音楽

2014年11月 9日 (日)

自然とのつき合い方 (3)

 「自然の恵みフェスタ 2014」で行われたイベントは、自転車競技だけではない。フェスタの趣旨は「自然の恵みに感謝する」ことだが、自然界では無数の事物が生起するから、感謝すべきことは無数にあるといってよい。しかし、個人個人がそれぞれの考えで自然界の無数の事物から1つを選んで感謝の意を表現するのでは、あまりに煩雑である。そこで、職員がいくつかのグループを作って、グループのメンバーが協力し合って感謝の気持を1つにまとめ、それを“舞台”や“出店”の形で表現するという方式を採った。フェスタには文化祭的な要素があるから、この方式の方が相応しいと考えたのだろう。それが音楽会であり、地元の食材を使った手作り料理、そして自然素材によるフラワーアレンジメントなどのグループである。これに加えて、一種ゲリラ的なグループも登場した。それは「SNIクラフト倶楽部」で、手作り品を趣味とする同好会のようなものだ。「ゲリラ的」と表現したのは、このグループができたのはフェスタの直前だったからだ。突然の出現で、オフィスの職員の中にも、そんなグループが展示をするなど、フェスタ当日まで知らなかった人もいただろう。
 
 本シリーズの最初に、私は人間も自然の一部だと考えれば、人間の中にある「神の創造のエネルギー」も自然の一部と捉えられるとして、音楽会も“自然の恵み”への感謝の表明であると書いた。それと同様に、手作り品の製作や展示も、創造のエネルギーの発露の一つだから、自然の恵みへの感謝の表明と考えることができる。しかし、これだけでは足りない。なぜなら、この考えをどんどん延長していくと、人間の創造物や製作物の中には、自然界にとって有害なものも含まれるからだ。また、「何でもどんどん製造する」ことが無条件で許されると、資源のムダ遣いや、森林や生物多様性の破壊も「自然の恵みへの感謝」だという奇妙な論理に行きついてしまう。そこで、前回の本欄でも紹介した「自然と調和した生き方」の4条件が重要になってくるのである。それを再びここに掲げよう:
 
 ①自然調和的な動機や目的により
 ②自然度の高い場所で
 ③自然状態に近い(自然度の高い)材料を使い、
 ④自然破壊的でない方法や手続きを用いた活動をする。
 
 手作り品を製作する場合も、この4条件にできるだけ合致することが望ましいだろう。もっと具体的に言うと、①の条件を満たすためには、製作のために稀少種の動植物を犠牲にすることは許されないし、製作物の大量生産は疑問である。その動機として「自然との調和」ではなく、「利潤の追求」が疑われるからである。また、②の条件を考えると、クラフト製作をオフィスと職員寮周辺でやる場合は問題ないが、製作過程の一部を都会の人や会社に委託するという方法は、疑問である。私は今回、インターネットが発達した現代では、製作を個人が海外に委託することも可能なことを知って驚いた。
 
Stampmag_04_2  次の③の条件は、製作者にとってはなかなか悩ましい。クラフト製品は、人間の手によって加工された製品だから、当然ながら「自然状態」ではない。だから、③では製品そのものではなく、それに使う「材料」の自然度が問題にされているのだ。が、加工に適した素材は、必ずしも自然度が高いとは言えない。例えば、木工製品を作る場合、近所のホームセンターへ行けば、寸法がそろったきれいな板や柱が簡単に手に入る。それは多くの場合、輸入材であったり、国産材でも遠くから運ばれてきたものである。これに対して、できるだけ自然度の高い木材とは、森に生えている木そのものである。これを個人が伐採して製材し、家具製作の材料にすることは現実的ではないし、だいたい素人には無理だ。というわけで、森の生木とホームセンターで売られている材木の“中間”に当たるような自然度の材木はないか、と考えてみる。すると、家を建てたあとに出る「廃材」のことが思い浮かぶのである。
 
 幸いにも、オフィスの職員寮は建築後1年を経ておらず、また冬場の暖をとるための一助として、寮を建てた後の廃材が各所にまだ残っていた。SNIクラフト倶楽部では、そういう廃材を使って椅子や薪用の木箱、鳥の巣箱、コースターなどを製作し、フェスタに出品することができた。その他の木工品では、スマートフォンや経本を卓上に立てるスタンドとか、小型の仏像、大型のものでは薪収容のログラック、そしてブランコも出品された。木工品以外のものでは、ヘンプブレスレット、ネックレス、石鹸デコパージュ、ポーチ、キーホルダー、オーナメント、お手玉セットなどの手工芸品が出品され、どれも買い手がつく人気だった。
 
Picturemagnets  私もこのグループに所属し、木材を使ったマグネットを出品した。冷蔵庫の側面などにくっつけて、メモなどを固定するための磁石だ。これを「木工品」と呼ぶことには異論があるかもしれない。なぜなら、磁石自体は木製でないからだ。木工で作るのは、その磁石をカバーして手で持つ部分である。その木の部分に、私は絵柄のデザインを使おうと思った。選んだ絵柄は、昔の切手と自作の絵である。切手は最近の通常切手ではつまらないので、昔の年賀切手を使った。自作の絵は、これまで描いてきたものの中からデジタル媒体によるものに限定した。その方が、用意がしやすく印刷が簡単だからだ。しかし、こういう方法を使うと、木工品でありながら、③の条件に合致する割合はどうしても低くなる。なぜなら、製作過程でパソコンやプリンターを使うからだ。また、プリンター用の“紙”も石油系の材料が混じった特殊なものを利用した。その方が、見栄えと耐用度が増すからだ。さらに、塗装はアクリル系の水性塗料とニスを使った。作業が容易だからだ。
 
 この2種類の木工マグネットに加えて、木の代わりにシカの角を使ったものも製作した。シカは毎年、角が生え替わるので、自然に抜け落ちたものが地元の店で売られていた。それを前に買ってあったのである。それを何に使おうかと思案していたところ、ちょうどよい機会が来たと考えた。角を薄く輪切りにして、整形後に磁石を付け、表面に絵を貼って仕上げた。これら3種類のマグネットを合計77個製作し、全部買ってもらえたので大変満足している。シカ角に加え、古切手と廃材が活用され、私の自己表現もでき、たぶん買い手にも喜んでもらえたと思う。自然への感謝とともに、都会から森の生活へと大転換してくださった人、またそんな私たちを支援してくださった人々への感謝の表現が、こんな形でできるとは思わなかった。
 
 谷口 雅宣

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2013年10月28日 (月)

困難な環境は飛躍のチャンス

 今日は晴天下、午前10時半から、山梨県北杜市大泉町の生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールに於いて、谷口清超大聖師五年祭が行われた。私は御祭の最後に概略、以下のような挨拶を行った:
 
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 皆さん、本日は谷口清超大聖五年祭にお集まりくださいまして、ありがとうございます。

 清超先生がご昇天されてからすでに5年がたったのでありますが、それが私にはとても短く感じられるのです。この1年の間には本部の移転を初めとして、公私ともに大きな変化があったからだと思います。同様の立場にある皆さまも、きっと同じような感想をもたれているのではないでしょうか。
 
 1年前の四年祭のときに、私は清超先生の追悼グラフ『真・善・美を生きて』の中から、ご著書『限りなく美しい』の「はしがき」を引用し、「自然界は真・善・美を兼ね備えている」という先生のメッセージをお伝えしましたが、そのことは今、皆さんが東京・原宿からこの“森の中のオフィス”へ仕事場を移し、八ヶ岳の大自然に触れながら約1カ月たった今日、しみじみと感じていられることではないでしょうか。しかし今日は、その自然界のことではなく、人間のことについてお話ししたいと思うのです。
 
 先ほどは清超先生が作詞・作曲された『永遠に』という聖歌を私たちは歌いましたが、この聖歌は昭和59年、清超先生が65歳のときに作られた作品です。先ほどの追悼グラフに先生が作られた聖歌の一覧が表として載っていますが、それによりますと、先生が作曲を始められたのは昭和55年ごろ、61歳ごろといいます。これを見て、私は改めて先生の偉大さを感じているのであります。というのは、私が今、61歳だからです。私は音楽は嫌いではありませんが、これから楽器を練習して、作詞・作曲までしようというような“情熱”はない。まあ、人には得手不得手があって、万人が音楽を得意とするわけではありません。しかし、何事かを達成したいという情熱は、人によって強弱があり、清超先生はそういう意味では、とても強烈な意志と情熱をもって生きられた方だと感じるのです。しかし、その強い意志と情熱は敢えて表面には出さず、内に秘められていた。そのことは、追悼グラフの中で、先生に電子オルガンを教えておられた渋谷かおりさんの談話の中に、よく表れています--
 
「先生は60歳になってから音楽教室に通われ、電子オルガンを弾かれていたのですが、講師として私がお付き合いさせて頂いていた頃、オルガンのボタンを押すとき突き指をされたとかで指を痛められ、平成3年12月に、一度教室をやめられたんです。でも、1カ月ぐらいして、“やっぱり、レッスンに行かないととっても寂しい”と、戻って来て下さいました。そのときもう70歳を過ぎておられ、“オルガンは両手両足を使って大変”と言われ、ピアノに転向されました。そのとき購入されてずっと愛用された小型のグランドピアノで、その後の聖歌を作られたようです」。(p. 70)

 70歳をすぎれば人間は骨が弱くなり、突き指などをすれば、若い頃とは違う痛さや不都合さがあるに違いありません。が、それを克服された。また、老化が進めば、両手両脚を同時に使って音楽を演奏するのが困難になるのは当然ですが、それで音楽演奏を諦めてしまわずに、オルガンをピアノに乗り換えてでも、演奏を続け、さらに作曲も続けていく--そういう情熱には、ただただ感嘆するほかはない。因みに、先生がピアノを始められてから作られた歌は、「悦びの歌」「無限を讃える歌」「浄まりて」「日の輝くように」「あなたは何処に」「かみをたたえて」「人生の旅路」「水と森の歌」の8曲で、最後の歌の作詞・作曲は81歳のときでした。このような活動が、言わば“本業”である宗教家としての活動とは別にできるということは、先生が「神の子」としての深い自覚と信仰をもたれ、その本質を表現するのに喜びを感じていられた証拠である、と私は思うのであります。
 
 最後に、先生御自身が「表現すること」について言われている言葉を紹介しましょう。これも、同じ追悼グラフに掲載されているものです--
 
「人間と同じで、楽器にも寿命がありますが、よい材料で上手に作ってあると、とても長持ちします。それに使う人が大切に使い、よく弾き込むと、すばらしい音を出し、寿命も長持ちするといわれています。
 これは人でも物でも同じことですね。だからあなたも力一杯の力を出して生活しないとだめです。人間はもともと“神の子”ですから、その材料は間違いなくよいのです。ただあとは、よく弾き込むかどうか、つまりよく勉強したり、仕事をするかどうかです。ノホホンと懶けていたり、サボったりしていては絶対駄目だということです」。(p.64)

 私たちも、東京から北杜市へ引っ越して、新しい環境の中でまだ当惑している状態かもしれませんが、新しい環境からは必ず新しい創造が、新しい表現が生まれるものです。たといこれまで得意としていたものが利用できなくても、また困難な状況が現れても、新しい知識や技術を学び、マスターし、生活や運動に生かすことはできます。そういうチャンスが今、目の前にあるのですから、皆さまも清超先生の信仰と情熱を“鏡”としつつ、大いに学び、練習し、個人として一層伸びることはもちろん、その可能性を生かすことで光明化運動の新たな飛躍への原動力となっていただくことを念願いたします。
 
 それでは、これをもって清超大聖師五年祭の挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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