映画・テレビ

2011年10月24日 (月)

映画『猿の惑星 創世記』

 最近、ハリウッド映画の『猿の惑星 創世記』というのを観た。作家の中島京子氏が『日本経済新聞』に書いていた記事を読んで、興味が湧いたからだ。それによると、「開発中のアルツハイマー治療薬を実験的に投与したことによって、チンパンジーの頭脳が飛躍的に進化してしまうという話なのだが、進化した猿たちが人間の支配と制御を超えていく描写に、ものすごい迫力のある映画である」という。

さらに中島氏によると、「科学への妄信や、人類があらゆる事象をコントロールできると考える驕りへの反省」を描いており、『アバター』と同様に「人類は人類以外のものにとって脅威である」というメッセージを含んでいるという。それならば、私が問題視してきた人間中心主義への批判であると同時に、本欄のテーマである「自然と人間の共存」の問題とも関係が深いーーというわけで、休日の木曜日に妻を誘い、期待をもって新宿の映画館へ行った。

 しかし、実際に映画を観たあとの私は、「暴力過剰でリアリティーがない映画だ」と思った。これは、中島氏を批判しているのではない。映画は小説や料理と同じように、人それぞれの好みがあって全く問題ない。また、年齢によっても好みは変わる。料理の場合、20代や30代のころの私は、濃厚で脂っこい外国料理を好んだが、最近はめっきり薄味の和食に惹かれる。また、映画は視覚と聴覚に訴えかける表現芸術だから、若いころはドギモを抜くような視覚効果や大音響に興奮しがちだ。が、還暦に近づけば自ずから「結局、何を言いたいのだ?」というように、メッセージ性の方に興味をもつようになる。

それで、この映画が訴えるメッセージなのだが、中島氏曰くーー「人の叡智が、人の思惑を超えてこれまであったはずの地球の秩序を根本から破壊していってしまう」というのがテーマだという。私は、映画の最後の部分で「地球の秩序が根本から破壊される」ようには思えなかったが、科学技術が人の思惑を超えて暴走するという程度の意味であれば、その通りだと同意できる。しかし、そういことは、私がもう何年も前から論文や小説の形で繰り返し訴えてきたことだ。だから、もう少し「先」を考えてほしかった。人類は今後、科学技術とどうつき合うべきかという問題にまで、踏み込んでほしかったのである。

 人間が自分のつくったもののおかげで悲劇を招くというモチーフは、相当古いもので、現実問題としても武器や兵器開発の歴史の中で昔から繰り返されきたことだ。敵を倒すための武器は、それを奪われれば味方の脅威になる。この問題を科学技術に限定して考えてみても、メアリー・シェリーの1818年のゴシック小説『フランケンシュタイン』の中にもそのモチーフがある。また、この小説に「あるいは現代のプロメテウス」(or The Modern Prometheus)という副題がついているように、ギリシャ神話に出てくるプロメテウスの話自体が、「神の創造した者が神から火を盗む」という創造主にとっての脅威を表しているから、「自分がつくったものが悲劇を招く」というモチーフは“古典的”と言っていいだろう。だから、「どうすべきか?」という点にもっと焦点を当ててほしかった。

 映画評論家の瀬戸川宗太氏は、本作品のパンフレットの中で、中島氏とは違うモチーフを読み取っている。その理由は、この作品に霊長類保護施設のシーンが多く出てくるからで、「それによって人間が動物に対して繰り返してきた虐待を動物の側から描くことに主眼がおかれている」と分析する。私はこの映画を見ながら、むしろこちらのモチーフを強く感じていた。この施設に収容された類人猿たちは、あまりにも人間的なのである。これに対して、実験動物として彼らを扱う人間の側は、看守のように振る舞い、実に非人間的である。こういう明確な対比はいかにもハリウッド的で、やがて虐待されてきた“いいもの”が堪忍袋の緒を切らせて、“悪もの”の人間たちに大反乱を起こす。しかし、それだけであれば、ヤクザ映画とモチーフはそんなに変わらない。観客は類人猿たちに自己同一化してスッキリした気分になる。だから、娯楽映画としてはまあまあの出来栄えなのだろう。
 
 たぶん私は、ハリウッド映画に多くを求めすぎているのだ。が、1点だけ「いいな」と思ったことがある。それは、主人公の相手役である女性獣医師、キャロライン(フリーダ・ピント)が、主人公がチンパンジーに対して遺伝子組み換え薬品を使おうとすることに対して何度も、戒めるシーンがあることだ。それをインド人の女優が演じるという点に、監督の見識が表れているのかもしれない。フリーダ・ピントは、映画制作後のインタービューで、そういう役柄に満足したと言っている。この作品の倫理面のメッセージ、そして人間と科学の関係について聞かれたとき、彼女はこう答えている--
 
「改ざんされるべきでないことがあるということだと思う。科学は素晴らしいものだけど、手をつけないでおくことが必要なこともある。自分たちがシーザー(チンパンジー)にしていることが正しいことなのか、それとも間違っていることなのかを問うことが好きだったから、私はキャロラインを演じることを満喫したの」。

 キャロラインは、だからこの映画全体の中で“良心”のような役割を果たす。その“良心”の声が聞かれないまま物語が大きく展開していくところに、残念ながらこの映画のリアリティーがあるのである。
 
 谷口 雅宣

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