映画・テレビ

2021年8月 2日 (月)

UFOはあるかもしれない

 『朝日新聞』の2021年7月29日夕刊は、「UFO遭遇 もしかしたら」という見出しで、去る6月25日付で発表された米政府の“UFO報告書”の内容について報道した。この報告書は、国家情報長官室(Office of The Director of National Intelligence)がまとめた「未確認空中現象の初期評価」(Preliminary Assessment: unidentified aerial phenomena)という文書で、A4判用紙で9ページという短いものだ。この「未確認空中現象(UAP)」というのが、アメリカでの「UFO」の正式名称だ。報告書そのものは、ネットを使えば誰でも入手できるから、英語が読める人は確認してほしい。その内容は、『朝日』の記事が要領よくまとめている--

200421年にかけて、米軍パイロットが目撃した情報や映像など144件を検証するものだ。調査したところ、1件は気球とされたが、残りは何かわからなかった」

  それだけのことなので、「なーんだ、大したことないじゃないか」と思う人も少なくないだろう。が、私は少し違う感想をもった。まず、17年間で144件というその数、そして目撃者が米軍パイロットという2つの要素が注目される。日本ではごく稀に、“酒気帯びパイロット”が問題になるが、米軍ではまずそれはないと考えたい。通常より視力が優れたパイロットが年平均8.5件の目撃情報を、正式に軍に報告しているということだ。目で見ただけでなく、最新鋭の航空機に搭載した各種センサーでも感知している。録画したビデオもある。単独での目撃だけでなく、複数のパイロットによるものもある。加えて、科学技術の粋である軍用機を自在に操るパイロットが「UFOを見た」と報告することへの抵抗感も考慮に入れたい。つまり、同僚や上官から「お前、大丈夫か?」と、感覚異常や知的レベルを疑われるリスクを押して、彼らは報告しているのである。だから、報告されていないケースも相当数あると推測する。そして、米国の軍や情報機関がそれらのデータを検証した結果、「143件は何だか分からない」というのである。

  この「何だから分からない」ということが、私は重要だと思う。「目の錯覚だ」とか「幻影を見た」というのではない。「何かがそこにあった」というのである。そして、その何かが現在の米国の科学技術のレベルから見て「説明できない」というのが、この初期評価の結論なのだ。だから、この報告書には、本件は「潜在的な国家安全保障の問題でもある」と書いてある。報告書にある、次の文章を読んでほしい--

 「我々は現在、この現象の中の何かが外国の諜報活動の一部であるとか、潜在敵国による重要な技術革新を示すというデータを有していない。これらの現象が提起するであろう防諜上の問題を考えれば、我々はそれらの証拠を見出すべくさらに監視を続ける考えである」

  報告書の具体的記述の一部を紹介すると--

   ・144件のうち80件は、複数のセンサーによって感知されている

  ・これらのほとんどは、軍の訓練やその他の活動を妨げるものとして報告されている

  ・11件の報告は、パイロットにより未確認現象とのニアミスとして記録されている

  上記のような記述を見ると、この報告書を発行した国家情報長官室が神経質になっている理由が想像できるのである。

  しかし、翻ってアメリカにおける“UFO問題”の歴史を振り返ると、今の時点で「潜在的に安全保障上の問題がある」といいながら、この程度の結論でお茶を濁していることに大きな疑問が残る。この報告書に「unclassified」というラベルを貼られていることが、その疑問を強くさせる。「unclassified」とは、報告書の内容が「機密ではない」という意味で、「機密扱い」の情報が他にあることを暗示している。つまり、「本件には国民に秘匿しておくべき情報が含まれているが、とりあえず無難な情報だけを発表しておこう」という意図があるとも解釈できるのである。

  私が「今の時点で」という言葉を使ったのは、「昔から指摘されながら、今ごろ?」という意味合いである。恐らく多くの読者は、アメリカ映画のうち『E.T.』(1982)、『ロズウェル』(1994)、『インディペンデンス・デイ』(1996)、『コンタクト』(1997)のいずれかをご覧になっているだろう。これらは地球外高等生命の存在を扱った映画で、そのうち『ロズウェル』だけがテレビ映画で、これは1947年にニューメキシコ州のロズウェル市近郊で実際に起きた飛行物体の墜落事件を題材にしている。つまり、74年も前から、アメリカでは地球外高等生命の存在が指摘され、何本もの映画で扱われ、連邦政府もその研究に予算をつけてきた。その額は2,200万ドル(22億円)という。

 これはしかし、問題の本質から考えるとそれほどの額ではない。大型の無人攻撃機「プレデター」1機の値段は、2009年のデータで450万ドルだったから、5機も買えない。同じ年の国防予算では、最新鋭のステルス戦闘機F22は1機が3億5000万ドルもした。その16分の1しか予算を使わなくて、「国家安全保障の問題」だと考えるのはいかにも大げさだ。つまり、想像するところ、米国政府はこの問題について、長い間あまり熱心ではなかったのだろう。それが、近年になって急に真面目になったのか。

  その辺の事情については、SFテレビドラマ『X-Files』の生みの親であるクリス・カーター氏が、今年6月25日の『ニューヨーク・タイムズ』紙に書いているエッセーが興味深い。その1つの理由は、国防総省がUFOの調査研究に毎年秘密裏に上述の予算をつけてきたことを、同紙が2017年にスッパ抜いたからだという。それに加え、米海軍が未確認空中現象を報告する制度を整えたことにも要因があるらしい。

  このことは、今回の報告書の4ページ目にこう書かれている--

  「データが限定的であることと一貫性のない報告の仕方が、未確認空中現象を評価する際の中心的な障害だった」

  つまり、海軍が報告制度を標準化したのは、2019年の3月になってからで、その後、202011月になって空軍が同じ方法を採用したが、それまでの約70年間は、各報告はバラバラな書式や方法で行われていたというのだ。そして、今回の検証の対象となった2004年から本年までの144件の報告の過半数は、過去2年間に集中しているのだという。海軍と空軍が未確認空中現象の報告制度を整えたということは、両軍がUAPの存在を実質的に認知したことを意味するだろう。少なくとも、この現象の原因は、報告者が何か異常な心理状態にあった結果だとは考えていないのだ。そうなると、軍のパイロットの側もその現象を報告しやすくなり、報告数が増加するという結果になる。だから、144件の報告の過半数が最近2年間のものとなるのかもしれない。

  では、私たちはUAPという現象をどう受け止めるべきだろうか。

 UAPを、原語に忠実な「未確認空中現象」という意味で考えると、それを否定すべき理由はない。これは、極地に現れるオーロラという現象を否定する根拠がないのと同じことだ。もっと卑近な例を挙げれば、虹が見えているのに「そんなものは存在しない」と否定する人がいないのと同じだ。しかし、「虹が見えているのだから、見えている通りの大きな物体が空に掛かっているのだ」と言えば、その人の知性は疑われる。これと同じように、UAPが視認されたり、計測器で把握されたとしても、その姿やデータ自体がそのまま何かの実体を示していると考えるべきではないだろう。ややこしい言い方をしたが、要するにUAPは、地球外高等生命の乗り物だと結論するのは時期尚早だと私は思う。

  それでは、地球以外に高等生命は存在しないのか? 私は、地球外高等生命が存在する可能性を否定しない。生長の家では、神のことを「大生命」とか「宇宙の大生命」と呼ぶことがあるから、それを信じる人は半ば地球外高等生命を信じていることになるだろう。この「半ば」の意味は、生長の家が奉じる神は必ずしも「地球外」ではないからだ。「自己に宿る神」と言ったり、「神・自然・人間は本来一体」と言う場合、神は空間的概念ではない。その意味では、地球外高等生命は神ではない。では、それは高級霊か? この問いへの答えも「ノー」だろう。なぜなら、霊や霊界も空間的概念ではないからだ。

 しかし、素朴に考えても、これだけ広い宇宙の中の、そこに輝くおびただしい数の星や惑星の中で、この小さな地球にしか生命が棲まないということの方が、信じがたいことではないだろうか。

 谷口 雅宣

 

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2020年11月20日 (金)

居住地の自然と文化を顕彰する

 今日は午前10時から、山梨県北杜市にある生長の家国際本部“森の中のオフィス”を中心に、インターネットを介した行事「生長の家代表者ネットフォーラム2020」の同時交流会が開催された。この行事は、昨年までは「生長の家代表者会議」という名前で行われていたもの。ここでは、日本全国はもちろん、韓国や台湾、ブラジル、アメリカ、ヨーロッパなどで活躍している生長の家の信徒代表が一堂に集まり、来年度以降の私たちの宗教運動の基本を定めた運動方策(運動方針)について議論し、理解を深めるためのものだった。ところが、今年は新型コロナウイルスによる感染症の世界的蔓延で、人の移動や大勢の集会ができないために、インターネットを使って映像と音声を世界に配信する形式に変更したのだった。運動方策をめぐる議論や質疑応答は、この日までにネット上で行われてきた“逐次交流会”で大方がすんでいたから、今日は生長の家参議長によるまとめと挨拶、信徒代表による決意発表に続き、私のスピーチなどで会は終わった。

 私は概略、以下のような話をした--

 皆さま本日は、今回初めて行われる「生長の家代表者ネットフォーラム2020」の同時交流会にご参加くださり、ありがとうございます。

 すでにご案内しているように、またすでに多くの参加者の方が積極的な発言をしてくださっているように、今回の同時交流会は、これまでネット上で進められてきた“逐次交流会”を受けて行われています。この逐次交流会では、去る10月23日の「生長の家拡大参議会」で決定された来年度の運動方針の内容について、活発な質疑応答が行われてきました。

 私もその一部を拝見させていただきましたが、その中では、日本国内の教区レベルでの組織を変える“枠組み”というものが注目されていました。これは、白鳩会と相愛会の教区の副会長の一人を、「PBS担当」という新しい業務に専属させるという方策でした。この方策は、階層型の従来組織の重要な一員を、階層のないPBSに専属させるという画期的なものです。生長の家の運動の目的は変わらないので、この新しい「PBS担当」の副会長さんの目的も変わりません。しかし、そのやり方が根本的に変わってくるので、当初は混乱があるかもしれませんが、ぜひ成功させたいと考えています。

 このほか、新しい方策の中では「講師教育」との関連で「講話ビデオ」の製作に関する質問もありました。それは、ネットを介して講話を聴くのに、リアルタイムで講話を流す方式ではなく、録画したビデオを使う理由は何かという質問でした。これについては、だいたい3つの理由があります:

① 講話の質の向上、
② 講話の複数回の利用、
③ 講話の広範囲の利用、です。

 優れた講話は真理宣布の有効な手段ですから、それを多く生み出し、あらゆる機会に大勢の人に聞いてもらい、広く日本全国、さらには海外の人々にも利用してもらう――そういう構想に基づいているものです。
 
 しかし、今日はこの「講話ビデオ」のことではなく、自然遺産、文化遺産の顕彰について少しお話ししたいのであります。「顕彰」という意味は、「世間にあらわすこと。世間にあらわれること」です。運動方針書は、直接この「顕彰」という言葉を使っていませんが、同じ意味のことが表現されています。お持ちの方は、5ページの真ん中から下にかけて、<“新しい文明”構築のためのライフスタイルの拡大と地球社会への貢献>という項の「2021年度の新たな取り組み」の第4項目をご覧ください。(4)と書いてあるところを読みます--

「(4) 幹部・信徒は、居住する地域の自然や文化遺産の豊かさを改めて見直し、固有の自然の恵みと、その自然と調和した文化的伝統に感謝し、所属教区の教化部のサイト等に掲載し、自然と人間との深い関わりを提示する。」

 このように書いてあります。
 このことが、<“新しい文明”構築のためのライフスタイルの拡大と地球社会への貢献>の項に入っているということは、この「固有の自然の恵みと、その自然と調和した文化的伝統に感謝する」ことが、私たちの「自然と調和する」ライフスタイルの拡大と、地球社会への貢献になるという判断があるわけです。この意味をお分かりでしょうか? 居住する地域の自然と文化遺産を見直し、それらに感謝することは、それらを無視したり、破壊することではないですね。これは誰でも分かります。しかし、「見直したり感謝する」とは、具体的に何をすることなのでしょうか? 

 私は、この項目に関連して、11月12日にフェイスブックの「生長の家総裁」というページに、「柿と馬頭観音」という題の動画を登録しました。すでにご覧になった方は多いと思います。長さが12分弱の短い動画なので、多くのことは語れなかったのですが、昨今のグローバリゼーションの影で見えなくなりつつある2つのことを表現する試みでした。その第1は、「柿」という植物と、特にその果実が、私たち日本人にとって実利的にも感情的にも、多くの価値をもたらしてきたという事実です。そして2番目は、 「馬頭観音」という文化遺産が、宗教的な価値があるだけでなく、日本人の生活の中に占めてきた「馬」という動物の重要性を示していることを伝えたかったのです。

 柿は、食品としては、海外からくる砂糖や人口甘味料、バナナやパイナップル、マンゴーなどの輸入果物に押され、染料や塗料としては、石油製品に取って代わられつつあります。私たちは、刺激の強いもの、手軽で手っ取り早いもの、華やかなものに惹かれます。これを言い換えると、私たちは感覚的な「刺激の強さと効率性/即効性」に魅力を感じるのです。この2つを価値あるものとして追究することで、現代の物質文明が築き上げられてきたと言っても過言ではありません。ということは、この2つの側面で劣るものは、本当は価値があっても、現代人の目からは見逃されがちであり、しだいに忘れ去られることになります。そういう観点から「柿」を考えてみると、バナナやパイナップル、マンゴーなど南洋からの輸入果物は、柿に比べて香りや甘味が強く、成長が速く、今のグローバルな貿易環境においては、入手することも簡単です。バナナを置いていないコンビニはなくても、柿をコンビニで買うことは不可能でなくても、簡単ではありません。

 馬と自動車の比較についても、同様のことが言えるのではないでしょうか? つまり、この双方は交通手段、運搬手段として見た場合、自動車は馬より刺激が強く、手っ取り早く、華やかです。違いますか? その意味は、馬よりも自動車の方が人間の自由になるから、高速で、いろいろな所へ行けるだけでなく、荷物の積み下ろしも楽です。また、自動車の販売店は馬の販売所よりもはるかに数が多いし、カーステレオやDVDプレイヤー、コンピューターなどを積んでいるから刺激が多く、華やかです。また、「効率性/即効性」の観点から比べても、自動車の維持管理は、生き物である馬の世話に比べて簡単ではないでしょうか? 今では技術の発達により、スマホを使って家の中から自動車のエンジンをかけたり、ライトを点けたりできるようです。

 このように考えてくると、私たちが今の時代に直面している資源の枯渇、エネルギー問題、地球温暖化などの諸問題の多くは、私たちの“内部”にその原因があるということに気がつきます。その原因とは、「感覚的な刺激の強さと効率性/即効性に魅力を感じる」ということです。このことは、人間は罪が深いということでしょうか? あるいは、人間には基本的な欠陥があるということでしょうか? 私はそうは思いません。なぜなら、生長の家では「人間は神の子である」と説いているのですから……。では、どう考えたらいいのでしょうか? 私はこう考えます。ここには、人間の“迷い”があるからだと。

 『大自然讃歌』の一節を読みます。この一節は、私たち人間がもつ「個の意識」の意義について、天の使いが説いている箇所(p.35-)です--

 天の童子さらに反問すーー 
 「師よ、神の愛・仏の四無量心は
 個の意識と相容れぬに非ざるや」。
 天使説き給う--
 個の意識の目的は
 自らの意(こころ)をよく識(し)ることなり。
 自らの“神の子”たる本性に気づくことなり。
 多くの人々
 自ら本心を欺き、
 他者の告ぐるままに
 自ら欲し、
 自ら動き、
 自ら倦怠す。
 自らを正しく知らぬ者
 即ち「吾は肉体なり」と信ずる者は、
 肉体相互に分離して合一せざると想い、
 利害対立と孤立を恐れ、
 付和雷同して心定まらず、
 定まらぬ心を他者に映して
 自らの責任を回避せん。
 されど自らの意をよく識る者は、
 自己の内に神の声を聴き、
 神に於いて“他者”なきこと知るがゆえに、
 自己の如く他者も想わんと思いはかることを得。
 即ち彼は、
 神に於いて自と他との合一を意識せん。

 ここには、自分の本心を忘れているために、コマーシャリズムに振り回されて、本当は自分が欲していない商品や、欲していないサービスを追い求める現代人の姿が描かれています。このような私たちの行動は、“迷い”の結果なのです。その迷いの原因は何かといえば、ここではそれは「自らを正しく知らない」こと、「自分は肉体だ」と信じているからである、と説いています。私たちは、自分が一個の肉体であると信じると、この小さな肉塊のままでは根本的に何かが欠落していると感じます。すると、いろいろな物やサービスを外から付け加えることで、その心の欠乏感を取り去ろうとします。こういう心理状態にある人は、コマーシャリズムに踊らされやすい。自分の中にしっかりとした判断基準がないので、他人や企業の判断基準を無批判に受け入れ、コマーシャルが「これがいい」「これが流行だ」「これが進歩だ」と言うものを得ることが、人生の目的だという錯覚に陥るのです。別の言い方でこれを表現すると、「感覚的な刺激の強さと効率性/即効性に魅力を感じる」ということになります。

 私は最近、妻と一緒に『鬼滅の刃』(きめつのやいば)というアニメ作品を見る機会がありました。私は若いころは漫画が好きだったのですが、大人になってからはアニメと言えば宮崎駿(はやお)さんの作品以外はほとんど見ることがなかったです。しかし今回、この作品が日本で異常なブームになっていると聞いたので、一体どんなに素晴らしい作品かと思ってネット上で見たのであります。そのきっかけは、ニュース報道です。日本のある神社で頒布されているお守りが、ネット上ではそのお守りの頒布金の何倍もの値段で売られているというのです。生長の家総本山でもお守りは頒布されていますが、それがネットオークションで高値で売れるなどという話は聞いたことがないので、よほど素晴らしいお守りなのだろうと思いました。が、事実は、お守りは普通のものでした。普通でないのは、そのお守りや神社とは直接関係がない『鬼滅の刃』の人気なのです。

 このアニメの主人公は「竈門炭治郎」(かまどたんじろう)というのですが、その苗字の「竈門」という言葉が使われている神社が全国にいくつかあるのですが、そこをアニメファンが“聖地”として訪れるブームが起こっているのです。で、「竈門」がついたお守りを持っていると、このアニメの主人公のように、鬼を上回るようなパワーがもてるとか、そういうパワーに自分が守ってもらえるとか……そんな話が作られ、それを信じる人々がどんどん増えているようなのです。ウィキペディアの描写によると、このアニメは最初は漫画の単行本として16巻まで出版されましたが、2019年の春からテレビでアニメとして放送されたそうです。すると、「放送終了から約1か月後の10月23日時点で累計発行部数1600万部を突破、約1か月で累計発行部数を400万部増やし、さらに約1か月後の11月27日には累計発行部数2500万部、最新18巻は初版100万部を刷るなど、2000万部ほど部数を伸ばしている」といいます。そして、「シリーズ累計発行部数は単行本22巻の発売時点で1億部を突破する」そうです。

 こんな話を知ってみると、このアニメ作品がよほど素晴らしい内容だと考えない方がオカシイではないでしょうか? で、私と妻はある晩、ネット経由でこのアニメドラマの第1回と第2回を見ました。オニが人間にとりつくと人間がオニになり、人間を食べるという前提で、人間がオニと戦うというストーリーで、作品のほとんどの場面は、山の中でのオニと人間の派手で残酷な戦闘シーンなのです。ストーリーが荒唐無稽であるだけでなく、戦闘シーンで使われる武器や妖術なども全く現実離れしていて、私は見ていてウンザリしました。

 ウィキペディアの説明では、このアニメは「大正時代を舞台に描く和風剣戟奇譚。作風としては身体破壊や人喰いなどのハードな描写が多い」といいます。まさに、その通りだと感じました。

 私はここで、この漫画の作者や作品自体の批判をするつもりはありません。世の中には、いろいろな発想からいろいろな作品を生み出す人があっていいのです。多様性は大切です。ただ、その多様な表現の中の1つか2つに焦点を絞って、「これを選ばなければ世の中に遅れている」と跳びつく姿勢、あるいは跳びつかせる姿勢が問題だと思います。『大自然讃歌』にあるように、

 利害対立と孤立を恐れ、
 付和雷同して心定まらず、
 定まらぬ心を他者に映して
 自らの責任を回避せん。

 という態度が、問題なのです。

 ここで皆さんに気づいていただきたいのは、このブームの背景には、私が先ほど指摘したように、「感覚的な刺激の強さと効率性/即効性に魅力を感じる」という私たちの弱さ、あるいは“迷い”があることです。今のブームは、その弱さや迷いをうまく利用して作られているのでしょう。今回は、そのブームに宗教が利用されているという側面がある点が、とても残念です。
 さて、「刺激の強さを求める」という心境とは、アニメ作品の虜になることだけを指しているのではありません。その中には、「よく知っている近くのものより、遠くにある知らないものを求める」心が含まれます。また、「小さいものより大きいもの」「当たり前のものより、珍しく、異常なものを求める」心が含まれます。そういう欲求にこたえるためのサービスや商品が、今の世の中にはあふれています。私は何のことを言っているのでしょう? それは、輸入品や海外ブランドを求める心、海外旅行や危険な冒険を求める心、よく知っている田舎よりも変化の激しい都会の生活を求める心……などです。私は、そういう心をもってはいけないと言っているのではありません。先ほども言ったように、人間は「感覚的な刺激の強さと効率性/即効性に魅力を感じる」ようにできています。これは、「人間には欲望がある」と言っているのと、意味はほとんど変わりません。しかし、「人間は欲望である」とか「人間は欲望の塊である」という意味では決してありません。『大自然讃歌』では、人間の欲望は悪であるとは説かれていません。

 次の一節(p.42)を思い出してください--

 肉体は神性表現の道具に過ぎず、
 欲望もまた神性表現の目的にかなう限り、
 神の栄光支える“生命の炎”なり。
 ……(中略)……
 されば汝らよ、
 欲望の正しき制御を忘るべからず。
 欲望を
 神性表現の目的に従属させよ。
 欲望を自己の本心と錯覚すべからず。
 欲望燃え上がるは、
 自己に足らざるものありと想い、
 その欠乏感を埋めんとするが故なり。

 ここに書いてあることは、欲望と自分は同じではないから、その2つを切り離して、欲望を制御し、神性表現の目的に使おう、ということです。そのような生き方を私たちの居住地で実践するにはどうしたらいいでしょうか? その一つが今回、私が最初に引用した運動方針の方策になると考えます。その方策とは、私たちが自分の居住地の「固有の自然の恵みと、その自然と調和した文化的伝統に感謝する」ということです。感謝するためには、まずその対象をよく知らなくてはなりません。自分の居住地に固有の自然の営みとは何であるか? これは、一般的な「日本の自然」 の営みのことではありません。例えば私の場合、八ヶ岳南麓の大泉町に固有の自然とは何であるか、を知ることです。また、「その自然と調和した文化的伝統」を知らなくてはなりません。戦後日本の急速な経済成長にともなって、高速道路や新幹線が通り、飛行場ができて、日本の各地にあった「文化的伝統」の多くが失われたかもしれません。その場合は、何が失われたかを知る必要があります。失われたものの中で、「自然の営みと調和したもの」があったら、その伝統を顕彰し、場合によっては復活させるのも、「感謝」の思いの表現です。単に復活させるのではなく、現代人の視点から、新しい、ユニバーサルな要素を付け加えることも「感謝」の表現でありえます。そういう活動を、私たちはこれからやっていこうというのが、ここにある運動方策なのです。

 かつて私は、どこかの会合で皆さんに、自分の住んでいる県で定めた「県の花」「県の木」が何であるかをご存じですか、と尋ねたことがあります。これを案外知らない人が多かったですが、今回の新しい方策は、「県全体」のことと関係はしていますが、私たちそれぞれの居住地という、さらにローカルな自然について、またその土地の伝統的文化について知ろう、顕彰しようという活動です。これには「数」の目標はありませんが、内容が多岐にわたるため、従来型組織がバラバラに行うのではなく、PBSの活動やネットの活用を通して広い範囲の人々との協力で行うのが適切かもしれません。ぜひ、皆さま方のこれまでの経験や知識、地域の人々とのつながりを生かして、力強く展開していってください。

 それではこれで、私の本日の話を終わります。ご清聴、ありがとうございました。

谷口 雅宣

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2011年10月24日 (月)

映画『猿の惑星 創世記』

 最近、ハリウッド映画の『猿の惑星 創世記』というのを観た。作家の中島京子氏が『日本経済新聞』に書いていた記事を読んで、興味が湧いたからだ。それによると、「開発中のアルツハイマー治療薬を実験的に投与したことによって、チンパンジーの頭脳が飛躍的に進化してしまうという話なのだが、進化した猿たちが人間の支配と制御を超えていく描写に、ものすごい迫力のある映画である」という。

さらに中島氏によると、「科学への妄信や、人類があらゆる事象をコントロールできると考える驕りへの反省」を描いており、『アバター』と同様に「人類は人類以外のものにとって脅威である」というメッセージを含んでいるという。それならば、私が問題視してきた人間中心主義への批判であると同時に、本欄のテーマである「自然と人間の共存」の問題とも関係が深いーーというわけで、休日の木曜日に妻を誘い、期待をもって新宿の映画館へ行った。

 しかし、実際に映画を観たあとの私は、「暴力過剰でリアリティーがない映画だ」と思った。これは、中島氏を批判しているのではない。映画は小説や料理と同じように、人それぞれの好みがあって全く問題ない。また、年齢によっても好みは変わる。料理の場合、20代や30代のころの私は、濃厚で脂っこい外国料理を好んだが、最近はめっきり薄味の和食に惹かれる。また、映画は視覚と聴覚に訴えかける表現芸術だから、若いころはドギモを抜くような視覚効果や大音響に興奮しがちだ。が、還暦に近づけば自ずから「結局、何を言いたいのだ?」というように、メッセージ性の方に興味をもつようになる。

それで、この映画が訴えるメッセージなのだが、中島氏曰くーー「人の叡智が、人の思惑を超えてこれまであったはずの地球の秩序を根本から破壊していってしまう」というのがテーマだという。私は、映画の最後の部分で「地球の秩序が根本から破壊される」ようには思えなかったが、科学技術が人の思惑を超えて暴走するという程度の意味であれば、その通りだと同意できる。しかし、そういことは、私がもう何年も前から論文や小説の形で繰り返し訴えてきたことだ。だから、もう少し「先」を考えてほしかった。人類は今後、科学技術とどうつき合うべきかという問題にまで、踏み込んでほしかったのである。

 人間が自分のつくったもののおかげで悲劇を招くというモチーフは、相当古いもので、現実問題としても武器や兵器開発の歴史の中で昔から繰り返されきたことだ。敵を倒すための武器は、それを奪われれば味方の脅威になる。この問題を科学技術に限定して考えてみても、メアリー・シェリーの1818年のゴシック小説『フランケンシュタイン』の中にもそのモチーフがある。また、この小説に「あるいは現代のプロメテウス」(or The Modern Prometheus)という副題がついているように、ギリシャ神話に出てくるプロメテウスの話自体が、「神の創造した者が神から火を盗む」という創造主にとっての脅威を表しているから、「自分がつくったものが悲劇を招く」というモチーフは“古典的”と言っていいだろう。だから、「どうすべきか?」という点にもっと焦点を当ててほしかった。

 映画評論家の瀬戸川宗太氏は、本作品のパンフレットの中で、中島氏とは違うモチーフを読み取っている。その理由は、この作品に霊長類保護施設のシーンが多く出てくるからで、「それによって人間が動物に対して繰り返してきた虐待を動物の側から描くことに主眼がおかれている」と分析する。私はこの映画を見ながら、むしろこちらのモチーフを強く感じていた。この施設に収容された類人猿たちは、あまりにも人間的なのである。これに対して、実験動物として彼らを扱う人間の側は、看守のように振る舞い、実に非人間的である。こういう明確な対比はいかにもハリウッド的で、やがて虐待されてきた“いいもの”が堪忍袋の緒を切らせて、“悪もの”の人間たちに大反乱を起こす。しかし、それだけであれば、ヤクザ映画とモチーフはそんなに変わらない。観客は類人猿たちに自己同一化してスッキリした気分になる。だから、娯楽映画としてはまあまあの出来栄えなのだろう。
 
 たぶん私は、ハリウッド映画に多くを求めすぎているのだ。が、1点だけ「いいな」と思ったことがある。それは、主人公の相手役である女性獣医師、キャロライン(フリーダ・ピント)が、主人公がチンパンジーに対して遺伝子組み換え薬品を使おうとすることに対して何度も、戒めるシーンがあることだ。それをインド人の女優が演じるという点に、監督の見識が表れているのかもしれない。フリーダ・ピントは、映画制作後のインタービューで、そういう役柄に満足したと言っている。この作品の倫理面のメッセージ、そして人間と科学の関係について聞かれたとき、彼女はこう答えている--
 
「改ざんされるべきでないことがあるということだと思う。科学は素晴らしいものだけど、手をつけないでおくことが必要なこともある。自分たちがシーザー(チンパンジー)にしていることが正しいことなのか、それとも間違っていることなのかを問うことが好きだったから、私はキャロラインを演じることを満喫したの」。

 キャロラインは、だからこの映画全体の中で“良心”のような役割を果たす。その“良心”の声が聞かれないまま物語が大きく展開していくところに、残念ながらこの映画のリアリティーがあるのである。
 
 谷口 雅宣

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