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2021年10月28日 (木)

「聖戦はない」を明確化される――谷口清超先生のご功績

 10月28日は午前10時から、山梨県北杜市にある生長の家国際本部“森の中のオフィス”のイベントホールで、「谷口清超大聖師十三年祭」が行われた。新型コロナウイルス感染症拡大を防止するため、大勢が一堂に集まることはせず、オフィス勤務の生長の家参議など少人数が参列し、職員は各部屋でインターネットを介して参加する形で行われた。

 私は、御祭の最後に挨拶に立ち概略、以下のような話をした。ただ残念だったのは、話の説明に使用した映像機器がうまく作動せず、暴走状態になったことで、画像や表を使った説明ができなかったことだ。

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 本日は「谷口清超大聖師十三年祭」にお集りいただき、あるいはインターネットを通じてこの御祭を視聴くださることを心から感謝申し上げます。ありがとうございます。

  さて、生長の家の第2代総裁であられた谷口清超先生は、今から13年前の2008年の今日、昇天されました。先生の肉体はすでに消え去り、寂しいかぎりですが、先生のご功績は私たちと共に今も脈々と生き続けていることを忘れないでください。谷口清超先生が今日の生長の家の運動の制度的な基礎を作られたということは、皆さんもよく御存じでしょう。また、御存じでない方はぜひ、この機会に知っていただきたいのです。

  そのことは、昨年出版された『“新しい文明”を築こう』(谷口雅宣監修、生長の家刊)の上巻 基礎篇にはっきり書かれているので、まだ読んでいない方はぜひ読んでいただきたい。第1章の出だしに「立教から国際平和信仰運動までの歴史概観」という文章がありますが、その途中の34ページあたりにその記述があります。全部引用している時間がないので、まとめた図をご覧に入れましょう――

  • 政治運動の中止
  • 組織運動の整備
  • 聖歌の作詞・作曲

 この図にあるように、清超先生の生長の家の運動におけるご功績は、①政治運動の中止、②組織運動の整備、③聖歌の作詞・作曲、がありますが、このような制度上、運動上のお仕事に加えて、生長の家の教えに関わるご功績は、あまり知られていないかもしれません。それは、この本の38ページ以降に書かれています。一部を朗読します――

  <谷口清超先生は、新総裁になられてから『新しい開国の時代』、『歓喜への道』を出版され、太平洋戦争は満州の領土や資源Seicho_13mem01などの物質的な価値や権益に執着する唯物的な迷妄によって起こり、軍隊は、憲法上は天皇に直属しながらも、実質的には天皇の御心をないがしろにする「中心不帰一」の姿勢で独走したことが重大な問題であったと書かれ、その歴史の教訓から学ぶことの大切さを教示されました。また、先生は生長の家の信仰においては「聖戦はない」ことを明確に示されました。>(pp. 38)

  つまり、先生は「戦争の否定」ということを教義の上で明確化されたのです。初代総裁の谷口雅春先生も、戦争を肯定されていたわけではないのですが、戦前、戦中の非常時には当時の政府の検閲や社会の風潮が大きく戦争に傾いていたこともあり、大東亜戦争のことを「聖戦」だと形容されたことが何度かあり、それが書物になって戦後まで残っていました。このため、信徒の間には明確な戦争否定の考え方が必ずしも浸透していませんでした。

  この「戦争の否定」を清超先生がはっきりと説かれるようになったのは、初代総裁の谷口雅春先生が昇天された後からです。どうしてだか分かりますか? これはご本人に聞かないと本当のことは分からないのですが、私が推測するには、それは谷口雅春先生のご著書の中に、まだ大東亜戦争を「聖戦」という言葉で表現したものが残っていたからです。それなのに、雅春先生のご生前、副総裁あるいは総裁代行であった清超先生が「聖戦はない」などとハッキリ言うことのリスクを考えられたのだと思います。で、実際にいつ頃から「戦争否定」を明確に説かれるようになったかということを、表にまとめてみました――

   この表では、年代を元号表記すると分かりにくいので、西暦を使いました。表の背景が3色に塗り分けられていますが、これはまん中の水色が「冷戦」の時期を表します。これに対してオレンジ色は「熱戦」時代――つまり戦争中を表しています。そして、その 他のグレーのバックは、熱戦でも冷戦でもない時代です。また、文字の表記に色が使われていSeicho_13mem03ますが、赤い色で表記したものは、生長の家の運動の歴史の中でターニングポイントになった重要な出来事です。具体的には、1945年の敗戦、1985年の雅春先生のご昇天、1993年の国際平和信仰運動の発進、そして2008年の清超先生のご昇天です。このほかにも私たちの運動の歴史で重要な出来事はたくさんあるのですが、今回は煩雑になるので省略しました。また、二重カギ括弧に入れて書かれた言葉は、清超先生の著書の題名です。

  それで、この表で何が分かるかというと、谷口雅春先生ご昇天の4年後に清超先生が出版された『新しい開国の時代』というご著書に、初めて「大東亜戦争は迷いの産物だった」という意味の明確な記述が出てくるということです。その後、『歓喜への道』という1992年のご本には、もっと明確に「聖戦はない」という表現が何度も出てきます。後者の場合、この言葉が出てくる直接の原因は、湾岸戦争がその前年の1991年にあって、その時にイスラーム教徒の間で使われている「ジハード」という言葉が、日本では「聖戦」と翻訳され、その意味がいろいろ言われたからですね。

  そして、清超先生が「聖戦はない」と言われる時には、多くの場合、戦後の神示を引用されます。しかし、これらの神示は、戦前の昭和7年(1932)の「声字即実相の神示」を根拠にしているので、生長の家の教えに一貫性がないわけはありません。ですから私たちは、21世紀の現代でも、どんなに国際情勢が緊迫しても、「戦争肯定」は教えに反するということをしっかり把握しておく必要があるのです。

  さて、今年は2021年で、2001年から20年がたったということで、9・11後の国や世界の情勢を振り返る活動が欧米諸国などでは行われてきました。日本では、それほど目立ったものはないのですが、このテロ事件によって大きな衝撃を受けたアメリカでは、主として外交政策をめぐっていろいろな反省が行われてきました。その中で私がキーポイントだと感じたものは、戦争とは本当に、「迷いと迷いが相搏(あいう)って自壊していく現象」だということです。この言葉は、先ほど触れたように、「声字即実相の神示」にある言葉です。20年という時がたつと、ある事象の只中ではまったく見えなかったことが見えてくるという実感がします。

  この話は詳しく説明すると、それだけで30分も1時間もかかるので、今日は要点だけを申し上げます。それは、戦争でぶつかり合う国や集団の間では、どちらかが絶対善で他方が絶対悪だということはないということです。双方が真実を知らないという“迷い”の中で、自分を“善”とし、相手を“悪”と認めて、総力を上げてぶつかり合う現象――それが戦争だということです。聖経『甘露の法雨』の「無明」の項には、無明とは「あらざるものをありと想像するが故に無明なり」とあります。この無明(迷い)が、テロを仕掛けた側にも、またそれを受けて“テロとの戦い”を始めた側にもあったことが明らかになりました。

  しかし、当初はそれが分からなかった。9・11を目の当たりにした時は、私たちは「旅客機をハイジャックして高層ビルに突っ込むなど、トンデモない悪人がすることだ!」と感じました。だから、そういう大悪事を計画した容疑者を米軍が攻撃することは当然だし、その大悪人をかくまっている国に侵攻することは、正当防衛だと考えました。

  こうしてアフガニスタンは政権が倒れ、イラクは国家が崩壊しました。ところがその後に分かったことは、9・11の主犯であるオサマ・ビンラディンはアフガニスタンのタリバンとは直接の関係はなく、イラクもビンラディンとのつながりはなく、大量破壊兵器の開発もしていなかったということでした。つまり、当時のアメリカ大統領、ジョージ・W・ブッシュ氏が、“テロとの戦い”の理由として――つまりアフガニスタンとイラクに派兵する理由として挙げていた事実は皆、事実ではなかったということです。言い直すと、事実でない前提のもとに始められた戦争がアフガン侵攻とそれに続くイラク戦争、そして“テロとの戦い”だったのです。

  では、9・11の主犯とされるビンラディンは事実をしっかり押さえていたかというと、決してそうではありませんでした。これは、ビンラディンがアメリカの特殊部隊によって殺害されたとき、その隠れ家にあったコンピューターや47万個に及ぶデジタルファイル(音声、画像、ビデオ、テキスト)の解析から分かったことです。その内容はすべて公開されているわけではありませんが、アメリカの外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』の今年9~10月号に載った専門家の論文を読んで、その一部を私は知りました。そして驚いたのは、ビンラディンはアメリカという国をよく知らなかったということです。

  彼は、何を目的として9・11を実行したかというと、アメリカ軍のアラビア半島からの撤退です。特に、イスラーム原理主義の信仰者にとっては、イスラームの聖地であるメッカとメディナを抱えるサウジアラビアに、彼らにとっての異教徒の軍――つまり、キリスト教国の軍隊――が駐留することは、かつての十字軍による聖地の占領と等しく、許しがたい行為として感じられていたというのです。そして、ビンラディンが犯した最大の誤算は、9・11のような事件を起こせば、アメリカは怖気づいて、あるいはアメリカ国民は士気を失って、サウジアラビアから撤退するだろうと予測していたことです。どうやら、ベトナム戦争時のアメリカ国内の反戦運動みたいなことを予測していたようです。国際政治の常識について、ビンラディンはまったく無知だったことが分かります。

 どう思いますか、皆さん。アメリカ人やアメリカの歴史を少しでも勉強した人は、そんな予測をするはずがない、と思いませんか? 日本は真珠湾攻撃で、これと似た過ちを犯しました。奇襲攻撃は、逆効果でした。それによって、アメリカ人は「Remember Pearl Harbor」という標語の下、一致団結して対日戦争に全力で臨みました。これと同じことが、9・11の後にアメリカで起こり、そのために、超大国の莫大な資金と軍事力が動員されて中東地域は、9・11とは無関係な国々まで破壊され、大変な数の死傷者が出ました。そして、世界中のイスラーム信仰者が差別され、迫害されたのです。

  上掲の『フォーリンアフェアーズ』誌の別の記事に、この20年続いた“テロとの戦い”で人類が支払ったコストの大きさが、次のようにまとめられていました――

 ・米軍の死者--7,000人以上
 ・米軍の負傷者--5万人以上
 ・帰還後の自殺者--3万人以上
 ・アフガンとイラクの死者--数十万人
 ・戦争による難民--3,700万人

 これが「戦争」というものの実態です。どこにも正義など、ありません。そこにあったのは、「大いなる無知」です。この無知は、アメリカ側にもテロリスト側にもありました。聖経『甘露の法雨』にあるように、無知とは真実を知らないことですから、宗教的には「無明(むみょう)」であり「迷い」に当たります。このことを生長の家の神示では、「迷いと迷いが相搏(あいう)って自壊する」と表現しているのです。

 このように「戦争は迷いの産物であって、神がその当事者のどちらかを支援するものではない」というのが、生長の家の戦争観です。谷口清超先生は、これをもっと短く分かりやすい端的な表現にして私たちに教えてくださいました。それは「生長の家には聖戦はない」ということです。これを言い換えれば、生長の家の教えの中には「聖戦として肯定すべき戦争はない」ということです。

  谷口清超先生と9・11との関係を語るのには、欠かせない本があります。それは、ここに持ってきた『新しいチャンスのとき』という本で、この奥付を見ると、初版の発行日は「平成14年4月15日」とあります。平成14年は西暦で2002年です。2002年の4月に発行される本は、その原稿は前の年に書かれた原稿が元になることが多いでしょう。ということで、9・11以降に書かれた原稿が、この本に多く含まれていることになります。

  では、そういう時期に書かれた本に、なぜ「新しいチャンスのとき」という表題がつけられたのでし ょうか? 「新しいチャンス」という言葉は、積極的な意味合いがありますね。前代未聞のテロ事件が起こって、その結果、アメリカ軍はアフガニスタンやイラクに侵攻して、大変な数の死傷者が出ているときに「新しいチャンス」などと言っていいのでしょうか?

Seicho_13mem04

 

 

  清超先生は、このタイトルの付け方についての私たちの疑問に、本の中で答えてくださっているので、それを紹介します--

 <新年号の原稿の締め切り日が10月20日になっている。それまでに“一月号の原稿”を書くのは、現実的ではないから、相当頭を働かせ、時間感覚を移動させて、あたかも外国旅行をして行く先の時間に合わせるような“時差”を越えた操作をしなくてはならない。ところが他方私は締め切り日に追いかけられるのがいやだから、いつも締め切りより早い目に原稿を書くくせがついてしまった。

 そこで今は9月末だが、1月号の原稿を書きはじめたところなのである。するとどうしても9月11日に起った衝撃的な事件、ニューヨークの世界貿易センター超高層ビルなどに突入したハイジャック民間航空機による同時中枢爆破テロ、及びそれに伴う世界的“戦争状態”について書きたくなる。これは正月の記事にはふさわしくない内容だが考えようによっては、「危機は同時にチャンスである」との原則から、この世界的悲劇も、“新時代”の到来を約束する好機ともなると言えるだろう。>(p.75-76)

  この清超先生のご文章を読めば、生長の家がいかに積極的思考の信仰運動であるかが分かるのではないでしょうか。その20年後を私たちは今迎えているわけですが、新型コロナウイルスのパンデミックのため、この2年間で世界中で大変な数の人命が失われ、経済が大打撃を受けました。しかし、これは「神が人間を罰するために起こした現象だ」と考えるのは、生長の家の信仰ではないのです。「人間が唯物的な迷いによって、欲望のおもむくままに自然界を破壊し続けていることの結果である」という話を、私はかねてから申し上げているのであります。そのことをできるだけ多くの人々に伝え、私たちの生活を自然と調和する方向に切り替えていく。そのための「新しいチャンスのとき」が今なのです。

 ぜひ、皆さまと共に、「神・自然・人間の大調和」を目指す“新しい文明”の構築に向かって、新たな決意をもって邁進しようではありませんか。

  谷口清超先生の十三年祭に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴、ありがとうございました。


 
谷口 雅宣

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2021年7月 7日 (水)

「万教包容」から「万物包容」へ

 今日は午前11時から、山梨県北杜市にある生長の家国際本部--“森の中のオフィス”の万教包容の広場において「万教包容の御祭」が挙行された。新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、大人数が参加する方式は採用せず、オフィス常勤の参議など少数が参加し、御祭の映像と音声がインターネットを介して同時中継された。私は、御祭の最後に概略、以下のような話をしたーー

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 本日は「万教包容の御祭」にご参列下さり、ありがとうございます。

 今日の御祭はちょうど8年前、生長の家の国際本部が東京から八ヶ岳南麓に移転した際に、今日、7月7日――つまり「万教包容の神示」が下された日に因んで始められたものです。私が今立っているこの場所も「万教包容の広場」という名前がつけられました。これによって、生長の家の信仰は、世界のすべての宗教を包容する広大で、懐の深い信仰であることが改めて明確にされました。

 さて、私たちがこちらに来させていただいてから、今年は8年目になります。ですから、この御祭も「今回で8回目になる」と申し上げたいところですが、昨年のこの御祭は行われませんでした。その理由は、新型コロナウイルスの感染拡大によります。また、もう一つの要素として、昨年はこの時期に梅雨前線が約1ヵ月にわたって日本列島に停滞して、主として九州地方ですが、岐阜県や長野県などを含めて7日本各地で大きな水害が発生したからでした。後に、この時の豪雨は「令和2年7月豪雨」と命名されました。犠牲者は熊本、福岡、大分の3県だけで死者73人、住宅浸水被害は1万棟以上に及びました。

 ところで私は、昨年の今ごろはすでに「急設スタジオ」による動画配信を始めていました。そして7月7日には自宅からオフィスまで歩き、この「万教包容の広場」で、ちょうど7基そろった七重塔を背景に、三角形とムスビの働きなどについて話しました。11回目の配信です。その動画の最初には、「令和2年7月豪雨」の被害について次のように言及していました--

「梅雨前線の影響で、7月6日から九州を中心に降り続いている豪雨の被害によって亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、被災された多くの方々を衷心からお見舞い申し上げます。」

 そして今日は、あれからちょうど1年後です。今年も梅雨前線の影響で、静岡県、神奈川県、千葉県などで水害が発生しています。今年はさらに問題なのは、新型コロナウイルスのパンデミックが終息していない中で、日本政府がオリンピックとパラリンピックを強行しようとしていることです。1年前には、気候変動と感染症拡大との間には関係があると一般には思われていなかったですが、今は違います。この2つの世界的問題は、いずれも人間が自然破壊を続けていることに起因することが、科学者はもちろん、一般の人々の間にも理解されるようになっています。その中での五輪開催の強行には、私たちももっと大きな声を上げて反対せざるを得ないと考えて、私は数日前、Facebookを通じて、心ある信徒の皆さんに「反対署名」をお願いしたところです。

 さて、このような状況の中で、今日の御祭をすることの意義を私は考えました。昭和7年(1932)の今日、ちょうど89年前に谷口雅春大聖師に下された「万教包容の神示」には、何が説かれているかを改めて振り返りました。この神示は、192910月のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発する世界大恐慌の影響を日本が受けて、後に「昭和恐慌」と呼ばれる経済的危機を経験した直後に当たり、1931年には中国大陸に侵出した関東軍によって満州事変が引き起こされただけでなく、これをきっかけにして日本軍の中国侵攻が拡大し、翌(1932)年には「上海事変」まで起こった。その停戦協定の調印が昭和7年の5月5日です。軍隊の独走が始まっていて、停戦協定調印の2週間後には、当時の犬養首相が殺される5・15事件も起こっています。日本も世界も混乱状態にあった時代と言えます。そのことを念頭に置いて、神示の次の文章を読んでください――

「キリスト教では聖地エルサレムが世界の中心であると言い、大本教では丹波の綾部が世界の中心であると言い、天理教では大和の丹波市(たんばいち)が世界の中心であると言い、天行居(てんこうきょ)では周防の岩城山が世界の中心であると言う。世界の中心争いも久しいものである。併しわれは言う、それらは悉く皆世界の中心であると。一定の場所が世界の中心だと思っているものは憐れなるかな。生命の実相の教えが最も鮮やかに顕れたところが形の世界の中心であるのである。そこは最も世を照らす光が多いからである。基督教でもイエスの教えがエルサレムに最もよく輝いていた時代はエルサレムが世界の中心であったのである。天理教でも教えの光が最もよく輝いていた時代は大和の丹波市が世界の中心であったし、大本教でも教えの光が最もよく輝いていた時代は丹波の綾部が中心であったのである。わが行きてとどまるところは悉く世界の中心であるのである。誰にてもあれ生命の実相を此世に最も多く輝かせた処に吾は行きてとどまり其処が世界の中心となるのである。」(『“新しい文明”を築こう』上巻、pp. 222-223)

 ここでは、宗教の隆盛と真理との関係について、3つのポイントが示されています――

 1.形の上での“世界の中心”は移り変わる。

 2.移り変わる原因は、地上のある場所で真理が鮮やかに説かれているかどうかによる。

 3.その移り変わる範囲には国境はなく、真理は国家や民族を超えている。

 この神示の中の考え方は、当時の日本の状況から考えると画期的だと思います。神示に例示されている宗教は、キリスト教のような世界宗教もあれば、天行居のような、普通の人があまり耳にしないような宗教もあります。それらすべてについて「悉く皆世界の中心である」と宣言しているところが注目されます。また、「一定の場所が世界の中心だと思っているものは憐れなるかな」とありますから、この神示が説く「世界の中心」という言葉には地理的な意味はないということでしょう。神示が下された当時の日本では、「日本は神国であるとか」「日本は東洋の中心、世界の中心になるべし」という考え方に人気がありました。満州事変以後の軍部の中国侵攻は、大方のマスメディアも国民も支持していました。しかしこの神示では、何をもって「世界の中心」であるか否かを判断するかといえば、神示は「最も世を照らす光が多い」ところが世界の中心となる、と説いています。つまり、宗教的真理が輝くところが“世界の中心”であり、それは国家や民族によらないということです。ユニバーサルな価値のあるところが“世界の中心”だと説いているのです。

 人間はとかく特定の地理的位置に価値をおいて、そこを“中心地”とか“聖地”などと呼びますが、生長の家ではそういう考え方をとらないということが分かります。私はかつて「生長の家には、地理的な意味での“聖地”はない」という話をして、それが本にも載っています。(『次世代への決断』、pp. 171-175)それは、本当の意味で「聖なるもの」とは、実相世界だと考えるからです。それに対し、特定の地理的位置を聖地だと考えると、その地に執着し、そこへ行きたい、そこにとどまりたい、自分のものにしたい……などという欲望が生れ、奪い合いが起こりやすいからです。エルサレムという都市をめぐる中東の国際紛争、宗教対立のことを考えると、そのことがよく分かります。

 このことは、国際政治や国際関係を考えるときに大変大きな示唆を与えてくれます。アメリカ合衆国は一時、「MAGA(Make America Great Again)というスローガンを掲げた人を大統領に選んで混乱しました。それによって世界も混乱しました。この混乱はまだ残っているようですが、大分落ち着いてきたように感じます。私は、「自国が偉大な国でなければならない」と考えることは間違いではない、と思います。しかし、その「偉大」という言葉の意味が重要です。単なる軍事力や経済力、技術力や学問の力が大きいだけでは、いけないと思います。なぜなら、ある一国がそれらの力を増強してくると、他の国がその国を恐れて、軍備増強や技術開発を急ぐ可能性が増大するからです。かつての“冷戦”や現在の米中関係がそれを示しています。何が大切かといえば、「他国から信頼される」ということです。国際関係では、これが最も難しいのです。また、日本は現在、五輪競技を強行しようとしていますが、その強行する理由の中に、「日本が東日本大震災から立ち直った証とする」とか「人類がウイルスに打ち勝った証拠を見せる」というような、自国第一主義や、人間中心主義があることは、感心できません。「日本が、日本が」という自国第一主義や、「人類が、人類が」という人間中心主義は、ひと昔前ならともかく、現代においては「信頼」される原因にはならないのです。これらは、「日本が世界の中心である」と言うことや、「人類が自然界の中心である」と言うに等しいのです。

 トランプさんが大統領を務めたアメリカとの経験を踏んで、世界では恐らく「一つの超大国が世界の中心となる」ことを求める人は減っているのではないでしょうか? さらに、現在私たちが経験している気候変動による災害の増大や感染症の世界的流行から学ぶならば、「1つの生物種が自然界全体をほしいままに支配する」――つまり、人間中心主義の危険性を、今や多くの人類が実感していると思います。

 生長の家はそのことを早くから気がついて、「神・自然・人間は本来一体である」という実相顕現を進めているのですから、今こそ人類が最も必要とするこのメッセージを強力に伝え、自らの生活の中に展開し、多くの人々にも参加してもらう必要を感じる次第です。「万教包容」は「万国包容」に通じ、そこからさらに「万物包容」に向かって前進いたしましょう。

 それでは、これで私の話を終わります。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣

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2021年3月 1日 (月)

困難の中で「内に宿る神」の声を聴く

   今日は午前10時から、山梨県北杜市にある生長の家国際本部ーー森の中のオフィスのイベントホールで、「立教92年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典」が開催された。昨年に引き続き、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、インターネットを通じたオンライン形式を採用しつつ、私は概略以下のような言葉を述べた。

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 本日は、立教92年 生長の家春季記念日・生長の家総裁法燈継承記念式典にお集まりくださり、誠にありがとうございます。今回の記念式典は、ご存じのように、首都圏などでまだ緊急事態宣言が解除されていない状態なので、大人数が一堂に会してお祝いをすることができず、昨年に引き続きインターネットを使ってのオンライン形式で開催せざるをえないことが、誠に残念であります。しかしその反面、ここ1年ばかりのあいだに、私たちは様々な分野でネットを利用する生活に親しんできたし、これまでネットにまったく縁のなかった人たちの間にも、ネットを使う習慣がしだいに根付いてきたので、もしかしたら、本年は昨年よりも多くの人々が、この記念日にオンラインで参加してくださっているのではないか、と私は想像しているのであります。 

 諺に「窮すれば通ず」というのがあります。もともとは『易経』の言葉ですから、中国人の知恵が表れている言葉です。意味は、「人生では、どうにもならないほど行き詰まった状態になると、かえって解決の道が開かれ、何とかなる」ということです。このような諺は漢字文化圏だけでなく、英語にも似たようなものがいくつかあります。その1つは、「Necessity is a hard weapon.」です。邦訳すれば「必要は強力な武器である」とでもなるのでしょう。必要に迫られると、人間は底力を発揮するということです。 

 これに対し、生長の家では何というかご存じですか? それは、「八方塞がりでも、天井は開いている」という教えです。皆さんは、聞いたことがありますか? これは、第二代総裁の谷口清超先生が『人は天窓から入る』というご著書などで説かれたものです。この本は、昭和60(1985)年の出版で、表紙カバーにはヒゲの長いオジイサンの人形が写っています。この書の「はしがき」から引用します。清超先生は「人間は神の子である」という教えの喩えとして、人間が自動車を買い替える話を使われて、買い替える人が本当の人間であり、肉体は交換される自動車に当たると説かれています。また、人が住む家とその人との関係にも言及されて、こう書かれています-- 

 別の例でいうと肉体を「家」にたとえてもよい。その「家」に入りこんで、その家を使うところの主人公、それが真の人間である。どこから入りこむかというと、「天窓」から……というので、この本のような表題となった。

 さてここでは天というと、中国の古典でいう神のことである。実際吾々の家で天窓から入って来るのはまず泥棒さんぐらいのものだが、本当の天の窓だと、神の国の住人の入り口となり、神の子が光となって入ってくるわけだ。即ち人間を肉体であると考えるのではなく、永遠に死なない魂として考え、不滅の存在として考えるのである。すると人生の種々の難問が、実に面白いように氷解する。

  つまり、「八方塞がりでも、天井は開いている」という教えは、自分は肉体ではなく神の御心を体現した神の子である、という自覚から問題に取り組めば、解決の道は必ずあるという意味です。この教えと、それに沿った生き方が、生長の家の信仰の基本と言えるでしょう。92年前、この運動が開始されたときも、谷口雅春先生は「八方塞がりでも、天井は開いている」というこの精神と自覚にもとづいて『生長の家』誌を創刊されたのであります。

  私はこの立教記念日には、3月1日を発行日とした『生長の家』創刊号から引用して、生長の家の宗教運動の当初の精神から学ぶことを続けてきましたが、立教当時の日本の経済が「昭和恐慌」と呼ばれる厳しい状態であったことは、すでに何回かお話ししました。昭和恐慌とは、1929年の秋に、ニューヨーク・ウォール街の株価暴落に始まった世界恐慌が、日本に飛び火して、3031年にかけて日本経済が危機的に縮小したことを指します。『信仰による平和の道』には、それが次のように描かれています-- 

 当時は、日本の中心的な産業は生糸産業でしたが、その生糸の値段が1930年1月から31年にかけて55%下落した。半額以下になったわけです。これに連動して、綿糸などの値段も52%下がった。米の値段は50%下がって半額になった。すごいデフレが起こったわけです。そして、日本の貿易は1929年から31年までの2年間で、輸出が43.2%減った。半分ぐらいになったのです。輸入も40%減った。

 失業者は、1930年に237万人、31年は250万人、32年は242万人という状態で、大混乱です。GNPでみると、この3年間に27%減っている。つまり、日本の経済は3割ぐらい縮小してしまったのです。(p.293 

 
これに対して、次のグラフは、昨年から今年にかけての“コロナショック”による世界の経済縮小の度合いを表しています。これを見ると、黄色い折れ線が日本のGDPですから、最大で8.3%ぐらいの縮小率です。ということは、当時の方がよほど厳しい経済状態だったと言えます。こんな時期に、生長の家の運動は発進したのであります。そのことを念頭に『生長の家』誌Reahmanvscoronagdp2の創刊号を読んでいただくと、谷口雅春先生のお気持ちがより深く理解できると思います。 

 『生長の家』誌創刊号には、「内に宿り給う神」という文章があり、次のように書かれています(原文は旧漢字旧仮名遣い)--

  内に宿り給う神にたよる者は幸福である。彼は予め恐怖しない。彼は取越苦労をしない。
 彼は差し迫った時が来れば吾々のうちにどれ程の力がひそんでいるかと云うことを自覚している。世の中には子供を失っただけでさえ、とても彼女は生きられないと思われる程の繊弱(かよわ)い母親が、良人を墓穴へ見送り、大家族が一人残らず死んでしまっても自分だけは生きながらえていて、家も亡び、最後の一銭までもなくなったのに、尚それに耐えて依然として生活を続けて行っていると云うような実例がザラにある。必要にブツ突かれば、吾々のうちに奥深く隠れている力が呼び覚まされて起ち上る。此の力こそ吾等の衷(うち)に宿り給う神なのだ。(中略)(pp.31-32)

 内に宿り給う神にたよる者は幸福だ。
 何物かに値いする程の人間は彼自身のうちに、永遠の向上を目指して自己を駆り立てて止まない力を自己の内に感ずる。自己がそれを好むと好まないとに拘らず、内部の神が外の自己を押し進める。
 『生長の家』を書くように自分を押し進めて呉れる力も此の内部の神だ。内部の神がなければ自分の精力少く見える身体から普通人としての勤労生活の傍(かたわら)、この可成り多いページの雑誌(創刊号は総80)が自分ひとりの力でどうして書けようぞ。
 自分はこの内部の神に頼って此の事業を進めて行くものなのだ。(pp.33-34

 今回のコロナショックで、私たちの運動も大きな転換を迫られているのですが、私たちは「八方塞がりでも、天井は開いている」という教えと共に、厳しい状況の中でも「必要にブツ突かれば、吾々のうちに奥深く隠れている力が呼び覚まされて起ち上る」という雅春先生の「内に宿り給う神」の教えを実践する機会が目の前にあるということに気がつかねばならないのです。従来の方法や従来の方向に進めない場合は、新しい方法や新しい方向を開

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拓し、進んでいけばよいのであります。

 このことは、世界中の人々の間ですでに実践されています。私たちも、昨年から今年にかけて新しい試みに挑戦していることは、皆さんの多くはすでにご存じのことでしょう。

 生長の家講習会は開かれていませんが、それとは別のルートでみ教えを伝えようとする努力は続いています。その1つは「講話ビデオ」の作成です。昨年以来、私はすでに48本のビデオを製作し、発表いたしました。白鳩会総裁は20本を作られました。コロナ禍で“おうちご飯”や“おうち料理”を、人々が積極的にやり出した機会が生かされています。“森の中のオフィス”の本部講師、本部講師補の講話ビデオも、すでに12本が登録されています。そして、このような講話ビデオを鑑賞しながら、ネットを使って、年齢や男女の別なく、また信徒以外の人も含めて教義の研鑽ができる「生長の家ネットフォーラム」という仕組みもでき上がり、それを使って全国で多くの信徒の皆さんが運動を展開し始めています。

 また、コロナ禍では大勢の人が集まりにくいという点を克服するために、一人や少人数でできる新しい行事や行の開発も進んでいます。「七重塔に文字を重ねる」こと、「ペン写経」をすること、そして自転車を使ったリレーや、インタープリテーションの方法を取り入れた生長の家独自の環境教育の実施計画も進展しています。

 これらの新しい工夫や、運動方法や組織のあり方の再検討は、実は谷口雅春先生の『生長の家』誌創刊号の発刊の精神――即ち「必要にブツ突かれば、吾々のうちに奥深く隠れている力が呼び覚まされて起ち上る」――に学ぶものだと理解していただくと、私たちの内部から勇気と力が湧き出してくるのではないでしょうか

 どうか皆さん、コロナウイルスを“憎むべき敵”だなどと思わず、私たちの無限の可能性を引き出してくれる“鞭撻(べんたつ)者”だと考え、日時計主義を実践しつつ、明るく、しかし用心深く、神性開発と真理伝道の生活に邁進していきましょう。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 それではこれで、私の話を終わらせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

 谷口 雅宣 拝

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2021年1月 1日 (金)

幸福とは自然を愛すること 

 全世界の生長の家の信徒の皆さん、新年おめでとうございます。

  私たちは2021年、令和3年という新しい年を迎えました。新年を迎えて喜びの言葉を交わす習慣は、世界中で当たり前のように続いてきましたが、本年はその“当たり前”の新年を迎えることのできる人が、例年より少ないことを悲しく思います。しかし、それでも新年の到来は、私たちにとって希望と前進と活力を与えてくれます。日時計主義を生きる私たちにとっては、そのことはなおさらです。新型コロナウイルスによる感染症の蔓延の中でも、私たちはこの年を積極的に受け止め、希望を胸に抱いて前へ進む生き方を放棄することはありません。

 今から76年前、日本が第二次大戦で敗れ、国土が一面の焦土と化した時でさえ、私たちは過去に過ちがあればそれを正し、神の御心を体して明るく前進したことを忘れてはいけません。生長の家創始者・谷口雅春先生はこの時、私たちが敵を作って戦う生き方をやめ、人類全体を「神の子」として拝みながら、明るく生きる方法を伝えることに全力を尽くすべきだと説かれたのでした。

 昭和20年、194511月号の月刊誌のご文章から引用します――

   “今後の教化方針は「天地一切に和解」「従って天下無敵」(敵あって「勝つ」と云うのは本来の生長の家の教ではない、戦争無の哲学が生長の家の哲学である)を説き、今後の日本の運命も、苦難が来る荊棘(けいきょく)の道だなどと「言葉」で云っていると「言葉は種子」であり苦難が来るから、吾々は今後日本国民に明るく生きる方法を教えるのに全力を尽くさねばならぬのです。吾等は対立国家としての日本ビイキ的なことを説かず、世界人類は一様に「神の子」として説き、特に『人生は心で支配せよ』『新百事如意』を中心に説いて行けば好いのであります。”


 この引用の最後に出てきたのは、2冊の本の名前です。これらは、いずれもアメリカで生まれたニューソート系の光明思想家の著書に触発されて、大戦以前に、雅春先生が翻訳あるいはリライトされたものです。生長の家はこのように、すでに戦前から、グローバルな視点をもち、普遍的な価値を説く宗教運動でした。だから私たちは、現在もこの伝統を受け継ぎ、狭い国家主義、国益主義を超えて、人類最大の課題となっている自然破壊と地球温暖化の抑制に全力で取り組んでいるところです。

  今回の世界規模の感染症の拡大で、私たちは多くのことを学んでいます。その重要な1つは、「自然を侮るなかれ」ということです。目に見えない半生物のウイルスのおかげで、世界では1年もたたないうちに150万人を超える人々が死に至り、世界経済は劇的に縮小し、国際関係は不安定となり、そのおかげで職を失った人々が大量の流民となって地上をさまよっています。この感染症の原因は何でしたか?

 専門家の分析によれば、中国内陸部の野生動物取引市場で、人間と野生動物とが濃厚接触したことが、その原因です。コウモリの体内に潜むウイルスが、今回のパンデミックを引き起こしたウイルスと遺伝子型が酷似しているといいます。そのウイルスが、センザンコウなどの小動物が中間宿主となって、人間社会に取り込まれてしまったようです。またその後、デンマークでは、やはり同じ小動物のミンクから、人に感染したコロナウイルスの変異種が発見され、それが開発中のワクチンの効力を弱めるのではないかとして、大問題になりました。つまりウイルスは、変異しながら人間と他の動物の間を行き来しているのです。

  これらの事実は何を教えているのでしょう? それは、人間は自然界の一部だということです。哺乳動物としての人間は、他の哺乳動物とそれほど変わらないのです。また、自然界は人間のためだけにあるのではないということです。にもかかわらず、人間が自然界を破壊しながら本来、近づくべきでない領域にまで欲望の手を伸ばし、その一部を自己目的のためだけに改変したり、利用する行為を続けていれば、自然界のこれまでの秩序は崩れ、その秩序によって保障されていた私たち人類の生活も破壊されるのです。この因果関係は、現下喫緊の問題である地球温暖化と全く同じだと言わねばなりません。

  つまり、新型コロナウイルス感染症も地球温暖化も、天罰や神罰ではなく、私たち人類のこれまでの考えと行動によって引き起こされたものなのです。仏教では、こういうことを「自業自得」と表現します。

  この仏教用語は、近代以降の人類の足跡を痛烈に批判していますが、その反面、私たちに問題解決の道を示してくれています。なぜなら、「自業自得」とは、人間が起こした誤りは、人間によって正せるという意味だからです。私たちが自然界の過度の破壊をやめ、自然が本来の活力を取り戻すように私たちの生き方を変えれば、人類はこの自業自得から脱却できるでしょう。生長の家は今、そのような生き方を信仰の情熱をもって推し進めています。大都会・東京から標高1300mの八ヶ岳南麓に国際本部を移し、二酸化炭素を排出しない業務を実現し、自然破壊の大きな原因である肉食から遠ざかり、資源の無駄遣いをやめ、日用品を手づくりし、無農薬・無化学肥料栽培を実践し、自動車の利用よりも自転車の利用を行う中で、自分が自然の一部であることを実感し、その実感の中に人間の幸福があることを体験する――これを理論だけではなく、日常生活の中で、省力化に走るのではなく、私たちが自分の体を積極的に使いながら、自然との切実な一体感を得る生き方こそ、現代に必要な信仰生活だと私たちは考えています。

  もし私たちが創造者としての神を信ずるなら、これ以上、自然破壊を続けることはできません。なぜなら、神は人間を創造されただけでなく、自然界全体を創造されたのですから、私たちは神の創造を自己目的のために破壊することはできません。私たち人間は、他者の喜びを見て幸福を感じます。それと同じように、私たち人類は自然を愛する生き方の中に幸福を見出すのです。なぜなら、個人はバラバラで無関係な存在ではないように、人間は自然から分離することはできないからです。そして、それらすべては神の作品であり、神の一部であるからです。

 私たちはこれからも、「神・自然・人間は本来一体である」とのメッセージとそれに基づく生活法を、広く世界にひろめてまいりましょう。皆さま、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 谷口 雅宣

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2020年5月12日 (火)

ボードゲーム「コロナバスターズ」について

 本年4月19日付で、私はフェイスブック上で運営する「生長の家総裁」のページに「コロナバスターズ」というボードゲームを発表した。このゲームは、同じくボードゲームである「オセロ」からヒントを得た対戦ゲームで、相手の円盤(石)を自分の2個の円盤で挟むことで、自分の円盤としてしまう。この「敵であったものが味方になる」というゲームの基本が、私が表現したかったポイントの1つである。

 このゲームは「新型コロナウイルス感染症」という面白くないことから生まれた。それなのに「面白い」ことを目的とするゲームにして遊ぶというのは、不謹慎だと感じられた人もいるだろう。実際、このゲームの発表後、私に対して「ゲームは恐怖心を煽る」とか「日時計主義でない」などという不満を漏らす人もいた。しかし、ゲームの内容を知れば、この種の不満は的外れであることが分かったはずだ。ゲームでは、ウイルスを自分の味方につけることで、感染拡大を防げることになっている。この筋書きが荒唐無稽でないことは、本文の後半で述べる通りだ。

 しかし、その前にひと言――
 この病気により、世界中でたいへん多くの方々が亡くなっていることに、私は心が傷む。それだけでなく、経済活動は中断し、失業者は増加を続け、一部の途上国では、国内の政治的対立も加わって貧困がさらに深刻化し、国家の存続にかかわる非常事態にいたっている。そして医療現場では、医療従事者の方々が文字通り「命がけ」の努力を続けられている。このような深刻な事態になる前に、人類は何か予防措置を講じられたはずだ。しかし、実際はできなかった。その原因は何か? この疑問に答えることが、今後の私たち人類全体の行方の吉凶を決めるだろう。

 多くの人々は、こんな悲惨な事態をひき起こす「ウイルス」のことを、とんでもなく“悪い”ものだと考え、恐怖に駆られたり、憎しみに燃えたりするかもしれない。しかし、ウイルスによる感染症の歴史を振り返ってみると、エイズや狂牛病、鳥インフルエンザ、ジカ熱、デング熱、SARS、MERS……など、その原因を作っているのは、実は人間の方であるという事実に突き当たるのである。今回の感染症も同様の起源があることは、各方面から指摘されているし、私もすで本欄などで述べた。

 ウイルス感染症の誕生と人間との関係をひと言でいえば、人間は自然界のすみずみに、そして自然の奥深くにまで手を伸ばし、自己本位の目的でそれを改変し、また無秩序に利用してきたことで、永年安定していた自然界のバランスを崩しているということだ。このアンバランスの状態から、自然がバランスを取り戻そうとする過程で、人間に致命的な毒性をもつウイルスや細菌が生まれ、あるいはもともと存在していても、人間と関係しなかったウイルスや細菌が、人間の生活圏に飛び込んでくるのである。語弊を恐れずに言えば、人間は自然を壊しながら自然に近づきすぎている結果、人間に致命的な影響を与えるウイルスの産生に大きく関与しているのである。

 こんな書き方をすると、読者は、ウイルスはもっぱら人間に有害であるとの印象をもつかもしれない。しかし、それは誤りである。人間の遺伝子全体のことを意味する「ヒトゲノム」という言葉があるが、このヒトゲノムの8%以上は、人間が進化の過程で関係してきたウイルスゲノム、またはその残骸からできていると考えられている。つまり、ウイルスは人類の生存と発展に有益に働いてきた証拠が、私たちの遺伝子の中にきちんと残っているのだ。例えば、人間を含む哺乳動物は、母親とは遺伝子が異なる胎児を、拒絶反応を起こさずに長期にわたって母体内で育てる能力をもっている。これには先に述べた“内在性ウイルス”の働きが関与しているとされている。

 ウイルスが感染すれば、感染した人(宿主)はすぐに病気になるという考え方も、多くの場合、間違っている。そうではなく、大抵は感染自体は無症状に終わる。しかし、ウイルスがまだ新しい宿主(ヒト)に適応しきれていない今回のような場合に、重篤な症状が起こるのである。この激しい症状は、感染したウイルスに対する宿主側の免疫反応であることが多い。つまり、私たち人間の側が新しい“異物”に対して激しい拒絶反応を起こすのである。ウイルス学の知見によると、特定のウイルスが人間と接触する時間が長くなると、双方が相手に適応する形で症状の激しさを減らしていく傾向があるという。そして、病気の症状を引き起こしにくくして、しばしば長期間の(無症状の)感染を続けるという。つまり、ウイルスと宿主とは一種の“平和共存”を達成するのだ。

 ウイルスと宿主とのこのような関係を考え合わせると、私たちは今回の新型コロナウイルスの登場を“悪魔の仕業”だとか“神の処罰”だなどと考えて恐怖し、あるいはウイルス全般に対して憎悪の感情を振り向けることは見当違いであることが分かる。人類を集合的に「私たち」と呼ぶ場合、この新型コロナウイルスは、私たちが自然破壊とグローバル化の過程で作り出したものである。また、その誕生の原因としては、宿主となる野生動物(コウモリやセンザンコウの名が挙がっている)と人間との必要以上の濃厚で密接な接触が挙げられるのだ。

 オーストラリアのABCテレビは、今回の新型コロナウイルスによる大規模な感染症拡大は、「人間の地球規模の自然と動物軽視」が原因だというジェーン・グドオール博士(Jane Goodall)とのインタビューを、今年4月11日付でウェブサイト上に公開した。グドオール博士はアフリカでのチンパンジーの研究で有名で、自然保護の必要を説き続けてきた環境運動家でもある。記事の中でグドオール博士は、ウイルスが動物から人間に感染する原因の一つは、動物の生息地の減少と大規模農法にともなう森林伐採だと述べ、これにより動物同士の、また動物と人間との接触が深まり、異種間での感染に結びついていると語っている。

 また、同国のチャールズ・スタート大学(Charles Sturt University)の生物学者、アンドリュー・ピーターズ博士(Andrew Peters)は、今回のコロナウイルス感染症のほかにも、同国ではいくつかの感染症の危険が拡がっていると指摘している。その1つは、ヘンドラウイルス(Hendra virus)による感染症で、このウイルスはコウモリから人と馬に感染して宿主を死に至らせるといい、「この感染症は、オーストラリアの海岸地域から森林が失われ、冬場のコウモリの生息地が減少していることが原因だと言われている」と語っている。

 「コロナバスターズ」のゲームでは、ウイルスは取扱い次第で人間の敵にも味方にもなる。私たちは、科学的にも正しいこのウイルスの特徴を知りながらゲームを行なうことで、感情に流されず、理性的な判断と方法で、この問題の解決に取り組む――そういう精神を広めていきたいものである。

 谷口 雅宣 

【参考文献】
〇西條政幸著『グローバル時代のウイルス感染症』(日本医事新報社、2019年)
〇デービッド・R・ハーパー著/下遠野邦忠、瀬谷司監訳『生命科学のためのウイルス学――感染と宿主応答のしくみ、医療への応用』(南江堂、2015年

 

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2020年4月11日 (土)

コロナウイルスは何を教える (2)

 生長の家は、山梨県北杜市にある国際本部“森の中のオフィス”と、同本部の広報・制作/編集部門がある別棟のメディアセンターの2つの施設を明日、4月12日から同21日まで閉鎖することにした。これは、同メディアセンターに勤務する男性職員が4月初旬から発熱や倦怠感などを覚えて体調が優れず、4月7日からは休務していることを重く見たもの。同職員はPCR検査をまだ受けていないが、検査を実施して結果が出るまで対応を長引かせるよりは、新型コロナウイルスの感染拡大防止を最優先に考え、迅速な対応を行なうことにしたもの。2施設の閉鎖中の業務は、基本的に職員が「在宅」で行うことになる。

 今回の新型コロナウイルスによる感染症の世界的蔓延は、かつて例のない規模と速度を伴いつつ、人命や社会の経済活動に甚大な影響を及ぼしている。私は前回のブログで、この感染症によって現代社会が甚大な被害を受ける理由の1つとして、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」を挙げた。この表現は、社会のあり方のマイナス面を強調したものだが、プラス面を強調して言い直せば、今の社会の営みは細部まで分業が進行しているため、物事が正常に進んでいれば“便利で効率がいい”ということなのだ。

 しかし、21世紀の世界での一番の問題は、「物事が正常に進んでいる」という最も基本的で、重要な前提が崩れつつあることである。戦後の日本は、9年前の3月11日までは、「原発が正常に動いている」という基本的な前提が存在した。しかし、東日本大震災と東京電力の業務上の判断ミスなどが重なって、未曾有の原発事故が起こった。戦後の世界の経済発展は一見、「物事が正常に進んでいる」という認識を私たちに与えたが、その陰で自然破壊や温室効果ガスの大量排出の影響が無視され続けてきたため、今や地球規模の気候変動が不可逆的に起こっていて、その影響として、台風やハリケーンは巨大化・凶暴化し、豪雨が河川を決壊させ、人家を押し流し、旱魃が肥沃の地を不毛化し、人間の手に負えない山火事が都市部まで広がり、そして、これまでにない新種のウイルスや細菌による感染症が世界に拡がっているのである。これらの一連の“マイナスの変化”は、人間の活動から生まれているという事実を、私たちはこれ以上無視してはならないのである。

 人間が原因を作っているために起こる現象のことを、「自然現象」とか「自然災害」と呼んではならない。それらはすべて「人為現象」「人為災害」と呼び、人間に改めるべきところがあれば、改めなければなくならない。「自然が相手だから仕方がない」という言葉は、一時代前には妥当だったとしても、現在ではあまり物を考えない人のゴマカシの弁でしかない。私は2012年に出版した『次世代への決断』(生長の家刊)という本の中で、「人間が生んだ地球」(the anthropogenic Earth)という言葉を紹介したが、この言葉の通り、現在私たちが足を踏みしめている地球は、そこに生える植物、空を飛ぶ鳥、動き回る虫や獣、そして目に見えない細菌やウイルスを含めて、人間の影響を受けているものの方が、受けていないものよりも圧倒的に多いのである。

 地球環境を含む自然界の秩序を無視または軽視して、“便利で効率がいい”という方向にのみ社会を発展させてきたことが、今ある「人間が生んだ地球」の原因である。この表現を“裏返し”にすれば、「過剰なスペシャリゼーション(専門化、特殊化)」の結果を、私たちは今目の前にしていると言えるだろう。だから、現在の社会で私たちが“便利”と“効率”を考えるときには、それらの裏側にある「過剰なスペシャリゼーション」の問題を思い出してほしい。「過剰なスペシャリゼーション」とは、自分の力や努力によらず、他人や他者(社会制度やインフラ)に生活の多くのものを依存しているということである。自立のための知恵や技術の習得、自律心・独立心を放棄して、金銭によって何でも得られると考えることである。そういう考え方の誤りを、新型コロナウイルスは私たちに教えている、と私は思う。

 今、世界の多くの人々ーーとりわけ都市で生きる大勢の人々が、自宅や自室から外に出られず、出ても自由に歩き回れず、買い物に制限を加えられ、娯楽や遊興が白眼視される風潮を感じていることだろう。そんな時、他に依存せず、他から求めず、慣れないことも自ら行い、自ら学び、自ら製作し、他に与える生き方をしてみるのはどうだろう? そう、これが「メンドー臭い生き方」である。しかし、これが「過剰なスペシャリゼーション」から自由になる唯一の方法だと私は思う。物事が正常に進んでいたときには、すべて省略していたことでも、この機会に自分で頭を使い、手を使ってやってみるのである。きっと「不自由」と思っていた領域が減り、内心の「自由」が拡がっていくことを体験されることと思う。

谷口 雅宣 拝

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2019年3月 1日 (金)

自然と共に栄えるライフスタイルへ

 今日は午前10時から、長崎県西海市にある生長の家総本山の出龍宮顕斎殿に約560人を集めて、立教90年を祝う生長の家春季記念式典が行われた。私は同式典にて概略、以下のような言葉を述べた――

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 皆さん、本日は立教90年のおめでたい記念日に大勢参加くださり、誠にありがとうございます。 

 

 私は昨年のこの立教記念日には、『生長の家』創刊号にある谷口雅春先生のご文章から「生命は働くことによって生長する」という教えを取り上げました。そして、その教えは今の時代では、「肉体と脳は使うことによって発達し、使うことによって幸福感が得られる」という形に翻訳されて、PBSの活動に反映されていることを強調したのであります。 

 

  今回は、この長崎県に越させていただく前に、鹿児島・宮崎両教区による生長の家講習会があったので、九州地方の人にはまたまたお会いすることができて光栄であります。この鹿児島市で行われた講習会の午後の講話では、私は受講者の質問に答えて「安全保障」の話をしたのであります。安全保障とか政治に関する質問が3通ぐらいありました。その中には、憲法改正の動きに対してどう考えるべきかという質問があったので、地球温暖化時代の国家の安全は、軍備によっては充分保障できないという話をしました。安倍首相は、憲法改正に固執しているようですが、現在の国際情勢はそんな個人の古い拘りを推し進めている余裕はないのです。生長の家の中にも、かつて政治運動を経験した年齢層の人の中には、この憲法問題が大変重要だと考えている人がまだいるようですが、地球世界は、ものすごく速いスピードで変化しているということを忘れてはいけません。 

 

Snihist  ここで少し歴史を振り返ってみましょう。生長の家が政治団体を結成して明治憲法復元運動をしたのは、1964年から1983年の間の約20年間です。今年は立教90年ですから、この90年の歴史の中では、20年というのは「四分の一」に満たない期間です。また、この時代の特殊性に気づかねばなりません。このような烈しい政治運動をしたのは、戦後の例外的時代だったのですね。このことはブックレット『戦後の運動の変化について』の中に詳しく書きましたが、それは現代史の中では「冷戦時代」と呼ばれています。この時代の特徴は、世界を“善”と“悪”の敵対する二大勢力に分割して、そのどちらかにつくことが求められただけでなく、反対陣営の勢力や人達と鋭く対立するという点でした。 

 

  生長の家は「対立の教え」ではなく「大調和の教え」ですから、このような善悪対立の世界を想定して、その一方につくような運動は、当時は政治的に必要に迫られていたことは事実ですが、本来は似つかわしくないのです。ですから、冷戦が終結して、ソ連が崩壊し、中国も資本主義を採用するなど、世界情勢が大きく変化した現在、35年以上前の課題が同じ重要性をもっているかというと、決してそうではないのであります。このことは、古くからの信徒の中にもきちんと理解しておられる人もいて、講習会ではこんな質問を投げかけて下さいました。日向市に住む72歳の女性の方です―― 

 「生長の家の御教えを知りましてから久しいのですが、近頃良く、この美しい地球を人類はキズ付けよごし、地球温暖化を止める事が出来ず、このままでは、愛する子や孫に負の遺産を残す事になりそうです。私共の祈りが足りないのか? この真理を知る人が少ないのか? もどかしい思いをいだいております。どうしましょうか?」 

 

Globenviron  この方の主要な関心事は、日本国内の“右”と“左”の対立ではなく、さらには国家と国家の対立でもなく、自然界と人類との不調和が続いて、私たちの子孫に良好な地球環境を残していけそうもないという問題です。これを一般的に「地球環境問題」と呼びますが、これは国内政治や国際政治とは関係のない別の問題だと思っている人もいますが、決してそうではありません。地球環境とは、私たちが棲んでいるこの地球全体のことです。その中に日本があり、その他各国があり、世界があるのです。だから、国内政治も国際政治も、農漁業も商工業もすべて、地球環境から大きな影響を受けることになります。 

 

Co2con_may2018_2  そして、多くの方はすでにご存じのように、この地球環境問題の根本的な原因も分かっている。それこそ、私たち人類の自然破壊と温室効果ガスの大気圏への過剰な排出です。それによって地球の表面の温度がどんどん上昇している。これにともない、北極や南極などの極地や高地の氷が大量に溶けだして海に流れ出ています。だから、海面が上昇し、人類が棲むことができる土地の面積がジワジワと狭くなっている。世界の人口は増えているのに、です。また、気候変動が起こって農産物、海産物が獲れなくなっている。貧しい国では、その影響を受けて政治が破綻し、大量の難民が、アフリカでも中南米でも、東南アジアでも、祖国を捨てて外国へ移動しています。気候の変化は、それほど巨大な影響を地球の自然界と人間界に及ぼしているのです。国家間の対立は、それと無縁ではありません。だから、一国が軍事力を増強してみても、これらの解決の役には立たないのです。それはかえって隣国を警戒させ、国際関係をさらに緊張させます。 

 

 

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 また、地球温暖化という現象は、長期的には人類と他の生物に大きな問題をもたらすのですが、短期的には、一部の地域や、一部の人々に“恩恵”をもたらすこともあることを、知っておいてください。例えば、先ほど北極海の氷が溶けている話をしましたが、これによってロシアなどの北極圏に領土をもつ国は、夏場に氷のない海を得ることになります。そうすると、そこで漁業をしたり、航路を開設したりできるので、経済的な恩恵が得られる。また、ニューヨークタイムズ紙の最近の記事によると、スイスはエネルギーの6割を水力発電に頼っているのですが、近年は山岳地帯に一年中あった氷河が融解しつつあるので、利用できる水の量がさらに増え、水力発電のブームになっているそうです。 

 

 しかし、いずれの場合も、これまで氷として地表付近で固まっていた水が溶け出すのですから「海面上昇 → 陸地の減少」が起こるだけでなく、地球表面を循環する水の量が増えることで、大雨や洪水が起きやすくなると考えねばなりません。いや実際、そういう現象が日本を含めて世界各地で起こっています。 

 

 このようにして、私たちは“荒れた地球”“住みにくい地球”を子供や孫たちに残していくことになりそうなのです。そんな事態はぜひ、避けねばなりません。 

 

  先ほど紹介した講習会での質問では、「祈りが足りないのか、真理を知らないのか、もどかしい。どうしましょう?」と言われましたが、私は、もうすでに生長の家はPBSの活動を通して、自分たちのライフスタイルを自然を傷つけないものに転換することで対応している、とお答えしたのです。PBSの活動のことは、私がすでに今年の新年の挨拶で申し上げました。この活動は、きわめて具体的な生活変革の運動で、しかも、やろうと思ったら誰でも実行できるものです。私たちは宗教運動をしているのですから、もちろん真理研鑽や伝道や祈りは必要です。しかし、それだけでは足りない。信仰や祈りは、具体的な生活変革が伴わなければ、今、人類が向かっている“誤った方向”への巨大な流れを是正する力にはならないのです。 

 

  PBSの活動についてもし問題があるとするならば、それは「インターネットを使う」という点でしょう。生長の家の中には、この新しい文化に親しんでいない人がまだ相当数いるでしょう。特に、古くから信仰している人の中には、スマホを使ったことがないし、今さらそんなメンドーな機械は使いたくない、という人もいるでしょう。しかし、そういう場合でも、生活変革は日常生活から可能です。そのヒントは毎月発行される機関誌や普及誌に書いてあるし、従来の組織運動の中でも、いわゆる“Bタイプの誌友会”というのはPBSと親和性が強いことは、すでにお分かりの人も多いでしょう。また、“自然の恵みフェスタ”は、スマホもパソコンももっていなくても参加できます。 

 

 このようなPBSの活動、あるいは生活変革の活動は、何も「目を三角にして」やる必要はないのです。つまり、歯を食いしばって無理をしたり、人と競争してやる必要はない。このことは、私が今年の「新年の挨拶」でも申し上げました。その時の言葉を思い出していただくために、次に引用しましょう-- 

 「そのような宗教本来の活動が、毎日の生活の仕方を変えることででき、しかも“苦行”によってではなく、自然の恩恵をいっぱいに感じる“楽行”によってできるならば、これほど嬉しいことはないと思います。」 

 このことは、昨年の立教記念日でも申し上げたことで、人間の肉体と脳は使うことによって発達し、使うことによって幸福感が得られることは、すでにPBSやBタイプの誌友会、自然の恵みフェスタなどを経験した人は皆、ご存じのことでしょう。 

 

 今年の冬、私が体験したことを話させてください。この間の鹿児島・宮崎両教区合同の講習会でも話したことです。それは、冬場の寒さを利用して、新しいクラフト作りに挑戦したことです。 

  (氷のリースの話をする)

  このように私たちは、効率とか省力とか、大規模化とか大量生産というような“古い文明”の基準に囚われなければ、新しい発想のもとにまだまだ幸福を拡大させることはできる、と私は考えます。如何でしょうか? 九州の人に「氷のリース」を作れとは言いませんが、南国では南国に相応しい自然があり、山地には山地でなければない自然があり、平野には平野独特の自然があります。それらを破壊せずに豊かさを保ち、人間も幸福に生きるライフスタイルをぜひ開発し、広めていってください。その基礎をつくるのが、本年2019年であり、それは立教90年の年であり、さらにこの年は、日本では新たな年号の出発となることは決して偶然ではありません。

 

  それでは、これをもちまして立教記念日の所感とさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

 

 谷口 雅宣

 

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2018年7月 9日 (月)

「西日本豪雨」をどう考えるか?

 最初に、今回の「西日本豪雨」の被害に遭われた全国の大勢の人々に、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。 
 
 この未曾有の豪雨の被害がしだいに明らかになってきた。7月8日の『朝日新聞』は、12府県で47人が死亡し、1人が重体。行方不明や連絡が取れない人は60人にのぼると伝えた。ただし、被害の詳細はまだ不明のため、今後この数字は増える可能性があるとした。 
 
 7月9日は全国の新聞の休刊日だったが、それでも私の住む地元紙『山梨日日新聞』は「特別紙面」を作って発行を続け、トップ記事で西日本豪雨の被害を伝えた。それによると、「死者は計82人に上」り、「安否不明者は50人以上」ということだった。両者を加えると「132人」を超える人が亡くなった可能性があり、総務省消防庁の統計では、8日午後現在、「20府県の避難所に計3万250人」が自宅を離れて避難していると報道した。そして、9日午後7時のNHKニュースでは、死者は114人、不明者は61人で、合計は175人に増えていた。 
 
Rainvictims  私は昨日、気象庁などがまとめた過去の大雨による被害の統計を調べてまとめてみた(右表参照)が、今回の豪雨の被害は、人命に関する限り過去25年間で“最悪”となりそうだ。前回の“最悪”は、死者と不明者が「123人」に上った2011年だが、この年の人的被害は、7月27日から同30日にかけての「平成23年7月新潟・福島豪雨」と、8月30日から9月5日にかけての台風12号による被害、そして9月15日から同22日にかけての台風15号による被害をすべて加えたものだ。しかし、今回は1回の豪雨でこれだけの被害となった。そして、台風シーズンはまだこれからなのだ。 
 
 気象庁は今回、数十年に一度の重大な災害が予想されるという意味の「大雨特別警報」を6日から7日にかけて9つの府県に出したことは、すでに読者もご存じだろう。この「特別警報」の制度は、2013年5月31日の改正気象業務法の公布後に始まり、同年8月30日から運用が開始された。「警報」の発表基準をはるかに超える規模で起きるような甚大な災害、被害が発生する恐れがあり「最大級の警戒」を要する場合に適用される。 
 
 気象庁のウェブサイトによると、大雨の特別警報の基準は、「台風や集中豪雨により数十年に一度の降雨量となる大雨が予想され、若しくは、数十年に一度の強度の台風や同程度の温帯低気圧により大雨になると予想される場合」だという。しかし、上記した人的被害の大きさを見ると、同規模の大雨がワンシーズンのうちに日本列島を襲ったのは「数十年前」ではなく、「7年前」なのである。 
 
 だから私は、この「数十年に一度」という表現は誤解を招くので変えた方がいいと感じる。この表現は、過去からの統計に基づく確率を述べているのだろうが、ある事象が起こる確率を過去のデータだけから予測するのは、今日の気象予報としては間違うリスクが大きい、と私は思う。現在、気象庁が具体的にどのようなデータを使って「数十年に一度」という確率を計算しているか、私は知らない。しかし、その発表を受け取る国民の一人としては、「数十年に一度」という言葉を聞くと、今回のような大雨を経験した場合、「あと数十年は、これほどの大雨は来ない」という考えを抱きやすい。そして、「今回決壊した堤防も、とりあえず元通りに修復しておけば、あと数十年は安全だ」との結論に達しかねない。 
 
 しかし、私が長年にわたり本欄などで繰り返して訴えているように、今日の“自然災害”の多くは、産業革命以来の人類のライフスタイルの変化が引き起こした地球温暖化と、それに伴う気候変動と密接に関係している。だからそれは、言葉の厳密な意味での“自然災害”ではなく、人間の活動による地球温暖化の影響を無視しては、正確な予測は不可能のもので、年々“人災”の要素が濃くなっている、と私は考える。そして、地球温暖化の主要な原因である「大気中の二酸化炭素の増加」は、一向に止まらないどころか、幾何級数的に増大しているというのが、世界中の気象学者が今、真剣に訴えている世界の現状なのである。ということは、今回のような大雨が地球上のどこかを襲う確率も、幾何級数的に増大する可能性があるのである。 
 
 先日、生長の家の国際本部である“森の中のオフィス”では、職員を集めて、アル・ゴア氏主演の『不都合の真実2』という映画を鑑賞した。前作から10年を経て公開された作品で、私にとって内容的には新しい情報はあまりなかったが、温暖化によって氷が急激に融解していく極地の実態を、リアリティをもって描いていた点が印象に残った。また、気候変動問題を解決するためのパリ協定が、決裂寸前で締結に漕ぎつけたことが理解でき、世界には心ある人々がまだ多くいると知って嬉しく感じたと同時に、この問題は各国の利害関係が錯綜して、相当解決が難しい問題だと感じた。そして、読者もご存じのように、温室効果ガスを世界で最も多く排出しているアメリカは、トランプ大統領になってパリ協定から離脱してしまった。また、現在の日本の安倍政権も、この問題の解決に熱心ではないのである。 
 
 だから、私は最近、こう考えるようになっている--この問題は、気候変動がさらに深刻化して、多くの国で犠牲者が大量に出る状況がさらに進行するまでは止まらない。そして、将来いつの時点かで、人類が化石燃料の利用をやめるか、それとも戦争をするかの選択を迫られるような劇的な形で、やっと前者を選んで解決の方向に向かうことになる、と。「日時計主義」を標榜している生長の家の代表者として、こんな悲観的な予測をするのは気が引けるのだが、人類が置かれている状況を冷静に見れば、楽観はかえって犠牲者を増やす結果になると思う。 
 
 だから私は、これからの都会生活には、気候変動とその影響を被るリスクが伴うということを、読者には訴えたい。これは田舎生活にはそれがないという意味ではない。しかし、日本の田舎生活では、比較的に広い土地が使えるから水や食糧の調達が都会より容易であり、住む場所の選択も都会よりしやすいから、氾濫しやすい河川の近くや、土砂崩れの危険がある土地を避ければ、都会よりは安全な生活が可能だと考えるのである。「しかし、仕事がない!」と読者は言うかもしれない。が、この現象は「都会型の生活が進歩である」という従来からの通念の産物だ、と私は思う。通念は、変えることができるのである。 
 
 この件については、現在の生長の家の運動とも大きく関係しているから、いつか稿を改めて書きたいと思っている。 
 
 谷口 雅宣

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2018年7月 7日 (土)

今こそ「対立から調和へ」の運動を

 皆さん、本日は「万教包容の御祭」に参加くださり、有難うございます。この御祭も今年で6回目を迎え、先ほど、このオフィスの敷地においては6基目となる七重塔が除幕されました。“森の中のオフィス”の落慶から丸5年になるということです。

 

 この七重塔が何を象徴するかは、毎年、この御祭で説明してきたので、今日はそれを詳しくは申しません。しかし、「万教帰一」の真理を表しているということだけは、何回でも強調しておかねばならないでしょう。というのは、今日の7月7日が「万教包容の神示」が下された日であるからだけでなく、「すべての良き宗教の神髄は共通している」というこの教えが、今日ほど重要になっている時はないからです。

 

 皆さんもご存じのように、現在の世界では、各国が自国の利益を最優先して外交を行う傾向が顕著に出てきています。昨年の今日も、私はトランプ大統領の「アメリカ・ファースト」の政策を批判しましたが、その後、イギリスのEU離脱の動きだけでなく、中国にもフィリピンにも、ハンガリーやポーランドなどにも、よく似た動きが拡がっています。現在はそれが、米中間の“貿易戦争”にも発展してきています。地理的にアメリカと中国の間に位置する日本は、これによって最も大きな影響を被ることになるかもしれません。 

 

このような政治の動きには、実は気候変動や内戦の影響から大量の難民や移民が世界各国に流出していることが深く関係しているのです。日本は今、かつてない規模の短期間の降雨による洪水に見舞われている。一方、アメリカは東海岸にはハリケーンの襲来が、西海岸には異常乾燥と高温による山火事が拡がっています。日米などの先進国では、自然災害に遭った場合、避難することができますが、貧しい国々では、避難場所がないことも多く、そうすると難民となって外国へ逃げ出す以外の選択肢がなくなってしまいます。最近の報道によると、日本のすぐ近くに位置する韓国の済州(チェジュ)島にさえ、イエメンから500人以上の難民が押し寄せているそうです。こういう中では、どうしても“自国第一主義”や“自国民優先”の考えが国民から支持されるようになり、そこから国家間の争いが生じやすくなるのです。 

そんな時こそ、国や民族の違いを乗り越える価値が必要となります。そして、そこに宗教の使命があると言わねばなりません。私がこう申し上げるのは、「宗教は国や民族を超えた価値を示している」という前提があるからです。そうでない場合、宗教は国や民族の道具になって、大変残虐な、非人道的な行為に走ることがあることは、日本の現代史を含めた世界各地の紛争や戦争が示している通りです。 

私はこのことを念頭に置いて、『観世音菩薩讃歌』の中に次のように書きました-- 

 

「されば汝らよ、

 善を行わんと欲すれば、

 神の御心を知らざるべからず。

 自己の立場に固執し

 神を見失うことなかれ。

 自己の属する社会の利益、

 必ずしも善に非ず。

 他者の属する社会の利益、

 必ずしも善に非ず。」

 

 私たち信仰者は、「神の御心を第一にする」ということが最も大切です。その「神の御心」について私たちが知っているのは、「人間は皆、神の子であって尊い存在だ」ということです。また、神の御心は「他を排除しない」ということも明確です。なぜなら、「神は全ての総て」であり、神にとって「他のもの」は存在しないからです。このことを強調するために、私たちは現在、「ムスビ」の働きを推進する運動をしているところであります。それは「神・自然・人間は本来一体」という言葉の中にも表れています。 

 ご存じの通り、この7月は28日から29日にかけて、世界平和のための国際教修会がここ“森の中のオフィス”で開催されます。そこでの研修のテーマは「ムスビの働きの普遍性を学ぶ」というものです。このテーマを選んだ理由には、「ムスビ」という言葉が日本語なので、日本語を理解しない人にとっては何か難しい概念のように誤解されるかもしれず、その場合、私たちの運動は日本人向けの、日本人だけの運動であるかのような印象が生まれるのを防ぎたいという意図があります。 

 「ムスビ」の働きとは、もっとユニバーサルで、何も難しいことはなく、自然界に溢れているばかりでなく、人間の心の中でも普通に起こる出来事であり、さらにどの国の人々の食生活にも表現されていることを、私たちはそこで学ぶ予定です。この教修会には、誰でも出席できるわけではないので、今日は、教修会での研修の内容から1つだけ、分かりやすいものを紹介させていただきます。 

 それは、ムスビの働きを数字で表せば「3」になり、図形で表せば「三角形」になる、ということです。これだけでは、私が何を言っているのか分からないと思うので、さらに説明します。まず「結婚生活」を考えてみてください。これは普通、1組の男女が社会的に結ばれて、共同生活をすることを意味します。そうすると、1人と1人が寄り合って、それ以前にはなかった「結婚生活」という“新しい価値”が生まれることになります。その価値のことを「1」と勘定すれば、1組の男女は2つの価値をもちますから、全部で「3」の価値となる、と言えます。これがムスビの働きです。 

 同じような考え方を採用すれば、植物が昆虫によって受粉し、種や果実が生まれることも「3」と数えられます。また、白いご飯と梅干を結び合わせてお握りを作れば、そのお握りの価値も「3」と数えることができます。同様の考えを芸術や文化の領域に向けてみれば、さらに多くの「3」が見えてきます。「対話」や「対談」という文学の形式があります。2人の人間が話をすることで、それぞれ1人だけでは生まれなかった“新しい価値”がそこに生じる場合、それを「3」と数えることができます。哲学の分野では「弁証法」という考え方があるのを、思い出してください。また、合唱には「デュエット」という形式があります。私たちが惹きつけられるスポーツの試合や競技にも、同じように1人や1チームだけでは出すことのできない価値が、2人で競ったり、2チームで対戦することで生まれてきます。このように、「ムスビの働き」の例を挙げれば、いくらでも出てくるでしょう。 

 では、そのムスビの働きを図形で表す三角形になるとは、どういうことでしょうか? 皆さんは三角形を、特に二等辺三角形を思い浮かべてみてください。また、立体を思い浮かべるならば、円錐とか方錐(四角錐)を思い浮かべてください。どれも横からは三角形に見えます。 

 そういう意味では、「山」は基本的に三角形をしています。富士山の姿を思い出してください。もちろん八ヶ岳のように、山の上部が割れたように見える山もありますが、しかしそれは八つの頂をもった連山だということを、皆さんはご存じです。そういう山を見て、私たち人間は「崇高さ」を感じないでしょうか? その頂上へ登ることは、日常生活から離れて、一段と高い経験と境地へ、私たちを導いてくれると感じないでしょうか? 私はそれは、基本的で自然な人間の感情であると考えます。人間と自然とが互いに近づいていって、その結果、一段と高い境地に達するのは「ムスビ」の働きそのものです。 

 そして、このことは宗教ととても深い関係にあります。宗教施設は勿論都会にもありますが、わざわざ山の上に建設する習慣は、東洋にも西洋にもあります。ピラミッドは偉大な宗教施設ですが、これは四角錐(方錐形)の形です。同じ四角錐は、教会建築にも仏教建築にも、特に屋根の部分などに多用されています。それを見て、私たち人間は信仰心を深めるのです。だいたい皆さん、今、私たちの目の前にある七重塔には、7つの四角錐があるではありませんか? 屋根を見てください。七重塔のモデルとなった仏教建築の多宝塔の屋根も、基本的には四角錐であることを思い出してください。 

 このように考えていくと、私たち人類には基本的に共通したものの見方、感じ方があるという事実を認めざるを得ないのであります。そして、そのような共通した見方や感じ方を前提として、宗教や信仰が成り立っていることに気づきます。もちろん、違うところもありますが、それは基本が違うのではなく、同一の基本の中のバリエーションが違うだけなのであります。そのことは、中国の寺院と日本の寺院との屋根の傾きとか、反り方の具合が違うことに表れているように、文化や美意識の微妙な違いです。そのような“違い”の側に注目して、共通して流れる基本設計を無視することは、愚かだと言わねばなりません。しかし、現代は残念ながら、自と他とを峻別して、差別する動きが、世界各地で顕著に出てきているのです。これは対立や戦争の原因となるものです。 

 私たちは国際平和信仰運動を展開しているのですから、このような対立や差別の動きには断乎として反対し、人類共通の基本的な精神構造や感じ方を正しく、より多く知り、それを人々に伝えることによって、万教帰一、万教包容のこの教えをさらに多くの人々に伝えていき、「対立から調和へ」の動きを力強く推進していきたいと念願するしだいです。 

 それでは、これをもって本日の「万教包容の御祭」に際しての所感といたします。ご清聴、ありがとうございました。 

 谷口 雅宣


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2017年7月 7日 (金)

自然に与え返す“新しい文明”に向かって

 今日は午前11時から、山梨県北杜市の生長の家国際本部“森の中のオフィス”にある万教包容の広場において、「万教包容の御祭」が執り行われた。御祭への参列者は同オフィスの職員が主だったが、その様子はインターネットを介して日本の各教化部を初め、海外にも通訳入りで送られたため、多くの幹部・信徒が心を一つにしてこの日の意義を確かめ、運動の進展を誓い合うことができたと思う。 
 私は御祭の最後に概略、以下のような挨拶を述べた: 
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 皆さん本日は、第5回目の「万教包容の御祭」にお集まりくださり、ありがとうございます。 
 
 今日は7月7日の「七夕」ですが、生長の家の歴史の中では「万教包容の神示」が谷口雅春先生に下った日です。それも昭和7年の7月7日という“七並び”の日でありました。この御祭は、そのことを念頭におき、生長の家の国際本部である“森の中のオフィス”が落慶した年の7月7日に第1回目が開催され、それ以降毎年、この「万教包容の広場」において行われています。その際、七重塔が新たに1基設置されるのですが、その意義は、すでにご承知のように、私たちの運動が目指す「世界平和実現」を祈るためです。 
 
 すでに何回も触れているので簡単に申し上げますが、七重塔の「7」は「完成」とか「すべて」を象徴する数字で、そのデザインを見れば分かるように、天地を貫く1本の中心線に沿って7つの社が結ばれているのが、七重塔です。この「社」が象徴するものは、「宗教」であり、「大陸」であり、「民族」であり、「文化」であり、「世代」であり、「生物種」であり、私たちの運動の「拠点」(組織)である、ということでした。 
 
 これらすべてが“神の御心”に中心帰一して、それぞれの特徴を生かし、相互に争わず、助け合いながら繁栄している――というのが実相世界の構図です。私たちの運動は、その構図を現象世界に表す運動ですから、世界平和実現の運動であるわけです。それも、単なる政治的な平和ではなく、宗教心において、地理的な関係において、民族関係において、文化において、世代間、生物間の関係において、運動組織において、平和が現れるのが目的です。 
 
 しかし、この現象世界はご存じのように、その方向とはむしろ逆方向に動いているように感じられます。世界全体のことよりも、自分の利益を第一に考えるような動きが各地に拡がっています。「アメリカ・ファースト」を唱える大統領が登場し、イギリスはEUからの離脱を決め、日本でも「国益」を強調する首相が人気を博し、最近では「都民ファースト」を唱える政治家に率いられた地域政党が、都議会選挙で大躍進を遂げました。 
 
 旧約聖書の『創世記』には、有名な「バベルの塔」の物語があります。 その昔、人間は神に近づこうとして、協力して高い塔を建てはじめたが、それを見た神が驚き、人間の企てを成功させないために、それまで一つの言語しか使っていなかった人々を、別々の言語を話すようにしてしまった――そういう物語でした。言語が別だと人間は相互のコミュニケーションが難しくなり、協力関係が壊れてしまうので、高い塔を建てることができなくなるのです。 
 
 『創世記』第11章から、実際の記述を引用いたします―― 
 
「全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。彼らは互いに言った、“さあ、れんがを造って、よく焼こう”。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、“さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう”。時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、“民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう。”こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。」(1~9節) 
 
 最近の日本内外の情勢を見ていると、私はなぜかこの物語を思い出すのであります。人間は科学技術を高度に発達させて、人間の利益のためだけに自然界を改変しつつあることは、ご存じの通りです。遺伝子組み換えや、地球上に存在しなかった新物質の製造、自然の現象である人間の肉体の老化を克服するための再生医療の研究、原子力発電所の増設による放射性物質の大量製造、生物多様性の破壊、人工生物の製造、人工知能の開発--これらは皆、昔は“神の領域”にあり、人間には実現不可能と考えられていたことですが、これらを人類が自分たちだけのために開発し、発達させ、産業化しようとしているのが現状です。それは、バベルの塔が象徴する「神の力を得ようとする努力」だと言うことができます。 
 
 このように、自己利益の増大のためならば、他の生物や地球環境の破壊も顧みないという生き方が展開されると、私たちの人間社会の結束は崩壊する方向に向かう--私はそういうメッセージを「バベルの塔」の物語から読み取るのであります。それは、この物語は、歴史的事実としてではなく、象徴的な物語として解釈するからです。「言語がバラバラになる」ことは、「共通語を失う」ということ、さらには「世界への共通認識や共通理解を失う」ことを意味すると考えられます。トランプ政権の登場、英国のEU離脱、難民の大量発生と受け入れ拒否、日本を含む国益第一主義の外交の拡大などは皆、この「共通認識を失う」ところから生じていると考えられます。 
 
 このバベルの塔の「バベル」は、ヘブライ語の「バビロン」のことです。ヘブライの人たちはこれを本来の“神の門”という意味にではなく、「乱す(confuse)」という意味の「バラール(balal)」と結びつけて、人類の罪の増大に対する神の対応がここに描かれていると解釈したのです。 
 
 私の手元にある『西洋シンボル事典--キリスト教美術の記号とイメージ』という本の「塔」の項には、次のように書かれています-- 
 
「すべての塔がまず誘う連想は、バベルの塔である。バベルの塔は、かつて存在した天と地との間の軸を人間の手で人工的に復旧し、それによって神の座まで上がろうとする試みであった。この塔は、シュメル=バビロニアのジッグラトに基づくもので、際限なく思いあがって、それでいながら人間の枠から一歩も踏みだすことのできない傲慢な人間の象徴である。」 
 
 私も、この解釈は正しいと思います。ただし、この場合の「神」とは、私たちが信仰の対象とする唯一絶対神のことではなく、「心の法則」を擬人化したものです。簡単に言えば、「奪うものは奪われる」という法則です。「他から奪うことで自分が拡大する」という考え方は、実相世界への信仰とはまったく異なる、一種の唯物論です。このような考え方に人類がこれ以上向かわないように、私たちの運動は今、「人間・神の子」の真理にもとづいて「自然と共に伸びる」ことを強調し、「神・自然・人間は本来一体」であることを訴えています。訴えるだけでなく、私たちの実際生活の中で、また、プロジェクト型組織の活動を通して、この理想を具体的に実践することを進めています。それが、“新しい文明”の基礎を作ることになるでしょう。 
 
 “旧い文明”は「自然から奪うことで人間は栄える」という思想に動かされていて、相当の発達をとげていますが、結局、自然を破壊することで人間同士が破壊に向かう方向に進んでいます。“新しい文明”はこれとは逆に、「自然に与え返すことで人間は幸福になる」という信仰にもとづくものです。それは「奪うものは奪われる」という方向にではなく、「与えるものは与えられる」という方向に心の法則を働かせる運動です。これによって万物調和、万教包容の道が開かれ、本当の意味での世界平和が実現します。つまり、七重塔は、バベルの塔の間違いを正す実相顕現運動の象徴であります。 
 
 そういう広大で、壮大な計画の基盤となる「万教包容の御祭」を今日、皆さまと共に、親しく執り行わさせていただけたことを、心から感謝申し上げます。これをもって私の本日の所感といたします。  
 ご清聴、ありがとうございました。 
 
 谷口 雅宣

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