音楽
2014年11月 9日 (日)
2013年10月28日 (月)
困難な環境は飛躍のチャンス
今日は晴天下、午前10時半から、山梨県北杜市大泉町の生長の家“森の中のオフィス”のイベントホールに於いて、谷口清超大聖師五年祭が行われた。私は御祭の最後に概略、以下のような挨拶を行った:
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皆さん、本日は谷口清超大聖五年祭にお集まりくださいまして、ありがとうございます。
清超先生がご昇天されてからすでに5年がたったのでありますが、それが私にはとても短く感じられるのです。この1年の間には本部の移転を初めとして、公私ともに大きな変化があったからだと思います。同様の立場にある皆さまも、きっと同じような感想をもたれているのではないでしょうか。
1年前の四年祭のときに、私は清超先生の追悼グラフ『真・善・美を生きて』の中から、ご著書『限りなく美しい』の「はしがき」を引用し、「自然界は真・善・美を兼ね備えている」という先生のメッセージをお伝えしましたが、そのことは今、皆さんが東京・原宿からこの“森の中のオフィス”へ仕事場を移し、八ヶ岳の大自然に触れながら約1カ月たった今日、しみじみと感じていられることではないでしょうか。しかし今日は、その自然界のことではなく、人間のことについてお話ししたいと思うのです。
先ほどは清超先生が作詞・作曲された『永遠に』という聖歌を私たちは歌いましたが、この聖歌は昭和59年、清超先生が65歳のときに作られた作品です。先ほどの追悼グラフに先生が作られた聖歌の一覧が表として載っていますが、それによりますと、先生が作曲を始められたのは昭和55年ごろ、61歳ごろといいます。これを見て、私は改めて先生の偉大さを感じているのであります。というのは、私が今、61歳だからです。私は音楽は嫌いではありませんが、これから楽器を練習して、作詞・作曲までしようというような“情熱”はない。まあ、人には得手不得手があって、万人が音楽を得意とするわけではありません。しかし、何事かを達成したいという情熱は、人によって強弱があり、清超先生はそういう意味では、とても強烈な意志と情熱をもって生きられた方だと感じるのです。しかし、その強い意志と情熱は敢えて表面には出さず、内に秘められていた。そのことは、追悼グラフの中で、先生に電子オルガンを教えておられた渋谷かおりさんの談話の中に、よく表れています--
「先生は60歳になってから音楽教室に通われ、電子オルガンを弾かれていたのですが、講師として私がお付き合いさせて頂いていた頃、オルガンのボタンを押すとき突き指をされたとかで指を痛められ、平成3年12月に、一度教室をやめられたんです。でも、1カ月ぐらいして、“やっぱり、レッスンに行かないととっても寂しい”と、戻って来て下さいました。そのときもう70歳を過ぎておられ、“オルガンは両手両足を使って大変”と言われ、ピアノに転向されました。そのとき購入されてずっと愛用された小型のグランドピアノで、その後の聖歌を作られたようです」。(p. 70)
70歳をすぎれば人間は骨が弱くなり、突き指などをすれば、若い頃とは違う痛さや不都合さがあるに違いありません。が、それを克服された。また、老化が進めば、両手両脚を同時に使って音楽を演奏するのが困難になるのは当然ですが、それで音楽演奏を諦めてしまわずに、オルガンをピアノに乗り換えてでも、演奏を続け、さらに作曲も続けていく--そういう情熱には、ただただ感嘆するほかはない。因みに、先生がピアノを始められてから作られた歌は、「悦びの歌」「無限を讃える歌」「浄まりて」「日の輝くように」「あなたは何処に」「かみをたたえて」「人生の旅路」「水と森の歌」の8曲で、最後の歌の作詞・作曲は81歳のときでした。このような活動が、言わば“本業”である宗教家としての活動とは別にできるということは、先生が「神の子」としての深い自覚と信仰をもたれ、その本質を表現するのに喜びを感じていられた証拠である、と私は思うのであります。
最後に、先生御自身が「表現すること」について言われている言葉を紹介しましょう。これも、同じ追悼グラフに掲載されているものです--
「人間と同じで、楽器にも寿命がありますが、よい材料で上手に作ってあると、とても長持ちします。それに使う人が大切に使い、よく弾き込むと、すばらしい音を出し、寿命も長持ちするといわれています。
これは人でも物でも同じことですね。だからあなたも力一杯の力を出して生活しないとだめです。人間はもともと“神の子”ですから、その材料は間違いなくよいのです。ただあとは、よく弾き込むかどうか、つまりよく勉強したり、仕事をするかどうかです。ノホホンと懶けていたり、サボったりしていては絶対駄目だということです」。(p.64)
私たちも、東京から北杜市へ引っ越して、新しい環境の中でまだ当惑している状態かもしれませんが、新しい環境からは必ず新しい創造が、新しい表現が生まれるものです。たといこれまで得意としていたものが利用できなくても、また困難な状況が現れても、新しい知識や技術を学び、マスターし、生活や運動に生かすことはできます。そういうチャンスが今、目の前にあるのですから、皆さまも清超先生の信仰と情熱を“鏡”としつつ、大いに学び、練習し、個人として一層伸びることはもちろん、その可能性を生かすことで光明化運動の新たな飛躍への原動力となっていただくことを念願いたします。
それでは、これをもって清超大聖師五年祭の挨拶といたします。ご清聴、ありがとうございました。
谷口 雅宣