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2017年1月 1日 (日)

“新しい文明”の基礎づくりを始めよう

  全世界の生長の家信徒の皆さん、新年おめでとうございます。
 
 この新しい年を、皆さんと共につつがなく迎えることができたことを神様に心から感謝申し上げます。ありがとうございます。 
 
 本年は「“新しい文明”の基礎を作るための3カ年計画」がスタートする年です。“新しい文明”とは、人間の幸福と自然界の発展とが両立するような生き方であり、そんな生き方を支え、拡大する力となる信仰、哲学、科学技術、政治、経済の全体をいいます。私たちはそれを今後、ゼロから作り上げるのではありません。人類は何千年もの歩みの中で、すでにそれに該当する業績を世界各地で数多く生み出してきました。しかし、それらの業績は、今私たちの目の前にある人間本位の価値観を基礎とする“旧い文明”では取り入れられず、一部取り入れられたとしても、経済発展優先の政治により、脇に追いやられてきたのでした。私たちはそれらを繋ぎ合わせ、補強し、血を通わせて体系化し、できるところから実行に移すことによって、“新しい文明”の基礎を整えようと考えています。 
 
 そのための活動として、3つの実践項目を提案しています。1つは「ノーミート、低炭素の食生活」、2つ目は「省資源、低炭素の生活法」、そして3つ目は「自然重視、低炭素の表現活動」です。この3つは、私たちの運動の中で、すでに昨年から各地で実践され始めていますが、これらをもっと積極的、大々的に、そして私たち信仰者の「倫理的な生き方」の証として、喜びをもって展開していくことを通して、周囲の人々に生長の家の御教えを確実に伝えていきたいと念願しています。 
 
 昨年、2016年の世界で特徴的だったのは、ポピュリズムの台頭でした。日本だけでなく、ヨーロッパでも、アメリカでも、これまでの政治・経済の仕組みを否定する一方で、適切な方策を伴わない大きな変化が起こっています。この動きはしかし、過剰なグローバリゼーションの弊害を教えてくれるのですが、反面、危険な方向を示しています。エリート支配でなく大衆支配を、グローバリズムでなくナショナリズムを、自由貿易ではなく自国の産業擁護を、移民の受け入れではなく移民排斥を、軍縮でなく軍備拡大を、この動きは提案しているのです。これらは、社会の急激な変化に反対する大勢の人々の“叫び”であることは否定できません。しかし、この“叫び”をそのまま実行すれば、各国が互いに利害を主張し合う“対立の世界”に移行することは明らかです。 
 
 私は、この叫びは社会の「不平等感の拡大」が大きな原因の一つだと考えます。ある社会において、少数のエリートだけが利益を享受する一方で、大多数の構成員が社会の恩恵を受けられず、心理的にも取り残された状態にある場合、そういう社会に貢献する意欲が失われてしまうのは当然です。そんな人々の目には、民主主義の理想は“美しい飾り”にしか見えません。だから、それらの価値に反逆して、極端な主張を唱え、極端な行動を起こす人たちも出てくるのです。 
 
 これを宗教的に言い直すと、現在の社会には、神の御徳である「知恵」「愛」「命」の表現が、極端に偏っているということです。だから、私たちはもっと強力に、社会の全面に神の御心を表す活動を、積極的に展開していかねばなりません。そのためには、自然界をこれ以上破壊するのをやめなければなりません。神の御心は、自然界に充満していることを忘れてはなりません。自然から奪うことが富の実現だと考える“旧い文明”に別れを告げましょう。そして、自然を養うことにより人間の幸福を実現する“新しい文明”を構築しましょう。それが、この地球社会を“対立の世界”へ転落させるのを防ぎ、平和の道へ引きもどす唯一の方法です。 
 
 それでは皆さん、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 
 
 谷口 雅宣

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2016年8月18日 (木)

核による先制攻撃 (2)

 日本を対象に具体的なケースを考えてみよう。今の時点で最も起こりやすい日本周辺での武力衝突は、尖閣諸島や南沙諸島海域で日本と中国の間で起こるものだ。その場合、中国の軍艦や戦闘機が日本の自衛隊の航空機や艦船に対して攻撃を検討するときには、日本からだけでなく、アメリカ軍からの報復攻撃の可能性も考慮しなければならない。そして、アメリカ軍の報復の中には「核によるものもあり得る」と考える場合と、「核での報復はない」と考える場合との間に、中国側の攻撃命令の出しやすさに違いがあるかどうかということである。私は、違いはそれほどないと思う。なぜなら、日中の艦船や航空機間での武力衝突に対して、アメリカがいきなり核兵器を使って中国を攻撃することなど考えられないからだ。だいたい、アメリカのICBM(大陸間弾道弾)やSLBM(潜水艦発射弾道弾)は、中国の何をねらって発射されるのか? 両国の艦船間の小ぜりあいに対して、アメリカが中国の都市を攻撃すれば、それは明らかな過剰攻撃であり、人命軽視が批判されて国際世論を敵に回す。 
 
 では、どんな場合に、アメリカの核攻撃のオプションが中国の武力攻撃を抑止する可能性を生むかというと、尖閣諸島周辺での日中の武力衝突がしだいにエスカレートして、両国の攻撃が相手方の軍事基地に向けられるようになった際だろう。しかし、この場合でも、沖縄の基地が攻撃されたからといって、アメリカは中国本土に核攻撃で報復する可能性は低いと思う。その理由は、米中間の核戦争に発展する可能性が生まれるからだ。では、何もしないかといえば、そうではなく、通常兵器による報復攻撃によって限定的に応戦しながら、外交的に紛争処理の機会をさぐることになるだろう。また、「戦術核兵器」と呼ばれる比較的小規模な破壊力をもった核兵器を“先制的”に使用する選択肢もあるかもしれないが、これもいきなり使うことはなく、通常戦力による戦闘がエスカレートする過程での使用だから、いわゆる「核先制攻撃」の範疇には入らない。つまり、「核先制攻撃」を放棄しても、戦術核兵器を防衛的に使用することはできるだろう。 
 
 問題は、北朝鮮の動向だ。私は、北朝鮮の核開発は、アメリカからの先制核攻撃の脅威を和らげるための手段だと考えている。北朝鮮の核攻撃能力は、韓国のソウルや日本の東京に壊滅的打撃を与えることは今でも可能だろう。だが、彼らがそれを実際にしないのは、アメリカの“核の傘”が有効に機能しているからだ。つまり、ソウルや東京への核攻撃、ないしはその脅しが機能しないのは、北朝鮮がアメリカによる核報復攻撃を恐れているからだ。だから彼らは、ミサイルの技術を向上させて、シアトルやサンフランシスコなどの人口密集地に正確に誘導する能力を獲得することにより、アメリカの核(報復)攻撃を抑止しようとしているのだろう。 
 
 そこで今回、アメリカが核先制攻撃のオプションを放棄すると宣言した場合、北朝鮮はどう考えるかが重要なポイントになる。もし私が考えているように、北朝鮮の核開発の目的がアメリカからの先制核攻撃の抑止であるならば、それを放棄するアメリカの決定は北朝鮮への朗報だ。別の言葉で言えば、彼らはこれ以上核開発を進める理由を失うことになる。しかし--と安倍首相なら言うかもしれない--アメリカからの先制核攻撃の脅威がなくなれば、北朝鮮は“安心して”日本や韓国を核攻撃で恫喝しつつ、東アジアで勝手な行動を拡大することになる。本当だろうか? 
 
 私は結局、この問題は北朝鮮の現政権を“極悪”と見るのか、それとも“善”と言わないまでも“極悪ではない”(交渉の余地がある相手)と見るかの差ではないかと思う。前者の見方をすれば、どんな防衛上の努力を講じても、“北朝鮮の脅威”を払拭することはできない。だいたい北朝鮮は、核兵器など使わなくても、一部のイスラーム過激派のように、日本国内に戦闘員を潜入させて、銀座や大手町で自爆テロを起こすことは今でも可能だろう。しかし、後者と見るならば、彼らの外交目的は(他のどの国とも同様に)自国の安全保障と繁栄であるだろうから、その目的に資する条件を提示して交渉のテーブルに引き戻すことは可能だと思うし、そうすべきである。 
 
 私が言いたいのは、この時点でアメリカが「核による先制攻撃」の選択肢を放棄する核戦略の転換を行ったとしても、中国や北朝鮮から日本が武力挑発を受ける危険性が有意に増大する可能性は少ないということだ。これはもちろん、そういう危険性が「絶対ない」という意味ではない。日米の信頼関係が破綻したり、中朝の指導者の国内統治力が大幅に減じたり、はたまた日本の力が及ばない事態の勃発で朝鮮半島で武力衝突が起こったりすれば、条件は大きく変わる。これらの“不測の事態”が起こることを今から考えて、万全の構えで国の安全を保障したいという「不安な気持」は理解できなくはない。しかし、それならば、防衛力や軍事技術のような“敵を認めて備える”努力を増大するのではなく、外交や親善交流を拡大して“敵として認めない”努力をもっと拡大すべきだと思う。なぜなら、国際関係は結局、人間の心が動かすものだからだ。 
 
 谷口 雅宣

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2016年8月17日 (水)

核による先制攻撃

 物騒なタイトルをつけてしまったが実際、物騒な話なので、読者諸賢にはご容赦願いたい。8月17日の『山梨日日新聞』が共同通信の配信記事を1面トップに載せて、安倍晋三首相が「核による先制攻撃という選択肢を捨てないでほしい」とアメリカの太平洋軍司令官に頼んだというのである。米紙『ワシントン・ポスト』が15日付で伝えたニュースを日本向けに書き直したものだが、日本の首相がアメリカの大統領にではなく、軍司令官に頼むというのは奇妙な話ではある。この記事によると、安倍首相は7月26日に日本滞在中のハリス米太平洋軍司令官に会っているので、この時に要請したものらしい。 
 
 その理由は、“核なき世界”を提唱するオバマ政権が今、アメリカの核戦略を見直しつつある中で、「核による先制攻撃」を選択肢から除くことを検討しているからだ。安倍首相の考えでは、アメリカの「核による先制攻撃」の可能性がなくなると、北朝鮮や中国に対する日本の防衛力が弱まるということらしい。この記事によると、オバマ大統領の核戦略再検討の動きに対しては、「米主要閣僚は反対、韓国やドイツなどの同盟国も懸念を示しているとされ、採用の可能性は低い」らしい。しかし、その一方で、「川口順子元外相とオーストラリアのエバンズ元外相らアジア太平洋地域の元閣僚や軍高官ら40人は16日、オバマ政権に先制不使用政策の採用を強く促し」たという。賛否両論があるということだ。 
 
 核による先制攻撃のオプションは、アメリカ自身にとってはそれほど重要でなくなっている。普通、核先制攻撃は、敵国が自国の政府や人口密集地に対して甚大な損害をもたらす危険が差し迫っていると判断した時に、敵国の核兵器や軍事基地に対して行われる。しかし、これは理論上の想定で、実際にはそれが行われたケースは歴史上存在ない。キューバ危機の際に、当時のケネディー大統領がソ連に対してこのオプションを明示して、キューバへのソ連製核兵器の導入をやめさせた例はあるが、このときも核先制攻撃は行われなかった。また、イラク戦争の発端は一種の“先制攻撃”だったが、この場合も核兵器は使われず、通常兵器での大規模攻撃だった。また、イスラエルが隣国イランの核開発に脅威を感じ、イランの核施設に対して先制攻撃を行った例もあるが、この場合も核兵器は使われず、爆撃機による通常兵器の攻撃だった。 
 
 このように先制攻撃は歴史的には行われているものの、これに核兵器を使った例は皆無といっていい。その理由の一つは、核兵器の破壊力があまりにも強大なので、それを限定的に使えず、使った場合は過剰攻撃となって国際世論を敵に回すか、あるいは全面核戦争につながるリスクが大きいからだろう。もっとも「劣化ウラン弾」のような放射性物質の破壊力を限定的に使用する兵器はあるが、これはいわゆる「核兵器」の範疇に入らない。 
 
 現在では冷戦は終わり、対ロシア、対中国の関係でアメリカが核による先制攻撃を行う必要性はきわめて少ない。また、現在のアメリカに対する脅威は、ロシアや中国のような核保有国からの攻撃ではなく、イスラーム原理主義などの少数のテロリストがアメリカ国内で起こす都市への攻撃で、これに対しては核兵器はまったく無力であり、抑止力はない。 
 
 アメリカが核先制攻撃を放棄して問題が起こるとすれば、それはいわゆる“核の傘”を差しかけている同盟国との関係である。核先制攻撃をアメリカが放棄した場合、同盟国に対する武力攻撃の抑止力が減退すると考える国が少なくないからだ。安倍首相もその中の一人だろう。だが、本当にそうであるかは明らかでない。 
 
 谷口 雅宣

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2016年7月11日 (月)

憲法改正の動きを注視しよう

 参議院選挙の結果が出た。残念ながら「芳しい」とは言えないが、それほど悪い結果でもないと思う。今回の選挙では、改選議席の総数は121で、そのうち自民が51、公明が13を獲得した。それぞれ+1と+4の増加だ。これを加えた64議席が、改選総数の52.9%になるため、各紙は「与党、改選過半数」という見出しを打った。また、非改選を含めた自民と公明の議席数は140で、これに「おおさか維新」や「日本のこころ」などの憲法改正積極派の議席18を加えると158となるので、「改憲勢力2/3に迫る」などという言い方もされている。 
 
 しかし、データを詳しく見てみると、自民は1議席しか増やしておらず、公明の+4は、投票率の低さに起因する部分も多いだろう。今回は54.7%という戦後4番目に低い投票率だから、組織力が強い公明や共産に有利で、共産党も2議席を増やしている。その他、伸長が目立つのは「おおさか維新」の+4だが、この票の多くは“浮動票”的な性格のものだと思う。なぜなら、『朝日新聞』が32の一人区で行った出口調査では、無党派層の34%が自民候補に投票したのに対し、56%は野党統一候補に入れている。この割合は、「おおさか維新」の支持層の34%が自民に入れ、46%が野党統一候補に入れたという割合と似ているからだ。 
 
 また、この調査で注目されるのは、公明支持層の動向だ。これらの人々の動きは、支持母体の創価学会の組織力を示すものだと思われるが、今回の選挙では、同支持層の24%が野党統一候補に入れたという結果になっている。つまり、公明党関係票の4分の1は、野党側に流れたということだ。これは恐らく、“解釈改憲”や安保関連法案の強行採決が、創価学会の一部--特に婦人部の不評をかったことと関連があるのではないか。 
 
 無党派層の動きを調べた共同通信の出口調査では、自民に入れた人が22.3%だったのに対し、民進に入れた人は23.2%と上回った。これは、2013年の参院選(自民23%、旧民主14.4%)、2014年の衆院選(自民21.1%、旧民主20.8%)の割合から逆転している。投票率がよくないにもかかわらず、あえて投票に参加した無党派層の中に「反自民」が増えている傾向を示す数字ではないだろうか。 
 
 このような選挙結果が、「与党とその候補者を支持しない」という今回の生長の家の方針発表とどう関係しているかは分からない。しかし、この発表により、安倍政権を支えている「日本会議」という不透明な政治組織の背後関係にある程度光が当たり、その思想が現在の生長の家とはまったく異なることが、メディアや組織を通じて信徒を含む多くの人々に伝えられたことは幸いだった。ただ、この発表が参院選の直前になってしまったため、生長の家の会員・信徒の方々には“寝耳に水”のようであり、少なからぬ混乱を招いたならば御寛恕をお願いする。これも偏に、国民が知らないうちに“解釈改憲”を行い、日本を誤った方向に向かわせようとする隠れた動きに「NO」を突きつけるためである。 
 
 今後、安倍政権は憲法改正を政治日程に上げてくるだろうが、その際には、彼らの改正案が、具体的な条文として本当に「改正」に当たるのか、それとも「改悪」なのかをしっかりと吟味検討していくことが、日本国民としての義務となるだろう。生長の家は、現憲法を金科玉条とするものではないが、立憲主義の原則を護り、「人間・神の子」の教えにもとづいて基本的人権を尊重し、軍拡や武力による平和ではなく、「信仰による平和」を希求するものである。 
 
 谷口 雅宣

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2016年7月 7日 (木)

今こそ「万物調和」の教えを拡げよう

 今日は午前11時から、山梨県北杜市にある生長の家“森の中のオフィス”の万教包容の広場で、「万教包容の御祭」が行われた。同祭にはオフィス職員が参加したほか、御祭の様子を伝える映像は、インターネットを通じて生長の家の国内の教化部を初め、海外の各拠点にも配信された。 
 
 私は御祭の最後に、概略以下のような言葉を述べた-- 
 
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 皆さん本日は、第4回目の「万教包容の御祭」にご参加くださり、ありがとうございます。この御祭は、3年前の7月7日に、“森の中のオフィス”の落慶を記念して始められました。その目的は、世界の宗教や民族、文化などが、多様性をもちながらも一つの中心のもとに大調和する実相世界の構図を、私たちの運動を通して現実世界にも現していくことを誓い、祈念するためであります。そのことを象徴するのが、七重塔であります。 
 
 今日は先ほど、この万教包容の広場で4基目の七重塔が除幕され、その基台に『甘露の法雨』と『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』の経本が納められました。この3つの経本は、これまでの1年間、オフィスの本部講師、本部講師補の方々が心を込めて読誦してきたもので、「神・自然・人間の大調和」実現を目指す私たちの誓願が込められています。 
 
 いま「神・自然・人間」と3つの言葉を使いましたが、この3つは本来、一体のものであるというのが、私たちが信ずるところであります。言葉というものは--特に、私たちが「名詞」と呼んでいるものは、人間の感覚でみれば「別々に分かれて見えるもの」を取り上げ、それらに名前をつけたものです。この現象世界の中には、実に膨大な数、膨大な量のものが存在しますが、その全体を捉えることは人間の感覚によっては不可能なので、私たちはそのごく一部を頭の中で切り取って名前をつけ、その名前を使って世界を理解しようとしているのです。 
 
 写真撮影を例にとれば、世界全体の写真はどんなカメラによっても撮れないので、その一部をフレーミングで切り取り、切り取った画面に大きく写ったものに名前をつけるようなものです。これが私たちが普段使っている言葉の重要な機能です。これはとても便利な機能なので、日常生活で普通に使っている分には問題は少ない。しかし、デメリットがないわけではない。その1つは、言葉で名前をつけた部分が、それ以外の部分とは別個に、独立して存在するような印象が生まれるということです。しかし、本当は、その名前の部分と写真のその他の部分は、別個で、相互に無関係であることはなく、同じものの一部であったり、密接な関係で結ばれていることがほとんどです。 
 
 例えば、「山川草木」という言葉がありますが、この言葉の文字面だけを見ていると、「山」と「川」と「草」と「木」は、別個の独立したもののように感じられますが、私たちがこの八ヶ岳の麓で生活していてよく分かることは、これら4つは決して分離することができない全体の一部で、相互に密接に支え合っているということです。山があれば必ず川が流れます。川の周辺には草木がよく繁り、そのおかげで川が氾濫しないで一定のコースを流れる。だから、山の形が一定なのも、草木が繁っているからと言えます。 
 
 『観世音菩薩讃歌』の終りの部分には、これと同様のことが「空をゆく雁の群」を例に挙げて描かれているのを、思い出してください。 
 
<--天使かく説き給えば、 
天の童子の姿かき消え 
虚空高く雁の一群の飛び行く姿見ゆ。 
その時天空より大音声の響きて曰く 
「見よ、雁と虚空と分かつこと能わず。 
虚空と山河と分かつこと能わず。 
山河と海は不可分なり。 
すべての生物と地球は一体なり。 
汝ら自らを一個の卑小な肉体と見るべからず。 
人間は山河なくして存在せず、 
海陸と別に存在せず、 
そこに生くるすべての生物と共に在るなり。> 
 
 この引用箇所は、文学的表現のように聞こえますが、生物学や生態学が発達した今日では、科学的事実でもあるわけですね。人間は、生態系の一部として、空や山河や海陸と、そこに生きるすべての生物に支えられて生きている、ということです。これが生物としての人類の真実なのですから、人間社会の中での個人の位置も、この全体的構造と違うはずはないのです。つまり、すべての人々は、お互いに助け合い、支え合って生きているのです。しかし、人間には、そういう大調和の全体像が見えなくなることがある。それは、社会全体の中での自分の位置が分からなくなる時です。これを「identity crisis」とか「自己同一性喪失の危機」とか呼びます。 
 
 自分が一体何者であって、何に価値を見出せるか分からなくなってしまう。社会での自分の位置が失われる。どこへ行っても、そこは自分の居場所ではないような気がする。人とのコミュニケーションがうまくとれず、友だちができない。友達がいても、別れてしまった……そういう精神的危機は、貧困の中で生まれることもあるけれども、先進諸国の物質的繁栄の中でも生まれることがあります。自分の“本当の姿”を忘れ、一個の肉体だと思う。そういう人間の中には、自分を疎外する社会を破壊して、自分自身も破壊したいという願望を抱く人もいるのです。 
 
 私は、ISの呼びかけに応えてテロを行う人々の多くが、そのような自己同一性の危機に陥った人だと考えています。つい最近も、バングラデッシュのダッカで、外国人向けレストランを狙ったテロが起こり、日本人7人を含む20人が犠牲になりました。一見、このこととは関係がないように見えますが、より広く世界に目を向けると、イギリスの国民投票ではEUからの離脱派が多数を占めました。これは、ヨーロッパへの大量の移民の流入によって、イギリスの文化的・社会的同一性が失われると感じた人々の、恐怖心から生まれた結果と思われます。アメリカの大統領選挙でも、移民流入の制限と、人種や宗教差別を隠さない大富豪の候補者が、国民の半分を代表する立場にあるというような、アメリカ史上稀にみる異常事態が起こっています。 
 
 そして日本では、過去の憲法を復活させ、中国に対抗するために軍備増強を推進しようとする総理大臣が、高い支持率を維持していることは、皆さんもご存じの通りです。 
 
 このように、世界の多くの人々が、本来一体で大調和している世界の構図を認めずに、分離・独立・相互対立の動きが世界中で広がっているように見える今こそ、この「七重塔」に象徴される「万教包容」「万物調和」の教えと、アイディアと、生活法を推進していく私たちの運動の重要性は増大していると言わねばなりません。七重塔の「7」は「すべて」を表します。そのすべてが、それぞれの個性を失わずに、中心軸(つまり神意)から逸れずに全体を構成している。その姿は、調和していて美しい。 
 
 それを表現しいるのが、七重塔です。この塔は毎年、この日に一基ずつ増設していくことが決まっていますが、その理由は、私たちの万教包容・万物調和のメッセージが年ごとに世界にどんどん拡大していくことを誓願し、その誓いを視覚的にも表現することによって、運動の拡大を進めるためです。 
 
 どうか皆さん、「神・自然・人間の大調和」という実相世界への信仰をこれからも高く掲げるとともに、人間社会の分離・対立を未然に防止するために、「人間は皆、神の子である」という真理を益々多くの人々にお伝えください。 
 
 それでは、これをもって今日の御祭のご挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。 
 
谷口 雅宣 

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2016年6月10日 (金)

「与党とその候補者を支持しない」

 この表題のもとに9日付で発表された生長の家の方針は、各方面に驚きをもって受け止められているようだ。この“驚き”の中には、誤解から生まれたものも少なくない。それは「生長の家=自民党」という冷戦時代の古い方程式しかご存じない人の場合である。私は、もうだいぶ前から自民党政権に愛想をつかし、本ブログあるいはその前身の「小閑雑感」上で民主党を応援してきたことは、本欄の読者ならよく知っているはずだ。ただ、宗教法人「生長の家」として、特定の政党の支持、不支持を表明したことはここ30年ほどないだろう。そんなわけで、今回の声明は“方針転換”と受け取られたのかもしれない。 
 
 しかし、法人もしくは教団は、私とは同一でないものの、考えがまったく違うわけでもない。だから、今回の方針表明がどういう経緯で行われたかは、今回の公式な説明以外にも、私のブログでの過去の発言を読んでいただくと、もっとよく理解していただけると思う。そんな理由で、以下に私の過去の“政治的発言”の主なものの表題を時系列でリストアップさせていただいた。興味をもたれた方は、リンク先の記事を読んでいただければ幸いである-- 
 
2009年8月31日
2010年7月12日
2012年12月10日
2012年12月12日
2014年1月30日
2014年7月3日
2014年7月 5日
2015年5月16日
 谷口 雅宣

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2016年6月 9日 (木)

『日本会議の研究』について (2)

 表題の著書を本欄で私が推薦した理由は、もう一つある。それは、7月の参院選に臨んで、現在の安倍晋三首相が率いる強権政治の裏に、何が隠されているかを読者に知ってほしいからだ。もっと端的に言えば、私の伝えたいメッセージは「今回の参院選では、与党に投票しないでほしい」ということである。その理由は、すでに生長の家の公式サイトに掲載された声明文にやや詳しく書かれているから、読者はそれを読んでほしい。 
 
 が、ここでごく簡単に言えば、これまでの安倍晋三氏の言動から判断すると、彼は私たちの運命を左右する絶大な権力を委託されている一国の長として、信用できないからだ。さらに、表題の書が警鐘を鳴らすように、安倍氏の言動の淵源が日本会議を牛耳る元生長の家の政治運動家の思想にあるとしたならば、安倍氏の個人的資質に加えて、彼の政治基盤そのものが信用できないからだ。 
 
 私は、安倍晋三氏個人に対して恨みや敵対心などもっていない。だから、彼が日本国の首相ではなく、大臣でもなく、何の役職もない自民党の一政治家であったり、政治評論家であったり、ジャーナリストである場合には、このような文章を公表することはなかっただろう。しかし、現在の安倍氏は、日本国最大の権力者として、国会における単独過半数の議席の勢いを得て、あってはならない憲法の“解釈改憲”を実際に行い、政治の監視役であるジャーナリズムに圧力を加え、日本の将来を担う青少年の価値観を左右する教科書の選定に介入してきた。このような言動の原因が、冷戦時代に生長の家が掲げた政治思想に頑なにしがみつく元幹部の“功績”にあるとしたならば、私は現在の生長の家の責任者として、「その道は、宗教的にも政治的にも間違っている」と声を大にして訴える責任を感じるのである。 
 
 日本は自由主義、民主主義の政体を選んで1世紀以上たち、その間には多少の紆余曲折はあったにせよ、これらの価値観と理想から退くのではなく、その実現に向かって前進する方向に歩み続け、今日にいたっている。この現代史の歩みの中では、わが国のみならず、世界中の多くの人々が、政治権力による弾圧や拷問、自由の剥奪、民族浄化、そして戦争などの犠牲になって死んでいった。また、自由主義・民主主義を採用していない一部の国家や地域では、現在も政治権力による弾圧や拷問、自由の剥奪、民族浄化などが行われている。人類全体が、多大な犠牲を払い、痛恨の念とともに歩んできたこの歴史の道程を軽視し、表面は美辞麗句を並べて国民を欺きながら、本心では自分たちの都合に合わせて歴史逆転を図る種類の人物がもし存在し、その人物が今の政権中枢に存在するというならば、私はこれまでの“政治への寡黙”を排して、言うべきことは言おうと思う。 
 
 読者に改めて問いかけよう。安倍首相とその側近の人々は、まず「誠実」であるだろうか? 政治家が「誠実」と言われるためには、言行一致が必要である。民主主義の制度下では、政治は議会(国会)を通じて行われる。議会は、様々な考えの人々が国民の代表として集まり、「言葉」を使って議論を戦わせる。だから、政治家の誠実さの指標としては、まず彼らの口から出る言葉が、事実を述べ、隠し立てがなく、論理的に整合しているかを見る必要がある。 
 
 この点について、6月3日の『朝日新聞』の投書欄から引用する-- 
 
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 「新しい判断」? 言葉軽すぎる 
 
 安倍晋三首相は、消費増税の再延期を発表しました。延期の是非は別として、“新しい判断”を理由に以前の約束をほごにすることなど、子どもでもしないでしょう。一国の首相の言葉がこんなに軽くていいのでしょうか。 
 ここ数年、安倍首相の言葉を聞くたびに不信感が募ります。 
  例えば、2013年の五輪招致のプレゼンテーションでは、福島第一原発の汚染水について「アンダー・コントロール」と言い切りました。しかし、コントロールにはほど遠い現状です。 
  14年11月には、消費増税について「再び延期することはないと断言する。確実に引き上げていく」と述べていました。 
 一方、安倍首相は昨年の国会で、テロ対策に関連して「国民の命、安全を守ることは政府の責任であり、その最高責任者は私だ」と語りました。私は自分の命と安全を預けることはできません。 
  間もなく参院選。私たちは、政治家の言葉に、より一層、耳を傾けます。首相の言葉の空しさを反面教師として、真実が語られているのか、ごまかされていないか、国民のための言葉なのかを聞き分けていきたいと思います。 
                     主婦 清水芳枝 (神奈川県、65) 
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 世の中には、「政治家は必ずしも誠実でなくていい」という考えの人も少なくないことを、私は知っている。現在の中国や北朝鮮には、誠実でない政治家はいくらでもいるだろう。また、戦前の日本にもそんな政治家は沢山いたであろう。しかし、民主主義という政治の仕組みを真面目に考えるならば、政治家の基本的資質として「誠実さ」が求められることは、当然である。逆に言えば、国民の代表として選挙で選ばれた政治家がウソつきであった場合、彼または彼女はどうやって「民主」を実現するのだろうか? もちろん、選挙前の公約が、選挙後に守られないことは珍しくない。しかしそれは、政治家が初めからやる気がないことを公約したというよりは、実行困難なことを知りながらも、自分の政治家としての目標や、実現したい政策を述べたと考えるべきだろう。だから、選挙で議員となった政治家は、選挙前の公約と逆方向の政策を自ら推進することはできないはずだ。(もちろん、例外的な人もいるが、その人は「政治家」の名に値しない。) 
 
 しかし、安倍首相には、そういう民主主義下の政治家としてのあるべき資質が、欠けているように見受けられる。自らの権力維持と政策実現のためには、国家の財政破綻や社会保障費の不足はやむを得ないと考えているフシがある。消費増税の延期をいとも簡単に、しかも薄弱な根拠のもとに宣言してしまった。10%への消費増税は、政党間の正式合意であり、法律にも定められた政策である。これを、「リーマンショック並の経済危機が来ないかぎり実施する」と言っていたかと思うと、G7の首脳会議で賛同を得たという口実を使って「リーマンショック並の経済危機が来ないように延期する」と、あっさり掌を返してしまったのである。この2つの言葉をよく読み比べてほしい。後者では、「前者の条件にならないように増税しない」と言っているのだから、今現在は、日本経済は前者の条件が満たされていないことを自ら認めているのである。これが安倍首相の言う“新しい判断”であるから、その内実はウソでなければ、いったい何をウソと言うべきだろうか? 
 
 このように簡単に国民を欺く人物が、わが国の首相であることを私は容認することができない。この人物が、日本の陸・海・空の自衛隊の最高司令官であることを思い起こすとき、戦前・戦中の軍部の独走の結果が脳裏をよぎり、日本国の将来――いや、今現在の日本の外交・防衛政策の危機が来ていると考えざるをえないのである。 
 
 谷口 雅宣

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2016年6月 1日 (水)

『日本会議の研究』について

 5月29日に大阪で行われた生長の家講習会で、私は「運動の変化」について話した。この話題は、講習会のテキストに使っている拙著『宗教はなぜ都会を離れるか?--世界平和実現のために』(2014年11月刊)の第1章のタイトルと同じである。この本が世に出てからすでに1年半になるから、読者の多くはきっと内容をご存じであろう。生長の家の運動が、創始者、谷口雅春先生の時代から変わってきていることと、その理由について解説しているのが、この第1章である。同じ趣旨の解説は、私が監修した『歴史から何を学ぶか--平成15年度生長の家教修会の記録』(2004年刊)の中にも書いてあるが、こちらの本は講師を対象にした硬い内容のものなので、あまり多くの人は読んでいられないだろう。 
 
 生長の家の講習会には、私たちの運動について予備知識をあまりもたない人も参加しているから、普通の場合は、ことさら「運動の変化」を語る必要はないかもしれない。しかし、平成の年号も28年を重ね、運動熱心な幹部の中にも、昭和50年代の後半まで教団を挙げて行われていた激しい政治運動のことを知らない人が増えたことを考えると、宗教と政治の関係の難しさや、両者が密着することの弊害について、生長の家の経験を通してきちんと説明するべき時期に来ていると、私は感じていた。 
 
『宗教はなぜ……』の第1章は、「宗教運動は時代の制約下にある」という事実を、戦後の44年にわたる“東西冷戦”の時代と、それ以後の変化を対比させながら明らかにした。これは言わば、マクロの(大局的な)視点からの解説だから、どうしても抽象的になった。その主旨をここで概括的に言えば「世界情勢の変化が宗教運動の方向を変えた」ということである。しかし、宗教は日常的には「人の心」というミクロの問題を扱うのである。だから、このミクロの視点からも、宗教と政治が密着することの問題について、私はどこかで具体的に述べる必要を感じていた。 
 
 もちろん上掲書が、この“ミクロの問題”にまったく触れていないわけではない。例えば、同書の20ページには、政治運動と宗教運動の両立の難しさが、次のように書かれている-- 
 
「とにかく、生長の家は、このような考えにもとづいて“大日本帝国憲法復元改正”を最終的な目標として、生長の家政治連合(生政連)を結成(1964年)し、政治活動を展開した。しかし、この運動は、生長の家の代表をできるだけ多く政治の舞台に送り出すのが目的だから、日本のどこかで選挙があるたびに、生長の家の信徒は政治運動に駆り出され、真理や信仰を伝えるのではなく、政治目標を説いて回ることになる。そのためには新たな資金も人材も時間も必要となり、宗教活動はしだいに政治活動に従属していったのである。そして、国会において生長の家が進めていた優生保護法改正がかなわず、加えて参院選でも生長の家代表候補が落選したことを受けて、1983年7月、生政連の活動は停止され、“今後は教勢拡大にむけて全力をそそぐこと”が決定された。もう30年近くも前のことではあるが、私たちの運動史の中のこの“政治の季節”に体験した高揚感などが忘れられず、その頃の運動に帰りたいと思う人々は、少数だがまだいるようである。」 
 
 ここにある「真理や信仰を伝えるのではなく、政治目標を説いて回る」という意味は、政治目標達成や選挙運動に力を入れるあまり、何が正しく、何が真理であるかという判断や、個人が抱える苦悩の救済が二の次に回されてしまったという意味である。また、「宗教活動はしだいに政治活動に従属していった」という意味は、教団の組織的活動において、宗教的なもののが後退する一方、政治的なものが優先されるようになったということだ。これは、「政治目標達成のために宗教的情熱が利用される」と表現してもいいかもしれない。宗教運動にとってこのような傾向は決して好ましくないため、第二代総裁の谷口清超先生は、昭和58年に生政連の活動停止を決断されたのだった。 
 
 ところが、この決定を好ましく思わない人、納得しない人、さらには反対する人も教団内には少なからずいた。それらの人々の中には、自らが好む政治活動に注力するために、潔く教団から離れた人もいた。が、その他の多くの人々の中には、表面は本部の方針に従う振りをしながら、陰では従来通りの政治活動をしたり、政治運動との接触を続けていた者もいたのである。教区の講師の代表である教化部長や、本部の理事(現在は参議)の中にも、このようにして本心を隠したり、“二股を掛ける”生き方を続けてきた人がいたことは、誠に残念である。なぜなら、宗教運動とは信仰運動であり、信仰には誠実さが何よりも必要であるのに、これらの人々は、表と裏を使い分ける不誠実な生き方を長年にわたって続けてきたからである。 
 
Nihonkaigi  そういう人々が具体的にどんな種類の人であり、宗教の陰でどんな政治活動を続け、何を目標としてきたかは、本部の側からは判然としなかった。ところが最近、生長の家の信仰者ではない一人の著述家が、独自の調査によって、これらを解明する本を出版した。菅野完(すがの・たもつ)氏が書いた『日本会議の研究』(扶桑社新書)が、それである。この本には、かつて生長の家の幹部活動をしていて、今は日本会議が進める政治運動の中枢にいる人が、何人も実名で出てくる。私より年齢が高く、かつ当時の生長の家の運動に関わっていた人々にとっては“懐かしい”話も出てくるが、当時隠されていた“驚くべき”話もある。とにかく、最初は門外漢であったはずの著者が、ここまでよく調べ、よく書いたと感心する。 
 
 つまり、この本には、私が『宗教はなぜ……』の本でカバーできなかったミクロの事実の多くが解説されている。書かれた内容--特に教義に関すること--のすべてが正しいとは言えないが、大きな流れは事実に沿っていると思う。そういう理由もあり、私は大阪で行われた生長の家講習会では、菅野氏の著書を紹介し、興味ある参加者に一読を勧めたのだった。本欄の読者にも、同じことをお勧めする。 
 
 谷口 雅宣

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2016年1月23日 (土)

核兵器と麻薬

「核って麻薬みたいなものね…」
朝食後の食器を片づけている妻が、カウンター越しに言った。 
「えぇ…」 
 私は薪運びの準備をしながら、肯定とも否定ともいえない返事をした。妻の言葉の真意が、すぐには理解できなかったからだ。 
 
 冬の朝食後の私の仕事は、居間の中央に置かれた薪ストーブの後ろに、南側のデッキから移動した薪を積むこと。そして、デッキに並べられた薪が居間に移動した分、北側の薪小屋から薪を運んでくる。これを毎日きちんとしておかないと、十分乾燥していない薪をストーブに入れるはめになる。すると、薪は黒い煙を出すだけで、よく燃えない。氷点下が続く冬は、ぜひ避けたいことだ。 
 
 妻が言う「核」とは、核兵器のことである。前日にオフィスで行われた講師の勉強会で、核の抑止力について発表があり、その発表の締めくくりとして私が話したことについて、妻は感想を漏らしたのだった。 
 
 「麻薬」という比喩は、「やめたくてもやめられない」という状態になるという意味では当たっている。核兵器は通常、隣国か、隣国の同盟国に強い脅威を感じた国が、防衛上の観点から採用するものだ。隣国から攻撃されても、「こちらには“最終兵器”があるゾ!」というメッセージを出して、「報復に核を使われたら、ヒドイ目にあうかもしれない」と恐怖させ、攻撃を躊躇させることで国の安全を確保するのが目的だ。しかし、本当の問題はそこから始まる。それは、核兵器が“最終兵器”と言われるように、破壊力の甚大さでは比類がないからだ。 
 
 ある国が核武装をすると、その国と対立する隣国(もしくはその同盟国)は、この破壊力が自分たちに及ぶ可能性を考えて恐怖する。そして、破壊を受けないような対策を講じようとする。核爆弾は、それを持っているだけでは意味が少ない。自国で爆発すれば、自国が破壊されるだけだからだ。核は、それなりの正確さをもった運搬手段を使って、敵方の目標近くまで確実に運び、そこで爆発させなければならない。だから、隣国の核武装を恐れる国は、その運搬手段が自国の領土内、あるいは領空内に達するまでに破壊する方法を考えるのだ。 
 
 核爆弾の運搬手段は、現在のところ①航空機、②ミサイル、③船舶(潜水艦)が主なものだ。しかし、技術革新で核爆弾の小型化が進むと④自動車、⑤ドローン(無人航空機)、そして⑥人間、によっても運搬が可能となる。 
 
 交通と輸送が高度に発達し、グローバル化した現代では、この6つの運搬手段すべてを、一国の領域内に侵入させない方法など存在しない。そこで、隣国の核武装を恐れる国は、別の対策を考える。それは、自分の国でも核兵器かそれに近い大量破壊兵器を開発し、対立する隣国に対して「お前がこっちを核で攻撃すれば、それと同等の破壊力でお前も破壊するゾ!」と脅すことで隣国に恐怖を抱かせ、核による攻撃を躊躇させることだ。これが、核の抑止力(deterrence )と言われるものだ。 
 
 しかしここで重要なのは、「同等の破壊力でお前も破壊するゾ!」というメッセージに信憑性があることだ。「あれは完全なブラフで、彼らは本当は核爆弾など持っていないか、持っていても運搬手段が完成していない」ともし、核武装した敵意のある隣国が考えたとしたら、「では、今のうちに相手の核開発を阻止しておこう」という誘惑が生じ、かえって攻撃される危険性が増大する。そこで、核武装を決意した国は、運搬手段も含めた核兵器の開発を中断することが困難になるのである。また、自分の核開発の状態を過大に宣伝する必要を感じることもある。 
 
 近年の北朝鮮の言動が、ここに描いた通りであることに読者は気づいてほしい。また、イスラエルが実際、核兵器製造を疑っていたイラク(1981年)やシリア(2007年)の核施設を単独で攻撃した動機も、ここにある通りだと私は考える。北朝鮮は、アメリカの軍事力を恐怖し、その同盟国である日韓を恐怖しているから、アメリカに対して「お前がこっちを攻撃すれば、核の破壊力でお前も破壊されるゾ!」というメッセージを込めて、核実験を行い、ミサイルを日本海や太平洋に打ち込み、SLBM(潜水艦搭載型ミサイル)の実験成功を宣伝し、「水爆実験も成功した」と大声で叫ばなければならないのだ。 
 
 「麻薬」の中毒者は、麻薬を吸引した際の陶酔感に縛られて、やめられなくなる。しかし、核武装は陶酔感ではなく、強い恐怖から始まるところが違うと思う。また、この恐怖心から逃れられなくなる点も、麻薬とは異なる。確かに核武装の当初、その恐怖心は一時的にゴマかせるかもしれない。しかし、“敵”も同じ恐怖心を共有するから、それを消そうと核武装をさらに強め、そのおかげで自分側にもさらなる恐怖が生まれる。そして、双方が“恐怖の均衡”に向かって果てしなく軍拡競争をする道が用意されている。そんな道を、日本の安全保障の選択肢として残しておくべきだという政治家がいるとしたら、それは嘆かわしいことである。 
 
 谷口 雅宣
 

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2015年12月12日 (土)

イスラーム国の問題を考える (3)

 11月30日~12月7日の『TIME』誌には、アルジェリアの新聞の編集者、カメル・ドード氏(Kamel Daoud)が何がISISを生んだかについて、簡潔な文章を書いている。それによると、どんな怪物にもそれを生んだ父母がいるように、ISISにも“生みの親”がいるという。父親はジョージ・W・ブッシュ大統領時代のアメリカであり、母親はサウジアラビアだという。ご存じのように、前大統領のブッシュ氏は、9・11の原因の1つはイラクのサダム・フセイン大統領(当時)で、しかもイラクは大量破壊兵器を開発中か、もしくは貯蔵していると断定し、“先制攻撃”を名目に大量の軍隊を中東に送ってアフガニスタンとイラクの政権を武力で打倒した。しかし、この2つの断定は後に間違いであることが明確になり、アラブ世界では、アメリカのこの行為は“アラブの強姦”と呼ばれ、反米感情が拡がる大きな要因となったのである。 
 
 その反米感情は、大統領がオバマ氏に交替した後も、国際法違反の疑いがあるドローンによる攻撃などで、多数の市民が犠牲になる状況が続いているため、衰えているとは思えない。そこへ、サウジアラビアの国教であるワッハーブ派のイスラームが、“善悪対立”の過激な世界観を人々に注入し続けている。この問題が深刻なのは、同国にはイスラームの“聖地”と言われるメッカとメディナの両都市が存在していて、毎年、世界中から膨大な数のイスラーム教徒が巡礼のためメッカを訪れ、ワッハーブ主義の影響を受けて帰国するからだ。上掲のドード氏が「ISISの“生みの親”」の1つがサウジアラビアだというのは、過激化するイスラームの若者たちの世界観は、ワッハーブ主義の影響だという意味だろう。 
 
 この過激思想との関連で、米カリフォルニア州サンバーナディノ郡でのテロ事件の容疑者について、犯行の動機と思われるものが徐々に明らかになってきた。これは西側諸国の国民による、自国を対象としたテロ(home grown terrorism)であり、対策が難しい。9・11のようなテロは、外国人によるから、いわゆる“水際作戦”がある程度の効果をもち、実際、アメリカは出入国時のセキュリティー・チェックを厳格化して、ここ数年間、外国人による国内テロを未然に防いできた。が、自国民がテロをする可能性が生じると、為政者は普段から自国民を監視することが重要になるため、電話の盗聴やメールの監視、ネット上の言動監視など、自由民主主義の原則と矛盾する活動を国家が大々的に行うことになる。しかし、これをどんなに厳格化しても、全国民を継続的に監視することなどできないから、監視の間隙を縫って、テロが起こる可能性は依然として残るのである。 
 
 サンバーナディノ郡での今回のテロは、まさにそういう監視の隙から生まれたもののようである。その要因は、経済的困難を含む社会からの疎外、過激思想の吸収、そして技術の修得、の3つが挙げられるだろう。12月9日付の『ニューヨークタイムズ』国際版によると、自分の居住地の14人を殺害し、21人を負傷させたカップルは、男(28歳)がアメリカ生まれ、女(29歳)はパキスタン人で、2人は知り合う以前からイスラームの過激思想に触れていたらしい。そして2人は、ネット上の出会い系サイトで知り合い、サウジアラビアで結婚したという。 
 
 女は、パキスタンのムルタン市にあるバホーディン・ザカリア大学で薬学の学位を取得した後、2013年から、同市にある宗教学校「アル=フーダ(Al-Huda)」で18カ月のコーラン学習コースに通っていたが、コース修了前の2014年5月、結婚を理由にやめたという。この学校は、パキスタン国外にも分校をもつ国際的宗教教育施設で、女性には顔を隠すよう指導し、保守的なイスラーム思想を教え込むということで、パキスタン内にも批判者がいるという。女は退学の際、通信教育によってもコースを修得できるかどうか学校側に問い合わせ、学校側はそのための資料をメールで送ったが、返答はついに来なかったという。この学校について、カラチにある経営学研究所(Institute of Business Administration)のファイザ・ムシュタク教授は、「学生たちはここで、活動家や改革者になるための訓練を受けます。彼らが“真のイスラーム”と呼ぶ、本物で純粋な信仰に人々を引きもどすためです」と言っている。かつてパキスタンの米国駐在大使だったフセイン・ハッカーニ氏(Husain Haqqani)の表現では、「彼らの教えには、“イスラーム信徒には世界を導く使命があり、腐敗した西洋諸国に立ち向かう必要がある”という考え方が色濃く存在する」という。 
 
 しかし、これだけでは、自分たちの居住地の福祉施設のパーティーに完全武装で出かけ、知り合いを含めた普通の人々に銃を乱射することの原因になるとは思えない。しかもこの2人は、軍隊でも使うような大型の銃4丁に加え、パイプ爆弾も多数用意して犯行に臨んだのである。この事件に備え、射撃場で銃の訓練もしていたというのだから、かなり時間をかけ、綿密に計画された行動と考えざるを得ない。 
 
 12月11日付の『ニューヨークタイムズ』国際版によると、これらの容疑者についてFBI長官、ジェームズ・コーメイ氏(James B. Comey)は、「2人の殺人犯は、早くも2013年には、殉教と聖戦に向かって過激化し始めていた」と米上院の法務委員会で証言した。この2013年という年は、ISISがまだ世界の注目を浴びていない時期である。この情報は、男性容疑者の知人によるもので、この知人は今回の事件で使われた銃を容疑者らに提供した人物で、彼と男性容疑者は2012年にもテロ事件を起こす計画をもっていたという。だから、今回の事件はISISの指示によるというよりも、容疑者らが抱いてきた過激思想がテロとして表現される最終段階で、ISISの思想と合流したと見るべきかもしれない。 
 
 そのISISの思想とは、宗教的にはいわゆる“終末論”にもとづくもののようだ。前掲紙は9日付の記事で、「ISISの予言」(ISIS prophecy)という言葉を使って、この考えを描いている。これは、2003年のイラク戦争開始の際、ISISの創始につながったアブ・ムサブ・アル=ザルカウィ氏の口から出た言葉に表れているという。ザルカウィ氏はこのとき、アメリカのイラク攻撃を「祝福された侵攻」と形容し、喜んだとされる。つまり、アメリカによるアラブ攻撃は、西側諸国をイスラームとの最終戦争に引き込むために必須とされていたのだ。 
 
  谷口 雅宣

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