.5メートルもの積雪があるため、春まで被害がわからず、枯れてしまうケースもある。(中略)
 かつてリンゴ農園でよく見かけられたフクロウにとって、ネズミは子育てに欠かせないものだった。普段は森や林の木の上で生活しているフクロウは、3月ごろにリンゴの木の幹に空いた洞の中で産卵。ヒナが巣立つまでの約2カ月、農園にいるネズミをエサに子育てをしていた。 
 ところが、リンゴ農園では1970年代以降、生産効率向上や省力化のため、小ぶりな木への植え替えが進んだ。その結果、洞のある古い大きな木が減少し、フクロウは姿を消した。」 
 
 ここにあるように、自然と人間はもともと対立しているのではないのですね。ある土地に適切な量のリンゴを作るので満足していれば、リンゴを太くなるまで大切に育て、その木に洞ができてフクロウが棲みつき、冬場にネズミが木をかじるのを防いでくれる。しかし、人間の欲望の度が過ぎてしまうと、リンゴの木の苗を不自然な形に育て、木を太らせず、したがってフクロウは巣を作らないし、やって来ない。すると人間が自分の力でネズミと戦うことになり、殺鼠剤を撒く。それは当然、人間の体にも害が及ぶ。こうして自然と人間との良好な関係が崩れてしまうことが分かります。 
 
 先ほど、現代人のアレルギーの問題に触れましたが、これも人間が自然界の生物を過度に嫌って、抗菌剤とか、殺虫剤とかを多用してきたために、本来もっていた抵抗力を失ったことが、大きな原因だと言われています。言い換えれば、親や祖父母の時代には存在した自然と人間との体内での調和が失われたため、ソバが食べられない、ダイズが食べられない、小麦製品が食べられない、ミルクが飲めない、チーズが食べられない……そういう子供たちが増えている。これは“個人の救い”の問題ですか、それとも「神・自然・人間の大調和」の問題でしょうか? もちろん、その答えは「両方の問題」なのです。これら2つは、別々の問題ではないのです。 
 
 11月20日付の『読売新聞』には、こういう記事が載っていますーー 
 
「日本小児アレルギー学会は19日、アレルギー専門医療機関への全国調査で、食物アレルギーの検査や少しずつ食べて体に慣れさせる経口免疫療法に関連して、少なくとも7医療機関で9人が、人工呼吸器が必要になるなどの重いアレルギー症状を起こしたことが分かった、と発表した。」 
 
 この記事にあるように、現在、子供の食物アレルギーについては、アレルギー源を避けるのではなく、少しずつ食べさせて体に慣れさせるという方法が有望な治療法として採用されているのです。薬で治すのではなく、アレルギー源を与えることで、アレルギーを治すのです。人間の体には、いろいろの重要な食物に対して、アレルギー反応を起こさせないような仕組みが本来備わっているのですが、何らかの理由でその仕組みが壊れてしまった。私はこれは、自然を敵視する過度な衛生管理の結果だと思います。その証拠に、アレルギー源を与え続けるとアレルギー反応がなくなるという逆説的な治療が有効だからです。 
 
 同じ記事に、こうありますーー 
 
「有効な治療薬もない中で、原因となる卵、牛乳などを少しずつ食べて体を慣れさせる経口免疫療法は大きな福音となっている。食物の種類で効果は違うが、3~8割の患者で症状が出なくなるという報告もある」。
 
 このような例を考えてみると、私たちの現在の生活における“悩み”の中には、人間と自然との良好な関係が壊れてしまったことが原因になっていることが結構あることがわかります。それらは、“個人の悩み”であることは勿論ですが、それと同時に社会の問題であり、自然と人間の関係の問題であり、さらには自然と人間の関係をどうとらえるかという哲学や信仰の問題でもあるわけです。 
 
 そういう広い視野で現代の様々な問題をとらえて、「神・自然・人間の大調和」を訴えているのが生長の家の運動です。ですから、自分の悩みの根源について深く理解せずに、狭い周辺のことしか考えない人にとっては、生長の家の運動は“個人の悩み”を軽視していると見えるかもしれません。しかし、思い出してください。生長の家の教えでは“個人”などという肉体的に孤立した人間など、ニセモノだと説いているのです。「人間は神の子である」という教えは、バラバラな存在としての「個」なるものは、あくまでも仮の姿であって、実相ではないと否定しています。なぜなら、神はすべてのすべてだからです。その御徳をすべて譲り受けている神の子同士は、バラバラの“個”であるはずがないのです。 
 
 皆さんはぜひ、この教えの一部分だけを見て、「これが生長の家だ」と限定してしまわないようお願い致します。そして、谷口雅春先生は、この自然豊かな長崎の地で晩年を過ごされながら、公私両面から自然と調和した生き方を実践されたことを忘れずに、「神・自然・人間の大調和」実現に向かって、喜びをもって進んでいこうではありませんか。雅春先生の御生誕日に当たって、所感を述べさせていただきました。 
 
 ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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2015年3月25日 (水)

結び合うこと (3)

「ムスビ」のゲームで使う牌は、28枚である。これは、7種類の生物をペアにした時の可能な組み合わせすべてで、計算式で表すと(7×7-21=28)となる。「-21」とするのは、「人」と「花」の組み合わせには(人,花)(花,人)の2種が考えられるが、両者は同じものと見なせるからだ。ゲームでは、これらのうち2~4人のプレイヤーに手札として6枚を配り、残りは場に山札として伏せて置く。そして、プレイヤーは時計回りに、自分の手札から、場に置かれた牌の絵柄と“ムスビ合う”絵柄の牌を探して、場に並べていく。該当する絵柄を描いた牌を持ってない場合は、山札から1枚引いて手札とする。こうして順々に牌を場に置いていき、自分の手札がなくなれば上がりである。
 
Musubigrid  これだけ書くと簡単そうだが、問題は「ムスビ合う絵柄とは、何と何か?」を憶えることだ。それをここに一覧表としてまとめてみた。この表に書かれたことは、専門の生物学者から見れば異論があるかもしれない。しかし、これはあくまでもゲームだから、「直観的で憶えやすい」という点を優先した。生物種の数は気が遠くなるほど多く、それぞれの生態を一般人が詳しく知ることはできず、ましてや憶えられない。その点は御了承願いたい。
 
 表の上方から簡単に説明する--まず「人」と他の生物とのムスビ合いだが、これは「すべてと結び合うことができる」と考えた。簡単に言えば、人間はここにある7種の生物のどれもを鑑賞し、また食用にしているからだ。「虫」とは昆虫のことだが、これが「花」を好きであり、「魚」や「亀」「鳥」のエサになることは、ご存じの通りだ。「菌」とはキノコのことである。「茸」は俗字だというので、あえて使わなかった。「花」との関係では「鳥」が蜜を吸いに来るのはよく知られているが、キノコとは関係ないように感じる。が、ここでは「樹木にも花が咲く」ことを思い出してほしい。キノコは「木の子」だから当然、樹木と結び合っている。「魚」は「鳥」に食べられるし、「亀」も小魚を食う。「亀」と「鳥」とは無関係のように感じられるが、カミツキガメは水鳥のヒナを捕食し、小亀(幼体)は猛禽類の餌食になる。
 
 同種の生物は互いに結び合わないのかというと、もちろん結び合う。が、このゲームは、ドミノ・ゲームの原理を“逆用”するところにポイントがあるから、ルールとして「同種の結びつき」を禁じ、「他種との結びつき」だけを可とすることにした。
 次に、ゲームのやり方を説明しよう--
 
 まず、すべての牌を伏せて、麻雀牌と同様にかきまぜる。これを山札とし、各プレイヤーは決められた枚数(今回は6枚)を山から取って手札とする。手札は他のプレイヤーから見えないように立てて置く。ジャンケンで最初に牌を置くプレイヤーを決め、時計回りに場に置かれた牌の、置かれた側に自分の牌をつなげていく。出す牌は、普通つなげる牌と同じMusubi_1463 向きに置くが、テーブルに余裕がなければ、90°向きを変えて置いてもいい。また、(花,花)のようなダブル牌(“ゾロ目”の牌)を置くときは、並んだ列に直交するように置く。ダブル牌にシングル牌(ゾロ目でない牌)をつなぐときには、ダブル牌の側面につなげる。
 
 プレイヤーの手札がなくなるか、誰も牌を出せなくなったら、ゲームは終了する。私が、秘書室の3人とプレーしたときの最終図を、ここに掲げる。
 
 谷口 雅宣

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2015年3月23日 (月)

結び合うこと (2)

 前回の本欄では、「ムスビ」という考え方の背後にある「隠された関係性」について書いた。これは哲学的考察のテーマになる命題ではあるが、今はこれ以上深く追求しない。なぜなら今回、表題のテーマを選んだ目的は、もっと気軽で、楽しいものだからだ。実は、私は今、ゲームを作ろうと考えている。何年か前にも、postingjoy上で有志を募ってゲームを作ろうとしたが、うまくいかなかった。だから、今回は成功させたいと願っている。ゲームを作る目的は、「ムスビ」という考え方を広く社会に浸透させたいからだ。今日の社会には、イジメを初め、孤立、離反、分離、遊離、対立、隔絶……などの「ムスビ」とは逆方向の現象が広がっているように見える。そんな時、世界の本当の姿はそんなものではないというメッセージを、気むずかしい顔で発するのではなく、気軽に、楽しく、笑いながら拡大していく方法はないものかと思案していたとき、「ゲームを作る」という発想が浮かんだのである。
 読者は、「ドミノ」というゲームをご存じだろうか? サイコロの目のような数が1組2枚で刻まれている長方形の牌が、ドミノ牌だ。それを数多く長々と床の上に立てて並べ、倒して遊ぶのが「ドミノ倒し」である。これは昔、私が少年の頃に、テレビでやっていて面白かったのを憶えている。自宅でもマネをしてやったかもしれない。実は、ドミノ牌を使ったゲームは「ドミノ倒し」だけではなく、麻雀や、トランプにも似た、もっと頭を使う種類のものがいくつもある。私は、そのドミノ・ゲームの原則を見て、「これはゲームに使える!」と思ったのである。ただし、その原則をありのまま使うのではなく、逆立ちさせて使う。そうすれば、「ムスビ」の考えをゲームに表現できると思ったのだ。
Domino00  ドミノ・ゲームの原則は、牌に刻まれたサイコロの目の、同じ数同士をつなげていく。その例をここに掲げるが、この図の左側には、サイコロの目の「1」と「4」がつながった牌--以下(1, 4)と表記する--と、サイコロ目の「4」と「3」がつながった牌--以下(4, 3)と表記--がある。その場合、2つの牌に共通した数「4」があるので、この2牌は連結することができる。連結した様子を、図の右側に描いた。連結の仕方は、右に90°回転しているが、これは0°でもよく、-90°でもいい。状況によって変化する。この角度は重要ではなく、ポイントは「共通した数があれば、牌と牌をつなげていける」という考え方である。これは、言い換えれば「同類がつながる」という考え方であり、とても分かりやすい。しかし、「ムスビ」の考え方はむしろ逆である。
 男女間のムスビは「補足の原理」で成り立つと言われることもあり、生物学的な側面でも、男女は異質なものの結合であることは明らかだ。もちろん「夫婦は似た者同士」という言葉もあるから、まったく異質な2人は結ばれないだろう。が逆に、まったく同質の2人が結ばれることは決してない。そもそもそんな2人は、結ばれる意味があまりないからだ。この観点を生物間のムスビに拡大して考えると、昆虫と植物、木とキノコ、果樹と鳥、人間と大腸菌……など、自然界には異質のもの同士の結合が当たり前に存在する。そして、そういう結合の網によって、全体的に安定した生態系が形成されているのである。だから、ドミノ・ゲームの原則を逆転して、「違うもの同士の結合」をルールにすれば、自然の事象を材料にしてムスビの考え方を理解し、楽しむゲームが作れるかもしれない。
 私はこう考えて、ドミノ・ゲームでは「ダブル・シックス」と呼ばれる28枚1組の牌を考えてみた。ドミノの場合、この28枚の牌は、0~6の数で可能な目の組合せすべてである。それを、私の「ムスビ」のゲームでは、数ではなく、7種の生物の組み合わせに置き換えた。それらは、「人」「虫」「花」「魚」「亀」「菌」「鳥」の7種である。
 谷口 雅宣

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2015年3月 1日 (日)

「生命を礼拝する」とは?

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山で「立教86年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が開催され、ブラジル、アメリカ、台湾からの海外信徒代表者を初め、国内各教区から約800人の幹部・信徒が集まって、生長の家立教の精神を振り返り、今後の運動の進展を誓い合った。この式典は、昨年に続いてインターネットを利用して世界に中継されただけでなく、時差を利用した音声の外国語訳が試みられた。私は式典の中で概略、以下のような内容の挨拶を行った--
 
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 皆さん、本日は立教記念日おめでとうございます。この日は、生長の家の86回目の誕生日であります。人間の場合、「85歳」や「86歳」は“老人”かもしれませんが、団体や宗教運動の場合は、何千年も前に誕生したものもありますので、大変「若い」運動であり、まだ「草創期」と言っても間違いではないかもしれません。だから、今日のように、春の息吹を感じる日には、私たちも「さあ、これから運動は伸びるぞ!」という意気込みを感じるのではないでしょうか。
 
 86年前にこの運動を始められた谷口雅春先生と輝子先生も、きっとそんなお気持で昭和5年の春を迎えられたに違いないのであります。私はこの立教記念日には、毎年のように、昭和5年3月1日発行の『生長の家』誌創刊号をもってきて、その中に表れた立教の精神に学び、またその精神を現代にどう生かしていくべきかを皆さんに提案してきたのでありますが、今日もそれをしたいと考えます。 
 
 ここに『生長の家』誌創刊号がありますが、この雑誌の裏表紙には「生長の家の宣言」という6カ条の宣言文が掲げられています。これは、現在は『生命の實相』などの中で「七つの光明宣言」として書かれ、私たちの運動の目標とされているものの原型であります。当初は6カ条だったものが、後に7カ条になったということです。私は2年前のこの日には、この宣言文から「創化力」という言葉を引用して、その意味について述べましたが、今日は、この第1条にある「生命を礼拝する」ということについてお話したいのであります。 
 
 第1条には、こうあります-- 
 
「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」 
 
 これが、創刊号に掲載された第1条で、後に発行された『生命の實相』では、この最初の所に「宗派を超越し」という文言が挿入されています。つまり、こうなっています-- 
 
「吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」 
 
 生長の家は「万教帰一」でありますから、「宗派を超越する」ということは皆さんも大いに賛成されているだろうし、現在の世界情勢を見ると、まさにこの考え方が必要であることは疑う余地はありません。しかし、ではもう一つの「生命を礼拝する」とは、どんなことを言うのでしょうか?  
 
 昨今、日本のメディアで騒がれているのは、中学1年の男の子が、川崎市の多摩川の河川敷で酷い方法で殺されたという事件についてです。これは明らかに、「生命を礼拝」していない行為です。被害者の少年は13歳ですから、これからまだまだ成長し、いろいろな経験を積みながら人生を謳歌し、また社会にも貢献していける可能性をもった中学生の意志を蹂躙し、命を奪う行為は、明らかに「生命を礼拝しない」行為です。そのような行為が野放しになることは、許されないことです。では、人殺しさえしなければ、動植物を殺すのであれば「生命を礼拝」していると言えるのでしょうか? 私はそうは思いません。ここにある「生命」という言葉は、人間の命のことだけを指すのではないからです。もし、人間が生きるためだからといって、多くの生物種が絶滅し、あるいはウシやブタなどの家畜たちが、劣悪な環境で苦しみながら育てられ、そして大量に殺戮されていくならば、それは生命を蹂躙しているのですから、生長の家の信仰者は、そんな行為に加担するような生き方をしてはいけません。 
 
 今、私たちの運動が生物多様性を尊重し、肉食を減らそうとしている重要な理由の1つが、ここにあります。つまり、私たちの運動は、『生長の家』誌創刊号のこの宣言の第1条の精神に忠実に従い、それを世界的に展開していこうとしているのです。 
 
 ところで、生長の家の国際本部が東京・原宿から山梨県の八ヶ岳南麓に引っ越してから1年半がたちました。東京生まれ、東京育ちの私は、その間、これまでの人生で体験したことがないほど、自然との濃密な関係の中で生きることができて、この生活を選んだことを「本当に良かった」と感じています。これは皆さん、決して負け惜しみなんかじゃありません。もちろん、都会と比べて田舎は不便です。特に、私が住んでいる地域は、田んぼも、畑もありませんから、田舎というよりは「山の中」「森の中」です。畑に野菜や果物を植えれば、すぐにシカが来て食べてしまいます。雪が降れば、車の出入りもままならない所です。世の中の流行や、食べ歩きや、映画やゲームなどの娯楽からはずいぶん遠くなりました。でも、その代りに得た自然界との濃密な関係は、都会の生活では決してわからない重要な事実を教えてくれます。それは、「人間は自然の一部だ」ということです。だから、本当の意味で人間の命を大切にするためには、その基盤である自然を大切にしなければならないということです。 
 
 このことは、理論的には、私自身がこれまで繰り返して訴えてきたことですが、それはどちらかというと、頭による理解でした。ところが、“森の中”での生活を実際に経験して、私は「人間は自然の一部だ」と全身で感じることができるようになりました。具体的に説明しましょう-- 
 
Kamoshika  私は今、自宅からオフィスまでを徒歩で通っています。雪が降るまでは自転車通勤が可能でしたが、標高1200~1300メートルの土地に雪が降ると、道路が凍結します。ですから、徒歩に替えました。徒歩だと、オフィスまではほとんど上り坂ですから、雪の中を行くと約1時間かかり、帰りは下り坂が多いので40分ぐらいです。この往復の道で、ときどき野生動物に出会います。シカ、キツネ、タヌキ、キジなどですが、クマには会いたくないので、季節になると鈴を付けます。ついこの間(正確には2月24日の夕方ですが)、特別天然記念物に指定されている動物に出会いました。ニホンカモシカです。普通のシカは、人間と出会うとすぐに逃げてしまいますが、このカモシカはじっと立ち止まって私の方を見ています。そろそろと近づいていって写真を撮りましたが、5~6メートルの距離まで近づくと逃げていきました。その間、私とカモシカは見つめ合います。お互いの意図を探り、距離を測るのです。そういう直接の触れ合いの中で、私は「人間は自然の一部だ」と感じ、喜んでいる自分を発見するのです。 
 
 この話を、帰宅してから妻に話すと、彼女も「動物と出会うのは楽しい」と言います。人間は、野生の動物と出会うことに喜びを感じるということは、彼女もずっと感じていたことでした。その時、私は、ピューリッァー賞を受賞したアメリカの生物学者、エドワード・ウィルソン(Edward O. Wilson)の言葉を思い出しました。それは彼の本のタイトルにもなった「バイオフィリア」(biophilia)という言葉です。「バイオ」(bio)は生物、「フィリア」(philia)は愛するということです。彼の考えによると、人間にはその心の奥深いところに、自分の同類である人類はもちろん、人間以外の生物を愛する感情があるというのです。彼の言葉を引用しましょう-- 
 
「どんな生物であれ、生命なき物質のあらゆるバラエティをすべて合わせたよりも遥かに興味深いものだ。生命のない物質は、どれだけ組成の似た生体組織の代謝に役立つか、あるいは有用な生体物質へと変化させられるかによって、その主な価値が決まると言っても過言ではない。健全な精神をもった人間なら、生きている木よりも、そこから落ちた枯葉の山を好んだりはしないだろう。」 
 
「(…中略…)なかでも、ある種の生物は、精神の発達に特別な影響を与えるために、より多くのものをもたらしてくれる。他の生物と結びつきたいという欲求は、ある程度まで生得的であり、“生物愛好”(バイオフィリア)とでも呼ぶべきのだと私は考えている。この仮説の根拠は、科学的な意味で言えばそう確固たるものではない。(…中略…)だが、生物を好む傾向は、日常生活において明瞭なかたちで、しかも広く見られるものであり、真剣な考察を向けるに値する。それは、幼年期から、予測可能な幻想や個人的反応のなかに姿を現わし、やがて大部分もしくはすべての社会で繰り返し見られるパターン、人類学の文献のなかにしばしば見られる一貫性へと収斂されていく。」(pp. 138-139) 
 
 ウィルソン博士は、この本の別の所ではこう書いています-- 
 
「私がこの本で論じてきたのは、われわれ人間が人間たる所以は、かなりの部分まで、われわれと他の生物との特殊な結びつきにあるということだった。生物は、そこから人間の精神が生じ、また永遠に根を置きつづける基盤(マトリックス)であり、われわれが本能的に探し求めている自由や試練を提供してくれるものだ。ひとりひとりの人間がナチュラリストに近づけば近づくほど、かつての自由な世界の興奮を取り戻すことができる。これは、詩や神話を喚起する魔法の再現の公式だと言ってもいい。」(pp. 228-229) 
 
 この人の文章は、短い中に多くの意味を含んでいるので、少しわかりにくいのですが、結局、こういうことを言っているのだと思います--「人間には、本来的に他の生物と結びつきたいという欲求があるが、その感情の基盤は、われわれ人間が他の生物と“近い”という事実にある。人間の精神は、そういう他の生物との特殊な結びつきを基盤とし、そこから生まれているのだから、われわれが自然に近づけば近づくほど、人間本来の自由と喜びを得る機会を広げることができる」。 
 
 この考えをもう少し、宗教的に、生長の家で使われる言葉によって表現すれば、こういうことになるでしょう--「人間は“神の子”として、神が創造された他の生物すべてと本来、一体の関係にあるから、他の生物と結びつきたいという感情が湧き上がる。他の生物との“自他一体”の感情があるということが、私たち人間が人間である所以である」。このように言い換えてみると、ウイルソン博士が言っていることは、『生長の家』誌創刊号の「生長の家の宣言」の第一条と、ほとんど同じ意味になるのであります。それは、「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」ということです。 
 
 ですから、生命を礼拝するということは、人間はもちろん他の生物との“自他一体”の感情を尊重して生きるということです。それは肉食を避け、自然環境を破壊せず、他の生物との接触の場を多くもつということでもあります。こういう生き方にもっとも相応しい場所は、都会ではなく自然の中です。生長の家が今、国際本部を大都会から“森の中”へ移して運動を展開している理由が、ここにあります。皆さまも、人間本来の生き甲斐や幸福は他の生物との関係の中にある、つまり自然の中にあるということを忘れずに、都会に住む人も、田舎に住む人も、人間の命だけでなく、他の生物の生命も礼拝し、尊重する生き方を実践していただきたい。それが私たち人間の幸福の源泉であり、世界平和への道でもあるのです。 
 
 立教86年の記念日に当たり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣 
【参考文献】
○E.O.ウィルソン著/狩野秀之訳『バイオフィリア:人間と生物の絆』(ちくま学芸文庫、2008年)

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