人類学

2020年8月23日 (日)

縄文人と住居の火

  前回のブログの記述から2週間以上たってしまったが、縄文時代について少しだが勉強する機会があった。そこで何が言えるかと言うと、断定的なことはあまり言えないのである。つまり、考古学者による研究は進んでいるが、それらの研究から“定説”的なものが積み上がり、専門家の

間で一応合意された縄文時代の全体像が見えているのかというと、そうでもないのである。

 例えば、人類にとって大変重要な「火の使用」についてだが、前回引用した岡村道雄氏の『縄文の生活誌』には、縄文初期の人々の生活について、次のようにある--

「炉穴では肉や魚の燻製を作るだけでなく、土器を使っての煮炊きやドングリのアク抜きもした。炉穴は、縄文環境の成立と同時に南九州に普及したが、やがて縄文環境と定住が北上するとともに、早い時期から近畿・中部高地・関東地方まで広がっていった。ただし、竪穴住居内に炉が設(しつら)えられるようになると姿を消し、調理は屋内の炉、燻製は炉の上の火棚で行われるようになった」(p.71)

「縄文土器の基本は、食料を調理する煮炊き用の深鉢土器です。土器で煮炊きができるようになって、人びとはドングリやトチの実、ワラビ、ゼンマイなどの山の幸、貝類などの海の幸を新たに日常食のメニューに加えられただけでなく、さまざまな食材を組み合わせて、味覚や栄養のレパートリーを広げることができました。そして、何よりも衛生的でした。縄文時代は、土器のおかげで食生活を格段に豊かにすることができたのです。」(勅使河原彰著『縄文時代ガイドブック』、p.12)

「縄文時代の竪穴住居には、普通、床の中央か、やや奥寄りに炉が1つ切られている。この炉には、深鉢形の土器がおかれて、食料が煮炊きされるが、暖や明かりをとるなど、一家団欒の場となった。炉の近くの床には、水を入れた深鉢形の土器や加工した食料品を入れた浅鉢形の土器、木の実を入れたカゴ、あるいは木の実を製粉する石皿や磨石などが所狭しと置かれていた。」(前掲書、p.59)

 このような縄文土器の用途の記述を見ると、それが「食料の煮炊き用」であることに異存を唱える人はいないようである。が、この食を得るための調理を縄文人がどこで行っていたのかという話になると、少し様子が変わってくる。上に引用した文章の筆者は、二人とも「室内」での煮炊きを当然としているようだが、「屋外」だと主張する人もいるのである。この主張は、竪穴住居跡に残された炉の底が、多くの場合「加熱によって赤レンガのように固くなっている」ことに注目した小林達雄氏によるものだ。小林氏は、まず炉の「灯りとり用」の用途と「暖房目的だけ」の用途を、理由をつけて「考えにくい」と否定した後で、次のように述べている--

「しかも、誰しもがすぐに思いつき易い、煮炊き料理用であったかと言えば、その可能性も全くないに等しいのだ。このことは極めて重要な問題である。とにかく、いくら室内の炉で煮炊き料理をやっていた証拠を探し出そうにも、手掛りになるものは何一つ残されてはいない。不慮の火災で燃え落ちた、いわゆる焼失家屋に土器が残されていることはあっても、そこには煮炊きに無関係の、しかし呪術や儀礼にかかわるかのような特殊な形態の代物--釣手土器、異形台付土器、有孔鍔付土器--ばかりである。縄文人の食事の支度は、どうも通常、住居の外でなされていたものらしい。」

 小林氏は、現代においても寒冷地に住むイヌイットが、厳寒期や悪天候の時以外はなるべく戸外で食事をする傾向があることを指摘し、気候温和な縄文時代の人が戸外での食事を原則としても不思議でないと述べ、さらには縄文人が竪穴住居で大きく火を燃やすことの問題を、次のように述べている--

「炉で火を燃やせば燃やすほど、煙が立ちこめて、眼を開けていられないほど苦しく、咳が出たり、涙があふれたり、たまらない思いをすることがある。この現実を直視して初めて縄文人に接近し、血を通わすことができるのである。博物館に復元された住居の中で縄文家族がこざっぱりした顔つきで炉を囲んでいる姿は虚像なのだ。そこにはガスや電気の恩恵を身一杯受けた、遥かに縄文放れした現実がそのまま投影されている。」(p.97)

 では、縄文人が家の中にわざわざ炉を構え、そこで火を燃やし続けた目的は何か? 小林氏は、そこに宗教の芽生えを見るのである。



「つまり縄文住居の炉は、灯かりとりでも、暖房用でも、調理用でもなかったのだ。それでも、執拗に炉の火を消さずに守り続けたのは、そうした現実的日常的効果とは別の役割があったとみなくてはならない。火に物理的効果や利便性を期待したのではなく、実は火を焚くこと、火を燃やし続けること、火を消さずに守り抜くこと、とにかく炉の火それ自体にこそ目的があったのではなかったか。その可能性を考えることは決して思考の飛躍でもない。むしろ、視点を変えて見れば、つねに火の現実的効果とは不即不離の関係にある、火に対する象徴的観念に思いが至るのである。火を生活に採り入れた時点から、火の実用的効果とは別に世界各地の集団は、火に対して特別な観念を重ねてきた。その事例は、いまさらながら枚挙にいとまがない。縄文人も例外ではなかった。」(p.94) 

 さて、私自身はどちらの説に賛同するかと問われると、どちらか一方を現時点で選択することを大いに躊躇する。理由は、まだ勉強不足だからだ。しかし、今回のように1万数千年も前の人々の生活を考えるに際して、私たち現代人が注意しなければならないことを学ぶ機会を得た気がする。それは、「現代人の頭だけで考えない」ということと、それでも「同じ人類の一員として考える」ということだ。この2つは一見、矛盾しているように聞こえるかもしれない。が、宗教をなりわいとしている人間にとっては、常に意識しておくべきことだと感じる。詳しい説明のためには、稿を改めたい。

 谷口 雅宣

【参考文献】
〇小林達雄著『縄文の思考』(筑摩書房、2008年)
〇岡村道雄著『縄文の生活誌』(講談社、2008年)
〇勅使河原彰著『ビジュアル版 縄文時代ガイドブック』(新泉社、2013年)

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2020年8月 7日 (金)

縄文時代は長かった

 7月27日の本欄では、生長の家の“森の中のオフィス”で先日行われた「石上げ」の行事の解説で、私は「石と人間の関係」の次に、「縄文時代の特殊性」について話した、と書いた。しかし、この話の全体の時間は30分ほどだったので、詳しい話はできず、ごくごく一般論を述べるに留まった。縄文時代の人々の生活の様子や信仰の中身、文化論のようなものを話したわけでは決してない。だいたい私は縄文文化の専門家ではなく、考古学マニアでもなく、ましてや考古学者ではないから、縄文時代の文化について自信をもって話せることはあまりない。が、たった1つ、これまで専門家や研究者のあいだで合意されている事実の中で、私が素人なりに「特筆すべきだ」と感じたことを述べたに過ぎなかった。それは、この時代の「長さ」だった。

 中学や高校の教科書にある縄文時代の記述を読んで、この時代の重要性をすぐに理解できる人は少ないだろう。少なくとも私自身は、高校生の時に、この時代が重要だとはまったく思わなかった。むしろ、「すごい昔だから、今の時代や生活とは関係が薄く、だから重要でない」と感じていた。時代の古さについては、平凡社の『世界大百科事典』の「縄文文化」の項には次のようにある--

「日本列島における旧石器時代文化に後続する狩猟漁労採集経済段階の文化。縄文土器編年に基づいて草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に区分される。その開始は、炭素14法の年代測定値や汎世界的な海水準変動の地質学的年代などから前1万年前後と推定する長編年説、相対年代法により約前2500年とする山内清男の短編年説があるが、実際は長編年説にやや近い年代と考えられる。」

 入り組んだ文章でわかりにくいが、これを簡単な日本語に“翻訳”すれば、縄文時代の始まりは「明確には分からないが紀元前1万年前後と推定される」ということだ。私が注目したのは、この時代の始まりと推定される「紀元前1万年」という古さではなく、この時代がいつまで続いたかという「長さ」だった。同じ事典には、炭素14法による測定をもとにして、縄文文化が終る年代を「前300」と書いてある。つまり、約1万年も続いた文化が日本にはあったのだ。

 このような理解は、しかし一時代前には存在しなかった。例えば、1972年に発行された高校用の教科書『新訂 日本史』には、「縄文文化は約1万年前から数千年にわたって、大陸から孤立した日本列島の各地に普及した」と書いてある。(p.11)この教科書が当時の文部省の検定を通ったのは1970年である。また、これより17年後に検定を通った『新詳説日本史』という教科書は、「弥生文化の成立」という項目を次のような書き出しで始めている--

「日本列島で数千年にわたって縄文文化がつづいている間、中国大陸では、紀元前5000~4000年ころ、黄河中流で畑作がおこり、長江(揚子江)下流域でも稲作がはじまり農耕社会が成立した。」(p.14)

 これらの教科書の「数千年」という表現が「約1万年」よりも短いということだけを、私は言っているのではない。縄文文化という言葉を聞いて、「中国大陸から孤立した」とか「農耕を知らない」などという語が頭に浮かんできたのは、昔の話で、1980年代後半からの発掘調査や研究によると、古い縄文時代観は書き換えられつつあるという。

 考古学者の岡村道雄氏によると、技術革新に加え、考古学と自然科学との連携が新しい発見を次々と生んでいるのだ--

「多くの現場を広く深く、しかも確かな発掘技術を持つプロが掘る。そして、現場から出土した遺物を科学の力も借りて微細なレべルまで分析する。その成果の積み重ねが縄文ブーム、縄文観の書き換え、ひいては考古学ブームの根底にあるのである。(…中略)…
 細々と獲物を捕り、貝を拾い、木の実を集めて、竪穴住居にひっそり暮らしてきた二十人から三十人の集団があったという縄文人のイメージは、この十年で完全に塗り替えられたのである」(『縄文の生活誌』、pp.87-88)

 さて、縄文時代への理解の変化についてはこのくらいにして、その文化が「1万年も続いた」という主題にもどろう。
 言うまでもないことだが、今年は西暦の2020年である。つまり、イエスが誕生したと推定される年から2020年たったということだが、このイエス誕生の頃に、日本では弥生時代が始まったとされている。約2000年前である。で、この弥生時代が現代まで続いていたら、どんなだろう? 私たちは、そんな世界を想像できるだろうか? 鉄道はなく、航空機もなく、ビルもなく、自動車もなく、もちろん電話やパソコンやスマホもないし、映画や遊園地、オリンピック、レストラン、金融機関、そして政府もない。これだけでも大変なことだが、1万年はその5倍の長さである。


 この時代の長さは、数字でデジタルに考えるよりも、視覚的にアナログ化することでより明確になる。先日行われた「石上げ」の行事の解説では、私は「縄文スティック」(=写真)と名づけた木の棒を参加者に配り、手に取ってもらった。そして、写真にあるように、赤い色が塗ってある側を左に向け、色の塗っていない部分を右に向けて眺めてみる。これを“時の流れ”として見るのである。もっと具体的には、7ミリの長さを「500年」の時間の経過とすると、赤い色の部分が1万年、青い部分が2000年になる。色のない部分は、これからの未来だ。こうすると縄文時代に比べ、古墳時代以降、現代に至るまでの時の流れがどんなに短いかが、視覚的によく分かるのである。こんな長期にわたって、さほど大きく変化しない生活を人々が延々と続けていたのが縄文時代なのである。

 現代人が考えると、こんなに変化がなくつまらない、退屈な時代はないと考えがちだが、同じことを別の角度から表現すれば、こう言えないだろうか?--「それほど長期にわたって、人々は生活パターンを大きく変えることなく平和に共存してきた」のである。あえて理想化の危険を冒して言えば、この時代には、多少の血が流れるような小競り合いはあったかもしれないが、何万人も、何十万人もの死者が出る戦争はなく、他国や他民族を襲って奴隷とすることもなく、されることもなく、血なまぐさい革命はなく、経済恐慌が起こって大量の失業者が出ることもない。恐らく、大量の死者が出る飢饉や感染症の蔓延もなかっただろう。

 そんな安定した文化が続いた後に、日本人は(そして人類全体も)、その5分の1という極めて短い時間の中で、生活様式を変え、技術を変え、武器を変え、社会制度を変え、ものの考え方を変え、自然を変え、原子爆弾を爆発させ、公害をまき散らし、農薬やプラスチックを全世界に拡大し、多くの生物種を絶滅させてしまった。「縄文人と現代人と、どちらが幸せなのだろう?」などという疑問が湧いてこないだろうか。この疑問は、しかし人類の歴史のマイナス面に注目したものだ。

 生長の家は日時計主義だから、プラス面にも注目すると、また別の設問が浮かび上がる。それは、「弥生時代から現代に至る時の流れの5倍もの長きにわたって続いた縄文文化は、現代人と全く無関係なのか?」ということだ。言い直すと、「縄文人の遺伝子の一部を現代人が共有している可能性はないか?」ということだ。現代の遺伝学の発見によると、ヒトとチンパンジーなどの類人猿との遺伝子は、95%以上が共通しているというのだから、私は、その可能性は十分あると考える。とすると、私たちは今、現代社会が生んだ深刻な問題に対処するに際し、縄文人の生き方から学ぶべきことは多くあるのではないだろうか。そんな問題意識が、今回の「石上げ」の発想と結びついているのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○風間康男他著『新訂 日本史』(東京書籍出版、1972年刊)
○井上光貞他著『新詳説日本史』(山川出版社、1987年刊)
○岡村道雄著『縄文の生活誌』(講談社、2008年刊)
○下中弘編集発行『世界大百科事典』(平凡社、1988年刊)

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2020年8月 3日 (月)

石と信仰 (4)

 ところで読者は、「石」という漢字の由来をご存じだろうか。
 私が昔から使っている机上版の『新明解 漢和辞典』を引くと、「字源」の項目にこうある--

 「象形、厂(がけ)の下に口(石)がころがってある形」

 これは「口」と「石」とを同一視した説明である。ところが、同じ辞典で「口」という漢字の字源を見てみると、

 「象形、口の形にかたどる」

 とあるだけで、「石」については何も触れていない。「石という漢字は石の形をまねた」と言っているから、その「石の形」はどんなかと聞くと「口の形」だというのである。人間の口と石と、形がどう似ているのだろう。何だか判然としない。そこで、白川静氏の『字統』を見ると、こうある--

 「石は厂(かん)と口とに従う。厂は崖岸の象。口は□(さい)、祝禱を収める器の形で、石塊の形ではない。」

 さらにこうある--

「九下に〝山石なり。厂の下に在り。口は象形なり〟とするが、口は卜文・金文において祝禱の器とする形にしたがうものが多く、宕(とう)の字形もなおその形である。宕は廟形に従い、■(せき)も祭卓に従うていて、明らかに神事的な儀礼を示す字であるから、石の従う口も、祝禱の儀礼に関する意味をもつものとしなければならない。」

 ここにある「九下」や「卜文・金文」は、漢字研究の古い
資料を指すが、詳しいことは省略する。また、引用文中に「□」と「■」という伏字で示した文字は、現代の漢字表には存在しない文字で、画像で再現したものをここに添付した。白川氏が述べているのは、ある資料には「石の字源は山の崖の下にある石だ」と書いてあるが、古代文字の資料を見ると、これは「小石ではなく祝詞を収める器」を象ったもので、古代においては、「石」は崖の一部を構成するような「大石」や「岩」を意味していたということだ。そういう岩の下で(つまり、岩に直面して)祈りを捧げていたのが古代人だということになる。こうなると、「石」はもともと宗教行事と不可分の扱いを受けていたことになり、「石と信仰」の間はピッタリとつながるのである。

 日本全国の由緒ある岩石をめぐっている磐座(いわくら)研究家、池田清隆氏も、著書『磐座百選』の中で白川氏のこの解釈を引用し、「石の語源が、“巌のもとで祭祀を行う意”であることを知り、もっとも古い祈りの形であったことを理解する」と賛同している。

 この「磐座」という言葉は、前回の本欄でも出てきて「何だろう」と思った読者もいるかもしれない。そこで、同時に出てきた「磐境(いわさか)」と共に、池田氏の定義を紹介しよう--

「ようするに、岩石信仰といえるものを広い意味で磐座と表現するが、そのなかで、石そのものを神として信仰するものを石神とし、石や岩に神が依りつくという信仰を磐座とし、石で区切られた“空間”に神が降臨するという信仰を磐境とするというものだ」。(前掲書、p.10)

 そして池田氏は、この本の中で石神、磐境も含めた広義での「磐座」を表現した神社を百社選んで、写真入りで紹介している。それを見ると、日本人はいかに“大きな石”を宗教心をもって扱ってきたかがよく分かるのである。大体、神社や仏閣の名称自体に「石」や「岩」が多く使われてきたのである。例を挙げれば、次のようになる(括弧内は所在地の県名)ーー

 岩木山・大石神社(青森)、三ツ石神社(岩手)、磐神社・女石神社(岩手)、釣石神社(宮城)、立石寺・元山寺(山形)、石楯尾神社(神奈川)、石山寺(滋賀)、磐船神社(大阪)、石像寺(兵庫)、飯石神社(島根)、天岩戸神社(宮崎)

 では、これらの事実は日本人特有の感性を表しているのかと問うと、そうは言えないのである。このことはすでに本シリーズの2回目で、聖書の石に関する記述などに触れたので、了解されている読者もいるかもしれない。また、先に挙げた白川氏の見解が、日本だけに及ぶのではなく、漢字文化の発祥の地、中国にも適用されることは言うまでもない。このように考えれば、石と信仰とのつながりは地球上の一部の文化圏に限定されずに、人類すべてに及ぶ可能性は否定できないのである。

 そのことを暗示するもう一つの例は、あの有名なイギリスのストーンヘンジである。これは、同国南部のウィルトシャーにある古代遺跡で、講談社の『大事典desk』は次のように説明している--

「中央に祭壇石、その周囲に4重の列石と3重の穴の列があり、さらにその外側に溝がめぐらされてある。環石は北東方向に開いていて、そこにヒールストーンという石柱がおいてある。これは太陽崇拝に関係あるものといわれ、中央の祭壇石とヒールストーンを結んだ線上に当時の夏至の太陽が昇ったと考えられている。」

 フランスのブルターニュ地方にも「カルナック立石群」と呼ばれる新石器時代の大規模な遺跡があり、そこにはメネック、ケルマリオ、ケルレスカンという3群に分かれた5千もの立石が並んでいる。ケルトのデザインなどを研究している美術史家のイアン・ツァイセック氏によると、この立石群の目的は不明であるが、「ケルマリオが“死者の館”を意味するところから、立石群が弔いの儀式に関係があると古来信じられてきたが、現代の考古学はそれらが天文学上の目的と結びついていたのではないかという説に傾いている」という。(山本史郎・山本泰子訳『図説 ケルト神話物語』、p.253)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○長澤規矩也編『新明解 漢和辞典』第二版机上版(三省堂、1981年刊)
○白川静著『字統』(平凡社、1994年刊)
○池田清隆著『磐座百選--日本人の「岩石崇拝」再発見の旅』(出窓社、2018年刊)
○イアン・ツァイセック著/山本史郎・山本泰子訳『図説 ケルト神話物語』(原書房、1998年刊)

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2020年8月 1日 (土)

石と信仰 (3)

 日本人は自然の営みの中に“八百万の神”を見出して、それらを信仰していたと指摘する人は数多くいるが、「日本人は岩石を信仰していた」と唱える人もいる。それは考古学者の吉川宗明氏で、その著書の中で次のように書いている--

「学校の歴史の授業でもほとんど習うことのない岩石信仰だが、日本列島に1千例以上ある信仰体系であることは揺るぎのない事実だ。その総数がどれほどの数に上るのか、全容については筆者自身もまったく把握できていない。
 ただ、一つはっきりしていることがある。それは、岩石はただ信仰されるだけにとどまらず、祭祀の道具や施設・装置にも使われており、信仰対象と同様に神聖な存在とみなされているということだ。信仰の目的や用途ごとに岩石の役割が使い分けられているため、その幅広さが岩石信仰を奥深く、かつ全貌をつかみにくくしているのである。
 また、岩石信仰は過去行われていただけの信仰ではない。現在も祭祀が続いている事例は多いばかりか、新しく信仰が生まれるケースも見受けられる。昨今盛んなパワースポットブームでも、岩石をパワーストーンや癒しの対象とみなす新たな信仰が続々と生産中だ。岩石信仰は、昔も今も信仰する人々がいる、現在進行形の生きた信仰ということにも注意したい」(『岩石を信仰していた日本人』、p. 12)

 「岩石を信仰する」という表現は、まるで岩石自体を神仏と見なして信仰するように聞こえるが、そうではなく、吉川氏によると、「岩石を使った祭祀行為全般をひっくるめた概念」のことを「岩石祭祀」と呼ぶ。そして、同氏は「その岩石が、人々によってどのような役割を与えられているか」という機能に注目して、次の5分類を提示している--

(1) 信仰対象 (280)
(2) 媒体 (934)
(3) 聖跡 (344)
(4) 痕跡 (8)
(5) 祭祀に至らなかったもの (362)

 同氏は、日本全国の2,187の事例に当たって分類した結果、上記リストの括弧内の数字を得たという。この分類は、神道考古学者の大場磐雄氏が1942年に提唱した「石神」「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)」の3分類を取り込みながら、神道の範囲を超えて普遍化したものとしている。

 この分類結果を見ると、日本で多く見られる岩石に関わる信仰形態は、岩石そのものを信仰するのではなく、それを信仰の「媒体」とするものだということが分かる。具体的には、岩石を神や仏が宿る施設と見なしたり、願いをかなえる道具として岩石を使ったり、岩石を神性な空間の領域を示す道具に使ったり、祭祀を遂行する道具としたりすることである。

 このような学問的なアプローチを採用すれば、生長の家が「石上げ」などの行事を通じて岩石を利用する場合、また自然解説/文化遺産

解説の過程で岩石に言及する場合も、教義との矛盾を起こさずに行えるだろう。言うまでもなく、生長の家は唯一絶対神を信仰する宗教だから、上記の(1)の意味で岩石を使用することはあり得ない。しかし、(2)の観点から利用することに教義上の矛盾はないのである。だから、2011年3月の東日本大震災を契機として、その2年後に、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山の敷地内には、「自然災害物故者慰霊塔」が建てられた。この慰霊塔には、兵庫県で産出される安山岩の一種「生野丹波石」という自然石が使われている。また、私が勤める“森の中のオフィス”の敷

地内には、そこを流れる沢に5つの橋がかかっているが、その傍らにはそれぞれの名前を記した石碑(=写真)が立っている。これらも「信仰の対象」ではなく、信仰の内容を言葉で表した「媒体」としての石の利用なのである。

谷口 雅宣

【参考文献】
○吉川宗明著『岩石を信仰していた日本人ーー石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究』(遊タイム出版、2011年刊)

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2020年7月29日 (水)

石と信仰 (2)

 石上げの自然解説では、私は3つのポイントを話した--①石と人間の関係、②縄文時代の特殊性、③数の「3」と三角形だ。

 石と人間は、生活の手段や道具としてだけでなく、宗教や信仰とも深く関係している。世界の神話をひもとくと、石や岩は、人間の生活や行動の中で重要な位置を占めている。ギリシャ神話の「シーシュポスの岩」や日本神話の「天の岩戸」の話はすぐ思い出すが、そのほかにも数多くの事例がある。東京大学出版会が出した『宗教学辞典』の「石」の項には、次のようにある--

「古代人は、道具・器物として石を用いるかたわら、幸運や力の分与を期待して石を崇拝した。小石、大石、板石、石塊、窪みのある石、穴のあいた石、人獣の姿に似た形の自然石、立石、環状列石(メンヒル)、境界石、墓石(ドルメン)、隕石、フリント、砥石、石斧、水晶、各種宝石、人跡まれな場所で見いだされた石、特定の人間や出来事にかかわる石等々。このような石が、力・毅然・新鮮・豊饒・生命・堅忍・永続・幸運・信頼の象徴として、それぞれの時代や地域における社会や文化に規定された儀礼や伝説・物語の結晶核となった。」(p. 18)

 このような包括的なまとめの後に、同辞典は、石の宗教的機能として①呪術的な力、②神の座・神的表象、③原因譚的・神話的説明を人間に与えるとして、様々な時代、様々な文化圏で石が具体的にどう扱われてきたかを記述している。ここではそれらのごく一部を紹介しようーー

・インドには浄めのため、あるいは潔白の証明として、石の穴や下をくぐりぬける慣行がある。
・南インドのバラモンたちは、家庭での礼拝のために神性を表象する5つの石を使った。
・ギリシャでは、ヘラクレスやエロスなどの神々の名のついた自然石が戸外に置かれている。
・ユダヤでは、神との契約の証として石を立てた。(『ヨシュア記』第24章26ー28節)
・アラブのサヘル族は、自分たちはモアブの地の石から出生したと信じた。
・神のお告げを受けたヤコブは、自分が枕にしていた石を立てて「神の家」とした。(『創世記』第28章18-22節)

 これらに加え興味深いのは、人間が山から切り出した石と自然石に対する見方の違いである。中世のキリスト教芸術に詳しいミシェル・フイエ氏によると、石は神がそこにある(臨在する)しるしであり、したがって「祭壇を築くには、切り出した石を使うことは禁じられ、自然のままの石だけを使わねばならないとされた」という。その理由は、「自然石は天から落ちてきた聖なるものであるのに対して、切り出した石は、人間が作り出したものであるため、けがれていると考えられた」からだという。(『キリスト教シンボル事典』、p.19)

 このように、自然石には「神性が宿る」という考え方があるならば、それより大きい「岩」には、さらに偉大な力があるとの考えが生まれたとしても不思議ではない。同氏の「岩」の意味についての記述には、その通りのことが書いてある。

「①頑丈でびくともしない岩は、権力と永遠性のシンボルである。聖書の数多くの節で、ヤハウェは苦境に陥った人間がすがりつくべき岩にたとえられている。ヤハウェが岩であると言われるのは、彼が--モーセによれば--“正しくてまっすぐな方”だからだ。シナイの荒れ野で、モーセがホレブの岩を杖で叩くと、清水が湧き出した。
 ②この岩は、キリスト教の伝統では、キリストの予示とされる。キリストは霊の飲み物がほとばしり出る岩なのである。」(前掲書、pp. 24-25)

 岩や石が力と永遠性を象徴するという感性は、ユダヤ=キリスト教圏だけにあるのではない。日本神話には、ニニギノミコトが容姿端麗なコノハナノサクヤヒメに一目ぼれし、結婚相手として父神のオオヤマツミノミコトに所望した際のエピソードがあるが、そこには結婚生活は「美しい」とか「華やか」だけではいけないというメッせージが盛り込まれている。世界の神話に詳しい吉田敦彦氏の解説で紹介しよう--

「オオヤマツミは大喜びして、姉娘のイワナガヒメまで付け、たくさんの贈り物を持たせて、姉妹二人を妻に奉った。ところがホノニニギは、石のように醜い姉のほうを嫌って、手をつけずに送り返してしまって、妹のほうだけを妻にした。そうするとオオヤマツミは怒って、『古事記』によれば、“イワナガヒメを妻にされることで、あなたのお命が、石のようにいつまでも堅固であられるように、またコノハナノサクヤヒメを妻にされることで、花のように栄えられるようにと祈願して、二人を奉ったのに、イワナガヒメを返し、コノハナノサクヤヒメだけを妻にされたので、あなたの寿命は花のようにはかなくなるでしょう”と言って、ホノニニギと、その子孫の代々の天皇の命を短くしてしまったといわれている。」(『世界神話事典』、p.113)

 この箇所で私が重要だと思うのは、イワナガヒメとコノハナサクヤヒメの双方が揃うことの意味を、『古事記』(の作者)がどう訴えているかという点である。上記の解説では、美醜の違い、華やかな美と堅固さとの対照が示されているが、原文では、オオヤマツミは、自分の怒りの理由を次のように述べている--

「我が女(むすめ)二たり並べて立奉(たてまつ)りし由は、石長比売(いわながひめ)を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零(ふ)り風吹くとも、恒(つね)に石(いわ)の如くに、常(とき)はに堅(かき)はに動かずまさむ。また木花の佐久夜毘売(さくやひめ)を使はさば、木の花の栄ゆるが如(ごと)栄えまさむと誓ひて貢進(たてまつ)りき。かくて石長比売を返さしめて、ひとり木花の佐久夜毘売を留めたまひき。故、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみまさむ。」といひき。

 当時の日本は一夫一婦制ではなかったから、二人の妻の一方を拒否する理由は現代人が考えるものとは一致しないだろう。これは個人の嗜好の問題としてではなく、人間が表面的な派手さや短期的な繁栄に目を奪われがちであることへの警告だ、と私は受け取る。また、上述した他の文化圏での「石」や「岩」のシンボリズムを考え合わせると、神や“神性”が表面的な美や短期的栄華の中にはないとする英知が暗示されていると解釈できる。

【参考文献】
○小口偉一/堀一郎監修『宗教学辞典』(東京大学出版会、1973年刊)
○ミシェル・フイエ著/武藤剛史訳『キリスト教シンボル事典』(白水社、2006年刊)
○大林太良、伊藤清司他編『世界神話事典』(角川書店、2005年刊)
○倉野憲司校注『古事記』(岩波書店刊、1963年)

 

 

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2020年7月26日 (日)

石と信仰 (1)

 去る7月24日、山梨県北杜市にある生長の家国際本部“森の中のオフィス”では、「天女山への石上げと自然解説」という行事が行われた。これは、標高1300mにあるオフィスから同1529mの天女山の頂上まで、参加者である職員有志が石を背負って自転車でIshiage20201 登るという行事である。(=写真)この日は新しく決まった「スポーツの日」だったから、それに因んでスポーツ行事を行ったわけではない。それどころか、この日は私たちにとっても祝日で、オフィスの職員には出勤する義務はなかったが、約30人が参加してくださったのは大変ありがたかった。

 この行事は私の発案で、それにSNI自転車部とSNIクラフト倶楽部の事務局が計画段階から実行まで協力してくれた。この場を借りて感謝申し上げます。

 「石を背負う」というと、何か苦役を強いるような印象があるかもしれないが、背負う石は片手で持てるほど小型のもので、それを各自が常日頃通勤で使う背負いカバンに入れて登るのである。私の場合、それでもノートパソコンや弁当を入れた普段のカバンよりは重かった。これらの石には、カバンに入れる前に各自がタガネで細工を施した。その内容については後述するが、この細工の前に、私が石についての“自然解説”を行なった。そして、天女山頂に全員が登ってから、石を所定場所に納める儀式を行なった。

 これだけの説明では、何か“奇異な儀式”だと思う読者もいるかもしれない。が、愛知県犬山市では現在も毎夏、これよりずっと大規模な石上げ祭が行われている。この祭では、山頂に上げる石はもっと大型で、それを神輿に括り付けて何人もの成人男性が担ぎ、子どもや女性はその前をロープで引いて上がるという。参加人数もずっと多く、神輿を運ぶ掛け声なども響いて、賑やかな祭である。この行事にはまた、個人が小型の石に願いごとを書いて山頂まで運ぶという選択肢もあるらしい。私たちの今回の行事はそれをマネたのではなく、この計画を聞いたオフィスの職員が、「そういう祭なら自分の故郷で昔からやっている」と、あとから教えてくれた。とにかく、「石を運ぶ」という行為は、宗教行事として昔から成立しているのである。



 それどころか古来、洋の東西を超えて、石は信仰の対象として、また信仰対象の象徴として、あるいは宗教儀式の重要な道具となってきた点は、強調しておきたい。私は、このことを当日、例を挙げて石上げ前の自然解説でも若干言及したが(=写真)、充分な説明にはならなかったので、この場を借りて詳しく説明することにした。また、読者には、これを「自然解説の方法を取り入れた生長の家独自の環境教育」(本年度運動方針前文)の一部として理解していただけるとありがたい。

 さて、「自然解説」については、すでに2018年に、私は生長の家総本山発行の『顕齋』誌上で何回かに分けて説明した。その時にも触れたが、アメリカで成立したこの営みは英語で「interpretation(インタープリテーション)」という。この語を「解説」と和訳したところから、誤解の余地が生まれていると私は思う。何となくスポーツ解説みたいだからだ。が、ここではそのことはさておき、アメリカではこの営みを「nature interpretation(自然解説)」「heritage interpretation(文化遺産解説)」の2つに大別しているようである。前者は、自然の営みと人間との関係に焦点を当てるのに対し、後者は、人間の営みである文化遺産の意味や重要性に焦点を当てる。

 しかし、生長の家では「神・自然・人間は本来一体」と考えるので、私は両者を峻別して考える必要はないと思う。また、アメリカで「文化遺産」と言った場合、ヨーロッパからの移民を基礎にしたものが多いため、歴史的には数百年前までしか対象にしない。これに対し日本では、歴史時代だけで約2000年、縄文時代までを含むと約1万2000年が文化遺産の対象となる。そのような古代や中世においては、自然と人間の関係は現代よりもはるかに密接だったから、人間の営みである文化を自然から分離して考えることはできないと思う。そんな理由で、生長の家が日本で行うインタープリテーションは、自然を対象にしても日本の文化を含み、文化遺産を対象にしても、その背後にある自然の営みを無視して行うことはできない。そこで今回の「天女山への石上げと自然解説」においては、両者を意識的に分けなかった。

 谷口 雅宣 

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2015年3月 1日 (日)

「生命を礼拝する」とは?

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山で「立教86年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が開催され、ブラジル、アメリカ、台湾からの海外信徒代表者を初め、国内各教区から約800人の幹部・信徒が集まって、生長の家立教の精神を振り返り、今後の運動の進展を誓い合った。この式典は、昨年に続いてインターネットを利用して世界に中継されただけでなく、時差を利用した音声の外国語訳が試みられた。私は式典の中で概略、以下のような内容の挨拶を行った--
 
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 皆さん、本日は立教記念日おめでとうございます。この日は、生長の家の86回目の誕生日であります。人間の場合、「85歳」や「86歳」は“老人”かもしれませんが、団体や宗教運動の場合は、何千年も前に誕生したものもありますので、大変「若い」運動であり、まだ「草創期」と言っても間違いではないかもしれません。だから、今日のように、春の息吹を感じる日には、私たちも「さあ、これから運動は伸びるぞ!」という意気込みを感じるのではないでしょうか。
 
 86年前にこの運動を始められた谷口雅春先生と輝子先生も、きっとそんなお気持で昭和5年の春を迎えられたに違いないのであります。私はこの立教記念日には、毎年のように、昭和5年3月1日発行の『生長の家』誌創刊号をもってきて、その中に表れた立教の精神に学び、またその精神を現代にどう生かしていくべきかを皆さんに提案してきたのでありますが、今日もそれをしたいと考えます。 
 
 ここに『生長の家』誌創刊号がありますが、この雑誌の裏表紙には「生長の家の宣言」という6カ条の宣言文が掲げられています。これは、現在は『生命の實相』などの中で「七つの光明宣言」として書かれ、私たちの運動の目標とされているものの原型であります。当初は6カ条だったものが、後に7カ条になったということです。私は2年前のこの日には、この宣言文から「創化力」という言葉を引用して、その意味について述べましたが、今日は、この第1条にある「生命を礼拝する」ということについてお話したいのであります。 
 
 第1条には、こうあります-- 
 
「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」 
 
 これが、創刊号に掲載された第1条で、後に発行された『生命の實相』では、この最初の所に「宗派を超越し」という文言が挿入されています。つまり、こうなっています-- 
 
「吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」 
 
 生長の家は「万教帰一」でありますから、「宗派を超越する」ということは皆さんも大いに賛成されているだろうし、現在の世界情勢を見ると、まさにこの考え方が必要であることは疑う余地はありません。しかし、ではもう一つの「生命を礼拝する」とは、どんなことを言うのでしょうか?  
 
 昨今、日本のメディアで騒がれているのは、中学1年の男の子が、川崎市の多摩川の河川敷で酷い方法で殺されたという事件についてです。これは明らかに、「生命を礼拝」していない行為です。被害者の少年は13歳ですから、これからまだまだ成長し、いろいろな経験を積みながら人生を謳歌し、また社会にも貢献していける可能性をもった中学生の意志を蹂躙し、命を奪う行為は、明らかに「生命を礼拝しない」行為です。そのような行為が野放しになることは、許されないことです。では、人殺しさえしなければ、動植物を殺すのであれば「生命を礼拝」していると言えるのでしょうか? 私はそうは思いません。ここにある「生命」という言葉は、人間の命のことだけを指すのではないからです。もし、人間が生きるためだからといって、多くの生物種が絶滅し、あるいはウシやブタなどの家畜たちが、劣悪な環境で苦しみながら育てられ、そして大量に殺戮されていくならば、それは生命を蹂躙しているのですから、生長の家の信仰者は、そんな行為に加担するような生き方をしてはいけません。 
 
 今、私たちの運動が生物多様性を尊重し、肉食を減らそうとしている重要な理由の1つが、ここにあります。つまり、私たちの運動は、『生長の家』誌創刊号のこの宣言の第1条の精神に忠実に従い、それを世界的に展開していこうとしているのです。 
 
 ところで、生長の家の国際本部が東京・原宿から山梨県の八ヶ岳南麓に引っ越してから1年半がたちました。東京生まれ、東京育ちの私は、その間、これまでの人生で体験したことがないほど、自然との濃密な関係の中で生きることができて、この生活を選んだことを「本当に良かった」と感じています。これは皆さん、決して負け惜しみなんかじゃありません。もちろん、都会と比べて田舎は不便です。特に、私が住んでいる地域は、田んぼも、畑もありませんから、田舎というよりは「山の中」「森の中」です。畑に野菜や果物を植えれば、すぐにシカが来て食べてしまいます。雪が降れば、車の出入りもままならない所です。世の中の流行や、食べ歩きや、映画やゲームなどの娯楽からはずいぶん遠くなりました。でも、その代りに得た自然界との濃密な関係は、都会の生活では決してわからない重要な事実を教えてくれます。それは、「人間は自然の一部だ」ということです。だから、本当の意味で人間の命を大切にするためには、その基盤である自然を大切にしなければならないということです。 
 
 このことは、理論的には、私自身がこれまで繰り返して訴えてきたことですが、それはどちらかというと、頭による理解でした。ところが、“森の中”での生活を実際に経験して、私は「人間は自然の一部だ」と全身で感じることができるようになりました。具体的に説明しましょう-- 
 
Kamoshika  私は今、自宅からオフィスまでを徒歩で通っています。雪が降るまでは自転車通勤が可能でしたが、標高1200~1300メートルの土地に雪が降ると、道路が凍結します。ですから、徒歩に替えました。徒歩だと、オフィスまではほとんど上り坂ですから、雪の中を行くと約1時間かかり、帰りは下り坂が多いので40分ぐらいです。この往復の道で、ときどき野生動物に出会います。シカ、キツネ、タヌキ、キジなどですが、クマには会いたくないので、季節になると鈴を付けます。ついこの間(正確には2月24日の夕方ですが)、特別天然記念物に指定されている動物に出会いました。ニホンカモシカです。普通のシカは、人間と出会うとすぐに逃げてしまいますが、このカモシカはじっと立ち止まって私の方を見ています。そろそろと近づいていって写真を撮りましたが、5~6メートルの距離まで近づくと逃げていきました。その間、私とカモシカは見つめ合います。お互いの意図を探り、距離を測るのです。そういう直接の触れ合いの中で、私は「人間は自然の一部だ」と感じ、喜んでいる自分を発見するのです。 
 
 この話を、帰宅してから妻に話すと、彼女も「動物と出会うのは楽しい」と言います。人間は、野生の動物と出会うことに喜びを感じるということは、彼女もずっと感じていたことでした。その時、私は、ピューリッァー賞を受賞したアメリカの生物学者、エドワード・ウィルソン(Edward O. Wilson)の言葉を思い出しました。それは彼の本のタイトルにもなった「バイオフィリア」(biophilia)という言葉です。「バイオ」(bio)は生物、「フィリア」(philia)は愛するということです。彼の考えによると、人間にはその心の奥深いところに、自分の同類である人類はもちろん、人間以外の生物を愛する感情があるというのです。彼の言葉を引用しましょう-- 
 
「どんな生物であれ、生命なき物質のあらゆるバラエティをすべて合わせたよりも遥かに興味深いものだ。生命のない物質は、どれだけ組成の似た生体組織の代謝に役立つか、あるいは有用な生体物質へと変化させられるかによって、その主な価値が決まると言っても過言ではない。健全な精神をもった人間なら、生きている木よりも、そこから落ちた枯葉の山を好んだりはしないだろう。」 
 
「(…中略…)なかでも、ある種の生物は、精神の発達に特別な影響を与えるために、より多くのものをもたらしてくれる。他の生物と結びつきたいという欲求は、ある程度まで生得的であり、“生物愛好”(バイオフィリア)とでも呼ぶべきのだと私は考えている。この仮説の根拠は、科学的な意味で言えばそう確固たるものではない。(…中略…)だが、生物を好む傾向は、日常生活において明瞭なかたちで、しかも広く見られるものであり、真剣な考察を向けるに値する。それは、幼年期から、予測可能な幻想や個人的反応のなかに姿を現わし、やがて大部分もしくはすべての社会で繰り返し見られるパターン、人類学の文献のなかにしばしば見られる一貫性へと収斂されていく。」(pp. 138-139) 
 
 ウィルソン博士は、この本の別の所ではこう書いています-- 
 
「私がこの本で論じてきたのは、われわれ人間が人間たる所以は、かなりの部分まで、われわれと他の生物との特殊な結びつきにあるということだった。生物は、そこから人間の精神が生じ、また永遠に根を置きつづける基盤(マトリックス)であり、われわれが本能的に探し求めている自由や試練を提供してくれるものだ。ひとりひとりの人間がナチュラリストに近づけば近づくほど、かつての自由な世界の興奮を取り戻すことができる。これは、詩や神話を喚起する魔法の再現の公式だと言ってもいい。」(pp. 228-229) 
 
 この人の文章は、短い中に多くの意味を含んでいるので、少しわかりにくいのですが、結局、こういうことを言っているのだと思います--「人間には、本来的に他の生物と結びつきたいという欲求があるが、その感情の基盤は、われわれ人間が他の生物と“近い”という事実にある。人間の精神は、そういう他の生物との特殊な結びつきを基盤とし、そこから生まれているのだから、われわれが自然に近づけば近づくほど、人間本来の自由と喜びを得る機会を広げることができる」。 
 
 この考えをもう少し、宗教的に、生長の家で使われる言葉によって表現すれば、こういうことになるでしょう--「人間は“神の子”として、神が創造された他の生物すべてと本来、一体の関係にあるから、他の生物と結びつきたいという感情が湧き上がる。他の生物との“自他一体”の感情があるということが、私たち人間が人間である所以である」。このように言い換えてみると、ウイルソン博士が言っていることは、『生長の家』誌創刊号の「生長の家の宣言」の第一条と、ほとんど同じ意味になるのであります。それは、「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」ということです。 
 
 ですから、生命を礼拝するということは、人間はもちろん他の生物との“自他一体”の感情を尊重して生きるということです。それは肉食を避け、自然環境を破壊せず、他の生物との接触の場を多くもつということでもあります。こういう生き方にもっとも相応しい場所は、都会ではなく自然の中です。生長の家が今、国際本部を大都会から“森の中”へ移して運動を展開している理由が、ここにあります。皆さまも、人間本来の生き甲斐や幸福は他の生物との関係の中にある、つまり自然の中にあるということを忘れずに、都会に住む人も、田舎に住む人も、人間の命だけでなく、他の生物の生命も礼拝し、尊重する生き方を実践していただきたい。それが私たち人間の幸福の源泉であり、世界平和への道でもあるのです。 
 
 立教86年の記念日に当たり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣 
【参考文献】
○E.O.ウィルソン著/狩野秀之訳『バイオフィリア:人間と生物の絆』(ちくま学芸文庫、2008年)

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2014年6月24日 (火)

昆虫を食べる

 6月22日に長野県で行われた生長の家講習会の午後の講話で、私は「昆虫を食べる」という試みについて少し触れた。私が住む山梨県北杜市は長野県に接しているから、買い物などで長野県へ行くことも少なくない。そんな機会を利用して、長野産のイナゴを買って食べてみたことがある。「ゲテモノ趣味」とか「何を物好きな!」と言われるかもしれないが、私のこの試みは単なる物好きが理由ではない。先日の講習会での講話を聴いてくださった読者には、その理由を理解していただけただろう。が、この日に講習会に来られなかった人も多いので、この場を借りて説明したい。
 
Chirps3k  私が講習会で話題にしたのは、実は私自身のことではない。それは今、アメリカで開発されている“昆虫クラッカー”(=写真)のことだった。5月24日付のイギリスの科学誌『New Scientist』がそれを取り上げて、「Big bug harvest:Taste test at America's first insect farm」という特集記事を載せていたのを紹介した。訳せば、「昆虫の大収穫--アメリカ初の昆虫農場で味を試す」とでもなるだろうか。昆虫を人間の食料とすることを考えているのは、ボストンにあるシックス・フーズ(Six Foods)という会社で、「チャープス」(虫の鳴き声の擬音)という名前でコオロギ・チップを売り出そうとしている。そう、イナゴではなくコオロギを使うのである。記事にはクラッカーの写真が添えられていて、メキシコ料理店で出てくる「ナチョス」によく似た三角形のクラッカーが写っているが、色はチョコレート色だ。
 
 彼らはどうしてそんなことを考えるか……読者の多くは、「飼料効率」の話をすでにご存じだろう。これまで私は講習会などで何回もその話をしてきたし、『足元から平和を』(2005年刊)という本にも書いたし、今年の全国幹部研鑽会でも取り上げられたからだ。簡単に言うと、穀物が動物の肉になる効率のことだ。現代の食肉生産では、家畜や家禽を育てるのに穀物飼料を多用する。また、魚類の養殖にも穀物飼料が使われる。理由は、早く肉を得るためである。ところが、与えた穀物が肉になる効率は動物の種類によって大きく違う。ウシの体重を1キロ増やすのに必要な穀物は7キロ、ブタの体重を1キロ増やすのに要する穀物は4キロ、ニワトリの場合は2キロ、養殖魚は1.8キロ……などと言われている。これらの数字は厳密なものではなく、本によって必ずしも一定ではない。私が挙げた数字はその中でも“保守的”な見積りで、「ウシは10キロ」などという人もいる。が、とにかく、人が穀物をそのまま食べるのに比べ、穀物を動物に食わせてその肉を食する方法は、地球資源の大きなムダ遣いであるということを知っていただきたい。
 
 これに対し、動物性蛋白質は人間の生存にとって必須だから、動物の肉を食べないわけにはいかない--という見解がよく聞かれる。また、子供をもつ親の中には、成長期の人間の体を健康に保ち、勉強や運動に秀でる子とするためには動物の肉が必要だ--と考える人も多い。つまり、「環境を取るか自分を取るか……」というジレンマがあるというのである。これを解決しようという方策の1つが、「昆虫を食べる」という選択肢なのだ。昆虫は獣(けもの)ではないが、立派な動物である。しかも、体内には動物性蛋白質だけでなく、カルシウムもビタミンも豊富に含む。さらに言えることは、昆虫は、種の数では生物界では最大である。ということは、その中には人間の好みに合った味や食感をしているものもあるかもしれない……ということだ。そうして研究を進めた結果、コオロギに白羽の矢が立ったというわけだろう。
 
 しかし、そもそもなぜ昆虫か? と思う人には、飼料効率がすこぶるいいと答えればいいだろう。また、水を効率よく吸収して成長するのも昆虫の特徴だ。それに比べ、ウシやブタは生育過程で相当な量の水がいるし、殺した後の処理にも大量の水を使う。シックス・フーズ社のサイトによると、コオロギの飼料効率はウシの12分の1、温室効果ガスの排出量はウシの100分の1、1ポンドの肉を作るのに必要な水の量はウシの2000分の1だという。この“昆虫クラッカー”は、コオロギだけから作るのではなく、豆と米をベースにし、コオロギの粉末を混ぜるらしい。普通のポテトチップに比べて、脂肪は半分、蛋白質は3倍、そしてグルテンなしと表記されている。
 
 「虫を食べるなんてキモチワルイ」という感想は、もちろんよく分かる。私だってイナゴを食べるのには最初、勇気がいった。が、人間は馴れてしまえば、かなりの種類のもの、またかなりグロテスクのものでも喜んで食べる、というのも事実である。前掲の『New Scientist』の記事は、アメリカの文化・伝統では考えられなかった刺身や寿司が、今や大人気になっているのだから、“昆虫食”もその可能性がないわけではないと、半ば期待を込めて書いている。ちなみに、エビやカニ、シャコなどは、昆虫と同じ「節足動物」に属する。多くの読者は、彼らを「キモチワルイ」とは思わないに違いない。しかし、よく眺めてみると結構、グロテスクである。でも、エビなどは、私たちは大量に養殖してでもほしいと思う。 
 
 私は本欄で、読者に“昆虫食”を勧めるつもりはない。が、ぜひ知っていただきたいのは、世の中には、今後の地球の環境悪化と人類の食糧問題について、これほど真面目に、また創造的に考えている人がいるということだ。「肉食を減らす」などという初歩的なことに躊躇している場合ではない。
 なお、興味ある人は、以下の宣伝ビデオをご覧あれ!
 
 谷口 雅宣

At Six Foods, we believe six legs are better than four, and we are introducing our first insect-based food - Chirps Chips! (本社の名前「シックス・フーズ」は、6本足は4本足より優れていると信じているのでつけました。 私たちが開発した初めての昆虫ベースの食品です。)

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2014年4月 5日 (土)

旅先からの便り (6)

 今日は舞鶴市に来ています。
 
 これまで書いてきたことをまとめると、“バベルの塔”とは「人類が協力し合って造り上げる大きな構築物」という意味になりますから、人類の「文明」を象徴していると考えることができます。それは、自然界とは異なるものですが、自然界にある法則や資源・資材を利用して始めて可能になるので、自然界の存在を前提にしています。これまでの人類の文明は、自然界にある資源や資材の利用は「無制限」だとの暗黙の前提から造られてきました。ところが世界人口が70億人を超え、地球温暖化が進行する21世紀にいたっては、この前提は崩れつつあります。これからの時代は、自然の自己回復力を超えた資源・資材の利用は、人類自身の存在基盤を破壊することを意味するので、そのような自然の破壊的利用を「地球社会」として禁じる必要が生まれているのです。
 
 ところが残念ながら、現在の人類の間には、「地球社会」という考え方がまだ十分理解されていません。普通の現代人にとっては、自分が生活する「地域社会」や「地方」を超えて、「国家」や「国家連合」のところまでは意識を拡大できても、人間以外の生物や鉱物も含めた地球全体を、1個の有機的共同体として意識し、その共同体の利益を優先して自分の生活を律し、行動するという考え方は、ごく限られた少数派の人々の間にしか生まれていないのです。
 
 が、ここに1つの希望があります。それは、私たちの心の感性です。私がここで「感性」と呼ぶのは、私たちが自然界と触れ合うときに、どのように感じ、どのように思考するかという癖や傾向のことです。この中に、私はどんな人間であっても、自分の人間としての肉体を超え、社会や国家をも超えて、自然と共鳴し、共感するものがあると考えるのです。ごく月並みな表現を使えば、どんな人でも「自然が好き」であり「自然を愛する」ということです。しかし、この感情は、なまのままでは、かえって自然破壊につながるものでもあります。それは、山道の傍らに咲く花の美しさに感動し、それをたおり、あるいは根こそぎに引き抜いて、自分の家に持ち帰るというような略奪の行為につながります。自然界で美しいもの、おいしいもの、心地よいものを見つけると、それを自分の快楽の手段にしようとする心です。これも「自然が好き」であり「自然を愛する」ことに変わりはないのですが、この段階の感性では足りません。この段階では、自分と路傍の花とは離れた存在として感じられるため、花に美や可憐さを感じても、それを相手から奪って自分のものにしたいという欠乏感が先に立っています。
 
 私が希望をもつ感性とは、前回津市から出した便りに書いたような、石の地蔵さんに赤いエプロンを掛けてあげる心です。目の前にある対象が、自分の愛してやまないものであっても、それを力まかせに引き抜いて奪うのではなく、自分の“与える愛”の表現として、そのものの本来の生き方をそのまま認め、「大好きだよ」「そこにいてくれてありがとう」「そこでがんばれよ」「応援しているよ」という気持を込めて合掌し、しばらくそれを鑑賞したあとは、静かに立ち去っていく感性です。それは、親が子の元気な姿を見て喜び、安心し、やがて彼や彼女の幸福を願いながらその場を立ち去る気持と似ています。親には、子から何かを奪う必要はまったくありません。なぜなら、親は子が自分の一部であるとともに、自分より大きいものであることを知っているからです。親にとって、子は自分の延長であり、自分の夢です。それと同じように、人間が自然界を自分の延長として理解し、感じ、自分の夢がそこにあると感じるならば、自然破壊をする気持も必要性も消えてしまうに違いありません。
 
 私は、大阪の伊丹空港から舞鶴市に向かう自動車専用道路を走りながら、周囲の山々のあちこちを淡い桃色で彩る満開のサクラの花を見ながら、そんなことをつらつらと考えていたのでした。
 
 谷口 雅宣 

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2014年3月29日 (土)

旅先からの便り (5)

 こんにちは……。今日は三重県津市です。前回の大阪からの便りでは、プーチン氏のクリミア併合の動きに触れ、「バベルの塔は今再び崩壊の危機に直面している」と書きました。これは、名古屋から書いた便りの中で、「科学技術」という世界共通語を獲得した人類が、神に近づき、“神の国”を建設できるようになったことを意味するのか?--という疑問に対する答えになるでしょう。つまり、人間相互の信頼が欠けるならば、科学技術がどんなに発達しても、世界は破壊に向かうということです。
 
 当たり前と言えば当たり前の結論なのですが、ではなぜ信頼が失われるのか、あるいはそもそも信頼関係がなぜ作れないのか、という疑問に答えるのは、そう簡単ではありません。ケースバイケースで相互の事情が大きく異なることもあるからです。しかし、信頼関係の基本は自と他との一体感です。別の言葉を使えば、「自他は利益を共有する」との認識です。自分の利益は相手の利益でもあり、相手の利益は自分の利益でもあるという認識です。これが、プーチン氏の場合、アメリカや西ヨーロッパの国々に対して欠けていたということ、また逆に、西側の政治家にはプーチン氏の思想や心情が伝わっていなかったということでしょう。
 
3jizosan  ところで今日は、宿舎の近くの観音寺という所へ行きましたが、そのお寺の本堂の左脇の薄暗くなった空間に、小さな祭壇がありました。そこに三体の小さな石仏があって、それぞれが赤いエプロンに身を包まれていました。「石仏を刻む」という行為は多分、自分の中の善性を石の中に表すことだと思います。主観的な行為だと言っていいでしょう。しかし、いったん表現されると、石仏は客観性を獲得してすべての人々に一定範囲のメッセージを発することになります。文学や絵画も同じことをするのでしょうが、石仏が特殊なのは、それが「仏」を模している点です。
 
 仏を強引に定義すれば、一種の「理想的人間像」です。それを石の上に刻んだ石仏は、どんなメッセージを発するのでしょうか? この質問に対する答えは、石仏が「赤いエプロン」を掛けられるという事実の中にあると思います。
 
 「赤いエプロン」は普通、お地蔵さんが掛けるものです。そして、お地蔵さんはよく子供の霊を導く菩薩様と言われ、さらに転じて子供の霊そのものと見なされます。だから、エプロンを掛けられたり、帽子を被されたりするのです。つまり、亡くなった子供の代償として、愛を与える対象にされるのです。「赤」は愛の象徴です。だから、石仏に赤いエプロンを掛けるという行為は、自分の内部にある理想的人間像(仏)をそこへ投影して、それを子供のように暖かい愛に包んで大切にしたい……そんな心が表現されているのだと思います。
 
 長々と書いてしまいましたが、これは自他一体の感情が表現されたよい例だと思ったからです。この場合、「自」とは自分の心であり、「他」とは石仏です。赤いエプロンによって、石仏を自分の愛の心で包むことで一体感が生まれるのです。
 
 それでは、また………。
 谷口 雅宣 

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