人類学

2015年3月 1日 (日)

「生命を礼拝する」とは?

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山で「立教86年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が開催され、ブラジル、アメリカ、台湾からの海外信徒代表者を初め、国内各教区から約800人の幹部・信徒が集まって、生長の家立教の精神を振り返り、今後の運動の進展を誓い合った。この式典は、昨年に続いてインターネットを利用して世界に中継されただけでなく、時差を利用した音声の外国語訳が試みられた。私は式典の中で概略、以下のような内容の挨拶を行った--
 
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 皆さん、本日は立教記念日おめでとうございます。この日は、生長の家の86回目の誕生日であります。人間の場合、「85歳」や「86歳」は“老人”かもしれませんが、団体や宗教運動の場合は、何千年も前に誕生したものもありますので、大変「若い」運動であり、まだ「草創期」と言っても間違いではないかもしれません。だから、今日のように、春の息吹を感じる日には、私たちも「さあ、これから運動は伸びるぞ!」という意気込みを感じるのではないでしょうか。
 
 86年前にこの運動を始められた谷口雅春先生と輝子先生も、きっとそんなお気持で昭和5年の春を迎えられたに違いないのであります。私はこの立教記念日には、毎年のように、昭和5年3月1日発行の『生長の家』誌創刊号をもってきて、その中に表れた立教の精神に学び、またその精神を現代にどう生かしていくべきかを皆さんに提案してきたのでありますが、今日もそれをしたいと考えます。 
 
 ここに『生長の家』誌創刊号がありますが、この雑誌の裏表紙には「生長の家の宣言」という6カ条の宣言文が掲げられています。これは、現在は『生命の實相』などの中で「七つの光明宣言」として書かれ、私たちの運動の目標とされているものの原型であります。当初は6カ条だったものが、後に7カ条になったということです。私は2年前のこの日には、この宣言文から「創化力」という言葉を引用して、その意味について述べましたが、今日は、この第1条にある「生命を礼拝する」ということについてお話したいのであります。 
 
 第1条には、こうあります-- 
 
「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」 
 
 これが、創刊号に掲載された第1条で、後に発行された『生命の實相』では、この最初の所に「宗派を超越し」という文言が挿入されています。つまり、こうなっています-- 
 
「吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」 
 
 生長の家は「万教帰一」でありますから、「宗派を超越する」ということは皆さんも大いに賛成されているだろうし、現在の世界情勢を見ると、まさにこの考え方が必要であることは疑う余地はありません。しかし、ではもう一つの「生命を礼拝する」とは、どんなことを言うのでしょうか?  
 
 昨今、日本のメディアで騒がれているのは、中学1年の男の子が、川崎市の多摩川の河川敷で酷い方法で殺されたという事件についてです。これは明らかに、「生命を礼拝」していない行為です。被害者の少年は13歳ですから、これからまだまだ成長し、いろいろな経験を積みながら人生を謳歌し、また社会にも貢献していける可能性をもった中学生の意志を蹂躙し、命を奪う行為は、明らかに「生命を礼拝しない」行為です。そのような行為が野放しになることは、許されないことです。では、人殺しさえしなければ、動植物を殺すのであれば「生命を礼拝」していると言えるのでしょうか? 私はそうは思いません。ここにある「生命」という言葉は、人間の命のことだけを指すのではないからです。もし、人間が生きるためだからといって、多くの生物種が絶滅し、あるいはウシやブタなどの家畜たちが、劣悪な環境で苦しみながら育てられ、そして大量に殺戮されていくならば、それは生命を蹂躙しているのですから、生長の家の信仰者は、そんな行為に加担するような生き方をしてはいけません。 
 
 今、私たちの運動が生物多様性を尊重し、肉食を減らそうとしている重要な理由の1つが、ここにあります。つまり、私たちの運動は、『生長の家』誌創刊号のこの宣言の第1条の精神に忠実に従い、それを世界的に展開していこうとしているのです。 
 
 ところで、生長の家の国際本部が東京・原宿から山梨県の八ヶ岳南麓に引っ越してから1年半がたちました。東京生まれ、東京育ちの私は、その間、これまでの人生で体験したことがないほど、自然との濃密な関係の中で生きることができて、この生活を選んだことを「本当に良かった」と感じています。これは皆さん、決して負け惜しみなんかじゃありません。もちろん、都会と比べて田舎は不便です。特に、私が住んでいる地域は、田んぼも、畑もありませんから、田舎というよりは「山の中」「森の中」です。畑に野菜や果物を植えれば、すぐにシカが来て食べてしまいます。雪が降れば、車の出入りもままならない所です。世の中の流行や、食べ歩きや、映画やゲームなどの娯楽からはずいぶん遠くなりました。でも、その代りに得た自然界との濃密な関係は、都会の生活では決してわからない重要な事実を教えてくれます。それは、「人間は自然の一部だ」ということです。だから、本当の意味で人間の命を大切にするためには、その基盤である自然を大切にしなければならないということです。 
 
 このことは、理論的には、私自身がこれまで繰り返して訴えてきたことですが、それはどちらかというと、頭による理解でした。ところが、“森の中”での生活を実際に経験して、私は「人間は自然の一部だ」と全身で感じることができるようになりました。具体的に説明しましょう-- 
 
Kamoshika  私は今、自宅からオフィスまでを徒歩で通っています。雪が降るまでは自転車通勤が可能でしたが、標高1200~1300メートルの土地に雪が降ると、道路が凍結します。ですから、徒歩に替えました。徒歩だと、オフィスまではほとんど上り坂ですから、雪の中を行くと約1時間かかり、帰りは下り坂が多いので40分ぐらいです。この往復の道で、ときどき野生動物に出会います。シカ、キツネ、タヌキ、キジなどですが、クマには会いたくないので、季節になると鈴を付けます。ついこの間(正確には2月24日の夕方ですが)、特別天然記念物に指定されている動物に出会いました。ニホンカモシカです。普通のシカは、人間と出会うとすぐに逃げてしまいますが、このカモシカはじっと立ち止まって私の方を見ています。そろそろと近づいていって写真を撮りましたが、5~6メートルの距離まで近づくと逃げていきました。その間、私とカモシカは見つめ合います。お互いの意図を探り、距離を測るのです。そういう直接の触れ合いの中で、私は「人間は自然の一部だ」と感じ、喜んでいる自分を発見するのです。 
 
 この話を、帰宅してから妻に話すと、彼女も「動物と出会うのは楽しい」と言います。人間は、野生の動物と出会うことに喜びを感じるということは、彼女もずっと感じていたことでした。その時、私は、ピューリッァー賞を受賞したアメリカの生物学者、エドワード・ウィルソン(Edward O. Wilson)の言葉を思い出しました。それは彼の本のタイトルにもなった「バイオフィリア」(biophilia)という言葉です。「バイオ」(bio)は生物、「フィリア」(philia)は愛するということです。彼の考えによると、人間にはその心の奥深いところに、自分の同類である人類はもちろん、人間以外の生物を愛する感情があるというのです。彼の言葉を引用しましょう-- 
 
「どんな生物であれ、生命なき物質のあらゆるバラエティをすべて合わせたよりも遥かに興味深いものだ。生命のない物質は、どれだけ組成の似た生体組織の代謝に役立つか、あるいは有用な生体物質へと変化させられるかによって、その主な価値が決まると言っても過言ではない。健全な精神をもった人間なら、生きている木よりも、そこから落ちた枯葉の山を好んだりはしないだろう。」 
 
「(…中略…)なかでも、ある種の生物は、精神の発達に特別な影響を与えるために、より多くのものをもたらしてくれる。他の生物と結びつきたいという欲求は、ある程度まで生得的であり、“生物愛好”(バイオフィリア)とでも呼ぶべきのだと私は考えている。この仮説の根拠は、科学的な意味で言えばそう確固たるものではない。(…中略…)だが、生物を好む傾向は、日常生活において明瞭なかたちで、しかも広く見られるものであり、真剣な考察を向けるに値する。それは、幼年期から、予測可能な幻想や個人的反応のなかに姿を現わし、やがて大部分もしくはすべての社会で繰り返し見られるパターン、人類学の文献のなかにしばしば見られる一貫性へと収斂されていく。」(pp. 138-139) 
 
 ウィルソン博士は、この本の別の所ではこう書いています-- 
 
「私がこの本で論じてきたのは、われわれ人間が人間たる所以は、かなりの部分まで、われわれと他の生物との特殊な結びつきにあるということだった。生物は、そこから人間の精神が生じ、また永遠に根を置きつづける基盤(マトリックス)であり、われわれが本能的に探し求めている自由や試練を提供してくれるものだ。ひとりひとりの人間がナチュラリストに近づけば近づくほど、かつての自由な世界の興奮を取り戻すことができる。これは、詩や神話を喚起する魔法の再現の公式だと言ってもいい。」(pp. 228-229) 
 
 この人の文章は、短い中に多くの意味を含んでいるので、少しわかりにくいのですが、結局、こういうことを言っているのだと思います--「人間には、本来的に他の生物と結びつきたいという欲求があるが、その感情の基盤は、われわれ人間が他の生物と“近い”という事実にある。人間の精神は、そういう他の生物との特殊な結びつきを基盤とし、そこから生まれているのだから、われわれが自然に近づけば近づくほど、人間本来の自由と喜びを得る機会を広げることができる」。 
 
 この考えをもう少し、宗教的に、生長の家で使われる言葉によって表現すれば、こういうことになるでしょう--「人間は“神の子”として、神が創造された他の生物すべてと本来、一体の関係にあるから、他の生物と結びつきたいという感情が湧き上がる。他の生物との“自他一体”の感情があるということが、私たち人間が人間である所以である」。このように言い換えてみると、ウイルソン博士が言っていることは、『生長の家』誌創刊号の「生長の家の宣言」の第一条と、ほとんど同じ意味になるのであります。それは、「吾等は生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」ということです。 
 
 ですから、生命を礼拝するということは、人間はもちろん他の生物との“自他一体”の感情を尊重して生きるということです。それは肉食を避け、自然環境を破壊せず、他の生物との接触の場を多くもつということでもあります。こういう生き方にもっとも相応しい場所は、都会ではなく自然の中です。生長の家が今、国際本部を大都会から“森の中”へ移して運動を展開している理由が、ここにあります。皆さまも、人間本来の生き甲斐や幸福は他の生物との関係の中にある、つまり自然の中にあるということを忘れずに、都会に住む人も、田舎に住む人も、人間の命だけでなく、他の生物の生命も礼拝し、尊重する生き方を実践していただきたい。それが私たち人間の幸福の源泉であり、世界平和への道でもあるのです。 
 
 立教86年の記念日に当たり、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣 
【参考文献】
○E.O.ウィルソン著/狩野秀之訳『バイオフィリア:人間と生物の絆』(ちくま学芸文庫、2008年)

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2014年6月24日 (火)

昆虫を食べる

 6月22日に長野県で行われた生長の家講習会の午後の講話で、私は「昆虫を食べる」という試みについて少し触れた。私が住む山梨県北杜市は長野県に接しているから、買い物などで長野県へ行くことも少なくない。そんな機会を利用して、長野産のイナゴを買って食べてみたことがある。「ゲテモノ趣味」とか「何を物好きな!」と言われるかもしれないが、私のこの試みは単なる物好きが理由ではない。先日の講習会での講話を聴いてくださった読者には、その理由を理解していただけただろう。が、この日に講習会に来られなかった人も多いので、この場を借りて説明したい。
 
Chirps3k  私が講習会で話題にしたのは、実は私自身のことではない。それは今、アメリカで開発されている“昆虫クラッカー”(=写真)のことだった。5月24日付のイギリスの科学誌『New Scientist』がそれを取り上げて、「Big bug harvest:Taste test at America's first insect farm」という特集記事を載せていたのを紹介した。訳せば、「昆虫の大収穫--アメリカ初の昆虫農場で味を試す」とでもなるだろうか。昆虫を人間の食料とすることを考えているのは、ボストンにあるシックス・フーズ(Six Foods)という会社で、「チャープス」(虫の鳴き声の擬音)という名前でコオロギ・チップを売り出そうとしている。そう、イナゴではなくコオロギを使うのである。記事にはクラッカーの写真が添えられていて、メキシコ料理店で出てくる「ナチョス」によく似た三角形のクラッカーが写っているが、色はチョコレート色だ。
 
 彼らはどうしてそんなことを考えるか……読者の多くは、「飼料効率」の話をすでにご存じだろう。これまで私は講習会などで何回もその話をしてきたし、『足元から平和を』(2005年刊)という本にも書いたし、今年の全国幹部研鑽会でも取り上げられたからだ。簡単に言うと、穀物が動物の肉になる効率のことだ。現代の食肉生産では、家畜や家禽を育てるのに穀物飼料を多用する。また、魚類の養殖にも穀物飼料が使われる。理由は、早く肉を得るためである。ところが、与えた穀物が肉になる効率は動物の種類によって大きく違う。ウシの体重を1キロ増やすのに必要な穀物は7キロ、ブタの体重を1キロ増やすのに要する穀物は4キロ、ニワトリの場合は2キロ、養殖魚は1.8キロ……などと言われている。これらの数字は厳密なものではなく、本によって必ずしも一定ではない。私が挙げた数字はその中でも“保守的”な見積りで、「ウシは10キロ」などという人もいる。が、とにかく、人が穀物をそのまま食べるのに比べ、穀物を動物に食わせてその肉を食する方法は、地球資源の大きなムダ遣いであるということを知っていただきたい。
 
 これに対し、動物性蛋白質は人間の生存にとって必須だから、動物の肉を食べないわけにはいかない--という見解がよく聞かれる。また、子供をもつ親の中には、成長期の人間の体を健康に保ち、勉強や運動に秀でる子とするためには動物の肉が必要だ--と考える人も多い。つまり、「環境を取るか自分を取るか……」というジレンマがあるというのである。これを解決しようという方策の1つが、「昆虫を食べる」という選択肢なのだ。昆虫は獣(けもの)ではないが、立派な動物である。しかも、体内には動物性蛋白質だけでなく、カルシウムもビタミンも豊富に含む。さらに言えることは、昆虫は、種の数では生物界では最大である。ということは、その中には人間の好みに合った味や食感をしているものもあるかもしれない……ということだ。そうして研究を進めた結果、コオロギに白羽の矢が立ったというわけだろう。
 
 しかし、そもそもなぜ昆虫か? と思う人には、飼料効率がすこぶるいいと答えればいいだろう。また、水を効率よく吸収して成長するのも昆虫の特徴だ。それに比べ、ウシやブタは生育過程で相当な量の水がいるし、殺した後の処理にも大量の水を使う。シックス・フーズ社のサイトによると、コオロギの飼料効率はウシの12分の1、温室効果ガスの排出量はウシの100分の1、1ポンドの肉を作るのに必要な水の量はウシの2000分の1だという。この“昆虫クラッカー”は、コオロギだけから作るのではなく、豆と米をベースにし、コオロギの粉末を混ぜるらしい。普通のポテトチップに比べて、脂肪は半分、蛋白質は3倍、そしてグルテンなしと表記されている。
 
 「虫を食べるなんてキモチワルイ」という感想は、もちろんよく分かる。私だってイナゴを食べるのには最初、勇気がいった。が、人間は馴れてしまえば、かなりの種類のもの、またかなりグロテスクのものでも喜んで食べる、というのも事実である。前掲の『New Scientist』の記事は、アメリカの文化・伝統では考えられなかった刺身や寿司が、今や大人気になっているのだから、“昆虫食”もその可能性がないわけではないと、半ば期待を込めて書いている。ちなみに、エビやカニ、シャコなどは、昆虫と同じ「節足動物」に属する。多くの読者は、彼らを「キモチワルイ」とは思わないに違いない。しかし、よく眺めてみると結構、グロテスクである。でも、エビなどは、私たちは大量に養殖してでもほしいと思う。 
 
 私は本欄で、読者に“昆虫食”を勧めるつもりはない。が、ぜひ知っていただきたいのは、世の中には、今後の地球の環境悪化と人類の食糧問題について、これほど真面目に、また創造的に考えている人がいるということだ。「肉食を減らす」などという初歩的なことに躊躇している場合ではない。
 なお、興味ある人は、以下の宣伝ビデオをご覧あれ!
 
 谷口 雅宣

At Six Foods, we believe six legs are better than four, and we are introducing our first insect-based food - Chirps Chips! (本社の名前「シックス・フーズ」は、6本足は4本足より優れていると信じているのでつけました。 私たちが開発した初めての昆虫ベースの食品です。)

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2014年4月 5日 (土)

旅先からの便り (6)

 今日は舞鶴市に来ています。
 
 これまで書いてきたことをまとめると、“バベルの塔”とは「人類が協力し合って造り上げる大きな構築物」という意味になりますから、人類の「文明」を象徴していると考えることができます。それは、自然界とは異なるものですが、自然界にある法則や資源・資材を利用して始めて可能になるので、自然界の存在を前提にしています。これまでの人類の文明は、自然界にある資源や資材の利用は「無制限」だとの暗黙の前提から造られてきました。ところが世界人口が70億人を超え、地球温暖化が進行する21世紀にいたっては、この前提は崩れつつあります。これからの時代は、自然の自己回復力を超えた資源・資材の利用は、人類自身の存在基盤を破壊することを意味するので、そのような自然の破壊的利用を「地球社会」として禁じる必要が生まれているのです。
 
 ところが残念ながら、現在の人類の間には、「地球社会」という考え方がまだ十分理解されていません。普通の現代人にとっては、自分が生活する「地域社会」や「地方」を超えて、「国家」や「国家連合」のところまでは意識を拡大できても、人間以外の生物や鉱物も含めた地球全体を、1個の有機的共同体として意識し、その共同体の利益を優先して自分の生活を律し、行動するという考え方は、ごく限られた少数派の人々の間にしか生まれていないのです。
 
 が、ここに1つの希望があります。それは、私たちの心の感性です。私がここで「感性」と呼ぶのは、私たちが自然界と触れ合うときに、どのように感じ、どのように思考するかという癖や傾向のことです。この中に、私はどんな人間であっても、自分の人間としての肉体を超え、社会や国家をも超えて、自然と共鳴し、共感するものがあると考えるのです。ごく月並みな表現を使えば、どんな人でも「自然が好き」であり「自然を愛する」ということです。しかし、この感情は、なまのままでは、かえって自然破壊につながるものでもあります。それは、山道の傍らに咲く花の美しさに感動し、それをたおり、あるいは根こそぎに引き抜いて、自分の家に持ち帰るというような略奪の行為につながります。自然界で美しいもの、おいしいもの、心地よいものを見つけると、それを自分の快楽の手段にしようとする心です。これも「自然が好き」であり「自然を愛する」ことに変わりはないのですが、この段階の感性では足りません。この段階では、自分と路傍の花とは離れた存在として感じられるため、花に美や可憐さを感じても、それを相手から奪って自分のものにしたいという欠乏感が先に立っています。
 
 私が希望をもつ感性とは、前回津市から出した便りに書いたような、石の地蔵さんに赤いエプロンを掛けてあげる心です。目の前にある対象が、自分の愛してやまないものであっても、それを力まかせに引き抜いて奪うのではなく、自分の“与える愛”の表現として、そのものの本来の生き方をそのまま認め、「大好きだよ」「そこにいてくれてありがとう」「そこでがんばれよ」「応援しているよ」という気持を込めて合掌し、しばらくそれを鑑賞したあとは、静かに立ち去っていく感性です。それは、親が子の元気な姿を見て喜び、安心し、やがて彼や彼女の幸福を願いながらその場を立ち去る気持と似ています。親には、子から何かを奪う必要はまったくありません。なぜなら、親は子が自分の一部であるとともに、自分より大きいものであることを知っているからです。親にとって、子は自分の延長であり、自分の夢です。それと同じように、人間が自然界を自分の延長として理解し、感じ、自分の夢がそこにあると感じるならば、自然破壊をする気持も必要性も消えてしまうに違いありません。
 
 私は、大阪の伊丹空港から舞鶴市に向かう自動車専用道路を走りながら、周囲の山々のあちこちを淡い桃色で彩る満開のサクラの花を見ながら、そんなことをつらつらと考えていたのでした。
 
 谷口 雅宣 

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2014年3月29日 (土)

旅先からの便り (5)

 こんにちは……。今日は三重県津市です。前回の大阪からの便りでは、プーチン氏のクリミア併合の動きに触れ、「バベルの塔は今再び崩壊の危機に直面している」と書きました。これは、名古屋から書いた便りの中で、「科学技術」という世界共通語を獲得した人類が、神に近づき、“神の国”を建設できるようになったことを意味するのか?--という疑問に対する答えになるでしょう。つまり、人間相互の信頼が欠けるならば、科学技術がどんなに発達しても、世界は破壊に向かうということです。
 
 当たり前と言えば当たり前の結論なのですが、ではなぜ信頼が失われるのか、あるいはそもそも信頼関係がなぜ作れないのか、という疑問に答えるのは、そう簡単ではありません。ケースバイケースで相互の事情が大きく異なることもあるからです。しかし、信頼関係の基本は自と他との一体感です。別の言葉を使えば、「自他は利益を共有する」との認識です。自分の利益は相手の利益でもあり、相手の利益は自分の利益でもあるという認識です。これが、プーチン氏の場合、アメリカや西ヨーロッパの国々に対して欠けていたということ、また逆に、西側の政治家にはプーチン氏の思想や心情が伝わっていなかったということでしょう。
 
3jizosan  ところで今日は、宿舎の近くの観音寺という所へ行きましたが、そのお寺の本堂の左脇の薄暗くなった空間に、小さな祭壇がありました。そこに三体の小さな石仏があって、それぞれが赤いエプロンに身を包まれていました。「石仏を刻む」という行為は多分、自分の中の善性を石の中に表すことだと思います。主観的な行為だと言っていいでしょう。しかし、いったん表現されると、石仏は客観性を獲得してすべての人々に一定範囲のメッセージを発することになります。文学や絵画も同じことをするのでしょうが、石仏が特殊なのは、それが「仏」を模している点です。
 
 仏を強引に定義すれば、一種の「理想的人間像」です。それを石の上に刻んだ石仏は、どんなメッセージを発するのでしょうか? この質問に対する答えは、石仏が「赤いエプロン」を掛けられるという事実の中にあると思います。
 
 「赤いエプロン」は普通、お地蔵さんが掛けるものです。そして、お地蔵さんはよく子供の霊を導く菩薩様と言われ、さらに転じて子供の霊そのものと見なされます。だから、エプロンを掛けられたり、帽子を被されたりするのです。つまり、亡くなった子供の代償として、愛を与える対象にされるのです。「赤」は愛の象徴です。だから、石仏に赤いエプロンを掛けるという行為は、自分の内部にある理想的人間像(仏)をそこへ投影して、それを子供のように暖かい愛に包んで大切にしたい……そんな心が表現されているのだと思います。
 
 長々と書いてしまいましたが、これは自他一体の感情が表現されたよい例だと思ったからです。この場合、「自」とは自分の心であり、「他」とは石仏です。赤いエプロンによって、石仏を自分の愛の心で包むことで一体感が生まれるのです。
 
 それでは、また………。
 谷口 雅宣 

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2014年3月22日 (土)

旅先からの便り (4)

 こんばんは……。今日は大阪に来ています。
 
 前回は、科学・技術を手に入れた人類は、こ新しい“共通語”を使って、神に近づく努力をし、実際に神に近づいている--つまり、素晴らしい“神の国”の建設に向かっているのかどうか--という疑問のところで終わっていました。
 
 実は、私はこのお便りを書く前まで、ロイター通信の英語サイトにあるプーチン大統領の議会演説の記録を読んでいました。この議会演説とは、彼が、クリミア自治共和国をロシア連邦に編入した際の、その理由を述べた今年3月18日の“大演説”です。それを読みながら感じていたのは、日本が属する“西側”のメディアが伝えているこの事件の状況と、彼が述べていることの大きな違いでした。
 
 日本はこの地域から遠く離れていて、利害関係はほとんどないので、日本のメディアは地域の事情に詳しくなく、ほとんどが欧米の--それもアメリカの論調に基づいた報道しかしていません。私はそれだけを読んでいたため、プーチン氏の心情(たといそれが一種の政治的ポーズであっても)を知ることはできなかったのですが、この演説にはそれがよく描かれていました。
 
 それで、何が分かったかというと、私たち人類は、科学技術という共通語を獲得したといえども、それは国際理解にほとんど役立っていないということです。詳しい説明は省略しますが、プーチン氏の言い分は、冷戦後の東欧の処理に不合理もしくは不平等があり、それについてこれまでガマンしてきたが、ついにロシア自体の国益を損なう事態に発展したため、やむを得ず自国の利益を護った--というのです。私は、それが大東亜戦争に入る前の、日本の政治家の演説とトーンが似ていることに驚きました。“バベルの塔”は今、再び崩壊の危機に直面しているのです。
 谷口 雅宣 

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2014年3月15日 (土)

旅先からの便り (3)

 こんにちは。今日は名古屋市に来ています。神戸市に引き続いて大都市での仕事です。
 
 聖書にある「バベルの塔」の話のところまで、書いたのでしたね。この話は、人間が町と高い塔を造り、“天に届かせよう”としているのを見て、神が人間の使う言葉を乱して、それを防いだ(妨害した?)という内容の物語でした。「言葉を乱す」とは、言葉を通じなくする--つまり、単一ではなく多くの言語を人間に使わせるということです。その理由を、『創世記』の作者は「天に届かせる」--つまり、「神に近づかせないため」だと考えたのでしょう。
 
 前回お便りした時は、「人間は何かを造ることに情熱を燃やす」と書きました。『創世記』の作者は、そのことを「高い塔」という言葉で表現したのだと思います。「高い塔」は、その文字通りの意味のものでなくても、「人工島」でも「飛行場」でも「リニアモーターカー」でもいいのです。なぜなら、それらはすべて「神に近づく手段」だと解釈できるからです。この場合、「神」とは「全知全能の存在」というような意味です。現在は不可能であることを、知識と技術の獲得によってしだいに可能にしていくという営みは、どんなに僅かなステップであっても全知全能に近づくことですから、「神に近づく」という表現が許されると思います。そう解釈すると、知識や技術の獲得はすべて“バベルの塔”に象徴させることができるでしょう。
 
 では、“バベルの塔”以降の人類は、どうなったでしょうか? 言葉を乱されたために、もう同じようなことはコリゴリだ、と諦めてしまったでしょうか? あなたもよくご存じのように、決してそんなことはありませんでした。先ほど人工島や飛行場、リニアモーターカーの話を出したように、人類は言語が別々に分かれたとしても、「科学」や「技術」という新しい“共通語”を開発して、やはり「神に近づく」夢に向かって着々と“塔”を建設し始め、現在もそれを続けているのです。ということは、私たち人類は、『創世記』の神より一枚上手だったということでしょうか? 神の造った障害をも克服する力を獲得した私たちは、もう“神の子”として“神の国”を建設することができるということなのでしょうか?
 
 これらの問いへの答えは、次回に考えることにいたしましょう。それでは、お元気で……。
 
 谷口 雅宣 

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2014年3月 8日 (土)

旅先からの便り (2)

 お元気ですか?
 今日は神戸市に来ています。3月6日には新宿からお便りしましたが、その続きを書きます。
 
 「現代の都市は、人類の文明の頂点である」という所まで書きました。そのことに「感じ入った」と付け加えましたが、それは「感心した」とか「感動した」という意味ではないのです。現代の都市は、東京も神戸も本当に便利で暮らしやすい場所ですが、それでは何故にそれらの都市の住人は幸福な顔をしていないのでしょうか? 今日、神戸へ来る途中で名古屋駅で新幹線に乗り替えたのですが、その名古屋駅のホームからは、駅前広場の人々の様子がよく見えました。すると、そこにはスカイブルーの法被を着た幸福実現党の人たちが列を作って街頭宣伝活動をしているのでした。私は、その政党の名前に冠された「幸福実現」という言葉を想い浮かべ、ハタと気がつきました。つまり、少なくとも彼らにとっては、幸福とはすでにあるものではなく、これから困難な政治活動を続けた結果、ようやく「実現」することができる将来の目標なのです。
 
 私は彼らを愚かだと言っているのではありません。恐らく都会生活者のほとんどは、彼らと同じように「幸福」とは今後、努力して手に入れなければならない“夢”とほとんど同義語だと感じているのではないでしょうか?
 
 でも私は告白しますが、新宿の地下街を歩いていて、自分が東京で使っていた銀行のATMが並んだコーナーをそこに見つけ、「うれしい」と感じました。私が住む北杜市大泉町には、その銀行のATMは存在せず、山梨県庁がある甲府市へ行ってもお目にかかれないものだからです。こういう気持を「幸福感」と呼ぶのは間違いでしょうか?
 
 また今日はここ神戸市へ来て、この新宿での幸福感に似た感情を抱きました。
 

Fr_portpiahotel

 私は今、神戸港に近いポートピアという人工島に建つ高層ホテルの24階にいます。ここは北杜市大泉町とは対照的に100%の人工物です。島自体が、山を崩した土を使って海を埋め立てて造った土地であり、そこに人間が頭で考えた町を造り上げ、樹木をどこからか運んで来て公園を造り、ビルを林立させたものです。神戸の街の中心とは橋と道路とモノレールで結ばれたこの人工島には、数年前、さらに沖合を埋め立てて神戸空港が造られました。私は24階のホテルの窓からこれらの人工構築物の一群を眺めながら、「ああ、人間とはこのように何かを造ることに情熱を燃やす生き物なのだ!」と感嘆するとともに、聖書にある「バベルの塔」の話を思い出したのでした。
 
 でも、この続きはまたにします。
 
 谷口 雅宣 

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2014年3月 6日 (木)

旅先からの便り

 お元気ですか? 今日は私用で東京まで出てきました。
 雪に覆われた大泉とは別世界で、人々が群れをなして一定行動にいそしんでいるように見えます。皆、個人としては自由意思によって行動していると信じているのでしょうが、都会人全体が一定の行動をとっているので--いや、もしかしたら都会という存在自体が単一の目的のために造られているからか、個人の“自由行動”の総和が一定の行動を生むというパラドックスが生じているに違いありません。
 こんな言い方が難しいならば、簡単な事実を思い出してください。それは、都会にある「ラッシュアワー」です。都会とその周辺の町に住む何百万という数の人々は皆、自由を求めて田舎を逃れ、都会に出て、そして各自が“自由に”生活しているつもりでしょう。が、事実は、ほとんどの人々が一定の時刻までに出社し、一定の時刻までに帰宅しなければならないので、息をひそめ、口を真一文字に結び、感情を抑えに抑えて、窮屈で不快な満員電車の中に、あるいは渋滞した幹線道路の上に、好きでもないのに自分の身を預けるのです。それを1週間に5日も連続して行わなければならないというのが、今日の“自由な都会人”の実態なのです。
 
 でも、実に多くの人々が--最近の国連の統計では、世界人口の半分以上の人々が--都市生活をしているという事実を考えると、そんな犠牲を払ってでも、都会には得るべきものがあるということでしょう。では、その「得るべきもの」とはいったい何でしょうか? それが「自由」でないことは、確かなことです。理由はすでに書きました。でも、「自由」というイメージと無関係ではないでしょう。私が考えるに、それはたぶん「自由であるという夢」なのです。実際は自由でなくても、自分は自由に生きているという感覚がほしいために、人々は都会を目指すのです。
 
 さて、ひるがえって自然のことを考えてみると、自然界が不自由であることは言うまでもありません。私が言う意味は、自然の中では、何でも気まま好き勝手にできるものではない、ということです。これに対して都会は、人間が「自由」の感覚に憧れて造った空間ですから、人間の選択や行動にとって“邪魔”と思われる要素がどんどん排除されていきました。それらの要素とは、例えば、地面の凸凹に初まり、高い木々、鬱蒼とした茂み、毒虫や害獣を含む昆虫や小動物……などです。
 
 そんな“邪魔者”に囲まれた自然の中から東京へと移動し今日、新宿の地下街を歩いていた私は、何と歩きやすく、また都会とは何と便利にできていることか--と感心しました。
 
 おかしいですね。私はつい半年前には都会の住人で、しかも数年ではなく、60年以上もそこに住んでいて、同じ地下街を何度も歩いたことがあるくせに、その時は都会の便利さは“当たり前”のこととして感心する対象には決してならなかったのです。それよりはむしろ、あそこのコンビニには何が置いてないとか、あそこの階段からは銀行に行けないとか、あそこのニューススタンドにはあの新聞が置いてないとか、そんな「ないない」の不便さを勘定していたような気がします。
 ところが八ヶ岳山麓に移住し、1メートルもの積雪の中に閉ざされた生活を経験し、人間ばかりでなく、シカもノウサギも鳥たちも移動や食事の自由を奪われる様子を目の前にして、そういう世界が「自然である」という認識にいたってみると、現代人の住む都市という空間が、人類が永い歴史を通じて造り上げてきた一種の“文明の頂点”であるという単純な事実に、改めて感じ入ってしまうのです。
 
 谷口 雅宣 

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2014年1月12日 (日)

タカミムスビとカミムスビ (2)

 
 このような見方を採用するならば、タカミムスビの神は「天岩戸開き」以外にも、日本神話の重要な局面に於いて、身を隠しながら影響力を行使していることが分かるのである。先に触れた「天孫降臨」の物語に関して、さらに詳しく、今度は『日本書紀』も含めて見てみよう。
 『日本書紀』によると、タカミムスビの神はニニギノミコトを寵愛して育て、葦原中国(アシハラナカツクニ)の君主にしようと願った(神代下、第9段、天孫降臨条、本文)。また、同書は神武天皇即位前紀、神武東征条の冒頭でも、タカミムスビとアマテラスの両神が豊葦原瑞穂国をニニギノミコトに授けられたと記述している。『古事記』では7箇所にタカミムスビがアマテラスと共に命令を下す存在--つまり、身を隠して影響力を行使する存在--として描かれている。その中で「国家神」として最も重要な役割を描いているのが上巻の天孫降臨条の次の箇所である--
「天照大御神・高木神の命もちて、太子正勝(ひつぎのみこまさかつ)吾勝勝速日(あかつかちはやひ)天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に詔(のたま)ひしく、“今、葦原中国を平らげをはりぬと白す。故(かれ)、言依(ことよ)さしたまひし随(まにま)に、降りまして知らしめせ”とのたまひき。」
 ここにある「高木神」とは、タカミムスビの神の別名である。これらのことなどから考えて、民族学者の岡正雄氏は昭和29年10月、昭和天皇への進講の際、「皇室の本来の神話的主神はタカミムスビノカミで、アマテラスオオミカミではないと思う」ことなどを述べたという。この説を支える記述としては、『日本書紀』の顕宗天皇三年条に、月神と日神がともにタカミムスビを「我が祖(みおや)タカミムスビ」と呼んだという段もある。日本古代史研究家の溝口睦子氏は、岡氏の説に賛同して「7世紀末以降アマテラスは天皇家の先祖神であり、神界の最高神だった。しかしそれ以前はそうでなかった」とし、タカミムスビがもともとの皇祖神で、「この神こそ、ヤマト王権時代の皇祖神=国家神であった」(p.177)と結論している。
 
 タカミムスビの神の神話における重要性については、これで明らかだろう。が、もう一方のムスビの神、カミムスビはどのような役割を果たすのだろう。これについては、日本の古代文学研究者、神野志(こうのし)隆光氏の次の文章がまとまっていて分かりやすい--
 
「カムムスヒの名をあらわすのは、スサノヲが殺したオホゲツヒメの体になった五穀を取らしめて種とし、オホアナムチが殺されたときには母神の請いをいれてキサカヒヒメ・ウムカヒヒメを遣わすくだりであり、また、オホクニヌシと協力して国作りするスクナビコナはこの神の子であり、カムムスヒはそれを確認しつつ協力して国作りすることを命じる。さらに、国譲りにおける鑽火の詞のなかにもあらわれる。」(『古事記とはなにか--天皇の世界の物語』、p.95)
 神野志氏の神名の表記法は本欄のものと若干異なるが、「カムムスヒ」とはカミムスビのことである。カミムスビの神の働きは、ここに書かれているように、他の神に「取らしめ」たり、「遣わし」たり、「命じ」たり、祝詞の中に「あらわれ」たりして、影響力を行使するのみであり、同神自身が何かを実行することはない。前掲のビリヤードの喩えを使えば、他の玉を動かすことで得点するのである。この点で、タカミムスビと同様に「身を隠す」存在であると言えるだろう。
 では、身を隠して物事を背後から成就させる働きが共通しているとしても、タカミムスビとカミムスビの間には相違点はないのだろうか? 私はあると思う。その違いは影響力の行使の仕方である。先に述べたように、タカミムスビは、天の岩戸開きの方法を自ら公案したオモイカネの神の父神である。子神の背後にあって、能動的、積極的に動いたと読み取れる。また、葦原中国の平定の相談をするために、八百万の神々を天安河(あめのやすのかわ)の河原に集合させ、オモイカネに知恵を出させる時も、能動的、積極的である。そして、天孫降臨の際は、天照大御神とともに自ら命令を発することは先に引用した通りである。
 
 これに対し、カミムスビの神の影響力の行使の仕方は、受動的である。スサノオによってオオゲツヒメが殺された際は、その死体から生まれた穀物や豆をムダにしないように、それらの種を採取させた。オオアナムヂの神が焼けた大石を抱いて死ぬんだ際には、二人の女神を天から遣わして生き返らせた。さらに、オオクニヌシの国作りの際は、御子のスクナビコナの神を遣わして助けたが、その役割はあくまでもアシスタント(従属的)であった。このように見てくると、同じムスビの働きであっても、その現れ方は能動的と受動的の二つがあると言えるだろう。
 
 能動的な働きは、言わば「自ら前に出る」ことでムスビを促進する仕方である。天の岩戸開きは、元来共にあった太陽神とその他の神々が分離して、光と闇に分かれてしまった世界を、再び結び合わせる一大事業である。葦原中国の平定は、天の秩序を地にもたらそうとすることだから、天と地との合一である。それを行うことを命じた神がタカミムスビである。きわめて能動的だと言える。これに対してカミムスビは、他の者が“前に出た”ために後ろに残ることになった者や力を支え、それを援助して育むことで、残されたものの再生や再起を促し、再び機会を得た際には飛躍を準備した。これは言わば、「受動的なムスビ」の働きである。
 
 このように考えれば、タカミムスビとカミムスビが、それぞれ「陽と陰のムスビの働き」を表していることが分かるのである。
 
【参考文献】
○大和岩雄著『新版 古事記成立考』(大和書房、2009年)
○幸田成友校訂『古事記』(岩波文庫、1943年)
○神野志隆光著『古事記とはなにか--天皇の世界の物語』(講談社学術文庫、2013年)
○溝口睦子著『アマテラスの誕生--古代王権の源流を探る』(岩波新書、2009年)
○千田稔著『古事記の宇宙(コスモス--神と自然)』(中公新書、2013年)

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2014年1月 6日 (月)

タカミムスビとカミムスビ

 私は昨年11月の本欄で、タカミムスビとカミムスビの神について「陰陽二柱のムスビの神」とか「陰陽一対のムスビの神」などの表現を使ったが、これは誤解を招いたかもしれない。どんな誤解かというと、これらの神が『古事記』や『日本書紀』の中では協働して何かをする様子が描かれている、という誤解である。それはちょうど、イザナギとイザナミの両神が協働して国土を生み出していくように、である。ところが事実はそうではなく、両神が協力して何かをなしとげる場面は、両書には出てこない。それどころか、『古事記』はその冒頭で、アメノミナカヌシに続いて両神の名を挙げた後、「此の三柱の神は並(とも)に独神と成り坐(ま)して身を隠しき」と書いている。つまり、両神は〝独身〟の神で姿形が見えないのだと考えれば、両者が協力して何かを実現することはあり得ないという解釈も成り立つのである。これに対して、イザナギ、イザナミの両神は「独神」とは呼ばれず、また「身を隠しき」とも言われない。そして、両神が密接に協力して国生みをしたという話は、あまりにも有名である。
 
 では、タカミムスビとカミムスビの両神は、どんな意味で「陽と陰のムスビの働き」だと言えるのか? それを知ることが今回の考察の目的である。
 歴史地理学者の千田稔氏は、タカミムスビとカミムスビの二神が『古事記』の中でどう描かれているかを、著書の中で分かりやすく解説している。その中に両神が「身を隠したまいき」と書かれている意味が、次のように示唆されていて、その解釈が興味深い--
 
「 最初にタカミムスヒの神という名が出るのはアマテラスの大御神が天の石屋戸に隠れたという場面である。世の中はまっくらになり、八百万の神は天の安の河原に集まり、そこでタカミムスヒの神の子であるオモイカネ(思金)」の神にアマテラスの大御神を誘い出す思案をさせている。この情景には、たしかにタカミムスヒの神は姿をあらわしていない。御子神のオモイカネの神に状況を打開する仕事をゆだねているか、もしくは指図している。そのようにみれば、タカミムスヒの神はオモイカネの神の背後にあって身を隠しているといってよいのかもしれない。」(千田稔著『古事記の宇宙(コスモス)--神と自然』、p. 57)
 ここで取り上げられている「天岩戸開き」の物語はあまりに有名なので、詳しくは説明しない。が、次の3点は、タカミムスビの神の働きの特徴と関係が深いので、改めて指摘しておこう--
 
 ①天岩戸開きは、同神が『古事記』に登場してから初めて、同神について言及される出来事である。しかし、同神はそれに直接関与していない。
 ②この出来事は、オモイカネの神なくしては成功しなかった。
 ③そのオモイカネの神は、タカミムスビの神の子であるから、後者は前者を通してこの出来事を成就したと解釈できる。つまり、タカミムスビは天岩戸開きの“影の立役者”とも考えられるのである。
 日本の神話では、特に『古事記』の記述では、上の③のような形式で神と神との関係を描くことが珍しくない。つまり、特定の神Aの働きを描くのに、その神が別の特定の神Bに対して影響力を行使したとして(間接的に)描くのである。例えば、イザナギとイザナミの両神によって国土が創造されるに際しては、この両神のいずれかの発意によって、もしくは両神が合意してそれが行われたとは書かずに、「天つ神一同の命によって」それが行われ、そのための手段である「天の沼矛」も、天から両神に与えられたものとして描かれている。イザナギ、イザナミの両神は、まるで自らの意思をもたないかのようである。(『日本書紀』とは異なる)
 また、「天孫降臨」の物語では、ニニギノミコトは自らの意思で地上に降りてくるのではなく、やはり天つ神の共同の意思によって地上に「遣わされる」のである。この形式を喩えて言うならば、ビリヤードでは、テーブル上のいくつもの玉はそれぞれ複雑に独立した動きを見せているようであっても、その動きの原因は最初の一突きをした人間にあるのであって、それぞれの玉にあるのではないのと似ている。玉突きのプレイヤーは、複雑な動きを見せる様々の玉の背後に、言わば「身を隠している」のである。
 谷口 雅宣

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